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2017/01/02

小穴隆一 「二つの繪」(5) 「自殺の決意」

 

      自殺の決意

 

 大正十五年四月十五日、日曜日、八日は晴れ、九日は強風、十日が雨、十一日は暗かつた。その四月十五日から數へると一年と三ケ月ほどたつて、大勢の人達が棺の前で燒香をしてゐたところが、「力も根も盡きはてた、」とうなだれた芥川の坐つてゐた場所である。

「かういふことを言つていいものだらうか、」

「人にかういふことを言ふべきものではない。が、言つていいだらうか。」

 かう切りだす前に、芥川は寢床の上に起きなほつてその細い腕をだしてみせてから、裾までまくつて瘦せこけてしまつてる内股をしめすと、「これだから僕ももうながいことはないよ、」と撫でさすりながら皮ばかりのやうな肉を摘まむでさう言つてゐた。芥川がだしぬけに立上り、僕が、あああ、といふ息を殺してゐると、茶間にでる廊下の境目の唐紙を閉めて、また寢床の上に坐つたが、一と跨ぎに動いてしまつたそのいきほひといふものは全く僕をそこに釘づけにしてしまつてた。

「君に言つていいだらうか、」

「かういふことは友達にも言ふべきことではない、が、友達として君は聞いてくれるか、」

 居合腰にきざみこむでくる芥川の言葉にはしのぎもつかず默つてゐた僕も、「どんなこと?」と口を開いた。すると、

「それならば僕は言ふが、君と僕とは今日まで藝術の事の上では夫婦として暮してきた。僕は十九の時に自分の體では二十五までしか生きないと思つた。だから、それまでに人間のすることはあらゆることをしつくしてしまひ度いと思つて急いだ、――しかし、澄江堂を名乘つてからの僕は、それこそ立派な澄江堂先生ぢや、――僕はかうやつて、ここにねてゐても絶えず夏目先生の額に叱られてゐるやうな氣がする、――」

と、無氣味な目で芥川は彼の背を指さした。僕はそこの鴨居に依然たる、風月相知 漱石 の額の字をみた。

 芥川の話は七年前(數へ年二十八歳)の□夫人とのただ一度の情交に關し、「事露顯はれて後、事を決するよりも、未然に自決してしまひたい、」と言ふのであつた。

 僕は芥川の話を聞いてゐる間にすこし妙な氣がしてゐた。妙な氣がしてゐたといふのは、そのとき數日前、六日の晩に僕ら二人のときに□夫人がきてゐたからだ。六日であることは錯覺とは思へない。□夫人は自笑軒の歸りであると言つて妹を連れてゐた。僕よりはあとにきて、さきに歸つて行つたが、彼女は自笑軒の茶室の間どりを語り、普請にとりかかる彼女の茶室の圖面を芥川にみせてゐた、ただそれだけのことで歸つて行つた。(彼女はその場の僕に茶掛けを畫いてくれと言つてゐたし、彼女が歸つていつたあとで芥川は、君、賴むから畫いてやつてくれるなと言つてゐた。)

 自決することを僕に言つてからの芥川は、□夫人の代名詞に、河童といふ言葉を使つてゐたが、後には□夫人以外の女人の話にも、雌河童といふ言葉を使つてゐるやうになつてゐた。□夫人は昔、芥川が彼女に一座の人達(日曜日で彼の家に集つてゐた人達)を紹介してゐたときに、ほかの人には順々にお時儀をしてゐながら、どういふ次第か、「わたし小穴さんには態とお時儀をしないの、」と、人に氣づかれないほどの小聲で、微笑をみせながら僕の顏いろをみてゐたので、大正十二年以前のことであるが、その一言で僕に「芥川となにかあるな、」と思はせてしまつてゐた人だ。

 

 勿論昭和二年のことであるが、芥川が朝下宿にやつてきて、「今日は河童がくるから、君六時に僕のところにきて、河童が歸るまでそばにゐてくれないか、」といつて歸り、かれこれ六時に、義ちやん(葛卷義敏)がきましたよといつて迎へにきたので、芥川の家にいつて、□夫人の邪魔をしてゐたが、□夫人が芥川と會つたのはその日が最後となつてゐるのであらう。僕はつまらない役をさせられたものだと思つてゐるが、出向いてみると芥川はそのとき、なんとしたことか重病人のやうに布團のなかにはいつてゐたものだ。芥川の枕もとに坐つてゐた□夫人はその日出來上つた茶室のことと茶掛けの畫のことを言つてゐた。僕は□夫人がどういふ人であらうともなにかあはれにもなつてゐた。芥川の「秋」はこの□夫人の話からできたものと芥川から聞いてゐる。

 立派な澄江堂先生ぢや、のぢやは室生犀星の「けなるい」とか「ぢや」とかいふ金澤ことばに染つたもの。

 芥川に自殺の決意をいはれたのは、僕が小石川丸山町のアパートにゐたときである。

 

[やぶちゃん注:「大正十五年四月十五日」この前後を宮坂年譜で見ておきたい(『 』部は書簡引用を除いて、宮坂年譜のもの)。

四月一日  西田外彦(哲学者西田幾多郎の息子)夫妻と『高橋民子が来訪する。昨年から続いていた小穴隆一と高橋文子(幾多郎の姪)の縁談の件と思われるが、話がうまく進まずに苦慮する』。『夜、下島が来訪して診察』。

四月五日  弟子の渡辺庫輔(くらすけ)に『その後あひかわらず神經衰弱はひどし、胃腸は惡いし、痔にも惱まされて鬱々と日を送つてゐる』と同日附書簡に記している(旧全集書簡番号一四六六)。

四月六日  『午後、体調が優れずに寝ていると、下島勲が来訪し、亡くなった行枝』(下島の養女で小学校六年。前月三月十六日に肺炎で夭折した)『のための悼亡の句を作ってもらえるように依頼される』(完成した句は「更けまさる火かげやこよひ雛の顏」)。『夜、小穴隆一、秀しげ子が来訪する』(これは本書に記載に拠る)。

なお、この四月上旬には『一時やめていた』睡眠薬『アダリンの服用をまた始め』ており、『もはや通常の量では足りず、三倍以上の二グラムを服用し』ていた。『佐佐木茂索からもらった睡眠薬(アロナール・ロッシュ)も、この頃から服用するようになり』、『以後、長く常用する』ようになってしまった、とある。

四月十三日  「凶」を脱稿している。これは非常に不吉で不気味な実体験談実録風にものである。リンク先は私のマニアック注附きのそれである。

四月十五日  『小穴隆一が来訪する。この日、小穴に自殺の決意を告げた』(本書に基づく)。

四月二十二日 『文と也寸志を連れて、鵠沼の東屋(あずまや)旅館へ静養に出かけ』、『以後、年末まで、鵠沼が生活の拠点となった』。しかし、『鵠沼では来客が多く、疲労感をつのらせ』、『来客中は元気に振る舞ったが、脚が帰ると額から脂汗を流し、縁側に倒れてしまうようなことが度々あった』。

四月二十三日 「發句私見」を脱稿している(リンク先は私の電子テクスト)。

四月二十五日 『朝、胃酸を吐きそうになる』。

 

「居合腰」「いあひごし」。居合で斬り込む際、片膝を立てて腰を浮かした姿勢。

「しのぎもつかず」「鎬(しのぎ)」とは、刀の刃と峰(背の部分)の間で稜線を高くした部分。その鎬が削れ落ちるほど激しく刀で斬り合うさまが「鎬を削る」で、転じて対峙して応戦・議論することに用いられる。ここは「鎬も附けることが出来ない」ような有無を言わせぬ迫真の覚悟が芥川龍之介にあったことを言っている。

「額」直後で判るが、揮毫された書を飾った「がく」である。

「風月相知 漱石」四字は「ふうげつあひしる」(先行する「鯨のお詣り」にかくルビする)。以下に当該書額の画像を示す。

Sousekisyogaku

「七年前」大正八(一九一九)年。肉体関係に及んだのは同年九月半ばのことである。

「□夫人」芥川龍之介が始め、「愁人」と呼んだ歌人秀しげ子。今や、伏字にする必要は全くない知られた芥川龍之介最大最悪の不倫相手である。

「ただ一度の情交」ただ一度というのは甚だ怪しい。

「事露顯はれて後」「ことあらはれてのち」。「鯨のお詣り」のルビ。

「事を決するよりも、未然に自決してしまひたい」これは秀しげ子に夫(帝国劇場電気部主任技師秀文逸(ぶんいつ)がおり、彼に事実を知られて姦通罪で訴えられた場合を想定してのことであった。実際にはそうした訴訟には発展した形跡がない。芥川龍之介が秘密裡に示談にしたという説もある。

「自笑軒」田端の自宅近くにあった会席料理屋「天然自笑軒」。因みに、芥川龍之介は文との結婚披露宴をここで行っている。

「茶掛け」茶室に掛ける幅の狭い掛け軸・掛け物のこと。

を畫いてくれと言つてゐたし、彼女が歸つていつたあとで芥川は、君、賴むから畫いてやつてくれるなと言つてゐた。)

「□夫人の代名詞に、河童といふ言葉を使つてゐた」「後には□夫人以外の女人の話にも、雌河童といふ言葉を使つてゐるやうになつてゐた」これは芥川龍之介が自作の河童」の「六」で、河童の「ラツプ」が、好きでもない「硫黃の粉末を顏に塗つた、背の低い雌の河童」に抱きつかれてしまい、「いつかラツプの嘴(くちばし)はすつかり腐つて落ちてしま」うという顛末を意識した呼称、男を破滅させるものを内包する〈宿命の女〉のゲスな表現として使用しているものと私は考えている(リンク先は私の電子テクスト。これには芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈という別立てページもある。未見の方は、是非、どうぞ)。

『□夫人は昔、芥川が彼女に一座の人達(日曜日で彼の家に集つてゐた人達)を紹介してゐたときに、ほかの人には順々にお時儀をしてゐながら、どういふ次第か、「わたし小穴さんには態とお時儀をしないの、」と、人に氣づかれないほどの小聲で、微笑をみせながら僕の顏いろをみてゐたので、大正十二年以前のことであるが、その一言で僕に「芥川となにかあるな、」と思はせてしまつてゐた人だ』小穴の芥川龍之介戸の初会は大正八(一九一九)年十一月二十三日であるから、龍之介が秀しげ子と不倫関係となった直後である。しげ子は、芥川龍之介が小穴を〈異常〉に(まさにこの言葉が私は相応しいと考えている。即ち、私は小穴隆一と芥川龍之介の間には濃厚な同性愛感情があったと実は深く疑っているのである)愛していることを敏感に感じ取った秀しげ子は、当時、既に、急速に自分から離れようとしている龍之介を考え、そこにこの小穴という存在の、彼女から見て〈妖しい匂い〉を感じ取ったのだと私は思うのである。

『芥川の「秋」はこの□夫人の話からできたものと芥川から聞いてゐる』事実である平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の「芥川龍之介作品事典」の「秋」の項(関口安義氏執筆)に、『「秋」の素材提供者の秀しげ子は、本作を読んだ後、』「あゝ云ふ材料をあゝもすらすらと片づけてしまはずにもつと信子や照子の心理狀態を深刻に解剖して知識階級にある現代夫婦人の人生ぬ對する人間苦を如實に描写してほしいと思ひます。私には現代の作家が女性を描くのに何故もつと積極的に取り扱はないのかと不思議に思ひます」(「根本に觸れた描寫」『『新潮』一九二〇・一〇)と批評を加えた。これは角度を変えると当然生じる真っ当な批判である。ここには当時自他共に認めた秀しげ子の本領が示されている。彼女は自分の与えた材料が、あまりにすらすらと片づけられているのに不満をもらしているのだ』とある。

「ぢや」私の認識から言うと、これは「ぢや(じゃ)」ではなく「ちや(ちゃ)」であるべきで、「ちゃっちゃ弁」とも呼称される金沢弁、文末に「~ちゃ!」を附すそれであるべきと考える。私は中学高校と六年間、富山に住んだが、倶利伽羅峠を越えるとかく美しいものが、何故、富山では「~ちが!」とおぞましく汚くなるのか、理解出来なかったことを告白しておく。「~なんだよ!」という念を押す終助詞である。

「けなるい」金沢弁で「羨ましい」の意。

「小石川丸山町」東京都文京区千石。附近(グーグル・マップ・データ)。]

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