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2017/01/05

柴田宵曲 妖異博物館 「舟幽靈」

 

 舟幽靈 

 

 舟幽靈の最も著名なものは謠曲の「船辨慶」であらう。「あら不思議や。海上をみれば、西國にて亡びし平家の一門、おのおの浮み出でたるぞや」といふわけで、義經以下の主從に對し、平知盛の幽靈が薙刀を持つて現れるのだから、-代の壯觀である。かういふ舟幽靈を後世に求めたところで仕方がない。

[やぶちゃん注:「船辨慶」観世小次郎信光作とされる、源義経・武蔵坊弁慶・静御前・平知盛の亡霊を主たる登場人物とし、前半と後半でシテの演じる役柄が全く異なるなど、華やかで劇的な構成を特徴とする。詳しいシノプシスは参照したウィキの「船弁慶」を読まれたい。引用の台詞は後段のクライマックスの冒頭のワキの台詞。「海上」は「カイショオ」(発音式表記)。]

 江戸時代の隨筆の中で、舟幽靈に關する記載が多く、且つ精彩に富んでゐるものとしては、第一に「甲子夜話」を擧げなければならぬ。平戸邊ではグゼ船とも云ひ、海上溺死の迷魂が、夜陰に往來の船を惑はすことになつてゐる。或人が平戸の城下から一里半ばかりのところに漕ぎ出して釣り暮らし、夜に入つて歸らうとすると、小雨が降り出して眞暗な中に、十餘町の北に當つて、二十四反と覺しき大船が、帆を十分に揚げて走つて來る。よく見れば風に逆らつて行くのに、帆を張ること順風に走るが如くであつた。その船首には熾んに火を焚いてゐるが、燄が見えぬ。船中に何人かの人が動くやうに見えて、その形は分明でない。怪しみ見るうちに、自分の舟が動かなくなり、目當てにした嶋も隱れ去つて、何方へ行つていゝかわからなくなつた。その時舟幽靈は苫を燒いて舟端を照らせば去ると云ひ出した者があり、その通りにしたところ、果して四方晴れやかになり、舟は進んで初め眞近かつた鎌田の橫嶋といふ瀨先に乘りかけた。こゝで危く嚴にぶつかりさうになつたので、速かに碇をおろして免れた。このために一時餘り迷はされたが、どうにか無事に歸ることが出来た。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話 卷二十六」の第八話目「船幽靈の事」の冒頭の事例である。

   *

 領土の海中には船幽靈と謂ふものあり。又、或はグゼ船とも云ふ。これ海上で溺死の迷魂、妖を爲す所と云ふ。其物、夜陰海上にて往來の船を惑はすなり。或人舟に乘て、城下の海の北方一里半を出て釣りし、夜に入りて歸らんとす。時に小雨して闇黑なるに、その北十餘町に當(あたり)て廿四、五反(たん)とも覺しき大船、帆を十分に揚て走り來る。よく見れば風に逆(さからひ)て行なり。去れども帆を張ること、順風に走るが如し。又、船首の方に火ありて、甚(はなはだ)熾(さか)んなり。しかれども焰(ほのほ)なくして、赤色、波を照し、殆(ほとんど)白日の如し。又船中に數人在りて搖動する如くなれども、其形、明瞭ならず。怪み見るうち、乘たる船止(とまり)て進まず。乃(すなわち)、漕去(こぎさ)らんとすれども動かず。又、目當てとしたる嶋、忽(たちまち)、隱沒して無し。遂に行くべき方を知らず。一人が云ふ、船幽靈は笘(とま)を燒(やき)て舟先を照せば立去るなりとて、如ㇾ此(かくのごとく)せしに、果たして四方晴やかになり、舟進んで初め間近かりし鎌田の橫嶋と云へる所の瀨先きに乘(のり)かけ、巖(いは)に觸れて破れんとす。因(より)て速やかに碇(いかり)を下して危を免れたり。是が爲に迷はされしこと、凡一時餘にしてやうやう城下に歸れり。

   *

文中の「十餘町」は「一町」が約百九メートルであるから、千七百メートル前後か。「廿四、五反」一反(たん)は三百坪であるから、七千坪を有に越えるので、東京ドーム半分ぐらいの巨大な船である。幽霊船だから、アリ! 「笘(とま)」は菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだ莚(むしろ)のこと。和船ではこれで上部を覆って雨露を凌ぐのに用いた。

「グゼ船」調べてみると、単に「グゼ」とも呼んでおり、「グゼ」自身が海で死んだ者の妖怪化したもの、総体としての「舟幽霊」の謂いであるようだ。但し、佐賀での舟幽霊は「アヤカシ」の方が一般的には知られる呼称である。しかし、「アヤカシ」は山口県や九州で広汎に用いられる舟幽霊の別称であり、この「グゼ」は或いは佐賀地方独特の異名であるのかも知れない

「燄」「ほのほ」。炎。]

 この場合のグゼ船はさのみ接近して居らぬやうであるが、志自岐浦から夜舟で歸らうとした者の場合は、途中で俄かに艪が動かなくなり、舟が止つてしまつた。亂髮の人が海面に首を出し、艪に食ひ付いて動かさぬのである。はじめて舟幽靈であることを知り、水棹で突き放さうとしても離れない。灰を振りかけたら、暫くして漸く離れた。海面もわからぬ闇夜であるのに、その顏だけはつきり見えたのも不思議であつた。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話 卷二十六」の第八話目の先の話に続く第二事例である。「志自岐浦」は「しじきうら」と読み、平戸藩庁からの距離から、これは現在の平戸島(平戸市)南端西方に貫入する志々伎(しじき)湾のことと判る。ここ(グーグル・マップ・データ)。【 】は割注。

   *

又、城下の南【九里】志自岐港にて、舟にて夜歸(よがへり)する者、途中にて俄に櫓搖(うご)かず、舟、止(とま)りたり。怪んで見るに、亂髮の人が海面に首(かうべ)を出し、櫓に喰つきて動かさゞるなり。始て舟幽靈なるを知り、驚(おどろき)て水棹(みづざお)にて突き放さんとすれども離れず。乃(すなはち)、灰をふりかけたれば、しばしして離れたり。闇夜ゆゑ海面も辨別ぜざるに、かの顏色計(ばかり)、分明に見えしも訝しきことなり。是もグゼの所爲なりとぞ。

   *]

 志佐浦を舟行する兄弟の者が出逢つたのは、夜中風雨の中を破船に乘つた二人の者が漕いで來る。白衣亂髮の體で、舟につき慕ふ如くであつたが、その顏色は雪のやうに白く、兄弟に對し齒をむき出して微笑する。恐ろしいとも何とも云ひやうがない。逃げ去らうとして力一杯漕いでも、更に離れようともせぬ。已むを得ず焚きさしの薪を投げ付け、無事に歸ることが出來た。倂し兄弟の者はその舟幽靈の顏が、いつまでも眼にこびりついてゐて、舟商賣はすまじきものと決意し、他の職業に就いた。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話 卷二十六」の第八話目の先の話に続く第三事例である。「志佐浦」「しさうら」で、長崎県松浦市志佐町の面する湾。ここ(グーグル・マップ・データ)。

   *

又、志佐港にて、兄弟の者ありて、舟、行(ゆか)せしに、夜中に雨風頻(しきり)なりしが、破船に乘りたる者二人來たりて舟に着(つき)たり。見るに白衣亂髮の體(てい)にして、舟につき慕うさまなり。顏色は雪のごとく白かりしが、兄弟を見て齒をむき出して微笑す。兄弟見て恐ろしさ云んかたなし。乃(すなはち)、避去(にげさ)らんと力を盡くして漕行(こぎゆく)と雖ども、隨ひ來て離るることなし。爲ん方なく、焚(もえ)さしの薪を投つけたれば、これより離去(はなれさり)て無難に還りしとぞ。これも彼(かの)舟幽靈の一種なり。後日に其顏色、猶、顏につきゐて恐しく、舟商賣は爲間敷(すまじき)ものとて、改(あらため)て他業の身となれりと云。

   *]

 生月といふところの鯨組の親方に道喜といふ者があつた。はじめ舟乘りをしてゐた頃、或夜舟端に白いものが何十も取り付いたので、よく見れば子供のやうな細い手である。棹で打つても離れず、直ぐまた取り付いて來る。棹の先を燒いて拂つたら、遂に退散した。これも舟幽靈の類ださうである。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話 卷二十六」の第八話目の先の話の次(これは舟幽霊の施餓鬼供養の話)の次にある第五事例である。「生月」は「いけつき」と読み、平戸島の北西にある有人島生月島(いきつきしま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「生月島」によれば、『江戸時代には益富組を中心とした沿岸捕鯨が活発に行われ、平戸藩の財政を支えていた』とある。

   *

又、生月と云(いへ)る所の鯨組(くぢらぐみ)の祖に、道喜といふ者あり。其始(はじめ)は賤しくして舟乘(ふなのり)を生業(なりはひ)とせし頃、ある夜、舟、行(ゆか)せしとき、舟端に何か白きもの數十出(いで)て、とり付たり。よく見れば、小兒を見るが如く細き手なり。道喜、驚き、棹にて打拂(うちはらひ)たれども、離れず。又、とり付(つく)こと度々なり。道喜、思(おもひ)つき、水棹の先を燒(やき)てそれにて拂ひたれば、遂に退(のき)て出ざりしとぞ。是も舟幽靈の類(たぐひ)なりと云。總じて笘(とま)をやき、焚(もえ)さしの薪を投げ、灰をふり、棹を焦(こが)すの類は、陰物は陽火に勝ることなきを以ての法なりと、舟人、云傳(いひつた)ふ。

   *

後半部の舟幽霊の対処法部分を柴田は次の段落で用いている。]

 人吉侯の侍醫であつた佐藤宗隆といふ人は、江戸へ出る船中で舟幽靈を見た。播州舞子の濱あたりは、かういふ事の稀なところであるが、その夜は陰火が海面を走つて怪しく見えた。ほどなく大きな四尺餘りもある海月(くらげ)のやうなものが漂つて來て、その上に人の形をした者が居り、船頭に向つて何か云ひかけさうに見えた。そこで苫を燒いて投げかけたら、そのまゝ消滅した。――以上の話に於て、苫を燒き、焚きさしの薪を投げ、灰を振り、棹を焦がすのは、陰物は陽火に勝ち得ぬからだ、と舟人は云つてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話 卷二十六」の第八話目の先の話の後に壱岐の例と豊後のケース(柴田はここではこの二例を後に回している)を挟んだ第九事例(第十事例と連結しているが、そちらはここではずっと後に出されてある。短いのでここで引いておくと、『又、同藩の毉(くすし)宗碩(そうせき)と云者も、備後の鞆浦(とものうら)の邊にて舟幽靈を見たりしが、是は正しく手を海中より出(いだ)して、柄杓(ひしやく)かせ、柄杓かせ、柄杓かせ、と言(いひ)し。かかることは某(それがし)が邑人(むらびと)の外(ほか)にも、皆々知れり、と語りしとぞ。』)である。「人吉侯」は肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した人吉藩(ひとよしはん)藩主のこと。

   *

 また語る。人吉侯【肥後】侍醫佐藤宗隆と云者、東都に出(いづ)るとき、船中にて舟幽靈を見しと云。元來播州の舞子濱の邊(あたり)は、此のこと、稀なる處なるに、其夜は、陰火、海面を走りて、怪くみえたりしが、程なく大さ四尺餘のクラゲ【海鏡】とも謂ふべき物漂ひ來るを見れば、人の形(かた)ち、上に在りて、船子(ふなこ)に向ひ、もの言(いふ)べき體(てい)にて來(きた)るなり。船子共、卽(すなはち)、笘(とま)を燒(やき)て投(なげ)かけたれば、そのまま消滅せしと云ふ。

   *

因みに、ここに出る「大さ四尺餘」(一メートル二十センチを越える)「クラゲ」というのは、瀬戸内海のこの辺りなら、大型の、刺胞動物門鉢虫綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta が棲息しているので、これが実際のクラゲであったとしても、おかしくはないとは言える。]

「甲子夜話」の著者松浦靜山侯は、壱岐に住む馬添の喜三右衞門といふ者から、グゼに逢つた體驗談を聞いた。はじめは遠くに澤山の人聲が聞えるやうであつたが、船頭はちやんと心得てゐて、間もなくグゼが參ります、必ず御覽になつてはいけません、御覽になるとこの舟に祟ります、といふので、船中にひれ伏して居つた。間もなく聲が近づいて、甚ださわがしい。見るなとは云はれたが、見たくなつて少し顏を上げたら、十分に帆を揚げた大船が、自分の船に向つて橫さまに走つて來る。人は大勢乘つてゐるやうだけれども、皆影のやうで、腰から下は見えぬ。手每に何か持つて、此方の舟に何か汲み入れようとするらしい。船頭は舟の舳先に立ち竝び、何か呪文を唱へながら、守り札の如きものでお祓ひをするやうであつたが、やがて四方に灰を撒きちらした。グゼ舟は遂に此方の舟を行き拔けたと見えて、最初は左の方にあつたのが舟の右になり、次第に遠ざかつて行つた。船頭も、もうよろしうございます、といふので、本當に頭を上げたが、グゼは已に跡形もなかつた。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話 卷二十六」の第八話目の第七事例。「馬添」は「うまぞひ(うまぞい)」と読み、馬に乗った貴人に付き添っていく従者のこと。

   *

又、予が親(したし)く聞(きき)たるは、壹岐(いき)に住める馬添(うまぞひ)の喜三右衞門と云しもの、勤番して厩(うまや)にゐたるとき、ふと舟幽靈のことを言出したれば、某(それがし)、渡海のとき、中途にてグゼに逢たりと云ゆゑ、何(いか)なる者ぞと問たれば、始めは何か遙かに人聲多く聞えたるが、船頭は、とく、これを知り、程なくグゼ來るなり。絶對に見るべからず。見ればこの舟にたゝり候なり。少しも見るまじと制するゆゑ、船中にひれ伏しゐたれば、間もなく、彼(かの)聲至(いたつ)て近く、大いに噪(さは)がしければ、見まじとは制したれど見たくて、すこし、顏をあげて見たれば、大船の帆を十分に揚(あげ)たるが、その乘(のり)たる舟に橫ざまに向けて走り來(きた)るなり。人は大勢なるが、皆、影の如くにて、腰より下は見えず、手每(ごと)に何か持(もち)ゐて、我が乘たる舟に潮(しほ)をくみ込(こま)んと噪動(さうどう)する體(てい)なり。船頭は舟のへ先(さき)に立(たち)ゐ、何か誦(とな)へて守り札の如きものを持(もち)て祓(はらひ)をする體(てい)なりしが、やがて灰を四方にふり散(ちら)したれば、グゼ舟は、是より、某(それがし)が舟を行(ゆき)ぬけたると覺しく、最初は左にありたるが、夫(それ)より舟の右になりて、次第に遠くなり行(ゆき)たり。この時、船頭、もはやよし、と云うゆゑ、それより舟中のもの、頭(かうべ)をあげたれば、もはやグゼは跡形(あとかた)もなかりしと語りし。何(いづ)れも似たることなり。

   *]

 これまでのところでは、舟幽靈は侵入に先立つて擊退されるやうであるが、佐伯侯の家老其の話によると、船頭達が恐れる間に四五人も乘り込んでゐる者がある。いづれも煙の如き存在で、二十歳以上二十四五歳ぐらゐの男と見えた。それが舟の舳先を歩き𢌞つて海に入ると、船頭は元氣になり、止まつた舟も動き出したとある。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話 卷二十六」の第八話目の第八事例。「佐伯侯」「さいきこう」で、旧豊後海部(あまべ)郡にあった佐伯(さいき)藩のこと。藩庁は佐伯城(現在の大分県佐伯(さいき)市)にあった。この話柄、舟幽霊の年齢が示される点、しかもそれが若いという点でも特異である。

   *

或人語る。佐伯公の家老某(なにがし)、領邑(りやういう)に往來のとき、三度まで舟幽靈を見たり。そのさまは、遙に沖の方より、船來る聲、聞えけるが、船子(ふなこ)等(ら)、甚(はなはだ)恐るる體(てい)なれば、何ごとぞと問(とひ)たれば、舟幽靈なり、と云(いふ)ゆゑ、顧みるに、はや、我が船に四、五人も乘居(のりゐ)たり。その形は烟(けむり)の如く、二十餘り、又は廿四、五の男なりしが、船のへさきを步き𢌞りて、程なく海に入(いり)し、となり。是より船子らも恐るゝ體(てい)なく、船の止(とま)りたるも動き出(ただ)して走行(はしりゆき)しと云。是、又、大抵、吾(わが)領邑のものと同じ。

   *]

 かういふ現象が屢々あるから、彼等の舟幽靈を恐れることは非常なもので、秋月の大道といふ僧が下關に舟がかりした晩の如きは、今日は何も仰しやつてはいけません、お話は御無用です、と船頭が云ふ。どういふわけかと問へば、今日は三月十八日で、平家滅亡の日です、といふ答へであつた。見る見るうちに海上一面に霧がかゝり、おぼろな中に何か多くの人の形が現れた。これが平家の怨靈で、人聲を聞けばその舟を覆へすから、談話を禁ずる、三月十七日、十八日の夜にこの禁があるのは、古くよりの事らしい。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話 卷二十六」の第八話目の第十一事例

   *

又、隠邸の隣地に大道と云う(いふ)僧の居りしが、この僧は筑前秋月(あきづき)の人にて、もとは黑田支侯の武士なりしゆえに、或年、上京せしとき、長門(ながと)の赤馬ケ關(あかまがせき)に船(ふな)がゝりせしに、まの當り見し迚(とて)語れるは、三月十八日のことなりし。船頭ども、言ふには、今日は何ごとをも申されな。話しなど無用なり、とて禁ずるゆゑ、何(いか)なる譯やと問たれば、けふは平家滅亡の日ゆゑ、若(もし)、物語などすれば、必ず災難あり、と云たり。夫(それ)より見いたるに、海上一面に霧かゝり、おぼろなる中に、何か人の形(かた)ち、多く現はれたり。これ、平氏の敗亡せしの怨靈なりと云ふ。この怨靈、人聲を聞けば、卽(すなはち)、その船を覆(くつが)へすゆゑ、談話を禁ずと云傳ふとぞ。昔より十七日、十八日の夜は、必ず、この禁あることなりと云。又その十四日、十五日の頃より海上荒く潮(しほ)まき抔(など)ありて、彼(かの)邊りは、ものすごき有りさまなり。

   *

平家滅亡の長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた「壇ノ浦の戦い」は、実際には元暦二/寿永四年三月二十四日(ユリウス暦一一八五年四月二十五日)で、ここに記された日付よりも六日後のことである。この齟齬は何が元だろう? 気になる。

「世事百談」の記すところは、どこの事と限つて居らぬが、風雨の烈しい夜にこの怪が多いと云つてゐる。はじめは一握りぐらゐの綿が風に飛んで來るやうに、波に浮み漂つて來るので、その白いものが稍々大きくなるに從ひ、顏容(かほかたち)が出來、目鼻がそなはつて來る。微かな聲で友を呼ぶかと思ふと、忽ち數十の幽靈が現れ、遠近に出沒し、舷に手をかけて舟の走るのを止めようとする。もうかうなつては漕ぎ拔けるわけに往かない。幽靈は聲を揚げて「いなたを貸せ」といふ。その言葉は存外はつきりしてゐる。「いなた」といふのは舟人の俗語で、大柄杓の事である。事に馴れた者が柄杓の底を拔いて投げ與へると、これで水を汲んでその舟を沈めようと努める。もし底のある柄杓だつたら、舟は沈められてしまふ。風雨の夜は舟の目じるしにするため、陸上の高いところで篝火を焚くが、幽靈もまた沖に火を擧げて舟人の目を迷はせる。何方が人の焚く火で、何方が幽靈の火かわからなくなつて、波に漂ふうちに終に幽靈に誘はれて溺沒することがある。或舟人の話によると、人の火は場所がきまつてゐるのに反し、幽靈の火は所を定めず、右にあがり左に隱れする。幽靈はまた遠くに何十といふ僞帆を揚げて走るやうに見せるから、これに從つて行けば大海の中に引き入れられるが、人の帆は風に隨つて走り、幽靈の方は風に逆らつて行くさうである。この事は「甲子夜話」の第一例にあつた。

[やぶちゃん注:「世事百談」博覧強記の随筆家山崎美成(やまざきよししげ 寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)の天保一四(一八四三)年板行の考証物。以上は、同「卷之三」に「舟幽靈」として載る。吉川弘文館の随筆大成版を参考底本として、恣意的に正字化して示す。「妖(えう/バケモノ)」は右に「えう」、左に「バケモノ」のルビがあることを示す。

   *

    ○舟幽靈

海上(かいじやう)にて覆溺(ふくでき)の人の冤魂(ゑんこん)、夜のまぎれに、行(ゆき)かふ舟を沈めんと、あらはれいづるよし、いふことなり。唐土(たうど)の鬼哭灘(きこくだん)といふ所は怪異(けい)いと多く、舟の行(ゆき)かゝれば、沒頭隻手獨足短禿(もつとうせきしゅどくそくたんとく)の鬼形(きぎやう)とて首(くび)のなき片手(かたて)、片足のせいのひくき幽靈、百人あまり群りあらそひ出來りて、舟を覆(くつがへ)さんとす。舟人の食物(くひもの)を投(なげ)あたふれば、消失(きえう)せるといへり。わが邦の海上にもまゝあるなり。風雨(かぜあめ)はげしき夜ごとに、この怪、多しとかや。俗にこれを舟幽靈といふ。その妖(えう/バケモノ)をいたすはじめは、一握(ひとつかみ)ばかりの綿(わた)などの風に飛び來(きた)るごとく、波にうかみ、漂ひつゝ、やがてその白きもの、やゝ大きくなるにしたがひ、面(かほ)かたちいでき、目鼻そなはり、かすかに聲ありて、友を呼ぶに似たり。忽(たちまち)、數十(すじふ)の鬼あらほれ、遠近(ゑんきん)に出沒す。已に船にのぼらんとするの勢(いきほひ)ありて、舷(ふなばた)に手をかけて、舟のはしるを、とゞむ。舟人どもゝ、漕行(こぎゆき)のがるゝこと、あたはず、鬼(き)、聲をあげて、いなたかせといふ。そのものいふ語(ご)、音(いん)、分明(ぶんめい)なり。こは舟人の俗語に、大柄杓(おほびしやく)をいなたと名づくる故なり。さて事に馴(なれ)たる者、柄杓の當(そこ)をぬき去りて、海上に投(なげ)あたふれば、鬼、取りて、力(ちから)をきはめて水を汲みいれてその舟を沈めんとするのおもむきあり。もし、當(そこ)あるものをあたふれば、波をくみて、舟をしづむといへり。また、風雨(かぜあめ)の夜(よ)は海上の舟道(ふなみち)の目あてに、陸(くが)にて高き岸(きし)に登り、篝火(かがりび)を焚(たく)ことあり。鬼もまた、洋中(おきなか)に火をあげて、舟人の目をまよはす。これによりて、人みな、疑ひをおこし、南みなみ)なるが人の焚(たく)にや、北にあがるが、鬼火(きくわ)かと、舟道を失ひ、かれこれと波に漂ふひまに、終(つひ)に鬼のために誘はれて溺死し、彼(かれ)と同じく鬼となることもあり。ある舟人の物がたりに、人火(ひとのひ)は所を定めて動かず、鬼火(おにび)は所を定めず、右にあがり、左にかくれ、鬼(き)、猶(なほ)且(かつ)、遠く數十の僞帆(ぎはん)をあげて走るがごとくす。人、もし、これに隨(したがひ)て行くときは、彼(かれ)がために、洋中(ようちゆう)に引(ひか)るゝなり。これも人帆(じんほ)は風にしたがひて走り、鬼帆(おにほ)は風にさからひて行く、といへり。されども、この場にのぞみては、事になれし老舟士(らうしうし)といへども、あはてふためき、活地(くわつち)に出(いづ)ることかたきものとぞ。

   *]

 陸上に篝りを焚くことは各地にあつたらうが、相州三崎の篝堂は官より建てたもので、晝夜二人づつ詰めて居つた。晝はこゝで風波や破船などを遠望し、夜は絶えず篝りを焚いて、海上船舶の目じるしになるやうに定められた。毎年七月十三日の夜は、難船橫死の靈がこの堂に現ずるため、その日に限り數十人が寄り合つて、鉦を敲き大念佛で通夜をする。大きな船が俄かに現れて漂ひ來り、巖頭に觸れて碎け崩るゝことおびただしく、忽ち數十人の影が幻の如く水面に充滿し、わつと云つてこの堂さして入り來る事、毎年變りはないと「譚海」は記してゐる。同書にはこの外に房總海上の舟幽靈に就いても書いてあるが、格別の事もないやうである。

[やぶちゃん注:私は津村淙庵の「譚海」も電子化注している。ここに出るそれは幸いにも既に電子化注してある。「譚海 卷之一 相州三浦篝堂の事」の本文と私の注を参照されたい。最後の「房總海上の舟幽靈」というのは同書の「卷之八」の終りの方に出る、「房總幷松前渡海溺死幽靈の事」である。以下に示す。

   *

○房總海中に夜泊する時、溺死魂魄の靈出現し、舟にちかづきひさくを借(かり)たきよしをしきりに乞(こふ)、其時はひさくの底をぬきてかすなり。靈ひさくをえて、終夜海水を汲(くみ)て舟へ入(いる)る貌(ばう)をなして、舟をしづめんとす。難船溺死の冤(うらみ)にたへず、他船を見ても妬(ねたみ)を生じ、如ㇾ此(かくのごとく)する事にこそといへり。松前渡海の舟もおほくはかの地に滯※して、晩秋に纜(ともづな)をとけば、歸路洋中にしておほく颱風に過(あひ)て破船をなす。松前往來の舟時々此魂魄の現ずるに逢(あふ)事とぞ。

   *

「※」は「瑤」-「王」+「氵」。「滯※」は「たいえう」で繋留或いは滞在の意か。「過(あひ)て」は私の推定読み。]

「閑田耕筆」の著者伴蒿蹊は、讚岐の金毘羅から嚴嶋に向ふ海上で舟幽靈に遭遇してゐる。はじめ船頭が俄かに人語を制するので、何事かと思ふと、烏帽子のやうなものが浮いて來て、舟と行き違ふ。これは海蛇で、烏帽子のやうに見えたのはその尾であつた。舟を覆へし、人を取るところから、舟人は恐怖するが、まだ怪異といふほどのものでもない。この物を見て間もなく、東北の間と思はれる海上から、十三四ぐらゐの子供の聲で、ほいほいと呼ぶのが三聲きこえた。舟人はまた手を擧げて、人のもの云ふことを制し、彼方に向いて「よいは、そこに居れそこに居れ」と云ふ。その日は雲霧が深くて、四方が少しも見えず、はじめは友船が呼ぶのかと思つたが、それらしい影もない。或は霧の彼方に嶋でもあつて、鳥の聲が人語のやうに聞えるのかとも疑つたけれど、この舟人の言葉によつて怪しい物とわかつた。その後聞いて見たい事があつても、船中では大分物忌みをする樣子なので默つてゐた。「按ずるに、こは船幽靈といふもの歟」と書いてゐる。この時は夜明け方に舟出をして、二三里ばかり來た頃といふのだから、お定まりの夜ではない。雲霧の深く鎖ざしたのに乘じて現れたらしい。

[やぶちゃん注:以上は「閑田耕筆」の「卷之一 天地部」の終りの方に出る比較的長い一条の中に橘の実見談として出る(そこに私が下線を引いた)。「随筆大成」版を参考に今までのような仕儀で処理して示す。【 】は割註部。読みは私が歴史的仮名遣で振った。

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○邊鄙(へんぴ)にはかくあやしきことあるも疑ふべからず。出羽は陰地にて常に曇がちなり。さる故に、人も陰氣にて、幽靈の出ること多きよし、橘南谿の東遊記に記さる。松前の奧の蝦夷地もまた然りと傳へ聞(きき)ぬ。はた唐山も同じき歟。往年長崎に來りし唐人、病人を療するがために、願ひて町家にやどりしことありしに、【もとは唐人、平常町家に來り遊びて飮食などもせしよし、そこに任し人、老の後話せし】。其隣に新死の女のありし家を夜々うかゞひしを、何ことぞととひしに、幽靈の出るを見んとおもひてなりとこたへしこと、廣川醫士の筆記にも見ゆ。ついでに又まさしくがあひたりし怪異をいはんに、今は十七八年前、讚岐(さぬき)の金比羅(こんぴら)にまうでゝ、夫(それ)より嚴島(いつくしま)に遊(あそば)んとする海路、おんどのせとゝいふ所を過(すぎ)て船をとゞめ、天明をまちて出(いだ)せしに、二三里計(ばかり)も過ぬらんとおもふ比(ころ)、船頭俄に人語を制す。何事ぞとあやしむに、烏帽子(ゑぼし)のごときもの浮(うか)みて、船に行違(ゆきちが)ひたり。さて後、なぞととふに、船人、彼物(かのもの)と計(ばかり)こたへしは鱣(ふか)なりとしられぬ。かのゑぼしのごときは、尾の先の顯(あらは)れしなり。是は船を覆(くつが)へし、あるひは人をもとれば、大きにおそるゝなり。さて怪異(けい)といふは是にはあらず。此ものを見ていくほどもあらず、東北の間とおぼしきかたより、十三四計(ばかり)の童子の聲して、ほいほいと呼ぶこと三聲、船人また手して人の物いふことをとゞめて、彼方に向ひよいはそこにをれそこにをれといふ。其れ日は雲霧深くて四方かつてみえず。はじめは友船のよぶにやと思ひしが、影も見えねば、また霧のかなたに島などありて、鳥の聲の人語(じんご)にまがふにやとも疑ひしが、此船人のいらへにて、あやしき物とはしりぬ。其後又是はなぞ、とはまほしかりしかども、船中にてはいたく物忌すれば默(もだ)しぬ。按(あんず)るに、こは船幽靈といふもの歟(か)。よるは火の光見えて、しきりに船を漕(こぎ)よせて、あるひは檜杓をこふ事有(あり)。其時底なきものを與ふ。もし底あれば、海水をこなたの船へ汲入(くみい)つて、つひに覆(くつがへ)すといひ傳ふ。此外、船中の怪異聞こと多し。溺(おぼ)れ死したるものゝ靈、おのがごとく船を沉(しづ)めんとするなりとぞ。ことに七月十五夜、十二月晦日(みそかの)夜は、諸船往來せぬがならひにて、此兩夜は海上に怪(あや)しきことあまた有といふを、何某(なにがし)の船頭、強氣なるものにて、試みに船を出せしが、果して風波さわがしく、鬼火あまた見え叫(さけ)ぶこゑなど、所々に聞えおそろしさ、言(げん)にもつくされずと、其船頭、鈴木修敬にかたりしとなり。まさしくおのが彼(かの)こゑを聞(きき)しにて、虛妄ならぬをしりぬ。

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下線部以降の箇所も次の段落で使用している。]

 蒿蹊はこれに續いて夜の舟幽靈に言及し、七月十五夜、十二月晦日の夜は、殊に海上に怪しい事が多く、諸船往來せぬことになつてゐたが、或船頭が強氣の者で、試みに舟を出したところ、果して風波さわがしく、鬼火が澤山見えて、所々に叫ぶ聲なども聞え、恐ろしさ何とも云ひやうがなかつた、などといふ話を書いてゐる。柄杓をくれといふ話は「閑田耕筆」も書き、「譚海」も書き、「甲子夜話」は人吉藩の宗碩が、備後の柄浦邊で、舟幽靈が海中より手を出して、柄杓貸せ柄杓貸せと云ふのを目擊したと書いてゐる。舟幽靈に關する紋切型ともいふべきものであらう。

[やぶちゃん注:『「甲子夜話」は人吉藩の宗碩が、備後の柄浦邊で、舟幽靈が海中より手を出して、柄杓貸せ柄杓貸せと云ふのを目擊したと書いてゐる』既に前の方の注で原文を引用済み。]

 明治になつて舟幽靈を書いたものに「海異記」(鏡花)がある。小説だけに大分描寫がこまかいが、ア、ホイ、ホイといふ聲は頻りに使つてあり、結局影のやうな形の船が見えて、危く暗礁に誘はれさうな一條があるだけで、柄杓なんぞは持出されない。漁船に乘り込んだ者が一同に見る、幻と云へば幻とも云はれるやうな海上の怪である。クロオド・ファレエルの「幽靈船」は、颱風の海上で嘗て難破した「きつね艦」を見る話で、三本マストの頂きは煙のやうに空に消えてゐるに拘らず、船體は驚くばかり明瞭に見える。その船體も、甲板に立つ金モールのついた服を著た人も、すべてが透明で、汽罐の音もなしに通過してしまふ。全く新たな世界である。西洋のかういふ話も少くあるまいと思ふが、吾々の持ち合せる舟幽靈の知識では、どうしても寸法が合はない。

[やぶちゃん注:「海異記」泉鏡花の明治三九(一九〇六)年一月発表の幻想小説。「青空文庫」ので読める。

『クロオド・ファレエルの「幽靈船」』フランスの海洋冒険小説を多く書いた作家クロード・ファレール(Claude Farrère 一八七六年~一九五七年)の一九〇五年の短篇Le Vaisseau Fantôme(原題の意は「さまよえるオランダ人」)。小品ながら、私の好きな作品である。作品の額縁である阿片窟が、これまた、いい!] 

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