柴田宵曲 妖異博物館 「猫と鼠」
猫と鼠
鼠は常に猫に制せられ、蛙は常に蛇に呑まれると相場がきまつてしまつては、世の中が單調で面白くない。廣い世界の事だから、鼠の中にも時に偉材が出て來る。
信州上田邊の或寺に年久しく飼はれる猫があつた。よほど猛猫であつたと見えて、近郊の猫は皆脅かされ、中には嚙み殺されるのさへあつたので、世にいふ猫まただらうなどと評判されてゐたが、寺の事だから追ひ遣りもしなかつたところ、或日田舍から野菜を持つて來た男がこの猫を見て、世にはかういふ逸物もあるものかと、ひどく譽め立てた。寺では寧ろ持て餘しの形になつてゐた猫である。住僧は、所望ならそなたに進ぜる、と惜し氣もなくくれてしまつた。男は繰り返し禮を述べて歸つたが、二三日すると、今度は菜大根の類を持つて、改めて禮を云ひに來た。おかげで年頃の難を逃れました、といふ子細を聞いて見るとかうである。その男の家に一疋の惡鼠がゐて米穀を荒し、器物を損ずること久しかつたが、これらはまだ我慢するとして、八十を越えた老母の髮を毎晩むしりに來る。晝でも自分が外出する時は、老母を餘所へ預けなければならぬ。何とかしてこの害を除きたいと思ひ、方々から猫を連れて來ても、鼠を除き得ぬばかりでなく、猫の嚙み殺されたことが何度もある。そこでこの寺の猫に目を付け、鼠退治のために貰ひ受けたのであるが、歸つて鼠に向はせると、互ひに暫くためらふうち、例の如く鼠の方から飛びかかる。猫も負けずに食ひ合つて、遂に共斃れになつた。そのところを鼠宿といひ、猫と鼠の塚がある。上田と屋代の間だと書いてある(諸國里人談)。
[やぶちゃん注:「上田と屋代の間」この附近か(グーグル・マップ・データ)。
以上は「諸國里人談」「卷之五 氣形部」の「大鼠」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。
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○大鼠
信濃國上田の邊の或寺に猫あり。近隣の猫おどかし喰殺しなどして、世にいふねこまたなりといへども、流石寺なれば追放もせで飼けり。一日田舍より野菜を商ふ土民來り、此猫を見て、世にはかゝる逸物もあるものかなとこよなふほうびしけり。住僧の云、所望ならば得さすべし。此男大きに悦び、厚く禮してもて行けり。二三日過て、彼男菜大根やうのものを以て謝し、御陰によりて年月の難を遁れたりといふ。其謂れを問ふに、我家惡鼠ひとつありて、米穀をあらし器物を損ふ事年あり。これはさる事なれども、八旬にあまる老母あり。夜毎に此髮をむしるを夜すがら追ふ事切なり。晝も他行の時は近隣へ賴み置なり。此鼠をさまざまに謀れども取得ず。あまた猫を求め合するに、飛かゝつて猫を喰殺す事數あり。きのふ當院の猫にあはせければ、互にしばらくためらひけるが、如ㇾ例鼠飛付くを、猫則ち鼠を喰ふ。ねずみまた猫をくらひて兩獸共に死けるとなり。その所を鼠宿といふ。その猫鼠の塚あり。上田と屋代の間なり。
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かういふ話は上田ばかりではない。寶暦の初め頃、名古屋の何其の家で毎晩燈火が消ええる。不思議に思つて注意してゐたら、夜更けに大きな古鼠が出て油を舐るためであつた。鼠退治には猫が第一だから、こゝでも近郷の猫を借りて來た。例の時刻に鼠が現れて行燈にかゝるのを、猫が見すまして狙ふ。鼠の方でも猫を睨む。精々暫く睨み合つてゐたが、やがて猫がひらりと飛びかかる。鼠は飛び違つて猫の咽喉に食ひ付き、途に嚙み殺してしまつた。これではならぬと方々搜した結果、漸く逸物の猫を手に入れた。鼠はいつもの通り出て、猫と睨み合ふことになつたが、この猫はぢつと睨んでゐるだけで、いつまでたつても鼠にかゝらない。たうとう鼠の方が我慢出來なくなつて、猫に飛びかゝるところを、何の苦もなく引銜へて嚙み殺した(翁草)。この邊になると、武藝者の立合ひと同じやうである。「列子」に鬪鷄が木製の鷄の如くなるのを見て、その德全しとした話があつた。鬪志滿々などと云つて得意がるのは、抑々末の話なのであらう。
[やぶちゃん注:「翁草」(おきなぐさ)は江戸中期に京都町奉行所与力を務めたこともある俳人で考証家の神沢杜口(かんざわとこう 宝永七(一七一〇)年~寛政七(一七九五)年)の二百巻にも及ぶ考証随筆の大著。私は残念ながら所持しない。国立国会図書館デジタルコレクションにあるが、巻や標題が不明なので、調べるのは諦めた。それらを御存じの方は御教授願いたい。
『「列子」に鬪鷄が木製の鷄の如くなるのを見て、その德全しとした話があつた』「列子」の「黃帝第二 第二十章」の以下(一般には「木鷄(もっけい)」と呼ばれる)。
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紀渻子爲周宣王養鬭雞。十日而問、雞可鬭己乎、曰未也方虛驕而恃氣。十日又問曰、未也。猶應影響。十日又問曰、未也猶疾視而盛氣。十日又問曰、幾矣雞雖有鳴者己無變矣。望之似木鶏矣其德全矣。異雞無敢應者反走耳。
○やぶちゃんの書き下し文
紀渻子(きせいし)、周の宣王の爲に鬭鷄を養ふ。十日にして問ふ、
「鷄、鬭はしむべきや。」
と。曰く、
「未だし。方(まさ)に虛驕(きよけう)にして氣を恃(たの)む。」
と。十日にして又問ふ。曰く、
「未だし。猶(な)ほ影嚮(えいきやう)に應ず。」
と。十日にして、又、問ふ。曰く、
「未だし。猶ほ疾視(しつし)して氣を盛んにす。」
と。十日にして、又、問ふ。曰く、
「幾(ちか)し。鷄、鳴く者有りと雖も、己(おの)れ、變ずること、無し。之れを望むに木鷄(ぼくけい)に似たり。其の德、全(まつた)し。異鷄(いけい)、敢へて應ずる者、無く、反(かへ)り走らんのみ。」
と。
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以下、私の勝手な語注を附す。
・「虛驕」虚勢を張ること。
・「氣を恃(たの)む」血気にはやって粗野に過ぎる。
・「影嚮に應ず」相手の声や姿形に対して未だ濫りに反応して昂奮してしまう。
・「疾視(しつし)」睨みつけること。
・「氣を盛んにす」その視線に未だ表立った闘志が見え見えである。
・「幾(ちか)し」理想とする状態に近い。
・「木鷄」生きた本物ではない木彫りの鷄。
なお、殆ど全く同じ話が「荘子外篇」の「達生」にもある。]
「閑窓瑣談」にあるのは遠州御前崎の話で、西林寺といふ寺の和尚が或年暴風の際、舟の板子に乘つて流れて來る子猫があつたのを、わざわざ小舟を出して救ひ寺中に養ふ。十年ほどたつて、猫は附近に稀れな逸物の大猫になり、この寺には鼠の音を聞くこともなかつた。西林寺は住職と寺男だけといふ簡素な寺であつたが、或時寺男が緣端でうたゝ寢をしてゐると、猫も傍に來て庭を眺めてゐる。そこへ鄰りの家の猫がやつて來て、日和もよし、伊勢參りをせぬかと聲をかける。寺の猫がそれに答へて、わしも參りたいが、この節は和尚樣の身の上に危い事があるので、外へは出られぬ、と云ふ。鄰りの家の猫は寺の猫の側近く進んで、何やらさゝやくものの如くであつたが、二疋はやがて別れた。寺男は夢うつゝの境で、この猫の問答を聞いたのである。その夜本堂の天井に恐ろしい物音が聞える。折ふし雲水の僧が止宿して居つたのに、この物音が聞えても、一向起きて來ない。住持と寺男とは燈火をつけて、いろいろ騷いだが、高い天井の上の事でどうにもならぬ。夜が明けて後、天井から生血が滴るので、近所の人を雇ひ、寺男と共に天井裏を見させたところ、寺の猫は朱(あけ)に染まつて死んで居り、鄰りの猫も半ば死んだやうになつてゐた。更に驚いたのは、それより三四尺隔てて、二尺ばかりもある古鼠の、毛は針を植ゑたやうなのが倒れてゐることであつた。まだ少しは息が通ふやうなので、直ちに棒で打ち殺し、猫はいろいろ介抱して見たが、二疋とも助からなかつた。最も怪しむべきはその鼠が滯留中の旅僧の衣を身に纏つてゐた一事で、察するに古鼠が旅僧に化けて來て和尚を食はうとし、猫は舊恩を報ずるために、命を捨てて住職の災ひを除いたものと知れた。人々深く感じて二疋の猫の塚を立て、鼠も恐ろしい變化であるから、捨てても置かれぬと、これも塚を立てて法事を營んだ。この邊は最初の上田の話に似てゐるが、規模は大分大きい。猫が寺の居付きで、鼠が風來坊である點は趣を異にする。
[やぶちゃん注:この話、幸いにして昨年に電子化注した、幕末の万延元(一八六〇)年成立の、画家で国学者であった平尾魯僊(ひらおろせん 文化五(一八〇八)年~明治一三(一八八〇)年:「魯仙」とも表記)が弘前(ひろさき)藩(陸奥国津軽郡(現在の青森県西半部)にあった藩で通称で津軽藩とも呼んだ)領内の神霊・妖魔を採集記録した「谷の響」の「一の卷 十六 猫の怪 並 猫恩を報ふ」の注で挿絵とともに電子化してある。参照されたい。なお、リンク先の原典を見て貰うと判るが、柴田の言う「西林寺」は「西林院」の誤りである。]
この話と姉妹篇をなす觀のあるのが「耳嚢」の記載で、これは大坂であつた。河内屋惣兵衞といふ町人の家に年久しく飼ふぶち猫があり、一人娘も可愛がつてゐたが、この娘の傍を片時も離れず付き纏ふので、猫に見入られたといふ評判が立ち、自然緣談の障りにもなる。兩親が心配して遠いところへ捨てさせても、猫は直ぐ歸つて來る。親の代から飼ひ馴れた猫ではあるが、この上は打ち殺すより仕方があるまい、と内談を極めた時、突然かの猫は行方不明になつた。家の者は氣味惡がつて祈禱をしたり、魔除けの札を貼つたりしてゐるうちに、主人の惣兵衞がこんな夢を見た。或晩例のぶち猫が枕許に來てうづくまつてゐるので、お前は何故身を隱して置いて、またこゝへ來たのかと尋ねると、私が身を隱しましたのは、お孃樣に見入つたといふことで、御成敗を受けさうになつたからでございます、御先代以來、四十何年も御厚恩を受けました者が、何で左樣な不屆な事を致しませう、私がお孃樣のお側を離れませぬのは、この家に年を經た化け鼠が居つて、お孃樣に見入つて近付かうと致しますので、私がお守りするためなのでございます、鼠を退治するのは猫の持前ですが、この鼠はなかなか私だけの力には及びません、普通の猫が二三疋かゝつてもむづかしうございますが、嶋の内の河内屋市兵衞樣のところに虎猫が一疋居ります、これを借りて來て私と力を合せましたら退治出來ませう、と答へた。惣兵衞の妻も同じ晩に同じ夢を見たので、夫婦で話し合つて驚いたものの、夢だけでは取り合ふに足らぬと打ち捨てて置いたら、猫は再び夢に現れた。お疑ひなさいますな、あの猫さへお借りなされば大丈夫でございます、と云ふ。そこで嶋の内へ行つて見ると、河内星市兵衞といふのは料理茶屋風の構へであつたが、此方の話を聞いて快く承知してくれた。翌日人を遣して猫を連れて來る。猫も否まずに連れられて來たところへ、ぶち猫もどこからか歸つて、はじめから虎猫と仲よくしてゐる。その夜ぶち猫は夢の中で夫婦に向ひ、愈々明後日鼠退治を致します、日が暮れたら二階へお上げ下さい、と告げたので、翌々日は二疋に十分に馳走を食はせ、註文通り二階に上げて置いた。果して四ツ(午後十時)頃から二階の騷動が始まり、九ツ(十二時)には少し靜まつたから、亭主を先頭に二階へ上つて見ると、猫より大きいくらゐの大鼠の咽喉笛にぶち猫が食ひ付き、鼠に胸を破られて共に死んでゐた。嶋の内の虎猫も氣息奄々としてゐたが、この方はいろいろ療治して命を取り止め、厚く禮を述べて市兵衞に返した。ぶち猫にはその忠心を感じて墓を建ててやつた。これは大御番の何某が、大坂在番中に聞いたので、安永・天明頃の話といふことになつてゐる。
[やぶちゃん注:私は「耳囊」全千話のオリジナル電子化注を2015年4月に完遂している。この話は「耳嚢 卷之九 猫忠死の事」であるが、以上のリンク先の私の原訳とは別に、私の教え子のネィテイヴに大阪弁の私の訳を厳密補正して貰った「耳囊 卷之九 猫忠死の事――真正現代語大阪弁訳版!――」も用意してある。]
この二つの話には大した相違點はない。河内屋にゐた妖鼠の正體は不明であるが、西林寺止宿の雲水のやうに、人間の形を具へてゐたわけでもあるまい。兩方とも二疋の猫が協力し、辛うじて退治し得るのだから、たゞの鼠でないことは勿論である。夢語りによつて意志を通じたのは、人語をよくせぬためであるが、それだけ話が複雜になつてゐる。とかく恩を忘れがちのやうに云はれる猫が、一命を捨てて妖を除いたり、猫が忠で鼠が妖であつたり、話としても型破りの點が少くない。
[やぶちゃん注:くどいが、「西林寺」は「西林院」の誤り。]
倂し上には上があるもので、「續已編」に見えた西蕃入貢の猫などは、抑々この猫に何の異あるかと問はれた時、使臣とかくの効能を述べず、その異を知らんと欲せば、今夕請ふこれを試みよとのみ答へてゐる。論より證據、試して御覽なさい、といふわけである。そこでその猫を鐡籠に入れ、鐡籠をまた二重にして客室の中に置いた。明日起きて見れば、數十の鼠が籠の外に折り重なつて悉く死んで居つた。使臣曰く、この猫の在るところ、數里外の鼠と雖も、皆來つて伏死す、蓋し猫の王なり、とある。かういふすばらしい先生に比べれば、自分だけの力では怪鼠を斥けることが出來ず、夢枕に立つたりして他の猫の援助を求め、家鳴り震動、力鬪して死するが如きは未だ至らざる者と云はなければならぬ。眞の名刀は鞘を拂はずして魔を伏する。源三位賴政は一箭に鵺を射落したが、八幡太郎義家は弓を獻じただけで、もののけを鎭めた。上杉謙信がこの二つを比較して、武威の衰へを歎じた話がある。猫と雖もかういふ憂慮を具へなければ、王たることは至難であらう。
[やぶちゃん注:「續已編」詳細書誌不詳ながら、グーグル・ブックスのこちらの画像で、当該漢文「不祥若乃鐡籠徴奇」を視読出来る。
「數里」これは元が中国のものであるから、一里は短い(唐代や明代で約五六〇メートル、宋・元代で約五五三メートル、清代で五七六メートル)から、原典の時代が不明ながら、凡そ(それでも!)この猫のいる地点から周囲三キロメートル圏内の鼠は不思議な力(特殊なフェロモン様の強毒性気体か?)で誘引されて確実に死ぬことになる! 恐るべし!
「幡太郎義家は弓を獻じただけで、もののけを鎭めた」これは「宇治拾遺物語」の第六十六話「白河院、おそはれ給ふ事」を指す。
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これも今は昔、白河院、御(おほ)とのごもりてのち、物におそはれさせ給ひける。「しかるべき武具を御枕にうへに置くべき。」と、さたありて、義家朝臣にめされければ、まゆみの黑ぬりなるを一張(はり)、まゐらせたりけるを、御枕にたてられて後、おそはれさせおはしまさざりければ、御感(ぎよかん)ありて、「この弓は十二年の合戰(かつせん)の時や持ちたりし」と御尋ねありければ、おぼえざるよし申されけり。上皇、しきりに御感有りけりとか。
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なお、「平家物語」などで知られる、源三位義政の鵺退治を私が示さないのは、あまりにも判り切った話だからである。悪しからず。]
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