小穴隆一 「二つの繪」(10) 「鵠沼」
鵠沼
[やぶちゃん注:以下、二ヶ所で漢文が出るが、底本では完全訓点(返り点とカタカナ送り仮名)附きである。ブラウザ上の不具合を考え、返り点のみを附し、後に私が小穴隆一の訓点に従って訓読したもの(句読点と鍵括弧は私の判断で変更・挿入した)を【 】で附した。]
制服を着た大學生の芥川龍之介が夏目漱石を始めて訪ねたときに、漱石は、君子有二三戒一。少之時。血氣未ㇾ定。戒ㇾ之在ㇾ色。及二其壯一也。血氣方剛。戒ㇾ之在ㇾ鬪。及二其老一也。血氣既衰。戒ㇾ之在ㇾ得。【「君子に三戒有り。少き時は、血氣、未だ定まらず。之を戒むる、色に在り。其の壯なるに及びてや、血氣、方に剛なり。之を戒むる、鬪に在り。其の老に及びてや、血氣、既に衰ふ。之を戒むる、得に在り。」と。】といふ(論語のなかにある言葉、)その子曰クの言葉をいつて彼を戒めたといふが、芥川には、なぜその時漱石が芥川に對つて、さういふことをいつてゐるのかわからなかつたといふ。「自分の仕事はもう今日これ以上には進みはしない。が、自分はただこのままにしてゐさへすれば、おのづと世間では自分を押しも押されもせぬ大家として扱つてゆくだらう。無爲にしてさうされてゆくことは僕は恥辱に思つてゐる。それにつけても一日も速かに死んでしまひたい。」と僕にいふやうになつてしまつた芥川は、(芥川數へ歳で三十五のとき、)「君にはわかるか、」といひ、「僕には、夏目先生の言はれた言葉の意味がこの歳になつて、ほんたうにわかつた。いままでは、なんで先生がそれを自分に言つてゐたのかわからなかつた。」(彼はそのとき手ずれたポケット論語を脇においてゐた。)とニコチン中毒の顏の頰にほのかな血色を漂はせて、(初々しくみえた、)人少き時、血氣未だ定まらず、之を戒むる色に在り、其壯なるに及びてや、血氣方に剛なりを朗々と誦した。
[やぶちゃん注:「制服を着た大學生の芥川龍之介が夏目漱石を始めて訪ねたとき」漱石の門下生であった一つ年上の、後にも出る岡田(後に林原)耕三(彼は始め仏文科であったが後に英文科に転じ、英文学者となった)に連れられて、久米正雄と漱石山房を始めて芥川龍之介が訪問したのは、龍之介大学最終学年二十三歳の冬、大正四(一九一五)年十一月十八日であった。因みに、この十一月一日に龍之介は「羅生門」を『帝國文學』に発表しているが、世評は黙殺に近かった。しかし彼が第四次『新思潮』創刊号に「鼻」を発表するのは三ヶ月後の翌大正五年二月十五日(脱稿は一月二十日)、それに対して知られた漱石の激賞書簡が届いたのは二月十九日のことであった。
『君子有二三戒一。少之時。血氣未ㇾ定。戒ㇾ之在ㇾ色。及二其壯一也。血氣方剛。戒ㇾ之在ㇾ鬪。及二其老一也。血氣既衰。戒ㇾ之在ㇾ得。【「君子に三戒有り。少き時は、血氣、未だ定まらず。之を戒むる、色に在り。其の壯なるに及びてや、血氣、方に剛なり。之に戒むる、鬪に在り。其の老に及びてや、血氣、既に衰ふ。之に戒むる、得に在り。」と。】』これは「論語」の「季氏第十六」の一節。三箇所の「之(これ)を戒(いまし)むる」は「之を戒むること」と訓ずる方が一般的である。「少」(「少(わか)き」)・「壯」・「老」はそれぞれ三十歳以前・三十~四十歳・五十歳以上を指す。「色」は色欲。「得」(トク/一般に「うる」と訓ずるようだが、対句の修辞から考えると、これは「トク」と音で名詞として読まねばおかしい)は欲得・利欲・貪欲の意。芥川龍之介には「壯」の後ろ3/4と「老」はなかったが、文壇の「君子」としての彼の生涯はまさにその方面の「血氣」盛んにして数知れぬ「色」に塗れ、文学的政治的思潮や富国強兵の国家思想との「剛」の「鬪」に折れたと言えば言える。まさに龍之介にとって漱石のその言葉は恐懼すべき予言であったことに最晩年の彼は気づいたのであった。]
子曰賢者辟ㇾ世。其次辟ㇾ色。其次辟ㇾ言。【子曰く、「賢者は世を辟く。其の次は色を辟く。其の次は言を辟く。」と。】この色を辟くまでを論語を手にしたことがなかつた僕が暗んじてゐたところをもつて考へると、芥川のその告白は僕を教へ諭してゐたこともあらうと思へる。
[やぶちゃん注:『子曰賢者辟ㇾ世。其次辟ㇾ色。其次辟ㇾ言。【子曰く、「賢者は世を辟く。其の次は色を辟く。其の次は言を辟く。」と。】』これは「論語」の「憲問第十四」の一節であるが、不完全引用である。正しくは、
子曰、「賢者辟世。其次辟地。其次辟色。其次辟言」。子曰、「作者七人矣」。
(子曰く、「賢者は世を辟(さ)く。其の次は地を辟く。其の次は色(いろ)辟く。その次は言(げん)を辟く。」と。子曰く、「作(な)す者、七人あり。」と。)
が全文である。「辟」は「避」に同じい。これは賢者の正しい処世術を語ったもので、
――まことの「賢者」は乱れた世にあっては速やかに「隠遁」する。それも不十分と知れば祖国を捨てて「亡命」する。それも不十分と知れば厳しく「禁欲」する。それも不十分と知った時には敢然と「沈黙」を守るものである。
――私の知る限り、それを正しくし遂げ得た者は歴史上、七人いる。
という意であろう。但し、この七人については伯夷・叔斉などが推定比定されているようであるが、定説はない。小穴隆一は自身の恋愛体験を重ねた上で芥川龍之介の生涯を俯瞰し、前の引用もこれも、真に賢く生きる者は何より「色」欲の厳しい制禦こそが肝要だったのだ、などという辛気臭い説教を強化するために、かく省略剽窃してしまったのであろう。しかし……「隠遁」「亡命」「禁欲」「沈黙」――私はしばしば、第二次世界大戦直前に田舎へ「隠遁」し、遂には愛憎半ばしつつも本質的には愛した中国に「亡命」し、その黄土の彼方へと「禁欲」の放浪をして「西方」へと向かい、そこで無名者として生きることを選び、しかし最早、一篇の詩も口にせずに「沈黙」の行に生き続けているアクタガワ・アンドレイ・リュウノスケ・ルブリョフを夢想するので、ある……]
スクキテクレ、アクタカワ、の電報が七月の十二日にきて、僕は十三日の晝に、僕にとつてははじめての土地の鵠沼で芥川と會つてゐる。松葉杖を抱へた僕は、電車を降りると葛卷と人力車を連らねて芥川の寓居に(伊四號の、)急いでゐた。僕は必ず數日のうちには金澤から上京してくる者と僕との萬一のためにも持つてゐた、スパァニッシュ・フライで(〇・〇〇1グラムが致死量と聞いてゐた一匹が、綿にくるんで蓄音機の針の箱のなかにいれてあつた。)果して、人が死ねるのかどうか、信じたり、疑つたりしてはゐたが、それをクレープの襯衣の隱しにいれて縫ひつけてしまつて持つてゐた。萬が一芥川が芥川の面目かけてもすぐにも死ななければならぬのならば、僕は手を拱いてゐてその後を追ふ腹であり、さういふ若さであつた。
[やぶちゃん注:ここは先行する「その前後」や前章「一人の文學少女」などの本文及び私の注を参照されたい。
「〇・〇〇一グラムが致死量」誤り。「その前後」の注で記した通り、カンタリジンは精製したものでさえ致死量は約三〇ミリグラムである(但し、これが本当に確かかどうかは私はかなり疑問に思っている)。因みに、毒薬として名高いシアン化カリウム(青酸カリ)でさえ、成人で一五〇~三〇〇ミリグラムである。一ミリグラムでイチコロというこんな素敵な毒物があるなら欲しいもんだ。と、言ってみてもしかし、私は使いようがないのだ。私は献体しているから、解剖されるような自殺はしたくても出来ぬからである。
「クレープ」(フランス語:crêpe・英語:crepe)強撚糸を使って縮緬(ちりめん)のように布全体に細かい皺(しぼ)を出した織物のこと。
「襯衣」「シャツ」と読む。]
門で車を降りて内にはいると、僕はすがすがしい撥釣瓶をみた。その撥釣瓶は僕のこころを多少沈めてはくれたが、芥川の留守は意外であつた。(芥川は、「唯今をる所はヴァイオリン、ラヂオ、蓄音機、馬鹿囃し、謠攻めにて閉口、」云々と八月十二日に下島勳にあてて書いてゐる、さういつた事情でもう少し閑靜な塚本さん(夫人の里方、)の家に原稿を書きにいつてゐた。)
[やぶちゃん注:「撥釣瓶」「はねつるべ」。井戸の水の汲み上げ装置。長い横木の一端に重石が取り付けられており、その重みで釣瓶を跳ね上げて水を汲み上げる。こんな注を若い読者のためにしなくてはならないというのは、私は致命的に哀しいことだと感じている。
『芥川は、「唯今をる所はヴァイオリン、ラヂオ、蓄音機、馬鹿囃し、謠攻めにて閉口、』云々と八月十二日に下島勳にあてて書いてゐる』旧全集書簡番号一五〇六の一節。正しくは、『唯今をる所はヴァイオリン、ラヂオ、蓄音機、莫迦囃し、謠攻めにて閉口、近々もう少し閑靜な所へ引き移らうと思つてをります。しかし海を御らんになつたりなさるのには今ゐる家の方が好都合です』である。同様のことを八月九日附佐佐木茂索宛書簡(旧全集書簡番号一五〇三)でも記している。「囃し」は「はやし」と読む。実際に九月下旬頃、東屋(あずまや)旅館の貸別荘「イの四号」から、直ぐ裏手にあった二階家の同じく東屋所有の借家に転居している。]
間には机となつてゐる茶ぶ臺に、若干の飮みもの(酒にあらず、)食べものが並んで、歸つてきた芥川とひとわたりの話がすむと、芥川の「散步をしようや。」で僕は伴れだされた。芥川は何年ぶりの松葉杖でさうは步けもしないものを、人目をさけて、小路へ小路へと引つぱりまはしておいてから、「あれを持つてきたか、」と言つた。僕は「うむ。」と答へたが、それからまた隨分步かせられた。(芥川は鵠沼で、誰にであつたか、僕の松葉杖を使つて、松葉杖をついてゐる姿を寫せてゐたことがあつた。)僕らが砂丘のはうにでて海をみながら休んでゐたときには、もう僕のたつた一匹のスパァニッシュ・フライは芥川にとりあげられてしまつてゐたが、夕陽を浴びてて話してた芥川の話は、ただ彼の妻子のよろこびを語るだけに(田端と鵠沼との暮しのちがひからくる、)つきてゐたので、僕の張りつめてゐた氣持も救はれて、死といふ懸念もなくなつてゐたほどの、のびやかさを感じてゐた。
[やぶちゃん注:「芥川は鵠沼で、誰にであつたか、僕の松葉杖を使つて、松葉杖をついてゐる姿を寫せてゐたことがあつた」この写真は不詳。私は見たことがない。
「ただ彼の妻子のよろこびを語るだけに(田端と鵠沼との暮しのちがひからくる、)つきてゐた」事実、芥川龍之介はここでの文との質素乍ら、親子水入らずの生活を知人らに「二度目の結婚」生活と呼んでいた(本文の後にも下島勳宛書簡から「我々の二度目の新世帶」と引いて居る)。但し、「或阿呆の一生」では、
*
四十三 夜
夜はもう一度迫り出した。荒れ模樣の海は薄明りの中に絶えず水沫(しぶき)を打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等には歡びだつた。が、同時に又苦しみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稻妻を眺めてゐた。彼の妻は一人の子を抱き、涙をこらへてゐるらしかつた。
「あすこに船が一つ見えるね?」
「ええ。」
「檣(ほばしら)の二つに折れた船が。」
*
という恐ろしく絶望的なイメージとともに綴っている。]
さうししてその日は、芥川のところに泊り、僕自身のことは七月二十九日を頂上として、あとは終るといふ有樣になつてしまつたので、芥川と彼の夫人とに約束してあつたとほり、引越しの金を改造社から貮百圓前借りして、(「三つの寶」の印税のこと、昭和三年六月二十日發行の金五圓の四六判の二倍よりは大きい本、芥川はこの本の印税を改造社とは壹割五分の約束で、僕にはその半分の七分五厘が僕のとりまへと言つてゐた。)僕も鵠沼に移つて芥川のそばにゐることになつた。
[やぶちゃん注:「僕自身のこと」詳細は不詳乍ら、前章「一人の文學少女」の注で私が推理したような事態の終焉を指している。
「三つの寶」芥川龍之介作小穴隆一画に成る、龍之介の代表的童話六篇(「白」・「蜘蛛の糸」(岩波旧全集版・作品集『傀儡師』版。両者の校異を示した『■芥川龍之介「蜘蛛の糸」のやぶちゃんによる岩波版全集との校異』有り)・「魔術」・「杜子春」・「アグニの神」・「三つの寶」。以上のリンクのあるものは総て私の電子テクスト。特に「白」は「□旧全集版及び■作品集『三つの寶』版」をカップリングしたものである。「アグニの神」と「三つの寶」は「青空文庫」にある。但し、新字である)を収録した大判の豪華本童話集。但し、「前借り」と言う言葉で判る通り、実はこの時には刊行されていない。しかも実際にこの童話集が出たのは実は、芥川龍之介一周忌直前、昭和六(一九三一)年六月(改造社刊)であった(改造社というか、社長の山本実彦、企画から三年後の芥川没後の刊行の、それもこんな大金(大正十五年頃のそれは、とある記載によれば、五十三万七千円に相当する)の前貸しを何度もするとは(ここでは当然、龍之介は自分の分も前借りしていると考える方が自然だから、最低でも現在の百五十万円以上は出していよう)これ、実に太っ腹!)作品集『三つの寶』は昭和四七(一九七二)年ほるぷ社刊「名著復刻 日本児童文学館」版を所持しており、今回の小穴隆一のパブリック・ドメイン化を受け、今年中に、小穴の挿絵(各作品二枚)を含め、正字正仮名で完全復元電子化をしたいと考えている。]
芥川と改造社の間は昭和二年に、芥川が、「山本改造は僕に顧問になつてくれと言ふんだ、」「山本實彦は僕と谷崎と佐藤に壹萬圓づつだして、いづれヨーロッパに行つて貰ふつもりだと言つてゐる、」などと言つてゐたほどの間柄で、貮百圓は、僕が、ただ、芥川がきてくれろと言つてゐるからと言つただけで、高平君がすぐに屆けてきてくれた。考へてみると大正十五年の貮百圓は大きい。僕は芥川が死んでからのいろいろの雜用も片づき、この上芥川の家のそばにゐて、あまりみたり知つたりするのもと思つて、昭和三年に高圓寺へ越すときに、山本實彦に會つて、「三つの寶」の印税からまだ僕の受取れる分あるから、貮百圓をくれと言つて貰つた。「三つの贊」は參千部刷つたと聞いてゐたが、僕は「三つの寶」で前後合せて四百圓を受取つたが、それがいつも引越賃になつてゐた。
[やぶちゃん注:「山本改造」改造社社長の「山本實彦」を社名に被せた謂い。山本実彦は前章「一人の文學少女」に既注。
「谷崎」谷崎潤一郎。彼はまさに『改造』誌上で芥川龍之介と〈小説の筋の芸術性〉を巡る文学論争を展開した。私のテクストには芥川龍之介「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」がある。
「佐藤」佐藤春夫。因みに、彼は作品集「三つの寶」に「序に代へて 他界へのハガキ」という一文を寄せている。実に佐藤らしい優しさに満ちたものである。これは私の「澄江堂遺珠 神代種亮 跋 図版目次 奥附」の注で電子化している。
「高平君」改造社社員(編集者?)の高平始なる人物かと思われる。
「大正十五年の貮百圓は大きい」前段の私の注を参照のこと。]
僕が丸山町のアパートから鵠沼に移つた日は、當時の小さい手帖の二册をみても、引きちぎつてあるのでわからない。
[やぶちゃん注:「丸山町」「自殺の決意」で既注。
「鵠沼に移つた日は、當時の小さい手帖の二册をみても、引きちぎつてあるのでわからない」以前に注したが、宮坂覺年譜によれば、大正一五(一九二六)年七月の末と推定される。]
芥川は、當時〔ちよつと、我々の二度目の新世帶に先生をお迎へして、御飯の一杯もさし上げたい念願であります。〕と下島老人に書いてゐるが、芥川夫人の場合には? 僕は、僕らの鵠沼生活といふものは、あのみじめななかにあつてすら、いや、みじめな思ひの暮しにおかれてゐたからこそ、夫人にとつて囘顧があれば、幸福であつたと思つてゐるのではなからうかと思ふ。
[やぶちゃん注:「〔ちよつと、我々の二度目の新世帶に先生をお迎へして、御飯の一杯もさし上げたい念願であります。〕と下島老人に書いてゐる」先に引いている旧全集書簡番号一五〇六から十二日後の大正一五(一九二六)年八月二十四日附下島勳宛書簡(旧全集書簡番号一五一〇)前の一節。正確には『ちよつと我々の二度目の新世帶に先生をお迎へして御飯の一杯もさし上げたい念願であります。』。「新世帶」は「あらあじよたい」と読んでおく。]
芥川が書いた年譜によると(現代小説全集、第一卷、芥川龍之介集、大正十年四月、新潮社版)大正四年十二月夏目漱石の門に入る。林原耕三の紹介に據る。五年十二月夏目漱石の訃に接すとなつてゐるが、芥川はその僅か一年の間の夏目漱石のことを死ぬまで口にしてゐた。十年もゐた氣がするが、僕の僅か半年にも滿たなかつた鵠沼のその生活は所詮(芥川の姉の夫の西川氏が鐡道自殺をしたので、芥川は一寸東京に戾つたのがそのままになつて、僕もまた東京に歸つて田端の下宿にはいつた。)
松風に火だねたやすなひとりもの
と芥川が僕に書きのこしてゐるこの句の如きものではあらう。
[やぶちゃん注:「僕の僅か半年にも滿たなかつた鵠沼のその生活」先に示した通り、小穴隆一の鵠沼転居は大正一五(一九二六)年七月末で、小穴は翌年二月までそこにいた。芥川龍之介は同じ年の三月まで鵠沼の借家を借りてはいたが、前年末以降は殆んど滞在せず、小穴それに合わせて龍之介の側にいるために、引き揚げたのである。
「芥川の姉の夫の西川氏」芥川龍之介の義兄で弁護士であった西川豊(明治十八(一八八五)年~昭和二(一九二七)年)。芥川龍之介をダメ押しで疲弊させた彼の鉄道自殺については、「宇野浩二 芥川龍之介 二十一~(2)」で詳細な注を施してある。未読の方は是非、参照されたい。
「松風に火だねたやすなひとりもの」この句は現行の芥川龍之介俳句群には類型句も見当たらない、ここだけで現認出来る句である。小穴の謂いから見ても、これは真正の龍之介の句と私は断ずるものである。私は既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で採録している。]
○
――嵐の中に僕は互ひの空いろが出るのを待つてゐた。
槻を句にしたがつてゐたがなあ、高槻や、高槻やと、置いてゐたがなあ、
「君は僕の女房にどうしてあんなにわからずやになつたのかつて言つたさうだね、女房もほんとにどうしてかうわけがわからなくなつたのかと言つてゐたよ、ほんとに君、僕はそんなにわからずやになつてしまつたかね、女房は言つてたよ、小穴さんはどうしてあんなにわからずやになつたのかつて僕のこと言つてたつて、君ほんとに僕はさうかね、」
僕は僕の家に這入つてくるといふよりはいつももぐつてくるといふ恰好の無氣味を忘れないよ。
うしろの松にしろ、朝寒や、松をよろへる、蔦うるし這はせて寒し庭の松、仕舞ひには、飛行機も東下りや朝ぐもりなんて、僕のところの唐紙のきれつぱしに書いてゐたではないか。
「女房は僕に、僕に君の癖がすつかりうつつちやつたつ言つてたよ、うつつちやつたつてね、」
ああ、アハッハッッ――、
さういふげらげら笑ひは僕にうつつた。
[やぶちゃん注:「嵐の中に僕は互ひの空いろが出るのを待つてゐた」これは、当時の鵠沼の印象をカリカチャライズした、先に全文を出した芥川龍之介の「或阿呆の一生」の「十三 夜」のイメージをインスパイアしたものと私は読む。
「槻」(つき)「高槻」(たかつき)孰れもバラ目ニレ科ケヤキ属ケヤキ
Zelkova serrata の古名と採っておく。
「置いていた」俳句の上五或いは下五に配すること。
「僕は僕の家に這入つてくるといふよりはいつももぐつてくるといふ恰好の無氣味を忘れないよ」後半の「妻に對する、子に對する、」や「鵠沼・鎌倉のこと」パートの冒頭「鵠沼」にも出るが、芥川龍之介は小穴隆一の鵠沼の家訊ねる時、窓や勝手口から盗人が侵入するように入ってくるのを常としていた。次に掲げる小穴の図の、中央稍右寄り上に『伊二号O穴の住家』(小穴の住家(すみか))とあり、その左上に『芥川出入の窓』とある。
「うしろの松にしろ、朝寒や、松をよろへる」芥川龍之介の俳句の推敲に語句断片。
「蔦うるし這はせて寒し庭の松」次に掲げる小穴の図の、左手の庭の垣根らしいものの内側に『蔦うるしからむ松』とあるのがそれらしい。この句も現行の芥川龍之介俳句群には類型句も見当たらない、ここだけで現認出来る句である。小穴の「僕のところの唐紙のきれつぱしに書いてゐたではないか」という断定・指定の謂いから見ても、これや前の俳語集も真正の龍之介の句及び断片と私は断ずるものである。私は既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で前の断片ともども採録している。
「飛行機も東下りや朝ぐもり」この句も現行の芥川龍之介俳句群には類型句も見当たらない、ここだけで現認出来る句である。小穴の謂いから見ても、これも真正の龍之介の句と私は断ずるものである。私は既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で採録している。]
[やぶちゃん注:以上は、底本に挿入された小穴隆一手書きの鵠沼の本話柄絡みの面白い地図である。やや悪筆ながら、小穴隆一の字はなかなか味わいがある。一応、判読してみる。
方位表示は訳が判らぬが要するにこれは、上下に書かれてあるのが『不』と『詳』であって、『東西南北不詳』の意である。但し、『あづまや』の位置及び蜃気楼(後述)から考えると、図の右方向が海に当たるから、図の右手が「南」と考えてよいように私には思われる。にしても、小穴隆一、全くの方角音痴であったらしい。
右手『あづまや』の左にあるのは『蜃氣楼見物への道』であろう。あの大気中の温度差(密度差)によって光が屈折を起こして遠方の風景などが伸びたり反転したりした虚像が海の沖に現れるように見えるあの「蜃気楼」現象のことである。だからこそ、右手は海浜でないとおかしいのである。芥川龍之介にはズバリ、ここでのそれを素材とした、私の好きな怪作「蜃氣樓――或は「續海のほとり」――」(昭和二(一九二七)年三月一日発行の『婦人公論』に発表)がある(リンク先は私の電子テクスト)。
上部『松林』の間に書かれているのは、『この見當江ノ島が見える』。その下の庭の垣根らしいものの内側に『蔦うるしからむ松』は既に述べた。中央に『池』とあってその左上には『ココニ侏儒の言葉の表紙の花』とある。芥川龍之介の単行本「侏儒の言葉」(没後の昭和二(一九二七)年十二月六日文藝春秋出版部刊)の表紙絵は小穴隆一の手になるもので(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの表紙画像。裏表紙も見られたい)、その描かれた花がここに咲いていたものであるということ示しているのである。右手の『伊二号O穴の住家』(先に注した通り、その左上に『芥川出入の窓』)の下の『ポンプ』の横には『井戸』、その下の一画が『あづまや下男の家』、その左は『この家 庭から見ると趣あり』だろう。その左下隅に井戸マークがあって(ここが、入口の記号から見て、小穴が感じ入った撥釣瓶のあった井戸と推測される)、その左上方のキャプションは『池』の説明で『小サイ水蓮とアハレナ蓮』(スイレン目スイレン科スイレン属 Nymphaea の仲間とヤマモガシ目ハス科ハス属ハス Nelumbo nucifera)。その左手が『伊四号ハ芥川の棲家』で、ここが芥川龍之介が最初に借りた貸別荘の方である。その左手上方にあるのは『物干場』(物干し場(ば))と思われ、そこと家の間にかかる斜めの字は『紫菀』である(歴史的仮名遣で「しをん」。現代仮名遣で「しおん」。多年草でキク目キク科キク亜科シオン連シオン属シオン Aster tataricus のこと。本邦のものは殆んどが観賞用に栽培されたもので、茎の高さは凡そ二メートルにもなり、広く披いた針形の葉を互生する。秋に茎の頂きが分枝して淡紫色の花を多数咲かせる(グーグル画像検索「Aster tataricus」)。これ、当初は判読出来ず、判読不能で公開したところ、教え子が『紫藤』と判読、藤棚だと一旦は腑に落ち、別な方の判読で『紫花陽』で「紫陽花」の誤記とする見解もあったのであるが、後に先行する「鯨のお詣り」に、遙かに綺麗な小穴自筆の同様の図(一部のキャプション記載が異なるもので、本書の図はそれを描きなおしたものである。これを含む「鯨のお詣り」は本書「二つの繪」の電子化が終了し次第、取り掛かる予定)が載り、そこで綺麗に「紫菀」と記されているのを、後日、気づいた。判読協力をして下さった多くの方に感謝申し上げる)。下段は右から『百日紅』(さるすべり)の木で、そこが後に移った『二階建 芥川二度目の住家』、その左手にあるのはこの図の標題たる広域地名を記した『相州鵠沼海岸』である。]