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2017/01/06

柴田宵曲 妖異博物館 「人身御供」

 

 人身御供

 

 日本の人身御供は「今昔物語」に話が二つあつて、大體この型を出られぬらしい。美作國の例は、毎年一度の祭りに生贄を供へる。それには國人の娘の未だ嫁せぬ者を立てるといふのが、久しい間のならはしになつてゐた。たまたま東の方からこの國に來てゐた勇猛の男が、この生贄になるべき娘を見ていたく同情し、その親に向つて、この君を我に得させよと申し出る。男はかねてから多くの犬を飼ひ、山に入つて猪鹿を狩るのを仕事にしてゐたから、その中よりすぐれた二疋を選み出し、山で捕へて來た猿をこの犬に食はせることを仕込んだ。たゞさへ仲の惡い犬と猿を、殊更にさうやつて訓練したので、猿さへ見れば容赦なく嚙み殺すやうになつた。愈々當日になつて、宮司以下多くの人がやつて來て、生贄を入るべき新しい長櫃を寢屋に舁き入れる。男は狩衣袴ばかりを身に著け、かねて研ぎすました一刀を身に引き副へ、犬二疋を左右に置いて長櫃に入る。生贄の娘とばかり信じた國人は、鉾榊鈴鏡などを持つ者雲の如く、長櫃を神前に据ゑ、長櫃を結んだ紐を切つて置いて、宮司等は外へ出た。男が長櫃を少しばかり開いて覗くと、七八尺もあらうといふ大猿が橫座に居り、左右には猿が百疋ばかりも居竝んでゐる。そればかりではない。前の俎板に大きな刀を置き、鹽酒鹽などを用意して、人が鹿などを料理する時のやうな有樣である。やがて猿どもが長櫃を開きにかゝる途端、男は俄かに飛び出して、左右の犬に食ひ居れ食ひ居れと命じた。犬は即座に飛びかゝる。男は氷のやうな刀を拔いて、大猿を俎板の上に引き伏せ、頭に刀を宛てて、しや頸切つて犬に食はせう、と云ひ放つた。猿は白い齒をあらはし、淚を垂れて哀願するやうに見えたが、男は耳にも聞き入れず、汝が多年人の子を食うた代りに、今日只今殺してやる、神ならば我を殺せ、と云つて刀を頭に宛ててゐる。二疋の犬はこの間に多くの猿を嚙み殺した。遁れた猿は木に登り山に隱れ、仲間を呼び集めて啼き叫んでも何の役にも立たぬ。宮司の一人に神託があつたのはこの時である。われ今日より永く生贄を取らじ、ものの命を殺さじ、この男を咎むるな、生贄の女をはじめ、その父母親類にも祟りをするな、たゞわれを助けよ、といふことであつたので、宮司等はぞろぞろと社内に入つて來て、男に向ひ大猿の命乞ひをする。男は、自分の命は惜しくない、多くの人の代りに此奴を殺す、と云つて承知しなかつたが、宮司等が言葉を盡して誓言するので、よしよし、今後かやうな眞似をするな、と云つて漸く赦した。猿は逃れて山に入り、男は家に歸つて生贄の娘と夫婦の契りを全うする。その家は何の祟りを受けることなく、生贄を立てることもそれきり止んだ。

[やぶちゃん注:『日本の人身御供は「今昔物語」に話が二つあつて、大體この型を出られぬらしい』これは「今昔物語集」の「卷第二十六 本朝宿報」に連続して載る「美作國神依獵師謀止生贄語 第七」(美作(みまさか)の國の神、獵師の謀(はかりごと)に依りて生贄を止めし語(こと) 第七(しち))と「飛驒國猿神止生贄語 第八」(飛驒の國の猿神(さるがみ)、生贄を止(とど)めたる語 第八)を指し、以上は前者の内容である。二話ともに(特に後者)かなりの長尺であるので、本章の最後の注に原典を配することとする。

「七八尺」二メートル強から二メートル四十二センチほど。

「橫座」「よこざ」。正面の座席。上座。

「鹽酒鹽」後掲する原典を見ると判るが、これは「酢鹽(すしほ)・酒鹽(さかしほ)」で「鹽」は塩ではなく、調味料の意であり、肉を喰らう際に和える酢と酒のことを指す。

「しや頸」そっ首。「しや」は憎み罵る意を添える接頭語。]

 生贄を立てる場合に、未だ嫁せぬ娘を選ぶのは、古今東西を通じて變らぬらしく、素戔嗚尊が稻田姫を救ひ給うた時も、ペルセウスがアンドロメダの命を助けた時も、皆さうであつた。西鶴が「諸國はなし」に書いたのは、慶安二年春の話で、傘に性根の入つたといふ怪しげな神であるが、やはり「うつくしき娘を、おくら子にそなふべし」と云つてゐる。然るに「今昔物語」のもう一つの話は、この點からして已に違つてゐる。話が長いから肝腎なところだけにするが、一人の旅僧が飛驒の國で不思議な人里に出る。こゝで迎へられた家に二十歳の娘があり、種々款待を受けるが、それが後日生贄に立てられる前提なのであつた。年に一人の生贄であることは同じでも、その條件はよほど寛大で、かういふ風來坊の名代でも差支なかつたらしい。刀を隱し持つたこの生贄が、猿を征服して神社破却に了る順序は、美作國の話とはゞ同じく、一介の旅僧はこの里の長者となり、生贄に立てられる以前、世話をしてくれた女を妻として安樂に日を送る。めでたしめでたしの結末である。

[やぶちゃん注:「慶安二年」一六四九年。

「傘に性根の入つたといふ怪しげな神」これは井原西鶴(寛永一九(一六四二)年~元禄六(一六九三)年)の雜話物の代表作「西鶴諸國ばなし」の「卷一」の四番目に配されてある「傘(からかさ)の御託宣(ごたくせん)」である。板行は貞享二(一六八五)年正月。話柄内時制の慶安二年は西鶴は未だ七歳である。書名は題簽に「西鶴諸国はなし」とあり、それで現在も通用しているが、目次の項には「大下馬(あふげば)」(読みはママ)として肩書に「近年諸國咄(きんねんしよこくばなし)」とあって、以降の目次も同様であるから、書名は「近年諸國咄 大下馬」が正式である。以下に原典を示す。底本は平成四(一九九二)年明治書院の「決定版 対訳西鶴全集 5」の原文部分を用いたが、読みは最小限に留めた(表記は本文も読みもママ)。踊り字「〱」は正字化した。

   *

    傘の御詫宣

 慈悲の世の中とて、諸人(しよにん)のためによき事をして置(をく)は、紀州掛作(かけづくり)の觀音のかし傘(からかさ)、弐拾本也。昔よりある人寄進して、毎年張替(はりかへ)て、此時迄掛置(かけをく)也。いかなる人も、此邊にて雨雪(あめゆき)の降(ふり)かゝれば、斷りなしにさして歸り、日和(ひより)の時律儀にかへして壱本にてもたらぬといふ事なし。

 慶安弐年の春、藤代(ふじしろ)の里人、此唐笠をかりて、和哥(わか)・吹上(ふきあげ)にさし掛りしに、玉津嶋(たまつしま)のかたより、神風(かみかぜ)どつと此傘(からかさ)とつて、行衞もしらずなるを、惜(をし)やとおもふ甲斐(かい)もなし。吹行(ふきゆく)程に、肥後の國の奧山穴里(あなざと)といふ所に落(おち)ける。

 此里はむかしより、外(ほか)をしらず住(すみ)つゞけて、無佛の世界は廣し。傘といふ物を、見た事のなければ驚き、法躰(ほつたい)老人あつまり、「此年迄聞傳(きゝつた)へたる樣(ためし)もなし」と申せば、其中にこざかしき男出て、「此竹の數を讀(よむ)に、正しく四十本也。紙も常のとは各別也。かたじけなくも、是は名聞(なにきゝ)し日の神、内宮(ないく)の御しんたい、爰(こゝ)に飛せ給ふぞ」と申せば、恐(おそれ)をなし、俄に鹽水をうち、荒菰(あらこも)の上になをし、里中(さとぢう)山入をして、宮木(みやき)を引(ひき)、萱(かや)を苅(かり)、ほどなふ伊勢うつして、あがめるにしたがひ、此傘に性根(しやうね)入、五月雨(さみだれ)の時分、社壇しきりになり出て、やむ事なし。

 御詫宣を聞(きく)に、「此夏中、竃(かまど)の前をじだらくにして、油蟲をわかし、内神(ないじん)迄汚(けがら)はし。向後(きやうご)國中(くにちう)に、一疋(ぴき)も置(おく)まじ。又ひとつの望(のぞみ)は、うつくしき娘を、おくら子(ご)にそなふべし。さもなくば、七日が中に車軸をさして、人種(だね)のないやうに降ころさん」との御事。

 おのおのこはやと、談合して、指折(ゆびをり)の娘どもを集め、それか是かとせんさくする。未(いまだ)白齒(しらは)の女泪(なみだ)を流し、いやがるをきけば、「我我が、命とてもあるべきか」と、傘の神姿(かみすがた)の、いな所に氣をつけて、なげきしに、此里に色(いろ)よき後家(ごけ)のありしが、「神の御事なれば、若(わか)ひ人達の、身替(がはり)に立べし」と、宮所(みやどころ)に夜もすがら待(まつ)に、何(なに)の情(なさけ)もなしとて、腹立(ふくりう)して、御殿にかけ入、彼(かの)傘(からかさ)をにぎり、「おもへばからだたをし目」引やぶりて捨(すて)つる。

   *

生贄譚としてはエンディングが格別にぶっ飛んで面白い。底本語注や訳を参考にして幾つかの語に注する。「藤代」現在の和歌山県海南市藤白。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、ここに出る観音寺は移転して、ここにはない。「和哥」「吹上」孰れも和歌山市内の歌枕として知られる海浜。「玉津嶋」和歌浦(藤白の北西)にある玉津島神社。「肥後の國の奧山穴里」底本の注に『隠れ里の意か。熊本県の山間部五箇庄付近か』とある。飛びに飛んだ。実に直線でも四百キロメートルを有に越えている。「無佛」仏教が伝わっていない地域。「法躰老人」底本注には『隠居して剃髪した者。土地の知識人を示す』とあるが、「無佛」で「剃髪」は笑わせる。「紙も常のとは各別也」油紙を知らないのである。「正しく四十本也」伊勢神宮の末社数にこじつけたもの。「日の神、内宮(ないく)」天照大神。「伊勢うつして」伊勢神宮内宮の祭神の分霊をこの地に勧請して。「一疋」前に出た油虫(ごきぶり)のことである。油分(あぶらぶん)を好むので唐傘を齧るのであろう。「おくら子(ご)」底本注に『御座子。おこらご(御子良子)ともいう。元来』、『伊勢神宮に奉仕する処女の巫女(みこ)をいうが、転じて一般の神社に奉仕する巫女にもいう』とある。「いな所」「異なところ」で異様な形の意。底本注に『傘のたたんだ形が、大きい陽物に似ているのでいう』とあり、愚鈍な私は思わず、膝を打ったわい。「色よき後家」好色な後家。「からだたをし目」底本注に『身体倒し奴。見かけ倒しめ』とある。

   *

『「今昔物語」のもう一つの話』先に示した「飛驒國猿神止生贄語 第八」のこと。最後に示す。]

 かういふ人身御供は、日本固有の話であるかも知れぬが、支那にも似たのがいろいろある。「烏將軍記」などもその一つで、代國公郭元振が、鹿腊を切るに際してその腕を把り、斬り落したら猪蹄であつた。猪は居民に圍まれて死んだから、羅生門のやうに腕を取り返しに來る後日譚などはない。救はれた女は郭の側室になつた。

[やぶちゃん注:「烏將軍記」唐の王惲撰。一巻。これは牛僧孺著の「幽怪録」に同話が再録されている。唐の郭元振(かくげんしん)が人身御供に捧げられた少女を助け、烏(う)将軍と呼ばれる邪神と対決する伝奇小説で、原拠は中文ブログのここで、田中貢太郎の訳「殺神記(さつじんき)」が「青空文庫」のここで読める。柴田の梗概は簡略過ぎて分かり難い。先の田中貢太郎のそれを読まれんことをお勧めする。

「鹿腊」音なら「ロクセキ」。鹿(しか)の干し肉のこと。

「猪蹄」音なら「チヨテイ」。猪(いのしし)の蹄(ひづめ)のこと。]

 最もよく日本の話に類似してゐると思ふのが「東越祭蛇記」で、これは最初から大蛇と書いてある。長七八丈、大十餘圍といふのだから、土俗の懼れるのも無理はない。この大蛇が或人の夢に現はれて、童女の年十二三の者が啗ひたい、と贅澤な事を云ひ出した。誰もそんな役を引受ける者はないので、かねて罪ある家の娘を養つて置いたりして、八月某日、これを蛇の住む穴の口へ送ると、蛇が出て呑んでしまふ。累年此の如くにして、已に九人の少女が犧牲になつた。然るに或年、その日が近付いたのに、まだ候補者が得られない。時に將樂縣の李誕の家に六人の女子があつて、男子は一人もなかつたが、娘の一人寄といふのが、私が募りに應じて行かうと云ひ出した。父母は勿論許さうとはしない。寄はよほどしつかり者だつたと見えて、生きて益するところ無くんば、早く死するに如かず、寄の身を賣らば少錢を得べし、以て父母に供養する、豈よからずや、と云ひ、父母の止めるのを聞かずに出て行つた。出づるに臨み、寄の乞うたのは、利劍と咋蛇犬とである。咋蛇犬といふ以上、蛇を敵視して恐れる特殊の犬があつたものであらう。寄は劍を懷ろにし、犬を曳いて平然と出かけたが、こゝに一箇の謀があつて、あらかじめ敷石の米餐に蜜を灌ぎ、これを穴の口に置いた。八岐(やまた)の大蛇(おろち)に於ける八つの甕と同一手段で、先づこれから啗ひ出したのを見れば、東越の大蛇は下戸だつたらしい。穴から出た蛇の頭は囷の如く、目は二尺鏡の如しとある。念のために字引を引いたら、囷は米倉ださうである。かういふ巨物が眼前に現れても、寄は少しも恐怖の色なく、犬を放つて嚙み付かせ、自分もうしろから幾太刀も浴びせかけた。蛇は痛みに堪へず、穴から踊り出て、庭に至つて死んだ。寄が穴を覗いて見ると、そこに九つ髑髏があつた。寄は悉くこれを取り出し、その蛇のために食はれたことを哀しみ、緩步して歸るとある。「緩步して歸る」がこの場合、特に利いてゐるやうに思ふ。この顛末は越王の耳に入り、遂に擧げられて后(きさき)となつたのみならず、父は將樂縣の令となり、母や姉達にもそれぞれ賞賜があつた。生贄に立つて救はれた者は、大體幸福な身の上になつてゐるが、寄はその最たる者である。天は自ら助くる者を助くといふ、何者の力も藉らず、少女の身で妖蛇を除いた寄が、意外な出世をしたのは決して偶然ではない。

[やぶちゃん注:「東越祭蛇記」「捜神記」で知られる東晋の文人政治家干宝の掌品志怪小説。「東京大學 東洋文化研究所 漢籍善本全文影像資料庫」のここで読める。岡本綺堂の「中国怪奇小説集 捜神記(六朝)」の中に「祭蛇記」として訳されているのを「青空文庫」のここで読める。

「東越」閩越(びんえつ)。現在の福建省の閩江流域の古名。

「長七八丈」二十二~二十四メートル強。

「大十餘圍」胴体の円周が成人の大人十人余りが左右の手を拡げて繫がった長さであるというのである。これは「尋(じん)」という長さの単位で古代中国では六尺五寸(約百九十七センチメートル)、本邦では六尺(百五十一・五センチメートル)又は五尺(百八十一・八センチメートル)を表わしたから、ここは二十メートルとなるが、これでは楕円形の西瓜みたようでツチノコように恰好悪いわ。

「啗ひたい」「くひたい」。喰いたい。

「將樂縣」現在も福建省三明市に将楽県として現存する。

「寄」「き」。

「咋蛇犬」「さくじやけん」と音読みしておく。「咋」は「嚙む」「喰らう」の意。

「謀」「はかりごと」。

「敷石」大蛇の巣穴の前に建立された蛇を祀った廟所内のそれ。

「米餐」「べいさん」と音読みしておく。米を炊いた供え物。

「囷」音は「キン・コン・ゴン」。

「緩步して」ゆっくりと心安くして。

   *

 以下、「今昔物語集」「卷第二十六 本朝宿報」の「美作國神依獵師謀止生贄語 第七」(美作(みまさか)の國の神、獵師の謀(はかりごと)に依りて生贄を止めし語(こと) 第七(しち))と「飛驒國猿神止生贄語 第八」(飛驒の國の猿神(さるがみ)、生贄を止(とど)めたる語 第八)を電子化する。所持する複数のものを参考に、読み易さ(特に読みを送り仮名として外に出し、読みをなるべく排除した)を旨としたオリジナル・テクストとしてある。□は原典の欠字。

   *

 美作國神依獵師謀止生贄語第七

 今は昔、美作國に中參(ちうざむ)・高野(かうや)と申す神、在(まし)ます。其の神の體は、中參は猿、高野は蛇にてぞ在ましける。年毎に一度(ひとたび)、其れを祭けるに、生贄をぞ備へける。其の生贄には、國人の娘の、未だ嫁(とつ)がぬをぞ立てける。此れは、昔より近く成るまで怠らずして、久く成りにけり。

 而る間、其の國に、何人(いかなるひと)ならねども、年十六、七許(ばかり)なる娘の、形ち清氣なる、持ちたる人、有りけり。父母(ぶも)、此れを愛して、身に替へて悲しく思ひけるに、此の娘の彼の生贄に差(さ)されにけり。此は、今年の祭の日、差れぬれば、其の日より一年(ひととせ)の間に養ひ肥やしてぞ、次の年の祭には立てけり。此の娘、被差されて後、父母、限り無く歎き悲びけれども、遁るべき樣(やう)無き事なれば、月日(つきひ)の過(すぐ)るに隨ひて、命の促(つづ)まるを、祖子(おやこ)の相見む事の殘り少なく成り行けば、日を計(かぞ)へて、互に泣悲むより外の事、無し。

 然る間、東(あづま)の方より、事の緣(えん)有りて、其の國に來れる人、有りけり。此の人、犬山(いぬやま)と云ふ事をして、數(あまた)の犬を飼ひて、山に入りて猪・鹿を犬に噉殺(くひころ)さしめて取る事を業(わざ)としける人也。亦、心、極めて猛き者の、物恐ぢ爲(せ)ぬにてぞ有りける。其の人、其の國に暫く有りける間、自然(おのづか)ら此の事を聞きてけり。

 而るに、云ふべき事、有りて、此の生贄の祖(おや)の家に行て、云入(いひい)る程に、延(えん)有(ある)に突居(ついゐ)て、蔀(しとみ)の迫(はざま)より臨(のぞき)ければ、此の生贄の女、糸(いと)清氣にて、色も白く、形も愛敬付(あいぎやうづき)て、髮長くて、田舍人の娘とも見えず、品々(しなしな)しくて寄り臥したり。物思ひたる氣色(けしき)にて、髮を振懸(ふりかけ)て泣臥(なきふし)たるを見て、此の東人(あづまのひと)、哀れに思ひ、糸惜(いとほし)く思ふ事、限り無し。既に祖(おや)に會ひぬれば、物語など爲(す)。祖の云く、

「只一人侍る娘を、然々(しかじか)の事に差(さ)されて、歎き暮し思ひ明して、月日の過(すぐ)るに隨ひて、別れ畢(はて)なむずる事の近づき侍るを、悲しび侍る也。此(かか)る國も侍りけり。前(さき)の世に何なる罪を造りて、此(かか)る所に生(むま)れて、此く奇異(あさま)しき目を見侍らむ。」

と。東の人、此れを聞きて云く、

「世に有る人、命に增(まさ)る物、無し。亦、人の財(たから)に爲(す)る物、子に增る物、無し。其れに、只一人持給へらむ娘を、目の前にて膾(なます)に造らせて見給はんも、糸(いと)心踈(こころう)し。只、死に給ひね。敵(かたき)有る者に行烈(ゆきつ)れて、徒死爲(いたづらしにする)者は無(なき)やは有る。佛神(ぶつじん)も命(いのち)の爲にこそ怖しけれ、子の爲にこそ、身も惜けれ、亦、其の君は今は無き人也。同死(おなじしに)を其の君、我に得させ給ひてよ。我れ、其の替りに死侍(しにはべり)なむ。其れは己(おのれ)に給ふとも、苦しとな思給(おもひたまひ)そ。」

と。

 祖(おや)、此れを聞きて、

「然(さ)て、其れは何にし給はむと爲(する)ぞ。」

と問へば、東の人、

「只、爲(す)べき樣(やう)の有る也。此の殿(との)に有りとて、人に宣はずして、只、精進すとて、注連(しめ)を引きて置給(おきたまふ)べし。」

と云へば、祖の云く、

「娘だに死なずは、我は亡びむに苦しからず。」

と云ひて、此の東の人に、忍びて娘を合はせ、東の人、此れを妻として過ぐる程に、去難(さりがた)く思ひければ、年來(としごろ)飼付(かひつけ)たりける犬山(いぬやま)の犬を、二つ撰(えら)び勝(すぐ)りて、

「汝よ、我に代はれ。」

と云ひ聞かせて、懇(ねむごろ)に飼ひけるに、山より密かに猿を生乍(いきなが)ら捕へ持來(もてきたり)て、人も無き所にて、役(やく)と犬に教へて噉(くは)せ習はして、本(もと)より、犬と猿とは中不吉者(なかよからぬもの)を、然(し)か教へて習はすれば、猿だに見れば、數(あまたたび)懸りて噉殺(くひころ)す。此樣(かやう)に習はし立てて、我は刀を微妙(いみじ)く磨(と)ぎて持ちたり。東の人、妻に云く、

「我は其の御(おほむ)代りに死に侍りなんとす。死は然(さ)る事にて、別れ申しなむずるが、悲しき也。」

と。女、心得ねども、哀れに思ふ事、限り無し。

 既に其の日に成りぬれば、宮司より始めて、多の人來て、此れを迎ふ。新き長櫃(ながひつ)を持來(もてきたり)て、

「此(これ)に入(いれ)よ。」

と云て、長櫃を寢屋(ねや)に指入(さしいれ)たれば、男、狩衣・袴許(ばかり)を着て、刀を身に引副(ひきそへ)て、長櫃に入ぬ。此の犬二つをば、左右の喬(わき)に入れ臥(ふ)せつ。祖共(おやども)、女を入れたる樣に思はせて、取出(とりいだし)たれば、鉾(ほこ)・榊(さかき)・鈴(すず)・鏡(かがみ)を持てる者、雲の如くして、前を追喤(おひののしり)て行きぬ。妻は、

「何(いか)なる事か、出來(いできた)らむずらん。」

と怖しきに、男の我に替りぬるを哀れに思ふ。祖、

「後(のち)の亡びむも苦しからず。同じ無く成らんを、此(かく)て止みなん。」

と思居(おもひゐ)たり。

 生贄、御(おほむ)社(やしろ)に將參(ゐてまゐり)て、祝(のつと)申(まうし)て、瑞籬(みづかき)の戸を開(ひら)きて、此の長櫃結(ゆ)ひたる緒(を)を切りて、指入(さしいれ)て去りぬ。瑞籬の戸を閉ぢて、宮司等(ら)外(と)に着並(つきなみ)て居たり。男、長櫃を塵許(ちりばかり)𩀟開(くじりあけ)て見れば、長さ七八尺許(ばかり)なる猿、橫座に有り。齒は白くして、顏と尻とは赤し。次々の左右に、猿百許(なかり)居並て、面(おもて)を赤く成して、眉はを上げて、叫び喤(のの)しる。前に、俎(まないた)に大(おほき)なる刀、置きたり。酢鹽(すしほ)・酒鹽(さかしほ)など、皆、居(す)へたり。人の鹿(しし)などを下(おろ)して食はんずる樣(やう)也。暫許(しばしばかり)有りて、橫座の大猿、立ちて、長櫃を開(ひら)く。他の猿共、皆、立ちて、共に此れを開(あ)くる程に、男、俄に出て、犬に、

「噉(くへ)、をれをれ。」

と云へば、二つの犬、走り出て、大なる猿を噉(くらひ)て打臥(うちふせ)つ。男は凍(こほり)の如(ごとく)なる刀を拔きて、一(いち)の猿を捕へて、俎の上に引臥(ひきふせ)て、頭(かしら)に刀を差宛(さしあ)て、

「汝が人を殺して肉村(ししむら)を食(くふ)は、此(か)く爲(す)る。しや頸切(くびきり)て、犬に飼(かひ)てん。」

と云へば、猿、顏を赤めて、目をしば扣(たたき)て、齒を白く食出(くひいだ)して、淚を垂れて手を摺れども、耳にも不聞入(ききいれず)して、

「汝が多くの年來(としごろ)、多くの人の子を噉(くへ)るが替りに、今日、殺してん。只今にこそ有るめれ。神ならば、我を殺せ。」

と云ひて、頭に刀を宛てたれば、此の二つの犬、多くの猿を噉殺(くひころ)しつ。適(たまたま)に生(いき)ぬるは、木に登り、山に隱れて多(おほく)の猿を呼び集めて、響く許(ばかり)呼ばひ叫び合へれども、更に益(やく)無し。

 而る間、一人の宮司に神託(かみつき)て宣はく、

「我れ、今日より後、永く此の生贄を得ず、物の命を殺さず。亦、此の男、我を此(かく)掕(れう)じつとて、其の男を錯(あやまち)犯(をか)す事、無かれ。亦、生贄の女より始て、其の父母(ぶも)・親類をも云不可掕(いひれうずべからず)。只、我を助けよ。」[やぶちゃん注:「掕」は虐げ懲らしめること。「云不可掕」批難したり、咎めたり、罰したりしてはならない。]

と云へば、宮司等、皆、社の内に入りて、男に、

「御神、此く仰せらる。免(ゆる)し申されよと。忝(かたじけな)し。」

と云へば、男、免さずして、

「我は、命、惜(を)しからず。多の人の替りに、此れを殺してん。然して、共に無く成りなん。」

と云て、免さぬを、祝(のつと)申し、極(いみ)じき誓言(せいごん)立つれば、男、

「吉々(よしよし)、今よりは此(かか)る態(わざ)なせそ。」

と云て、免し奉れば、逃(にげ)て山に入ぬ。

 男は家に返りて、其の女と永く夫妻と(めをうと)して有けり。父母(ぶも)は聟(むこ)を喜ぶ事、限り無し。其の家に露(つゆ)恐るる事、無りけり。其れも、前生(ぜんしやう)の果(くわ)の報(むくひ)にこそは有りけめ。

 其の後(のち)、其の生贄立つる事、無くして、國、平(たひら)か也けり、となむ語り傳へたるとや。

   *

   飛驒國猿神止生贄語第八

 今は昔、佛の道を行ひ行(あり)く僧、有りけり。何(いづ)くとも無く行ひ行(ありき)ける程に、飛驒國まで行(ゆ)きにけり。

 而る間、山深く入りて、道に迷ひにければ、出づべき方も思えざりけるに、道と思(おぼ)しくて、木の葉の散積(ちりつみ)たりけるうへを分行(わけゆき)けるに、道の末も無くて、大(おほき)なる瀧の、簾を懸たる樣に、高く廣くて落たる所に行着(ゆきつき)ぬ。返らむとすれども、道も覺えず、行かむとすれば、手を立てたる樣なる巖(いはほ)の岸(きし)の、一二百丈許(ばかり)にて、可搔登(かきのぼるべき)樣(やう)も無れば、只、

「佛、助け給へ。」

と念じて居たる程に、後ろに人の足音しければ、見返(みかへり)て見るに、物荷(ものになひ)たる男の、笠着たる、步(あゆ)みて來れば、

「人來るにこそ有けれ。」

と喜(うれし)く思ひて、

「道の行方(ゆきかた)問はむ。」

と思ふ程に、此の男、僧を極(いみじ)く怪氣(あやしげ)に思ひたり。僧、此の男に步び向ひて、

「何(いづ)こより、何(いか)で御(おは)する人ぞ。此の道は、何(ど)こに出(いで)たるぞ。」

と問へども、答ふる事も無くて、此の瀧の方に步び向て、瀧の中に踊り入て失せぬれば、僧、

「此れは人には非で、鬼(おに)にこそ有りけれ。」

と思て、彌(いよい)よ怖しく成りぬ。

「我は、今は何(いか)にも免(のが)れむ事、難(かた)し。然れば、此の鬼に喰はれぬ前に、彼(かれ)が踊り入りたる樣に、此の瀧に踊り入りて身を投げて死なん。後(のち)には鬼咋(くふ)とも、苦しかるべきに非ず。」

と思得(おもひえ)、步び寄て、

「佛、後生(ごしやう)を助け給へ。」

と念じて、彼が踊り入りつる樣に、瀧の中に踊り入たれば、面(おもて)に水を灑(そそ)ぐ樣にて、瀧を通りぬ。

「今は水に溺れて死ぬらん。」

と思ふに、尚、移(うつ)し心(ごころ)の有りれば、瀧は只一重(ひとへ)にて、早う簾を懸たる樣にて有る也けり。瀧より内に道の有けるままに行ければ、山の下を通りて細き道、有り。其れを通り畢(はて)ぬれば、彼方(かなた)に大きなる人鄕(ひとざと)有りて、人の家、多く見ゆ。然れば、僧、

「喜(うれ)し。」

と思て、步び行く程に、此の有りつる、物荷(ものになひ)たりつる男、荷たる物をば置て、走り向て來(きた)る後(しりへ)に、長(おとな)しき男の、淺黃(あさぎ)上下(かみしも)着たる、後(おく)れじ、と走り來て、僧を引かへつ。僧、

「此は何(いか)に。」

と云へば、此の淺黃上下着たる男、只、

「我が許へ。去來(いざ)、給へ。」

と云て引將行(ひきゐてゆく)に、此方彼方(こなたかなた)より、人共、數(あまた)來りて、各(おのおの)、

「我が許へ。去來、給へ。」

と云て引きしろへば、僧、

「此は何爲(いかにす)る事にか有らん。」

と思ふ程に、

「此く狼(みだり)がはしくな爲(せ)そ。」

とて、郡殿(こほりのとの)に將參(ゐてまゐり)て、其の定めに隨てこそ得め。」

と云て、集り付て將行(ゐてゆけ)ば、我にも非ずして行く程に、大きなる家の有るに將行(ゐてゆき)ぬ。

 其の家より、年老たる翁(おきな)の事々(ことごと)し氣(げ)なる出て、

「此は何(いか)なる事ぞ。」

と云へば、此の物荷つる男の云く、

「此れは日本(につぽん)の國より將詣來(ゐてまうでき)て、此の人に給ひたる也。」

と、此の淺黃の上下着たる者を指して云へば、此の年老たる翁、

「此(と)も彼(かく)も云ふべきに非ず。彼(か)の主(ぬし)の得べきなんなり。」

と云ひて取らせつれば、異者共(ことものども)は去(い)ぬ。然(しか)れば、僧、淺黃の男に得られて、其れが將行(ゐてゆく)方に行く。僧、

「此れは、皆、鬼なんめり。我をば將行(ゐてゆき)て噉(く)はんずるにこそ。」

と思ふに、悲くて、淚、落つ。

「日本の國と云ひつるは、此(ここ)は何(いか)なる所にて、此(か)く遠氣(とほげ)には云ふならん。」

と、怪しび思ふ氣色を、此の淺黃の男、見て、僧に云く、

「心得ず、な思給(おもひたま)ひそ。此(ここ)は糸(いと)樂しき世界也。思ふ事も無くて、豐かにて有らせ奉らむ爲(ず)る也。」

と云ふ程に、家に行着(ゆきつき)ぬ。

 家を見れば、有つる家よりは少し小さけれども、有るべかしく造りて、男女(なむによ)の眷屬、多かり。家の者共、待喜(まちよろこび)て、走り騷ぐ事、限無し。淺黃の男、僧を、

「疾く上り給へ。」

とて、板敷に呼上(よびあぐ)れば、負たる笈(おひ)と云ふ物を取りて、傍(かたはら)に置きて、蓑・笠・藁沓(わらぐつ)など脱ぎて上(あが)りぬれば、糸(いと)吉(よ)く□たる所に、居(す)へき。

「先づ物疾く參らせよ。」

と云へば、食物(じきもつ)、持來たるを見れば、魚・鳥を艷(えもいは)ず調へたり。僧、其れを見て、食はずして居たれば、此の淺黃の男、出來て、

「何と此をば食はぬぞ。」と。僧、

「幼くて法師に罷り成て後、未だ此(かか)る物をなん食はねば、此く見居(みゐ)て侍る也。」

と云へば、淺黃の男、

「現(げ)に其れは、さも侍るらむ。然れども、今は此(かく)御(おはし)ましぬれば、此の物共(ども)食はでは、否不有(えあらじ)。悲(かなし)く思ひ侍る娘の一人侍るが、未だ寡(やもめ)にて、年も漸く積々(つもりつもり)て侍れば、其(そこ)に合はせ奉りてんずる也。今日よりは、其の御髮(みぐし)をも生(おほ)し給て御(まし)ませ。然(さ)りとて、今は外(と)へ可御(おはすべき)方(かた)も有るまじ。只、申すに隨ひて御(おは)せ。」

と云ければ、僧、

「此く云はんに違ひて心を持成(もてな)さば、殺されもこそ爲(せ)む。」

と怖しく思ゆるに合せて、遁れ可行方(ゆくべきかた)も無ければ、

「習ひ無き事なれば、然(しか)申す許(ばかり)也。今は只、宣はんにこそ隨はめ。」

と云へば、家主(いへあるじ)、喜びて、我が食(じき)も取出(とりいで)て、二人指向(さしむかひ)て食ひてけり。僧、

「佛、何に思食(おぼしめ)すらむ。」

と思けれども、魚(いを)・鳥も、能く食畢(くひはて)つ。

 其後(のち)、夜(よる)に入りて、年廿(はたち)許(ばかり)なる女の、形・有樣、美麗なるが、能く裝束(しやうぞ)きたるを、家主、押出(おしいだ)して、

「此れ、奉る。今日よりは、我が思ふに替はらず、哀れに思ふべき也。只一人侍る娘なれば、其の志の程を押量り給ふべし。」

とて、返入(かへりいり)たれば、僧、云ふ甲斐無くて、近付(ちかづ)きぬ。

 此(かく)て、夫妻(めをうと)として月日を過(すぐ)すに、樂しき事、物に似ず。衣(きぬ)は思ふに隨ひて着(き)す、食物(じきもつ)は無物(なきもの)無く食はすれば、有りしにも似ず、引替(ひきかへ)たる樣(やう)に太りたり。髮も髻(もとどり)に取らるる許(ばかり)に生(お)ひぬれば、引結上(ひきゆひあげ)て、烏帽子(えぼうし)したる形(かた)ち、糸(いと)淸氣也。娘も、此の夫(をうと)を極(いみじ)く去難(さりがた)く思ひたり。夫(をうと)も、女(をむな)の志しの哀れなるに合せて、我も勞(らうた)く思(おぼ)えければ、夜晝起臥し明し暮す程に、墓無(はかな)て、八月許(ばかり)にも。

 而る間、其の程より、此の妻の氣色(けしき)替りて、極(いみ)じく物思ひたる姿也。家主(いへあるじ)は、前々(さきざき)よりも勞(いたづ)く增(まさ)りて、

「男は宍付(ししつ)き、肥えたるこそ吉(よ)し。太り給へ。」

と云ひて、日に何度(いくたび)とも無く、物を食(くは)すれば、食肥(くひふと)るに隨ひて、此の妻は、さめざめと泣く時も有り。夫(をうと)、此れを怪しび思ひて、妻に、

「何事を思ひ給ふぞ。心得ぬ事也。」

と云へども、妻、

「只、物の心細く思ゆる也。」

と云て、其れに付けても泣增(なきまさ)れば、夫、心も得で、怪しけれども人に問ふべき事ならねば、然(さ)て過(すぐ)る程に、客人(まらうど)來て、家主(いへあるじ)に會ひたり。互ひに物語爲(す)るを、和(やは)ら、立ち聞けば、客人の云く、

「賢く、思ひ懸けぬ人を得給(えたまひ)て、娘の平(たひら)かに御(おはしま)さむずるこそ、何(いか)に喜(うれし)く思(おぼ)すらん。」

など云へば、家主、

「其の事に侍り。此の人を得ざらましかば、近來(このごろ)、何(いか)なる心、侍らまし。只今までは、求得たる方(かた)侍らねば、明年(あくるとし)の近來(このごろ)、何(いか)なる心、せんずらん。」

とて、後出去(しりぞきいでい)ぬれば、家主、返り入るままに、

「物參らせつや。吉(よ)く食(く)はせよ。」

など云て、食物(じきもつ)ども遣(おこ)せたれば、此れを食(くふ)に付(つけ)ても、妻(め)の思ひ歎泣(なげきなく)、心得ず。客人(まらうど)の云つる事も、

「何(いか)なる事にか。」

と、怖しく思(おぼゆ)れば、妻(め)に(をこづりとへ)ども、物云はばや、とは思ひたる氣色乍ら、云ふ事も無し。

 而る間、此の鄕(さと)の人々、事急ぐ氣(けはひ)にて、家每(ごと)に饗膳など調へ喤(ののし)る。妻(め)、泣思(なきおもひ)たる樣(さま)、日に副(そへ)て增(まさ)れば、夫(をうと)、妻(め)に、

「泣(なき)み咲(わらひ)み、極(いみじ)き事有りとも、我によも不隔給(へだてたまはじ)とこそ思ひつるに、此く隔けるこそ(つれな)けれ。」

とて、恨み泣きければ、妻(め)も打泣(うちなき)て、

「爭(いかで)か申さじとは思はんずる。然(され)ども、見聞えむずる事の、今幾(いくばく)も有るまじければ、此く睦ましく成りけん事の悔(くや)しき也。」

と云ひも遣らず泣けば、夫(をうと)、

「我が死ぬべき事の侍るか。其れは人の遂に免(まぬ)かれぬ道なれば、苦かるべき事にも非ず。只、其より外の事は、何事か有らん。只、宣へ。」

と責云(せめいひ)ければ、妻(め)、泣々(なくなく)云く、

「此の國には、糸(いと)ゆゆしき事の有る也。此の國に驗(げむ)じ給ふ神の御(おは)するが、人を生贄に食(く)ふ也。其の御(おは)し着きたりし時、『我も得む、我も得む』と愁へ喤のの)しは、此の料(れう)にせむとて云し也。年(とし)に一人の人を𢌞(めぐ)り合つつ、生贄を出(いだ)すに、其の生贄を求め得ぬ時には、悲しと思ふ子なれども、其れを生贄に出す也。『其御(おは)せざりましかば、此の身こそは出て、神に食はれまし』と思へば、只、我れ替りて出(いで)なんと思ふ也。」

と云ひ泣けば、夫(をうと)、

「其(それ)をば何(いか)に歎き給ふ。糸(いと)安き事なんなり。然(さ)て、生贄をば、人、造りて神には備ふるか。」

と問へば、妻(め)、

「然(さ)には非ず。『生贄をば裸に成して、俎の上に直(うるはし)く臥せて、瑞籬(みづがき)の内に搔入(かきいれ)て、人は皆、去りぬれば、神の造りて食(く)ふ』となん聞く。瘦弊(やせつたな)き生贄を出(いだ)しつれば、神の荒(あれ)て、作物も吉(よ)からず、人も病み、鄕(さと)も靜(しづか)ならずとて、此(かく)何度(いくたび)と無く、物も食せて食ひ太らせむと爲(する)也。」

といへば、夫(をうと)、月來(つきごろ)勞(いたはり)つる事共、皆、心得て、

「然(さ)て、此の生贄を食(くふ)らん神は何(いか)なる體(かたち)にて御(おは)するぞ。」

と問へば、妻(め)、

「猿の形に御すとなむ聞く。」

と答ふれば、夫(をうと)、妻(め)に語らふ樣(やう)、

「我に金(かね)吉(よ)からむ刀(かたな)を求めて得さしめてむや。」

と。妻(め)、

「事にも非ず。」

と云て、刀一つを構へて取らせてけり。夫(をうと)、其の刀を得て、返々(かへすがへ)す鋭(とぎ)て、隱して持ちたりけり。

 過(すぎ)ぬる方(かた)よりは、勇(いさ)み寵(さかえ)て、物も吉(よ)く食太(くひふと)りたりければ、家主(いへあるじ)も喜び、聞繼(ききつぐ)者も、

「鄕(さと)、吉(よ)かるべきなんめり。」

と云ひて、喜びけり。此(かく)て、前七日(まへなぬか)を兼て、此の家、注連(しめ)を引きつ。此の男にも精進潔齋せさす。家々にも注連を引き、愼しみ合ひたり。此の妻(め)は、

「今(いま)何日(いくにち)ぞ。」

と計(かぞ)へて泣入(なきいり)たるを、夫(をうと)、云噯(いひなぐさめ)つつ、事にも思はぬをぞ、妻、少し噯(なぐさみ)ける。

 此(かく)て、其の日に成ぬれば、此の男に沐浴せさせ、裝束(しやうぞく)、直(うるはし)くさせて、髮、削らせて、髻(もとどり)取らせて、鬢(びん)直(うるは)く搔疏(かきつくろ)ひ、傅立(かしづきたつ)る間(あひだ)に、使(つかひ)、何度(いくたび)とも無く來(きたり)つつ、

「遲し、遲し。」

と責(せ)むれば、男は舅(しうと)と共に馬に乘りて行ぬ。妻は物も云はずして、引被(ひきかづき)て泣臥(なきふし)たり。

 男、行着(ゆきつき)きて見れば、山の中に大きなる寶倉(ほくら)有り。瑞籬、事々しく廣く垣籠(かきこめ)たり。其の前に、饗膳多く居(す)へて、人共、員(かず)知らず着並(つきなみ)たり。此の男は、中に座高くして食(く)はす。人共、皆、物食ひ、酒呑みなどして、舞樂(まひあそ)び畢(はて)て後、此の男を呼立(よびた)て、裸に成し、(くくり)を放(はなた)せて、

「努々(ゆめゆめ)、動かずして、物云ふな。」

と教へて含めて、俎の上に臥せて、俎の四(よつ)の角(すみ)に榊(さかき)を立て、注連(しりくへ)・木綿(ゆふ)を懸け集て、搔きて前(さき)を追ひて、瑞籬の内に搔居(かきす)へて、瑞籬の戸を引閉(ひきたて)て、人一人も無く、返りぬ。此の男は、足を指延(さしのべ)たる胯(また)の中に、此(こ)の隱して持ちたる刀を、然氣無(さるけなく)て夾(はさ)みて持ちたりける。

 而る間、一(いち)の寶倉(ほくら)と云ふ寶倉の戸、すずろに、き、と鳴りて開(ひら)けば、其(それ)にぞ少し頭(かしら)の毛太りて、むくつけく、思(おぼえ)ける。其の後、次々の寶倉の戸共、次第に開渡(ひらきわた)しつ。其の時に、大きさ人許(ばかり)の猿、寶倉の喬(そば)の方より出來て、一の寶倉に向(むかひ)てかがめめれば、一の寶倉の簾(すだれ)を搔開(かきひらき)て出(いづ)る者、有り。見れば、此れも同じ猿の、齒は銀(しろがね)を貫(ぬき)たる樣なる、今少し大きに器量(いかめし)き、步出(あゆみいで)たり。

「此れも、早(はや)う猿也けり。」

と見て、心安く成りぬ。此樣(かやう)にしつつ、寶倉(ほくら)より、次第に猿、出居て、着並(つきなみ)て後、彼の初めの寶倉の喬(そば)より出來たりつる猿、一の寶倉の猿に向居(むかひゐ)たれば、一の寶倉の猿、かかめき云ふに隨ひて、此の猿、生贄の方樣(かたざま)に步び寄來(よりき)て、置(おき)たる魚箸(まなばし)・刀を取りて、生贄に向ひて切(きら)むと爲(する)程に、此の生贄の男、胯(また)に夾(はさみ)たる刀を取るままに、俄に起走(おきはしり)て、一の寶倉の猿に懸れば、猿、周(あわて)て仰樣(のけざま)に倒(たふれ)たるに、男、やがて不起(おこさず)して、押懸りて、踏(ふま)へて、刀をば未だ不指宛(さしあてずし)て、

「己(おのれ)や、神。」

と云へば、猿、手を摺(す)る。異猿(ことさる)共、此れを見て、一つも無く逃げ去りて、木に走り登りて、かかめき合たり。

 其の時に男、傍らに葛(かづら)の有けるを引斷(ひきたち)て、此の猿を縛りて、柱に結付(ゆひつけ)て、刀を腹に指宛(さしあて)て云く、

「己(おのれ)は猿にこそは有けれ。神と云ふ虛名乘(そらなのり)をして、年々(としどし)人を噉(くら)はむは、極(いみじ)き事には非ずや。其の二、三の御子(みこ)と云つる猿、慥(たしか)に召出(めしいだ)せ。不然(さらず)は突殺(つきころし)てん。神ならば、よも刀も立たじや。腹に突立(つきたて)て試(こころみ)ん。」

と云て、塵許(ばかり)捿(くじ)る樣(やう)にするに、猿、叫(さけび)て手を摺(する)に、男、

「然(しか)らば、二、三の御子と云ふ猿、疾(とく)、召出せ。」

と云ば、其れに隨てかがめけば、二、三の御子と云ふ猿、出來たり。

「亦、我を切らんとしつる猿、召せ。」

といへば、亦、かがめけば、其の猿、出來ぬ。其の猿を以て、葛(かづら)を折りに遣して、二、三の御子を縛りて結付(ゆひつけ)つ。亦、其の猿をも縛て、

「己(おのれ)、我を切らんとしつれども、此く隨はば命をば斷たじ。今日より後、案内も知ぬ人の爲に、祟(たたり)を成し、吉(よ)からぬ事をも至さば、其の時になむ、しや命(いのち)は斷(た)ちてんと爲(す)。」

と云て、瑞籬の内より、皆、引出して、木の本(もと)に結付つ。

 然(さ)て、人の食物(じきもつ)共(ども)したる火(ひ)の、殘りて有りけるを取りて、寶倉(ほぐら)共に次第に付渡(つけわた)せば、此の社(やしろ)より鄕(さと)の家村(いへむら)は遠く去りたれば、此く爲(する)事共も否不知(えしららで)有けるに、社の方に火の高く燃上たりけるを見て、鄕の者共、

「此は何(いか)なる事ぞ。」

と怪び騷(さわぎ)けれども、本より此の祭して後(のち)三日が程は、家の門(かど)をも閉籠(たてこめ)て、人一人も外(と)に出(いづ)る事無りければ、騷ぎ迷(まど)ひ乍ら、出て見る人も無し。

 此の生贄を出しつる家主は、

「我が生贄の何(いか)なる事の有るにか。」

と靜心無(しづこころな)く、怖しく思ひ居たり。此の生贄の妻(め)は、

「我が男の、刀乞取て隱して持たりつる、怪かりつるに合せて、此(か)く火の出來(いでき)たるは、彼(かれ)が爲態(しわざ)ならむ。」

と思ひて、怖しくも不審(いぶかし)くも思ふ程に、此の生贄の男、此の猿、四(よつ)を縛(しばり)て、前に追立(おひたて)て、裸なる者の髻(もとどり)放(はなち)たるが、葛(いあづら)を帶(おび)にして、刀を指して、杖を突きて、鄕(さと)に來(きたり)て、家々の門(かど)を臨(のぞき)つつ見れば、鄕の家々の人、此れを見て、

「彼(かの)生贄の、御子達(みこたち)を縛りて、前に追立(おひたて)て來(きた)るは、何(いか)なる事ぞ。此れは神にも增(まさり)たりける人を生贄に出したりけるにこそ有りけれ。神をだに此(かく)す。增(まし)て、我等をば噉(くひ)やせんずらん。」

と恐れて迷(まど)ひけり。

 而る間、生贄、舅の家に行きて、

「門(かど)を開(あけ)よ。」

と叫びけれども、音も爲(せ)ぬを、

「只、開けよ。よも惡事、有らじ。開けねば、中々、惡(あ)しき事、有りなむ。」

と、

「疾く開けよ。」

と、門(かど)を踏立(ふみたつ)れば、舅、出來て、娘を呼出(よびいだ)して、

「此(これ)は極(いみじ)き神にも增(まさり)たりける人にこそ有りけれ。若し、我が子をば惡(あ)しとや思ふらむ。和君(わぎみ)、門を開(あけて、云ひ誘(こしら)へよ。」

と云へば、妻(め)、怖し乍ら、喜(うれ)しく思ひて、門(かど)を細目に開けたれば、押開(おしあく)るに、妻(め)、立てれば、

「疾(と)く入(いり)て、其の裝束(しやうぞく)、取りて得させよ。」

と云へば、妻(め)、卽ち、返入(かへりいり)て、狩衣・袴・烏帽子など取出たれば、猿共をば、家の戸の許(もと)に強く結付(ゆひつけ)て、戸口にて裝束(しやうぞく)して、弓・胡錄(やなぐひ)の有けるを乞ひ出て、其れを負ひて、舅を呼出(よびいで)て云く、

「此れを神と云ひて、年每(としごと)に人を食(くは)せける事、糸(いと)奇異(あさまし)き事也。此れは猿丸(さるまろ)と云ひて、人の家にも繫ぎて飼(かへ)ば、飼はれて、人にのみ掕(れう)ぜられて有る者を、案内も知らずして、此れに年來(としごろ)、生(いき)たる人を食せつらむ事、極(きはめ)て愚(おろか)也。己(おのれ)が此(ここ)に侍らむ限りは、此れに掕(れう)ぜらる事、有るまじ。只、己に任せて見給へ。」

と云ひて、猿の耳を痛く摘(つめ)ば、念じ居たる程、糸可咲(いとをかし)し。

「此の人には隨ひたりける者にこそ有りけれ。」

と見るに、憑(たのも)しく成りて云く、

「己(おのれ)は等(ともがら)は更に此(かか)る案内も知り侍らざりけり。今は、君をこそは神と仰ぎ奉りて、身を任せ奉らめ。只、仰せのまま。」

と云ひて、手を摺(も)めば、

「去來(いざ)、給へ。有りし大領(だいりやう)の許(もと)へ。」

と云て、舅、具して、猿丸共を前に追立(おひたて)て行きて、門を叩くに、其れも開らかず。舅(しうと)、有りて、

「此(ここ)、只、開け給へ。申すべき事、有り。開け給はずば、中々、惡き事、有りなむ。」と云ひ恐(おど)しければ、大領出來て、恐々(おづおづ)門を開けて、此の生贄を見て、土に平(ひら)み居たれば、生贄、猿共を家の内に引列(ひきつらね)て、目を嗔(いから)かして、猿に向ひて云ひて、

「己(おのれ)が年來(としごろ)、神と云ふ、虛名乘(そらなのり)をして、年(とし)に一の人を食(は)み失ひける。己(おのれ)、更(あらた)めよ。」

と云ひて、弓箭(くぜん)を番(つがひ)て射むとすれば、猿、叫びて、手を摺りて迷(まど)ふ。大領、此れを見て、奇異(あさま)しく怖ろし氣に思ひて、舅の許に寄りて、

「我等をもや殺し給はんずらん。助け給へ。」

と云へば、舅、

「只、御(おは)せ。己(おのれ)が侍らんには、よも然(さ)る事、有らじ。」

と云へば、憑(たのも)しく思ひて居るに、生贄、

「吉々(よしよし)。己(おのれ)が命をば斷たじ。此より後、若し此の邊に見えて、人の爲に惡しき事をば至さば、其の時に、必ず、射殺してんとするぞ。」

と云ひて、杖を以て、廿度許(ばかり)づつ、次第に打渡(うちわた)して、鄕(さと)の者、皆、呼び集めて、彼(か)の社(やしろ)に遣りて、殘りたる屋(や)共、皆、壞集(こぼちあつ)めて、火を付けて燒き失ひつ。猿をば四(よつ)乍ら、祓負(はらへおほ)せて追放(おひはなち)けり。片蹇(かたあしなへ)ぎつつ、山深く逃入りて、其の後、敢て見えざりけり。

 此の生贄の男は、其の後、其の鄕の長者として、人を皆、進退(しんだい)し仕(つか)ひて、彼(か)の妻(め)と棲みてぞ有りける。此方(こなた)にも、時々、密かに通ければ、語り傳へたる成るべし。本(もと)は其には馬(むま)牛(うし)も狗(いぬ)も無かりけれども、

「猿の、人、掕(れう)ずるが爲(ため)。」

とて、狗の子や、

「仕はん料(れう)に。」

とて、馬(むま)の子(こ)など、將渡(ゐてわた)して有りければ、皆、子共産むにぞ有ける。飛驒國の傍(かたはら)に、此(かか)る所有りとは聞けども、信濃國の人も、美濃國の人も、行く事、無かる也。其の人は、此方(こなた)に密(ひそか)に通ふけれ共、此方の人は行く事、無かる也。

 此れを思ふに、彼の僧、其の所に迷ひ行きて、生贄をも止(とど)め、我も住みける、皆、前世の報(ほう)にこそは有らめ、となん語り傳へたるとや。

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