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2017/01/31

柴田宵曲 妖異博物館 「河童の藥」

 

 河童の藥 

 

 各地にある河童傳授の藥には、それを得るまでの由來噺がついてゐる。伊豆國田方郡雲が根村の河童藥は、打ち身くじきに甚だよく利くが、その由來はかうである。いつの頃であつたか、子供達が集まつて角力を取るところへ、見馴れぬ子供がまじつて遊んでゐる。村中の子供でこの者に勝つのは一人もない。そのうちに一人の子供が出て、はじめて、この見馴れぬ子供を投げ倒した。投げられた子供が、お前は佛樣の飯を食つたかと聞くので、食つたと答へたら、明日は食はずに來いよ、さうすればおれが勝つ、と云つた。子供心にも妙な事を云ふと思つて、親にこの話をすると、翌日は父親が子供について行き、例の見馴れぬ子供を大勢で縛つてしまつた。するとその者が、私は實は人間ではありません、田方川に住んでゐる者です、といふ。それなら河童だらうといふので、皆で殺さうとした時、一人の老人が來て、その河童を一貫文に買ひ取り、田方川に放してやつた。同夜老人の夢に河童が現れて、一命を救はれたことを謝し、藥の製法を傳へた。製して見れば效能があるので、聞き傳へた人が貰ひに來る。後には價を定めて膏藥になつた(眞佐喜のかつら)。

[やぶちゃん注:「伊豆國田方郡雲が根村」旗本領であった雲金村であろう。現在の静岡県伊豆市雲金。(グーグル・マップ・データ)。

「田方川」狩野(かの)川の別称か?

「眞佐喜のかつら」(まさきのかつら)は嘉永から安政年間の頃(一八四八年~一八六〇年)に成立した青葱堂冬圃(せいそうどうとうほ)著の随筆。所持しないが、上記の箇所を坪田敦緒氏のサイト「相撲評論家之頁」の「資料庫」ので同書の「三」からとして引用されておられる。何時ものように恣意的に正字化させて戴き、以下に示す。頭に附された「一」は省いた。一部、誤字と思われるものを訂した。

   *

伊豆國田方郡雲が根村に河童藥と云あり。打身くじきに用ひ甚妙なし。此來由を問ふに。いつの頃にやありけむ。小兒ども打寄相撲とりて力をくらぶ。外より見馴ざる小兒きたりて交り遊ぶ。村中の小兒。此ものに勝ものひとりもなし。しかる處一人の小兒出で取組。しばし揉合しが。見なれざる小兒を投出しぬ。其時彼のもの云。汝佛のめしを喰ひしかと問ふに。さなりと答ふ。しからば翌日は喰ずに來れよ。我かならず勝べしと云。勝たる小兒。子心に怪しくおもひ。親に此事をかたる。父思ふ事やありけん。翌日子に隨ひ行。彼力强の小兒を大勢にていましむ。其者の云。我全人間にあらず。田方川に住る者なりと云。さらば河童なるべしと。大勢より殺さんとす。其時ひとりの老人來りて。錢壱貫文を以て河童を買とり。田方川へはなつ。其夜河童來りて助命の事を謝す。其時藥法を傳へしかバ。製し試るに必驗あれば。人皆きゝ傳て乞ふ。後は價をさだめ賣けるとなん。

   *

「運」は「めぐり」(振り返って)と読むか。]

 佛の飯云々といふことは、他の動物の場合にもあるかも知れぬが、河童にはまだ例がある。上總國で或家の子供のところへ友達が來て、川へ行つて遊ばうと云つた時、誘はれた方の母親が、川へ行くなら、おまじなひに佛壇に供へた御飯を食べておいで、と注意した。一方の子供は、そんなら厭だと云ひながら走り去つた。これも河童の化けたものだつたらうと「三養雜記」にある。佛の飯に魔除けの力があるものと察せられるが、特に河童の場合が目に付くのは偶然であらうか。

[やぶちゃん注:「三養雜記」山崎美成の随筆。天保一〇(一八三九)年序。当該項は「卷之三」の「水虎」の最終例である。直前の話柄はこの話をよりよく補完する内容なので、以下に「水虎」全文を、吉川弘文館随筆大成版を参考にして、例の仕儀で加工して示す。なお、文中の「鼈」は音「ベツ」、訓は「すつぽん(すっぽん)」である。

   *

     ○水虎

 水虎、俗に河太郎、またかつぱといふ。江戸にては川水に浴する童などの、時として、かのかつぱにひかるゝことありし。などいふをきけどいと稀にて、そのかつぱといふものを、たしかに見たるものなし。西國の所によりては、水邊などにて、常に見ることありとぞ。怪をなすも、狐狸とはおのづからことなり。正しくきける、ひとつふたつをいはゞ、畠の茄子に一つごとに、齒がた三四枚づゝのこらずつけたりしことありと。その畠のぬしよりきゝたり。仇をなすこと執念ことさらにふかくして、筑紫がたにての仇を、その人、江戸にきたりても、猶怪のありしことなどもきけり。かのかつばの寫眞とて見しは、背腹ともに鼈の甲の如きものありて、手足首のやうす、鼈にいとよく似たり。世人のスッポンの年經たるものゝなれりといふもうべなり。越後國蠣崎のほとりにてのことゝかや。ある夏のころ、農家のわらはべ、家の内にあそび居けるに、友だちの童きたり、いざ河邊に行て水あみして遊んと、いざなひ行しに、かのさそひに來りし童の親の、ほどなくいり來りしかば、家あるじの云、今すこしまへ、そのかたの子息の遊びに來れりといひければ、いやとよ。せがれは風のこゝちにて、今朝より家に臥し居りぬ。いとあやしきことゝぞいひあへりとぞ。後にきけば、かつぱの童に化て、いざなひ出したるなりといへり。また上總國にも、ある家の童を、その友の童が來りて、川邊にあそばんとて、よび出しにきたりしかば、その母のいふ。川邊に行かば、まじなひに佛壇にそなへし飯をくひて行けといひつけければ、友のわらはべ、そんならいやだといひつゝはしり逃げ行きぬとぞ。これもかつぱにてやあらん。先祖まつりは厚くすべきことゝいへるとかや。

   *]

 もう一つの河童藥は「裏見寒話」に出てゐる甲州下條村の話である。藥法傳授に至る徑路がかなり長く、河童に關する話の諸條件を具備してゐるやうに思ふ。或年の十二月末、農家の親仁が薪を馬に積んで賣りに行き、釜無川の河原まで歸つて來ると、みぞれ交りの風が寒く、日も暮れかけたのに、馬が一步も動かなくなつた。いくら敲いても動く樣子がないので、うしろへ𢌞つて見たら、十一二くらゐの子供が馬の尻尾にすがり付いてゐる。あぶないあぶない、今に蹴られるぞ、早く退け早く退け、と云つても、聞かずに尻尾を摑んでゐるから、そこを退かねばこれだぞ、と山刀を拔いて斬り付ける眞似をした。子供は忽ち見えなくなつたが、宿へ歸つて馬を洗はうとしたら、猿の腕のやうなものが、馬の尾を摑みながら斬られてゐた。さては先刻の子供は妖物であつたかと、その腕を取らうとしても、なかなか離れない。腕が付いてゐたところで、馬の痛みになるわけでもないから、そのま、厩に入れて寢に就いた。然るに夜明け近くなつて、子供の聲で主人を呼ぶ者がある。戸を明けて見ると、十一二ぐらゐの子供で、人間とも見えぬ者が、しよんぼり立つてゐたが、私は釜無河原でお馬の邪魔をした者でございます、その時に斬られました片腕をお返し下さいまし、私はあの河原に住む河童ですが、馬の尾を一筋持てば種々の妖術が出來ますので、お馬に付いた次第でございます、と歎願する。いやいや腕は返されぬ、自分の妖術のために、人の馬を惱ますとは不屆至極だ、と云つたところ、もしお返し下さらぬならば、子々孫々まで祟りをなして取り殺しますぞ、と云ふ。親仁は大きに腹を立てて、いやしくも人間たる者が、畜類の祟りを恐れて、考へが變へられるか、敲き殺すからさう思へと、棒を以て迫ひ拂ふ。河童はしきりに哀願して、何卒腕をお返し下さい、これから毎朝鮮魚を獻じて御厚恩を謝し奉ります、と云つても親仁は聞き入れず、戸をしめて入らうとした。女房が諫めて、腕は返しておやりなさい、あれを持つてゐたところで、家には何の益もありませんし、返せば河童は助かるわけですから、と云ふ。そこで河童に向つて、一旦斬られた腕が接げる筈はない、何のために取り返すのだ、と尋ねると、私どもに腕を接ぐ妙藥があります、これは人間にも大いに益があることです、といふ話なので、親仁も河童の申し分を聞き入れる氣になり、藥方と腕との交換條件は成立した。翌朝夫婦が起きて見れば、水桶の中に魚類が澤山入れてある。河童の謝禮らしかつたが、禮は藥方だけで十分だと、魚類は悉く川へ放し、藥を調合して金創に用ゐるのに、即效あること神の如く、下條切疵藥とて國中に隱れもない。賣價靑銅二十四文、この藥のお蔭で間もなく富裕になつたといふのである。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」は江戸中期に甲府勤番番士であった野田成方の著した甲斐の地誌書。宝暦二(一七五二)年成立。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの「甲斐志料集成」の中に画像で発見した。から読める。

「甲州下條村」これは旧山梨県北巨摩郡にあった下条村(げじょうむら)。現在の韮崎市藤井町北下條・藤井町南下條に相当する。両地区の南西直近を「釜無川」が流れる。]

 佐竹家の醫者神保荷月なる者の家に、河童の傳書一卷がある。假名で書いたもので、讀みかねるところもあるさうだが、この一卷の由來は、神保氏の先祖が厠へ行つた時、尻を撫でる者があつたので、その手をとらへて斬る。宛も猿の手の如きものであつた。その夜より手を返して下さいと云つて哀求する。何者だと問へば、河童でございますと云ふ。手を返して下されば接げますといふので、その藥方を教へれば返してやらうといふことになり、これを手に入れたのである。治方神の如しと「譚海」に書いてある。河童の詫證文といふものは江戸の深川にもあつて、河童の手判が墨で捺してあると、やはり同じ「譚海」に出てゐる。

[やぶちゃん注:「哀求」「あいぐ」と読んでおく。

 本話は私が既に電子化注している譚海 卷之二 佐竹家醫師神保荷月事である。]

 河童に交渉の多いのは人間と馬で、他の動物の話は殆ど見當らぬ。武藏國川越の傍に小さな流れがあつた。こゝで寺の馬を洗ふため、十五六ばかりの男が、自分も裸馬にまたがり、川中に乘り入れる間もなく、馬が急に躍り上り、男は馬から落ちて絶息した。馬は厩へ歸つたが、十歳ばかりの童のやうな者が、馬の尾を手にからんでゐるのを、よく見たら河童で、馬にしたゝか蹴られて大分弱つてゐた。いつもわるさをする奴だからといふので、燒き殺すことになつた時、淚を流し手を合せて拜む。和尚も可哀さうになつて、命乞ひをして衣をうち著せ、もう人を取るでないぞ、馬を引くでないぞ、と戒めて川端へ行つて放した。そのお蔭心であるか、次の朝和尚の枕許に鮒が二尾置いてあつた。それ以來この邊では人馬の失せることがなくなつた(寓意草)。この話には藥方の事はないが、河童の捕へられる順序は「裏見寒話」と同じである。命乞ひの一役を買ふ人が出るところは「眞佐喜のかつら」に似てゐる。

[やぶちゃん注:「寓意草」の原文は国立国会図書館デジタルコレクションの画像の。但し、河童の話は前の頁から続いている。ただ、この話、最初に乗り入れて落馬して気絶した男がどうなったか語られておらず、その不全性がどうも私には気に入らぬ。]

 馬を引き込まうとして失敗する例はまだいろいろあるが、「蕉齋筆記」のは筑摩川邊の話である。河童が水中より出て、川邊に繫いである馬を取らうとして、先づ馬の手綱を解き、自分の手にくるくると卷き付けて、水中へ引き込まうとしたところ、馬は一躍して河童を引き摺りながら家へ歸つて來た。皆よろこんで河童を後手に縛り上げたまではよかつたが、その家の女房が洗ひ桶を持つて來て、憎らしい顏をしてゐると罵り、水を浴びせたため、頭の皿に水が溜つて力を生じ、繩を引き切つて逃げ去つた。これも腕は無事だつたので、藥方の話は出て來ない。

[やぶちゃん注:原文を国立国会図書館デジタルコレクションの画像の(右下方)で視認出来る。]

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