小穴隆一 「二つの繪」(25) 「芥川の死」 ~「二つの繪」パート了
芥川の死
芥川が僕に死ぬ話をしはじめてから、死ぬ話の片手間
? に書いてゐた仕事の表をみると、
[やぶちゃん注:以下、私のオリジナル電子テクストのあるものは、本文そのものにリンクを張った。リンクのないものは「青空文庫」のこちらで一部を除いて概ね読める。但し、そちらは新字体である。]
大正十五年四月
病中雜記 文藝春秋
[やぶちゃん注:このクレジットで『文藝春秋』に発表された表記の作品は存在しない。あるいはこれは、前年大正一四(一九二五)年十月発行の『文藝春秋』に「侏儒の言葉――病牀雜記――」(リンク先は私の電子テクスト)として発表したものを小穴隆一が誤認しているものかとも思われる。]
追憶(大正十五年五月―昭和二年二月)文藝春秋
[やぶちゃん注:丸括弧内は底本では二行ポイント落ちの割注。「五月」は「四月」の誤り。]
病中雜記 文藝春秋
[やぶちゃん注:正確には「病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに――」で、発表を「四月」とするが、事実は同年二月及び三月である。]
東西問答 時事新報
橫須賀小景 驢馬
大正十五年六月
囈語 隨筆
[やぶちゃん注:「囈語」は「うはごと(うわごと)」と読む。「六月」は「八月」の誤り。]
大正十五年七月
カルメン 文藝春秋
近松さんの本格小説 不同調
又一説? 改造
大正十五年九月
春の夜 文藝春秋
大正十五年十月
點鬼簿 改造
島木赤彦氏 アララギ
大正十五年十一月
O君の新秋 中央公論
夢 婦人公論
發句私見 ホトトギス
鴉片 世界
槐 藝術新論
昭和二年一月
貝殼 文藝春秋
玄鶴山房 中央公論
蜃氣樓 婦人公論
[やぶちゃん注:『蜃氣樓――或は「續海のほとり」――』は同年「三月」の誤り。]
悠々莊 サンデー毎日
鬼ごつこ 苦樂
[やぶちゃん注:「鬼ごつこ」は同年「二月」の誤り。]
僕は 驢馬
[やぶちゃん注:「僕は」は同年「二月」の誤り。]
萩原朔太郎君 近代風景
拊掌談 文藝時報
[やぶちゃん注:「拊掌談」は「ふしやうだん(ふしょうだん)」と読む。これは大正一四(一九二五)年十二月から翌一五年二月まで、四回にわたって『文藝時報』に掲載されたもの(一部、初出不詳)。]
昭和二年二月
玄鶴山房 中央公論
[やぶちゃん注:前とダブっているのは大正一六(一九二七)一月一日発行の雑誌『中央公論』]に「一」「二」が掲載され、昭和二(一九二七)二月一日の同誌に「一」「二」も再録して全篇掲載されたことによるもので、小穴隆一の誤記ではない。]
都會で 手帖
[やぶちゃん注:正しくは「都會で――或は千九百十六年の東京――」で、発表は二月ではなく、同年「三月」「四月」「五月」発行のそれに三回で連載されたもの。]
その頃の赤門生活 東京帝國大學新聞
藤森君「馬の足」のことを話せと言ふから
文藝春秋
昭和二年三月
小説の讀者 文藝時報
輕井澤で 文藝春秋
都會で 手帖
[やぶちゃん注:先行注参照。ダブではなく連載を記したものだが、本来はここから後にでなくてはおかしい。]
春の夜は 中央公論
[やぶちゃん注:「春の夜は」は「三月」ではなく「四月」の誤り。]
芝居漫談 演劇新潮
昭和二年四月
「庭苔」讀後 アララギ
都會で 手帖
[やぶちゃん注:先行注参照。]
河童 改造
文藝的な餘りに文藝的な(四―七月) 改造
[やぶちゃん注:「(四―七月)」は底本では二行ポイント落ちの割注。正しくは「文藝的な、餘りに文藝的な」であり、連載も八月まで(四、五、六月と飛んで八月)。リンク先は後に出る「續文藝的な、餘りに文藝的な」を私がカップリングした「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」。]
三つのなぜ サンデー毎日
淺草公園 文藝春秋
[やぶちゃん注:正しくは「淺草公園――或シナリオ――」。]
食物として 文藝時報
昭和二年五月
今昔物語に就いて 日本文學講座(新潮社刊)
[やぶちゃん注:これは「今昔物語鑑賞」の誤り。しかも正確には「五月」ではなく「四月」(四月三十日刊)。新潮社発行の『日本文學講座』第六卷の「(鑑賞)」欄に表記の題で収録されたものである。リンク先は私の草稿附き電子テクスト。]
耳目記 文藝時代
素描三題 サンデー毎日
たね子の憂鬱 新潮
本所兩國 東京日日新聞
僕の友だち二三人 文章倶樂部
「道芝の序」 文藝春秋
昭和二年六月
古千屋 サンデー毎日
晩春賣文日記 新潮
囈語 隨筆
[やぶちゃん注:これは明らかに先の「大正十五年六月」のダブりで誤り。]
「我が日我が夢」の序 文藝春秋
二人の紅毛畫家 文藝春秋
女仙 譚海
[やぶちゃん注:これは新全集でも初出誌が確認されていない推定比定である。因みに「によせん(にょせん)」と読むものと思われる。]
講演軍記 文藝時報
昭和二年七月
機關車を見ながら サンデー毎日
[やぶちゃん注:これは遺稿で昭和二(一九二七)年九月十五日発行の雑誌『サンデー毎日』秋季特別号に発表されたものであるが、芥川龍之介自死の直前に執筆されたものと推定されている。リンク先の私の冒頭注を参照されたい。]
三つの窓 改造
冬と手紙と 中央公論
[やぶちゃん注:本篇はネット上のある記載で、後に「冬」と「手紙」に改題されたとあり、青空文庫版テクストでもそのように分割して公開されているが、そのような記載は旧全集注記にはない。また、これを後に芥川が分割して改題した可能性は私は極めて低いと考えている。リンク先の私のそれは分割されていない原型である。]
〔續〕文藝的な餘りに文藝的な 文藝春秋
[やぶちゃん注:「續文藝的な、餘りに文藝的な」は元は、昭和二年四月一日及び七月一日発行(小穴隆一がここに配したのはそれに拠る)の『文藝春秋』に、先行する『改造』発表の「文藝的な、餘りに文藝的な」と全く同じ「文藝的な、餘りに文藝的な」の題で掲載されたものである。これらは後の龍之介の死後(同年十二月)に刊行された単行本『侏儒の言葉』に「續文藝的な、餘りに文藝的な」として所収された。小穴の「〔續〕」とするのはそれに基づくものである。リンク先は私の「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」である。]
内田百間氏 文藝時報
[やぶちゃん注:発表自体は死後の八月一日。]
昭和二年八月
西方の人 改造
[やぶちゃん注:リンク先は私の「西方の人(正續完全版)」。言わずもがなであるが、これ以降は遺稿である。]
東北・北海道・新潟 改造
續芭蕉雜記 文藝春秋
[やぶちゃん注:正編「芭蕉雜記」は遡る大正一二(一九二三)年十一月及び十三年五月と同年七月の雑誌『新潮』の各号にそれぞれ「一」から「九」を「芭蕉雜記」、「十」から「十一」を「續芭蕉雜記」(但し、これは現在の「續芭蕉雜記」ではない)、「十二」から「十三」を「續々芭蕉雜記」(同前)として掲載、後に『梅・馬・鶯』に「一」から「十三」を纏めて「芭蕉雜記」として所収した。一方、「續芭蕉雜記」は昭和二(一九二七)八月一日発行の雑誌『文藝春秋』に掲載されたものである。リンク先はそれらを一括した私の「芭蕉雜記・續芭蕉雜記 附草稿」である。]
風琴 手帖
[やぶちゃん注:これは芥川龍之介の詩で「風琴」で「オルガン」と読む。以下。
*
風琴
風きほふ夕べをちかみ、
戸のかげに身をひそめつつ、
(いかばかりわれは羞ぢけむ。)
風琴(オルガン)をとどろとひける
女(め)わらべの君こそ見しか。
とし月の流るるままに
男(を)わらべのわれをも名をも
いまははた知りたまはずや。
いまもなほ知りたまへりや。
*
「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」を参照されたい。]
昭和二年九月
續西方の人 改造
[やぶちゃん注:リンク先は私の「西方の人(正續完全版)」。]
侏儒の言葉(遺稿) 文藝春秋
[やぶちゃん注:リンク先は先行作及び遺稿分や草稿類・類似アフォリズムを含む『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』。]
十本の針(遺稿) 文藝春秋
闇中問答(遺稿) 文藝春秋
昭和二年十月
或阿呆の一生(遺稿) 改造
齒車(遺稿) 文藝春秋
小説作法(遺稿) 新潮
[やぶちゃん注:「小説作法(遺稿)」は「小説作法十則」の誤りで、遺稿公開も「九月」の誤り。]
昭和三年一月
僕の瑞威から(遺稿) 驢馬
[やぶちゃん注:「僕の瑞威(スヰツツル)から」と読む。これは「信條」「レニン第一」「レニン第二」「レニン第三」「カイゼル第一」「カイゼル第二」「手」「生存競爭」「立ち見」の九篇からなる詩篇群。「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」を参照されたい。「瑞威(スヰツツル)」はスイスのこと。]
昭和三年五月
空虛(遺稿) 創作月刊
[やぶちゃん注:これは大正一四(一九二五)年一月発行の『中央公論』に掲載された「大導寺信輔の半生」の未使用の草稿である。私の「大導寺信輔の半生 附草稿」で電子化してある。]
昭和三年七月
文壇小言(遺稿) 創作月刊
[やぶちゃん注:旧全集で末尾に『(大正十四年八月)』とクレジットするアフォリズム草稿。]
となるが、僕はよくあの體で頑張れたものだと思ふ。やつれて支那から歸つてきたときの芥川が、中西屋の風呂場の貫かんで計つたときの目方は十二貫五百であつたが、腦味噌一貫五百、體十一貫と稱する元氣はあつた。しかしこれは、重くうなだれきつてしまつたときの芥川の仕事であつて、人の死力(しにぢから)といつたものをしみじみと考へさせる。
[やぶちゃん注:中国特派旅行から帰った(大正一〇(一九二一)年七月下旬帰国)芥川龍之介は体調がすこぶる勝れず、年内発表の原稿を断わり、十月一日から二十日頃まで、湯河原の中西屋旅館で静養した。この時、四日から暫く小穴隆一と小沢碧童が合流していることは以前にも書かれていた。
「貫かん」台秤(だいばかり)のこととは判るが、読み不詳。
「一貫五百」匁(もんめ)は五キロ六百二十五グラム。
「十一貫」四十一キロ二百五十グラム。]
鵠沼で、さるすべりの樹があつた。二度目に越した家の二階でも、いくつかの詩をみせたあとの芥川にはぞつとした。七月二十二日の夜にも芥川が默つてゐるだけで、こちらは大聲で叫びたい恐ろしさを感じた。二十三日の僕は、もう芥川は助からぬ、芥川は死ぬものとして僕自身のことも考へてゆかなければならぬ、もう一度芥川に會つておきたいと一日中考へてゐたが、怖くて自分の部屋を一と足もでられなかつた。とても芥川のところに顏がだせなかつた。さうして二十三日の夜は寢ぐるしい眠れない夜であつた。藤澤の町で買つた目醒時計は何時なのであつたか、さういふ習慣のなかつた僕が、まだ夜明け前かと窓を開けてしまつたままで、また布團の上に寢てしまつてて、誰かが呼んでゐるやうな聲に目をさますと、障子に手をかけたまま低い聲で「なんだか變なのです、どうもやつたらしいのです、」と言つて廊下に葛卷が立つてゐた。僕はそのとき、「なに? けふは日曜ぢやないか、」と言つてゐる。芥川はかつては日曜日を面會日にしてゐたが、さういつたこともいつかなくなつてゐたのに、けふは日曜ではないかと言つてゐるのは、よほどくたびれてゐたか、ねぼけてゐたとみえる。僕はそれまでに、芥川が日曜日には自殺をしないとか、人騷がせをするやうな事はしないであらうと思つたことなど、一度もなかつたのにさういふことを言つてゐた。
「とにかくすぐ一緒にきて下さい、」と言つてゐて葛卷は部屋にはいらなかつた。
「ほんたうにやつたのか、」
「どうもさうらしいのです、」
葛卷と僕は下宿のそとで顏を見合せてまたさう繰返してゐた。
葛卷の話では、伯母が下島老人へ、葛卷が僕のところへ知らせにきたといふが、僕が義足をつけたりなにかしてゐるだけ下島老人のほうが早かつたのであらう。
「たうとうやつてしまひましたなあ、」
二本目の注射をすませたあと、ちやうど、注射器をとりかたづけてゐた下島老人はつつ立つたままの僕にさういつた。
茶を運んできた芥川家の人は取りみだした姿ではなかつた。いつかは死ぬ、芥川はさういつた豫告
? のやうな月日がながすぎた。皆の神經をくたびれさせきつてゐた。芥川は「自分が死んでも、すぐ知らせると小穴はあわてるから、なるたけゆつくり知らせろ、」よ言つてゐたと葛卷が言つてゐる。
[やぶちゃん注:「鵠沼で、さるすべりの樹があつた」とあるのは「二度目に越した家」のこと。「鵠沼」に書かれた小穴隆一の手書きの図にも、入口と思しいところの内側の右手に「百日紅」と記されてある。しかし小穴隆一、何故、この冒頭でそれを言ったのだろう? 小穴隆一の例の意味深な厭なところである。「七月二十二日の夜にも」以降は田端の終焉の時制描写なので読み違えぬように注意されたい。
「日曜日」芥川龍之介が自死した昭和二(一九二七)年七月二十四日は日曜日であったが、これは実は家人や女中が平日よりも朝寝をすることを見越した、即ち、発見が遅れて自死が完遂されることを計算した上での選択であったと考えられる。]
「どうしたものでせう、」
「どちらでもよろしいやうに私はします。」
と、醫者の下島老人が言つた。〔下島先生と御相談の上自殺とするも可病殺(死)とするも可。〕といふ家人宛の遺書があつたからである。(もし芥川が意識して病殺と書いてゐたものとすれば、これはもつとも芥川らしい表現である。)僕は「どちらでも」と言ふよりほかなかつたが、「ありのままがいいでせう、」と言添へてゐた。そこへわりかた近所の久保田万太郎の顏がみえた。
[やぶちゃん注:「(死)」は、底本では「殺」の右にルビ状に附された小穴隆一の補正注である。]
僕はF十號の畫布に木炭で芥川の死顏の下圖をつけてゐた。
「繪具をつけるの?」
「つけないの?」
比呂志君がさう心配して畫架のまはりをうろついてゐた。雜記帳と鉛筆を持ちだしてきて、自分でも僕のやうに寫したかつたのであらう、芥川の枕もとに立つてうろうろとしてゐた。
[やぶちゃん注:「F十號」のFは一般に人物用キャンバスで五百三十×四百五十五。]
檢屍官の一行が芥川の枕邊にきた頃には、「死んだあと、もし口を開いてゐるやうであつたら、なるべく開いてゐないやうに賴むよ」といつてゐた日頃の芥川の言葉を勘考して、その顏の構造をじつくりみなほして寫せる餘裕が持てた。「出つ齒でせう、だから眠つてゐると口をあいてゐるんです、」と葛卷があとで言つてゐた。芥川は昔、僕が二科會に出品した「白衣」の時には、西洋の文人、自分の一家一族の人達の寫眞まで持ちだしてきて、「やつぱり、立派に畫いておくれ」と言つてゐたが、「白衣」とは彼が名づけた題で處士といふ意があると教へてくれた。
[やぶちゃん注:既注であるが、「處士」(しよし(しょし))とは「在野の人」の意である。]
そのままにと言つて警察の人は畫いてゐる僕の邪魔をしなかつた。
一應は點檢されてゐる芥川の體は固まりかけたと僕は橫目でみてゐた。芥川が死ぬために建増しをした書齋兼寢室は、晴天であつても明るくはなかつたが、雨氣で一層暗かつた。芥川は首を北にして寢てゐたやうである。
「幸に、けふは日曜で夕刊は休みだし、新聞には明日になるだらう、」さう言ひながら、僕らは芥川の友達が集まるのを待つてゐたが、文壇の人が三、四人みえた頃には意外に速く新聞社の人がきた。警視廰に遊びに出かけていつた者が偶然に變死人としての芥川を知つたとは、日日の記者(沖本)が言つてゐたと思ふ。後に愛宕山に關係した久保田万太郎はじめ誰もラジオに思ひつかなかつた時代で、僕は東北にゐてラジオで芥川の死を知つたといふ人の話に感心したものだ。
[やぶちゃん注:「愛宕山」現在の日本放送協会(NHK)の前身である東京中央放送局のこと。現在、NHK放送博物館のある東京都港区愛宕の丘陵愛宕山に局があった。小穴は「後に」と言っているが、ウィキの「久保田万太郎」によれば、芥川龍之介の生前の大正一五(一九二六)年に久保田は『慶應義塾大学講師を辞して』後、『前年から放送を開始した東京中央放送局(後の日本放送協会)嘱託となり、以後演劇科長兼音楽課長を経て文芸課長として』七『年間常勤し、ラジオドラマなどを手がけた』とあるから、龍之介自死の折りにすでに関係者であった。以下、最後に本章に挿入された芥川龍之介葬儀場の配置図と(近代文学展の配置図かと見紛う錚々たる面子である)、この時、小穴隆一が描いたデスマスクの配された表紙を再掲しておく。これを以って「二つの繪」パートは終わっている。]