晩春賣文日記 《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版)
[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年六月発行の『新潮』の『ある日の日記』欄に掲載された。今のところ、ネット上では電子化されておらず、現在進行中の私の小穴隆一「二つの繪」の必要上から(「本所兩國」関連。リンク先は私の草稿・オリジナル注附きテクスト)、急遽、電子化することとした。その関係上、注は今は附さない。
底本は岩波旧全集に拠った。
一つだけ言っておくと、五月二日の条の「妻也寸志と鵠沼へ行く」というのは文の実母塚本鈴と肺結核を病んでいた塚本八洲(やしま)のいた鵠沼の家である。芥川龍之介が借りていた鵠沼の借家は三月中には引き払っているからである。
また、「日記」とあるものの、これに相当するプライベートな日記は現存せず、書き振りから見ても私はこれは何らかの日記風のメモ(現存はしない)を元にした、「日記」風に書かれた小品と踏んでいる。
末尾の夢が何とも言えず鬼趣である。【2017年1月12日 藪野直史】]
晩春賣文日記
四月三十日。土曜。晴。
題未定の短篇をつづける。藤澤古實氏來る。「大東京繁昌記」の插し畫の件なり。それから關口廣庵老に療治をして貰ふ。平松ます子さん來る。けふは平松さんの引越しなり。いつか八疊の床の間に五月人形が飾つてある。夕がた、「東日」の沖本常吉君來る。插し畫の件につき、小穴君を尋ねる。生憎留守なれば、勝手に押入れより花札を出し、沖本君と六百ケンをする。小穴君、義敏(甥)と一しよに歸る。
何とか云ふ劍劇の映畫を見に行つてゐたよし。十一時頃、家へ歸り、又藤澤氏や沖本君と插し畫の件を相談し、とうとう午前三時に至る。この分にては插し畫も作者自身描かなければならず。十五囘も插し畫を作ることはどう考へても難澁なり。沖本君曰、「それでもやつて頂く外はないのであります。」
五月一日。日曜。晴。
堀辰雄、堀川寛一、小穴隆一等の諸君、お客に來る。堀君に出來かけの短篇を讀んで貰ふ。夜、小穴君や義敏と展覽會論を鬪はし、とうとう小穴君は泊ることになる。
五月二日。月曜。曇。
妻也寸志と鵠沼へ行く。「大東京繁昌記」の插し畫も描かなければならぬ羽目になりたる爲に久しぶりに窮技(?)を試む。師匠番は小穴君。沖本君來る。やつと第一囘、第二囘の插し畫を作り、沖本君に渡す。午後二時頃、小穴君歸る。今日は春陽會の晩餐會のよし。沖本君、四時頃に又來り、插し畫は小穴君に賴んでもよろしと言ふ。雲霧破れて靑天を見るの感あり。吉報とは正にこの事なるべし。藤澤古實、薄田淳介等の諸氏より手紙來る。「メイデイ」の檢束者者百四十餘名。「繁昌記」第七囘脫稿。
こぶこぶの乳も霞むや枯れ銀杏
五月三日。雨。
題未定の小說を一二枚書いて見る。小穴君「繁昌記」の第一囘の插し畫を見せに來る。若侍が一人新徴組の侍の一人に鞘當てをしかけられし所なり。沖本君、内田百間君、前後して來る。沖本君に待つてゐて貰ひ、内田君と自笑軒にて食ふ。ランケの小說にべツトを共にしたる亭主の魂鼠となりて水を飮みに行くを細君の目擊する小說あるよし。
繁昌記第八囘脱稿。疲るること甚し。ホミカ、カスカラ錠、ヴェロナアル等を服用。
五月四日。晴。
妻鵠沼より歸る。小穴君義敏をモデルにして土左衞門の圖を作る。終日怏々。
宮地嘉六君より「累」、宇野浩二君より「高天ケ原」を磨られる。來書五六通。
五月五日。晴。
内田百間君來る。内田君と一しよに興文政に至る。二月ぶりなり。やつと内田君の爲に用談をすまし、偶々玄關を出でんとすれば活動寫眞を映さんとするが如し。脫兎の如くタクシイに乘りて遁走す。帝國ホテルの新潮座談會に至る。德田、近松、佐藤、久米等の諸氏、並びに下村、太田、鈴木等の諸氏に會す。晩來雨あり。中村武羅夫氏に引率せられ、前掲の作家諸氏と銀座のカッフエ・タイガアに至る。これも亦二月ぶりなり。歸り來つて明日の講演の艸稿を作り、更に又「文藝的な、餘りに文藝的な」を脫稿す。深夜に至つて瀉す。柱時計の三時を打つを聞けども、便門痛んで眠ること能はず。ヴェロナアル二囘量を用ふ。夢に一匹の虎あり、塀の上を通ふを見る。
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