北條九代記 卷第十一 蒙古襲來 付 神風賊船を破る
鎌倉 北條九代記卷第十一
○蒙古襲來 付 神風賊船を破る
弘安四年正月、蒙古大元の軍艦、阿刺罕(あしかん)、范文虎(はんぶんこ)、忻都(きんと)、洪茶丘(こうさきう)、十萬人を率して、兵船六萬艘に取乘(とりの)り、纜(ともづな)を解きて海に浮ぶ。阿刺罕は船中にして病に罹り、范文虎等(ら)、軍(いくさ)評定、區々(まちまち)なりければ、軍法令命(れいめい)一決し難し。同七月に蒙古の兵船(ひやうせん)、既に日本の平壺島(ひらどしま)に著きて、人數の手分(てわけ)を相(あひ)定め、其よりして五龍山(ごりうさん)に推移(おしうつ)る。日本にも豫(かね)て用意せし事なれば、筑紫九州の武士等(ら)、是を待掛(まちかけ)けて、蒙古を陸地(くがち)に上立(あげたて)じと、海岸に柵(さく)を振(ふ)り、その上に櫓(やぐら)、搔楯(かいだて)、隙(ひま)なく搔竝(かきなら)べ、鏃(やじり)を揃へて射(い)出しければ、蒙古の舟には掛金(かけがね)を掛けて組合(くみあは)せ、其上に板を敷きたれば、海上、宛然(さながら)、陸地(くがち)になり、馬を走(はしらか)して危(あやふ)からず、鐵丸(てつぐわん)に火を操り、空(そら)を飛(とば)せて投掛(なげかく)るに、櫓に燃付(もえつ)き、搔楯(かいだて)、燒上る。是を打消すに遑(いとま)なく、迸(ほとばし)る焰(ほのほ)に手足を燒かれ、日本の軍兵、是に僻易し、中々厭(あぐ)みてぞ覺えける。蒙古、勝(かつ)に乘(のつ)て、一同に攻掛(せめかゝ)る。打(うた)るれども顧(かへりみ)ず、倒(たふ)るれども引退(ひきの)けず。乘越(のりこえ)々々飽(いや)が上に、詰掛(つめか)けたり。日本の軍旗色(いくさはたいろ)、靡(なび)きて、菊池、原田、松浦黨(まつらたう)、手負ひ討たる〻者、數知らず。此由、京都に告げたりければ、兩六波羅、初(はじめ)て加勢の軍兵を指下(さしくだ)すべき評定あり。禁裡、仙洞には大に驚かせ給ひ、諸寺、諸山に仰せて大法(だいほふ)を執行(とりおこな)ひ、護摩の煙(けぶ)り立休(たちやす)む隙なく、振鈴(しんれい)の音、響(ひゞき)の絶(たゆ)る時なし。伊勢、石淸水(いはしみづ)、賀茂、春日、平野、松尾を初て、二十一社の御神は申すに及ばず、小社、禿倉(ほこら)に至るまで、諸方の神社に勅使を立てられ、奉幣祈願に叡信を傾(かたぶ)けられ、宸禁(しんきん)、更に安からず。斯る所に、諸社の神殿或は鳴動し、神馬(しんめ)に汗を綴(つゞ)るもあり。或は瑞籬(みづがき)の本より神鹿(しんろく)掛出でて、雲路(くもぢ)を分けて入(い)るもあり。或は寶殿(はうでん)の御戸(みと)、開(ひら)けて、白雲(しらくも)靉靆(たなび)き、虛空(こくう)の間に亙(わた)るもあり。或は末社の扉(とびら)の内より、白羽(しらは)の矢の出づるもあり。その神々の使者と云ふもの、狗(いぬ)、庭鳥の親(たぐひ)まで、皆、悉く西に向ひ、諸神、各(おのおの)鎭西(ちんぜい)の方に赴き給ふ。粧(よそほひ)は歷然として疑(うたがひ)なし。宜禰(きね)が鼓(つゞみ)の音、少女(をとめ)の舞の袖、鈴(すゞ)の聲に相(あひ)和して、
如何樣(いかさま)、效驗(かうげん)、空(むなし)からじと賴(たのも)しくこそ思ひけれ。斯(かく)て八月一日の午刻(うまのこく)計(ばかり)に、俄(にはか)に大風吹起(ふきおこ)り、大木(たいぼく)を掘(ねこぎ)にし、岩石(がんせき)を飛(とば)せ、海中、怒浪(ぬらう)を揚げしかば、蒙古數萬艘(すまんぞう)の舟共(ども)、組合(くみあはせ)たる掛金、一同に斷離(ちぎ)れて、右往左往に吹亂(ふきみだ)れ、岩に當り浪に打(うた)れ、皆、悉く沈みければ、異國十萬人の軍勢、底(そこ)の水屑(みづく)となりて、僅(わづか)に三萬人、張百戸(ちやうびやくこ)といふ者を首魁(しゆくわい)とし、博多の浦に漂ひける所を、同七日に日本の軍兵、押掛(おしか〻)り、一人も殘らず打殺(うちころ)す。その中に干閶(かんしやう)、莫靑(ばくせい)、呉萬五(ごはんご)とて、三人の勇士は生捕(いけど)られたりけるを、「この赴(おもむき)を蒙古の王に語れ」とて、赦(ゆる)して大元國にぞ歸逃れける。是(これ)、偏(ひとへ)に本朝三千七百餘杜の靈神(れいじん)の擁護(おうご)に依て、不日(ふじつ)に異賊を退治し給ふ、神力(しんりき)の程こそ有難けれとて、上(かみ)は主上を初め奉り、仙院、攝家より、京、鎌倉の貴賤上下、頭(かうべ)を傾(かたぶ)けて、この神德をぞ仰がれける。宇都宮貞綱は、六波羅の仰(おほせ)に依て大將を承り、中國の勢を集めて、筑紫に赴きける所に、備後(びんご)にして、蒙古、既に討亡(うちほろぼ)されぬと聞えしかども、貞綱は押(おし)て九州に下りて、彌(いよいよ)異賊襲來の備(そなへ)を致し、其より京都に凱陣(がいぢん)す。世は末代と云ひながら、日月、未だ地に落ち給はず。本朝垂跡(すゐじやく)の神明和光(しんめいわくわう)の影は猶、新(あらた)にして、冥慮(みやうりよ)、誠(まこと)に揚焉(いちじるし)とて、伊勢の風の社(やしろ)をば、風の宮と崇(あが)めらる。その外、諸神(しよじん)勳一等の賞を行はる。我が國の古(いにしへ)より伊勢の神風(かみかぜ)や吹き治まれる世の例(ためし)、久方の天津空(あまつそら)、新金(あらかね)の國津巖(くについはほ)の動(うごき)なき御代こそ目出度けれ。
[やぶちゃん注:弘安四(一二八一)年の弘安の役のシークエンス。ウィキの「元寇」の「弘安の役」によれば、元・高麗軍を主力とした東路軍は総勢約四万から五万七千人に軍船数九百艘、それに旧南宋軍を主力とした江南軍約十万人及び江南軍水夫(人数不詳)に軍船三千五百艘で、両軍の合計は約十四万から~十五万七千人(プラス人員不詳の江南軍水夫)と軍船四千四百艘もの軍が日本に向けて出撃した。『日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった』とさえある。「弘安四年正月」とあるが、現在は東路軍の朝鮮半島の合浦(がっぽ)からの出航は五月三日(その内訳は東征都元帥ヒンドゥ(忻都)・洪茶丘率いるモンゴル人・漢人などから成る蒙古・漢軍三万と征日本都元帥金方慶率いる高麗軍約一万)であった。
同軍は十八日後の五月二十一日に対馬沖に到着、対馬の大明浦に上陸したが、『日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死し』ている。
次いで、五月二十六日には壱岐を襲った(『なお、東路軍は壱岐』『に向かう途中、暴風雨に遭遇』、兵士百十三人、水夫三十六人の『行方不明者を出』している)。その後、『東路軍の一部は中国地方の長門にも襲来』しているらしい。
六月上旬、『対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし、日本側はすでに防衛体制を整えており、博多湾岸に』約二十キロメートルにも『及ぶ石築地(元寇防塁)を築いて東路軍に応戦する構えを見せたため、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念』、六月六日、『陸繋島である志賀島』(しかのしま:現在の福岡県福岡市東区にある島。博多湾の北部にあって海の中道と陸続き)『に上陸し、これを占領。志賀島周辺を軍船の停泊地とした』ものの、六月九日の戦闘でも敗戦を重ね、『東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つこと』となった。
『ところが壱岐島の東路軍は連戦の戦況不利に加えて、江南軍が壱岐島で合流する期限である』六月十五日を過ぎても現れず、『さらに東路軍内で疫病が蔓延して』三千余人もの『死者を出すなどして進退極まった』。『高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、この時の東路軍の様子を「暑さと不潔な空気が人々を燻(いぶ)し、海上を満たした(元兵の)屍は怨恨の塊と化す」』『と漢詩に詠んでいる』とある。ここに至って『戦況の不利を悟った東路軍司令官である東征都元帥・ヒンドゥ(忻都)、洪茶丘らは撤退の是非について征日本都元帥・金方慶と以下のように何度か議論した』が、結局、『江南軍を待ってから反撃に出るという金方慶の主張が通った』。
『一方、江南軍は、当初の作戦計画と異なって東路軍が待つ壱岐島を目指さず、平戸島を目指した』。『江南軍が平戸島を目指した理由は、嵐で元朝領内に遭難した日本の船の船頭に地図を描かせたところ、平戸島が大宰府に近く周囲が海で囲まれ、軍船を停泊させるのに便利であり、かつ日本軍が防備を固めておらず、ここから東路軍と合流して大宰府目指して攻め込むと有利という情報を得ていたためである』。この江南軍は六月下旬に出撃(慶元(寧波)・定海等)江南軍の主力部隊は七昼夜かけて平戸島と鷹島に到着、『平戸島に上陸した都元帥・張禧率いる』四千人の『軍勢は塁を築き陣地を構築して日本軍の襲来に備えると共に、艦船を風浪に備えて五十歩の間隔で平戸島周辺に停泊させた』。
一方、日本軍は六月二十九日、『壱岐島の東路軍に対して松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍勢で総攻撃を開始』、七月二日、『肥前の御家人・龍造寺家清ら日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始。瀬戸浦において東路軍と激戦が展開された』『龍造寺家清率いる龍造寺氏は、一門の龍造寺季時が戦死するなど損害を被りながらも、瀬戸浦の戦いにおいて奮戦』した。
『壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と』、『江南軍が平戸島に到着した報せに接したことにより』『壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの、前の鎮西奉行・少弐資能が負傷し(資能はこの時の傷がもとで後に死去)、少弐経資の息子・少弐資時が壱岐島前の海上において戦死するなどの損害を出している』。
七月中下旬、『平戸島周辺に停泊していた江南軍は、平戸島を都元帥・張禧の軍勢』四千人に『守らせ』つつ、『鷹島へと主力を移動させた』が、これは『新たな計画である「平戸島で合流し、大宰府目指して進撃する」計画』『を実行に移すための行動と思われる』。ここでようやく『東路軍が鷹島に到着し、江南軍と合流が完了』している。
七月二十七日、『鷹島沖に停泊した元軍艦船隊に対して、集結した日本軍の軍船が攻撃を仕掛けて海戦となった。戦闘は日中から夜明けに掛けて長時間続き、夜明けとともに日本軍は引き揚げてい』る。
元軍はここまでの戦闘により、『招討使・クドゥハス(忽都哈思)が戦死するなどの損害を出していた』。『そのためか、元軍は合流して計画通り大宰府目指して進撃しようとしていたものの、九州本土への上陸を開始することを躊躇して鷹島で進軍を停止し』てしまう。また、「張氏墓誌銘」によると、『鷹島は潮の満ち引きが激しく軍船が進むことができない状況だったと』もいう。
『一方、日本側は六波羅探題から派遣された後の引付衆・宇都宮貞綱率いる』六万余騎と『もいわれる大軍が北九州の戦場目指して進軍中であった。なお、この軍勢の先陣が中国地方の長府に到着した頃には、元軍は壊滅していたため戦闘には間に合わなかった』(これは本章でも語られている)。『さらに幕府は、同年』六月二十八日には、九州及び『中国地方の因幡、伯耆、出雲、石見の』四ヶ国に於ける『幕府の権限の直接及ばない荘園領主が治める荘園領の年貢を兵粮米として徴収することを朝廷に申し入れ、さらなる戦時動員体制を敷い』ていた。
ところが七月三十日の夜半、台風が襲来、『元軍の軍船の多くが沈没、損壊するなどして大損害を被』るという事態が出来した。これは『東路軍が日本を目指して出航してから』約三ヶ月後、博多湾に侵攻して戦闘が始まってから約二ヶ月後のことであった。「張氏墓誌銘」によれば、『台風により荒れた波の様子は「山の如し」であったといい、軍船同士が激突して沈み、元兵は叫びながら溺死する者が無数であったという』。また、元朝の文人周密の「癸辛雑識」によると、『元軍の軍船は、台風により艦船同士が衝突し砕け』、約四千隻の『軍船のうち残存艦船は』、たった二百隻であったとも言う。但し、『江淮戦艦数百艘や諸将によっては台風の被害を免れており、また、東路軍の高麗船』九百艘の『台風による損害も軽微であったことから』、「癸辛雑識」の『残存艦船』二百というのは『誇張である可能性もある』とある。事実、『東路軍も台風により損害を受けたが、江南軍に比べると損害は軽微であった』。『その理由を弘安の役から』十一年後の『第三次日本侵攻の是非に関する評議の際、中書省右丞の丁なる者が、クビライに対して「江南の戦船は大きな船はとても大きいものの、(台風により)接触すればすぐに壊れた。これは(第二次日本侵攻の)利を失する所以である。高麗をして船を造らせて、再び日本に遠征し、日本を取ることがよろしい」』『と発言しており、高麗で造船された戦艦に比べて、江南船は脆弱であったとしている。また、元朝の官吏・王惲もまた「唯だ勾麗(高麗)の船は堅く全きを得、遂に師(軍)を西還す」』『と述べており、高麗船が頑丈だったことが分かる。それを裏付けるように、捕虜、戦死、病死、溺死を除く高麗兵と東路軍水夫の生還者は』七割を超えていたという。
閏七月五日、『江南軍総司令官の右丞・范文虎と都元帥・張禧ら諸将との間で、戦闘を続行するか帰還するか』という軍議があり、そこで張禧が『「士卒の溺死する者は半ばに及んでいます。死を免れた者は、皆壮士ばかりです。もはや、士卒たちは帰還できるという心境にはないでしょう。それに乗じて、食糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう」』と続行論を唱えたものの、范文虎は『「帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当たる。公(張禧)は私と共に罪に問われることはあるまい」』と述べ、『結局は范文虎の主張が通り、元軍は撤退することになったという。張禧は軍船を失っていた范文虎に頑丈な船を与えて撤退させることにした』。『その他の諸将も頑丈な船から兵卒を無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒』十余万を『見捨てて逃亡した』。『平戸島に在陣する張禧は軍船から軍馬』七十頭を『降ろして、これを平戸島に棄てると』、その代わりに軍勢四千人を『軍船に収容して帰還した。帰朝後、范文虎等は敗戦により罰せられたが、張禧は部下の将兵を見捨てなかったことから罰せられることはなかった』
という。『この時の元軍諸将の逃亡の様子』は、「蒙古襲来絵詞」の閏七月五日の『記事の肥前国御家人・某の言葉』として『「鷹島の西の浦より、(台風で)破れ残った船に賊徒が数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者(諸将)どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った」と』記している。
この後、諸将に見捨てられた兵士たちが日本軍によって掃討された。
閏七月五日、『日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始』、午後六時頃、『御厨(みくりや)海上において肥後の御家人・竹崎季長らが元軍の軍船に攻撃を仕掛け』、『筑後の地頭・香西度景らは元軍の軍船』三艘の内の大船一艘を追い掛け、『乗り移って元兵の首を挙げ、香西度景の舎弟・香西広度は元兵との格闘の末に元兵と共に海中に没した』。『また、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門も御厨の千崎において元軍の軍船に乗り移って、負傷しながらも元兵一人を生け捕り、元兵一人の首を取るなどして奮戦した』。『日本軍は、この御厨海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾からほぼ一掃し』ている。
『御厨海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍』十余万と『鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指した』。『諸将が逃亡していたため、管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退すること』に決した。しかし閏七月七日、『日本軍は鷹島への総攻撃を開始』、『文永の役でも活躍した豊後の御家人・都甲惟親(とごう
これちか)・都甲惟遠父子らの手勢は鷹島の東浜から上陸し、東浜で元軍と戦闘状態に入り奮戦した』。『上陸した日本軍と元軍とで鷹島の棟原(ふなばる)でも戦闘があり、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門は戦傷を受けながらも、元兵を』二人『生け捕るなどした』。『また、鷹島陸上の戦闘では、西牟田永家や薩摩の御家人・島津長久、比志島時範らも奮戦』、活躍している。『一方、海上でも残存する元軍の軍船と日本軍とで戦闘があり、肥前の御家人・福田兼重らが元軍の軍船を焼き払っ』ている。『これら福田兼重・都甲惟親父子ら日本軍による鷹島総攻撃により』十余万の『元軍は壊滅』、日本軍は二万〜三万人の『元の兵士を捕虜とした』。『現在においても鷹島掃蕩戦の激しさを物語るものとして、鷹島には首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜などの地名が代々伝わっている』。『高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、鷹島掃蕩戦後の情景を「悲しいかな、』十万の『江南人。孤島(鷹島)に拠って赤身で立ちつくす。今や(鷹島掃蕩戦で死んだ)怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって死んだ魂が泣く」』『と漢詩に詠んでいる。一方で郭預は、兵卒を見捨てた将校については「当時の将軍がもし生きて帰るなら、これを思えば、憂鬱が増すことを無くすことはできないだろう」』『とし、いにしえの楚の項羽が漢の劉邦に敗戦した際、帰還することを恥じて烏江で自害したことを例に「悲壮かな、万古の英雄(項羽)は鳥江にて、また東方に帰還することを恥じて功業を捨つ」』『と詠み、項羽と比較して逃げ帰った将校らを非難している』。「元史」によると、「十万の『衆(鷹島に置き去りにされた兵士)、還ることの得る者、三人のみ」とあり、後に元に帰還できた者は、捕虜となっていた旧南宋人の兵卒・于閶と莫青、呉万五の』三人のみで『あったという』。他方、「高麗史」では、『鷹島に取り残された江南軍の管軍捴把・沈聰ら十一人が高麗に逃げ帰っていることが確認できる』。『南宋遺臣の鄭思肖は、日本に向けて出航した元軍が鷹島の戦いで壊滅するまでの様子を以下のように詠んでいる』。「辛巳六月の『半ば、元賊は四明より海に出る』。大舩七千隻、七月半ば頃、『倭国の白骨山(鷹島)に至る。土城を築き、駐兵して対塁する。晦日』『に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃(蒙古)軍は半ば海に没し、舩はわずか』四百餘隻のみ廻る。二十万人は『白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士はみなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。または枯髏山ともいう」』とある。『戦闘はこの鷹島掃蕩戦をもって終了し、弘安の役は日本軍の勝利で幕を閉じた』のであった。
以下、本文語注に移る。
「阿刺罕(あしかん)」元の司令官(日本行省右丞相)の名。現行では原音に近い「アラハン」で読まれている。但し、本文に出るように彼は途中で急病を発し、阿塔海(アタハイ)が交代している。
「范文虎」(?~一三〇一年)は南宋や元に仕えた政治家・軍人。南宋の宰相賈似道の娘婿であった。ウィキの「范文虎」によれば、『当初は南宋の武将として夏貴とともに、元と対峙する戦争に従事していた』が『その後、元に投降した(間もなく岳父の賈似道は福建に左遷され、亡父に関して恨みがあった鄭虎臣によって殺害された)』。弘安の役では先に示した通り、台風が襲来、波状的な日本軍の攻撃に『慌てた范文虎は生き残った手勢を見捨てて、わずかの腹心とともに逸早く帰国した』。帰国後、一二八四年に『中書左丞を経て、枢密院事を歴任した』が、『クビライの逝去を経て』、一三〇一年になって、『生き残って帰還することができたわずかの将兵が、自分たちを放置して勝手に帰還した范文虎をはじめ、将校の厲徳彪、王国佐、陸文政らの罪状を告訴した。このことを耳にしたクビライの孫の成宗(テムル)は激怒し、皇后ブルガンとともに徹底的な調査を厳命させた揚句に、范文虎らが白状したため、范文虎は妻の賈氏と側室の陳氏をはじめ家族とともに斬首に処された。同時に厲徳彪、王国佐、陸文政らも自分たちだけではなく、一家も皆殺しの刑に処された』。
「忻都(きんと)」(生没年不詳)は元のモンゴル人武将。日本行省右丞。名前の原音は「ヒンドゥー」が近いという。暴風後は辛うじて高麗へ逃れている。
「洪茶丘(こうさきう)」既出既注。
「平壺島(ひらどしま)」現在の長崎県北部の北松浦半島の西海上にある平戸島。平戸市内。平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された水軍松浦党(まつらとう)の根拠地として知られる。
「五龍山(ごりうさん)」九州北西部の伊万里湾口にある長崎県松浦市に所属する鷹島のこと。
「陸地(くがち)に上立(あえたて)じ」上陸させまい。
「搔楯(かいだて)」「かきだて」の転訛。原義は垣根のように楯を立て並べることであるが、特にここでは小形の持ち楯(手楯)に対して、大形の楯(厚板二枚を縦に並べて接(は)ぎ、表には紋を描いて裏に支柱をつけて地面に立てるようにしたもの)を指す。それをバリケードのようにみっちりと立てたのである。
「鐵丸(てつぐわん)に火を操り、空(そら)を飛(とば)せて投掛(なげかく)る」ウィキの「元寇」の「てつはう」によれば、『正式には震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使う。使用法は導火線に火を付けて使用する。形状は球型で』直径一六~二〇センチメートル、総重量は四~一〇キログラム(約六〇%が容器の重量で残りが火薬)。二〇〇一年に長崎県の鷹島の海底から「てつはう」の実物が二つほど『発見され、引き揚げられた。一つは半球状、もう一つは直径』四センチメートルの孔が空いた直径一四センチメートルの素焼物の容器で重さは約四キログラムあった。『なお、この「てつはう」には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片を容器の中に入れ、爆発時に鉄片が周囲に撒き散り殺傷力を増したとも考えられる。
歴史学者・帆船学者の山形欣哉によると、「てつはう」の使用方法や戦場でどれだけ効果があったかは不明な点が多いとしている。理由としては、「てつはう」は』約四キログラムもあり、手投げする場合、腕力があるもので二二〇~三〇メートルしか『飛ばすことができず、長弓を主力武器とする武士団との戦闘では近づくまでに不利となる点を挙げている』。『「てつはう」をより遠くに飛ばす手段として、襄陽・樊城の戦いの攻城で用いられた回回砲(トレビュシェット)や投石機がある。しかし、山形欣哉は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。例えば、後の明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石機は、一番軽い』一・二キログラムの弾を八〇メートル飛ばすのに四十一人(一人は指揮官)も要した。従って、組立式にし、『日本に上陸して組み立てたとしても、連続発射はできなかったものとみられ、投石機を使用したとしても「てつはう」が有効に機能したとは考えられず、投石器目指して武士団が突進した場合、対抗手段がないとしている』とある。リンク先に弾丸の実物写真がある。
「是を打消すに遑(いとま)なく」教育社の増淵勝一氏の訳ではその理由として『(次ぎ次ぎと打ちこまれて来るので)』という補助訳を添えておられる。
「乘越(のりこえ)々々」元軍の兵士たちが同胞の遺体を踏み越えて攻めてくるのである。
「日本の軍旗色(いくさはたいろ)、靡(なび)きて」「軍旗色(いくさはたいろ)」で一語。日本軍の旗色が悪くなって。
「菊池」菊池一族。本姓藤原氏を称し、九州の肥後国菊池郡(現在の熊本県菊池市)を本拠としていた。文永・弘安の役では第十代当主菊池武房(寛元三(一二四五)年~弘安八(一二八五)年)の活躍が「蒙古襲来絵詞」にも描かれている。
「原田」建長元(一二四九)年、原田種継・種頼父子が現在の福岡県糸島市にあった日本の古代の山城土(いと)城の遺構を利用して高祖山に高祖城を築城、元寇の際はその直系の種照・種房兄弟が奮戦している。
「禁裡」後宇多天皇。
「仙洞」後深草上皇と亀山上皇。
「大法(だいほふ)」戦勝祈願の修法(ずほう)。
「平野」二十二社(国家の重大事や天変地異の時などに朝廷から特別の奉幣を受けた神社)の一社である、現在の京都府京都市北区平野宮本町にある平野神社。
「松尾」同じく二十二社の一社である、現在の京都市西京区嵐山宮町にある松尾大社。
「禿倉(ほこら)」石製の禿倉(ほくら)と呼ばれるごく小規模な小石祠。祠(ほこら)。
「宸禁(しんきん)」広義の禁中。宮廷。
「瑞籬(みづがき)」《古くは「みづかき」と清音。神社や神霊の宿るとされた山・森・木などの周囲の周囲に設けた垣根。玉垣。斎垣 (いがき) 。神域の結界を示す。
「本」「もと」。結界を神獣が破って出るのは神威の発現と捉えられた。
「雲路(くもぢ)」雲の棚引いている山道。同前。
「開(ひら)けて」自然に開いて。同前。
「白羽(しらは)の矢の出づる」これも誰も射てなどいないのに、突如、放たれるのである。同前。
「庭鳥」「鷄」。
「宜禰(きね)」「禰宜」。
「少女(をとめ)」巫女。
「如何樣(いかさま)、效驗(かうげん)、空(むなし)からじ」どう考えても、神威のあらたかなそれは、空しい者となるなどと言うことはあるはずがない。
「八月一日」誤り。颱風の襲来は、冒頭の引用で見たように旧暦七月三十日(当月は小の月でこの日が晦日)で(ユリウス暦八月十五日でグレゴリオ暦換算で八月二十二日相当)、しかも弘安四年は閏月が七月の後に入っているので、この翌日は八月一日ではなく、閏七月一日(ユリウス暦八月十六日でグレゴリオ暦換算で八月二十三日相当)である。
「午刻(うまのこく)」正午であるが、諸記録からはおかしい気がする。颱風が彼らを襲ったのは「夜」である(ウィキの「元寇」の注記の「鎌倉年代記裏書」を見ると、「同卅日夜、閏七月一日大風」とする)とあるから、これは「午」ではなく、日付の変わる子の刻が正しいのではなかろうか?
「張百戸(ちやうびやくこ)」先のウィキの引用に『諸将が逃亡していたため、管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退すること』に決した(下線太字やぶちゃん)という人物であろう。
「干閶(かんしやう)、莫靑(ばくせい)、呉萬五(ごはんご)」孰れも不詳。ただ、湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、前の「張百戸」やここに出る三名の『蒙古人の名』は「日本王代一覧」に拠るとある。従って『三人の勇士は生捕(いけど)られたりけるを、「この赴(おもむき)を蒙古の王に語れ」とて、赦(ゆる)して大元國にぞ歸逃れける』という事実があったのか、なかったのかも、私は知らぬ。
「不日(ふじつ)に」間もなく。
「宇都宮貞綱」(文永三(一二六六)年~正和五(一三一六)年)は幕府御家人。ウィキの「宇都宮貞綱」によれば、宇都宮氏第八代当主。母は安達義景の娘。後の北条氏得宗家の第九代執権北条貞時(北条時宗嫡男)の偏諱を受けて貞綱と名乗った。この弘安の役では第九代執権『北条時宗の命を受けて山陽、山陰の』六万に及ぶ『御家人を率いて総大将として九州に出陣し』、『その功績により戦後、引付衆の一人に任』ぜられている。後の嘉元三(一三〇五)年の嘉元の乱では、「凱陣(がいぢん)す」ここの「凱陣」は底本では「歸陣」とありながら、ルビで「がいじん」とする。「歸陣」で読みを附さないという法もあるとは思ったが、かく本文を訂した。
「世は末代」これは筆者の時制から見た鎌倉時代の「末代」(後末期)と読むべきであろう。直後「日月未だ地に落ち給はず」以下は、神道の神観念に基づく天照大神等を意識した(本地垂迹を逆手にとった逆本地垂迹説をさえ感じさせる)謂いとしか思えず、さすれば、平安末期の末法思想の「末法」なんぞではないのは明白だからである。
「本朝垂跡(すゐじやく)の神明和光(しんめいわくわう)の影は猶、新(あらた)にして、冥慮(みやうりよ)、誠(まこと)に揚焉(いちじるし)」増淵氏は『わが国に仏が衆生済度のために仮に神となって現われた天照大神の穏やかな威光の輝きは、やはり新しく、そのおぼしめしはいちじるしいことだ』と訳しておられる。こういう謂いであったとしても、江戸期の神道観からは私は前注の謂いを改める気は全くないと言っておく。
「伊勢の風の社(やしろ)をば、風の宮と崇(あが)めらる」これは現在の三重県伊勢市豊川町にある伊勢神宮の二つの正宮(しょうぐう)の内の一つである、豊受(とようけ)大神宮の、境内別宮である風宮(かぜのみや)のこと。ウィキの「風宮」によれば、『風宮は外宮正宮南方の檜尾山(ひのきおやま)の麓に位置する外宮の別宮である。祭神は内宮(皇大神宮)別宮の風日祈宮と同じ級長津彦命・級長戸辺命で、外宮正宮前の池の横の多賀宮への参道にある亀石を渡った左側に風宮がある。亀石は高倉山の天岩戸の入り口の岩を運んだと伝えられている』。『別宮とは「わけみや」の意味で、正宮に次ぎ尊いとされる。外宮の別宮は風宮のほか境内に多賀宮(たかのみや)と土宮(つちのみや)、境外に月夜見宮(つきよみのみや)があるが、風宮が別宮となったのは』正応六(一二九三)年。『古くは現在の末社格の風社(かぜのやしろ、風神社とも)であったが』、この弘安の役で『神風を起こし』、『日本を守ったとして別宮に昇格した』ものである。『風宮の祭神は、風雨を司る神とされる級長津彦命と級長戸辺命(しなつひこのみこと、しなとべのみこと)である。本来は農耕に適した風雨をもたらす神であったが、元寇以降は日本の国難に際して日本を救う祈願の対象となった』とある。古くは『風神社は末社相当であったが、祭神が農耕に都合のよい風雨をもたらす神であることから風日祈祭が行なわれ、神嘗祭では懸税(かけちから、稲穂)が供えられるなど重視され』弘安の役で『朝廷より為氏大納言が勅使として神宮に派遣され、内宮の風神社と風社で祈祷を行なった。日本に押し寄せた元軍は退却し日本にとっての国難は去り、これを神風による勝利とし』、正応六(一二九三)年に『風神社と風社は別宮に昇格され、風日祈宮と風宮となった』とある。]
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