小さい眼 梅崎春生
[やぶちゃん注:昭和三六(一九六一)年一月号『新潮』に発表。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集」第四巻に拠った。
文中に出る「厚司」はアイヌ語語源で、平織り又は綾織りの厚い木綿織物。紺無地或いは単純な縞柄で仕事着として用いる。冬の季語である。]
小さい眼
初めに誤解があった。思い違いをしたのは、おれじゃない。相手の方だ。相手の思い違いが判った時、おれはすぐ訂正すればよかったのだ。
「そうじゃないんだ」
しかし、おれはしなかった。これはまあ気合のもので、一瞬の機を失すると、もうどうにもならない。強いてやると、たいへん具合の悪いことになる。おれは対人関係で、具合の悪いところに落ちるのはイヤだ。自分が落ちるのもイヤだけど、相手が落ちるとそのはねっかえりで、なおのことイヤになるのだ。
相手というのは、婆さんだ。婆さんと言っては悪いかも知れないが、その頃はおれも若かったからそう見えた。地味な着物をきちっと着て、白い上っ張りをつけ、その上に襟巻を巻いている。小肥りに肥っていて、したがって顔も丸くつやつやしていて、よく熟(う)れたドングリの実のような感じがする。そのドングリ顔についた小さな眼がおれを見て、それからちらと時計を見上げた。時計は九時五分を指していた。
「まあまあ、お気の毒に」
婆さんは視線を戻してそう言った。何が気の毒なのか、とっさにはおれに判らなかったが、あわれまれているのが自分だということだけは、ぼんやりと判った。そういう不安定な事態に時々遭遇するが、その時のふるまいかたがむつかしい。まだ平衡を保っているから、こちらからぶち破ることはない。そんな気の弱さが、いつもおれにはある。おれは自分の衣服をしらべ(裏返しに着てやしないか)また鏡にそっと顔をうつした。丁度都合よくそのミルクホールには、壁に鏡が帯状にはめこまれていて、そこにうつったおれの顔は、不精髭こそ生えていたけれども、とくに汚れていたり、またへんなものがくっついていもしなかった。顔や身なりで気の毒がられているのではない。素早くそのことをたしかめて、おれは何気ないような歩き方で、あやふやに椅子に腰をおろした。せまい店だから、婆さんに遠く離れるというわけにはいかない。一卓をへだてて、婆さんに背を向ける椅子をえらんだ。おれはミルクコーヒーを飲もうと思っていたのだ。
「ミルクコーヒー」
おれが声に出してそう注文する前に、背後で婆さんががたがたと立ち上った。傍を通り抜けて、そのまま店を出て行くのかと思ったら、ゆっくりと身体を回して、おれの前の椅子に腰をおろす。椅子がぎゅうとふやけたような音を立てた。
「あんたったら、運が悪いねえ」
おれは顔を上げたまま黙っていた。返事しようにも、しようがなかった。
「あんた、学生さんかい?」
おれはうなずいた。すると婆さんは腰を浮かし、手を伸ばしておれの肩にふれようとした。婆さんの手は短いし、おれが肩を引いたものだから、ついに接することはなかったけれども。
「うちにおいで!」
婆さんはそのままの姿勢で、言葉に力をこめた。力をこめても怒っているわけじゃない。小さな眠が善意と憐憫(れんびん)のようなものにあふれて、おれをじっと見入っている。
「うちにおいで。うちに来ればどうにかなるよ!」
事情が判らないまま、その語調につられて、おれは何ということなく立ち上った。まだためらうものがあって、おれは立ったまませまい店中を(未練げに?)見回した。客はおれたち二人だけで、あとはがらんとしている。各卓の上には空のコップや空の皿。空の皿には赤いものがくっついている。ジャムだ。
「あ。ここではジャムトーストを食わせたんだな」
とおれは思った。その頃、というともうずいぶん昔になるが、戦争でそろそろ物が窮屈になって来て、配給制度が強化され、切符なしで食べられるものが底をつきかけていた時分なのだ。婆さんが坐っていた卓にも、その空皿が三つ並んでいた。婆さん一人で三つ食べたのか、三人で食べて二人は出て行き、婆さんだけ残っていたのか、それは知らない。婆さんがガラス扉をがたがたと引きあけて、じれったそうに振り返ってさしまねいた。
「何してんだよ。もうおしまいだよ。おいでったらおいで!」
婆さんの眼がも少し大きかったら、普通の眼の大きさだったら、おれはそこで踏みとどまったかも知れない。おれはもともと小さな眼に弱いのだ。なぜ小さな眼に弱いのか、それはこの話と特に関係がないから省略するけれども、ついおれはふらふらと婆さんについて行く気になった。おれは血のめぐりはいい方じゃないが、婆さんが何か思い違いをしていること、その思い違いがジャムトーストに関係あるらしいことは、うすうす判っている。だからおれはここで訂正すべきだったのだ。婆さんの丸い顔、その両側についた小さな双の眼が、おれにその機会を失わせた。おれが店の外に出ると、婆さんがガラス扉をしめた。つまりおれは手を使わずに、ふところ手のまま、店の外に出たことになるのだ。大切にされているみたいだ。外ではかすかにつめたい風が吹いていて、日曜日の朝だから、あまり人通りはなかった。扉をしめると婆さんはおれを見上げた。おれは背が高いが、婆さんは肥っていても五尺そこそこだ。人は見上げる時、ふつう視線をしゃくり上げるようにするものだが、この婆さんはそうでなかった。
「ここはね、九時までに来なきゃ、トーストは出ないんだよ」
婆さんはまっすぐな視線で、おれに説明した。近くで見ると、婆さんの顔の皮はとても厚ぼったい感じがする。俗に面の皮が厚いということとは違う。皮膚そのものが分厚くて丈夫そうだという意味だ。動物でも、眼が小さいのや細いのは、皮が厚いのが多い。象もそうだし、河馬(かば)なんかもそうだ。皮膚が厚いからその末端が盛り上って、眼の領域をせばめて来るのだろうか。
「はあ」
「あんた、日曜だから、朝寝坊したんだね、きっと」
しだいに事情が判って来る。別段トーストを食べに来たんじゃない。しかし店の中でならそうことわれたけれど、ふところ手で外に出た今は、そうは言えないのだ。何のために外に出たのか説明出来なくなるし、婆さんの思い違いをここまで引き延ばして、それでぴしゃりとさえぎれば、とたんに向うは具合悪くなり、それがたちまちおれにはねかえって来るにきまっている。
「寝坊したわけじゃないですけどね」
おれは口の中でもごもごと抗弁した。
「ここはいつでも、九時までに来れば、トーストが食えるんですか?」
「毎日じゃないよ。ある日とない日があるんだよ。知ってるくせに」
婆さんは慣れ慣れしくおれの腕をひっぱたいた。
「だからあんたは、あわててたじゃないか。ちゃんと知ってるよ」
あわててた? おれが?
今日はトーストが出る。九時前に来た運のいい奴たちがそれにありついて、食べ終ると満足して、ぞろぞろと出て行ってしまう。婆さんは年寄りだから食べるのが遅い。一人残ってやっと食べ終った時に、くたびれた着物を着た不精髭の若者が、血走ったような眼付きで、せかせかと入って来る。その時の婆さんの気持の動きや変化。自分は食べて満足した。この若者は食いはぐれた。湧然(ゆうぜん)とわき上って来る憐憫、同情、側隠の情、そう言ったもの。同一の地平での共感でなく、高みから見おろしたようなその感情群。
「どうして妙な顔をするんだい?」
婆さんの手がおれのたもとを頼む。
「恥かしがらなくてもいいんだよ。こんなことは、よろずお互いさまなんだから」
かさねがさね誤解されている。おれは当惑する。その当惑を顔に出せば、婆さんは更に誤解するだろう。おれは出来るだけの無表情を保ちながら、婆さんを見おろしていた。婆さんの眼の中に、やがてある過剰な色があふれて来る。――
あの男の眼も、そうだった。
浅草の飲み屋で、おれは友達と酒を飲んでいたのだ。寄宿舎の食堂にあるような細長い木のテーブルの、その両側に腰かけを置いて飲ませる式の安酒場だ。その男はテーブルの向う側に腰かけて、山かけか何かで銚子をかたむけていた。おれはその男に全然注意を払っていなかった。注意を払わなくていい仕組みだったし、そういう雑然とした空気の飲み屋だったから。注意を払う方がかえってとげとげしいようなものだった。
ところでおれたちは、持ち金がたいへん乏しかった。
持ち金がすくないから、肴など取らずに酒ばかり飲んでいたのだが、飲み進むにつけ、だんだん在り金が底をついて来た。そこでおれたちは顔を近づけ合わせ、ぼそぼそと相談して(大声で相談するわけにはいかない)帰りに食う予定だった牛飯代を、酒の方にふり替えた。時刻が時刻で、いま時下宿に戻っても飯は出ないから、そのふり替えはおれたちにとってかなりの犠牲だった。
運ばれて来た銚子も、十分ぐらいで空(から)になってしまった。
牛飯代と引き合うぐらいの酒だから、値段としてはたいへん安い。安いから、水っぽいのだ。おれたちはまだ満足しなかった。
おれたちはまた顔をつき合わせた。
「帰りは歩くことにして、も少し飲むか」
バス代を酒にふり替えようというわけだ。おれたちの下宿は本郷にあった。浅草から本郷までかなり歩きでがある。もう一押し酔いを深めて、歩くのが苦にならない程度になるかどうか、お互いに自信はなかった。だからなおぼそぼそと相談を続行した。
その時その男が声をかけて来たのだ。
「にいさん。これでどうぞ」
男は勘定をすませて立ち上っていた。右手をおれたちの方に突き出している。掌には五十銭玉が二つ乗っかっていた。
「こ、これで飲んで、あとバスで帰んなさい」
この時おれは初めてその男に気がついたのだ。男は四十前後で、厚司(あつし)を着ているところから見ると、小さな商店主か何かだったのだろう。売りかけを集金に行って、その帰りに一杯かたむけたという恰好(かっこう)だった。酔いにあからんだ善良そうな顔に、小さな眼が二つついていて、それは熱っぽい光を帯びておれにそそがれていた。熱っぽいというと積極的にひびくが、そういう感じじゃない。働きかけを持たない、そこで起きてそこで完了する、何か重苦しいような過剰さ、それがその男の眼を熱っぽく見せかけていたのだ。
おれははげしい当惑と羞恥を感じた。
金をめぐまれる自分自身が恥ずかしかったんじゃない。相手になりかわって、というと傲慢不遜(ごうまんふそん)になるが、おれの当惑と羞恥はあきらかにこちら側のものじゃなかった。
「そんな金、貰ういわれはない!」
立場としてはそう拒絶してもよかった。しかしおれはそうしなかった。早くこの感情の決着をつけねばならない。背後から追い立てられるような気分になって、こちらも掌を突き出した。男の掌からおれの掌に、五十銭玉二枚がころがって移動して、男は急におどおどした態度となり、そそくさと足早に店を出て行った。まるですべてのあと始末を、こちらに預けてしまったみたいに。
婆さんはおれのたもとを摑んで離さない。あの厚司姿の男にあった重苦しい過剰さと同じ性質のものが、婆さんの小さな眼にあふれていて、それがじっとりとおれにからみついて来る。逃げ出したくとも、逃げ出せない。
おれが連れられて行った家には『白菊派出看護婦会』という小さな看板がかかっていた。それで婆さんは看護婦かと思ったら、そうではなく、そこの主人だった。何故判ったかと言うと、出て来た小女が婆さんのことを、会長さま、と呼んだからだ。
おれはこぢんまりした部屋に通された。長火鉢なんかが置いてあるところを見ると、ここが会長の私室らしい。座蒲団を出されたけれども、落着いて坐る気になれない。おれが落着かないのに反比例して婆さんはますます落着き、おれに向ってにっと笑いかける。婆さんの眼は、笑うと糸屑みたいに細くなるのだ。善意を行使するものの傲慢さとでも言ったものが、婆さんの全身にみなぎつていて、それがいよいよおれの気分を重苦しくさせる。
「ラクにしなさいよ。ラクに」
おれが坐るのを見届けて、婆さんは押しつけがましく言う。
「今おにぎりでもつくって来て上げるからね」
婆さんは部屋を出て行く。廊下を足音が遠ざかって行く。あとにひとり残されて、おれの頰はだんだんこわばって来る。にぎり飯にするくらい飯があるのなら、何も会長自身がとことことトーストを食べに行かなくてもいいじゃないか。トーストを食べに行っても差支えはないけれど、罪もないおれをつかまえて、あまつさへ誤解して、善意の獲物にしなくてもいいではないか。何というおれは腑甲斐(ふがい)ない男なのだろう。
「このまま、そっと逃げ出してやろうか。すべての感情の決着を向うに預けて――」
やり方としては、それが一番ふさわしかった。おれはすでに朝飯は食べていたから、おなかはすいていなかった。そう決心して、長火鉢に手をかけ、腰を浮かせかけた時、廊下の向うから足音が聞え、しだいにこちらに近づいて来る。とたんに身体の中で何かがみるみる収縮して、おれは腰をおろす。婆さんが敷居に姿をぬっとあらわす。皿を捧げ持っている。皿には大きなにぎり飯が三箇乗っている。婆さんの小さな眼は実に満ち足りた光をはらんで、にこにことおれを見おろしている。……
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