小穴隆一「二つの繪」(52) 『「藪の中」について』
「藪の中」について
昭和二年九月號の文藝春秋、芥川龍之介追悼號に、内田魯庵さんの「れげんだ・おうれあ」といふ、芥川の奇才を後世に傳へる話が掲載されてゐるが、昭和二年九月號の文藝春秋は、今日手にはいりにくいであらう。
[やぶちゃん注:翰林書房の「芥川龍之介新辞典」の「奉教人の死」の項で当該記事を挙げ、内田魯庵(慶応四(一八六八)年~昭和四(一九二九)年)はそこで、
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惡戲に眞先驅けに一敗陷められた道化役の一人
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(恣意的に正字化した)と自身を揶揄しているとあり、芥川龍之介は大正一五(一五二六)年一月発行の『文章往來』誌に載せた「風變りな作品に就いて」で(リンク先は私の電子テクスト)、
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「奉教人の死」の方は、日本の聖教徒の逸事を仕組んだものであるが、全然自分の想像の作品である。「きりしとほろ上人傳」の方は、セント・クリストフの伝記を材料に取入れて作つたものである。
書き上げてから、讀み返して見て、出來不出來から云へば、「きりしとほろ上人傳」の方が、いいと思ふ。
『奉教人の死』を發表した時には面白い話があつた。あれを發表したところ、隨分いろいろいろな批評をかいた手紙が舞ひ込んで來た。中には、その種本にした、切支丹宗徒の手になつた、ほんものゝ原本を藏してゐると感違ひをした人が、五百圓の手附金を送つて、買入れ方を申込んだ人があつた。氣毒でもあつたが可笑しくもあつた。
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などと書き、また、大正七(一九一八)年九月二十二日附小島政二郎宛書簡(旧全集書簡番号四四九)の中でも、
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奉教人の死の「二」はね内田魯庵氏が手紙をくれたのは久米から御聞きでせう所が今日東京にゐると東洋精藝株式會社とかの社長さんが二百円か三百円で讓つてくれつて來たには驚きました隨分氣の早い人がゐるものですね出たらめだつてつたら呆れて歸りました
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などとも書いており、当時、世間でも「芥川僞書僞作事件」(『時事新報』大正七年十月二日附夕刊)「芥川氏の惡戲」(『大阪毎日新聞』同年同月三日附)などと書き立てられたのであるが、現在、実は、その完全デッチアゲという謂い自体が、これまた、嘘であったことは周知の事実である。私はずっと以前、その典拠となった
『斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人傳」より「聖マリナ」』
を電子化しており、「奉教人の死」のテクストも、
と取り揃えている(それほど私は同作を偏愛している)。]
芥川はでつちあげたでたらめの切支丹版でお歷々の人達を迷はした愉快を、微笑をもつて私に語つた。英雄人を欺くかと答へたら、鸚鵡がへしに、英雄人を欺くかといつて笑つてゐた。私まで愉快になつてゐたものである。
(内田さんにだした芥川の返書があるであらうと、書翰集を調べたら、殘念だが、内田さん宛てのものは一遍もみあたらない。)
[やぶちゃん注:旧全集最終版にはやはり一通もなく、所持しないが、コピーで所持する新全集人名解説索引から見ても、これは現行の新全集でも同じであると推定される。]
芥川が生きてゐて、英雄人を欺くかと笑へるうちはよかつたが、死後にその生前に貰つてゐた、新羅山人題畫詩集と甌香館集(甌香館集は惲南由の詩集、掃葉山房出版のもの)をひもどいてゐて、甌香館集のなかの補遺畫跋のなかに、記秋山圖始末があるのを發見して、「秋山圖」の出處を知つたときには、芥川のやうな學問のある人に死なれてしまつたことが悲しくなつてしまつた。私は學校に行つてゐない。學問はしてゐない。私は、私の周圍には、この南田の記秋山圖始末を簡單にすらすら讀んでくれる人が、もうでてはこないであらうと思つたものだ。讀者の幾人かは、支那歴代の詩を直接には讀めないので、佐藤さんの譯詩によつて、その妙を知るのであらうが、私は讀めない南田の記秋山圖始末を、芥川の「秋山圖」で説明して貰つてゐる始末だ。
[やぶちゃん注:「新羅山人題畫詩集と甌香館集」既出既注。「鬼趣圖」の本文と私の注を参照されたい。なお、この「秋山圖」(大正一〇(一九二一)年一月『改造』初出)が「甌香館集」の「甌香館畫跋」(一般には「おうこうかんがばう」と読んでいるようである)の中の「記秋山圖始末」(秋山圖が始末を記す)によるものであることを最初に指摘したのは中野重治(昭和二三(一九四八)年四月『四季』誌上に発表した「つまらぬ話」)で、中野はそこで「秋山圖」をただの翻訳に過ぎないと決めつけている。しかし私はそうは思わない。芸術作品とその鑑賞者の感動という時空間を解剖しようとした「秋山圖」は私はすこぶる現代的な問題を我々につきつけていると思う。あれは優れたインスパイア作品である。「奉教人の死」と同様に、である。]
賣れるとみえて、出版界が不況になつてから、あちこちから芥川本が賣出されてゐる。芥川は小説にされ、その作品の「羅生門」(實は藪の中)は映畫にもなつた。私は廣津和郎さんの「あの時代」(群像新年號)「彼女」(小説新潮三月號)を讀んでゐる。どちらも氣力がみちてゐて、芥川をくもりなく寫してゐるのはこころよかつた。廉津さんのそれらが發表されてゐた當時、用があつて時どき瀧井孝作君が家に立寄つてゐたので、瀧井君とのあひだがらから、廣津さんのその小説にからまつて一寸芥川の話もでて「彼女」について、だが皮肉だねえ、内田巖のさしゑは廣津和郎に似てゐるが、立つてゐる女の背景の店屋に、本人が知つててしたことかどうか女の名が書いてあるだらう、といつたら、瀧井君が、いや、知つてゐるだらうといつてたことやら、また、新潮十月號に芥川龍之介傳を書くといはれて村松さんの來訪があつたなどで、芥川を想ふことも多かつたせゐか、週刊朝日の新映畫羅生門の紹介を讀んでゐて、(同誌九月十七日號の新映書評ではない。)「藪の中」は芥川みづから彼自身のこころの姿を寫したものだといふ斷定が口にでた。芥川が死んでもう二十四年目の今日になつて、やうやく私はそれに氣がついたらしい。
[やぶちゃん注:「藪の中」大正一一(一九二二)年一月一日発行の雑誌『新潮』初出。私は高校教師時代、本作の授業を特異点としてきた。古い私の本文電子テクストはこちらにあり、その授業案『「藪の中」殺人事件公判記録』も公開している。私の教え子には懐かしいであろう。
「羅生門」黒澤明監督の大映京都撮影所製作の大映映画のそれは昭和二五(一九五〇)年八月二十六日に公開されている。
「あの時代」正確には広津和郎(明治二四(一八九一)年~昭和四三(一九六八)年:芥川龍之介より一つ年上)のそれは同じく昭和二十五年の一月号と二月号『群像』に連載されたもので、芥川龍之介と宇野浩二の交流を主軸とした実名実録物とし読めない小説である。
「彼女」同年三月号の『小説新潮』に掲載された小説。私は未読。
「内田巖」(いわお 明治三三(一九〇〇)年~昭和二八(一九五三)年)は洋画家。偶然であるが、彼は先に出た内田魯庵の長男である。
「本人が知つててしたことかどうか女の名が書いてある」確認出来ないが、秀しげ子の「しげ」か?
「村松さん」小説家村松梢風(明治二二(一八八九)年~昭和三六(一九六一)年:本名・村松義一(ぎいち))であろう。彼は昭和二十五年十月号『新潮』に「芥川竜之介―近代作家伝―2―」という作品を発表している。]
「藪の中」(三十歳、大正十年十二月作、翌十一年一月新潮に發表)は、芥川みづからこころの姿を寫したものだといふ今日の私の説をなす誘因の一つとして、私には廣津さんの「彼女」は大きく強かつた。私は大正十年の晩秋、湯河原中西屋での夜のこと、同十二年の夏、鎌倉平野屋でのこと、同十五年四月十五日、ことを七年前の情事に歸して自殺の決意をのべてから昭和二年の死にいたるまでのこと、それよりも、當時の彼にそのやうな苦悶があらうとは知らず、藪の中がつくられる誘因を、なにも知らずに彼に與へてゐた私自身の姿を顧みてゐるのである。「藪の中」は、まさしくその頃の芥川のこころのなかを、さりげなくひとごとのやうに描いてゐる悲痛な作品と思はれる。
[やぶちゃん注:「藪の中」は先にも述べ、以下でも記される通り、明らかに、芥川龍之介が不倫関係にあった秀しげ子を、知らぬうちに弟子格(彼は弟子だとは思っていなかったと思うが)南部修太郎と共有していた事実に激しい嫌悪と衝撃を受けたことを創作動機の大きな一つとしていたことは、最早、間違いない事実である。]
大正十年の晩秋、湯河原中西屋での夜のことといふのは、(私は昭和十五年に中央公論社から「鯨のお詣り」といふ隨筆集をだして貰つたが、これはその以前に中央公論に掲載した「二つの繪」を主としてこしらへたものである。「二つの繪」は芥川を語る氣のふさがるものであり、舌たらずのものであるから、本は手もとにあつても、今日にいたるまで改めて讀みなほしてみることはなかつた。ところがいま目をとほしてみて驚いたことには、八二頁六行目に大正十四年十月四日となつてゐる。十年が正確なので大事であるからここに訂正をしておく。なほ、その時の紀行はすぐに、藤森淳三といふ人が編輯をしてゐた中央美術に掲載された。自他憂鬱になるものではないので、まだほかのものと手もとにありながら、どうしてこれを「鯨のお詣り」のときにださなかつたのかと思つてゐる。)芥川に招ばれて、私と小澤碧童(故人)とは、十年十月四日五日六日の三日三晩、首相加藤友三郎が泊つてゐたといふ部屋をあてがはれてゐたのであるが、夜のひと時はこの部屋に、彼も南部修太郎(故人)も集つて、互ひの歌や俳句を披露しあつてゐた。芥川に、山に雲下りゐ赤らみ垂るる柿の葉などの句があり、南部には、落葉ふみやがて出でたる川べりの蕗の花白き秋の午後かななどの歌があつた。芥川の句は當時、折柴瀧井孝作の影響から碧童の影響に轉じつつあつた。
[やぶちゃん注:「八二頁六行目に大正十四年十月四日となつてゐる。十年が正確なので大事であるからここに訂正をしておく」単行本「鯨のお詣り」の方の「二つの繪」パートの冒頭に配された「二つの繪」の一節。本書でも何度も繰り返し書かれてある、湯河原中西屋旅館に招かれた日時である。]
最後の日の晩にちがひない。自分の仕事の價値について後世を待つとか待たぬとかで、彼と碧童との間の議論になつた。四人のうち酒飮は碧童だけで、碧童を碧童としてただ飮ませておけばよいものを、芥川は彼に似げなくからむやうに、後世などは信じないといひ張つてゐた。南部も微笑をふくんでこれまた後世を信じないといつてゐたが、傍觀してゐて、碧童がやりこめられてゐるのもをかしかつたが、南部修太郎までも後世を信じないと力むでゐるのがをかしかつた。座がしらけていらだたしさうな芥川が、無言で謎のやうに私に畫いてみせてゐた繪が嘗て私が「二つの繪」を畫いたときに挿んだ、三日月をはねとばしさうに荒狂つてゐる海の岩の上に膝を抱へてかがまつてゐる、巨大な耳を張つてうちしをれてゐる、髮のながい頭をたれてゐる怪物の繪である。芥川は三月渡支、八月田端に歸る。十月湯河原。私はその繪でなにかぼんやり彼にこころのうつたへがあることだけを感じてゐた。そのことである。後年、支那旅行中にも幾度か死をねがつてゐたといふ彼の告白がある。遺稿「或阿呆の一生」二十二を參照して頂きたい。幼少の時に母をなくしてゐる私には、その母よりも芥川のほうがなつかしい。「藪の中」は十年十二月に書かれてゐる。「藪の中」は、私が或雜誌で讀んだ、或國の王樣が自分の妃のうつくしさをいつて畫家に妃を畫かせる。王妃と畫家との間には情交が生じて、王妃が畫家に、王を殺すかお前が死ぬかどちらかをえらべと迫る話の筋を話したら、芥川にその雜誌をみたいといはれて、それを屆けたぢきあとにできたので、小説家といふものは巧いものだと、そんなことばかりで感心してゐた作品だ。(雜誌は「思想」であつたと思ひこんでゐたので、三十年前の「思想」を岩波書店の岡山君に調べて貰ふと、「思想」は大年十年の十月に創刊號がでて、十二月號までには三册、そのどれにもさういふ話は掲載されてはゐないといふ次第であつた。なほ、もし和辻哲郎さんが書いたものであつたとしたら、和辻さんに聞いてみようと中央公論社の南君はいつてゐた。)芥川が死んでから二十四年。死人に口なしである。讀者に、もう一度「或阿呆の一生」をひもどいて、その二十一に目をとどめて貰はなければならない。
[やぶちゃん注:『「或阿呆の一生」二十二』私の電子テクストから引く。
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二十二 或 畫 家
それは或雜誌の插し畫だつた。が、一羽の雄鷄の墨畫(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの畫家のことを尋ねたりした。
一週間ばかりたつた後(のち)、この畫家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの畫家の中に誰も知らない詩を發見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を發見した。
或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽ちこの畫家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂欝にするだけだつた。
「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」
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私は実は以前からこの一章に隠された謎に興味がある。芥川龍之介と小穴隆一は強い秘かな同性愛関係にあったのではないかという竹の根のように蔓延る神経症的とも言える疑惑である。それを素直に語ることが出来なかった小穴隆一に対して、私は強い怒りとともに、ある種の憐憫、否、羨望をさえ感ずるのである。
「或國の王樣が自分の妃のうつくしさをいつて畫家に妃を畫かせる。王妃と畫家との間には情交が生じて、王妃が畫家に、王を殺すかお前が死ぬかどちらかをえらべと迫る話」この小穴隆一が言っている話は、恐らく、「藪の中」の典拠の一つとされることがある、フランスの作家ピエール・ジュール・テオフィル・ゴティエ (Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年)は、一八四四年作の“Le Roi Candaule”(カンドール王)であるが、訳出者や掲載誌は不詳である。主人公はリュディア王国(紀元前七世紀から紀元前五四七年にアナトリア半島(現在のトルコ)リュディア地方を中心に栄えた国家)ヘラクレス朝最後の王カンダウレス。ウィキの「カンダウレス」によれば、彼は『ヘラクレスの子孫を名乗るヘラクレス朝最後の王で』、『王妃にそそのかされたメルムナデス朝の創始者ギュゲス』『により殺され、王位と妻を奪われた』とする。ヘロドトスの「歴史』によれば、『ギュゲスはカンダウレスの年下の友人であったという。自分の妻ニュッシア(別伝によればルド)の美しさを自慢するあまり、カンダウレスはギュゲスに妻の裸体を見させた。怒った妻はギュゲスに対し、自殺するか王を殺して王位と自分とを我が物とするかを迫ったという』。『別の伝説によれば、ギュゲスは自分の姿を見えなくさせる魔力を持つギュゲースの指輪を用いてカンダウレスを殺したという』。『この題材は近代の小説などに何度も取り上げられて』おり、ドイツの作家フリードリヒ・ヘッベル(Friedrich Hebbels 一八一三年~一八六三年)の戯曲「ギューゲスと彼の指輪」(Gyges und sein Ring 一八五四年)、ゴティエの本作、アンドレ・ジッドの同名作“Le Roi Candaule”(一九〇一年)、オーストリアの作曲家アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(Alexander von Zemlinsky 一八七一年~一九四二年)のオペラ「カンダウレス王」(Der König Kandaules 一九三五~一九三六年)があると記す。或いは小穴の語ったものは、ゴティエのものではなく、ヘッベルかジッドの孰れかの梗概だった可能性も視野に入れる必要があるかも知れぬ。
「岩波書店の岡山君」不詳。]
私は解説まがひのものを書いてゐて思ひだしたのである。
大正十五年に鵠沼で芥川は、「自分が死んだあと、よくせきのことがあつたら、これをあけてくれたまへ」といつて白封筒のものを渡したことがあつた。私は内をみたら或は彼に自殺を思ひとどまらせる手がかりでもあらうかと、芥川夫人に示してそれをひそかに開封してみた。するとなかみはただ、自分は南部修太郎と一人の女を自分自身では全くその事を知らずに共有してゐた。それを恥ぢて死ぬ。とだけのたつた數十字のものであつた。
(私にさういふものを渡してゐた彼に、彼の死後、私がなにか世間から困らされてはといふ懸念からのいたはりのこころづかひがあつたことを感じる。)なぜ、彼はその時にもう一人の名をも書けなかつたか。(「鯨のお詣り」一〇〇頁一〇一頁參照。廣津さんの「あの時代」參照。)
[やぶちゃん注:『「鯨のお詣り」一〇〇頁一〇一頁』同書「二つの繪」パートの「宇野浩二」の一節。ページを跨ってその封書の一節として『(南部修太郎と一人の女(ひと)Sを自分自身ではその事を知らずして××してゐた。それを恥ぢて自決をする)』と出るのを指す。言わずもがな、「もう一人の名」とはイニシャルにして伏せた秀しげ子を指す。
『廣津さんの「あの時代」參照』これは恐らく「あの時代」の「二」で精神変調の発作をきたした宇野が「私」(広津)にお題目のように繰り返し呟く、『K子は善人だ。S子は惡魔だ。いやS子は善人だ、K子は悪魔だ、いや、K子は善人だ。S子は悪魔だ――』のS子であろう。これもやはり秀しげ子であるが、精神異常下での宇野のそれは、大方の読者にはピンとこない。実は芥川龍之介は一時、異常なことに(龍之介が、である)宇野と秀しげ子との関係も猜疑していたことを知らないと、全く分らないと言ってよい(これが事実かどうかは判らぬが、小穴隆一自身が先の「宇野浩二」で述べており、ここで小穴はそれを踏まえてかく参考注を附しているとしか思えないのである)。]
私はいま小さい行李からまた一連の白封筒を發見した。なかみは赤門前の松屋の半きれの原稿用紙五枚のものである。私はこの白封筒が、どうしてまた私のところにあつたのかと、ふしぎに思つたほど驚いてゐるのである。
[やぶちゃん注:「赤門前の松屋」当時の本郷の赤門前にあった所謂「大学ノート」や原稿用紙を製造販売していた紙屋。芥川龍之介の遺書はこの松屋製である。『芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』の私の書誌注を参照のこと。]
私は忘れてゐたものを二十四年目にみた。私はここに彼のその全文を紹介することとし(某の一字だけ伏字)なほのこりの下書はひとまづ破棄しておくこととする。一つの藪の中をでて、また別の藪の中に人々を誘ふがためにこれを書いてゐるのでないから。
[やぶちゃん注:小穴隆一の厭らしさがまたまた出る。ここで小穴は以下とは別な「下書」の遺書が存在すると言っているのである(それは遂に公開されていない)。それは寧ろ、「一つの藪の中をでて、また別の藪の中に人々を誘ふがために」書いているとしか思えない厭らしさなのである。
「某の一字だけ伏字」言わずもがな、「某」は「秀」。]
僕等人間は一事件の爲に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の總決算の爲に自殺するのである。しかしその中でも大事件だつたのは僕が二十九歳の時に某夫人と罪を犯したことである。僕は罪を犯かしたことに良心の呵責は感じてゐない。唯相手を選ばなかつた爲に(某夫人の利己主義や動物的本能は實に甚しいものである。)僕の生存に不利を生じたことを少からず後悔してゐる。なほ又僕と戀愛關係に落ちた女性は某夫人ばかりではない。しかし僕は三十歳以後に新たに情人をつくつたことはなかつた。これも道德的につくらなかつたのではない。唯情人をつくることの利害を計算した爲である。(しかし戀愛を感じなかつた譯ではない。僕はその時に「越し人」「相聞」等の抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。)僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。(と言ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである)僕はこの養父母に對する「孝行に似たものも」後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。今、僕が自殺するのも一生に一度の我儘かも知れない。僕もあらゆる靑年のやうにいろいろ夢を見たことがあつた。けれども今になつて見ると、畢竟氣違の子だつたのであらう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌意を感じてゐる。
芥川龍之介
P・S・僕は支那へ旅行するのを機會にやつと夫人の手を脱した。(僕は洛陽の客棧にストリンドベリイの「痴人の懺悔」を讀み、彼も亦僕のやうに情人に噓を書いてゐるのを知り、苦笑したことを覺えてゐる。)その後は一指も觸れたことはない。が、執拗に追ひかけられるのは常に迷惑を感じてゐた。僕は僕を愛しても、僕を苦しめなかつた女神たちに(但しこの「たち」は二人以上の意である。僕はそれほどドン・ジュアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる。
[やぶちゃん注:『芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』の小穴隆一遺書と比較して戴ければ、「某」と表記上の一部の字体の違いを除けば、同一のものであろうことがお分かりになられるであろう。よろしいか? 小穴隆一という芥川龍之介の盟友が救いようものなく厭らしく哀しいのは、これとは別な内容を持った遺書下書きを小穴は持っていたが、それは「ひとまづ破棄しておくこととする」なんどと言っている点にこそあるのである。「ひとまづ破棄」などという持って回った言いまわしがそもそもおかしいではないか?! 「破棄」したら、それはもう永遠に「破棄」であり、「ひとまづ」なんぞではないのだ! 事実、それを小穴隆一は結局はあの世へと持ち去ってしまったのだ! これこそ、今一つの永遠の「藪の中」そのものではないか!!!]
附 言
映畫羅生門についても書かうと思つてはゐた。この八月二十一日、明日は野尻に立つ支度をしてゐたら、大映宣傳部の人見氏の來訪があつた。人見氏は羅生門が完成したので、二十四日に試寫があり、試寫のあとに座談會をやつて、その座談會の記事を二十五日の讀賣に掲載して、二十六日一般公開といふことになつてゐるから出席してくれろといふ活動屋さんらしい用件できたのだ。出席者の人選は讀賣とかで、顏ぶれはお年寄では(これは向うがいふのである)佐佐木茂索に私、若い人では井上友一郎、丹羽文雄(もう一人は忘れた)の五人といふことであつたが、私はその座談會のために、坪田讓治との約束を破つて野尻行をのばすこともできないので人見氏に、出席はできないが黑澤氏に、もし黑澤氏が、藪の中は、芥川龍之介みづからがこころの姿を、人ごとのやうに寫してゐた作品だといふことを知つてゐたら、映畫に扱ふ場合にも、また別な角度があつたらうし、また、それを知つてゐるとゐないでは、大變なちがひであることを傳へておいてくれとたのんだ。顏見知りである井上君にも、「藪の中」についての私の考へを、直接にのべられぬのは殘念に思つてゐるといつてゐたと、傳へてくれるやうたのんでおいた。
野尻から歸つた私は早速映畫の羅生門をみた。私は強引にも「藪の中」と取組んだ黑澤氏の勇氣に一應は敬服してゐる。しかし私の殘念さには依然として變りはない。
私は黑澤氏の力でもう一度「藪の中」と取組んで貰ひたいのである。 (昭和二十五年)
[やぶちゃん注:「大映宣傳部の人見氏」ここに大映本社宣伝部課長とある人見武幸なる人物であろうか(リンク先の対談は昭和三七(一九六二)年のもの)。
「井上友一郎」(ともいちろう 明治四二(一九〇九)年~平成九(一九九七)年)は作家。大阪市生まれで本名は友一。早稲田大学仏文科卒業後、『都新聞』記者となり、昭和一四(一九三九)年に『文学者』に「残夢」を発表して作家生活に入る。風俗小説作家として活躍、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、小説「絶壁」(昭和二四(一九四九)年改造社刊)のモデル問題(宇野千代・北原武夫夫妻を無断でモデルとしたとされた)で抗議を受け、一九七〇年代には既に忘れられた作家となった(以上はウィキの「井上友一郎」に拠った)。]
(私のこの「藪の中について」を讀んで瀧井君は、二十六年一月號の改造に「純潔」を載せた。この瀧井君の「藪の中」についての話で、私は知らなかつたことを教へて貰つた。)
[やぶちゃん注:私は瀧井孝作の「純潔」を読んでいないので、小穴隆一の言う「私は知らなかつたことを教へて貰つた」が何を指すのか、判らぬ。識者の御教授を頂けると助かる。]