小穴隆一 「二つの繪」(20) 「女人たち」
女人たち
芥川は六月の二十五日には「晩飯を食ひにゆかうや、」といつて、まだ晝をすませて間もないときに、僕を下宿から伴れだし、谷中の墓詣りをすませ、(芥川の實家新原家の墓)その足で淺草の春日にいつて小かめに別れをつげてゐる。芥川はその日、小かめに別れをつげてしまふまでは全く僕と口をきかなかつた。もつとも、僕のはうもいつもとはちがつた芥川の顏つきをみてて口をきかずにゐたのだが、小かめに別れをつげてしまふまでに、芥川が口をきいたといへば、氷川神社のところで「久保田万太郎」と顎で久保田の家を教へ、谷中の基地のまん中の通りにでるその角の墓の低い圍ひの鎖り? を、すばやくひよいと跨いで墓石の橫から正面へ、さうしてそのまま左から石のまはりをぐるつとまはつてまた正面に向つて立つてて、今度はぴよこんとお時儀をしてから僕をふりかへり「僕の家の墓」と教へたときの、二度ともせかせかとして言つてゐたそれだけのことである。僕がなんだかけふは步かせるなと思つてゐると、淺草にでて名前だけは聞いてゐた春日にはいつた。
[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年六月二十五日土曜。]
芥川はつる助(女將の藝者のときの名、)に、「小かめに出の着物のでなくともいいすぐ」と言つて飯をたのんだ。(まだ夕飯にははやい時刻でなにを食べたのか記憶はない。)飯を食べかけた頃かに小かめがきて茶を貰つた覺えはあるが、食べをはるとすぐ僕らは小かめといつしよにおもてにでてしまつた。春日から十二階のところまで步いて(まだ十二階がとり片づけられてゐなかつた)そこで右左りに、小かめとは別れたのだが、大柄の小かめと芥川が寄添つて步きながら話をしてゐるのを、うしろからみてゐるとなにか兄と妹の親しさといつたものにみえてゐて似合だと思つた。
つる助は芥川が僕を紹介すると、「へえ、これがいい男?」といつて僕の顏をみては、「へえ、」をばかり繰返してゐた。宇野の名も言つてゐたから、芥川と宇野がなにかつる助に冗談を言つてゐたことがあるのだらう。つる助のほうはいい男を美男と考へこんでたとみえるのだが、芥川のはうはつる助にただ「うむ――」と言つてるだけであつた。
[やぶちゃん注:宇野浩二の「芥川龍之介 上巻」には待合「春日」のことは出てくるが、「つる助」(鶴助)のことは出ない(リンク先は私の注附き電子テクスト)。]
小かめに別れてもまだ日は暮れのこり、人の別れといふものをみてゐていささか感慨にしづんでゐると、芥川は、
「あの爪を見たか?」
と言つた。磨きのかかつた冷たい黑色の魅力――
「爪いろ?」「見た、」
と僕は答へた。すると芥川はたちまち能辯に小かめが母親三代の藝妓であること、それによる氣質、顏つき、皮膚のいろなどをいつて、小かめなどは江戸の名殘りを傳へた最も藝者らしい藝者だとタクシーを拾ふ間言つてゐた。
小かめは告別式のとき谷中にきたがちよつと人々の目をそばたたせた立派な女であつた。
僕に小かめを見せる前、ホテル事件の後いくらもたたないときに、少し步かうと芥川は僕を誘ひだして、「もうこれで自分の知つてゐる女の、ひととほりは君にも紹介してしまつたし、もう言つておくこともないし、すると……」
と、片山さん、ささき・ふさ、(ふさ子さんの養父は自殺した人のやうに聞いてゐた。佐多稻子は自殺しようとした。芥川はさういふ人達には自分の氣持がわかつて貰へると思つたのか? せい子、小町園のおかみさんといつたやうな芥川のいふ賢い女人の名をあげてゐた。
[やぶちゃん注:「ささき・ふさ」「ふさ子さんの養父は自殺した」既注であるが、「ささき・ふさ」は佐佐木茂索の妻で作家であった佐佐木(旧姓・大橋)房子のペン・ネーム。「養父」とあるのは「實父」の誤りである(二〇〇三年翰林書房刊・関口安義編「芥川龍之介新辞典」に拠る)。佐佐木茂索とは大正十四(一九二五)年三月に芥川龍之介を媒酌人として結婚したが、翌年一月に房子の実父が自殺している。この時、芥川龍之介は一月一五日附山本有三宛の書簡で(旧全集書簡番号一四二三)、『今日夕刊でにて大橋さんの變死を知り、なぜ僕の關係する緣談はかう不幸ばかり起るかと思つて大いに神經衰弱を增進した』と記している。
「佐多稻子」(明治三七(一九〇四)年~平成一〇(一九九八)年:本名は佐多イネ)。長崎市生まれ。複雑で貧困な家庭に生まれ、小学校修了前に一家で上京、稲子は神田のキャラメル工場に勤務した(この時の経験が後、昭和三(一九二八)年発表の「キャラメル工場から」に纏められて彼女の出世作となった)。後、上野不忍池の料理屋「清凌亭」の女中になったが、この時、芥川龍之介や菊池寛など著名な作家たちと知り合いになった(当時は田島姓)。参照したウィキの「佐多稲子」によれば、その後、『丸善の店員になり、資産家の息子である慶應大学の学生と結婚するが、夫の親に反対され、二人で自殺を図る。未遂で終わったが』、その後、『離婚し、夫との子を生んで一人で育て』、『最初の結婚に失敗したあと、東京本郷のカフェーにつとめ、雑誌『驢馬』同人の、中野重治・堀辰雄たちと知り合い、創作活動をはじめ』、大正一五(一九二六)年に『驢馬』同人の一人で『貯金局に勤めていた窪川鶴次郎と結婚』した、とある(窪川とは戦後に離婚し、それ以後、筆名を「佐多稲子」と名乗った)。龍之介は死の三日前の昭和二(一九五七)年七月二十一二位に彼女と面会している。宮坂年譜より引く。同日『夜、偶然近くに住んでいることを知り、堀辰雄を通して面会を申し入れていた』(芥川龍之介が、である)『佐多稲子が、窪川鶴次郎とともに来訪し、七年ぶりに再会する。自殺未遂の経験を持つ佐多に、自殺について詳しく尋ねた』とある。前掲の「芥川龍之介新辞典」の「佐多稲子」の項によれば、この時龍之介は稲子に文学の話ではなく、専ら彼女の自殺経験について、「何を飲みましたか」「また死にたいとは思いませんか」とい意外にして奇体な質問を受けたとあり、『後に彼女は「芥川さんは、自殺をし損じた人間の顔も、見ておこうとされたようにおもう」』(「年譜の行間」昭和五八(一九八三)年中央公論社刊)『と記している』とある。
「せい子」谷崎潤一郎の先妻千代夫人の妹小林勢以子(明治三二(一九〇二)年~平成八(一九九六)年)のこと。後に映画女優となり、芸名を「葉山三千子」と称した。谷崎の「痴人の愛」の小悪魔的ヒロイン・ナオミのモデルとされる。ここで芥川龍之介が彼女の名を「賢い女」の一人として挙げたのは事実であろうが、彼女と龍之介のゴシップを未だに云々する記載を見受けるが、私はそれは全くなかったと考えている。
「小町園のおかみさん」野々口豊。以前、この自死の年の前年から年初にかけての「小町園」への〈プチ家出〉についての注で述べた通り、彼女は明らかに芥川龍之介の秘かな愛人(不倫関係)の一人であった。]
僕は手のつけられない病人、芥川の腦神經は棕櫚の葉つぱの裂けたやうなものだと思ひながら、聞いてゐたが、支那旅行の中途上海で風邪で入院してゐて譫語に「おつかさん。」と言つて看護婦に笑はれた芥川に母親があり、妹があつたのならば、と僕は今日でも思つてゐる。
[やぶちゃん注:「譫語」「うはごと」。]
芥川が僕に芥川の言ふ賢い女人たちの名をあげてゐるので、僕は麻素子さん以外のまたほかの女人たちに縋らうとする芥川の氣持を感じた。さうして芥川は依然として片山さんを第一に頭のなかにいれてゐると見てゐた。片山さん、またはその他の女人たちのだれにもせよ、ホテルの繰返しをされるやうでは、芥川のためにも、僕自身もたまらんと思つたので、
「相談するなら小町園のおかみさんがいい。小町園のおかみさんなら大丈夫後日のまちがひもないし、ことによるとあの人ならいい智惠があるかも知れない、」と言ふと、
「ほんとに君もさう思ふかね、」
と言ふので、
「ほんたうだよ。ほかの人ではだめだよ。」
と言つたら、
「ほんとに君もさう思ふのかえ、」と急ににこにこして僕の顏をみてた芥川は、芥川を知らない人からみれば全くもつて糞味噌な芥川であつたらう。
芥川は汽車に乘つて(湘南電車といふものはまだなかつた)鎌倉の小町園のおかみさんに會ひにいつてゐる。おかみさんも突然のことで驚いたのは事實であらうが、困つたといふより仕方のない困つた芥川の話をおかみさんは笑つてもゐなかつたやうであつた。落ちこまず落ちついた注意を芥川の身に配つたことも疑へない。しかし、一と月、二た月の間に芥川は既に死體となつてしまつてゐた。
[やぶちゃん注:小穴隆一はちゃんとした時系列で叙述することが出来ないタイプの人間である。冒頭の昭和二(一九二七)年六月二十五日からなら、まさに自死の「一と月」前であるが、この日以降、芥川龍之介が「小町園」へ出向いた痕跡はない。実際、激しい下痢や睡眠薬の多量服用による身体上の不具合で行こうにも行けなかったと私は思う。但し、自死の二ヶ月前に遡った謂いならば、あり得る。実際、宮坂年譜を見ると、この六月二十五日の十日前の六月十五日には鎌倉に住んでいた佐佐木茂索を訪ねている。]
昔、僕のところでジュオルジュ・リヴヰエールのルノワール・ヱ・セザミーの中の SUR LA TERRASSE をみてゐて、「僕はかういふ顏の婦人が好きなのだ。この本が古本屋にあつたら是非買つておいておくれ、」と言つてゐた頃の芥川はよかつた。芥川はまだ死ぬ話などをもちださなかつたから――
[やぶちゃん注:「ジュオルジュ・リヴヰエール」ジョルジュ・リヴィエール(Georges Rivière 一八五五年~一九四三年)はフランスの美術批評家。ルノワールとは親友で、印象派を擁護した。
「ルノワール・ヱ・セザミー」リヴィエールのルノワール及び印象派論“Renoir et ses amis”(「ルノワールと彼の友だち」。パリ・一九二一年刊)。
「SUR LA TERRASSE」ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 一八四一年~一九一九年)の一八八一年の作「テラスにて」。
以上は仏語版ウィキ「Pierre-Auguste Renoir」の画像。]
芥川は精力絶倫ではなかつたか? 三宅やす子、九條武子と芥川との關係は? といふことを昔、僕は人に聞かれたものであるが、いづれも僕と芥川との間になにも話のなかつたことなので、なにも知らない。
[やぶちゃん注:「三宅やす子」(明治二三(一八九〇)年~昭和七(一九三二)年)は作家・評論家。京都市生まれ。京都師範学校校長加藤正矩の娘。本名は安子。お茶の水高等女学校卒業。夏目漱石・小宮豊隆に師事し、昆虫学者三宅恒方と結婚、大正一〇(一九二一)年の夫の逝去後に文筆活動に入り、大正一二(一九二三)年に雑誌『ウーマン・カレント』を創刊した。宇野千代と親しかった。以上はウィキの「三宅やす子」に拠る。芥川龍之介の女性関係に就いて、私はかなり永く追跡してきているが、彼女は私の俎上にさえ上ったことがない。
「九條武子」(明治二〇(一八八七)年~昭和三(一九二八)年)は教育者で歌人。才色兼備として持て囃され、柳原白蓮(次注参照)・江木欣々(えぎきんきん:芸妓)とともに「大正三美人」と称された。仏教系の京都女子専門学校(現在の京都女子学園、京都女子大学)の創立者としても知られる。芥川龍之介より五つ年上。彼女と龍之介との関係を噂した記載を読んだことはあるが、流言飛語の類いとして無視してよい。]
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