フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 小穴隆一「二つの繪」(43) 「河郎之舍」(2) 「河郎之舍の印」 | トップページ | 柴田宵曲 妖異博物館 「狸の書」 »

2017/01/22

柴田宵曲 妖異博物館 「狸囃子」

 

 狸囃子

 

 泉鏡花の「陽炎座」ははじめ「狸囃子」といふ題名であつた。本所の一角で白晝不思議な芝居を見る小說であるが、狸囃子は勿論本所七不思議のそれを利かしてゐるのである。この作者が大分前に書いた「狸囃子」といふ隨筆には、その囃子を耳にすることがあつて、「一貫三百どうでもいゝ」といふ法華の太鼓に似てゐるといふ。當時の住居は大塚だから、本所には緣が遠いが、深く場所に拘泥する必要はないらしい。作者が後年長く腰を据ゑた番町にも化物太鼓の話が傳はつてゐる。

[やぶちゃん注:「陽炎座」は柴田の言うように、当初は「狸囃子(たぬきばやし)」の標題で大正二(一九一三)年五月の『新小説』に発表したもので、大正六年四月平和出版社刊の作品集「彌生帖」に所収した際に「陽炎座(かげらふざ)」に改題した。構成の一部にやや難点が認められるものの、鏡花の都会夢幻譚の白眉の一つ。サイト「鏡の花」のこちらでPDF縦書版で読める。

「本所七不思議」本所(現在の東京都墨田区)に江戸時代頃から伝承される怪奇談の名数。ウィキの「本所七不思議」によれば、『江戸時代の典型的な都市伝説の一つであり、古くから落語など噺のネタとして庶民の好奇心をくすぐり親しまれてきた。いわゆる「七不思議」の一種であるが、伝承によって登場する物語が一部異なっていることから』八『種類以上のエピソードが存在する』としつつ、オーソドックスなそれとして「置行堀(おいてけぼり)」・「送り提灯」・「送り拍子木(おくりひょうしぎ)」・「燈無蕎麦(あかりなしそば)」(別名「消えずの行灯」)・「足洗邸(あしあらいやしき)」・「片葉の葦(かたはのあし)」・「落葉なき椎(おちばなきしい)」・狸囃子(たぬきばやし)(別名「馬鹿囃子(ばかばやし)」)・「津軽の太鼓」を挙げる。リンク先からこれらの個別記載に飛べるので、そちらを参照されたい。

『「狸囃子」といふ隨筆』明治三三(一九〇〇)年六月に書かれたもの。同じくサイト「鏡の花」のこちらでPDF縦書版で読める。

「一貫三百どうでもいゝ」前注の鏡花の「狸囃子」の形式段落三段落目に、

   *

 耳を澄ませば、題目に合(あは)して鳴らす、其(それ)よ、彼(か)の幼きものが、「一貫三百何(ど)うでもよい、」と突込(つゝこ)みて囃す調子なり。

   *

とあるのを指す。この言葉については、「法華宗陣門流」公式サイト内の府中市の立正院住職であり、法華宗学林講師の村上東俊氏のなぜ、日蓮大聖人のご命日法要をお会式というのですかに、江戸時代の法華宗信者らが、『「一貫三百どうでもいい、テンテンテレツク、テンツクツ」という』掛声をかけたとあり、そこから『職人が一日の手間賃(一貫三百)をふいにしてでもお寺にお詣りしたいという心情が伝わってきます』とあることで腑に落ちた。

「當時の住居は大塚」泉鏡花は明治二九(一八九六)年五月に小石川大塚町(現在の文京区大塚)に転居している。]

 

 鈴木桃野が「反古のうらがき」に書いたところによれば、或人がこの太鼓の正體を突き止めたいと思つて、市谷御門内より三番町通り、麹町飯田町上あたりまで、一晩中尋ね步いたけれども、遂にわからず、夜明け近くなると共に止んでしまつた。果して化物の所爲であると恐れをなしたが、その後桃野が人の話に聞いたのは、番町ほど囃子の好きな人の多い場所は稀である、今日は誰の土藏、明日は詭の穴藏といふ風に、殆ど每晩やつてゐるといふことであつた。世にいふ化物太鼓は卽ちこれで、あたりの聞えを憚つて、土藏や穴藏で囃すから、近くへ行けば却つて聞えず、風につれて遠方に聞えるのであらう、と桃野は解釋してゐる。

[やぶちゃん注:「鈴木桃野」既出既注

「反古のうらがき」既出既注。以上は、同書「卷之三」の「化物太鼓の事」である。所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻』(一九七〇年三一書房刊)のそれを以下に示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

   ○化物太鼓の事

 番町の化物太鼓といふことありて、予があたりにてよく聞ゆることなり。これは人々聞なれて、別に怪しきことともせぬことなり。霞舟翁がしれる人に、此事を深くあやしみて、或夜其聲の聞ゆる方をこゝろざして尋行けるに、人のいふに違はず、こゝかとおもへばかしこ也、又其方に行てきくに又こなた也、市ケ谷御門内より三番町通り、麹町、飯田町上あたり、一夜の内尋ありきしが、さだかに聞留る事なくて夜明近くなりて、おのづからやみぬ、果して化物の所爲なりとて、人々にかたりておそれあへり。予が中年の頃、番町の武術の師がり行て、其あたりの人々が語りあふをきくに、凡太鼓笛の道は、馬場下に越たる所なし、稻荷の祭り鎭守の祭りとうにて、はやしものする人をめして、すり鉦太鼓をうたすに、同じ一曲のはじめより終り迄、一手もたがひなく合奏するは稀なり、まして他處の人をまじへてうたする時は、おもひおもひのこと打いでゝ、其所々々の風あり、馬場下の人はそれにことなり、其一とむれはいふに及ばず、他處の人なれば、其所々々の風に合せて打こと一手もたがひなし、吾輩かく迄はやしものに心を入て學ぶといへども、かゝる態は得がたしといゝけり。予これをきゝて、扨はおのおの方にははやしものを好み玉ふにや、されども稻荷の祭りの頃などこそ打玉ふらめ、其間には打玉ふことなきによりて、其妙にいたり玉ふことのかたきなるべしといゝければ、いやさにあらず、吾輩がはやしは每夜なり、凡番町程はやしを好む人多きところも稀なり、けふは誰氏の土藏のうちにて催し、あすは何某氏が穴倉の内にて催すなど、やむ時はすくなしといへり。予これにて思ひ合するに、かの化物太鼓はまさにこれなり、たゞしあたりのきこへを憚るによりて、土藏、穴藏に入りて深くとぢこめてはやすなれば、其あたりにてはかへりて聞ヘずして、風につれて遠き方にてきこゆるにきわまれり、さればこそ其はやしの樣、拍子よく面白くはやすなりけり、これを化物太鼓といふもむべなる哉とて笑ひあへり。先の卷に、物のうめく聲の遠く聞へしくだりをのせたり、これとおもひ合せて見れば、事の怪しきは、みなケ樣のことのあやまりなりけり。

   *

文中の「番町」は現在の千代田区番町で皇居の西方。当時は旗本を中心とした武家屋敷地区であった。また「先の卷に、物のうめく聲の遠く聞へしくだりをのせたり」とあるのは、「卷之二」の「物のうめく聲」で、鈴木桃野自身の実体験談。高田馬場で二百メートル以上離れた民家の病人の呻き声がすぐ間近に聴こえたという疑似奇談を指す。]

 

 松浦靜山侯が「甲子夜話續篇」に書いたのは、明かに本所の方である。鼓聲をしるべにそこまで行くと、また他所に移つて聞えること、番町の化物太鼓同樣であつた。辰巳(たつみ)に當る遠方で、時として鳴ることがある程度だつたのが、七月八日の夜、俄かに近くなつて、邸内で打つかと思ふほどに聞える。それがまた未申(ひつじさる)の方に遠のき、かすかになつたと思ふ間もなく、再び邸内のやうに近付いて來る。侍婢などが懼れて騷ぐので、人を出して見屆けさせた。割下水あたりまでは尋ねて行つたけれど、どこにも鼓を打つ樣子はなく、その邊の者に問うても、今夜鼓を打つ者はありません、と答へた。靜山侯の記述は大分委しく、その昔は宮寺などにある太鼓の、表の革は濕り、裏の革は破れたやうな音で、また戶板などを打つて調子よくドンドン鳴るのにも似てゐる。拍子は始終ドンツクドンツクドンドンツクといふばかりで、この二つの拍子が或は高く或は低く聞えるといふのだから、鏡花のいはゆる法華の太鼓に近いわけである。結局「何の所爲なるか、狐狸のわざにもある歟」といふ疑問にとゞまつてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話續篇」の「卷四十六」の掉尾にある「本莊七不思議の一、遠鼓」で、これが本所七不思議の「狸囃子」の初出ともされているようであるから、狸囃子様の現象は文政年間(一八一七年~一八二九年)には怪奇譚として既に定着していたことが判る。以下に示す。カタカナは珍しい静山自身のルビである。踊り字「〱」は正字化した。繰り返し部分は多く採り過ぎているかもしれぬが、短いよりもマシと考えた。

   *

予が莊のあたり、夜に入れば時として遠方に鼓聲きこゆることあり。世にこれを本莊七不思議の一と稱して、人も往々知る所なり。因て其鼓聲をしるべに其處に到れば、又移て他所に聞ゆ。予が莊にては辰巳に当る遠方にて時として鳴ることあり。この七月八日の夜、邸の南方に聞へしが、に近くなりて邸中にて擊かと思ふばかり也しが、忽ち又轉じて未申の方に遠ざかり、其音(オト)かすかに成しが、頓て殊に近く邸内にて鳴らす如なり。予は几に對して字を書しゐしが、侍婢など懼れて立騷(タチサハグ)ゆゑ、若くは狡兒が所爲かと人を出して見せ使しに、近所なる割下水迄は其聲を尋て行たれど、鼓打景色もなく、又其邊(アタリ)に聞ても、誰も其夜は鼓を擊つことも無しと答へたり。其音(オト)は世の宮寺(ミヤテラ)などに有る太鼓の、面の徑り一尺五六寸ばかりなるが、表の革はしめり、裏革は破れたる者の音(ネ)の如く、又は戶板などを撲てば、調子よくドンドンと鳴ることあり。其聲の如く、拍子は、始終ドンツクドンツクドンドンドンツクドンドンドンツクドンドンドンツクとばかりにて、此二つの拍子、或は高く或は卑く聞ゆ。何の所爲なるか。狐狸のわざにもある歟。歐陽氏聞かば、秋聲賦の後、又一賦の作有るべし。

   *

「本莊」「ほんさう」で「本所」のこと。本所は、ここが中世の荘園制度に於ける荘園であったことに由来する地名である(荘園を実効支配する領主を「本所」と呼んだ)。なお、当時の平戸藩下屋敷は本所中之郷(現在の墨田区東駒形)にあった。「狡兒」は「かうじ(こうじ)」で悪戯っ子・不良少年・チンピラの意。「見せ使しに」「みせしめしに」。見せに遣らせたが。「面の徑り一尺五六寸」太鼓の打撃する皮張りの部分で直径四十五・四五~四十八・四八センチメートル。「歐陽氏」北宋の文人政治家欧陽脩(おうようしゅう 一〇〇七年~一〇七二年)で、「秋聲賦」は長文の秋の夜の趣を謳いあげた賦で、彼の代表作として人口に膾炙される。驟に」「にはかに」。

「鏡花のいはゆる法華の太鼓」本章最後に附した私の泉鏡花の随筆である「狸囃子」掉尾を参照。]

 

 江戶の話ではないけれども、「諸國里人談」にある森囃しなども、同類としてこゝに擧げて置く必要があるかも知れぬ。享保の初め頃、武州、相州の境である信濃坂に、每夜囃し物の聲が聞える。笛鼓など四五人で囃すらしく、中に一人老人の聲がまじつてゐる。近在または江戸からも、これを聞きに行く人が多く、場所ははつきり知れなかつたのを、次第に近く聞き付けて、遂にその村の產土神の森の中とわかつた。時に篝りを焚くことがあり、翌日境内に靑松葉の燃えさしのころがつてゐることがある。一尺餘りの靑竹が森の中に捨ててあるのは、囃しの鼓だらうと里人は云つてゐた。たゞ囃しの音ばかりで、何の禍ひもなかつたが、なかなか止まず、夏の頃から秋冬にかけてこの事が續いた。それもだんだん間遠になり、三日五日の間を置き、遂に十日も聞えぬことがある。聞えはじめの頃は好奇心も手傳つて、聞く人も何とも思はなかつたが、後には自ら恐怖の感を生じ、翌年の春頃に至つては、囃しのある夜は、里人も門戶を閉ぢて外へ出ず、物音を立てぬやうにして家に引込んでゐるといふ風になつた。春の末にはいつとなく止んだとある。この囃しの正體は無論わからない。場所は產土神の境内とわかり、時に火を焚くとか、遺留品があるとかいふ事實がありながら、何者の所爲か突き止められぬところを見れば、やはり人間の囃しではないのであらう。時代はこれが一番古い。

[やぶちゃん注:『「諸國里人談」にある森囃し』は同書の「四 妖異部」の二番目にあある「森囃(もりばやし)」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

   ○森囃

享保のはじめ、武州相州の界信濃坂に夜每に囃物の音あり。笛鼓など四五人聲にして、中に老人の聲一人ありける。近在又は江戶などよりこれを聞に行く人多し。方十町に響て、はじめはその所しれざりしが、しだいに近くきゝつけ、其村の產土神の森の中なり。折として篝を焚事あり。翌日見れば、靑松葉の枝燃さして境内にあり。或はまた靑竹の大きなるが長一尺あまり節をこめて切たるが、森の中に捨ありける。これはかの鼓にてあるべしと、里人のいひあへり。たゞ囃の音のみにして、何の禍ひもなし。月を經て止まず。夏のころより秋冬かけて此事あり。しだいしだいに間遠に成。三日五日の間、それより七日十日の間を隔たり。はじめのほどは聞人も多くありて、何の心もなかりけるが、後々は自然とおそろしくなりて、翌年春のころ、囃のある夜は、里人も門戶を閉て戶出をせず。物音も高くせざりしなり、春のすゑかたいつとなく止みけり。

   *

文中の「方十町」は約一・一キロメートル四方。]

 

 狸の腹鼓は古く歌にも詠まれて居り、江戶以外の土地の話もいろいろある。「雲萍雜志」に見えたのは九州の話で、或寺に一宿した夜、この音を聞いた。住持の話に、今夜は月がいいから狸が集まつて腹鼓を打つのです、といふことなので、耳を澄ますと成程遙かに聞える。砧の音ではあるまいかと疑つたが、さうでもない。向ひの岡の手前に一むらの藪があり、他に人家もないので、狸どもがそこに集まつて打つのである。その住持がこゝに來て九年になるが、三年ばかりたつた秋からこの音が聞え出した。不審に思つて行つて見た處、狸の栖む穴があるだけであつた。

[やぶちゃん注:「雲萍雜志」現代仮名遣で「うんぴょうざっし」と読む。江戸後期の随筆で四巻。文人画家柳沢淇園(きえん)の著と伝えられるものの、未詳。天保一四(一八四三)年刊の和漢混交文の随筆。本話は同書の掉尾にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

○狐は好智ありて、疑ひ多き故に、かれがよこしまにひがめる性を忌みて、人愛せず。狸は痴鈍にして、暗愚なれば、人も憎まず。予筑紫にまかりし頃、ある寺にやどりける夜、あるじの僧の、あれ聞たまへ。今宵は月のさやけさに、狸どものあつまりて、腹つゞみをうつなりといふに、耳をすませば、その音、はるかに響けり。砧のおとにやあらんとうたがへば、左にもあらず。向ひたる岡のこなたに一むらの藪ありて、他には人家なし。狸ども、そこにあつまりゐて打なり。住持云、われ、この寺に居ること、およそ九年になりぬ。三とせ過ぬる秋よりして、人々、この音を聞つけぬ。予もいぶかりて、そのところを尋ね見しに、只狸が栖める穴のみありといへり。あくる日、行て見侍るに、はたして人家は絕えてなかりし地(ところ)なり。太平の民は鼓腹すなど、古語にもいへば、腹つゞみはめでたきためしにや。

   *]

 

 京に琴をよく彈く縫菴といふ隱者があつた。信頰といふ者が橫笛をよくするので、二人が琴と笛とを合せる時になれば、狸が庭に來てその尾を股間に挾み、腹鼓を打つと「一話一言」に出てゐる。二人の唱和の歌もあるが、特にこゝに引用しなければならぬほどの名歌でもない。

[やぶちゃん注:「縫菴」現代仮名遣で「ぬいあん」か「ほうあん」、「信頰」は「しんきょう」であろう。]

 

 加賀の小松の和泉屋といふ醬油造りの家には、古くから狸が栖んでゐて、夜更けに人が寢しづまると、臺所へ出て餘りのものを食つたりするが、家人は慣れて怪しまない。主人は風雅の人で、或時江戶の便りにあつた句を短册にしたゝめ、机に置いて庭を眺めてゐるところへ、人が誘ひに來たので、一夜家を明けて歸つたら、その短册が半分ちぎつてあつた。二三日たつて、今度は机の上に置いた書きかけの紙が、また端をちぎられた。その都度叱られる小僧が、自分の寃を雪(そゝ)がうとして、遂にいたづら者を見付けた。早速主人に報告して樣子を窺ふと、狸が一疋庭の隅に立つて、月下の土に引裂いた紙を置き、腹をぽんと敲いては背中にちぎつた紙をつける。主人もはじめて小鼓を打つ眞似であることを了得した。昔同じ國の山中に鼓をよく打つ者があつたが、狸がやつて來て、負けずに鼓を打つ。夜もすがら張り合つた結果、曉に至り狸は腹を打ち破つて死んでゐたといふ。かういふ文盲な狸に比すれば、我家のはさすがに風流なものと、月の一夜を打つに任せたといふのであるが、この「三州奇談」の話はいさゝか作爲の跡が目立つ。腹鼓の緣から、小鼓を打つのに擬して紙を背中に付けるあたり、特にその感が强い。

[やぶちゃん注:これは同書の「卷之一」の掉尾にある「家狸風流(けりふうりゅう)」。二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化した。底本編者の補訂した字はそのまま本文に入れ込んだ。一部に歴史的仮名遣の誤りがあるのはママ。

   *

     家狸風流

 小松泉屋といふは、其(その)先は淵崎泉入道慶覺が後と云(いふ)。前田氏創業の始め、一揆の大家多くは皆(みな)町屋と成(なり)ぬ。されば此(この)家も久しき故にや、又は家產醬油を多く送りて、常に數百石の大豆を置く故にや、昔より此(この)緣の下に狸住んで、夜深(ふかく)人靜(しづま)りては臺所へも出て、餘れる食を喰ふ事あり。家人皆常として不ㇾ怪(あやしまず)。主(あるじ)は先代より風雅に好(このみ)て、伊勢・凉菟、此地に行脚せし時も爰(こゝ)に宿る。『七さみだれ』の撰者里冬といふは此人也。されば今の主も常に書院の硯を友とし、花鳥と風情を盡す。此程(このほど)江戶より聞(きこ)ゆる句に、

  蘭の花只蕭然と咲にけり   秋瓜

 是(これ)を短册にして机にすへ、庭のけしきとともに其(その)秋庭情を味われ居られしに、忽(たちま)ち友人のさそひ來(きた)りて、郊外に出て夜とともに明(あか)す事有(あ)りて、翌日歸りみるに、きのふの短册半ばより下を引(ひいき)ちぎり有(あり)し儘に、主人大きにはら立て、「家内の者には斯(か)くすべきものなし。小兒はいとけなし、其(その)力(ちから)の及ぶべき事にあらず。是(これ)必ず小童淸次がわざならん」と引出して叱られけるに、「曾て不ㇾ致(いたざず)」との旨をことはれども、外に誰すべきものもなければ、罪を云分(いひわく)べき方もなし。二三日過て、文机の上一順を書ける紙有(あり)しに、是(これ)又少し端を引ちぎりて有しが、主人とかくに「是(これ)淸次ならん」と叱る。淸次は十二三の者なれば、大いに迷惑して「とかく此紙を裂く者を見出さん」と每夜書院の間へ起出てすかしみるに、急度(きつと)其ものこそ見付けれ、古き狸の此紙をさきて庭に出る也(なり)。淸次よろこびて、主人に此(この)趣(おもむき)をかたれば、主人も不思議に思ひて、「音なせそ」と只(たゞ)ふたり庭をめぐりて此(この)體(てい)をすかしみるに、狸一疋庭の隅に立(たち)て、比(ころ)しも葉月の月きよきに、引(ひき)さきたる紙を前におき、我(わが)はらをぽんと敲(たゝ)きては、よりかへりて背中に彼のちぎりたる紙をつけてみるなりけり。是(これ)ぞ小鼓の體や見覺へけん。傳へ聞(きく)、むかし山中に鼓をよく打つ者有しに、狸來りて互(たがひ)に音をはげみ合ては一夜爭ひしが、曉に至りて、狸はらを打破つて死にけりと聞しに、夫(それ)は上古の文盲なる狸成るべし。家狸はよく人事を眞似ると聞しが、實(げに)も紙を付(つけ)ては音のよく出る事にやおもひけん。又は腹すじのしめかげんも有(あり)けるにやと、其志のおかしければ、快く月夜に立明(たちあ)かさせて、翌日は小豆飯に取(とり)はやして、其不思議を晴(はれ)されしとぞ。

   *]

 

 かういふ原始的な腹鼓と、本所の狸囃子との間に、どういふ繫りがあるかわからない。「太平の民は鼓腹すなど、古語にもいへば、腹つゞみはめでたきためしにや」と「雲萍雜志」は云つてゐるが、さう無理にこじつけることもなからう。月下に便々たる腹を敲きつゝある狸の姿を想像すると、妖氣は殆ど感ぜられず、漫畫的な情景が浮んで來る。その集團的なものが狸囃子まで發展したところで、松浦家の侍婢のやうに恐れるには當らぬ。「机の上に頰杖して、狸的(たぬこう)が又やつてるぜ、と人知れずこそ微笑(ほゝゑ)まるれ」といふ鏡花の方に與(くみ)したいのである。

[やぶちゃん注:「机の上に頰杖して、狸的(たぬこう)が又やつてるぜ、と人知れずこそ微笑(ほゝゑ)まるれ」先の鏡花の随筆「狸囃子」のコーダ、

   *

 音(おと)も人の心によりて違(たが)へり。彼(か)の時は庚申(かうしん)のことありしより法幸の太鼓とや聞かれけむ。今日(けふ)は演習のありつるよなど思ふ時は、奏樂(そうがく)つるべ擊つ大砲の谺(こだま)の如く、恰も太平記の初卷(しよくわん)を讀み居(を)れば、瀨多の長橋(ながはし)とゞろとゞろと蹈鳴(ふみな)らすも恁(か)くやと聞(きこ)ゆる。されば酒(さけ)なく美人なき夜(よ)は、机の上に頰杖(ほゝづゑ)して、狸的(たぬこう)が又やつてるぜ、と人知れずこそ微笑(ほゝゑ)まるれ。

   *

からの引用(底本は岩波の「鏡花全集」(第)に拠った(読みは振れるもののみに留め、踊り字「〱」は字及び繰り返し記号「ゞ」に直した)。ああ!……やっぱり鏡花の言の葉は夢幻に永遠に美しい!…………

« 小穴隆一「二つの繪」(43) 「河郎之舍」(2) 「河郎之舍の印」 | トップページ | 柴田宵曲 妖異博物館 「狸の書」 »