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2017/01/16

柴田宵曲 妖異博物館 「地上の龍」

 

妖異博物館 Ⅱ

 

 地上の龍

 

 雲中の龍の姿は捉へにくい。地上に現れた龍の話を少し拾つて見る。

 明和元年の大火の後、堀大和守の家來川手九郎兵衞といふ人が、堀家の庫の燒け殘りに庇を掛けて、そこに住んで居つた。たまたま大風雨があり、夜中燈燭も吹き消されてしまつたので、燧箱を搜さうとして戸外を見たところ、屋敷の北の方から、小挑燈のやうな火が二つ雙(なら)んでやつて來る。深夜の事といひ、この風雨の烈しいのに、人の來る筈はないと怪しみながら、火を打つてゐると、やがて九郎兵衞の前を通過する時、火は一つしかない。愈々不審に思ふうち、あとから松の大木を橫たへたやうなものが、地上四尺餘りのところを行くのが見えた。その大木のやうなものの中よりも、折々石火の如き光りを放ち、それが通行する際は、特に風雨が烈しかつた。前に挑燈と見えたのは兩眼、近くなれば一方だけ見えるから一になつたので、大木の如きは龍の身體であらう、といふことであつた(甲子夜話)。――「近代異妖篇」(岡本綺堂)の中の「龍を見た話」はこれに基づくものと思はれる。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」は全篇を持っているが、探すのが大変。発見したら原典を追記する。悪しからず。【2018年8月9日追記:これは「甲子夜話卷之十一」の「真龍を見し事」であることが判明した。

『「近代異妖篇」(岡本綺堂)の中の「龍を見た話」』大正一三(一九二四)年十月発行の『週刊朝日』初出。「青空文庫」のこちらで読める。]

「蕉齋筆記」にあるのは姫路の話で、土用干をしたところ、夕立の來さうなけはひになつて來た。干したものは皆取り入れたが、屋敷裏の畠の方に、赤くひらめくものが見える。あまり急ぎ過ぎて、毛氈を取り落したかと思ひ、畠の方へ行つた途端、何かぴつかりしたものがある。毛氈と見えたのは赤い舌で、光つたのは雙眼であつたから、びつくり仰天して駈け込んで來た。そのうちに風雨烈しく、畠の脇から龍が天上した。よくよく強い風だつたらしく、吹き外した雨戸を皆塀際へ吹き付け、それが殘らず立て掛けたやうになつてゐた。

[やぶちゃん注:「蕉齋筆記」既出既注。探すのに疲れた。国立国会図書館デジタルコレクションの画像をお探しあれ。]

「甲子夜話」には白龍を視るの記がある。これは松浦靜山侯が親しく龍を見たわけではない。寛政三年の夏、長崎から來た客があつて、自分の知つてゐる僧が先年白龍を見た、噓をつくやうな男ではないから、本當の話だと思ふ、と云つた。それではその事實を書き留めようと云つたら、已に僧自身書いて居ります、と示したのが漢文の「視白龍記」なのである。龍を見たのは肥前の武雄で、温泉に一浴してから、驛の西にある山に登つて見た。山の中腹ぐらゐのところに池があり、水が極めて淸冷であつたので、同行の數人が皆掬つて飮む。恰も一番最後に飮まうとして、水中に異物の蟠るのを認めた。まさしく龍である。角あり、髮あり、髯あり、氷雪の如く純白であるが、瞳だけが淺黑い。頭の長さ七八寸、太さは手で拱するぐらゐ、上體二尋ばかりは見えるけれど、下體は洞穴の中にでも在るか、よく見えぬ。顏つきは寧ろ端嚴で、恐ろしくはなかつた。同行者を呼んで來て見ろと云つたところ、誰も來ぬうちに龍は姿を隱してしまつた。旅宿に歸つて亭主にこの話をしたら、それは多分あの山の神樣でございませう、まだ誰も見たといふ話を聞いて居りません、と云つた。寶暦十三年七月二十一日の事とあるから、長崎の客は二十八年後にこれを語つたわけである。「甲子夜話」はこゝに洞穴から上體を現してゐる龍の畫を插んでゐるが、この龍は全く地中の物なので、雲を呼び雨を降らす一般の話とは大分距離がある。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話卷三十四」の「白龍の事」と判った。東洋文庫本を参考に、正字化して図(非常に薄いので見難いのは悪しからず)とともに以下に示す。漢文は返り点のみを附し、後で訓点に従いつつも、自在勝手に書き下したものをオリジナルに附した。底本の「竜」は私が嫌いな字体なので総て「龍」とした。

   *

Hakuryuu

 去し寛政辛亥の夏、長崎より一客來れり。一夕これと對話せしときの話に、客所識の僧、先年白龍を見たり。その僧妄言する者にあらず。眞實語なり。予輙(すなはち)其ことを記せんとす。客曰。僧已に其ことを記せりと。後にその記事を得たり。

   觀自龍

余到肥之武雄驛。日既在桑楡。就旅舍温泉、而閑行逍遙焉。驛西之山、高百餘仭。松杉雜ㇾ翠、磴道馮ㇾ虛。其巓巖石相倚而立、陰宕鬱無ㇾ所ㇾ依。因振ㇾ衣而下。山半一逕左轉、地狹平坦、峭壁峙列。有池水。極淸冷。同行數子各掬以飮、散步于縹之間。余獨盤桓池頭、殿數子。而偃飮。水中有ㇾ物、磷々乎。熟視則純白之龍也。雙角競起、纖毛被ㇾ首。頤連蝟鬚。鱗鬣相映、皎潔甚於氷雪。但瞳子淺黑、大如豆實。兩足跨池底、擧ㇾ首正面。顏長七八寸、身圍可ㇾ拱腹心。而上凡二尋、下體則不ㇾ見。蓋在于穴𥕕乎。貌不激烈。端嚴且懿。配諸乾爻、則膺九三乾乾惕若之象邪。余與ㇾ之隔數尺。相對斯須。而余不驚悸者、以彼貌不激烈乎。乃呼數子而曰。玆有二靈物、可來而視。數子未ㇾ到。龍俄然隱矣。下ㇾ山還驛舍。以ㇾ事語ㇾ主。主異ㇾ之曰。恐彼山之神也乎。末ㇾ聞有ㇾ觀ㇾ焉者也。實寶曆癸未秋七月廿一日也。長崎白龍大壽撰、幷書。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

白龍山人、於ㇾ予有通家之誼。嘗爲ㇾ予談其觀白龍之事。予聞ㇾ之以爲ㇾ奇矣。蓋山人以白龍自稱者、據ㇾ之也。今及ㇾ讀記文、竊謂如ㇾ斯之奇、可以不一ㇾ傳乎。予遂請山人命ㇾ工。倂ㇾ圖剞劂焉。天明戊申夏五月、北島長孝識。

○やぶちゃんの書き下し文

   觀二自龍一記

余、肥の武雄驛に到る。日、既に桑楡(さうゆ)に在り。旅舍に就き、温泉に浴して、閑行逍遙す。驛西の山、高きこと、百餘仭(じん)。松杉(しやうさん)、翠(みどり)を雜(まぢ)へ、磴道(たうだう)、虛ろに馮(へう)す。其の巓巖(てんぐわん)、石、相ひ倚りて立ち、陰宕鬱(いんとううつるい)、依る所、無し。因りて衣を振るひて下る。山半ばの一逕、左に轉じて、地、狹くして平坦、峭壁(しやうへき)、峙列(じれつ)す。池水、有り。極めて淸冷。同行の數子(すうし)、各々、掬(きく)して以つて飮し、縹(へう)の間に散步す。余、獨り、池頭に盤桓(ばんくわん)して、數子、殿(のぼ)る。而して偃(ふ)して飮す。水中、物、有り、磷々(りんりん)たり。熟視すれば、則ち、純白の龍なり。雙角、競ひ起こり、纖毛、首に被(かぶ)さる。頤(おとがひ)、蝟鬚(いしゆ)、連なる。鱗・鬣(たてがみ)、相ひ映(て)り、皎潔(かうけつ)、氷雪より甚だし。但だし、瞳子(とうし)、淺黑にして、大きなること、豆の實(み)のごとし。兩足、池底に跨(またが)り、首を擧げて正面(せいめん)す。顏の長さ、七、八寸、身の圍(まはり)、腹心を拱(こまね)くべし。而して上は凡そ二尋(ひろ)、下體は、則ち、見えず。蓋し、穴𥕕(けつか)の中に在るか。貌、激烈ならず。端嚴にして、且つ、懿(うるは)し。諸々を乾爻(けんけい)して配すれば、則ち、九三の乾乾惕若(けんけんえきじやく)の象(かたち)を膺(よう)すか。余、之れと隔つること數尺。相ひ對すること、斯須(しばらく)。而して余、驚悸(きやうき)せざるは、彼(か)の貌の激烈ならざるを以つてするものか。乃(すなは)ち、數子を呼びて曰ふ。玆(ここ)に靈物有り、來りて視るべしと。數子、未だ到らず。龍、俄然として隱る。山を下りて驛舍に還る。事、以つて主(あるじ)に語る。主、之れを異にして曰く。恐らくは彼(か)の山の神なるか。末だ焉(これ)を觀る者有るを聞かざるなりと。實(まこと)に寶曆癸未(みずのえひつじ)秋七月廿一日なり。長崎白龍大壽、撰し、幷びに書す。

白龍山人、予に於いて通家の誼(ぎ)、有り。嘗つて予をして其の白觀龍の事を談ず。予、之れを聞き、以つて奇と爲(す)。蓋し、山人、白龍を以つて自稱するは、之れに據るなり。今、記文を讀むに及びて、竊(ひそか)に謂ふ、斯くのごときの奇、以つて傳へざるべけんや。予、遂に山人に請ひて工を命ず。圖を倂(なら)べて剞劂(きけつ)す。天明戊申(つちのえさる)夏五月、北島長孝、識(しき)。

   *                                                      

・「寛政辛亥」寛政三年。一七九二年。

・「肥の武雄驛」現在の佐賀県武雄市武雄町。武雄温泉がある。

・「桑楡」クワとニレであるが、広く樹木を指し、ここはそうした木の茂る山に夕日がかかることから、夕方の謂い。

・「仭」中国古代の高さの単位。八尺・七尺・四尺・五尺六寸など諸説がある。

・「磴道」石の坂。

・「虛ろに馮馮す」ただ我武者羅に登って行くの謂いか。

・「陰宕鬱」暗い岩が積み重なっていることか。

・「縹」縹渺で広いことを指すか。

・「盤桓」うろうろと歩き回ること。

・「磷々」美しく輝くさま。

・「皎潔」白く清らかで汚れのないさま。「きやうけつ(きょうけつ)」とも読む。

・「七、八寸」二十一~二十四センチメートルほど。

・「腹心を拱(こまね)くべし」「拱く」は両手で抱えるほどの太さを指す。

・「二尋」「尋」(ひろ)は本邦では五尺或いは六尺であるから、三メートルから三メートル六十四センチメートルほど。

・「穴𥕕」穴の裂けた割れ目のことか。

・「諸々を(けんけい)して配すれば、則ち、九三の乾乾惕若(けんけんえきじやく)の象(かたち)を膺(よう)すか」よく判らぬが、易に基づく八卦から諸相を判断した、相を述べているのであろう。

・「主」宿屋の主人。

・「異にして」如何にも稀な神意と称して。

・「寶曆癸未秋七月廿一日」宝暦十三年。グレゴリオ暦では一七六三年八月二十九日。

なり。長崎白龍大壽、撰し、幷びに書す。

・「通家」「つうか」「つうけ」で昔から親しく交わってきた家。

・「工を命ず」ちゃんと板行することを指示したの謂いか。

・「剞劂」版木を彫ること。

・「天明戊申夏」天明一三(一七八八)年。

・「北島長孝」不詳。識者の御教授を乞う。

 但馬の四箇の山の麓鵜繩村の女が、童を連れて谷筋に入ると、橋の下に長さ七尺ばかりの恐ろしいものがゐる。肝を潰して逃げ歸り、この話をしたところ、この邊の人々は猛獸などは何とも思はぬ手合だから、手に手に得物を携へて出かけた。その者は依然もとの場所に居つて、驚く氣色もなければ、怒つた樣子もない。つくづく見れば、獨角にして手足あり、身體は木の葉の色に金の光りを帶び、畫にかいた靑龍のやうに美しかつたので、思はず手を延べて角を撫でたら、喜ぶやうな風情であつた。その後少し奧の谷川を隔てたところに、凡そ八間ばかりもある白い皮で、金色の光りあるものが脱ぎ捨ててあつた。多分前の咬み龍のものであらうと「閑田次筆」は記してゐる。龍がもし神威を具へてゐるならば、まさに斯の如き者でなければなるまい。單に眼を怒らし、火を吐き、迅雷風烈を放ち出すだけならば、猛虎の好敵手として畫圖の裡に老ゆるより仕方がなからう。見る者に恐怖を感ぜしめぬこの二つの話は、僅かに神龍の名に恥ぢぬものがある。

 

[やぶちゃん注:「但馬の四箇の山の麓鵜繩村」現在の兵庫県養父(やぶ)市鵜縄(うなわ)。(グーグル・マップ・データ)。

「八間」十四メートル五十四センチメートル。

「閑田次筆」伴蒿蹊の「閑田耕筆」に続く作(分化元(一八〇四)年序)。「卷之四 雜話」にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。注は附さぬ。

   *

○但馬豐岡の人鷺橋おくれる文に曰、某國氷(ヒ)の山といふは、播磨、美作、因幡に根張ゆゑに、四箇の山ともいへり。登ること五拾丁にして、六十六體の地藏尊あり。靈驗の地といふ。其麓鵜繩(ウナハ)村といふところの女と童二人つれて、草籠負て谷筋に入しが、橋の下に長さ七尺斗のおぞきもの居たれば、魂を消(ケシ)て迯歸り。しかじかのよしを語るに、もとより其邊のものは、猛獸を捉(トル)ことを常とすれば、手ごとに獲物を携へて至るに、彼者驚くけしきもなく、又怒れるさまもなければ、つくづく窺ふに、角一つ手足有て、身は木の葉の色に金の光を帶び、うつしゑの青龍のごとくうつくしければ、橋より下角を撫たるに、喜ぶ風情なりしとなん。此後また少し奧の(タニ)に河を隔(ヘダテ)て、凡八間斗の白き皮に金色あるが脱捨ありし。これもさきの神龍の所爲成べしといひき。惡龍、毒虵の類ひにあらず。治る御代の瑞なるべし。まさにことしの秋の實のりよきも、思ひ合されてたうとしといへり。

   *

柴田が記していない原典の末尾がまさに祝祭の予兆となっているのが、まことに清々しいではないか。柴田は何でこれを記さなかったのかと私はすこぶる不審である。]

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