小穴隆一「二つの繪」(26) 「影照」(1) 「芥川・志賀・里見」
影照
芥川・志賀・里見
改造社の圓本の講演旅行から歸つた芥川が書齋にはいるなり、そこにゐた僕に、『仙臺の宿で醉つぱらつた里見弴が「互にただの鼠でないと人に思はれてゐるのがつらい、」と言つたが、君も僕もただの鼠でもない者が、ただの鼠ではないと思はれてゐる。』と悄然として言ひ、旅行中の里見が宿の者に接するその鷹揚さを言つて、「自分のやうな者とは育ちがちがふ」と感心してゐた。僕は帝國ホテルで芥川が「谷崎はもう駑馬だ。佐藤はあれはまた過渡期の人間だ。われわれ過渡期に育つた人間はもうだめだよ。ああ! 君、天下に恐るべきは志賀直哉ただ一人だ。俺はいままで誰も怖れなかつた。しかし、志賀直哉に對しては苦しかつた。僕の作品の全部をあげても志賀直哉のどれにも敵はない。が、君、僕の『蜃氣樓』あれだけは、君どうにかなつてゐるだらう?――才能と勉強だけでやつてきた人間は、志賀直哉のあの天衣無縫の藝術に息がきれる。」と言つてゐたこととあはせて、芥川といふ明治の中産階級の生活に慣らされた人間にある行儀のよさと窮屈とを感じる。
[やぶちゃん注:「改造社の圓本の講演旅行」既出既注であるが、再掲しておく。これは芥川龍之介自死の前年末から改造社が刊行を始めた「現代日本文学全集」(一冊一円の低価格であったことから「円本全集」と呼ばれた)の宣伝のための社主催の講演旅行。芥川龍之介は、この昭和二年の一月に、姉の夫西川豊が火災保険放火疑惑の中で鉄道自殺したため、その経済援助等の必要からも、こうした宣伝講演会等に頻繁に出席している。この時のそれは、九日間で八箇所で講演するという非常にタイトなスケジュールで(内、車中泊が二泊)、妻文や佐々木茂索宛書簡等を読むと、想像以上の心労に悲鳴をあげている龍之介が垣間見える。「東北・北海道・新潟」の私の冒頭注も参照されたい。
「自分のやうな者とは育ちがちがふ」作家里見弴(明治二一(一八八八)年~昭和五八(一九八三)年)は、元財務官僚で実業家として日本鉄道会社や第十五国立銀行などで取締役を務めた有島武の四男で、作家有島武郎や画家有島生馬は実兄。東京帝国大学文学部英文科を中退してバーナード・リーチにエッチングを教わったりし、明治四三(一九一〇)年四月には志賀直哉・武者小路実篤らが創刊した雑誌『白樺』に二人の兄とともに同人として参加している。大正四(一九一五)年に「晩(おそ)い初戀」を『中央公論』に掲載して本格的に文壇デビューし(芥川龍之介の「羅生門」発表と同年)、翌年同誌に彼の初期代表作となる「善心惡心」を発表した。芥川龍之介より四つ年上。なお、五つ年上の志賀直哉とは特に親しく(但し、何度か絶交もしていいる)、大正三(一九一四)年にはともに松江で暮らしており(学生時代の芥川龍之介は一年後の夏に恒藤(当時は井川)恭に誘われて松江を訪ね、偶然にもこの借家に滞在している。そのことには触れていないが、この時、作家以前であった芥川龍之介はその松江訪問の紀行をものしている。私の『芥川龍之介「松江印象記」初出形』を参照されたい)、その時の体験により、志賀直哉は大作「暗夜行路」の冒頭に登場させた「時任謙作」の友人「阪口」を造形したともされる。龍之介が思わず「自分のやうな者とは育ちがちがふ」と呟いてしまう気持ちが私は判る。
『僕は帝國ホテルで芥川が「谷崎はもう駑馬だ。佐藤はあれはまた過渡期の人間だ。……』先の「帝國ホテル」の章を参照。但し、芥川龍之介が自身の『蜃氣樓――或は「續海のほとり」――』(リンク先は私の電子テクスト)を志賀の諸作に対峙させて示すシーンはそこにはない。龍之介が「蜃氣樓」を強い自信作としていたことは頓に知られるが、龍之介自身の生の肉声として記録するここは貴重である。]
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