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2017/01/19

柴田宵曲 妖異博物館 「狐の嫁入り」

 

 狐の嫁入り

 

 日が當りながら雨が降るのを狐の嫁入りといふ。「靑空にむら雨すぐる馬時狐の大王妻めすらんか」(子規)といふ歌は、これを詠んだものである。日が照る以上、狐の嫁入りは晝でなければならぬ勘定になるが、諸書に見えるところは必ずしもさうではない。

[やぶちゃん注:「靑空にむら雨すぐる馬時狐の大王妻めすらんか」「竹乃里歌」所収。明治三三(一九〇〇)年九月二日の短歌会での詠。

 

     狐の婚禮

  靑空にむら雨すぐる馬時(うまのとき)狐の大王妻めすらんか

 

で、「馬時」は「午の時」で正午の謂い。]

「怪談老の杖」にあるのは、上州神田村の煙草商人が、同業者と共に他の村へ行き、日暮れて歸る途中、遙か向うから三百張(はり)ばかりの提燈が來る。これは不思議だ、こゝは街道ではないから、大名衆がお通りになる筈もない、樣子を見よう、といふので、高いところへ上つてゐると、通りより少し下手の田圃を、その提燈が通つて行く。徒(かち)の者、駕籠脇、中間、押(おさへ)、何一つ缺けたことはないが、提燈に紋所がなく、明りも常の提燈と違つて、たゞ赤く見えるだけであつた。田の中を眞一文字に通つて、向うの林に入つたので、これが狐の嫁入りといふものだらうと話し合つた。この村の近所では、狐の嫁入りを度々見た人があるといふことである。

[やぶちゃん注:「上州神田村」旧多野郡(それ以前は緑野(みどの)郡)美九里(みくり)村に合併した神田村か。現在は群馬県南西部に位置する藤岡市内。

「押(おさへ)」行列の最後にあって列を整える役。

「怪談老の杖」の「卷之三」の「狐のよめ入り」。所持する「新燕石十種 第五巻」に載るものを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に正字化して示す。

   *

   ○狐のよめ入

上州のたばこ商人に、高田彦右衞門と云ふ者あり、神田村といふ處に住みけり、或時、同村の商人仲間とつれ立て、原本脱字村と云ふ所へ行、日くれて歸るとて、はるかむかふに、三百張ばかり提灯の來る體なり、三人ながら、あやしき事かな、海道にてもなければ、大名衆の通り給ふべき樣もなし、樣あらんとおもひて、高き處へあがりて見て居ければ、通りより少し下に田のありける中を、かのてうちんとをりけるが、かちのもの、駕わき、中間、おさへ、六しやく、なに一でもかけたる事なし、てうちんには紋所なく、明りも常のてうちんとはかはりて、たゞあかくみゆるばかりなり、田の中をま一文字にとをりて、むかふの林の中へ入ぬ、扨こそ狐のよめ入といふものなるべし、といひあへり、此村の近處には、きつねのよめ入といふ事、度々見たる人ありといへり、

   *]

「江戸塵拾」のは江戸市中の話で、寶曆三年八月の末といふことまで明記してある。本多家の屋敷に近い家々では、今夜本多家の家中へ婚禮があると評判して居つたが、果して日暮からおびただしい道具が運ばれる。上下の人幾人となく賑かに行き違つて居つたが、その夜の九ツ(午前十二時)前と思ふ頃、提燈の數十ばかりに鋲打の女乘物、前後を數十人が守護して、如何にも靜かに本多家の門を入つて行つた。鄰り屋敷の人の話では、五六千石ぐらゐの家の婚禮と見えたさうである。本多家の家中でさういふ婚禮を取り結ぶのは誰か、皆怪しんで居ると、後にこれが狐の嫁入りとわかつた。本多家の屋敷では、更に知る人がなかつたといふのも、まことに不思議な事であつた。

[やぶちゃん注:「江戸塵拾」は著者未詳。全五巻。少なくともここに引用する第五巻は明和四(一七六七)年以降の成立。所持する「燕石十種 第五巻」(昭和五五(一九八〇)年中央公論社刊)に載るものを、国立国会図書館デジタルコレクションの(岩本佐七編明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊画像を視認して以下に正字化して示す。踊り字「〱」は正字化した。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した。

   *

   きつねのよめ入

寶曆三年秋八月の末八丁堀本多家の屋敷にて狐の嫁入あり近き屋敷屋敷にては誰(たれ)いふとなく、今夜本多家の家中へ婚禮の有よし風説あり日暮よりも諸道具をもち運ぶ事夥(おびただ)し上下(かみしも)の人幾人といふ事なく行違(ゆきちが)ひ行違ひ娠(にぎは)ひしが其夜九ッ前とおもふ比(ころ)提灯數十ばかりに鋲打(びやううち)の女乘物、前後に數十人守護して、いかにも靜(しづか)に本多家の門に入る隣家より見る所其體(てい)五六千石の婚禮の體なりし本多家中より斯(かか)る婚禮取結(とりむす)ぶは誰人(たれひと)にやとあやしみしが後後聞けばきつねのよめ入にて是(これ)あるとや此事本多家の屋敷にては更に知る人なかりしもふしぎの事どもなりし

   *

「寶曆三年」一七五三年。

「本多家」切絵図を見る限り、これは近江膳所藩(七万石)の上屋敷と思われ、この当時だと、第七代藩主本多康桓(やすたけ 正徳四(一七一四)年~明和六(一七六九)年)である。

「鋲打の女乘物」「鋲打(びょうう)ち駕籠(かご)」のこと。外装に鋲を打った女駕籠で、大名の奥方や大奥女中が乗った高級駕籠である。]

「想山著聞奇集」は下男が馬方から聞いた話を載せてゐる。――夜分大名行列と、大行列の嫁入りに逢つたことがあるが、いづれもあとでよく考へれば狐であつた。田舍は一筋道であるから、その夜のうち、前後に村へ歸る者があるのに、自分の外に逢つた者は一人もない。その上街道通りでないから、晝でも大名の通行はなし、萬一通行のある場合には、半月も前から先觸れがあつて、馬を牽くほどの者なら知つてゐなければならぬ。嫁入りの方も繪本に書いてあるやうに、顏が狐で身體は人といふ次第ではない。人と違ふところは少しもないが、聲はいづれもしはがれて居つた。自分の逢つたのは一度は大嫁入り、一度は大名だつたので、その場ではまことの行列と心得、馬を傍に引込んで通したが、今思へば殘念である。もしこの後逢つたところで騙されることはあるまい。その行列は、先箱持、駕籠、槍、長柄、合羽籠に至るまで、本當の大名と變りはないといふことであつたが、この男の出逢つた美濃の志津村あたりでは、よくある事なので、それほど珍しいとも思はぬ樣子だつたといふ。

[やぶちゃん注:この原話は長いので最後に回す。

「先箱持」(さきばこもち)は、大名行列に於いて正装一式を入れて先頭の者が挟み箱(武家が公用で外出する際に供の者に担がせる物品箱。長方形の箱の両側に環が附いていてそれに担ぎ棒を通せるようにしてある)で担いだ、その担ぎ役。

「合羽籠」(かつぱかご)は、大名行列の最後に、下回りの者が、棒で担いで行った雨具を納めた籠及びその担ぎ役。]

 この三つの話は大體同一線上に立つもので、強ひて擧げれば「江戸塵拾」の町中の話が變つてゐるだけである。時刻も行列の模樣も人間の嫁入りと大差ない。日照雨と狐の嫁入りとの關係はどういふところから來たか、他の文獻を搜して見るより仕方があるまい。

[やぶちゃん注:ウィキの「狐の嫁入り」の「天候に関する言い伝え」によれば(注記号を省略した)、『関東地方、中部地方、近畿地方、中国地方、四国、九州など、日本各地で天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼ぶ』。『怪火と同様、地方によっては様々な呼び名があり、青森県南部地方では「狐の嫁取り」、神奈川県茅ヶ崎市芹沢や徳島県麻植郡山類では「狐雨(きつねあめ)」、千葉県東夷隅郡では同様に「狐の祝言」という。千葉県東葛飾郡でも青森同様に「狐の嫁取り雨(きつねのよめどりあめ)」というが、これは、かつてこの地域の農家では嫁は労働力と見なされ、一家の繁栄のために子孫を生む存在として嫁を「取る」ものと考えられていたことに由来する』。『天気雨をこう呼ぶのは、晴れていても雨が降るという嘘のような状態を、何かに化かされているような感覚を感じて呼んだものと考えられており、かつてキツネには妖怪のような不思議な力があるといわれていたことから、キツネの仕業と見なして「狐の嫁入り」と呼んだともいう。ほかにも、天気雨のときにはキツネの嫁入りが行なわれているとも、山のふもとは晴れていても山の上ばかり雨が降る天気雨が多いことから、山の上を行くキツネの行列を人目につかせないようにするため、キツネが雨を降らせると考えられたとも、めでたい日にもかかわらず涙をこぼす嫁もいたであろうことから、妙な天気である天気雨をこう呼んだとも、日照りに雨がふるという異様さを、前述の怪火の異様さを転用して呼んだともいう』。『狐の嫁入りと天候との関連は地方によって異なることもあり、熊本県では虹が出たとき、愛知県では霰が降ったときに狐の嫁入りがあるという』とある。

 前の段落の「想山著聞奇集」のそれは「卷の壹」のかなり長い「一 狐の行列讎(あだ)をなしたる事 附 火を燈す事」の前半部分(狐の行列幷(ならびに)讎(あだ)をなしたる事」相当箇所)である。以下に三一書房版で引く。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部にオリジナルに〔 〕で歴史的仮名遣のルビを附した(一部は推定)。( )は底本のルビである。【 】は底本では二行割注。本文の一部の歴史的仮名遣の誤りを訂した。

   *

下男吉松が語りけるは、渠(かれ)が在所にて、家に抱へ置し馬方に、鐡と云者あり。夜の引明〔ひきあけ〕に、馬を〔ひき〕て出たるに、直〔ぢき〕に村離れの藪蔭に、狐三四疋寄合〔よりあひ〕、孳尾(つるみ)て居たる故、礫〔つぶて〕を打たれば驚きて逃失〔にげうせ〕たり。鐡は夫より遠方へ馬牽行〔ひきゆき〕て、夜に入、每〔つね〕のごとく、何心なく細道を歸り來るに、大名の通り給ふに行き逢て、久敷(ひさしく)片寄居〔かたよりゐ〕て、漸(やうやう)通行を過〔すぎ〕て馬を牽行に、又々通り人有て、通路成兼〔なりかね〕て待〔まち〕し間に、纔〔わづか〕二里程の道を二時半〔ふたときはん〕ばかり掛りて漸く家に歸りたり。此日、吉松も同じ方へ馬を牽て行しが、暮合〔くれあひ〕前に先方にて聞合〔ききあは〕するに、鐡よりは二里程後れて歸るべしとの事故、其積りなりしに、鐡が歸りて間もなき所ヘ吉松も歸りたれば、何として斯〔かく〕は遲く歸りしぞと問ふに、今宵は又も又も引つゞき大名に行逢〔ゆきあひ〕て、大きに道に手間どりしと答ふ。吉松云、我等も同じ道に來りしに、何にも逢ず。何をかとぼけたるのなりと云へば、いや左に非ず正敷〔まさしき〕事也。扣〔ひかへ〕よ扣よとて散々罵られたりと云。夫〔それ〕は狐のわざにて化〔ばかさ〕れたるのなりとて、皆々笑ひて、何心なく夫成(それなり)に寢〔いね〕たりしに、間もなく入口をとんとんと叩く者有〔あり〕。誰ぞと問〔とふ〕に、中津屋より來たり、客三人有て、今より關の方へ行く客成〔なる〕が、少し斗〔ばかり〕の荷を付〔つけ〕て、馬に乘て行度〔ゆきたし〕との事、一人參らぬかと云によりて、行てもよし、只一人かと問ふ。三人入用(いりよう)なれど、二人の馬は他にて出來〔いでき〕たれば、今一疋にてよしと云。左らば行べし、二人は誰が行ぞと問(と)ふに、助〔すけ〕の馬と三〔みつ〕の馬なりと答へ、少しも早く來るべしと云捨て、中津屋の者は歸りぬ。【是は始終雨戸越にて、内と外とにての應對なり。】夫〔それ〕より鐡は、馬に飼〔かいば〕を懸け、おのれも冷茶にて食事をなし、馬を牽いだして先(まづ)、助〔すけ〕の所へ誘ひに行たるに、一向知らぬといふ。不審成(なる)事と思ひ、直〔ぢき〕に中津屋へゆきて見るに、寢て居る也。起して、しかじかのゆゑ、來〔きた〕ると云に、我方には、今宵は客一人ならではなし。それも明朝四つ比(ごろ)より岐阜へ行〔ゆく〕客也。間違ひならんといふ。夫より三〔みつ〕の方へも行て尋るに、何事も知〔しら〕ぬと云ける故、能々考へ思ひ出してみれば、今朝、狐に石打たる故なりと漸(ようよう)心附て、是も狐の業〔しわざ〕なるを始て知り、憎き事とは思へども、詮方もなく、大いに慰まれ申候と、吉松語りたり。さて、其聲は正敷〔まさしく〕人の言舌にてもの云ひしかと問〔とふ〕に、人の通りには候らへども、狐は少し喘涸(しはがれ)聲にて、舌の短き人の言舌に似たるものに御座候。跡にて考〔かんがへ〕候らへば、前の聲も喘涸聲にて、其時は家内中の者、皆々聞居申候〔ききをりまうしさふらふ〕事にて、正數〔まさしく〕言〔げん〕を云〔いひ〕候に相違は御座なく候と申〔まうす〕。扨又、外に狐の化たるを慥〔たしか〕に見たるやと問〔とふ〕に、夜分、大行列の娵(よめ)入に逢たる事と、大名の行列に逢申候。是も跡にて能〔よく〕考候へば、狐にて御座候。其譯は、田舍は一筋道に候らへば、其夜の中〔うち〕には、跡や先に村へ歸る者も御座候に、外に逢たるものは一人も御座なく候。そのうへ、街道通りならねば、晝にても大名の通行はなく、若〔もし〕も通行のときは、半月も前より先觸〔さきぶれ〕御座候て、馬を牽〔ひく〕程のものは、兼て存〔ぞんじ〕奉り居候事に御座候といへり。扨、娵入は繪本に有〔ある〕ごとく、顏は狐にて、體〔からだ〕は人か、ものをもいひしか、慥に見留〔みとめ〕たるかと問に、顏も體も人にて、何も少しも替りたる事はなく候らへども、聲は何れも喘涸聲に御座候。一度は大娵入、一度は大名故、心得居て、其場にては誠の行列と心得、馬を傍へ引込〔ひきこみ〕居て通し過〔すぐ〕したる事、殘念に御座候。もし此後〔こののち〕、逢〔あひ〕候らへば、最早だまさるゝ事にては御座なく候。其行列は、先箱徒〔さきばこがち〕・駕籠・鎗長柄〔やりながえ〕・合羽籠〔かつぱかご〕に至るまで、實〔まこと〕の大名に替る事は御座なく候と語れり。此志津野村邊にては能〔よく〕有〔ある〕事故、さして珍敷〔めづらしき〕事共〔とも〕思はざる樣子なり。昔より美濃狐など云〔いふ〕事有て、人の妻と成〔なり〕て子を生み、狐〔きつねの〕直(あたひ)の姓〔かばね〕の出來〔いでき〕たる事などあれば、其狐等の子孫の有て、餘國に勝れて奇變をなすか。予は都會の地にのみ住〔すみ〕たれば、是等の事は辨〔わきま〕へ兼たり。

   *

最後の「狐〔きつねの〕直(あたひ)の姓〔かばね〕」の「直(あたひ)」とは上古の身分を示す姓(かばね)の一つ。「臣(おみ)」「連(むらじ)」に次ぐものとして、多くは大化改新以前の国造(くにのみやつこ)に与えられた。「狐」という単独姓は流石に聞かないが、ネット上の情報では「狐」を含む姓は、現に、「狐塚(こづか)」「狐島(こじま)」「狐嶋」「狐井(きつい)」「狐坂(こさか)」「狐川」「狐野(この)」などがあるようである。]

 

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