柴田宵曲 妖異博物館 「怪火」
怪火
惡路王といふのは何人であるか。水戸の西北に祠があつて、大きな髑髏(どくろ)を神體としてゐる。これが惡路王の髑髏だといふのであるが、伊勢の唐子谷にはまた惡路神の火といふものがある。水戶でも已に神に祭られてゐるのだから、惡路王卽惡路神と見ていゝかも知れぬが、さう手つ取り早く斷じ得るかどうかわからない。唐子谷の猪草が淵といふのは大難所で、幅十間ばかりの川に杉丸太が渡してある。この橋の高さは水際より十間餘りあり、危險千萬な上に、山蛭が澤山ゐて人を惱ます。こゝに生れて他所に出ぬ人は、老年になるまで米を見たことがないといふ、大變な土地であつた。惡路神の火はこの邊に燃えるので、雨の夜は殊に多く、挑燈のやうに往來する。この火に行き會つた者は、速かに俯伏して身を縮め、火の通り過ぎるのを待つて逃げ出さなければならぬ。さうせずに火に近付けば、忽ちに病を發し、煩ふこと甚しいといふ。髑髏の事を傳へた「一話一言」と、火の事を傳へた「閑窓瑣談」との間には何の連絡もないのだから、倂記して疑問を存するにとゞめる。
[やぶちゃん注:「惡路王」ウィキの「悪路王」によれば、『平安時代初期の蝦夷の首長。文献によっては盗賊の首領や、鬼とされることもある』。しばしばアテルイ(?~延暦二一(八〇二)年:平安初期の蝦夷の軍事指導者。延暦八(七八九)年に胆沢(いさわ:現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて処刑された)と『同一視されるが、ほかにも異称は多く存在し、それらのどこまでが同じ人物でどこまでが別人なのかは、史料によって異なる。また、伝承が残るのは主に岩手県や宮城県だが、奥羽山脈を越えた秋田県や北関東の栃木県、さらに蝦夷とは何の関係もない滋賀県にもゆかりの地とされる旧跡が存在する』。『どの伝説においても、坂上田村麻呂ないし彼をモデルとした伝承上の人物によって討たれるところは共通している』とある。
「水戶の西北に祠があつて、大きな髑髏(どくろ)を神體としてゐる」これは現在の水戸市の西北の、茨城県東茨城郡城里町(しろさとまち)高久にある鹿嶋神社のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「悪路王」によれば、この神社には『悪路王面形彫刻が伝わる。坂上田村麻呂は下野達谷窟で討った悪路王(阿弖流為)の首級を当社に納めた。ミイラ化した首は次第に傷みがひどくなったので、木製の首をつくったという』。『達谷窟の所在地が陸奥国ではなく下野国とされているところが他の伝承と異なる』とある。また、個人サイト「300年の歴史の里<石岡ロマン紀行>」の「鹿嶋神社」の詳しい解説と画像の載るページも是非、参照されたい。
「伊勢の唐子谷」「猪草が淵」ウィキの「悪路神の火」(あくろじんのひ)によれば、現在の三重県度会郡玉城町の内と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。川が特定出来ない。地域の識者の御教授を乞う。
「十間」約十八メートル。
「閑窓瑣談」これは同書「後編」の「第三十四 惡路神(あくろじん)の火(ひ)」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示し、挿絵も挿入した。
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○第三十四 惡路神の火
伊勢國紀州御領(ごりりやう)の内にて、田丸(たまる)領間弓(まゆみ)村の唐子谷(からこだに)といふ所に、猪草(ゐくさ)が淵(ふち)といふ大難所あり。常の道路(みち)巾十間計(ばかり)の川あり。其河に杉丸太を渡して往來とせり。此丸太橋の高サ水際より十間余有。是を渡る時は甚(はなはだ)危怖(あやうくおそろ)しき事言語に絕(たえ)たり。橋の下は靑々(あをあを)たる水の面(おもて)其底を知らず。此邊(このへん)山蛭(やまひる)といふ蟲多く、手足に取付(とりつき)て人を悩(なやま)す。寔(まこと)に下品(げひん)の地(ち)にして、男女(なんによ)の形狀(かたち)見分(みわけ)がたき程の所なり。此地に生れて他へ出(いで)ざる人は、老年まで米などを見ざる者多しといふ。又此邊に惡路神の火と號(なづけ)て、雨夜には殊に多く燃(もえ)て、挑灯(てうちん)のごとくに往來す。此(この)火に行合(ゆきあふ)者は、速(すみやか)に地に俯(うつむき)に伏(ふし)て身を縮(ちぢ)む。其時火は其人の上を通路(つうろ)するなり。火の通り過(すぐ)るを待(まち)て迯出(にげいだ)す。然(さ)も爲(せ)ざる時は、彼(か)火に近付(ちかづき)て忽ちに病(やまひ)を發し煩ふ事甚しといふ。這(こ)は享保の年間、阿部友之進といふ名醫、採藥の爲に經歷(けいれき)して彼(かの)地にいたり、眼前に見聞(けんもん)し、歸府の後(のち)諸國の奇事を上書(じやうしよ)せし採藥記にあり。
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惡路王の正體がはつきりせぬ以上、惡路神の火の由來もわからない。享保年間に阿部友之進といふ醫師がこの地を經歷して、「採藥記」といふものを書いてゐるさうだが、これは未見の書である。惡路神の火が猪草が淵の邊に現れ、出逢つた人を惱ますには、何か然るべき理由があるに相違ないが、肝腎の點の書いてないのが物足らぬ。そこへ往くと大津の油盜みの火などは至つて明白である。志賀の都に油を賣る商人が、大津の辻の地藏の燈明に上げる油を每晩盜んだ。その男の死後、迷ひの火となつて、今の世までも消えぬといふ。倂し松明のやうな火が飛び囘るだけで、人に害を與へることはなかつたらしい(本朝故事因緣集)。
[やぶちゃん注:「採藥記」前注で引いた「閑窓瑣談後編」の「第三十四 惡路神の火」には確かにそう書いてあるのであるが、ウィキの「悪路神の火」によれば、「閑窓瑣談」は『この話の典拠として、享保年間に幕府の採薬使として諸国を巡った阿部友之進(照任)の採薬記を挙げ、友之進が「眼前に見聞し」たものと記している。阿部照任の著述としては、松井重康とともに口述した』「採藥使記」なる書があるものの、『この書に悪路神の火の記載はない』。一方、享保五(一七二〇)年から宝暦四(一七五四)年まで採薬使の職にあった植村政勝の著した「諸州採藥記抄錄」の「伊勢國」の項には、「閑窓瑣談」と『ほぼ同様の記述が見られる』とある。但し、「諸州採藥記抄錄」では、『「猪草淵」の次に続けて「悪路神の火」を記すものの、この怪火を猪草淵に現れるものとしているわけではない』とある。以下、「諸州採藥記抄錄」の「猪草淵」の記述を略したものが掲げられてあるので、恣意的に正字化して示しておく。一部の読みは私がオリジナルに歴史的仮名遣で附したもの。
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又同國にて惡路神の火とて雨夜には多く挑灯(てうちん)のことく往來をなす、此火に行逢(ゆきあ)ふ時は流行病(はやりやまひ)を受(うけ)て煩ふよし、依之(これによつて)此(この)火に行逢ふときは早速(すみやか)に地に伏す、彼(かの)火其(その)上を通(とほ)すへるによつて此(この)病(やまひ)難を逃るゝといへり、
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文中の「通すへる」は「通(とほ)す經(へ)る」か。
「本朝故事因緣集」作者未詳。刊記に元禄二(一六八九)年とある。説法談義に供される諸国奇談や因果話を収めた説話集。全百五十六話。「国文学研究資料館」公式サイト内のここから画像で読める。]
同じ近江の話ではあるが、少し違ふのが「百物語評判」にある。叡山全盛の時代に、中堂の油料として一萬石ばかり知行があり、東近江の住人がこの油料を司つて、家富み榮えて居つた。その後時代の變遷に伴ひ、この知行がなくなつたのを、本意なく思つた東近江の住人が、その事を思(おも)ひ死(じに)に死んだ。爾來この者の在所から夜每に光り物が飛び出し、中堂の方へ來て、例の油火の方へ行くので、別に油を盜むわけではないが、皆油盜人と名付けた。これはその者の執念が油火を離れぬため、今以て來るのだらう、仕留めようと云ひ出した者があつて、弓矢鐵砲を持ち出し、衆を恃む鵺退治のやうな形勢になつた。案の如くその時間になると、黑雲一むら出る中に光り物があり、瞬く間に若者どもの頭上に來て、弓矢も全く手につかぬ。その時光り物をよく見屆けた者の說によれば、怒る坊主首が火焰を吹いて來る姿がありありと見えたさうである。今から百年ほど以前の話であつたが、次第に絕え絕えになつた。現在でも雨の夜などには時々この光り物が出る、湖水邊の在所の者はよく見るとある。「百物語評判」といふ書物は、山岡元鄰の宅で百物語を催した時、元鄰がその話每に和漢の故事を引いて評したのを、沒後貞享三年に至つて刊行されたものである。元鄰の沒したのは寛文十二年だから、その存生時代に百年以前といふと、どうしても元龜天正前後まで遡らなければならぬ。江戸時代の話ではない。
[やぶちゃん注:「古今百物語評判」(既出既注)のそれは、同書「卷之三」の「第七 叡山中堂(ちうだう)油盜人(あぶらぬすびと)と云ふばけ物付靑鷺(あをさぎ)の事」である。国書刊行会江戸文庫版を参考に、例の仕儀で加工して同条全文を示す。挿絵も挿入しておく。
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第七 叡山中堂油盜人と云ふばけ物付靑鷺の事
かたへの人の云はく、「坂本兩社權現の某坊(それがしばう)と云へる人の物語に、そのかみ叡山全盛のみぎり、中堂の油料とて壱万石ばかり知行ありしを、東近江の住人此油料を司りて家富みけるに、其後世かはり時移りて、此知行退轉せしかば、此東近江の住人世にほいなき事に思ひ、明けくれ嘆きかなしみしが、終に此事を思ひ死ににして死ににけり。其後夜每(よごと)に此者の在所よりひかり物出でて、中堂の方へ來たりて、彼の油火のかたへ行くとみえしが、其さますさまじかりし故、あながち油を盜むにもあらざれど、皆人油盜人と名付けたり。はやりおの若者ども、是れを聞きて、如何樣にも其者の執心油にはなれざる故、今に來たるなるべし。しとめて見ばやとて、弓矢鐡砲をもちて飛び來たる火の玉を待ちかけたり。あんのごとく其時節になりて、黑雲一叢出づると見えし。その中に彼の光り物あり。すはやといふ内に、其若者どもの上へ來たりしかば、何れもあつといふばかりにて、弓矢も更に手につかず。中にもたしかなる者ありて見とめしかば、怒れる坊主(なうず)の首(くび)、火焰(くわゑん)吹きて來たれる姿ありありと見えたり。是れ百年ばかり以前の事にてさふらひしが、その後は絕え絕えに來たりて、只今も雨夜などには其光物折々出で申し候ふを、湖水邊の在所の者は坂本の者にかぎらず、何れも見申し候ふ。此事かくあるべきにや」と問ひければ、先生答へていはく、「人の怨靈の來たる事、何かの事に付けて申すごとく、邂逅(たまさか)にはあるべき道理にて侍る故、其油盜人もあるまじきにあらず。しかしながら年經て消ゆる道理は、うぶめの下にてくはしく申せし通りなり。其死ぬる人の精魂の多少によりて、亡魂の殘れるにも遠近のたがひあるべし。また只今にいたりて、其物に似たりし光り物あるは、疑ふらくは靑鷺なるべし。其子細は江州高島の郡(こほり)などに別してあるよしを申し侍る。靑鷺の年を經しは、よる飛ぶときは必ず其羽ひかり候ふ故、目のひかりと相應じ、くちばしとがりてすさまじく見ゆる事度々なりと申しき。されば其ひかり物も今に至りて見ゆるは、靑鷺にや侍らん」。
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元鄰センセ、何で「靑鷺の年を經しは、よる飛ぶときは必ず其羽ひか」るんでしょうか? 理を尽くして私に判るように説明して下され!
「鵺」「ぬえ」。一般には猿の顔・狸の胴体・虎の手足・尾は蛇などとされる本邦では最初期のハイブリッド妖怪である。
「貞享三年」一六八六年。
「寛文十二年」一六七二年
「元龜天正」「元龜」は一五七〇年から一五七三年、「天正」は一五七三年から一五九三年。]
河内國平岡には一尺ばかりの火の玉が飛ぶ。昔平岡社の油を盜んだ姥が死後に燐火になつたので、叡山の西の麓の油坊、七條朱雀の道元の火、皆似たものと「諸國里人談」にある。平岡の姥火の正體は五位鷺で、遠くからは圓い火に見えるのだといふ說もあるが、五位鷺の羽は慥かに光るらしい。山岡元鄰も油盜人の火に就いて、靑鷺說を持ち出して居つた。油盜人と油坊は同一であるかどうか、よくわからぬ。
[やぶちゃん注:「河内國平岡」は枚岡(ひらおか)が正しく、現在の大阪府東大阪市東部の汎称地名である。
「平岡社」現在の大阪府東大阪市出雲井町にある枚岡神社であろう。
「諸國里人談」は江戸中期の俳人で作家の菊岡沾凉(せんりょう 延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年)の寛保三(一七四三)年刊の随筆。同話は「卷之三」にある「油盜火」(「あぶらぬすみび」と訓ずるか)。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みはオリジナルに私が歴史的仮名遣で附した。
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○油盜火
近江國大津の八町に、玉のごとくの火、竪橫に飛行(ひぎやう)す。雨中にはかならずあり。土人の云(いはく)、むかし志賀の里に油を賣ものあり。夜每(よごと)に大津辻の地藏の油をぬすみけるが、その者死て魂魄、炎となりて迷ひの火、今に消(きえ)ずとなり。
○又叡山の西の麓に、夏の夜燐火飛ぶ。これを油坊といふ。因緣右に同じ。七條朱雀(しざく)の道元(だうげん)が火、みな此(この)類ひなり。これ諸國に多くあり。
*]
攝津の高槻には二恨坊の火といふのがあつた。本人は山伏で、生涯に二つの恨みあるにより二恨坊と名付ける。「本朝故事因緣集」に從へば、曇る夜は必ず鳥のやうに飛び、竹木や屋の棟などにとまる、近寄つて見れば火の中に眼耳鼻舌唇を具へ、恰も人面の如くである。男女多く集り見るときは、恐れ辱ぢて飛び去るといふのだから始末がいゝが、何の恨みがあつたかは書いてない。「諸國里人談」は山伏の名を日光坊とし、行力他にすぐれて居つた。村長(むらをさ)の妻が病に臥した時、この山伏に加持を賴んだら、閨に入つて祈ること一七日、病は平癒したが、後に至り密通の名を負はせ、平癒の恩も謝せずに殺害した。この恨み妄火となつて長の家の棟に飛び來り、長を取り殺すとある。これだと恨みの點はよくわかるが、恨みが一つしかない。日光坊訛つて二恨坊となるならば、強ひて二の字に拘泥する必要はないかも知れぬ。
[やぶちゃん注:「攝津の高槻」現在の大阪府高槻(たかつき)市。
「本朝故事因緣集」本話は「卷之四」「九十一 攝津高槻二恨坊(にこんばう)之火」。「国文学研究資料館」公式サイト内のここから画像で読める。
「諸國里人談」のそれは以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みはオリジナルに私が歴史的仮名遣で附した。
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〇二恨坊火
摂津國高槻庄二階堂村に火あり。三月の頃より六七月までいづる。大さ一尺ばかり、家の棟(むね)或は諸木(しよぼく)の枝梢(ゑだこずゑ)にとゞまる。近く見れば眼耳鼻口のかたちありて、さながら人の面(おもて)のごとし。讐(あだ)をなす事あらねば、人民さしておそれず。むかし此所に日光坊(につかうばう)といふ山伏あり。修法(ずはう)、他にこえたり。村長(むらをさ)が妻、病(やまひ)に臥す。日光坊に加持(かぢ)をさせけるが、閨(ねや)に入(いり)て一七日(ひとなぬか)祈るに、則(すなはち)病(やまひ)癒(いえ)たり。後に山伏と女密通なりといふによつて、山伏を殺してけり。病平癒の恩も謝せず。そのうへ殺害す。二(ふたつ)の恨(ふらみ)、妄火と成りて、かの家の棟に每夜飛來(とびきたり)て、長(をさ)をとり殺しけるなり。日光坊の火といふを、二恨坊(につこんばう)といふなり。
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柴田の「日光坊訛つて二恨坊とな」ったとするのは、すこぶる腑に落ちる解釈である。]
「諸國里人談」はこの種の火が諸國に多くあると云ひ、千方の火、虎宮の火、分部の火、鬼の鹽屋の火、などを擧げた。千方の火は藤原千方の因緣で、伊勢の川俣川の水上より、挑燈ほどの火が、川の流に沿うて下る事、水より早いといふ。逆臣として誅せられた千方の怨恨であらう。分部の火は同じく伊勢の話で、分部山より小さい挑燈ほどの火が五十も百も現れ、縱橫に飛び𢌞つた後、五六尺ほど一團となり、塔世川を下る事、水より早しといふのだから、先づ大同小異である。然るに塔世が浦には鬼の鹽屋の火といふのがあり、この火の中には老媼の顏が見える。そこらは二恨坊の火に似てゐるが、これが川上の火と行き合ひ、入れ違ひ飛び返りして戰ふ。やゝあつて一つになり、また分れて、一方は沖へ飛び、一方は川上へ奔るといふのを見れば、山伏の恨みなどとは比較にならぬ問題が含まれてゐるらしく思はれる。火が一團となつて動くのは、大きな爭鬪なり、戰ひなりがあつたものでなければならぬが、その事は亡びて口碑の上にも存せず、火のみ昔の恨みを傳へてゐるのが却つて哀れ深い。
[やぶちゃん注:「千方の火」「ちかたのひ」。後注参照。以下、妖怪(怪火)の固有名にルビを振らない柴田は極めて不親切である。
「虎宮の火」「とらのみやのひ」或いは「こきう(こきゅう)のくわ」。古い地神か。Bittercup氏のブログ「続・竹林の愚人」の「虎宮火」によれば、現在の摂津市の旧味舌(ました)下浜、現在の浜町にあった。今は大阪府摂津市三島の味舌(ました)天満宮に合祀されているという。
「分部の火」「わけべのひ」。「分部」は後に出る通り、山名で、伊勢国安濃津(あのうつ/あのつ/あののつ:現在の三重県津市)にある安濃(あのう)川(本文の「塔世(とうせ)川」はその別称)川上にある。
「鬼の鹽屋の火」「おにのしほやのひ」。
「藤原千方」「ふじはらのちかた」。ウィキの「藤原千方の四鬼」(ふじわらのちかたのよんき)によれば、『三重県津市などに伝えられる伝説の鬼』。『様々な説があるが、中でも『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事が最も有名』で、『その話によると、平安時代、時の豪族「藤原千方」は、四人の鬼を従えていた。どんな武器も弾き返してしまう堅い体を持つ金鬼(きんき)、強風を繰り出して敵を吹き飛ばす風鬼(ふうき)、如何なる場所でも洪水を起こして敵を溺れさせる水鬼(すいき)、気配を消して敵に奇襲をかける隠形鬼(おんぎょうき。「怨京鬼」と書く事も)である。藤原千方はこの四鬼を使って朝廷に反乱を起こすが、藤原千方を討伐しに来た紀朝雄(きのともお)の和歌により、四鬼は退散してしまう。こうして藤原千方は滅ぼされる事になる』。『他の伝承では、水鬼と隠形鬼が土鬼(どき)、火鬼(かき)に入れ替わっている物もある。また、この四鬼は忍者の原型であるともされる』とある。
「川俣川」「かばたがは」と読むものと思われる。三重県中部の中央構造線沿いを西から東に流れ伊勢湾に注ぐ櫛田(くしだ)川上流の支流。恐らくはこの附近にあるはずである(グーグル・マップ・データ)。
「五六尺」一・五~一・八メートルほど。
「塔世が浦」現在の櫛田川河口の吹井ノ浦のことか。
「川上の火」先の分部(わけべ)の火のこと。
どうしようかと思ったが、禁欲注ではあるが、原典紹介をせめての旨としてきた以上、やったろうじゃ、ねえか! 「諸國里人談」の「千方の火」・「虎宮の火」・「分部の火」・「鬼の鹽屋の火」(これは前の「分部火」と闘うとする怪火の名)を以下の挙げる。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は割注。以下は「卷之三」の条々であるが、必ずしも順に並んではいないので、「*」で別個に示した。どれをどう表記挿絵したものかは判然とせぬが、挿絵も入れた。面倒なので、注は附さぬ。
○千万火
勢州壱志郡家城の里川俣川の水上より、挑燈ほどなる火、川の流にそいてくだる事、水よりはやし。これを千方の火といふ。むかし藤原の千方は此所に任しけるとなり。大手の門の礎の跡今に存せり。それより旗屋村、的場村、丸之内村、三之丸、二の丸、本丸といふ村々あり。今凡七千石程の所なり。千方は今見大明神【と云、則此所のうぶすななり】。
*
○虎宮火
攝津國島下郡別府村の虎の宮の跡といふ所より出て、片山村の樹のうへにとゞまる、火の玉なり。雨夜にかならずいづるなり。これに逢ふ人、こなたの火を火繩などにつけてむかへば、其まゝ消ゆるなり。虎の宮又奈豆岐宮ともいふ。是則前にいふ所の日光坊の一族、其腦(なつき)を祭る神といひつたへたる俗說あり。又云、延喜式に、攝州武庫郡名次神を祭る歟。
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○分部火
伊勢國安濃津塔世の川上分部山より、小き挑燈ほどなる火、五十も百も一面に出て縦橫に飛めぐりて後、五六尺ほど一かたまりになりて、塔世川をくだる事水よりはやし。又塔世が浦に鬼の鹽屋の火といふあり。此火中には老媼の顏のかたちありける。かの川上の火と行合、入ちがひ飛かえりなどして、相鬪ふ風情なり。少時して又ひとつにかたまり。そのゝちまたわかれて、ひとつは沖のかたへ飛、一つは川上へ奔るなり。[やぶちゃん注:下線やぶちゃん。]
*
「分部山」は恐らく「わけべやま」と訓じ(位置不詳)、「塔世の川」は恐らく「とうせのかは」で現在の三重県津市を流れて伊勢湾に注ぐ安濃川(あのうがわ)の部分旧称か支流と思われる。郷土史研究家の御教授を乞うものである。]
この種の火はとかく恨みに結び付くので、あまり愉快なものではないが、こゝに恨みなどには全然緣のない、天神の火といふのがある。伊勢國雲津川のほとりに天神山といふ山があつて、夏秋のころ日が暮れると、この山の茂みに火が見える。然も戲れに人が呼べば、直ぐその前に飛んで來るのである。里から山まで二里以上も距離があるのに、呼ぶが早いか、矢のやうに飛んで來る。火の大きさは傘ぐらゐで、地上を離れ步くこと一二尺に過ぎぬ。火の中にうめくやうな聲がして、人の步くに從つて迫つて來るだけで、別に怪しい事もなく、害をなす事もない。人は見馴れて怪しまず、子供などは火の中に入つて戲れるほどで、熱氣はなく、普通の火のやうな色をしてゐるが、臭氣があるため、久しく傍にはゐにくい。人が家へ歸れば、この火はそこまでついて來て、一晩中去らず、うめくやうな聲を立ててゐる。誰かまた火を呼んだなと云つて、戶外に出て草の葉を一つ摘み取り、それを額に戴く時は、火は忽ち飛び去つて見えなくなる。必ずしも草の葉には限らぬ、何でも地上にあるものを戴いて見せれば、火はこれを避けて行つてしまふ。「いかなる物といふ事を知らず」と「譚海」は書いてゐるが、これなどは多くの怪火の中に在つて、先づ親しみ易いものと云へるであらう。
[やぶちゃん注:「譚海」「卷之八」の「勢州雲津天神の火の事」。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した。
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○勢州雲津川上に天神山といふあり、その山に火あり。里人天神の火といひならはしたり。夏秋のころ日くるれば、天神の山のしげみに此火みゆるを、戲(たはむれ)に人よぶときは其前に飛とび)いたる。里より山までは二里あまりをへだてたるところを、よぶ聲につきてそのまゝ來(きた)る事、端的にして矢よりも早(はや)飛至(とびいた)る。此火からかさの大さほどありて、地上をはなれてありく事一二尺に過(すぎ)ず。火の中にうめく聲のやう成(なる)もの聞えて、人のありくに隨つて追來(おひきた)る、あやしき事なし、害をなす事もなき故、常に人見なれて子供などは火の中に入(いり)て、かぶりたはぶるゝ事をなす。熱氣なくして色は常の火のごとし、ただ臭氣ありて久しく褻(なれ)がたし。家へ歸行(かへりゆく)に、火も人に隨ひ來りて、終夜戶外(こがい)に有(あり)てうめく聲有(あり)てさらず。里人例の戲(たはむれ)に火を呼(よび)たるよとて、戶外に出て草の葉をひとつ摘(つみ)とり額に戴(いただく)時は、此火たちまちに飛(とび)さりてうするなり。地上にあるもの何にてもいたゞきて見する時は、火避(さけ)て飛(とび)さる事すみやかなり、いか成(なる)物といふ事をしらず。
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「天神山」不詳。現在の三重県津市を流れる雲出(くもず)川の上流かと思われるが、山の位置を特定出来ない。識者の御教授を乞う。ともかくも、これは実に面白い現実現象であるように思われる。何だろう?]