小穴隆一「二つの繪」(39) 「影照」(14) 「久米正雄・中勘助」
久米正雄・中勘助
「久米のいいところは僕らがためらふところを、浴衣がけで平氣で尻はしよりして手臑をだしたまま跨いで渡つてしまふところだ、」と芥川は一度述懷してゐた。
また、「僕は中勘助のやうな生活がしたい、」とも一度言つてゐた。
[やぶちゃん注:「手臑」「けずね」。毛脛。
「中勘助」岩波書店一九九三年刊の宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引 付年譜」(私が最も活用している岩波旧全集対応版)の人名索引には中勘助の名は載らず、新全集の関口安義・宮坂覺著になる書簡中に出現する「人名解説索引」(書簡四巻それぞれに附されいるので計四種。私は新字採用の新全集を嫌悪するため、書簡巻は一冊も所持していないが、この索引は重宝なため、総てコピーして私的に利用させて貰っている)にも載らない。さらに私の所持する芥川龍之介関連書の複数の人名索引にも載らないことから、芥川龍之介の作品や書簡中は勿論のこと、芥川龍之介関連研究では中勘助との比較研究も本格的には行われていないのではないかと推察される。さればこそ、この小穴隆一証言はすこぶる貴重である。ウィキの「中勘助」によれば(下線はやぶちゃん)、作家中勘助(明治一八(一八八五)年~昭和四〇(一九六五)年)は『東京市神田区(現千代田区神田)東松下町(旧今尾藩主竹腰家邸内の家)で生まれた。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)を経て、第一高等学校から東京帝国大学文学部英文科まで続けて夏目漱石の講義を受ける。国文科に転じて大学を卒業した後も、早稲田南町の漱石山房をしばしば訪問している。しかし控えめな人柄から、漱石山脈の中では目立たない存在として通した。文壇政治から常に距離を置き、特定の派閥にとらわれない孤高の文人だった。また、野上弥生子の初恋の人としても知られている』。大正二(一九一三)年から翌年にかけて、漱石の推薦によって自伝的小説「銀の匙」を『東京朝日新聞に連載。素直な文章で愛されているが』、「犬」「提婆達多(でーばだった)」など、『愛慾、妄執などを幻想的な作風で描いた作家でもある。その陰には兄金一との確執があった。金一は』明治四三(一九一〇)年に『倒れて廃人となるが、勘助はその妻末子に愛情を寄せていた(末子は幕末長州の志士入江九一の弟野村靖の娘)』。大正一三(一九二四)年から昭和七(一九三二)年まで、平塚に居住し、昭和一七(一九四二)年に末子が死ぬと勘助は五十七歳で『結婚するが、金一は結婚式の日に自殺している。このことは、末子の兄の孫である菊野美恵子が明らかにした』。『戦後、泉鏡花の養女泉名月が谷崎潤一郎に文学修業のため預けられたが、谷崎は中に指導を頼んでいた』という。芥川龍之介より七歳年上。龍之介が引かれたとすれば、下線を施した辺りか。私は名品とされる「銀の匙」より、遙かに「犬」や「提婆達多」などを圧倒的に支持賞讃する人種である。]
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