小穴隆一「二つの繪」(33) 「影照」(8) 「芥川の畫いたさしゑ」
芥川の畫いたさしゑ
昭和二年の夏、芥川は東日に「本所兩國」を書いた。そのさしゑは藤澤古實が(アララギ派の歌人、當時美校で彫刻をやつてゐるといふ話を聞いた、)やるはずであつたところ古實が辭退したので、岸田劉生に「銀座」あり、われもまたといふことにして芥川が畫も畫かうと、カットは橋、畫は芥川家が載つてゐる昔の地圖の模寫で一囘分ができたが、あと十四日分ではしのげずに、掲載の前の日になつて急に僕がやらされた。
大正の十二、三年頃であらう、僕が婆やの鯨のお詣りが面白くてその話をそのままを寫しておいたのを、芥川がみて面白がり、半紙にすらすら群鯨參詣圖を畫くと、「人間」であつたか、「隨筆」であつたかにそのまま畫といつしよに渡してしまつた。その畫の板木はできたが、その雜誌がつぶれてそのままになつてしまひ、板木は神代種亮(故人、校正のエキスパート)が持つてゐたが、後にある印刷所が全燒の際に燒けてしまつた。
[やぶちゃん注:この前半の話については、芥川龍之介の「晩春賣文日記」に詳しい(リンク先は本電子化のために先日、急遽、私が電子化したもの)。芥川龍之介の戯画「群鯨參詣圖」の底本の挿絵は劣悪で、私の所持する小穴隆一編の「芥川龍之介遺墨」(中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の昭和五三(一九七八)年再版本)も見たが、これも印刷状態が薄い(鯨自体の映りはこれが最もよいが)。諦めかけたところ、実に以外なことに小穴隆一の先行する「鯨のお詣り」(中央公論社刊)に挿入されたそれが、画素は粗いものの、芥川の署名がよく見える点で使用に耐えると判断し、それをここに掲げることとした。
『昭和二年の夏、芥川は東日に「本所兩國」を書いた』芥川龍之介の「本所兩國」は昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回(九日と十六日は休載)で「東日」=『東京日日新聞』(芥川龍之介が社員であった『大阪毎日新聞』の傍系誌)の夕刊に、シリーズ名「大東京繁昌記」(その四十六回から六十回に相当)を附して連載された。
「藤澤古實」(ふるみ 明治三〇(一八九七)年~昭和四二(一九六七)年)は歌人で彫刻家。東京美術学校彫刻科卒(大正一五(一九二六)年)。卒短歌を島木赤彦に師事、『アララギ』発行所に起居して生活もともにした。土田耕平らと赤彦を助けて刊行の事務を遂行しつつ、作歌に励み、赤彦の病床にも侍し、「赤彦全集」編纂も手掛けた。
『岸田劉生に「銀座」あり』洋画家岸田劉生(明治二四(一八九一)年~昭和四(一九二九)年)は、まさに同じ『東京日日新聞』の「大東京繁昌記」に、挿絵と追想録「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」(リンク先は「青空文庫」版のそれ)を書いてはいるが、その連載は昭和二(一九二七)年五月二十四日から六月十日であって、芥川龍之介の「本所兩國」の連載終了を受けた次である。従って、この小穴隆一の「われもまたといふことにして芥川が畫も畫かうと」したとする証言はおかしい。
「カットは橋、畫は芥川家が載つてゐる昔の地圖の模寫で一囘分ができたが、あと十四日分ではしのげずに、掲載の前の日になつて急に僕がやらされた」先に示した芥川龍之介の「晩春賣文日記」の「五月二日」の条を参照されたい。
「婆やの鯨のお詣りが面白くてその話をそのままを寫しておいたの」先行する小穴隆一の「鯨のお詣り」に「鯨のお詣り」として載る。後日、電子化する。
「人間」雑誌名。玄文社が大正八(一九一九)年十一月に創刊した文芸雑誌。編輯は吉井勇・田中純・久米正雄・里見弴。秋田雨雀・有島武郎・有島生馬・久保田万太郎らが執筆した。
「隨筆」雑誌名。随筆発行所が大正一二(一九二三)年十一月に創刊した文芸雑誌で、泉鏡花・徳田秋声・芥川龍之介・菊池寛など、その豪華執筆陣で知られた。
・「神代種亮」(こうじろたねすけ 明治一六(一八八三)年~昭和一〇(一九三五)年)は書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた(但し、原稿を作家に無断で改変したりし、批判も強く、芥川龍之介も一部、不満を持っていた人物でもある)。芥川は作品集の刊行時には多く彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。龍之介より九歳上。芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯の「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」では跋文を彼が書いている。リンク先の私電子テクストの私の注も参照されたい。]
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