小穴隆一「二つの繪」(41) 「入船町・東兩國」
入船町・東兩國
「扨、昨日義ちやんよりのお言づけを老人達に申傳へましたが何しろ昔の事で、すこしも覺えて居りません。築地入舟町八丁目、番地は一寸不明で御座いますが一番地ではなかつたかと思ふ位で御座います。私は全然わからない事で何とも申上げやうも御座いません。
また本所は小泉町十五番地で、國技館から半町ほど龜澤町に向つて行つた反對がはで新宿に移る時に釣竿屋にゆづつたとの事で向ふがはに大きな毛皮屋がありました。震災後の事は一寸わかりません。
尚入舟町の方は近所で澤山外國人の家があつた由。何でも聖路加病院の近くださうで御座います。」
岩波から普及版「芥川龍之介全集」全十卷が刊行されることになつた昭和九年に、僕は芥川夫人からかういふ手紙をもらつて、〔明治二十五年三月一日、東京市京橋區入船町に生まる。〕又〔母方に子無かりし爲、當時本所區小泉町十五番地の芥川家に入る、〕といふところから順に寫眞に撮つておかうとした。寫すのは弟がやつてくれることにして、二人で行つてみると、いりふねばしのまん中でもう途方にくれてしまつた。橋を渡る前と渡つたあとの二つの交番のどちらで聞いても、現在の入舟町には五丁目までで八丁目はないといふのである。それでやむをえず、僕はあてずつぽうに廣くなつてゐた通りを撮つておいてもらつたが、芥川關係の入船町のことは、いまとなると當時の月報第二號に載つてゐる葛卷久子の手紙で偲ぶよりほかはなかつた。
芥川がこの姉とも義絶せよと書置してゐる、その間の事情はともかくとして、芥川の入船町、少年時代の事などを書いてゐるこの手紙は、新書判の芥川龍之介案内といつたものにでも收錄できなかつたのか、ちよつと惜しいものである。
小泉町十五番地のはうは震災後東兩國三ノ一・五となつてゐたが、釣竿屋さんといふのはこれはいたつて簡單にわかつた。さうして、店さきでこちらの話を言ふと、今日は病氣で臥せてゐるといふ主人がわざわざでてきて、昔の芥川家の正面の見とりと間どりを畫いてくれた。慾を言ふと、それが僕らの使ふやうな鉛筆でなく、HBあたりの硬いものを使つてゐるので、雅致のあるその筆跡も凸版にはむつかしくて、致方なくそれをペン畫のインキでなぞつて紹介することとした。[やぶちゃん字注:「HB」は底本では一字分の箇所に横書き。]うどんそばの家も釣竿屋さんの家のなかにはいつてしまつてなくなつてゐたが、うどんそばと渡邊牛乳店の間をはいつた通りに面した塀が昔の芥川家の塀と同じ樣式であると教へられて寫眞に撮つておいてもらつた。
芥川夫人に石井商店の主人が畫いてくれた圖面を見せたら、この繪どほりですが、芥川さんの五葉の松といつて、有名な松があつたのですがそれが畫いてないと言つてたのは、ほほゑましかつた。石井商店といふのは、電車通りの釣竿屋さんにしては隨分大きい店と思つたが、終戰後はどうなつてゐるのか見てないので知らない。
[やぶちゃん注:以下、上の写真の下に附されてある横書キャプション。]
石井商店の主人の話では、脇の塀は芥川家からゆずり受けた時のままの形であるといふので寫しておいた。主人の畫いてくれた正面の見とりと間どりの圖面とこれで、本所時代の芥川家といふものが僕らにしのべる。
[やぶちゃん注:以下、上の図の図中キャプションは活字であって判読が容易なので電子化しない。一つだけ、上図に『間口七間半』とあるが、これは十四メートル弱に当る。]
[やぶちゃん注:「築地入舟町八丁目」新全集宮坂覺年譜によれば、芥川龍之介の生地(明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)は外国人居留地の一廓であった、築地入舟町八丁目一番地で、現在の東京都中央区明石町一〇―一一に相当するとある。これは現在の聖路加国際大学の敷地内と考えられる。ここ(グーグル・マップ・データ)。ああ……そうか……二年前の夏……私が脳を損傷して聖路加(ルカ)国際病院のベッドから見下ろしていたのは……なんと……芥川龍之介の生地だったのだ…………。
「本所」「小泉町十五番地」芥川龍之介が実母フクの精神疾患の発症によって約八ヶ月後の同年十月二十七日(推定)にフクの実家でフクの兄芥川道章が当主であった本所区小泉町十五番地(現在の墨田区両国三丁目二十二番十一号)方に引き取られた。このグーグル・ストリート・ヴュー画像の「やよい軒両国店」というのが、旧芥川家のあった場所である。「横綱通り」入口の「やよい軒」の反対側(右手)に「芥川龍之介生育の地」という案内板を確認出来る。グーグル・マップ・データの地図ではここ。
「半町」五十四強メートル。
「龜澤町」現在のJR両国駅直近の東北東線路北側の墨田区亀沢(かめざわ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「毛皮屋」現存しない模様である。
「入船橋」旧築地川に架かっていた橋であるが、現在は完全に暗渠となっている。地名としては残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「葛卷久子」芥川龍之介の直ぐ上の実姉新原ヒサ(明治二一(一八八八)年~昭和三一(一九五六)年)。現行ではかく「ヒサ」と表記するのが一般的。葛巻義敏の母。
「芥川がこの姉とも義絶せよと書置してゐる」「その間の事情」前者は芥川文宛遺書の破棄された部分にあったと推定されている指示。私の「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」を参照されたい。この指示(異母弟得二との義絶も記されていたと考えられている)の動機(「事情」)は、その部分が破棄され、しかもそれが実行されなかった関係から、よく判っていない。少なくとも私はそれを問題とした論文を見たことはない(得二は人格的に問題があり、行動にも過激で偏執的傾向があって、龍之介自身が親しくしていなかったことからも腑に落ちる指示ではある)。或いは葛巻義定とのよく理由の判らない離婚(新原敏三の牧場の獣医であったが、前の小穴隆一の記載によれば業務上横領をしたことを動機とするとする)や弁護士西川豊との再婚と豊の鉄道自殺などに於ける彼女の応対に弟として人間として激しく失望したことによるものと考えてよかろうと思う。
「新書判の芥川龍之介案内」小穴隆一は「といつたもの」と言っているが、実際、戦後の第三次新書版全集(昭和二九(一九五四)年十一月~翌年八月)全十九巻・別巻一の「別巻」は実は「芥川龍之介案内」という標題・背文字を持つ。
「うどんそばと渡邊牛乳店の間をはいつた通り」現在の「横綱通り」。恐らくはグーグル・ストリート・ビューのこのフレーミングで撮ったものが挿入された写真と思われる。この中央付近(グーグル・マップ・データ)から現在の京葉道路方向を撮影したものと推測される。無論、当時の赴きは全くない。一致するのは奥の電信柱ぐらいなものである。
「石井商店」小穴隆一の悪い癖だ。「釣竿屋さん」のこと。旧芥川道章家の後地に出来た釣具店のこと。この小穴隆一の記事が昭和九年であるが、少なくとも続く昭和十年前半位までは、まだこの釣具屋石井商店はあったと思われることが、とある方の追想記事から確認出来た。]
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