柴田宵曲 妖異博物館 「狐と魚」
狐と魚
朧月狐に魚を取られけり 子規
この十七字だけでは如何なる場合を詠んだものか判然せぬが、釣人が狐に魚を取られるといふのは、かなり類の多い話題である。「譚海」に出てゐるのは、十萬坪の汐入りの川で魚を釣つた人が、舟で歸つて來ると、橋の上から奴(やつこ)が小便をしかけようとする。舟を岸に著けて追駈けようとすれば、もう姿は見えぬが、次の橋にもまたその奴が立つてゐる。今度は逃さぬと迫駈けても、捕へ得ぬことは前と同じで、舟に戾つたら籃の中の魚が殘らずなくなつてゐた。これは狐に一杯食はされたので、當時の十萬坪のやうなところでは珍しからぬ話であつた。「耳囊」にあるのも江戸の事で、大久保原町に住む男が、目白下水神橋へ鰻の夜釣りに行く。畚(ふご)一杯になつたのを、連れの男がもつと釣りたいと云つて手間取るうちに、水神橋の上から投身しようとする女に逢ひ、委細を聞いて家まで迭り屆けることになる。これも狐の手で、二人の畚はすつかり空虛だつたといふのである。かういふ事實を考慮に入れて、もう一度「朧月」の句を讀み直すと、どうやら釣人が狐に致された場合になるらしい。
[やぶちゃん注:「朧月狐に魚を取られけり」子規の没した明治三五(一九〇二)年の句と思われる。
「譚海」のそれは「卷之九」にある「江戸十萬坪の狐釣の魚を取たりし事」。以下に引く。
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○江戸の十萬坪・六萬坪は鹽入(しほいり)の川多く、秋は日ごとに海より魚あまたのぼりくる故、釣人のたえずつどふ所なり。相(あひ)しれる人、同志の者と、一日かしこに行(ゆき)て日くらし、魚あまた釣えで[やぶちゃん注:「で」はママ。「て」の誤りであろう。]、今はとて舟に乘(のり)て歸路に趣(おもむき)しに、橋の下を過(すぐ)る時、橋の上に奴(やつこ)壹人ありて、船の中へ小便せんとせしかば、こはにくきやつこかなとて、舟を岸に付(つけ)て追(おひ)うたんとて、舟より上りて見れば奴見えず。扨船に乘て又次の橋下を過るに、先の奴又橋のうへに立(たて)り、すは又こゝに有(あり)、にくきやつかなと、舟を岸に着(つけ)たれば奴又見えず。又々ふしぎ成(なる)おもひをなし、舟に歸(かへり)て見れば、釣(つり)えたる籃(かご)の中の魚殘らずうせたり。これは狐の魚をとらんとて、かくはかりたる成(なる)べしと、みなあざみあへり。十萬坪のわたりも曠野(あらの)うち續(つづき)たる所にて、常に人(ひと)狐にまよはさるゝ事なり。釣人大かたは魚を狐にとらるゝ事といへり。ある人のいはく、釣たる魚につばきをはき懸置(かけおく)時は、狐にとらるゝことなしとなん。
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この「十萬坪・六萬坪」とは現在の東京湾の旧沿岸でも、最深部の最も古い干拓地の旧称である。
「耳囊」のそれは「耳囊 卷之九 狐に被欺(あざみかれ)て漁魚を失ふ事」。地名や語句はリンク細木の私の訳注版をどうぞ。]
倂しこれだけでは奇談と銘打つほどの事もない。「蕉齋筆記」の話はいささか常套を破つてゐるのみならず、赤穗義士に關連する點に別種の興味がある。淺野家改易の後、浪々の身となつた一人が、在方にゐる乳母を便り、暫く時節を待つて居つたが、この人大の釣り好きで、毎日釣竿を肩にして太公望をきめる。大概暮方には歸宅する例であつたのに、或日の事どうしたものか、いつまでたつても歸らぬ。乳母が心配して近所の者に賴み心當りを尋ねさせたが、一向わからず、そのうち明け方に漸く歸つて來た。いや、今日ほど釣りの面白かつたことはない、食ふほどに釣るほどに、この籠一杯になつた、あまり面白いので、夜の更けるのも知らずに釣つて居つたといふので、乳母がその籠を明けて見ると、魚は一尾もゐない。笹の葉ばかりである。これは狐が化かしたに相違ありません、もう釣りにおいでになるのは御無用になされませ、と止めたけれども、當人は平氣なもので、別に食事の足しにするわけでもなし、面白いから釣りに行くまでぢや、よしんば狐に化かされたにせよ、魚が釣れると思つて慰みになればいゝではないか、と云つて、次の日も例の如く出かける。ところが今度は夜に入つても歸らず、翌朝になつても消息不明であつた。愈々狐のために、淵川に流されておしまひになつたものであらうと殘念に思ひ、八方搜索させたが、遂に死骸も見付からなかつた。それから三十日ほどたつて、四十七士の一擧が傳はり、その人も中に加はつてゐた。乳母のところで釣三昧の日を送つたのは、固より韜晦のためであつたらうが、魚が澤山釣れたと云つて笹の葉の籠を提げて歸つたのも、消息不明になる前提だつたのかも知れぬ。赤穗義士の一人といふだけで、その名のわからぬのが遺憾である。
[やぶちゃん注:「蕉齋筆記」既出既注。儒者で安芸広島藩重臣に仕えた平賀蕉斎(延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)の随筆。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで当該部を視認出来る。]
報道機關の發達せぬ昔の事だから、義士の一擧が關西まで達するにも、或時間を要した筈であるが、こゝに一つの不思議といふべきは、京都の紫野の南に稻荷の小社があり、淺野内匠頭の造立にかゝるを以て、淺野稻荷と稱する。元祿十五年十二月十四日の夜半頃、この社の前に數百人も集まつて踊りを躍る聲が聞えた。時ならぬ時分の踊りなので、近所の町屋から境内に來て見ると、躍つてゐるのは人間ではない。數知れぬ多くの狐が、稻荷の社を取り𢌞して、前足二つを挑げ、後の二足を立てて、人のやうに躍り狂ふのである。奇怪な事ではあるが、その樣子を見るのに、悦び勇む體なので、これは淺野の本知を御返しなさるゝ事を告げるのか、凶事ではあるまいと話して居ると、果して二三日中に、十四日夜の一擧の事が傳はつた。狐は業通(ごふつう)を得たものであるから、ゐながらに千里外の事を知り、さてこそあのやうに躍つたものと人々はじめて合點した。この「雪窓夜話抄」の記載は、魚には何の關係もないけれど、赤穗義士に關する珍しい狐のエピソオドとして、前の話と共に掲げて置きたい。
[やぶちゃん注:以上の異事・奇聞集「雪窓夜話抄」の条は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。因みにどうも「雪窓夜話」(こちらを私は国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系」版で所持する)と「雪窓夜話抄」(大正四(一九一五)年刊因伯叢書所収)は同じ上野忠親(ただちか 貞享元(一六八四)年~宝暦五(一七五五)年:江戸中期の鳥取藩士)の書で、題名からは一見、正編完本とその抄録本のように見えながら、実は中身がかなり違う(後者の「雪窓夜話抄」の方に「雪窓夜話」にない話がごっそり含まれている)。私は書誌学的なそれをここで云々する気になれない(単に疲れたからである。遺憾乍ら「江戸怪異綺想文芸大系」版の解題はその違いを素人に分かるようには十全に説明しきれていない。また、今回、この注を附すために、それほど、この二つの驚くべき違いに翻弄されて半日以上の時間を食わされ、少々腹が立っているからでもある)。少なくともここに注するに辛気臭い細かな当該原典の学術的考証は不要と考え(「江戸怪異綺想文芸大系」版解題によれば、研究者の間でも、実はその全容さえ完全に把握されていないように読める)、これ以上は語らぬ。それを一般向けに語るべき義務はアカデミストにあり、せめてもそれを解り易くネット上に明らかにすべき責務が、彼らや所蔵する図書館(「雪窓夜話抄」鳥取県立図書館蔵)にはあると私は考えるものである。そもそもが、まさしく柴田自身が述べているように、『この「雪窓夜話抄」の記載は、魚には何の關係もない』わけで、標題の「狐と魚」にそぐわない。これを書くなら、それに相応しい題名にして欲しかった。最後には筆者柴田にまでむかっ腹が立ってきた。悪しからず!
「淺野稻荷」京都市山科区安朱堂ノ後町の瑞光院(大石内蔵助ら赤穂義士四十六名の遺髪が納められている)になら、浅野家の稲荷大明神を祀る浅野稲荷があるが、「紫野」(現在の京都市北区の船岡山の北方一帯)では位置が合わぬのでここではない。識者の御教授を乞う。
「元祿十五年十二月十四日」グレゴリオ暦一七〇三年一月三十日。言わずもがな、赤穂浪士討ち入りはこの日の深夜に決行された。
「業通」私はこんな言い方は聴いたことがないが、字面からは、妖獣としての禍々しい「業(ごう)」としての民俗的属性から得たと考えられた「神通力」の謂いか。]