柴田宵曲 妖異博物館 「轆轤首」
轆轤首
轆轤首(ろくろつくび)の話で最も一般的なものは、夜中首が拔け出たところを人に見付けられる話である。「甲子夜話」「北窓瑣談」のは下婢、「閑田耕筆」のは吉原の遊女、「百物語評判」のは女房、「耳囊」のは娘で、女性に限る現象かと思ふと、「蕉齋筆記」のやうに下男の例もある。轆轤首であることを知られた者は、深くこれを恥ぢ奉公先を去る。「閑田耕筆」の遊女なども世間の評判になつては困るから、遊女屋の主人が特にその客に盛膳を出し、何か怪しく思はれることがあつても、必ず口に出して下さるなと歎願してゐる。「蕉齋筆記」の男は增上寺の寮に奉公してゐた者であつた。或夜和尙の胸あたりに人の首らしいものが來たので、そのまゝ取つて投げ付けたが、翌朝下總から拘へてゐた下男が不快と稱して起きて來ない。和尙自身飯を炊いて食事を濟ますと、下男は晝頃になつて漸く起き、突然お暇をいただきたいと云ひ出した。理由を問へば、夜前お部屋へ首が參りは致しませんでしたか、といふ。成程首らしいものが來たが、投げ付けたらそれきり行方不明になつた、と答へたところ、それでございます、私には拔け首の病ひがありまして、何か腹の立つことがございますと、夜中に首が拔け出します、昨日手水鉢へ水の入れやうが遲いといふことでお叱りを受けましたが、あれほどお叱りなさるにも及ぶまいと思つたら、拔け首になつてお部屋へ參りました、こればかりは自分でどうにもなりません、この上御奉公もなりかねますから、と云つて暇を乞うて歸つた。下總にはこの病ひが多いさうだと「蕉齋筆記」は記してゐる。
[やぶちゃん注:『「北窓瑣談」のは下婢、「閑田耕筆」のは吉原の遊女、「百物語評判」のは女房』後に詳述されず、幸い、総て所持するので、これらのみ引用する。注は附さぬ。まず「北窓瑣談」(同書は江戸時代後期の医師で文をよくした橘南谿(たちばななんけい 宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の遺著で文政一二(一八二九)年刊の随筆)。これは同「卷之四」の以下。
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一 越前國敦賀、原仁右衞門といへるは、餘が多年格別懇意の人なり。此人、用の事ありて數月京へ登り居(を)りし留守の事なりしが、其妻千代といへるが、二歲になる岩助といふ小兒を養育し、下婢一人召遣ひ居けるに、主人旅行の留守なれば、外に男子もなければ淋しとて、又一人廿六七才許なる下婢をやとひ、留守を守り居けり。寬政元年酉十月の事なりし。夜更て彼下女、殊の外にうめきければ、妻も目覺て、持病に痰强き下女なれば、又痰や發(おこ)れる、尋ばやと思ひしに、枕もとに有ける有明の燈火(ともしび)消居ければ、小兒を懷に抱ながら起出て、燧(ひうち)をうち、有明の燈火を點じ、下女がいねたる次の間の障子を開きたるに、下女が枕もとの小屛風の下に、何か丸きもの動きて見えければ、何やらんと有明の燈火をふり向見るに、下女が首引結髮(ひくくりがみ)のまゝにて、屛風の下に引添ひ、一二尺づゝ屛風へ登り付ては落ち、登り付ては落(おち)する程に、妻も見るより胆消(きもきえ)魂飛(たまとん)で氣絶もすべく覺しが、小兒を抱き居ければ、驚かん事を恐れ、右の手に小兒をかゝへ、左りの手に有明の燈火をさげて、其儘に居すはり、暫くは物も言はで有けるが、彼首每度屛風へ登り付ては落々(おちおち)して、つひに屛風を越えて内に入り、又下女がうめきおそはるゝ聲聞えし。妻は下女をも起し得ずして、其儘に障子引たて、又我閨に入りて夜明るまで目も合はず。蒲(ふ)とんを引被(ひつかつ)ぎ居て、夜明るを待かねて、里方の大坂屋方へ人して、急に兄の長三郞を呼び、しかじかの事をかたり、何となく他の事に寄(よせ)て下女にいとまやりぬ。此下女、仁右衞門留守中ばかりやとひたる事にて、近き町の者なりければ、世上の評説を恐れて、此事深く祕し、今一人の初より居る下女へも聞(きか)しめず。唯、京に居ける夫仁右衞門へ、此事告來るついでに、余が多年親しき事なれば、文して委しく申來れり。後に其妻も京に登り住ければ、余も直に猶委しく聞けり。夢幻(ゆめまぼろし)などの事にては無く、正しく轆轤首を見けるも、いと奇怪の事なりける。余、此事を後につくづく考ふるに、妖恠(えうくわい)にては無く病の然らしむる事なるべし。痰多き人は、陽氣頭上にこずみ、其氣、形を結んで首より上に出るなるべし。其人の寐たるを見ば、正眞の首は其儘、身に付て有べし。離魂病の類(たぐひ)なるべし。彼下女は屛風の内に寐たる事なれば、首は身に付居しや無りや、見ざりしと妻女語りき。
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次に「閑田耕筆」(伴蒿蹊著。享和元(一八〇一)年板行)。「卷之二 人部」にある。注は附さぬ。
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○世に轆轤首といふは、一種の奇病とす。あるひは是を飛頭蠻(ひとうばん)に混じて、數丈の間を徘徊(はいくわい)するなどもいふを、俳諧師の遊蕩一音といへる男、正しく見たる話あり。其若き時、江戶新吉原にして一妓容㒵(ようばう)美なる者を見て、卽相接(あひせつ)し、朝に歸るさ、友人のもとへ立より、此美㒵(びばう)を撰(えらみ)得て接することを誇りしに、集ひたる二三の少年ども、皆掌(て)を拍(うち)て笑ふ。なぞといへば、子、しらずや、それはろくろ首の名(な)有(あり)。何のあやしきこともなかりしやといふ。一音、初は戲言なりと思ひてあらがひしかども、友人皆、其聞(きく)ことの遲きを嘲(あざけり)て止(やま)ねば、さらば急に實否(じつぴ)を見はてんといひて、又其席より引かへしてかしこにいたる。かの渡部綱(わたなべのつな)が羅城門に趣きし心地なりけんと思ふもをかし。さて遊び戲れ、あまりに醉て、一夜よく寐(いね)て、明はてぬるに、かくながら歸りては、友人のためにいふべき詞なしと思ひて、又其日もそこに暮し、此夜は先の夜に懲(こり)て、醉たるふりながら、露計(つゆばかり)もねぶらず窺(うかがひ)しに、妓は馴(なれ)てやゝ心解(こころと)しにやあらん、熟(うま)く眠りぬ。夜半過る比ほひ、一音、眼(め)を開て見れば、其首、枕を離るゝこと一尺計にして垂(たれ)たるに、心得ながらもおどろきてかけ出、われしらず大聲をたてたれば、不寐(ねず)の番する男とみに來りて、一音が口をふたぎ、此まらうどはおそはれ給へり。皆おはしませとわめきて、紛らはしたれば、かれこれの妓ども起出て、彼妓は退けて後、酒を勸め夜を明し、さて朝になりて家あるじより、こと更に盛膳(せいぜん)を出し、人をもてひそかにいへらく、もしあやしと思すこともあらめど、必(かならず)口に出し給ふことなからんを、深くねぎまゐらす。あしき名とりては、吾家の疵(きず)にて、大かたならぬ愁(うれへ)に侍りと、ねもごろにいひしとぞ。おのれこの形狀を思ふに、轆轤の名のごとく、頸(くび)の皮の屈伸する生質にて、心ゆるぶ時は伸(のぶ)るなり。病にはあらじ。もとより飛頭蠻の話のごとく、數丈延(のび)て押下(なげし)に登るなどやうのことは、あるまじきことなり。
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次に既出既注の「古今百物語評判」。「卷之一」の二番目に出る。挿絵は参考にした国書刊行会「江戸文庫」版のそれとトリミングした。
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第二 絕岸和尙肥後にて轆轤首見給ひし事
かたへの人の云ふ、「ろくろ首と申す物ははなしのみかとおもへば、此頃絕岸和尙といふ僧、西國行脚の折から、肥後へ行きてしころ村といふ所に一宿せられしに、軒あばらなるかり枕、風凄まじく吹き落ちて、夢もまどかならざりければ、夜更るまで念佛稱名して居給ひしに、うしみつばかりに、其屋の女房の首むくろよりぬけて、窓の破れより飛び出でぬ。あやしと思ひて念比に見れば、其首の通ひしあとに白きすじのやうなる物見えたり。是れこそ轆轤首よとおそろしく、誠に過去の業因までおしはからるゝに、夜明けがたになりて、其すじ動くやうにて、又もとの處より彼の首かへり、につこと笑ふやうにておのがふしどに入りぬ。夜明けて其女房を見れば、首のまはりに筋あるやうにて別のかはりなし。和尙も亭主に語らばやと思ひけれど、いらざる事よと默して歸りぬ。『誠に出家の身ながらおそろしかりし』と語(かたら)れ侍りしが、此事いかに」と問ひければ、先生評していはく、「此首の事、唐(もろこし)にも侍り。博物志には、南方に尸頭盤(しとうばん)とて每夜人の首むくろよりぬけて、耳をもてつばさとすと見えたり。又搜神記には、女の首とびし事を載せたり。されども轆轤の名は見ざりしに、此頃、元(げん)の陶九成が輟耕錄(てつかうろく)をよみしに、陳孚(ちんぷ)といふ者の南蠻紀行の詩に頭飛如二轆轤一鼻吸似二瓴甋一とかき侍る。されば此詩の心は南蠻の人には、ろくろ首ありて釣瓶をおろしあぐるがごとし。又鼻にて物を吸ふ事、もたひに水を移すがごとしとなり。是れ等の類を以て見る時は、むかしより多く南蠻の中に侍るなるべし。天地のかぎりなき造化の變に至りては、水母(くらげ)の目なく蝙蝠(かうもり)のさかさまにかゝり、梟(ふくろ)の晝目しいたる類(たぐひ)、一わうの見識にてはかりがたし。されば肥後にもあるまじきにもあらず。いかさまにも都方(みやこがた)には希にも聞き及ばず。すべて、あやしき事は遠國(をんごく)にある物なりと思ひ給ふべし。」。
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文中の「頭飛如二轆轤一鼻吸似二瓴甋一」は参考底本に従わず、「頭(かしら)の飛ぶこと、轆轤(ろくろ)のごとく、鼻の吸ふこと、瓴甋(もたひ)に似たり」と訓じておく。「瓴甋」は陶器製の吸飲み(すいのみ)のようなものを指すものと私は考える。
「蕉齋筆記」儒者で安芸広島藩重臣に仕えた平賀蕉斎(延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで当該箇所を視認出来る。]
この下男は轆轤首であることを自覺してゐたやうだが、「甲子夜話」の下婢にはそれがないので、私はどこへ奉公しても年季を勤め上げず、必ず中途でお暇になります、どうか出代りまで置いて下さい、と泣いて訴へたといふから、自分では何も知らぬのである。この女の容貌は別に變つたところもなく、たゞ顏色が靑かつたと書いてある。
[やぶちゃん注:「甲子夜話卷之八」に出る「轆轤首の事」。読みは私が推定で歴史的仮名遣で附した。そのうちに私の「甲子夜話」の電子化で注を附す。一つだけ言っておくと、「甑」は訓「こしき」で蒸籠(せいろ)のこと。
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先年、能勢(のせ)伊豫守訪來(たづねき)て話せし中に、世に轆轤首と謂ふもの實(まこと)に有りとて語れり。末家能勢十次郞の弟を源藏と云(いふ)。かれ、性、强直、拳法を西尾七兵衞に學ぶ。七兵衞は御番衆にして、十次郎の婚家なり。源藏、師且(かつ)親戚を以て、常に彼家に留宿す。七兵衞の家に一婦あり。人、ろくろくびなりといへり。源藏、あやしみて家人に其ことを問(とふ)に、違(たが)はず。因(より)て源藏、其(その)實(まこと)を視(み)んと欲し、二三輩と俱に、夜、其家にいたる。家人かの婢の寢(しん)を待(まち)て、これを告ぐ。源藏、往(ゆき)て視るに、婢、こゝろよく寐(いね)て覺(さめ)ず。已に夜半に過(すぐ)れども、未だ異なることなし。やゝありて婢の胸のあたりより、僅(わづか)に氣をいだすこと、寒晨(かんしん)に現(あらはる)る口氣(かうき)の如し。須臾(すゆ)にして、やゝ盛(さかん)に甑煙(そうえん)の如く、肩より上は見へぬばかりなり。視(みる)者、大に怪(あやし)む。時に桁上(けたうへ)の欄間(らんま)を見れば、彼(かの)婢の頭、欄間にありて睡(ねむ)る。其狀梟首(きやうしゆ)の如し。視者、驚駭(きやうがい)して動くおとにて、婢、轉臥(ねがへり)すれば、煙氣もまた消うせ、頭(かうべ)は故(もと)の如く、婢、尙、よくいねて寤(さめ)ず。就(つい)て視れども異(ことな)る所なしと。源藏、虛妄を言ふ者にあらず。實談なるべしとなり。又、世の人、云ふ。轆轤首は其人の咽に必ず紫筋(むらさきのすぢ)ありと。渡藏の所ㇾ云(いふところ)を聞(きく)に、この婢、容貌、常人に異なる所なし。但(ただ)、面色靑ざめたり。又、此稗、如ㇾ斯かくのごと)きを以て、七兵衞、暇(いとま)をあたへぬ。時に婢、泣(なき)て曰(いはく)、某(それがし)、奉公に緣なくして仕(つかふ)る所、すべて其(その)期(き)を終(をへ)ず、皆、半(なかば)にして如ㇾ此(かくのごとし)。今、又、然り。願(ねがはく)は期を完(まつと)ふせんと乞(こひ)しかど、彼(かの)怪あるを以て聽入(ききい)れず、遂に出しぬ。彼婢は己が身のかくの如きは露(つゆ)しらぬこととぞ。奇異のことも有(ある)ものなり。予、年頃、轆轤首と云ふものゝことを訝(いぶかし)く思(おもひ)たるに、この實事を聞(きき)ぬ。これ唐(もろこし)に飛頭蠻と謂(いふ)ものなり。
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轆轤首の話に大きな悲劇は見當らぬけれど、大體不幸な結果になつてゐる。さうならぬのは「耳囊」の話で、遠州氣賀邊の有德な百姓の一人娘であつた。申し分のない容貌であるのに、年頃過ぎても良緣がなく、あの娘は轆轤首だといふ噂がぱつと立つて愈々むづかしくなつた。娘が轆轤首であることは兩親も知らず、本人に尋ねて見ても、いささかの覺えもない、時に山川を見𢌞る夢を見ることがありますが、その時に首が拔けるのでせうか、といふだけで、更に取り留めたところもない。娘の伯父に商用で年々江戶へ出る者があり、かういふ養子は江戶を尋ねた方がよからうといふことで、江戶へ出た際にいろいろ人にも話して見たが、容易に養子志願者も現れなかつた。ふと旅宿のつれづれに呼んだ貸本屋が、年頃も態度も氣に入つたところから、これに交涉して見たら、轆轤首などは更に恐れず、この話は忽ち纏まつた。婿入りの支度萬端は伯父の手でとゝのへ、娘の家に乘り込んだ。轆轤首の事は全く風說に過ぎなかつたので、夫婦仲も睦ましかつたが、娘の家では多少疑念を懷いたものか、なかなか婿の江戶表へ來ることを許さぬ、十年ほどたつて子供が何人も出來てから、はじめて江戶へ出て舊知の許にも挨拶に來た。――これは實際轆轤首でないのだから、幸福に終るのが當然のやうなものの、とにかく一つだけ異彩を放つてゐる。
[やぶちゃん注:私は江戸南町奉行根岸鎭衞の「耳囊」全千話の電子化訳注を完遂している。やっとそれがまともに役に立つ時が来た感じがする。どうか「耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」をご堪能あれかし。]
「武野俗談」に見えた本石町の鐘撞きの娘なども、色白の縹緻(きりよう)よしで、十二三の頃から手習ひの師匠に通ふのに、拔き衣紋にして首筋が長く見えたところから、轆轤首の評判を立てられた。鐘撞きといふ職業は「鐘に恨みは數々ござる」で、人の恨みを受ける。その報いが娘に來たのだといふ。以前入婿を取つた晚にその首が自然と拔け出て、六尺屛風の上に上つてにこにこ笑つた、婿はこれを見て逃げ出したといふやうな、まことしやかな風說まで流布されて、誰も世話を燒く人もなかつたが、やはり時節因緣で、神田白壁町の山口丈庵といふ醫者の妻になつた。轆轤首の噂は馬場文耕も「みな是そら事なり」と云つてゐるくらゐだから、跡形もない話だつたのであらう。倂し單なる話として見れば、貸本屋を婿に取つてめでたく市が榮えるよりも、智者の妻になつて無事に終る方が面白い。轆轤首が屛風に上る話は「北窓瑣談」にもあり、につこと笑ふ例は「百物語評判」にある。獨創的な行動を取ることはむづかしいらしい。
[やぶちゃん注:「武野俗談」「ぶやぞくだん」と読む。近世講談の祖とされる講釈師馬場文耕(享保三(一七一八)年~宝暦八(一七五九)年)が宝暦六(一七五六)年に著した「當世武野俗談」のこと。因みに彼は『異説を申し触らして講釈し、書本を貸したこと』『を理由に「江戸市中引き回しの上、打ち首獄門」の判決が言い渡され』、即日、『小塚原刑場にて処刑された』『近世日本の言論弾圧の犠牲者』であることを知る人は少ない(以上の引用はウィキの「馬場文耕」に拠った)。
「本石町」「ほんごくちやう」で、恐らくは現在の東京都中央区日本橋本石町であろう(グーグル・マップ・データ)。私は当該書を所持しないので推定に留めておく。
「鐘に恨みは數々ござる」長唄「京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)」の一節。恋慕の相手安珍を隠した鐘に対する清姫の恨みを言う下り。この「鐘」に「金」をかけて金銭に対する恨みに転じてしまったことから、元が鐘と知らぬ連中が多くなってしまったのは、清姫の恨みも現代には通じぬということか。]
轆轤首の話の多くは極めて單純なもので、一篇の筋をなすに足らぬが、「怪醜夜光魂」の話には若干の曲折がある。奧州桑田村の百姓作助なる者、藤田村の太郞八の娘に懸慕して口說いたけれど、作助には已に女房があるので、娘はどうしても合點せず、そのうちに藤田村の庄屋次郞太夫のところへ緣付いてしまつた。或夏の夜半に次郞太夫が目をさまして蚊帳越しに見ると、誰とも知らぬ男が窓から覗いてゐる。月明りによく見れば、見知つた顏のやうであるが、首ばかりが蝶鳥の如く飛び𢌞り、容易に窓の内には入つて來ない。次郞太夫は大膽不敵の男だから、手近にあつた煙草盆の銅の灰吹きをひそかに持ち、蚊帳を出て待ち受け、この首が窓から内に入るところを目がけて、灰吹きを投げ付けた。覘ひは外れたけれど、首はどこへか消え失せる。女房は首の内に入つた時、大いにおびえたので、搖り起して尋ねると、嘗て作助から云ひ寄られた子細を話し、今夜の夢に作助があの窓から覗き、首ばかり拔け出て内へ入らうとしましたので、恐ろしさに大聲を揚げました、と答へた。さう云はれて見れば、面體は折々見た桑田村の作助に相違ない。彼は今もなほわが妻に執心して通ふのであるか、それとも聞き及ぶ轆轤首であるか、もしまた來るやうなら、その時こそ目にもの見せてやらうと、四五日は夜も寢ずに待つて居つたが、その後は絶えて來ず、女房も先夜のやうな恐ろしい夢を見なくなつた。然るにその頃から、村中に物の紛失する事件が頻りに起り、いろいろ詮議をしてもわからない。次郞太夫が或時五六里ほど隔てたところまで行き、夜おそく桑田村を歸つて來ると、向うから風の如く宙を飛んで來るものがある。いつかの轆轤首の事を思ひ出し、隱れて樣子を窺ふに、作助の首が帶のやうなものを銜へて、彼の家の窓に入つた。その早さは非常なもので、あとに白い虹に似たものを細く引いてゐる。次郞太夫はこれだけは見屆けて家に歸り、所の者四五人と相談し、座敷にいろいろな道具を取りひろげ、その内に半弓の上手を隱し、一同寢たふりをして夜の更けるのを待つてゐた。果して丑の刻(午前二時)ばかりに彼の首が飛び入り、そこにあつた財布を銜へようとするのを、透さず半弓を射掛けたから、僅かに手ごたへして、首はいづれへか飛び失せた。翌日桑田村へ行つて噂を聞けば、作助は昨夜死んだといふ。作助の女房は死骸に取り付いて歎きつゝあつたが、半弓の一件を知つて大いに怒り、その人達を罵つてやまぬ。次郞太夫は所の者を集めて盜難品を書き出させ、作助の話を委しくしたので、作助の道具を調べて見ると、盜まれたと思つた品は全部そこにあつた。女房もこれを見てはさすがに面目を失し、井戶に身を投じて亭主の跡を追つた。これは「怪醜夜光魂」の云ふ通り、轆轤首中の珍種であるが、詩趣は精々乏しい。作助は天性の轆轤首を利用して盜みを働いたものとすれば、次郞太夫の窓を覗いたのも、果して戀の恨みであつたか、何か銜へ去る目的であつたか、俄かに斷じにくくなつて來る。
[やぶちゃん注:「怪醜夜光魂」「かいしふやかうのたま(かいしゅうやこうのたま)」と読む。花洛隠士良久なる作家の浮世草子で享保二(一七一七)年に京都で板行されている。この原話は国立国会図書館デジタルコレクションのここで画像で読める。私には却って特異点でなかなか興味深い。
「灰吹き」煙草盆に付属した筒で、煙草の灰や吸い殻などを落とし込む容器。一般には竹筒であるが、ここは銅製の堅固なもの。
「覘ひ」「ねらひ」。「狙ひ」のこと。
「半弓」和弓の長さによる分類で、六尺三寸(約百九十一センチメートル)を標準としたもの。七尺三寸(約二百二十一センチメートル)の大弓(通常の和弓のこと)よりも短いものを言う。威力は大弓に劣るものの、コンパクトで座って引き放つことが出来、この場面のように屋内に隠れていて、しかも即座に射撃するには最適のものである。
「精々乏しい」この「せいぜい」は「好意的に多く見積もろうとしても」という謂いであろう。]
小泉八雲は「怪物輿論」によつて轆轤首の話を「怪談」の中に書いた。今までの話のやうに簡單でないから、要約するのが困難であるが、甲斐の山中に露宿しようとした同龍和尙が、樵夫に逢つてその小屋に伴はれる。そこには四人の男女が爐火にあたつて居つたが、和尙は主人の身の上話などを聞いた後、小さな部屋に導かれて、徐ろに讀經をはじめた。讃經を了へて寢に就く前、筧の水を飮みに出ようとして、行燈の明りで五人の寢姿を見ると、どれにも頭がない。この小屋は恐るべき轆轤首の住家で、彼等は首だけ煙出しから拔け出て、森の中で遊んでゐるのであつた。
[やぶちゃん注:「怪物輿論」「くわいぶつよろん」は十返舎一九著になる読本で享和三(一八〇三)年板行。小泉八雲の「怪談」の「轆轤首」(“KWAIDAN:STORIES AND STUDIES OF STRANGE THINGS by LAFCADIO HEARN ROKURO-KUBI”英語原文はこちらがよい。私がネット開始からしばしばお世話になっている英文テクスト・サイト“Gaslight”内)の原話本文はかなり長いので本章の最後に載せる。八雲の「轆轤首」は私の八雲体験の原初的トラウマの最たるものである。]
轆轤首の首が拔けてゐる時、その胴を他の場所へ移してしまへば、首は再び胴に歸らぬと云はれてゐる。同龍和尙は主人の足をつかんで、窓から外へ押し出した上、森の方へ行つて見た。ここで五つの首と和尙との間に烈しい戰ひが起り、刀刃を携へぬ和尙は手頃の若木を引き拔いてなぐり付けた。
四つの首は逃げ去つたが、胴に歸り得ぬ首だけは、必死になつて和尙に飛びかゝり、最後に左の袖に食ひ付いて、どうしても離れなかつた。そのうちに夜が明けてしまつた。和尙はそのまゝ旅を續け、信州の諏訪まで來たが、衣の袖に首をぶら下げた和尙の姿は、見る者を驚かし、遂に捕へられて嚴重な取調べを受けた。結局それが和尙の申し立てた通り、轆轤首であることが判明して、無事解放されたばかりでなく、國守の屋敷に於ていろいろ款待饗應され、褒賞を賜はつて退出した。一話はこれで十分だと思ふのに、まだ餘沫がある。
同龍和尙は諏訪を去つて一日か二日目に、寂しい場所で追剝ぎに出逢つた。和尙は賊の云ふままに衣を脫いで渡したが、その袖にぶら下つてゐるものに氣が付いた時、追剝ぎの方がびつくりして聲を揚げた。追剝ぎは自分の立場から割り出して、和尙を同じ泥棒仲間と誤認し、この首をおれに賣つてくれ、おれの著物とこの衣と取り替へよう、と云つた。お前が是非と云ふなら、首も衣や上げるが、これは人間の首ではない、化物の首だ、これを買つてあとで困つても、わしは知らぬぞと云つても、追剝ぎは本當にせず、首代として五兩出した。さうして暫く化物の僧となつて渡り步くうちに、諏訪の近くに來て、はじめて首に關する實說を耳にし、急に轆轤首の亡靈の祟りが恐ろしくなつた。もとのところへこの首を返し、胴體と一緖に葬らうと決心した彼は、遂に甲斐の山中の小屋へ行く道を見出したが、そこには誰も居らず、胴體も見付からなかつた。已むを得ずその首だけを小屋のうしろの森に埋め、この亡靈のために施餓鬼を行つた、といふのである。轆轤首も長いが、この話も長い。少し長過ぎるくらゐである。轆轤首だけを主にして、これほど長きに亙る話は、恐らく他にあるまい。
[やぶちゃん注:以上の原話である十返舎一九「怪物輿論 卷之四」の「轆轤首の悕念(きねん)却つて福(さいはひ)を報(むく)ふ話(はなし)」を示す。参考底本には一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲作・平川祐弘編「怪談・奇談」の「原拠」に載るものを用いたが、恣意的に正字化し、本文の表記も読み易くするために歴史的仮名遣等に準じて正しく操作した。読みは原典の一部自体が歴史的仮名遣を誤っていたり、読みを誤読したりしているので、オリジナルに必要と判断した箇所にのみ附した(読みの内、(カタカナ/ひらがな)となっているものは二様の読みが参考底本に附されてあるのを非常に面白く感じ、それを参考にしてかく附したものである(参考底本ではいずれも概ね平仮名)。読み易さを第一として、本文のカタカナ(殆んど「バ」「ハ」「ミ」)句読点はオリジナルに変え、直接話法の鍵括弧を附し、そこは改行して読み易くした。一部の原典の漢字の誤りを勝手に訂正し、一部の清音を濁音化した。原典とかなり違うが、より正確な表記、正確な読みとした自信は、ある。注は附さぬ。
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轆轤首悕念却報福話
九州菊池の侍臣(じしん)磯貝平太左衞門武連(たけつら)なるもの、農祖(のうそ)より相(あひ)傳へて、弓馬の道、他門に越(こえ)、鎗術(さうじゆつ)に精(くはし)く、代々力量の血緣(けちみやく)連綿として、雷名(らいめい)頗(すこぶる)遠近(ゑんきん)に漏達(ラウタツ/もれいたり)し。永享の亂に屢(しばしば)武功を露(あらは)して、各國に威を震(ふる)ふといへども、主家、終(つひ)に大内義弘が爲に滅亡せしかば、武連、それより薙髮(ちはつ)して囘龍(くわいりやう)と名乘(なのり)、空(くうの)門に入(いり)て、斗藪行脚(とさうあんぎや)をこゝろざし、面(おもて)に皁紗(カウシヤ/くろきころも)を着すといへども、性質は往昔(むかし)に變らず、剛強狼戾(カウキヤウラウレイ/がむしやもの)にして、深山幽谷曠野といへども、夜に入れば、草を補(しき)て安宿(あんしゆく)し、吾妻(あづま)の方へ杖(そもと)をすゝめて出行(いでゆく)ほどに、甲斐の山中に着(いた)り、既に日暮ければ、岩上(ぐわんじやう)に袖うち敷(しき)て、木の根に枕し、寛々(くわんくわん)と安臥(あんぐわ)し居たり。時に樵夫(シヤウフ/きこり)とおぼしく、身に綴衣(つづれごろこも)を引まとひ、柴を束(つかね)て負(おふ)たるが、忽然と出來り、囘龍を見て、いふ。
「足下(そくか)、何人なれば、斯(かか)る山中に寄宿(きしゆく)して、惡獸の害を恐れざるや。」
囘龍、いふ。
「我、雲水の旅客(りよかく)なれば、行路、難の山川にあらざる事を觀念し、患苦(くはんく)を好(このん)で行(ぎやう)とすれば、敢て一命をも惜むに非ず。去(さり)ながら武門に生立(おひたち)、聊其藝にも達(わた)りたれば、何ぞ徒(いたづら)に畜獸の餌(ゑ)に遭(あは)んや。是を以て奈何なる邊土幽辟(ゆうへき)の地に臥すとも、曾而(かつて)恐るゝ事なし。」
と。
樵夫、いふ。
「誠に御坊は狼戾(らうれい)なり。されど君子は危(あやふき)に近よらず。好(このん)で怪を索(もとめ)給ふは、眞勇(しんゆう)丈夫の所爲に非ず。我(わが)茅屋いぶせくは候へ共、投宿あつて、羈旅の勞(らう)を休(やすめ)給へ。」
と。
懇請、他事なく聞へければ、囘龍、怡悅(いえつ)し、
「さあらば、足下の詞に隨ひ、一夜(ひとよ)の報謝に預るべし。」
と。
打連(うちつれ)て九折(キウセツ/さかみち)の道をたどり、岩角を攀(よぢ)り、木のねを傳ひて、頓(やが)て一筒(ひとつ)の弊屋(あばらや)に着(いた)り視るに、いかにも古木苔蒸(むし)て寂々(せきせき)たる軒墀(ケンチ/のきには)の邊(ほとり)、筧つたふ水を結(むすん)で足を泛(そそ)ぎ、竹の編戶、押明(おしあけ)て内に入るに、男女(なんによ)四、五人打擧(うちこぞり)て、榾(ほた)折(をり)くべたる圍爐裏の火にまたがりながら、囘龍を見て、膝を折、手を束ねて、蹲踞(うづくまる)。囘龍、主(あるじ)の承仕應答(シヤウジオウタウ/たちゐふるまひあひさつ)、尋常ならざるを感賞し、其長成(しやうせい)を商問(せめと)ふに、主、いふ。
「我々、此山中に隱遁して、擧家(キヨカ/かない)五人、糧(かて)を啗(くら)ひ、水を呑(のみ)て、祥(さいはひ)に露命を繫ぎ、潦倒(ラウタウ/おちぶれたる)の住居(すまひ)をなすといへども、以前は當國の主將に仕(つかへ)て、肖(かず)ならねども重役を勤(つとめ)、聊(いさゝか)弓馬に名たゝる者の嫡孫なり。我、暗昧(あんまい)にして父の家業を受繼しより、色に耽り、酒に溺れ、剩(あまつさへ)、諂諛(テンユ/へつらひおもねる)人を欺くの舌頭に載(のせ)られ、無名の刑罪を管内(クハンダイ/りやうない)に施行(セギヤウ/ふれながら)し、人をして打屠(うちほふ)る事、幾許(いくばく)の數をしらず。其積惡のなす所にや、今、身に報ひて如斯(かくのごとく)零落し、雜戶(ざつと)に堕入(おちいり)、千辛萬苦し、あはれ再び父祖の家名を起さんとするに、不期(フゴ/おもひもよらぬ)の故障(さはり)出來りて、兎角、心神(しんじん)を安んずる事、能はず、因玆(これによつて)、かゝる罪障の深きを愁ひ、前禍(ぜんくわ)を追悼のあまり、山中通行の旅人(りよじん)を止(とどめ)て、是に供養し、懺悔(さんげ)滅罪の功德を仰ぐ。」
と。
囘龍、聞(きき)て、
「實(げに)さる事もあるものなり。凡(およそ)、積善に餘慶、積惡に餘殃(よわう)ある事、唐書(とうしよに)曰(いふ)、雍州(ようしう)の孝政が蜜蜂(ミツホウ/みつはち)に湯を泛(そそ)ぎて、其仇に沒落し、又、類篇に梅香(ばいこう)は鼈(かめ)を活(いか)して熱病を痊(いや)したり。鳥獸蟲魚といへども、是に報ずるの速(すみやか)なるは、則、天吏の默報(モクホウ/てんのむくひ)なり。况んや萬物の靈長たる人間に於て其報を全(ひか)ざらんや。北辰神呪經(ほくしんじゆきやう)に曰、暴虐濁亂(じよくらん)にして諸(もろもろ)の群臣を縱(ほしいまま)にし、百姓を酷虐(コクギヤク/むごくしいたげ)せば、我、能(よく)、是を退け、賢能(けんのう)を召(めし)て其位に代(かへ)んと。是(こゝ)を以て見る時は、國王のみに非ず、諸侯、太夫、庶人といへども、怨枉(エンワウ/うらみよこしま)を保(たもち)、民物(みんもつ)を枉(まげ)、無名刑罪を施し、人を殺害(せつがい)せしむる逆罪、爭(いかでか)、其報を免るゝ事、有んや。阿含經(あごんきやう)に慚愧(ザンキ/はぢはづ)の二字を解(とき)たるは、則、慚悔(さんげ)の意(こころ)なり。足下、今、往(わう)を改め、來(らい)を修(しゆ)し、慚愧懺悔(ざんぎさんげ)し、滅罪の功德を願ふ、近ころ、奇特千萬なり。愚僧、因(ちなみ)に諸佛を請じ、終夜(よすがら)、讀經念誦して、その驗(けん)を祈るべし。」
と。
對話、數刻(すこく)を費し、頓(やが)て、囘龍、別間の端居(はしゐ)に出て、安居(あんご)し、一心に經を讀、鈴、打ならし、信念勤行の聲、稍(すこ)しも絕間なかりけるが、夜も深々(しんしん)と更渡(ふけわた)り、淸風(せいふう)、稠木(ちうぼく)のうちに戰(そよ)ぎ、月光、露のきらめくに移りて、蟲の音(ね)、冷々(れいれい)と心耳(しんに)を澄し、筧の水の歷々たるに、囘龍、頃刻(しばらく)、讀經をとゞめて、感情を催し、猶、左右を顧るに、擧家(キヨカ/かない)、おのづから閑寂(カンジヤク/しづか)にして、各(おのおの)睡眠(スイミン/ねふる)の體(てい)なりける。
囘龍、茶水を需(もとめ)んとて、何心なく破襖(やぶれぶすま)、引明(ひきあけ)、勝手のかたを編見(すかしみ)るに、こは、怪(くわい)なるかな、主を初め、宅眷(タクケン/かないのもの)すべて五人ながら、體(からだ)のみ臥(ふし)て、その首なし。
囘龍、懈慱(ゲデン/びつくり)し、
「かゝる奇怪は、正敷(まさしく)、狐狸の我を誑(たぶらか)すものなる歟(か)。但しは、かの傳聞(つたへきく)、轆轤首といへるにや。搜神記に曰、『尸頭蠻(シトウバン/ろくろくび)あり。頭(かしら)飛去(とびさつ)て後(のち)、其身を別の所に移せば、頭歸て三度、地に落(おち)、息(いき)、喘(あへぎ)、急にして死す。』と謂(いへ)り。診(こころみ)に其(その)如くして慰(なぐさみ)ん。」
と。
探寄(さぐりよつ)て、主が體(からだ)をひき起し、壯前(そうぜん)に持出(もちいだし)、投屠(なげほふり)て、猶、その動靜(やうす)を點檢(テンケン/ぎんみ)せんと、暗(アン/ひそか)に立出(たちいで)、爰彼所(ここかしこ)を伺ひ見るに、斬墀(ケンチ/には)を離れし樹林のこなたに、人の聲して、蟲物(ちうもつ)を喰(くら)ふ、五つの首、あり。
主の首、さゝやかに云やう、
「今宵の旅僧こそ、全身(ゼンシン/そうみ)、肥(こえ)、盛んにして、是を啗(くら)ふに、恐らくは、飽滿(ハウマン/あきみつ)せん。我、なまじゐに、いらざる事を、不問語仕出(とはずがたりしだ)して、渠(かれ)、經をよみ、稱名(しやうめう)を唱ふる故に、近寄事、叶(かなひ)がたく、空(むなし)く彼を喰(くら)ふことの延引せり。最早、旅僧、眠りつらん。誰(たれ)か見屆來るべし。」
と、詞の中(うち)より一箇(ひとつ)の首、點頭(テントウ/うなづく)して、忽に飛去(とびさり)、稍あつて立歸り、いふ。
「旅僧、如何せしや、別間に見へず。其上、何者の仕業にや、主の身體(しんたい)、是、なし。」
と。
急に告(つげ)て、走去(はしりさる)主の首、大に悲傷慟哭(ヒシヤウドウコク/かなしみいたみさけびなく)し、
「いかなる事ぞや、我、身體を失ひなば、再び合(がつ)する事、叶はず。既に死に臨むの外なし。必定、彼(かの)旅僧が所爲(しわざ)、紛れなし。我、俱に渠(かれ)を死地に誘引せずんば、あるべからず。」
と。
忿怒(フンヌ/いかる)を顯し、飛出(とびいで)しが、囘龍、傍(かたはら)に跼蹐(キヨクセキ/ひくかまへ)し居(ゐ)たるを見つけて、
「すは、旅僧こそ、爰に、あれ。」
と、五筒(いつつ)の頭(かしら)、一齊(いちどき)に飛還(とびかへ)るを、囘龍、手頃の樹木を引拔、打振(うちふつ)て、前後左右に薙𢌞(なぎまは)る。
威(いきほ)ひ、猛(もう)に激しければ、主の首、忽(たちまち)に打倒され、殘りし首も、一同に逃去れば、囘龍、悠然と、もとの弊室(へいしつ)に歸り見るに、擧家(かないの)者、皆、俱に、其頭(かしら)、本體(ほんたい)に復し居(をり)たりけるが、囘龍を見て、
「あな恐しや。今の法師こそ、又、我々を打斃(うちたふ)しに來るなれ。」
と。
狼敗(ラウバイ/うろたへ)し、逃惑(にげまど)ふ。
囘龍、靜に頭陀袋(づだふくろ)打懸(うちかけ)、杖(つゑ)を曳(ひき)てたち出(いづ)るに、主の首、再び飛出(とびいで)、
「汝、我身體を屠(ほふ)りしゆゑ、我、本(もと)に歸る事、能はず。看よ、汝が首筋より、喰切(くひきり)、其五體を、奪ふべし。」
と。
牙を嚙(かん)で喰付(くひつき)かゝるを、打倒せば、飛上つて、囘龍が袂(たもと)に喰付(くひつく)。
敲(うて)ども放れず、突(つけ)どもたゆまず、唯、其儘に死(しし)たりける。
不敵の囘龍、わざと、其首を袂に附て、事ともせず、
「我(わが)編參(へんさん)の家土產(いへつと)、斯(かか)る怪異に出合たる、其證に携(たづさへ)ん事、究竟(くつきやう)なり。」
と、强而(しいて)是を取捨ず、自後(それより)、信州諏訪に着(いた)り、終日(ひねもす)、城下を徘徊せしに、往來の男女、囘龍が袂に生首の下(さが)りたるを見て、各(おのおの)怕(おそ)れ、魂(たましひ)を飛(とば)し、神色(いろ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を失ひ、逃走る。
官吏(クハンリ/やくしよ)の諸士、此體(このてい)を不審(いぶかしく)、囘龍を捕(とらへ)て、いふ。
「汝、那里(いづく)にてか、人を害し、逃(にげ)きたる者と覺ゆるなり。有體(ありてい)に申(まうす)べし。陳疏(チンソ/あらがふ)せば、縲紲(ルイセツ/なはめ)の誡(いましめ)にかけ、糺明すべし。」
と、捕吏(ホリ/とりて)に命じ、
「官府(クハンフ/やくしよのところ)に率(ひか)ん。」
と、ひしめきける。
囘龍、人々を看て、怪異に遭ひたる始末を詳(つまびらか)に物語るに、猶、
「其(その)分說(いひわけ)、不審なり。」
と、聊も信ぜずして、捕吏、既に攻擊(せめうた)んとす。
其裡(そのうち)、頭(かしら)取(とり)たる侍、囘龍が袂に附たる首を更見(あらため)て、いふ。
「誠に旅僧(りよそう)が分說(いひわけ)、分明(ぶんみやう)なり。「南方異物志」に曰、『飛頭蠻(ヒトウバン/ろころくび)は項(くびすぢ)に赤痕(セキコン/あかきすぢ)あり。』と。今、此首に赤痕あり。甲斐の國の山中に、かゝる奇怪ある事、粗(ほぼ)風聲(フウセイ/うはさ)に聞へたり。去(さる)にても、希代の饒勇(ゼウユウ/ふてき)、法師の所業(しよげふ)にあらず。」
とて、其長成(ちやうせい)を訊問し、官吏に偈(いざな)ひ、吹擧(すいきよ)して、褒賞を與へければ、囘龍、面目(めんぼく)身に餘り、國主の仁慈寛容なるを感服して、そこを立出、上州路へさしかゝるに、或山中にて盜賊に出合、連(しきり)に酒錢(しゆせん)を乞(こは)れて、囘龍、いふやう、
「我、一所不住にして樹下一宿の觀行(くはんぎやう)なれば、何ぞ路金(ろぎん)の貯(たくはへ)あらん。餘人を待(まつ)て乞(こふ)べし。」
と索笑(サクシヤウ/ほほゑむ)して取敢(とりあへ)ざれば、賊、怒(いか)つて、
「汝、否(いな)む事なかれ。我黨、一囘(ひとたび)舌頭を動(うごか)して、空(むなし)くせし例(ためし)なし。路用の過餘(クワヨ/あまり)なきに於ては、着類(きるい)脫捨(ぬぎすて)、通るべし。」
と。
聞(きく)より、囘龍、態(わざ)と其意に應諾し、鼠色木綿布子(ぬのこ)を脫捨、
「左あらば、足下へ與ふべし。」
と。差出したるに、賊徒、其袂に下りし首を見て、大に恐怖し、
「汝、桑門(ソウモン/しゆつけ)の身として人を害し、怨恨をひき、斯の如く、頭(かしら)に念慮止(とどま)り、你(なんぢ)に附添(つきそふ)ものならん。されど、是を晏然(アンゼン/なにごとなく)と着(ちやく)しおるは、誠に不敵大膽の法師也。我、其强勢を感ずる餘り、我衣服をして是に更(かへ)ん。」
と、賊が着たるを囘龍に與へ、かの鼠色の木綿布子を、賊、引とりて、是を着し、
「我黨、累年、此業を以て事とするに、人を怕れしめん事、かゝる衣服の怪異にこそ、言はずして强(きやう)を示す究竟(くつきやう)の一物なり。」
と。猶、囘龍に方金(ハウキン/こつぶ)を與へ、道路を送(くり)て立逝(たちさら)しむ。囘龍、心中に思はざる怪事(くはいじ)より、彼是(かれこれ)德附(つき)たるを喜び、
「幸(さいはひ)にして役害物(やくかいもの)を讓(ゆづり)たり。」
と、抃笑(ベンシヤウ/てうちわらふ)して立別れぬ。
此賊、后(のち)に、甲斐の國に着(いた)り、囘龍が話に據(より)て其影跡(エイセキ/あとかた)を尋(たづぬ)るに、如何(いかが)しけん、荒廢(あれすたれ)たる空家(クウカ/あきいへ)のみ殘りて、其人もなく、其原(ゲン/もと)を知や者も、なかりける。賊、かの首を土中に堙(うづ)み、墳(しるし)を建(たて)て、今も甲斐の山中に「轆轤首の墳(つか)」として、草莽(ソウボウ/くさはら)に殘れりと、言傳(いひつた)ふ。
猶、此ろく轤首といふ事は、元(げん)の陳孚(ちんぷ)が記事の詩に曰、
鼻飮如瓴甋 頭飛似轆轤
是、南方尸頭蠻(シトウバン/ろくろくび)の詩なり。依(よつ)て、其號(な)、此(ここ)に本(もとづ)くものならん。
又、「瀛涯勝覽(えいかいしやうらん)」の「落頭民(ラクトウミン/ろくろくび)」、「本草綱目」の「飛頭蠻(ヒトウバン/ろくろくび)」其外、「博物志」・「星槎勝覽(せいさしやうらん)」等(とう)に、粗(ほぼ)記す所なれば、敢てなき例(ためし)にもあらざるべし。
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「鼻飮如瓴甋 頭飛似轆轤」の箇所は「鼻に飮んで瓴甋(れいてき)のごとく 頭(かしら)飛んで轆轤(ろくろ)に似たり」と参考底本では訓じてある。]