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2017/01/27

小穴隆一「二つの繪」(47) 「鵠沼・鎌倉のころ」(1) 「鵠沼」

 

鵠沼・鎌倉のころ

 

 

      鵠沼

 

 松風に火だねたやすなひとりもの

 

 まことに、ひとりものであつた私は、貰つた一と切れの西瓜がすぐには食へず、臺輪を緣側に持ちだして泥釜をのせ、その釜蓋の上に西瓜を置いて、半紙に寫してゐたのだ。

 

Toukousisuiwoterasu

 

 畫、鍋釜を自分で洗つてゐたひとりものの墨じるのいたづらがきで、みすぼらしいが、句のはうは、畫いてゐた時に、芥川が勝手口からはいつてきて、(鵠沼生活の時、芥川は玄關からも緣側の方からも入つてきたことはなく、窓からか、勝手口からかに限つてゐた。)一寸僕に塗らせろよといひこんで、そばにあつたクレイヨンで色をつけてから、松風にと書添へてゐたものだ。以前は、短册を十枚買へば箱をつけてくれるか、箱がなければ、短册の形に裁つてあるボール紙をあててくれたものだが、そのポール短册がそばにあつた。芥川はそれを拾つて、夜探千岩雪と書いて疊に置いたが、一盃盃又一と筆を補ぎなつて、一盃盃のところを指し、君これが讀めるか、一盃一盃また一盃と讀むのだと教へながら、またそれを手にして裏返し、燈光照死睡と書いてゐた。

 芥川の一盃一盃は、李白の山中對酌、兩人對シテ酌ム山花開ク一盃一盃復タ一盃とは事かはつて、死ねる藥の一盃一盃をいつてゐるのだ。

[やぶちゃん注:底本の画像は「燈光照死睡」は「照」の字を除いて判読出来ないほどひどいので、小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」(中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の昭和五三(一九七八)年再版本)の画像に差し替えた。また、冒頭に出る小穴隆一の絵と芥川龍之介の句のそれも同書にあるものを参考図として以下に掲げた。惜しいかな、この絵は本文にもあるように芥川龍之介によって『紅、綠、代赭のクレヨンで彩』られたものであるが(引用は「芥川龍之介遺墨」の当該図の小穴の解説に拠る)、モノクロームである。

 

Matukazesuika

 

「松風に火だねたやすなひとりもの」先行する「二つの繪」パートの方の「鵠沼」でもこの句が出、既注であるが、画像を添えたので再掲しておくと、現行の芥川龍之介俳句群には類型句も見当たらない、ここだけで現認出来る句である。小穴の謂いから見ても、これは真正の龍之介の句と私は断ずるものである。私は既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で採録している。

「臺輪」私はこれは「だいわ」で、そこの丸い不安定な鍋釜などを据え置くのに用いる藁繩などで編んでドーナツ型にした据え具かと思った。但し、そのような意味も語も存在しないことを知って、やや驚いている。私の読み違えであるなら、どうか御指摘戴きたい。

「芥川が勝手口からはいつてきて、(鵠沼生活の時、芥川は玄關からも緣側の方からも入つてきたことはなく、窓からか、勝手口からかに限つてゐた。)」先行する「二つの繪」の方の「鵠沼」の本文と小穴隆一自筆の見取り図を参照のこと。

「夜探千岩雪」「夜(よ) 探(さぐ)る 千岩(せんぐわん)の雪(せつ)」と訓じておく。

「燈光照死睡」「燈光(たうくわう) 死睡(しすい)を照らす」と訓じておく。己れの死に顔を詠んだ覚悟の一句である。

「李白の山中對酌」陶淵明をインスパイアした李白の知られた七絶。但し、正しくは詩題は「山中與幽人對酌」である。「幽人」は隠者。

   *

 

 山中與幽人對酌

兩人對酌山花開

一杯一杯復一杯

我醉欲眠卿且去

明朝有意抱琴來

 

  山中に幽人(いうじん)と對酌す

 兩人 對酌して 山花開く

 一杯一杯 復た 一杯

 我れ 醉ひて眠らんと欲す 卿(きみ) 且(しば)らく 去れ

 明朝 意 有らば 琴(きん)を抱きて來たれ

   *]

 燈光死睡を照らしてから二十二年の世の移りかはりで、我鬼窟、澄江堂の額を掲げた田端の家も戰災でなくなつた。用があつて、足を鵠沼に運んで、芥川夫人を、昔ひとりものが風呂を貰ひにいつてゐた塚本さんの家に訪ねたが、(塚本は芥川夫人の實家の姓、僕が借りてゐた家にも風呂桶はあつたのだが、沸かすのが面倒であつた、)塚本さんの家は、門の内そとに忘れないでゐたそのさまもなく、とほされた芥川死後の普請の、五百圓一と間の家さへ、根太も腐つてこはれてゐるといふ話であつた。

[やぶちゃん注:「根太」老婆心乍ら、「ねだ」と読む。床板(ゆかいた)を支えるために床の下に渡す横木のこと。]

 私は、自分の家にあるのと同じ芥川の寫眞が掛けてあつたのを、ふしぎのやうに感じて、部屋のなかの、殘された子供達の持ちものに、光陰の移り行く間を思はざるをえなかつた。

 私のところに掛けてある寫眞は、有樂町二丁目七にあつた村の會場で、昭和三年七月に、芥川龍之介氏追慕展璧覽會が催されたをり、武者さんからといつて村の人が屆けてきてくれたものだ。

[やぶちゃん注:「村の會場」読み違える可能性の高い若い人のために注しておくと、「有樂町二丁目七にあつた村の會場」とは、「武者」小路実篤らが創立した理想郷「新しき村」(大正七(一九一八)年に宮崎県児湯郡木城町に開村、昭和一四(一九三九)年に一部が「東の村」として埼玉県入間郡毛呂山町(もろやままち)に移転)が、東京での活動拠点の一つとして昭和三(一九二八)年二月に有楽町に建てた「新しき村の会場」という各種イベントに対応した施設の固有名詞である。頻繁に展覧会(北斎・南画・夏目漱石など)・講演会・室内劇上演などが行われた。]

 濱邊が舖裝されたドライブ・ウエーとなつてゐる今日では、昔、幾度か步いてゐたその路が、もう、私の頭にあつた鵠沼の路ではなかつた。たそがれの道を芥川夫人と步きながら、私は夫人の足音にくせのあるのに氣がついてゐた。話をしながら、私がひそかに耳をすませてゐたのは、一度、夜、芥川夫妻と濱邊に出てから散步をしたことがあつた。その時と同じ足音を耳にして、昔をしのんでゐたからだ。僕の女房は、はやくに父をなくしたので、どんな醉つぱらひの亭主でも生きてゐてくれたはうがいいといふのだ、と、生きてゐる氣力を失つてしまつた芥川の、淚をうかべてゐた姿が目に、ことばが耳に、再び生きかへつてゐた。

 一人であつたならば、まはつてみることもなかつたかもしれないが、夫人に誘はれて、私達が以前にゐた家々を垣のそとからのぞいてみた。芥川がなにか句にしようとして、さるすべり、さるすべりといつてゐたさるすべりのあつた二度目の家の、二階の部屋をみあげるのは一寸まぶしいやうな氣がした。家のうちであらうが、そとであらうが、芥川の話はいつも、死ぬことばかりであつたから別にどうといふ筈もないが、夜、二階に誘はれると、暗くて、今日きはまるか、今日きはまるかと思つたものだ。私は芥川が山吹、棕櫚の葉に、等等の詩稿をみせながらあれこれなはしてゐたことや、アンテナといふことをいつてゐたのを思ひだす。伊二號の「O君の新秋」の家、芥川が、私の西瓜の畫に松風にの句を書きもし、また、星を一つとばしてしまつた北斗七星を描いて、これなんだかわかるかといつて、私の座布團のしたにさしこんでゐたりしてた家も、さるすべりの家もなほしがあつて、昔のさまはなくなつてゐた。

[やぶちゃん注:ロケーションの家はやはり先行する鵠沼の見取り図を参照。

「山吹」これは恐らく、

 

   山吹

あはれ、あはれ、旅びとは

いつかはこころやすらはん。

垣ほを見れば「山吹や

笠にさすべき枝のなり。」

 

であろう。この最後の鍵括弧で括られた句は芭蕉のもので、

   山吹や笠に挿すべき枝の形

で元禄四(一六九一)年、江戸赤坂の庵にて芭蕉四十七歳の作である。旧全集後記によると、岩波元版全集には文末に「(大正十一年五月)」とあるとするから、このクレジットが正しいとすれば鵠沼生活より四年も前の満三十歳の作となる。但し、この詩自体は、自死後の昭和二(一九二七)年八月発行の『文藝春秋』に掲載された「東北・北海道・新潟」に以下のように示される。

 

 羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」

  あはれ、あはれ、旅びとは

  いつかはこころやすらはん。

  垣ほを見れば「山吹や

  笠にさすべき枝のなり。」

 

もので、創作時期が早かったとしても、芥川龍之介遺愛の詩篇であったこと疑いがない。]

「棕櫚の葉に」これは、明らかに芥川龍之介鵠沼生活時代の、大正一五(一九二六)年七月刊の雑誌『詩歌時代』に発表した、

 

   棕櫚の葉に

 

風に吹かれてゐる棕櫚の葉よ

お前は全体もふるへながら、

縱に裂けた葉も一ひらづつ

絶えず細かにふるへてゐる。

棕櫚の葉よ。俺の神經よ。

 

である。

「アンテナ」ここで小穴隆一が直前に挙げている「棕櫚の葉に」の詩篇のイメージ及び多様な精神疾患の初期症状(重いものでは統合失調症)に典型的な「電波」という愁訴を私は直ちに想起するが、芥川龍之介が果たしてそうした自己の精神変調の謂いで、この「アンテナ」を口にしたものかどうかは、この通り、いつもの小穴流意味深長不全表現によって明らかでないのは頗る焦燥を感ずるところである。

O君の新秋」私の電子テクストはこちら。但し、これはあの不吉な作品のモデルの廃別荘の位置を指すのではなく、「O君」の借りていた別荘、筆者小穴隆一の住んだ「伊二號」のことを指しているに過ぎないので要注意。

「星を一つとばしてしまつた北斗七星を描いて、これなんだかわかるかといつて、私の座布團のしたにさしこんでゐたりしてた」「二つの繪」冒頭の「二つの繪」を参照。]

 伊四號の、芥川の家は、おもてからみれば、昔のままであつたが、小さな水蓮とあはれな蓮が咲いてゐた小さな池の跡がなく、地境の、蔦うるしからまる松も、からまぬ松も、蔦うるしからまる、なんとかいつてゐた芥川の句が、早速にみあたらぬやうに消えてゐた。私のうつろの目は、芥川が抱いてゐた也ちやん(也寸志君)を庭におろして、也ちやんが、あつぷ、あつぷ、砂地を這つてゐるのをぢつとみてゐた、そのそばに咲いてゐたつゆくさの紫をさがしもとめてゐたが、私は、ひとりものとして鵠沼にゐたときに、いつも庭の松ぼくりを拾つて焚付けとてゐたので、つゆくさと松ぼくりのない鵠沼の景色などは想像もしてゐなかつた。

[やぶちゃん注:「蔦うるしからまる、なんとかいつてゐた芥川の句」「鵠沼」にあった「蔦うるし這はせて寒し庭の松」という芥川龍之介の他に見ぬ句。]

 伊四號の家には、書きつづけてゐた「河童」の原稿を、いつも風呂敷包みにして、そはそはとしてはゐるが、息をつめ齒をくひしばつてゐた芥川の姿がうかぶ。伊二號の家にゐたときに、死んだあと、よくせきのことがあつたら、これをあけろと渡されたものは、死をえらぶにいたつたいきさつを簡單にかざりなく述べたものであるが、齒もことごとくぬけてしまつたいまの私になつてみると、それはただ、自決をしても、わざはひが私にかからぬやうに芥川が配慮してゐたものとしか考へられない。

[やぶちゃん注:『伊四號の家には、書きつづけてゐた「河童」の原稿を、いつも風呂敷包みにして、そはそはとしてはゐるが、息をつめ齒をくひしばつてゐた芥川の姿がうかぶ』これと酷似した描写が「一人の文學少女」にも出ていたが、そこで私が疑義を呈したように、この証言は俄かには信じ難い。リンク先を参照されたい

「齒もことごとくぬけてしまつたいまの私になつてみると、それはただ、自決をしても、わざはひが私にかからぬやうに芥川が配慮してゐたものとしか考へられない」またしても、小穴隆一特有の厭らしい一人合点で終っている。「自決をしても、わざはひが私にかからぬやうに芥川が配慮してゐた」とは何をどのようになのか、全く分らないのである。仮想し得る最大最悪のものは芥川龍之介の自死に用いた毒物が小穴隆一経由で入手されたものである可能性であるが、であれば、小穴隆一はその性格からして真相を暴露しておかしくないと私は考えるから、それは、ない。]

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