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2017/01/15

小穴隆一 「二つの繪」(22) 「橫尾龍之助」

 

     橫尾龍之助

[やぶちゃん注:以下、次章「養家」とともにある意味本書のハイライトの、芥川龍之介を私生児或いは呪われた不義密通の子とすることを濃厚に匂わせた実名暴露のスキャンダラスな記事である。現在ではこの説は否定されており、顧みる研究者はおらず、また、小穴隆一はこれによって決定的に芥川家との関係が疎遠となり(但し、本文注で述べたが、姓を伏せた状態で先行する昭和一五(一九四〇)年刊の「鯨のお詣り」にも同内容のことを書いてはいるから、その辺りから既に芥川家とは上手く行っていなかったと思われる)、芥川龍之介研究者からも黙殺されるようになってしまったイワクツキの二章である。この説の顛末は本文内の注で示す。] 

 

〔夏の日四日も棺のなかにおかれた人の顏を、永遠に形を失ふ前の彼の顏を見たいといふのか。死體から立つ臭氣と撒かれた香水のにほひに、〕といふ描寫があるが、谷口(喜作)が「ことによると目玉が暑さで流れてゐるかも知れない、」と言つて家族がおわかれをするその前に、僕と竹内仙治郎(芥川家の親戚)が棺のなかを改めることになり、谷口が立つて頭のほうへまはり、南無妙法蓮華經と大聲で唱へながら蓋に手をかけて、「あ! だめだ。」とわめいたときに茶間から廊下づたひに急ぎ足できた夫人が、「忘れもの、」といつてすうつとさしいれた(谷口は蓋の頭のはうを一尺ばかり持ちあげてゐた、その間にいれたのでさしこんだといふよりなげこんだといふかたちであつた。)臍緒の包に(臍緒の包であらう)一字一寸角もあらうかとみえた橫尾龍之助といふ文字をみた。――僕は昭和十五年に『鯨のお詣り』を刊行してゐるが「二つの繪」のところは目にすることもいやであつた。さうして今日になつて、〔彼の夫人が自分に渡した紙包は○○龍之助、〕と書いてあるその誤りに驚いてゐる。このまちがひは昭和七年に、中央公論に書いてゐた當時の、僕の精神の硬直からきてゐたもので、本のときにそのまま橋本(政德)君まかせで訂正しておかなかつた。――

[やぶちゃん注:「谷口(喜作)」既出既注の和菓子屋「うさぎや」と当時の主人。一説に芥川龍之介の葬儀を取り仕切ったともされるが、このシークエンスを見るとそれも腑に落ちる。

「竹内仙治郎」芥川龍之介の伯父(実母フクの兄)で、養父芥川道章の弟(その関係では龍之介の叔父に相当する)であった芥川顯二(大正一三(一九二四)年に死去している)の養子であった竹内仙次郎のことと思われる。因みに彼は芥川の実家であった新原家の女中であった吉村ちよ(明治二九(一八九六)年~昭和四(一九二九)年:長崎県五島の生まれ)と結婚している(大正一一(一九二二)年四月)。但し、たった四ヶ月で離婚し、龍之介の義兄西川家(龍之介の実姉ヒサの二番目の夫で例の鉄道自殺した弁護士)の女中となった。何で、場違いなこんなことを書くか? だって、何を隠そう、この吉村ちよこそが芥川龍之介の初恋の相手であったからである。

「臍緒」「へそのを」。

「『鯨のお詣り』の『「二つの繪」のところ』とは「二つの繪」パートの『彼に傳はる血』という章を指す。ここでは当篇で「橫尾龍之助」とある箇所が、総て『○○龍之助』と伏字となっている。例によって小穴特有の妙に勿体ぶった表現でちょっとわかり難い方もあろうが、要は小穴隆一は、初出の昭和七(一九三二)年の『中央公論』に書いたまま、即ち、『○○龍之助』という意味深長な伏字のままで、単行本化したのは「誤り」であり、「まちがひ」であった、「訂正して」正しく「橫尾」と伏字を正字に直して刊行すべきであった、と言っているのである。

「橋本(政德)」不詳。中央公論社の編集者であろう。]

 芥川夫人はさしいれたと言ふであらうが、なげこんだとしかみえなかつたとつさに、被せられた白い布がにじみだした人間の膏で赫土色に染まつて、ぐつしより濡れて顏にひつついてる、それだけになま暖く瞼の輪廓をみせて、生きたままに埋められてゆく恰好の芥川と、橫尾龍之助となつて死んでゐる芥川をみて僕は唾をのんだ。

[やぶちゃん注:「膏」「あぶら」。]

 橫尾龍之助が芥川龍之介となつて死んでゐる。芥川はその間の消息を僕に一度も言はずに死んでゐる。僕は僕の知つてゐる芥川が確に死んだことは僕の目でみた。しかし、橫尾龍之助が芥川龍之介になつたその間の、正確な安心して聞ける事情といつたものは今日に至るも知つてゐない。

 東京新聞社社會部の田中義郎君は岩波の新書判の全集二十卷が一卷滅つて十九卷になつたその間の事情を知つて芥川の家のこと、葛卷のことを、足掛三ケ月かかつて穿鑿してゐた。その彼が最近僕に報告してゐるところによると、東大の卒業者名簿にも芥川は龍之介でなく、龍之助となつてゐるといふ。

[やぶちゃん注:「田中義郎」不詳。

「岩波の新書判の全集二十卷が一卷滅つて十九卷になつたその間の事情」この「事情」とは次の章「養家」によって、葛巻義敏が、その所持する多量の未定稿の提出を土壇場になって渋ったせいであると読める。この第三次新書版全集は昭和二九(一九五四)年十一月から刊行され、翌年の八月に刊行を終えている。確かに一見、半端な巻数に見えるが、実際には別巻一冊が加わって、全二十巻である。「その間の事情」を明記しないのは、小穴隆一お得意のいやらしい後出し記述である。こういうところが私には生理的に頗る嫌なところである。なお、葛巻は実際、芥川龍之介の未定稿等を小出しに提示して(悪意を以って言うなら「食い潰しながら」)後代を生きた観があり、芥川龍之介研究家の間では「頗る」附きで評判が悪い。岩波書店刊の「芥川龍之介未定稿集」も、断片を恣意的に繋げたり、義敏が手を加えて辻褄を合わせたと疑われる箇所が散見するもので、一次資料としては甚だ心もとない疑惑のある一冊である。

「東大の卒業者名簿にも芥川は龍之介でなく、龍之助となつてゐる」私は知らない。現行の年譜類でも「龍之介」の名が実は「龍之助」であったという記載はなく、宮坂年譜の初めに掲げられている文との縁談契約書や、何より、公文書である養子騒動の際の「家督相続人廃除判決書」の名も「芥川龍之介」「新原龍之介」となっている。寧ろ私などは、芥川龍之介は一時期、「龍之助」の「助」の字を生理的に激しく嫌悪し、自分宛ての手紙で宛名が「芥川龍之助」となっているものは開きもせずに捨てた、というエピソードをどこかで読んだ記憶があるくらいである。但し、後に出るように芥川龍之介自身が幼少期に「芥川龍之助」と署名していた事実はある。

 僕は芥川の年譜は、芥川自身の筆である年譜をしか信用してゐない。大正十四年四月新潮社發行、現代小説全集の芥川龍之介年譜である。

 明治二十五年三月一日、東京市京橋區入船町に生まる。新原敏三の長男なり。辰年辰月辰日辰刻の出生なるを以て龍之介と命名す。生後母の病の爲、又母方に子無かりし爲當時本所區小泉町十五番地の芥川家に入る。養父道草(みちあき)は母の實兄なり。

 三十一年本所區元町江東小學校に入學。成績善し。

 三十五年實母を失ふ。――

[やぶちゃん注:以上は大正一四(一九二五)年四月一日新潮社刊行の『現代小説全集』第一巻の「芥川龍之介集」の巻末に載る自作年譜の冒頭部のみ。正確には「又母方に子無かりし爲」の後には読点が入り、」三十一年」の後は一字字空けで、「三十五年實母を失ふ。」の後は、『此頃より、英語と漢學とを學ぶ。英語はナシヨナル・リイダアより始め、漢學は日本外史より始む。』で条が終わっているのをカットしてある。]

 しかし、僕はこの芥川が書いてゐる年譜にさへ芥川が何か書落してゐるといふ疑ひを持つてゐる。芥川の小學生時代の作文は芥川龍之助といふ署名である。

[やぶちゃん注:事実、現在知られている芥川龍之介の初期文章の内、「海賊」(明治三五(一九〇二)年四月(推定)。十歳。江東小学校高等科一年)・「實話 昆蟲採集記」(明治三五(一九〇二)年五月)・「彰仁親王薨ず」(明治三十六年二月二十五日)・「つきぬながめ」(同前)・「新コロンブス」(筆録時期不詳)では署名を「芥川龍之助」としている(ここは初期文章・草稿を載せる新全集第二十一巻の後記を参考にしたが、標題は恣意的に正字化した。ただ、小穴隆一の本書刊行時には以上の幾つかは知られていない)。但し、私は思うに、「介」は画数が少ない割に、左右に広がった字体が、実は見た目綺麗に書くには非常書きにくい字であると思う(特に子どもには。実際、旧全集の芥川也寸志の書いた字から拾って構成された背文字の字の「介」の字は記号のように見える。しかし、可愛い)。また、姓の「芥川」の「芥」の中に既にこの字が含まれていることから、書いた際になおのこと、書き損じるとバランスが一層悪くなるのである。さればこそ、子どもが五字の名前をどっしりと落ち着かせて書くには「助」の方が遙かに書き易いのではあるまいか? 因みに私の「藪野直史」は縦書すると、極端な頭でっかちの妖怪見たようなもので、字が下手であるのに輪をかけて、上手く書けたためしがない。いや――実は私は小学校六年まで「藪」の字が書けず、「薮」と書き、しかも今も残る書き初めなどを見ると、筆ではこの「薮」さえも書けずに、「やぶ野」と記している為体(ていたらく)であったことを告白しておく。]

 自己紹介によれば、田中義郎君もまた芥川の愛讀者だといふが、岩波が刊行中の全集の一册と、筑摩の文學全集に插んであつたといふ月報、社名を書いた大學ノートを持つて僕の前に坐ったのは七月二十五日の朝であつた。田中君の調べでは、葛卷の母(芥川の姉)は葛卷氏にかたづいて死なれてから、西川氏に嫁ぎ、その西川氏ともまた死にわかれとなつてゐたので、僕は、葛卷氏とは離婚、その後西川氏にかたづいたが、その西川氏が自殺、つづいて芥川の自殺で、それで北海道に行つて、またもとの葛卷氏といつしよになつたので、今日、葛卷氏に死にわかれでもして、鵠沼にゐるのであるかどうかはそれは知らぬが、芥川の實家は、新宿に牧場を持つてゐたので、獸醫の葛卷氏と結婚した次第だが、その葛卷氏は牧場で牛を購ふその金をごまかしたといふので離婚になつた人と聞いてゐると、葛卷義敏が自分の系圖まで立派にしてあるのを感心しながら説明しておいた。それに吉田精一といふ男は、葛卷の手さきででもあるのか、昔、空谷老人が何か雜誌で僕をやつつけてゐる、それに返事も書けなかつたのではないかと得意氣に僕を嘲けつてゐるが、芥川の遺書に(新書判十五卷百七十七頁參照)〔下島先生と御相談の上自殺とするも可病殺(死)とするも可。〕[やぶちゃん字注:「(死)」は「殺」の右にルビ状に附された小穴隆一の補正注様のものである。]といふのがあつたから、先生は僕の顏をみるなり、聲をひそめて私はどちらにでもしますがといつたもので、それをそのままに僕が「二つの繪」に書いた。ところが、醫者であつた老人のはうの身になつてみれば、たまつたものではなかつたらう、たちまち事實無根と僕に吠えついてゐたので、吉田のやうな先生は困りものだ、それに空谷老人は割合におしやべりでと、あと四百二十字分を聞かせて、事情はよく調べてくれと田中君に言つたが、田中君はその後かなり丹念に調べてゐて、僕に言はせれば橫道の話の橫尾そのといふ女のことをいま問題としてゐる。僕は漫然と芥川の家の人の言ふことだからとか、芥川の甥の言ふことだからといつて、安心してものを書いてゐる解説家の頭といふものはをかしいと思ふ。(吉田精一は田中君のくはしい話でいろいろを知つて、それでは自分も考へなほさなくてはいけないと言つた由、無論さうあるべきだ。)僕には穿鑿は僕の目で見てゐた芥川、芥川に聞いたことだけでたくさんである。

[やぶちゃん注:「七月二十五日」これは本書の刊行が昭和三一(一九五六)年一月であること、「岩波が刊行中の全集の一册」という叙述から、昭和三十年の七月二十五日と比定出来るように思われる。

「筑摩の文學全集」不詳。筑摩書房の吉田精一編の全集類聚版芥川龍之介全集ではない(あれは本書刊行の二年後の昭和三十三年二月から刊行開始)。筑摩が当時出していた全集類の「芥川龍之介集」かも知れぬ。昭和三十年十二月に、まさに葛巻義敏編の『日本文学アルバム6芥川龍之介』が刊行されているが、これは先の日程と齟齬し、翌年一月刊行の本書を考えると、到底あり得ず、残念ながら違う。

「葛卷の母(芥川の姉)は葛卷氏にかたづいて死なれてから」小穴隆一は直後に「またもとの葛卷氏といつしよになつた」と、自分がおかしなことを言っていることに気づいていない。芥川龍之介の姉ヒサは葛巻義定とは死別していない。ただの離婚である(離婚理由は不詳であるが、息子葛巻義敏が小穴隆一のこれ(業務上横領)に反論していないとすれば(反論したかしなかったかは私は確認はしていない)、事実なのかも知れぬ)そうして、西川が鉄道自殺し、芥川龍之介が自死した後、また前夫葛巻義定と再々婚したのである。

「葛卷義敏が自分の系圖まで立派にしてあるのを感心しながら説明しておいた」この文も判ったようで、判らぬ。「葛卷義敏が」怪しげに「自分の系圖まで立派にしてあるのを」皮肉を込めて「感心し」たような振りをし「ながら」私(小穴隆一)は田中義郎に「説明しておいた」と読むしかない。私が、小穴隆一の文が捩じれている、というのは、こういうのを指す。気持ちが悪い文である。なお、この章辺りから小穴の激しい葛巻批判が始まる。

「空谷老人」下島勲。「空谷」は彼の俳号。

「〔下島先生と御相談の上自殺とするも可病殺(死)とするも可。〕[やぶちゃん字注:「(死)」は「殺」の右にルビ状に附された小穴隆一の補正注様のものである。]」芥川龍之介の遺書の内の、芥川文宛遺書の第四項、

 四、 下島先生と御相談の上、 自殺とするも病殺とするも可。 若し自殺と定まりし時は遺書(菊地宛)を菊地に与ふべし。 然らざれば燒き棄てよ。 他の遺書(文子宛)は如何に関らず披見し、 出來るだけ遺志に從ふやうにせよ。

を指す。「病殺」は芥川龍之介自筆のママである。リンク先の私の原稿復元を確認されたい。

「先生は僕の顏をみるなり、聲をひそめて私はどちらにでもしますがといつた」私は小穴隆一のこの証言は真実だと考える。

「吉田のやうな先生は困りものだ、それに空谷老人は割合におしやべりでと、あと四百二十字分を聞かせて、事情はよく調べてくれと田中君に」私(小穴隆一)は「言つた」のである。「あと四百二十字分を聞かせて」という謂い方も、奇体である。こんな言い方・書き方をする人間には私はちょっと逢ったことがなく、そういう風に記す文筆家も不学にして知らぬ。小穴隆一は、ともかくも、かなりの変人であるように私には思われる。

「橫尾その」芥川龍之介の実家である新原敏三の家の女中とされる女性とする以外の情報はない。ここで小穴隆一はほぼはっきりと、芥川龍之介は実母とされるフクの子ではなく、新原敏三が自分の家(牧場を経営していた)の女中であった橫尾そのに手をつけて生まれた私生児であると主張していると言ってよい。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「小穴隆一」(栗栖真人氏執筆)の項や「家族の回想」(笠井秋生氏執筆)の項で軽く触れられているだけで、それを見てもこの小穴の描写や私生児説を含むこの章全体が完全な虚偽として、既にほぼ非研究対象として退けられ、ある意味でタブー視されていることが判る。「芥川龍之介新辞典」によれば、この小穴の主張は実は本書の刊行前に、昭和三〇(一九五五)年十月六日附『東京新聞』が、『芥川龍之介出生の謎判る、小穴隆一氏が近く公表』『母親は横尾その、実家新原牧場の女中』というフライング記事を出してしまったため、まず「二つの繪」刊行の前月、芥川龍之介の長男芥川也寸志が「父芥川龍之介出生の謎―『新事実』は事実ではない」(昭和三〇(一九五五)年十二月・『文藝春秋』)が先制攻撃の釘を刺した。その後、龍之介の実姉ヒサが、「私の立場から訂したいこと」(昭和三一(一九五六)年二月・『新潮』)などの近親者からの否定反論があり、研究者山本健吉氏の「芥川私生児説の余波」(昭和三十年一月・『三田文学』)、吉田精一氏の「芥川私生児問題について」(昭和三十一年二月・『近代文学』)、荒正人氏の「芥川龍之介の出生をめぐって」(昭和三十一年二月・『近代文学』)等で論議されたものの、昭和四九(一九七四)年の森啓祐氏の「芥川龍之介の父」(桜楓社刊)や沖本常吉氏の「芥川龍之介以前―本是山中人―]などによって否定されており、最早、問題にする研究者は皆無と言ってよい。なお、小穴隆一は本書刊行三年後の昭和三四(一九五九)年頃から中風を患い、絵筆も執れなくなるという不遇な晩年を送り、昭和四一(一九六六)年四月二十四日に逝去している。ただ、「芥川龍之介新辞典」の「家族の回想」の下部の記事「母フクの発病の原因」の項に、『葛巻義敏が「新しく興る実業家としての実父敏三が、かなり放蕩したらしく、龍之介と同年の庶子があることが伝えられている」(『日本文学アルバム6芥川龍之介』)と発言し、これに注目した森啓祐は、「龍之介に、ハツ、ヒサ、得二の姉弟のほか、もう一人、敏二という名の弟が出生している事実」をつきとめ、以下のごとく説いた。「こうして龍之介の生母フクの発狂は、さまざまな不孝な出来事が重なり』(「不孝」はママ)あって『誘発したとみられるが、その原因の一つに「龍之介と同年の庶子」出生の事実があったことは間違いなさそうである(『芥川龍之介の父』』(データは前掲)と記しており、『実母フクの発病の最大の原因は「龍之介と同年の庶子」出生にあったとしてよかろう。つまり敏三の放蕩がフクを発狂へと追いやったのである』とあるのが非常に目を惹くのである。私はこのフクの発病原因に庶子誕生があるというのに強く共感する(私はフクの精神疾患は以前から心因性であろうと考えている)し、この名も生死も知れぬ今一人の芥川龍之介の影のような庶子の行方を「誰も知らない」のが、これ、妙に変に思われるのである。……この庶子の母親こそ……実はこの「橫尾その」その人だったのではあるまいか?……その生まれ落ちた彼はどうなったのか?……その臍の緒は?…………

  史蹟

 齋藤鶴磯の墓

 司馬江漢の墓   慈眼寺

 芥川龍之助の墓

  昭和二十七年四月 建之

    豐島區役所

 芥川の墓のある慈眼寺の入口にかういふ札が建つてゐる。この立札には齋藤鶴磯名は政夫、司馬江漢名は峻、といつたやうに、芥川龍之助 束京の人、大正昭和の代表的小説家、新技巧派の作家としてその理智的作風は一世に風靡す、昭和二年七月自ら生命を斷つ、行年三十八歳、といふ小傳が誌してある。

[やぶちゃん注:現在は「芥川龍之介」となっている。二度墓参したが、三十八年前も「芥川龍之介」だったように記憶する。

「齋藤鶴磯」(さいとうかくき 宝暦二(一七五二)年~文政一一(一八二八)年)は儒者で考証家。江戸生まれで武蔵所沢(現在の埼玉県所沢市)に住み、武蔵野の歴史・地理に関する先駆的研究書「武蔵野話」を著わしたことで知られる。なお、彼が葬られた時はこの慈眼寺は深川猿江町にあった。移転して改葬されたものである。次の本邦初期の洋風画の旗手として知られた蘭学者司馬江漢(延享四(一七四七)年~文政元(一八一八)年)の墓も同じである。]

 戸籍面などのことはどうにでも都合のつけられることだが、ごまかせないのがその人の性根だ。芥川と僕ばかりではなく芥川と親しかつた人達は、既に今日までに、新原家のいやな血を芥川の死後の葛卷といふ見本で充分にみせられてゐるのだ。田中君は知れば知るほど世間の人がみてゐるのとは反對に、芥川家の人は皆(葛卷もふくむ)氣の毒な人達ばかりで、なにも書けなくなりますとしみじみとして言つてゐたので、それがほんたうだと僕は言つた。芥川は、母親が晩年しよんぼり二階に一人で暮してゐて、人が紙を渡しさへすれば、それにお稻荷樣ばかり書いてたと言ひ、芥川も恐るおそる二階に首をだしてお稻荷樣を書いて貰つたことがあると言つてゐたが、僕は晩年人が紙を渡しさへすれば河童を書いてゐたその芥川の心中を思ふとひとりでに淚がわいてくる。

[やぶちゃん注:私の偏愛する「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に掲載)から冒頭の実母フクの章を私の電子テクストから引く。

   *

   一

 僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。

 かう云ふ僕は僕の母に全然面倒を見て貰つたことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覺えてゐる。しかし大體僕の母は如何にももの靜かな狂人だつた。僕や僕の姉などに畫を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に畫を描いてくれる。畫は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水繪の具を行樂の子女の衣服だの草木の花だのになすつてくれる。唯それ等の畫中の人物はいづれも狐の顏をしてゐた。

 僕の母の死んだのは僕の十一の秋である。それは病の爲よりも衰弱の爲に死んだのであらう。その死の前後の記憶だけは割り合にはつきりと殘つてゐる。

 危篤の電報でも來た爲であらう。僕は或風のない深夜、僕の養母と人力車に乘り、本所から芝まで駈けつけて行つた。僕はまだ今日(こんにち)でも襟卷と云ふものを用ひたことはない。が、特にこの夜だけは南畫の山水か何かを描いた、薄い絹の手巾をまきつけてゐたことを覺えてゐる。それからその手巾には「アヤメ香水」と云ふ香水の匂のしてゐたことも覺えてゐる。

 僕の母は二階の眞下の八疊の座敷に橫たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人とも絕えず聲を立てて泣いた。殊に誰か僕の後ろで「御臨終々々々」と言つた時には一層切なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小聲でくすくす笑ひ出した。

 僕はその次の晩も僕の母の枕もとに夜明近くまで坐つてゐた。が、なぜかゆうべのやうに少しも淚は流れなかつた。僕は殆ど泣き聲を絕たない僕の姉の手前を恥ぢ、一生懸命に泣く眞似をしてゐた。同時に又僕の泣かれない以上、僕の母の死ぬことは必ずないと信じてゐた。

 僕の母は三日目の晩に殆ど苦しまずに死んで行つた。死ぬ前には正氣に返つたと見え、僕等の顏を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ淚を落した。が、やはりふだんのやうに何とも口は利かなかつた。

 僕は納棺を終つた後にも時々泣かずにはゐられなかつた。すると「王子の叔母さん」と云ふ或遠緣のお婆さんが一人「ほんたうに御感心でございますね」と言つた。しかし僕は妙なことに感心する人だと思つただけだつた。

 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌を持ち、僕はその後ろに香爐を持ち二人とも人力車に乘つて行つた。僕は時々居睡りをし、はつと思つて目を醒ます拍子に危く香爐を落しさうにする。けれども谷中へは中々來ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。

 僕の母の命日は十一月二十八日である。又戒名は歸命院妙乘日進大姉である。僕はその癖僕の實父の命日や戒名を覺えてゐない。それは多分十一の僕には命日や戒名を覺えることも誇りの一つだつた爲であらう。

   *]

 燒場の竃に寢棺が約められ、鍵がおろされてしまつて、門扉にかけた名札には芥川龍之助と書いてあつた。谷口喜作が燒場の者に注意をして芥川龍之介と書改めさせ、恒藤恭がよく注意してくれたと谷口に禮を言つてはゐたが、今日芥川の墓のある染井の慈眼寺に區で建てた立札はこれまた芥川龍之助の墓となつてゐる。龍之介は戸籍面ではどこまでも龍之助であつたのかも知れない。

 芥川の二階の書齋は、地袋の上にも本がのせてあつたが、小さい額緣に入つた五寸五分に七寸位の、ヰリアム・ブレークの受胎告知の複製があつたので、僕がそれをみてゐると、芥川は、「それは神田の地球堂で三圓で買つたのだが、歸りの電車賃がなくて新宿まで步いて歸つた。」(當時、高等學校の生徒、實家の牧場のほうにゐた、)當時の三圓といふ値段は額緣付きの値段と思ふが、芥川はその受胎告知の畫を、晩年わざわざ給具屋に卓上畫架を誂らへてこしらへさせ、その上にのせてゐた。部屋の隅で、暗いところにあつたから、ちよつと氣がつかなかつた人があるかもしれない。部屋にかける壁がなかつたからといへばそれまでであるが、わざわざその畫のために、卓上畫架を註文して造らせてその上にのせてゐた芥川の氣持を思ふと、芥川の淋しさといふものが何か考へさせられる。

[やぶちゃん注:「當時、高等學校の生徒、實家の牧場のほうにゐた」明治末から大正初期に当るが養子家芥川家が本所小泉町(現在尾墨田区両国三丁目)から東京府下の豊多摩郡内藤新宿(現在の新宿二丁目)にあった父新原敏三の経営する耕牧舎牧場の脇にあった敏三の持ち家に転居したのは明治四四(一九一〇)年十月で、その前の九月十三日に成績優秀者に与えられた推薦制度で第一高等学校一部乙類(文科)に無試験入学している(卒業は大正二(一九一三)年七月一日)。

「五寸五分に七寸位」縦十七センチメートル弱、横約二十一センチメートル。

「ヰリアム・ブレークの受胎告知」芥川龍之介が好んだ(詩も絵も)、イギリスの詩人で画家のウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)で、彼の絵は私もすこぶる好きなのだが、どの絵を指しているか、不詳。これかと思うものは絵の縦横比が合わない。識者の御教授を乞う。

「三圓」当時の一円は現在の千円強に相当する。]

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