小穴隆一「二つの繪」(34) 「影照」(9) 「林檎」
林檎
小石川のアパートにゐたときに、義ちやんが林檎一つを大きく畫いたのを持つてきて、僕にその畫を芥川がよくないと言つてゐると言つてゐた。僕が芥川に會つて義ちやんの畫いた林檎のどこに不滿を感じたかと聞くと、芥川は「僕はあまり大きく畫いてある、それがいけないと言つたのだ」と言つてゐた。
僕は芥川の死後、神樂坂の田原屋の店さきに一つ壹圓の印度林檎をはじめてみたとき、その大きさに感心して芥川にこの林檎をみせておきたかつたなあと思つた。芥川は死なうといふのにダンス場をみなければ時勢に遲れるとか、龜井戸をみなければとか言つてゐた男だ。
[やぶちゃん注:「義ちやん」甥葛巻義敏。
「田原屋」は現在の東京都新宿区の神楽坂の代名詞のような老舗レストランで、一階は高級果物店、二階がレストランであった。漱石が贔屓にしていたという。二〇〇二年に閉店した。
「印度林檎」林檎の品種名。サイト「旬の食材百科」のこちらの記載によれば、『印度は明治初期に青森県弘前市の菊池九郎氏の庭園に撒かれた種から育成された品種で、そのルーツには諸説あり』、『政府が青森県に最初にリンゴの苗を導入したのも丁度同じ頃で、共に青森県のリンゴ文化の元祖的な存在となってい』るとし、『名称の「印度」もその由来は種のルーツと共に諸説あ』るものの、『南国インドにまつわるものではなく、アメリカのインディアナ州にまつわるもののよう』らしい。『そのひとつは菊池九郎氏が弘前市で東奥義塾を設立した際に講師として招いたジョン・イング氏が、母国アメリカのリンゴを紹介し、その種を撒いたというもので、そのリンゴがインディアナ州産だったとか。はたまた、そのジョン・イング氏の名前から付けられたという説もあり、様々な逸話が残っている』とある。『この印度リンゴはかつて贈答用高級リンゴとして扱われ、一世を風靡した時代があったとされ』る『が、その当時の事を知っているのはもうおじいさん、おばあさんだけとなって』しまい、『今では非常に希少性が高いリンゴ』だという。ただ、今日、『一般的に良く目にするリンゴの中には、この印度を親として生み出されたものも多く、王林や陸奥、東光などの交配親として知られ』るとあるので、その遺伝子は受け継がれているわけである。『形はやや縦長で、斜めにひしゃげたようなものが多く見られ、表皮の色は無袋の場合日光に当たった部分だけが赤く色付いてい』るが、一方、『有袋の場合は全体に赤くなるものが多い』。『食べた感じは、果肉がやや固く締りがあり、水分は少なめ』、『酸味はあまり感じられず、甘味が全面に出ている感じで』あるが、『今日の上級りんごのような刺す様な濃厚な甘さというわけではなく、どちらかといえば滋味な甘さで、全体に少しボケた感じの印象を受け』とし、『おそらく当時一般的に出回っていた甘酸っぱいリンゴが主流にある中ではこれが「甘いリンゴ」だった』ものと推測されるとある。『主な産地は青森県で』、『一時は消滅の危機にあった』『が、今日、昔を懐かしむ声などもあり、少し復活しているようではあ』るものの、『栽培している農園は極僅かで、市場にも僅かな量しか出回ってい』ない〈まぼろしの林檎〉である。因みに、私は林檎というと、芥川龍之介の掬すべき掌品「詩集」を思い出すのを常としている(リンク先は私のサイトの最初期の古い電子テクスト)。]
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