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2017/01/10

柴田宵曲 妖異博物館 「異形の顏」

 

 異形の顏

 

 或旗本が御鷹野の御供に出て歸宅すると、迎へに出た家來が鬼の顏をしてゐる。内室も女中も皆鬼の顏である。甚だ不審には思つたが、刀を手から離さず、著替へもせずにぢつと坐つてゐると、奧から只今火事が起りましたと云つて來た。これにも動じないでゐるうちに、俄かに座敷の障子に火が移つた模樣で、家中の者が騷ぎ立てたけれども、依然座を動かうともせぬ。いつとなく火も消え、前に鬼の顏に見えたのも、平常の通りになつて居つた。暫くすると、今度は鄰りの旗本屋敷に女の泣き聲が聞え、何か大騷動の樣子なので、早速駈け付けて見たところ、主人が刀を拔いて家來、内室、子供に至るまで斬り付けられてゐる。實は當方もかやうかやうの次第であつたといふのを聞いて、鄰り屋敷の主人も氣が付いて見れば、平生と別に變つたこともないので、大いに後悔の體であつた。狐狸などの仕業であるか、主人だけに皆の顏が鬼の如く見える妖怪であつたらしい(蕉齋筆記)。

[やぶちゃん注:「蕉齋筆記」既出既注国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該部を視認出来る。]

 

 これと似たやうな記載は「世事百談」「閑窓瑣談」「思ひ出草紙」等に見えてゐるが、いづれも大同小異である。「蕉齋筆記」は刀を離さずにぢつとしてゐたとあるが、その他は皆刀を遠ざけて心をしづめたことになつてゐる。これは亂心して刀を振り𢌞したりするのを、自ら用心したものであらう。怪異は暫時にして過ぎ去り、それだけの用意を缺いた鄰家に事が起ることは、どれも變りがない。「世事百談」以下の諸書は、これを通り惡魔の所爲に歸してゐるのである。

[やぶちゃん注:「世事百談」(既出既注)のそれは「卷之四」の「通り惡魔の怪異(けい)」。以下に示す。挿絵も参考底本とした吉川弘文館随筆大成版のものを掲げておく。本文は当該書を恣意的に正字化し、読点を追加した。読みは一部に留め、踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

Sejihyakudatooriakuma

   ○通り惡魔の怪異

 世に狂氣するものを見るに、大かたは無益のことに心を苦しめ、一日も安き思ひなくて、はてには胸にせまり心みだれて、狂ひ、さはげるなり。されば、男たるものには先(まづ)は、なきはづのことにて、婦人には、まゝあることなり。しかれども、男女(なんによ)にかぎらず、何事もなきに、ふと狂氣して、人をも殺し、われも自害などすることあり。そはつねづね、心のとりをさめ、よろしからざる人の、我と破れをとるに至るものなり。かゝれば養生は藥治によらず、平生(へいぜい)の心がけあるべし。こゝろを養ふこと專(もつぱら)なるべし。そのふと狂氣するは、何(なに)となきに怪(あやし)きもの目にさへぎることありて、それにおどろき、魂(たましひ)をうばはれ、おもはず、心のみだるゝなり。俗に通り惡魔にあふといふ、これなり。游魂(いうこん)變をなすの古語むなしからず。不正の邪氣に犯さるゝなり。こは常に心得あるべきことなり。むかし、川井某(なにがし)といへる武家、ある時、當番よりかへり、わが居間にて、上下(かみしも)、衣服を着かへて直につき、庭前をながめゐたりしに、緣さきなる手水鉢(てうずばち)のもとにある葉蘭(はらん)の生(おひ)しげりたる中より、焰(ほのほ)炎々ともゆる、三尺ばかり、その烟り、さかんに立(たち)のぼるを、いぶかしく思ひ、心つきて、家來をよび、刀、脇指(わきざし)を次(つぎ)へ取(とり)のけさせ、心地あしきとて、夜着とりよせて打臥(うちふし)、氣を鎭めて見るに、その焰のむかふなる板塀(いたべい)の上より、ひらりと飛(とび)おりるものあり。目をとめて見るに、髮ふりみだしたる男の、白き襦袢(じゆばん)着て、鋒(ほさき)のきらめく鎗(やり)打(うち)ふり、すつくと立(たち)てこなたを白眼(にらみ)たる面(おも)ざし、尋常ならざるゆゑ、猶も心を臍下(さいか)にしづめ、一睡して後(のち)再び見るに、今まで燃立(もえたて)る焰も、あとかたなく消(きえ)、かの男も、いづち行けん、常にかはらぬ庭のおもなりけり。かくて茶などのみて、何心なく居けるに、その隣の家の騷動、大かたならず。何ごとにかと尋ぬるに、その家あるじ、物にくるひ、白匁(しらは)をふり𢌞し、あらぬことのみ訇(のゝし)り叫びけるなりといへるにて、さては先きの怪異(けい)のしわざにこそとて、家内(かない)のものに、かのあやしきもの語(がたり)して、われは心を納めたればこそ、妖孽(わざはひ)、隣家へうつりてその家のあるじ怪しみ驚きし心より、邪氣に犯されたると見えたれ。これ世俗の、いはゆる、通り惡魔といふものといへり。また、これに似たることあり。四ッ谷の邊類邊、類燒ありし時、そこにすめる某が妻(さい)、あるじの留守にて、時は、はつ秋のあつさもまだつよければ、只ひとり緣さ先きにたばこのみつゝ、夕ぐれのけしきをながめゐたるに、燒後(やけご)といひ、はづかのかり住居なれば、大かた(いしずゑ)礎のみにて草生(くさおひ)しげり、秋風のさはさはと、おとして吹來りしが、その草葉の中を白髮の老人、腰はふたへにかゞまりて、杖にすがりよろぼひつゝ、笑ひながら、こなたに來るやうす、たゞならぬ顏色にて、そのあやしさ、いはんかたなし。この妻女(さいぢよ)、心得あるものにて、兩眼(りやうがん)を閉ぢ、こは、わが心のみだれしならんとて、普門品(ふもんぼん)を唱へつゝ、心をしづめ、しばしありて目をひらき見るに、風に草葉(くさば)のなびくのみ。いさゝかも目にさへぎるものさらになかりしに、三、四軒もほどへたる醫師の妻(さい)、俄に狂氣しけりといへり。これもおなじ類ひの怪異(けい)なるべし。むかしより妖は人よりおこるといふこと、亦、うべならずや。鳩巢(きうさう)云、陰陽(いんやう)五行の氣の、四時に流行するは、天地の正理(せいり)にて、不正なけれども、その氣、兩間(りやうかん)に游散紛擾(いうさんふんぜう)して、いつとなく風寒暑濕をなすには、自(おのづから)不正の氣(き)もありて、人に感ずるにて、しるべし。されば、天地の間に正氣(せいき)をもて感ずれば、正氣、應じ、邪氣をもて感ずれば、邪氣、應ず、といへり。色(いろ)にまよひて身命(しんめい)を失ふも、おなじことわりとしるべし。

   *

文末の「鳩巢」は江戸中期の儒学者室鳩巣(むろきゅうそう)のことで、引用は「駿臺雜話 卷一」の「妖は人より興る」の一節。部分を冒頭の箇所を引用する。

   *

座中ひとり、

「神は聰明正直なるものにて至誠の感應はさもあるべき事にて候。然るに、昔より妖怪不正の事ども世に流布し侍る。是もその理ある事にや。」

といふに、翁、

「鬼神は天地の功用二氣の良能といへば、勿論、正理より出でたる事なれども、人の本性惡なくして、氣質におちては善惡あるごとく、神(しん)も人世に降つては、正しきあり正しからざるあり。其子細は、陰陽五行の氣の四時に流行するは、天地の正理にて、不正なけれども、其氣、兩間に游散紛擾して、いつとなく風寒暑濕をなすには、おのづから不正の氣もありて、人に感ずるにてしるべし。されば天地の間、この氣の往來にあらざるはなし。正氣をもて感ずれば、正氣、應じ、邪氣をもて感ずれば、邪氣、應ず。但、正邪ともに二氣の感應より出づれば、邪氣の感とても神にあらずといふべからず。夫(それ)、正氣の感は、大小となく精誠の所ㇾ致(いたすところ)にあらぬはなし。

   *

「閑窓瑣談」は戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~天保一四(一八四四)年:本名・佐々木貞高)の随筆。当該章は「卷三」(これ以降は正編の続編)の「三十三 通惡魔(とほりあくま)」。以下、吉川弘文館随筆大成版を参考に恣意的に正字化し、句読点を変更・追加した。読みは一部に留め(一部の歴史的仮名遣の誤り本文を含む)を訂し、従えない読みをオリジナルに変更した)、踊り字「〲」は正字化した。「河合」「川合」の混合は底本のママ。

   *

    ○第三十三 通惡魔

 怪力亂神の沙汰は語べからずと禁(いましめ)あれど、後の人の心得にもならんかと、這(こゝ)に記す一(いつ)怪事あり。世に知られたる英才の官家河井何某の、いまだ出身せられざりし頃、或日御役所より早く歸宅あつて圊(かはや)へ行(ゆか)れ、出(いで)て手を洗はんと手水鉢(てうずばち)の柄(ひさく)に手をかけんとする時しも、庭に植(うゑ)たる蘭の葉の間(あひだ)より、俄に火燃出て、めらめらとたち登る、何某は大に驚かれしが、心を鎭め、内室(ないしつ)を呼(よびて云(いはく)、我(わが)傍(そば)に有(ある)所の刀劔(たうけん)は更なり、刄物(かもの)はことごとく取除(とりのけ)て、我手に持(もた)する事なかれ、即今(いま)、又、是を我(われ)求むるとも、暫時、隱して與ふべからず、と言渡(いひわた)し、從女(こしもと)に夜具を出(いだ)させ、あはたゞしく夜着を冠(かぶり)て倒れ伏(ふし)、我(われ)、汝等を呼(よぶ)事ありとも近付(ちかづく)まじ、と言(いひ)て、うち臥(ふし)ける故、内室も從女(こしもと)も、其間を退(しりぞ)きて異(あやし)み居たり。偖(さて)、何某は夜着の袖より庭の方を窺ひ見れば、葉蘭の間にて燃(もゆ)る火は彌々(いよいよ)盛(さかん)にて、地境(ぢざかひ)の塀の上に、白き襦袢を着たる男、髪を振亂し、怖しき顏色にて、手には短かき鑓(やり)の光りかゞやくを引提(ひきさげ)、忽ち庭に飛下り、緣側に走登(はしりのぼ)りて、何某に近付(ちかづか)んとする故、今は堪へ兼て聲を上げ、刀(かたな)を持參(もちまゐ)れ、刀を持(もて)と叫ばれしかども、内室は這(こゝ)ぞと思ひ返事もせず。何某は是非なく臆したるやうになりて、夜着の中に心を鎭めありけるが、暫時して二度夜着の袖より窺ひ看れば、火も消(きえ)、曲者(くせもの)の容形(かたち)も見へず。時は是、午(むま)の半刻(はんこく)ばかり、太陽、盛(さかん)にして、陰鬼幽靈の類(たぐひ)、狐狸なんどの妖をなす事、叶ふべからず。尤(もつとも)あやしむに絶(たえ)たり、此折(このをり)から、隣家(りんか)の俄に物騷(ものさわが)しくなりて、其家の主(あるじ)、狂氣して、家内(かない)の男女(なんによ)を切(きつ)て、怪我人、多く悩(なやみ)しとか。然(され)ど何故(なにゆゑ)といふ事、不分明(わからず)。後々の沙汰に、彼(かの)家の主の眼(め)に異樣物(あやしきもの)の看えて、狂亂せし如くなりし、とぞ。案ずるに、川井氏(うぢ)の見られし變化(へんげ)が、隣家へ行(ゆき)しものか、河井氏は後に此事を他人に語りて、心氣(しんき)を鎭め、麁忽(そこつ)に物驚(ものおどろき)をせざるやう異見ありて、昔より、かゝる異(あやしみ)のものを、通り惡魔となづけ、何事もなき人に災(わざはひ)をなすと、いひ傳ふ。用心すべき事なり、と敎訓せられしとか。察すに、俄に狂亂して親兄弟を殺害(せつがい)し、小兒までも情なく切捨(きりすつ)る類(たぐひ)の事ありて、後に種々(いろいろ)の説をなせども、大略(たいりやく)は惡魔に魅(ばか)されて本心を失ひ、狂を發しての所爲(わざ)ならんか。恐るべし。

   *

「思ひ出草紙」江戸後期に東随舎(とうずいしゃ)が書いた「古今雑談思出草紙」のこと。私は所持しないが、調べて見たところ、当該項の標題は、やはり「通り惡魔の事」である。ウィキの「通り悪魔」によれば、その内容は、『加賀国(現・石川県)。ある武士が家の外を見ると、甲冑を着て槍や長刀を持った者たちが、板塀の上に』三十『数人も並んでこちらを睨んでいた。世にも恐ろしい光景だったが、武士は平伏して臍の下に意識を集中するようにして心を静めた。しばらくして顔を上げると、その者たちの姿は消えていたが、塀の向こうの家に住む者が乱心して人に傷を負わせ、自身も命を絶つという騒動が起きたという』。また前掲の「世事百談」の二例は、本「古今雑談思出草紙」にも『掲載されており』、一『件目の話では川井の名が川井次郎兵衛とされている』とある。

「通り惡魔」ウィキの「通り悪魔」によれば、『気持ちがぼんやりとしている人間に憑依し、その人の心を乱すとされる日本の妖怪。ここに掲げたような『江戸時代の随筆に見られ、通り者(とおりもの)、通り魔(とおりま)ともいう』。『通り者を見て心を乱すと必ず不慮の災いを伴うので、これに打ち勝つためには心を落ち着けることが肝心だという。その姿は諸説あるが』、以上の「世事百談」や「古今雑談思出草紙」では『白い襦袢を身に纏い、槍を振りかざした奇怪な白髪の老人だといい』、「古今雑談思出草紙」では『無数の甲冑姿の者たちだったともいう』。『現代においても、理由もなく殺人を犯す人間を「通り魔」というが、かつてはそのような行ないは、この通り者が原因とされていた』とある。]

 

 鈴木桃野の祖父に當る向凌といふ人が若い時分に、獨り書齋に坐つてゐると、忽然として衣冠を著けた人が櫻の枝から降りて來た。よくよく見るに盜賊らしくもないが、衣冠を著けた人などが、この邊に居る筈がない。固より天から降るべき筈もないから、心の迷ひでこんなものが見えるのであらうと、暫く目を閉ぢてまた開けば、官人は次第に降りて來る。目を閉ぢては開くこと三四度、遂に緣側のところまで來て、緣端に手をかけた。これは一大事だと思つたので、家人を呼んで、氣分が惡い、夜具を持つて來い、と命じ、暫く睡つて目が覺めたら、もう何事もなかつた。これは衣冠を著けた人といふだけで、異形な顏ではなかつたらしいが、來るべからざる官人が櫻の木に現れ、次第に近付いて緣端に手をかけるに至つては、僅かに尋常の沙汰ではない。かういふ事態に直面した者は、睡つて心氣をしづめるより外、良策はなささうである。

 桃野は「反古のうらがき」にこの話を記した末に、曲淵甲斐守の家にも似た事があり、甲斐守が驚かなかつたため、妖氣は隣家に移つて、そこの主人が腰元を手討ちにしたといふ事を附け加へてゐる。「世事百談」「閑窓瑣談」「思ひ出草紙」いづれも川井家の事として傳へてゐるから、これは桃野の聞き誤りか、或は曲淵、川井兩家に同じやうな事があつたのかも知れない。

[やぶちゃん注:「鈴木桃野」(とうや 寛政一二(一八〇〇)年~嘉永五(一八五二)年)は幕臣旗本で儒者。幕府書物奉行鈴木白藤(はくとう)の子として生まれ、天保一〇(一八三九)年に昌平坂学問所教授に就任している。射術を好む一方、随筆・絵にも優れた。

「向陵」多賀谷向陵(たがやこうりょう 明和三(一七六六)年~文政一一(一八二八)年:本名は瑛之(「よしゆき」か))は幕臣。尾張生まれの儒者で書家・画家としても知られた。

「反古のうらがき」(ほごのうらがき)は嘉永三年頃までに鈴木桃野が完成させた怪奇談集。筆名は雅号「醉桃子」名義。当該条は卷之一に「官人天より降る」として載る。以下に示す。底本は「日本庶民生活史料集成 第十六巻」(一九七〇年第一書房刊)を用いた。

   *

    ○官人天より降る

 予が祖父向陵翁若かりし時、書齋に獨り居しに、忽然として一人の衣冠の人、櫻の枝より降り來る、よくよく見るに、盜賊とも見えず。但し衣冠の官人、此あたりに居るべき理(ことわり)なし、況や天より降るべき理更になし。おもふに心の迷ひよりかゝるものの目に遮ぎるなりと、眼を閉て見ず、しばしありて眼を開けば、其人猶あり、降りも來らず、やはり其邊りにあり、眼を開けば漸々(ぜんぜん)に降り來る、また眼を閉ぢ、しばしありて開けば、漸々近づき來る、如ㇾ此きこと三四度にして終に椽頰迄來り、椽ばなに手を懸る、こは一大事と思ひて眼を閉ぢたるまゝに、家人を呼びて氣分惡し、夜具(やぐ)を持來れと命じ、其儘打ふして少しまどろみけり。心氣しづまりて後、起出で見るに何物もなし、果して妖怪にてはあらざりけりと、書弟子石川乘溪に語りしとて、後乘溪予に語りき。此話曲淵甲斐守といふ人も、此事ありしよし聞けり、これは曲淵心しつまりて驚かざれば、妖氣鄰家に移りて、即時に鄰主人こし元を手打にして狂氣せしよし、語り傳たへたりとなり。

   *

柴田は「或は曲淵、川井兩家に同じやうな事があつたのかも知れない」などと好意的にも言っているが、私はここはどうも元にあった作り話から派生した都市伝説であるように思われる。そもそもが「河合」「川合」の「かはひ」と「甲斐守」の「甲斐」(かひ)は音型が酷似しており、しかも「河合」「川合」「曲淵」は如何にも縁語染みているからである。]

 

 越中、飛驒、信濃三國の間に入り込んだ四五六谷といふところがある。神通川を遡り、またその支流を尋ねて行くのに、甚だ奧深くて、これを究め得た者がない。近年飛驒舟津の者が二人、三日分の食糧を準備して川沿ひに行つて見たが、その食糧も乏しくなつたので、魚を釣つて食ふことにして、なほ幾日か分け入つた。或時ふと同行者の魚を釣つてゐる顏を見ると、全く異形の化物である。思はず大きな聲で呼びかけたので、魚を釣つてゐる男が振向いたが、その男の眼には此方の男の顏が異形に變じてゐる。お互ひに異形に見える以上、この地に變りがあるに相違ないと、急いでそこを逃げ出し、大分來てから見合せた顏は、もう平常に戾つて居つた。思ふにこの谷は山神の住所で、人の入ることを忌み嫌つて、かういふ變を現したものと解釋し、その後は奧深く入ることをやめたが、飛驒の高山の人の話によれば、それは山神の變ではない、山と谷との光線の加減で、人の顏の異形に見えることがある、飛驒のどこかに人の往來する谷道で、人の顏が長く見えるところがあるが、その谷を行き過ぎると常の通りになる、この道を通ひ馴れぬ人はびつくりするけれども、所の人は馴れて何とも思つてゐない、といふことであつた(東遊記)。

[やぶちゃん注:「船津」(ふなつ)は旧岐阜県吉城郡の旧町名。神通川支流の高原(たかはら)川の上流にあり、古くから神岡鉱山(亜鉛・鉛・銀鉱山)の中心地として栄え。現在は飛騨市神岡町船津。(グーグル・マップ・データ)。

「東遊記」京の儒医橘南谿(宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行。天明四(一八七四)年から天明六年にかけての旅記録を、寛政七(一七九五)年から同十年にかけて先立つ「西遊記」とともに板行した「東西遊記」の一部。当該項は 後編 卷之三」の冒頭「五一 四五六谷(しごろくだに)」(現在の双六(すごろく)岳(長野県大町市と岐阜県高山市に跨る飛騨山脈の裏銀座の主稜線に位置する((グーグル・マップ・データ))。標高二千八百六十メートル。私の好きな山である)の西側の谷の旧称と思われる。「双六」自体が元は「四五六」であったという説もある)。東洋文庫版を参考に、漢字を正字化して示す。ルビは一部にオリジナルに歴史的仮名遣で附した。本文原典にはかなり歴史的仮名遣の誤りがあり、それらは訂した。

   *

 四五六谷は越中、飛驒、信濃三國の間へ入り込める谷なり。富山へ落つる神通川を逆上り、又、其支流を尋ねてのぼるに、甚だ深遠にして、其奧を究むる者なし。近き年、飛州舟津(ふなづ)の人兩人、此谷の奧を究めんとて、三日の𩞯(かて)を用意して、段々川にそいて入りしに、其食も乏しくなりぬれば、魚を釣り食うて猶數日(すじつ)の間尋入りしに、ふと伴ひし者の魚を釣り居(を)る顏を見やりたるに、異形(いぎやう)の化物なり。大いに驚きて聲をかけたるに、魚を釣り居(ゐ)たる者も驚きてふりかへり見るに、其呼びたる者の顏亦異形に變じて恐しさいはんかたなし。たがひにかくみゆるからは、此地に變こそ有るらめとて、いそぎ逃歸(にげかへ)れり。遙か逃出でて、たがひに顏を見るに、何の變(かはり)もなく常々のごとくなれば、此奧こそ山神(さんじん)の住所ならめ、人の入る事を忌嫌(いみきら)ひてかかる變(へん)をあらはせしならんと恐れて、其後は奧深く入る者なしと也。

 此事を其頃語り合ひしに、飛驒の高山の人其座に在りていふ樣(やう)、「それは山神(さんじん)の變(へん)にはあらず、山と谷との日受(ひうけ)によりて人の顏異形に見ゆるもの也。飛州の中に、人の往來する谷道に、人の顏長くみゆる所あり。其谷をしばし行過(ゆきす)ぐれば、顏色常のごとし。此道を通り馴れざる人は大いに驚く事なれども、所の人は常々に見なれてあやしむ事なし。」と云へり。外の國にてはいまだ聞(きき)及ばず、いと珍敷(めづらしき)事なり。

   *]

 

 家人の顏が皆鬼に見える通り惡魔の話は恐ろしいが、これは終日戶外に在つて疲勞して歸るといふことも、考慮に入れる必要がありさうである。光線の加減で人顏が異形に見える四五六谷の話は、自然であるに拘らず、却つて無氣味に感ぜられる。山中無人の境でさういふ目に遭つたら、恐怖の餘り刀などを振り𢌞さぬとも限らぬ。

 或場合或人の眼に異形に見える外に、さういふ現象の屢々起る場所があつた。四五六谷の例は山谷の光線の他に異るためとも解せられるが、「梅翁隨筆」の記載の如く室内で起るに至つては、化物屋敷の稱を與へられても仕方がない。本多氏の後室圓晴院が若い時分に住んでゐた屋敷は怪しい事が多く、夜更けて行燈の下に竝んで針仕事をしてゐる時など、側の女の顏が忽ち長くなつたり、また殊の外短くなつたり、或は恐ろしい顏になつて消え失せたりする。座敷で火の燃え出すことは珍しくなかつた。家内一同の難儀とあつて、遂に加賀屋敷へ移られたさうである。

[やぶちゃん注:「梅翁隨筆」著者未詳の寛政年間(一七八九年~一八〇一年)の見聞巷談集。八巻。本話は「卷之二」にある以下の条の前半部(太字で示した)。吉川弘文館随筆大成版を参考に恣意的に正字化した。本文の頭には飛び出した「一」があるが、箇条の印に過ぎぬので、省略した。歴史的仮名遣に問題があるが、ここはママとした。

   *

  ○妖怪物語幷夜女に化し事

本多氏の後室圓晴院といふ人、わかき頃番町三年坂中程におはせし時の事なりしが、化物屋しきにて、色々あやしき事どもあり。夜更行燈のもとに並ゐて仕事などするに、側なる女の㒵たちまち長くなり、又ことの外短くなり、或は恐ろしき顏になりて消失る事あり。座敷にて火のもゆるはめづらしからず。ある女わづらひて休み居けるが、其女むらさき色の足袋をはきて掃除せしかば、甚あやしく思ひながら、女の休みたる所へ行て見れば、矢張打ふして居けるゆへ立戾りければ、さうじ仕たる女は見えず。かやうの事ども多くして、家内難儀するゆへ、加賀屋敷へ引移られしとの咄なり。是は我等度々承りし事ゆへ、こゝに記しぬ。是にて思ひ出せし事あり。明和九年目黑行人坂の火事とて、江戶中大半燒失せし大火事あり。其夜牛込若宮八幡宮の脇に住す加藤又兵衞が中間、市谷左内坂を通りしに、きれいなる女泣居たるに逢けり。やうすを尋るに燒出され行べきかたもなしといふ。しからば我かたへ來り一夜をあかし、しれる人の行衞を尋ね給ふべしといふ。やすらかに得心してつれ立來りけり。ひとり男のことなれば、さし障る心遣ひなしと、中間こゝろに大いに悅び、ともなひて部屋に入、圍爐裏の火を澤山にさしくべて、こゝろ及ぶだけ馳走しけるが、覺へず少し居眠り目覺しみれば、彼女も居眠りたりしが、口もとに長き毛の見ゆる如く成りしゆへ、目をうちひらききつと見れば、いつか古狸となれり。大睾丸を廣げて火にあぶり居るゆへ、己たぬきめよく化したり、打殺して汁の實にせんと打かゝれば、狸初て驚き窓より飛出逃去たりとかや。又兵衞今はやしき替して、一色喜間多の屋敷と成る。

   *

話柄上、後半を省略したのは判るが、後半の「大睾丸を廣げて火にあぶり居る」女に化けた狸の方が、面白い。]

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