柴田宵曲 妖異博物館 「ものいふ人形」
ものいふ人形
人形がもの言ふ話は「男色大鑑」にある。人形作りが一心こめて作つた人形を、店の看板に立てて置いたところ、時々身を動かすのみならず、芝居歸りの太夫達に目を付け、夜每にその名を呼ぶやうになつた。自分の作つたものながら恐ろしく、河原に流したことも二三度あつたが、いつの間にか歸つて來る。この事を手紙に書いて若衆の集まつた宿へ持たせてやると、成程夜中に役者の名を呼ぶ。箱から出して言葉をかければうなづき、捨盃を與へた後、諸見物の思ひ入れ數多で、そなたの願ひは叶はぬと諭したら、それきり目もやらなくなつた。
[やぶちゃん注:「男色大鑑」(なんしよくおほかがみ)は井原西鶴の男色を題材とした浮世草子。貞享四(一六八七)年板行。全八巻(各巻五章で計四十章)。ウィキの「男色大鑑」のから見ると、「卷七」の「三 執念(しふしん)は箱入りの男」がそれか。但し、そこだとすると、柴田の梗概は分り易いものの、整序されてしまっていることになる。
「見物」「けんぶつ」で贔屓客。]
「佛作つて魂を入れず」といふ諺は人口に膾炙してゐるが、この魂が入ると入らぬとは、細工人の精神の問題だと「宮川舍漫筆」などは云つてゐる。或人が人形遣ひから人形の一箱を預かつて置いたのに、夜更け人しづまつてから、箱の中で物音がする。鼠でも入つたかと調べて見ても、そんな樣子はない。寢床に入つて寢ようとすると、また箱の中で打合ふやうな音がする。こんな事が度々あつたので、持主に話したところ、遣ひ手の精神が籠つた人形ですから、さういふ事は珍しくありません、敵役の人形と實役の人形とを一つ箱に入れて置けば、人形同士食ひ合つて微塵になります、といふことであつた。この話では作り手よりも遣ひ手の魂になつて來るが、「半七捕物帳」の「人形使ひ」はこの方の話を使つたのである。
[やぶちゃん注:「宮川舍漫筆」(きうせんしやまんひつ)は安政五(一八五八)年序の宮川政運(幕府詰めの儒者として知られた志賀理斎の次男)の見聞奇談集。当該条は「卷之四」の「精心(せいしん)込(こむ)れば魂(たましひ)入(いる)」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工してしめす。
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○精心込れば魂入
諺に佛造りて魂入れずとは、物の成就せざる譬(たとへ)なり。扨(さて)魂の入と入らざるとは、細工人の精心にあり。都(すべ)て佛師なり、畫工なり、一心に精心を込れば、其靈をあらはす事、擧(あげ)て算(かぞ)ふべからず。既に上野鐘樓堂の彫物の龍は、夜な夜な出て池水を飮(のむ)、淺草の繪馬出て田畝(たんぼ)の草を喰ふといふ事、むかしがたりなれども、僞(いつはり)にてはよもあるべからず。予愚息の友なる下河邊(しもかうべ)氏、ある人形遣(にんぎやうつかひ)の人形を一箱預り置し處、其夜人靜まりし頃、其箱の内冷(すさま)じくなりしかば、鼠にても入りしなるべしとて、燈火(ともしび)を點じ改め見しところ、ねづみのいりし樣子もなき故、臥床(ふしど)に戾りいねんとせしに、又々箱の中にて打合(うちあふ)音など再々ありしかば、其事を持主にはなせし處、夫(それ)は遣ひ人の精心籠りし人形ゆへ、いつとても左の如く珍しからず。右故若(もし)敵役(かたきやく)の人形と實役(じつやく)の人形をひとつに入置(いれおく)時は、其人形喰合(くひあ)ふて微塵になるといえり。實(じつ)に精心のこもりし處なるべし。されば人は萬物(ばんもつ)の靈(れい)なれば、何事も精心のいらざることなし。其譯(わけ)は佛師有(あつ)て、子安(こやす)の觀音を彫刻せば、子育(こそだて)を守(まもり)に驗(しるし)あり。又雷除(らいよけ)の觀音を彫刻せば、雷落(おち)ざる守に驗あり。是觀音は一躰(たい)なれども、其守る處は別にして、ともに利益(りやく)驗然(げんぜん)たるを見るべし。其利益は佛師の精心の凝(こ)る處にして、觀世音も利益を授(さづけ)給ふなるべし。佛師なり、畫工なり、其精心の入るといふは、唯(たゞ)無欲にして利に走らず。只々一心に利益あらん事を祈りて彫刻なすゆえ、其靈(れい)も格別なり。今時の職人は、其精心入(いる)ことなきにも、又餘義(よぎ)なき謂れあり。只(たゞ)今日の暮し方にのみ氣を奪はれ、細工は早く仕あげ、其手間代(てまだい)にて鹽(しほ)噌(みそ)薪(たきゞ)に充(あて)るものから、細工のよしあしに拘らず、手を拔く事のみを手柄(てがら)と心得居(こゝおろえゐ)る故、他(た)に見えざる處なれば、頭もなく、手足もなき、不具の人物生物(せいぶつ)のみ多し。是にて何ぞ魂の入べきいはれ更になし。我(われ)昔彫物師埋忠(うめたゞ)嘉次右衞門が噺(はなし)を聞(きゝ)し事あり。埋忠が云、當時は人間の性(せい)日々わるかしこく成(なり)し故、何職(なにしよく)も細工の早上(はやあが)りのみ工夫なせば、むかしの細工のかたは少(すこし)もなき故、いかなるものも皆死物のみ多し。昔の細工は金錢にかゝはらず、おのれがちから一ぱいに彫(ほり)し故、靈(れい)もあり、妙(めう)も有(あり)といへり。埋忠持傳(もちつたへ)の品に、むかし笄(かうがい)あり、至(いたつ)て麁末(そまつ)なれども、細工は妙なり。其彫は編笠被りし人物なりしが、年代ものゆゑ自然と編笠すれし處、下に顏あり、眼口あざやかに彫(ほり)ありしといふ。中々當時なぞは見へもせぬ處なれば、誰々(たれたれ)も彫らず、是(これ)魂入(たましひい)らぬ處なりといえり。
因(ちなみ)にいふ、一昨年中(いつさくねんぢう)淺草奧山(おくやま)にて生(いき)人形といえる見世物あり。評判高きゆへ、老弱男女(らうにやくなんによ)此見世物見ざれば恥のごとく思ひなし、日々群集(ぐんじゆ)なす事實(じつ)に珍らし。此作人(さくにん)は肥後の生れにして、喜三郎といえり。其生(せい)質朴至(いたつ)て孝心厚きものゝよし噂なり。此者の細工自然と妙を得る事、既に大坂にて薪を荷(にな)いし人形口を利(きゝ)て、アヽ重いといひし由、予も見し處、いづれも今にも言葉をいださん有樣、感ずるに餘りあり。ある人、此者人形拵居(こしらへゐ)しを見しに、其念の入りし事は、人形にほりものある人形は殘りなくほりあげ、其上へ衣服を着せしよし、是外へは見へぬ處なれば、餘り念過たりと笑ひし者あれども、これ前にしるせし編笠の下に顏を彫し細工と同日(どうじつ)にして、實(じつ)に感ずべき事なり。されば口きゝしといふも尤(もつとも)なるべしとは思はれける。
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「喜三郎」は本作でも次に出る「松本喜三郎」(文政八(一八二五)年~明治二四(一八九一)年)で、肥後国(現在の熊本県)の商家に生まれた、稀代の人形師。彼の作品は本物の人間と見紛うところから「生人形(いきにんぎょう)」と称された。グーグル画像検索「松本喜三郎」を是非、見られたい。]
幕末から明治へかけて評判だつた松本喜三郎の生人形にも、薪を負つた人形が「あゝ重い」と云つた話が傳はつてゐる。これなどは多分喜三郎の技術を賞讚するため、誰かが作つた話であらう。
製作者が精魂を打込んだ結果でもなし、人形遣ひの氣持が自ら乘り移るといふでもないのは、「大和怪談頃日全書」に見えた一話である。大御番組で四百石取りの菅谷次郎八なる者が、新吉原の遊女白梅に深く馴染み、御番の間は大方吉原通ひといふ有樣であつた。或年二條城の在番に當り、暫く江戸を離れることになつたが、時折江戸往來の者に托して文を寄せ、返事を貰ふだけでは滿足出來ず、竹田山本の細工人に賴んで白梅の人形を作らせた。この人形は等身大で、その腹中に湯を注ぎ込み、人肌の暖味になつたのを抱いて寢るといふ念入りのものである。次郎八はこの人形に向ひ、白梅と話すやうな氣持になつて、いかに白梅、そなたはわしを可愛く思ふか、と話しかけると、人形も口を動かして、いかにもいとしうござんす、と答へた。これは勿論細工人の工夫の外の事だから、次郎八も不審に堪へず、狐狸の魂が人形に乘り移つたものと疑ひ、即座に枕許の脇差を拔いて、人形を眞二つに斬り捨てた。さすがに次郎八は武士の本心を失はなかつたといふのであるが、この人形を斬つたのと同日同刻、即ち延享巳年七月五日の八ツ時に、白梅は初會客に胸を刺されて死んだ。男も自殺した。無理心中の道連れにされたわけである。尤も延享年間に巳年はない。寛延二年を筆者が書き誤つたのかも知れぬ。これらは次郎八の愛慕の情が、人形の上に怪を生ぜしめたと見るべきであらう。人形を斬つたのと、白梅の刺されたのとが同日同刻であつたといふのは、この種の話によくある筋で、怪は人形のもの言ふ一點に在る。
[やぶちゃん注:「大和怪談頃日全書」既出既注。私は所持しないので原文を確認出来ない。
「竹田山本」当時、大坂でも知られた人形店。
「延享年間」一七四四年~一七四七年。
「八ツ時」定時法なら、午前二時頃。
「寛延二年」一七四九年。]
齋藤綠雨は好んで怪を談ずる流儀の人でなかつたが、「おぼえ帳」の中にこの話を書いてゐる。白梅は山谷邊に葬られたのを、次郎八が本所の本行寺に移し、深教院妙香白梅信女として、跡懇ろに弔つたといふ一條は、何に接つたものか、「大和怪談頃日全書」にこの事はない。
[やぶちゃん注:「おぼえ帳」作家斎藤緑雨(慶応三(一八六八)年~明治三七(一九〇四)年:本名・賢(まさる))が明治三〇(一九九七)年に『太陽』で連載を始めた短文形式の随筆。私は所持しないので原文を確認出来ない。]
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