小穴隆一 「二つの繪」(19) 「麻素子さん」
麻素子さん
芥川は「或阿呆の一生」の中に、(四十七火あそび、四十八死、參照、)麻素子さんを書いてゐる。
「火あそび」の中に、
「死にたがつていらつしやるのですつてね。」
「ええ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」
彼等はかういふ問答から一しょに死ぬことを約束した。
「プラトニック・スウイサイドですね。」
「ダブル・プラトニック・スウイサイド。」
「死」の中に、
彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に唯一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた靑酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう」とも言つたりした。
と述べてゐる。
[やぶちゃん注:私の「或阿呆の一生」から連続するそれを引いておく。
*
四十七 火あそび
彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。
「死にたがつていらつしやるのですつてね。」
「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」
彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。
「プラトニツク・スウイサイドですね。」
「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」
彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。
四十八 死
彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた靑酸加里(せいさんかり)を一罎(ひとびん)渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした。
それは實際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に與へる平和を考へずにはゐられなかつた。
*
但し――私は現在――この前者「四十七 火あそび」の彼女を――平松麻素子ではなく、片山廣子である――と考えている。それを私は『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』で検証しているので参照されたい。]
麻素子さんと芥川夫人、僕と芥川といつた間柄が、芥川にとつて、ほんの僅かの間の氣休めにもなつてゐたことではあらうが、ホテルのこと以來、麻素子さんと白蓮(柳原)さんとの間柄から、自然白蓮さんといふ客が、お互ひの神經の中にはいつてきた。この客が加はつたことは、芥川の足掻きを結果としてはまた大きくしてしまつたのではないかと僕は思つてゐる。
「白蓮さんは束京驛から麻素子さんの電話で、何事が起つたのかと、家中の有金を全部持つて駈けつけてきたさうだ。」
「麻素子さんといつしよにしばらく暮すことが、自分の生活を生かすといふのならば、支那なら自分がいくらでも紹介して、隱家の世話をすると白蓮さんは言ふんだが、君はどう思ふね。」
と芥川は言つてゐた。芥川は僕がホテルを出て、夫人もまた歸つたあとのことであらうが、麻素子さんと白蓮さんとにどこかで會つてゐてさういふことを言つてゐた。
「芥川龍之介はお坊ちやんだ。」
白蓮さんがさう言つたといふ。僕は芥川と麻素子さんとから聞いてゐる。
[やぶちゃん注:以上は前章「帝國ホテル」の末の注に附した、第一回帝国ホテル自殺未遂事件の翌日である昭和二(一九二七)年四月八日、芥川龍之介が、平松麻素子と彼女の私淑していた歌人柳原白蓮とともに星ケ岡茶寮で昼食を摂ったシークエンスに基づくものと、一応は考えられる。
「芥川龍之介はお坊ちやんだ。」お前に言われたくないよ、柳原燁子(あきこ:白蓮の本名)!]
芥川の讀者は、芥川が麻素子さんに、と書いてゐた數篇の詩を讀んでゐるはずであるが、芥川は僕に、
「自分が麻素子さんと死なうとしたのは麻素子さんにお乳がないので、(乳房が小さいといふ意、)さういふ婦人となら、いくら世間の者でも麻素子さんと自分とは關係があつたと言はぬであらうし、また自分も全然肉體關係がなしに、芥川龍之介はさういふ婦人と死んでゐたといふことを人に見せてやりたかつたのだ。よしんば世間の人が疑つたところで、自分はさういふ婦人と何ら關係もなしに死んでゆくのは愉快だ。」
と言つてゐた。麻素子さんにお乳がないといふことは、芥川夫人が女學校時代の體格檢査のときに、麻素子さんの胸をみてゐてて芥川に話してゐたことであり、芥川はそのことを僕に話してゐた。僕は女房に、ふだんは乳房がなくて、赤坊ができると充分に乳房が張り、赤坊が乳を離れるとまた乳房がひつこんでしまふといふ、特異質であらうかと思へるその知人の話を最近に聞いたが、この芥川の言ひひらきは? この芥川文學? は到底人を納得させるものではない。かういつたところに芥川のものが敗北の文學といはれる點があればあるのであらう。もつとも、芥川が麻素子さんといつしよに警察の醫者の手で解剖されることも覺悟して言つてゐたといふのならば話はまた別である。
[やぶちゃん注:「芥川が麻素子さんに、と書いてゐた數篇の詩を讀んでゐる」恐らくは、岩波旧全集の「詩歌 二」に載る(この配列は昭和九(一九三四)年の岩波普及版全集のそれ以来、踏襲されている)以下の三篇(及びその前後や、間に入る「莟」「鏡」。「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」で確認されたい)を指すものであろうが、私はこれらの内、「臘梅」を除いては、平松麻素子に捧げられたものではなく、片山廣子に捧げられたもの(或いは麻素子に仮託した廣子の面影を読んだもの)と読み、小穴隆一の謂いには従えない。
*
冬
まばゆしや君をし見れば
薄ら氷に朝日かがよふ
えふれじや君としをれば
臘梅の花ぞふるへる
冬こそはここにありけめ
手袋
あなたはけふは鼠いろの
羊の皮の手袋をしてゐますね、
いつもほつそりとしなつた手に。
わたしはあなたの手袋の上に
針のやうに尖つた峯を見ました。
その峯は何かわたしの額(ひたひ)に
きらきらする雪(ゆき)を感じさせるのです。
どうか手袋をとらずに下さい。
わたしはここに腰かけたまま
ぢつとひとり感じてゐたいのです、
まつ直に天を指してゐる雪(ゆき)を。
臘梅
臘梅の匀を知つてゐますか?
あの冷やかにしみ透る匀を。
わたしは――実に妙ですね、――
あの臘梅の匀さへかげば
あなたの黑子を思ひ出すのです。
*
最初に掲載された元版全集では、文末総てに「(昭和二年)」とある。「臘梅」に「黑子」(ほくろ)と出るが、色白であった麻素子は鼻の左に大きな黒子があった(二〇〇三年翰林書房刊・関口安義編「芥川龍之介新辞典」の「平松麻素子」の項に、『ます子の妹たよ子の長男斉藤理一郎の直話』として出る)。
「芥川夫人が女學校時代の體格檢査のときに、麻素子さんの胸をみてゐて」この小穴隆一の証言には疑問がある。芥川(塚本)文と平松麻素子は若き日に文が平松の豪邸の近くであった芝区高輪町の東漸寺脇に住んで居て家が近かったことから幼馴染であったのであるが、年齢で二歳、学年で一つ、平松の方が上であり、しかも文は跡見女学校、麻素子は東京女学館出であり、女学校は違うからである。可能性としては同じ尋常小学校当時(推定であり、二人が同じ小学校出でることは私は確認していない)のそれと考えるしかないからである。こういう事実齟齬や小穴隆一のもって回った意味深で読み難い文体が証言全体の信憑性を著しく損ねているのである。
「かういつたところに芥川のものが敗北の文學といはれる點があればあるのであらう」たぁ、小穴先生よぅ! あっしは思わんが、ねぇ。宮本顕治も微苦笑すんべぇ(宮本は東京帝国大学経済学部在学中の二十歳の昭和四(一九二九)年八月、芥川龍之介を論じた「『敗北』の文學」で雑誌『改造』の懸賞論文に当選している。知られたことだが、同懸賞の次席は小林秀雄の「樣々なる意匠」であった)。]
芥川は前に麻素子さんを貰へと言つてゐたことがあつたが、ホテル以來、僕に遊びをすすめる傾向があつたのはみのがせない。面白いと思つてゐる。
何年か前の(終戰後)「主婦之友」に麻素子さんと芥川のことが載つてゐて、めづらしくすなほな記事であつたのには感心した。それが麻素子さんの人柄からきたことかどうかと考へてゐるが、多分さうなのであらうと思つてゐる。麻素子さんは療養所にはいつてゐると書いてあつた。薄命の人ではあらうが、麻素子さんのタイプは片山さん(松村みね子)に似てゐるのではなからうか。
[やぶちゃん注:『何年か前の(終戰後)「主婦之友」に麻素子さんと芥川のことが載つてゐて』不詳。識者の御教授を乞う。
「麻素子さんは療養所にはいつてゐると書いてあつた」先に示した「芥川龍之介新辞典」の「平松麻素子」の項に、龍之介没後二十五年ほど後(昭和二七(一九五二)年頃?)、『ます子は持病の結核が悪化したため、国立武蔵療養所に入院』したが、それからも芥川文との親しい書簡のやりとりがあり、昭和二十八年一月二日に亡くなった麻素子の葬儀には文も列席している、とある。]
芥川の弟の新原得二は、遺書で義絶を計つた芥川を金輪際認めずに、麻素子さんを兄の敵、僕と谷口喜作(故人)などをおのれの敵としてみてゐたやうである。
僕はホテル以來麻素子さんを黃泉の女王と言つてゐた。芥川と僕との間では平松さんとか麻素子さんとか言ふよりは、黃泉の女王といつたはうが言ひやすかつた。別に白蓮さんの筑紫の女王に對してあはせ奉つた次第ではない。
白蓮さんの旦那さんの父親は支那浪人として名のあつた宮崎滔天。
[やぶちゃん注:「筑紫の女王」柳原燁子は三度結婚しているが、二度目の相手は九州の炭鉱王伊藤伝右衛門であったことから(明治四三(一九一〇)年十一月挙式。伝衛門は五十で(先妻とは死別)、二十五も年下であった)、彼女は「筑紫の女王」と呼ばれた。彼女の事蹟はウィキの「柳原白蓮」を参照されたい。
「白蓮さんの旦那さんの父親は支那浪人として名のあつた宮崎滔天」柳原燁子が伝衛門を捨てて駆け落ちした三度目の夫で弁護士・社会運動家の宮崎龍介(明治二五(一八九二)年~昭和四六(一九七一)年)は、孫文の盟友として辛亥革命を蔭で支えた大陸浪人宮崎滔天(とうてん 明治三(一八七一)年~大正一一(一九二二)年)の長男であった。]