小穴隆一 「二つの繪」(3) 「Ⅳ」
Ⅳ
Ⅰ
Gramme のことは知らない。骨あげで見た芥川の腦味噌は、曾て彼が用意してゐた脱脂綿を燃したとしてみたほどの嵩であつた。
(鼻口を埋む脱脂綿、縊死)
Ⅱ
こはれた肋骨を掌に、舍利こつぱい御坊は御坊の勘考をふりまはしてゐた。
――ずゐぶん水腫のきてゐたひとですねえ?
――このきいろくなつてゐるところが藥でかうなつたのです。
――ここがわるくなつてゐたところの骨です。
Ⅲ
改造社が民衆夏季大學の講師として、芥川を關西か九州のいづれかへのぞんでゐた。
――ああ、うるさいから電報で返事をしておいた。どうせ西の方だ、
――それまでに、おれはもうあの世にいつてゐるから、
――だから僕はただ、ユク、としておいたのだ、ユクとだけで場所は書かなかつたよ。
これは芥川が死ぬ數日前に僕に答へた言葉である。彼の死は七月二十四日日曜日、夏季大學は八月。
Ⅳ
七月二十三日、芥川の伯母さんの考へでは午後十時半、芥川は伯母さんの枕もとにきた。
「――タバコヲトリニキタ、」
七月二十四日、芥川の伯母さんの勘定では、午前一時か半頃、芥川は復た伯母さんの枕もとにきた。さうして一枚の短册を渡して言つた。
「――ヲバサンコレヲアシタノアサ下島サンニワタシテ下サイ、」
「――先生ガキタトキ僕ガマダネテヰルカモ知レナイガ、ネテヰタラ、僕ヲオコサズニオイテソノママ、マダネテヰルカラトイツテワタシテオイテ下サイ――、」
先生といふのは下島勳(空谷)、田端の醫者、短册の句は、
自嘲
水洟や鼻の先だけ暮れ殘る
Ⅴ
Ⅳ、一時半に伯母さんに「オヤスミ」を言つて、六時に奧さんが氣づいて、下島さんがとんできて、……みんな駄目であつた。私には醫者の知識はない。しかし、私はなぜかⅣ・四時の彼を感じる。
[やぶちゃん注:各パートごとにソリッドに示す。
Ⅰ
「Gramme」“gram”に同じい。重さの単位である「グラム」。ここはかの天才的作家芥川龍之介の脳の重さがどれくらいの重さであったか「は知らない」の意。
「鼻口を埋」(うづ)「む脱脂綿」「縊死」これは芥川龍之介が自死の一方法として縊死を考えており、その際に出血や体液のみっともない流出を抑えるための脱脂綿をいつも身近に置いていた(或いは、いつも携帯していた)ことを暗示する記載である。龍之介は実際、確実な自死用の毒物を入手する以前には、縊死による自殺を考えていた節がある。
Ⅱ
「舍利こつぱい御坊」「こつぱい」は「骨灰」で、ここは所謂、寺院に所属した焼き場の経験豊富な僧形の職員のことと思われる。
「勘考」「かんかう(かんこう)」対象をよく考察すること。ここは、焼いた後の骨や臓器の灰の残り方・色・形などを以って生前の故人の身体状況を推定することを指している。
「水腫」私などは「むくみ」と訓じたくなるが、先行する「鯨のお詣り」では実は、「みづばれ」とルビがある。
Ⅲ
「改造社が民衆夏季大學の講師として、芥川を關西か九州のいづれかへのぞんでゐた。……」宮坂覺氏の新全集版年譜によれば、死の四日前の七月二十日(「芥川が死ぬ數日前に僕に答へた言葉」に一致)の条に、八月に『開講予定だった改造社主催の民衆夏期大学の講師を依頼され、電報で「ユク」と返事をする』とあり、旧全集書簡番号一六一九にも、改造社宛電報として、
ユク」アクタガ ハ
と掲げられてある。
Ⅳ
「七月二十三日」死の前日(服毒は翌未明)。
「芥川の伯母さん」芥川フキ。実母フクの姉、養父でフクの兄である芥川道章の妹。芥川龍之介にとって愛憎半ばする最も重要な親族であった。
「午後十時半、芥川は伯母さんの枕もとにきた」現在、最新の成果である宮坂年譜によれば、この二十三日(土曜日)は午前九時頃に起床し、書斎に閉じ籠って絶筆となる「續西方の人」(リンク先は私の正続完全版テクスト)を書き続けた(当日内に脱稿)。『文と三人の息子と一緒に、談笑しながら昼食をと』っている。この時、次男多加志が食卓を蹴ったので龍之介は多加志にお灸を据えている(ここは鷺只雄年譜に拠る)。午後一時及び三時頃にそれぞれ来客が一人ずつあり(人物不詳)、午後五時半頃にまた別に二人の来客(人物不詳)があり、この二人と階下で夕食をともにしている。この二人の客が帰ったのが午後十時半頃である。この日、最も親しかった本作者である小穴隆一も主治医下島勳も、龍之介を訪問していない、とあるから、これら四人の来客はこの二人ではない。
「――タバコヲトリニキタ」これは本書でのみ明らかにされている事実である。冒頭から推して、小穴がフキから直接、聴いたものであろう。客が帰ったのと時を同じゅうしており、時系列としてはすこぶる自然である。
「七月二十四日、芥川の伯母さんの勘定では、午前一時か半頃、芥川は復た伯母さんの枕もとにきた。さうして一枚の短册を渡して言つた。……」宮坂年譜は午前一時頃とする。同年譜によれば、この一時間後の午前二時頃、『書斎から階下に降り、文と三人の息子眠る部屋で床に入』ったが、『この時、すでに致死量のベロナール、ジャールなどを呑んでいたものと思われる。二階から持って来た聖書を読みながら、最後の眠りについた』とする(なお、私は芥川龍之介が自死に使用した薬物は知られているような上記の二種の睡眠薬などではないと考えている。それについては、例えば私の「宇野浩二 芥川龍之介 二十三~(10)」の私の注を参照されたい)。
「水洟や鼻の先だけ暮れ殘る」表記の一部に問題がある。下島に渡したそれは、
自嘲
水涕や鼻の先だけ暮れのこる 龍之介
である。これは昭和五十三(一九七八)年九月一日発行の雑誌「墨 十四 特集 芥川龍之介」に所収する下島勲(空谷)宛オリジナル短冊写真版より起こしたものである。以下、私が「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」に附した注(頁の一番下である)を少し加工して引く(これは既に記憶にないのであるが、明らかに前半は、この小穴隆一の記載に基づいたものと思う)。
*
龍之介は、昭和二(一九二七)年七月二十四日午前一時か一時半頃、伯母フキの枕元にやってくると、
「伯母さん、これを明日の朝、下島さんに渡して下さい。先生が来た時、僕がまだ寝ているかも知れないが、寝ていたら、僕を起こさずに置いて、その儘まだ寝ているからと言って渡して下さい。」
と言って短冊を渡した。その後に、薬物を飲み、床に入り、聖書を読みながら、彼は永遠の眠りに就いた。
短冊のサイズは三六〇×六〇センチメートル。原型句自体は「澄江堂句集」によると、大正十二年頃の作かと思われる。即ち――本句は厳密な意味ではこの時に全くのサラの辞世として初めて詠まれたものではない――ので注意されたい。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」所収のものとは、「殘る」のひらがな表記で相違する。
しかし、慄っとするほど美事な彼の死のシルエットである。大正十四年の、
土雛や鼻の先だけ暮れ殘る
の改案故に、この句を諧謔味に富んだ芥川の軽みの句境と解する向きには全く私は組しない。
――バッハ弾きの名手グレン・グールドは恐るべき怪演にして快演の「ゴルトベルグ変奏曲」で華々しく実質的にデビューし、その同じ「ゴルトベルグ変奏曲」の新録音演奏を以ってその最期を閉じた――
――芥川龍之介も漱石激賞の実質的なデビュー作「鼻」に始まり、その円環をやはり、この「鼻」の句で閉じた――
のであった。
それはとりもなおさず、
――自嘲的諧謔であると同時に――自己同一性証明(raison d'être)への確信犯としての覚悟の一句であった――
――ヴィトゲンシュタインが言った如く――我々は語り得ぬものについて、沈黙せねばならない――のである――
*
Ⅴ
「六時に奧さんが氣づいて、下島さんがとんできて、……」同じく宮坂年譜によれば午前六時頃、『文が異常に気付き、すぐに下島勲、小穴隆一に知らせたが、』午前七時過ぎ、『死亡が確認され』た(死亡診断書は下島が作製)。『小穴はデスマスクを描いた』(最初に掲げた本書のカバー画にあるもの)。午後九時、『親族の反対もあったが、久米正雄の説得により』、自宅近くの貸し席「竹むら」で「或舊友に送る手記」(リンク先は私の古い電子テクスト)が『久米から発表され、自殺が公表され』た。この親族の躊躇は芥川龍之介の遺書の冒頭によるもの。私の『 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』を参照されたい。
「私には醫者の知識はない。しかし、私はなぜかⅣ・四時の彼を感じる」非常に凝った謂い方であるが、判りにくい。要するに、「私」小穴隆一「には醫者の知識はない」。ないが「しかし、私は」前条「Ⅳ」で書いたように、『一時半に伯母さんに「オヤスミ」を言つて』、それから二時間半も経った後の午前「四時の」「芥川龍之介」の末期の意識、否、存在を体で感じることが出来るのである(その時の直前か或はその直後に多量の睡眠薬や毒物を既に服用した場合、医学的に意識があるとかないとかといった「醫者の知識は」「私には」「ない」というのである)というのである。本篇の標題「Ⅳ」は取りも直さず「午前四時に芥川龍之介の最期の意識」の謂いなのである。]
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