柴田宵曲 妖異博物館 「化け猫」
化け猫
支那の書物を讀んでゐると、虎の人に化し、また人の虎に化する話の多いのに驚くが、日本にも化け猫の人になる話は珍しくない。虎は猫の大きなものと考へれば、さのみ怪しむに足らぬであらう。
鳥井丹波守の家來高須源兵衞といふ者の家に、年久しく飼つて置いた猫が、ふと行方知れずになつた。その頃から源兵衞の老母も人に逢ふのを厭ひ、屛風を引き𢌞して、朝夕の膳もその中に入れさせ、給仕の者を斥けて食ふ。ひそかに樣子を窺つた者の話では、汁も副食物も一緖にして、這ひかゝるやうにして食べるといふことであつた。よく世間で云ふやうに、猫が化けたのではないかと不審するうち、源兵衞が風呂から出て、まだ浴衣も著ないでゐるところへ、眞黑なものが飛び付いたことがある。源兵衞が拳を固めて强く打つたので、直ぐ逃げて行つたが、その頃から老母が背中が痛むと云ひ出した。愈々疑惑を深め、親族にこの話をしたところ、武士の身として左樣の事を捨て置くべきでない、覺悟したがよからう、と云はれた。猶豫はならぬと雁股の矢をつがへ、よく引いて屛風を明けさせたが、老母が起き直つて、とても母を射るならこゝを射よ、と胸に手を當てるのを見ては、さすがに放つことも出來ない。親族の者は更に源兵衞を勵まして、それは射藝が至らぬのぢや、速かに射とめよ、と云ふので、遂に意を決して放つと、母は逃げ出して庭に倒れた。その姿は母に相違ないし、暫く見つてゐても猫にならぬから、腹を切らうといふのを止めて、明日まで待て、と云つた人がある。心ならず一夜を明して見たら、もう人間でなしに、もと飼つた猫の姿に變つてゐた。然る後疊を上げ、床板を外して見るのに、老母の骨と覺しき人骨が出て來た。かちかち山の狸と同じわけであるが、これは兎の手を俟たず、主人自ら仇を討つたのである。――この話は文化元年の事として「兎園小説」に出てゐる。
[やぶちゃん注:「鳥井丹波守」柴田の文化元(一八〇四)年の事とする記載から、これは下野國壬生(みぶ)藩(藩庁壬生城は現在の栃木県下都賀(しもつが)郡壬生町(まち)にあった)第四代藩主鳥居丹波守忠熹(ただてる 安永五(一七七六)年~文政四(一八二一)年:鳥居家第二十七代当主)である。
「高須源兵衞」鳥居家をずっと遡った、信濃高遠藩の初代藩主で鳥居家第二十二代藩主鳥居 忠春(寛永元(一六二四)年~寛文三(一六六三)年)の代の筆頭家老に「高須源兵衛」なる人物がいたことが、「伊那谷ねっと」のこちらの記事によって判る。
「甲子」この報告(後述)は文政八(一八二五)年であるが、その前年は「甲申」で干支が違う。とすれば、それ以前の直近の「甲子」は文化元・享和四(一八〇四)年となるので、柴田は「文化元年」と比定しているのである。
以上は「兎園小説」の「第十一集」の輪池堂(幕府御家人で右筆であった国学者屋代弘賢(ひろかた 宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年)の号)の報告の一つ「高須射猫」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。冒頭の「【鳥井丹波守】」「【甲子】」はそれぞれ「某侯」「去年」の右に打たれたネタバレ書き。
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○高須射猫
某侯【鳥井丹波守】の家令高須源兵衞といふ人の家に、年久しく飼ひおける猫、去年【甲子】のいつ比にや、ふと行方しれずなりぬ。その比より源兵衞が老母、人に逢ふことをいとひて、屛風引きまは、朝夕の膳もその内におし入れさせて、給仕もしりぞけてしたゝむるを、かひまみせしかば、汁もそへものも、ひとつにあはせて、はひかゝりてくふ。さてはむかし物がたりに聞きしごとく、猫のばけしにやといぶかりあへる折から、その君のゆあみし給ひて、まだゆかたびらもまゐらせざりし時、なにやらん眞黑なるもの飛び付きたり。君こぶしをもつて、つよくうたれしかば、そのまゝ迯げ去りぬ。その刻限よりかの老母、せなかいたむといひければ、いよいようたがひつゝ、親族にかくと告げゝれば、ものゝふの身にて、すておくべきにあらず。心得有るべしといはれて、とかくためらふべきにあらざれば、雁股の矢をつがひて、よく引きつゝ、人して屛風をあけさせたれば、老母おきなほりて、むねに手をあて、とても母をいるべくは、こゝを射よといふにひるみて、矢をはづしたり。又親族にかたらひけるは、それは射藝のいたらぬなり。すみやかにいとめよといはれて、このたびはたちまちにきつてはなちたれば、手ごたへして母にげ出で、庭にてたふれたり。立ちより見るに、母にたがふ事なし。やゝしばしまもり居たれども、猫にもならざれば、こはいかにせむ。腹きりて死なんといふをおしとゞめて、あすまでまち見よと云ふ人有り。心ならず一夜をあかしたれば、もとかひおける猫のすがたになりぬ。其のちたゝみをあげ、ゆかをはなちて見しかば、老母のほねとおぼしくて、人骨いでたり。いかにかなしかりけん。このことふかくひめて人にかたらざれば、人しるものなし。
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]
評云、この鳥居の家老高須氏は、關潢南のしる人なり。はじめは定府なりしが、今は勤番にて去歲より江戶にありといふ。又當主は今玆十五歲にならせ給ふなり。右の物語りかたかたいぶかし。もし在所にての事か。さらずば昔の事を今のごとくとりなして、人のかたり聞かせしに非ずや。
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「關潢南」は「せきこうなん」と読み、江戸後期の常陸土浦の藩儒で書家であった関克明(せき こくめい 明和五(一七六八)年~天保六(一八三五)年)の号。彼は兎園会の元締である滝澤馬琴とも親しく、息子の関思亮は海棠庵の名で兎園会のメンバーであったから、屋代の知人でもあったのであろう(但し、「兎園小説」自体には馬琴の編集がかなり加えられていると考えられる)。屋代も疑義を示しているように、この話、どこか奇妙で、何となく実在人物を臭わせながらも、それがまた変な非リアルさを覚えさせる作りとなっているように私には思われてならない。屋代が「又當主は今玆十五歳」と言っているのは、報告当時の文政八(一八二五)年のことで、この時は鳥居家は壬生藩で、先に示した第四代藩主鳥居忠熹の次男である鳥居丹波守忠威(ただきら 文化六(一八〇九)年~文政九(一八二六)年)の治世である。更に屋代の謂いも(重箱の隅をほじくるようだが)おかしく、文政八年当時、忠威は数え「十五歳」ではなく「十七歳」である。ともかくも、屋代の言う如く「在所にての事か」或いは「昔の事を今のごとくとりなして、人のかたり聞かせし」ものという都市伝説の類いである可能性が極めて濃厚であると言えると思う。]
「耳囊」に出てゐるのも同じ事で、猫のつもりで斬り殺したのが、母の姿でゐるので、懇意の者を招いて切腹しようとし、暫く待てと云はれて待つてゐると、その夜に至つて古猫の正體をあらはしたところまで似てゐる。この話には土地も時代もない。「譚海」の話にも時代はないが、場所は出羽の仙北郡で、薪を探つて山から歸らうとする折節、雨が降り出した。辻堂の緣に雨宿りをするうち、堂内は非常に賑かで、太郞婆々がまだ來ない、今度の踊りは出來ないだらう、などと云つてゐる。猫の踊りに中心になる者を必要とするといふ話はよくあるが、暫くして、今度は太郞婆々が來た、さア踊りをはじめよう、といふ聲が聞えた。太郞婆々らしい者の聲として、ちよつとお待ち、人がゐるかも知れないと、堂の格子から尻尾を出して搔き𢌞すのを、雨宿りの男が捕へて引く。内からは引かせまいとする。遂に尻尾が切れて男の手に殘つたので、恐ろしくなつて、雨の晴れるのを待たずに歸つて來た。その後鄰家の太郞平なる者の母親が病氣で寢てゐると聞いて見舞に行くと、痔が惡いといふことで、大分氣分がよくなささうである。夕方また例の尻尾を懷ろにして行き、病氣といふのはこんな事でないかと云つて、尻尾を出して見せた。太郞平の母親は、忽ちこの尻尾を奪ひ取り、母屋を蹴破つて逃げ去つた。このあたりは多少羅生門の氣味もある。前日譚が缺けてゐるからよくわからぬが、太郎平の母親は猫が化けてゐたので、まことの母親の骨は、年を經た樣子で天井裏に在つた。この話は鄰家の老母であり、猫も尻尾を取り返して逃げたから、切腹沙汰なんぞはない。
[やぶちゃん注:「耳囊」のそれは「卷之二 猫の人に化し事」である。
「譚海」のそれは「卷の九」の終りから二つ目の条「仙北郡辻堂猫の怪の事」である。読みは総て私がオリジナルに歴史的仮名遣で附した。「太郞平」は「太郎兵衞」の当て字である「たろへゑ」であろうが、敢えて「たろへい」とした。
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○仙北郡の人薪を伐(きり)て山より歸る時、夕(ゆふべ)になりて雨(あめ)降出(ふりいで)たれば、辻堂の緣に雨やどりせしが、堂の中(うち)人音(ひとおと)きこえてにぎはしく、しばし有(あり)て太郞婆々(たらうばば)いまだ來らず、こたびの躍(をどり)出來(いでき)がたからんなどいふ聲せしに、又しばし有て、婆々來れりとて、をどりはじめむといふ。婆々のいふやう、しばし待(まち)たまへ、人やあるとて、堂の格子の穴より尾をいだし、かきまはしたるを、此(この)男(をとこ)尾をとらへて外より引(ひき)たるに、内には引入(ひきいれ)んとこづむにあはせて、尾を引(ひき)きりてもたりければ、おそろしく成(なり)て雨のはるゝをもまたず、家に歸りて此(この)尾をばふかく蔵置(かくしおき)たり。そののち隣家の太郎平(たろへい)なるもの、母痔(じ)おこりたりとてうちふしてあるよし。此男見𢌞(みまはり)に行(ゆき)て見れば、誠(まこと)に心わろく見へける、いかにといへば痔のいたむよしをいふ。あやしくて夕(ゆふべ)に又(また)件(くだん)の尾を懷(ふところ)にかくして見𢌞に行てければ、なほ心あしとて居たりしかば、それは此やうな事のわづらひにてはなきやと、尾を引出(ひきいだ)して見せければ、此母尾をかなぐりとりて、母屋(おもや)をけやぶりてうせぬ。猫の化たるにてありける、誠の母の骨は年へたるさまにて、天井にありけるとぞ。
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「見えへける」はママ。「こづむ」は、引き入れようと大勢の者(猫)が「積み重なる」ようにして一斉に太郎婆の体を引っ張ったことを指すか。]
佐藤成裕は「中陵漫錄」に猫の話をいくつも書いてゐるが、その中に禪僧から聞いたといふ化け猫の話がある。猫好きの婆さんがあつて、猫を三十疋も飼つてゐる。猫が死ねば小さな柳行李に入れて棚に上げ、每日出して見てはまた棚へ上げて置く。この事已に尋常でないが、この婆さんは白髮で、猫のやうな顏をしてゐたさうである。後に人に殺され、半日ほどして老猫に變つた。殺されるに就いては何か話があつたらうと思ふが、その經緯は書いてない。成裕に話をした禪僧は、實際にその化け猫を見てゐるらしい。
[やぶちゃん注:「佐藤成裕」(せいゆう 宝暦一二(一七六二)年~嘉永元(一八四八)年)は水戸藩の本草学者。中陵は号。「中陵漫錄」は文政九(一八二六)年に書き上げた薬種物産を主としつつ、多様な実見記事を記録した見聞記。ここに出るのは、「卷之十四」の「猫話」の条の一節であるが、纏めて一条全部を、吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。「孕す」は「ようす」と音読みしていよう。「拂林狗(チン)」は原典の三字へのルビ。
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○猫話
予再三、肥後に至り藤井某翁に相遇して、其封内の奇事を問ふ。此翁、藥を尋て封内其四郡周く登覽す。猫島には予も至り見る。猫嶽には登る事を得ず。只此翁、其奇事を語る。しかれども、皆其談、此に載せがたし。予が著す周游奇談に審に載す。猫の怪を爲すもまた甚し。皆人を殺すに至る。予弱冠の時、一の禪僧あり。此僧は本所に在て、甚だ長壽にて昔時の事を談る。此僧の近隣に一の老婆あり。猫を養ふ事三十餘、其中、死したるは小き柳行李に入て、幾つも棚に上げをき、每日出し見て又棚に上げをく。死すれば皆如ㇾ此。此老婆、眞に白髮猫の顏の如し。後に人の爲に殺さる。半日にして老猫となれりとなり。此僧、親く見て予に語れり。又遠州寶藏寺の猫は、和尙と成て每夜法問に往く。此談は猫問答と云本にもあり。世人能く知るなり。羽州米澤より小國と云所に行く。皆山路にして三里の間に只茶店一軒あり。直に左右前後人倫なし。此茶店に猫あり。春に至て每日山林に入て歸る。又數日にして歸る事あり。已に兒を孕す。其行く處を考るに、二里餘り外に行て在る事を見る。每春、時をたがはず其處に行くと云。予が知己の某も猫を養ふ。或日、二三日見えず。其夜、大火に逢ふ。其翌年、新に家を作る。人皆、悅び移る。此日、猫來て又見えず。去年の出たる日を以てまた歸來ると云。其間、何の處に在るや未だ其所爲を考へず。薩州の谷山と云處の茶店に一猫あり。琉球人持來る。薩州の人、高麗猫と云。總身の毛、長じて小犬の如し。目もまた、小犬の如く甚だ愛らし。白黑の光澤も拂林狗(チン)と相同じ。長崎の吉雄耕牛翁の云く、昔し阿蘭陀人載來る猫あり。甚だ大にして豹の如し。毛色黃にして虎の如し。彼の人、虎の兒なりと云。或時、猫の聲にて鳴く。是を聞て其猫の一種たる事をしる。耕牛云、是乃靈猫なるべしと。其猫、又載せ返ると云。
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似たやうな話で最も委しいのが「想山著聞奇集」の記載である。上野國の某村に住む屋根葺き渡世の者、至つて親孝行であつたが、一人の母親がいつ頃からか非常な酒好きになつた。或時屋根葺き仲間が集まつて酒を飮まうとしたのに、折惡しく差支へで誰も來ない。日頃は貧乏で十分な事も出來なかつたが、今日は用意した酒肴がある、澤山食べて下さい、と云つて勸めたので、母はよろこんで盃を傾け、肴も食べ盡して寢た。然るに母の寢床から怪しいうめき聲が聞える。聲をかけても返事がない。近年この母は燈火を嫌ひ、いつも暗闇で寢てゐるので、手さぐりでは何事も行屆くまいと思つて、早速灯をつけて行つて見ると、大きな猫が母の著物を著て、高鼾で寢てゐる。この變を見た以上、母と雖もそのまゝに捨て置かれぬので、繩を以て四足を縛り、それから近鄕の人、友達、庄屋、年寄などにこの次第を傳へた。時を移さず乘り込んで來た人々によつて、猫は完全に生捕りになつたが、しづかに考へて見れば、近年の母の樣子には不審な點が少くない。酒好きになるにつれて氣むづかしくなり、寢るのに燈火を嫌ふのみならず、息子と一室に寢るのを厭がる。狹い家で別に寢るところもないから、障子で仕切つて寢るやうにしてゐたが、本當の母親はこの猫に食はれたに相違ない、と家の中を搜して見たら、緣の下の圍爐裏際に老母の骨は隱してあつた。この顚末は近村にも聞え、代官所へも猫を連れて出た結果、猫は屋根葺きに下げ渡され、心まかせたるべしといふことになつた。まさしく親の敵であるから、殺して村の入口の分れ角に埋め、猫俣塚といふ大きな石碑を建てた。想山は屋根葺きの友達である大工からこの話を聞いたので、大工は話を聞くなり飛んで行つて見たらしい。猫の大きさは江戸にゐる大きな犬ぐらゐで、顏や四足は犬よりも大きく見えた。尾の長さは四尺ほどもり、先七八寸が二つに岐れてゐたさうである。その晩酒を飮み過ぎて、正體を暴露したといふのも時節因緣であらう。大工が見に行つた時は柱に繫ぎ、晝夜十五人づつ番人がついてゐたが、一向驚く樣子もなく、見物が集まつて口やかましく話す時は、細目をあけて見る。その目の銳さは馬や犬とは比べものにならず、もし豁(かつ)と見開いたら、どんなに恐ろしい事かと思はれた。睡つてゐるやうではあるが、内心は隙を見て逃げ出さうとするけはひが見えたとある。年代などははつきりせぬけれど、大工の記憶により遡つて見ると、寬政八年頃の勘定になるやうである。
[やぶちゃん注:「想山は屋根葺きの友達である大工からこの話を聞いたので、大工は話を聞くなり飛んで行つて見たらしい。」この訳中の一文(短縮意訳)はどうも挿入の仕方が上手くない。「想山は、この話を、屋根葺きの友達である大工から聞いたのであるが、大工は、話を聞くなり、飛んで行つて見たらしい。」或いは「この話を聞いた屋根葺きの友達である大工は、話を聞くなり、飛んで行つて見たらしい(想山はこの大工からこの話を聞いた)。」とするのがよい。
「四尺」一・二メートル。
「七八寸」二十一~二十四センチメートル。
「寬政八年」一七九六年。
以上は正しい「想山著聞奇集」(既出既注)の「卷の五」の掉尾から二つ目の「猫俣(ねこまた)、老婆に化居(ばけゐ)たる事」である。【2017年6月18日追記:同話を厳密校訂した上で注を施したものを先日、完成して公開したので、リンクに代えることとした。】]
以上の話を倂親して考へるのに、猫の化けるのは大體女で、それも若い女の話は殆どない。猫であることが發覺して殺された場合、直ぐには正體を現さず、或時間を經過して猫になるのが原則で、「想山著聞奇集」の猫が醉つて正體を暴露したなどは、珍しい例の一つと云へるであらう。
[やぶちゃん注:「倂親」複数の事象を並べて思い合わせて考えてみること。]
最後に化け猫と見誤つた話を一つ「耳囊」から擧げる。誤認されたのは駒込邊に住む同心の母親である。呼び入れた鰯賣りに對し、その母親の怒つた顏が正しく猫に見えたので、鰯賣りは荷物を捨てて逃げ去る。その物音に晝寢してゐた倅が起き直ると、この目にもやはり猫に見えた。そこで枕許の一刀を拔いて斬り殺してしまつたが、この母親はいつまでたつても母親で、猫にはならない。荷物を取りに歸つた鰯賣りも、しきりに猫に見えたと主張したけれど、死骸が依然たる限りは致し方なく、同心は遂に自殺した。この話が素材になつてゐるのが「半七捕物帳」の「猫騷動」である。殺されるのは肴屋の母親で、それが息子の目に猫と見えたため、天秤棒で毆り殺される。鄰家に住む大工の女房の目にも猫に見えた。誤認者は二人だけであるが、母親が化け猫と誤認されるに至る要素はいろいろある。母親の死骸が猫に變れば怪談になるべきところ、いつまでたつても變らぬので、半七が乘り出すことになつた。猫を二十疋も飼ふ母親は、「中陵漫錄」の老婆に似てゐるが、先づ「耳囊」による構想と見て差支あるまい。
[やぶちゃん注:以上の「耳囊」の原話は「卷之二 猫人に付し事」のこと(リンク先は先の「猫の人に化し事」とのカップリング(原典で条が連続している)した私の訳注)。
岡本綺堂の『「半七捕物帳」の「猫騷動」』の「猫騷動」は改題で、元は「猫婆」。大正七(一九一八)年五月号『文藝俱樂部』初出。作品内時制は文久二(一八六二)年九月二十二日で、ロケーションは芝神明宮である。「青空文庫」のこちらで読める。綺堂は一種、神経症的な手法を用いて、この話柄をホラー染みたものとして料理している。因みに、「半七捕物帳」は世に多い「捕物帳」物では、特異的に好きな作品で、総て読んだ。]
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