柴田宵曲 妖異博物館 「白鴉」
白鴉
白い鴉などは世にも珍しい話かと思ふと、決してさうでないから面白い。
「譚海」の記すところによれば、羽州橫手の城には雌雄二羽の白鴉が年久しく住んでゐて、土地の人はよく知つてゐたが、或時一人の農夫が城下の酒屋へ白い鴉を一羽持つて來た。酒を飮んでゐた連中は皆珍しがつて興じたところ、農夫の云ふのに、白い鴉はこの城下には居るので、私どもが山稼ぎをする時には、常に見ますから、それほど珍しいことはありません、たゞいつもは高い樹の上にばかりゐるのを、これは近いところにゐた鳥、つかまへることが出來たのです、といふことであつた。亭主は勿論珍しがつて、百姓の家に飼つたところで仕方があるまいから、これは私に下さい、さうすれば見物に來る人で、酒も澤山賣れるだらう、と云ふ。農夫は承知してこの鴉を與へ、その後は鴉を見ようとして酒を飮みに來る人のために、酒屋は大いに繁昌したが、幾何もなく鴉が死に、酒買ひに來る人はまた減つてしまつた。――今でもよくありさうな話である。
[やぶちゃん注:「白い鴉」鳥綱スズメ目スズメ亜目カラス上科カラス科 Corvidae に属するカラスの仲間のアルビノ(albino)個体。部分白化個体はそれほど珍しいものではなく、私も野生のそれを何度か見たことがある。
「羽州橫手の城」現在の秋田県横手市にあった横手城(山砦)。久保田藩(秋田藩)の支城として城代が派遣されていた。
以上は「譚海」の「卷の八」の「羽州橫手しろき烏の事」以下に示す。
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○羽州橫手の城は、佐竹の家司戸村氏守る所なり。城中に白鴉雌雄二羽有(あり)、年久敷(ひさすく)住(すん)で土人能(よく)知(しり)たる事なり。農夫あるとき城下の酒屋へ白き鴉を一羽持來(もちきた)ぬ。酒のむもの皆めづらしがり興ずるに、農夫いふ樣(やう)、白き鴉は此城下まゝおほく有(あり)、我等(われら)山かせぎするときは、常に見る事にて珍敷(めづらしき)物にもあらず、只(ただ)平日は高き樹のうへにのみあるを見れど、是(これ)はたまたま近き所に居たる故(ゆゑ)取得(とりえ)たるなり。亭主聞(きき)て今日(こんにち)目(ま)ちかく見る事珍敷(めづらしき)ことなり、百姓の家に飼(かひ)て無益成(ある)事、我等に給はれ、さらば見物にくる人多く酒もうれぬべしといへば、農夫斷(ことわり)なる事とて、亭主に此鴉をあたへぬ。それよりのち此(この)からすみんとて、酒のみにくる人はたして日每(ひごと)に賑はひ、酒屋大にとく付(つき)て悦(よろこび)居たるに、いくほどもなくて鴉死(しに)たれば、又酒かひにくる人も減じぬといへり。
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「斷(ことわり)」は「理」(尤もなこと)の当て字。]
天明六年十二月、山科で獵師の捕へた鴉は、純白でなしに、羽がところどころ白く、全身は赤紫色といふ程度であつたが、見世物師どもはこれを聞き傳へて、高價に買ひ求めたいと云ひ出した。座主の宮(妙法院殿)が御覽になり、白鴉でもあらうかとの御沙汰で、果して瑞鳥かどうかを勘へよといふことになり、唐橋、高辻、伏原、舟橋、東坊城、五條、押小路、壬生、三善の諸家から恭しく勘文をたてまつる。その結果、御花壇奉行以下の役人が、この鳥を捕へた場所へ持つて行つて放たれ、今後白鴉は勿論、似寄りの鳥と雖も捕へてはならぬ、と申渡し同樣の御令書が出た。「翁草」にはこの次第及び、諸家の勘文も悉く採錄してある。全身赤紫色で、ところどころ白い羽毛があるのみでは、白鴉と称するのも如何かと思ふが、それでもこれだけの人を煩はす瑞相があつたらしい。
[やぶちゃん注:明らかな部分白化個体で、問題とするに足らぬ話である。
「天明六年」一七八六年。
「座主の宮(妙法院殿)」サイト「公卿類別譜」の歴代天台座主のデータによれば、天明六(一七八六)年八月二十日に第二百十四代天台座主となった閑院宮典仁親王の子息であった真仁(まさひと 明和五(一七六八)年~文化二(一八〇五)年)法親王である。桃園天皇養子となり、「時宮」「妙法院殿」とも呼ばれたという記載がある。以下、他の記載によれば、そもそも「妙法院」とは現在の京都市東山区にある天台宗南叡山妙法院で、皇族や貴族の子弟が歴代住持となり、天台座主へのステップの一寺でもあった。無論、真仁は妙法院門跡であった。
「勘へよ」「かんがへよ」。勘案せよ。
「唐橋」唐橋家は菅原氏の嫡流とされ、江戸後期の在家は有職故実の研究で知られた。
「高辻」は菅原道真の子孫である平安後期の高辻是綱を祖とする堂上(とうしょう)家。前の唐橋家の祖である菅原在良は是綱の弟。代々、天皇の侍読を務めた。
「伏原」家(ふせはらけ)は清原氏の嫡流舟橋家(次注参照)の分家である堂上家。歴代当主は正二位少納言・侍従・明経博士を極官とした。
「舟橋」家(ふなばしけ)は第四十代天武天皇の皇子舎人親王の子孫で清原氏の流れを汲む堂上家。代々、天皇の侍読を務めた。
「東坊城」家(ひがしぼうじょうけ)は鎌倉末期・南北朝期の公家五条長経の次男東坊城茂長を祖とする堂上家。
「五條」鎌倉時代の公家菅原為長の子高長を祖とする。大学頭・文章博士・式部大輔・中納言・大納言を極官とする。後にここから先の東坊城家等が別れた。
「押小路」家(おしこうじけ)は、江戸時代の武家官位にあって各大名家に与えられる家格に相当する家格(「羽林(うりん)家」と格付けした)を有した公家で、寛文年間(一六六一年~一六七三年)三条西公勝の次男公音が創設した。押小路の家名は、居住地名に由来する。家職を歌道とする三条西家の分家であるが、漢詩の家柄として知られた。
「壬生」家(みぶけ)。羽林家の家格を有する公家。藤原北家中御門流で持明院家支流。代々、太政官の史(ふひと)を務め、居所が京都の壬生にあったことを以って家名とした。
「三善」家。不祥。
「勘文」「かんもん」。朝廷から諮問を受けた学者等が由来・先例等の必要な情報を調査して報告(勘申)を行った文章のこと。
「御花壇奉行」宮中内の庭園を管理統括する役職らしい。
以下の役人が、この鳥を捕へた場所へ持つて行つて放たれ、今後白鴉は勿論、似寄りの鳥「翁草」以前同様、国立国会図書館デジタルコレクションにあるが、巻や標題が不明なので、調べるのは諦めた(多分、雜話内にあって目次には出ない)。それらを御存じの方は御教授願いたい。]
この話は相當有名であつたと見えて、「甲子夜話」にも書いてあるが、皆人祥瑞と稱したに拘らず、翌年京都は大火で、禁闕も炎上した。祥瑞どころではなかつたのである。その後松平信濃守(御書院番頭で、豐後岡侯中川久貞の子、松平家の義子となる)に會つて聞いたら、自分の實家である中川の領内では、たまたま白鴉を見ることがあると、足輕などに命じて逐ひ索め、鐡砲で擊ち殺すことになつてゐる、白鴉は「城枯らす」の兆であると云つて、その名を忌むのだ、と云つて笑つて居つた。橫手や岡の鴉は純白であつたかどうか。京都の例を以て推せば即斷しかねる。
[やぶちゃん注:
「中川久貞」(享保九(一七二四)年~寛政二(一七九〇)年)は豊後岡藩(現在の大分県の一部を領有し、藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)にあった)の第八代藩主。この御書院番頭松平信濃守というのはのこ中川久貞の四男であった松平忠明のことと思われる。
これは「甲子夜話卷之四」の第六条に出る、以下の「白烏の話」である。
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天明の末か、京師の近鄙より白烏を獲て朝廷に獻じたることあり。みな人祥瑞と言ける。然に翌年、京都大火し、禁闕も炎上す。其後、松平信濃守〔御書院番頭。もと豐後岡侯中川久貞の子、松平家の義子となる〕に會して聞たるは、曰、某が實家中川の領内にては、たまたま白烏を覩ること有れば、輕卒を使てこれを逐索め、鳥銃を以て打殺すことなり。その故は、白烏(シロカラス)は城枯(シロカラス)の兆とて、其名を忌て然り。野俗のならはし也と云て咲たりしが。
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白鴉が「城枯らす」に通ずるなどは、武家に限つた物忌みであらう。武道がなり下るといふことで、葡萄の模樣を忌むといふのと同じやうなものである。
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