小穴隆一 「二つの繪」(21) 「芥川夫人」
芥川夫人
秋の夕日を浴びながら海岸のはうに僕ら二人は步いてゐた。
「わたしははやくに父をなくしてゐたから、どんなのんだくれでもいい、お父さんがあつたはうがよいと思つてゐた、それだのにと言つて泣かれた時は僕は實際、……」
と、芥川は夫人が言つたそのことをいつて、「俺は實際女房にすまない。」「いくぢがないんだ。」とこみあげてしまつて路に立ちどまつたまま淚を拭いてゐた。どこまでも淋しい鵠沼の思出である。
芥川夫人は芥川の話では餘りに非のうちどころのない女、……芥川は「僕の女房は自分には過ぎた女房だ。」と口ぐせに言つてゐたが、「僕らには姉さん女房でなければいけない、」といふことも言つてゐた。夫人はその父を、芥川はその母を、二人とも幼い時になくしてゐる。
「姉さん女房でなくてはいけない、」これが存外芥川の天壽を全うし得なかつたことの一つになつてゐるのかも知れない。
めづらしく芥川夫婦といつしよに鵠沼から東京に出た時、晩飯を食べるのに新橋でおりた。驛前の薄暗い有樂軒? で大きいテーブルを挾んで僕らはならんだ。夫人が眠つてゐる也ちやんを抱いたまま椅子に腰をかけてゐる。僕はテーブルの上に也ちやんを寢かしておいたらどうと言つた。芥川は着てゐた外套を脱いで敷物のやうにした。也ちやんはその上にねんねこに包まれたまま眠りつづけてゐた。僕らの前に幾皿かの皿がならび、それを食べてゐる間、也ちやんは寢かされてゐた。僕はその日、藤澤で汽車を待つてゐる間、奧さんが茶店のほばかりを借りにはいつたときに、也ちやんを抱かされて大變嬉しかつた。僕は前々から重さうな也ちやんを一度抱いてみたかつたが、自分が義足だから落してはいけないと思つて默つてゐたところであつた。(これは鵠沼生活のなかでうれしかつたたつた一つのことかも知れない。)
[やぶちゃん注:芥川龍之介の三男也寸志の生年月日は大正一二(一九二三)年七月十二日で、これは小穴隆一転居後の鵠沼生活中のことであるから、大正一五(一九二六)年八月以降で満三歳である。
「ねんねこ」「ねんねこ半纏(ばんてん)」のこと。幼児を背負った上から羽織る広袖(ひろそで)の綿入れ半纏。「子守半纏」とも呼ぶ。]
帝國ホテルの事があつてから一度、芥川は夫人を連れて下宿にきて、「けふはなんだか女房が君にお詑びをしたいと言ふのできたのだ。」「君を疑つてゐてすまなかつたといふのだがね、」と少々てれた笑顏で言つた。(夫人の誤解といふのは、僕が芥川の「死ねる藥」の話相手をしてゐたことかも知れない、)
その日僕らは淺草に行つてジョン・バリモアの「我若し王者たりせば」を見た。芥川夫妻と三人で東京の街を步いたことははじめてであつた。バスター・キートンのものもあつて、キートンには芥川と僕も、夫人から貰つた板チョコをしやぶりながら、ほかの見物人といつしよになつて相當笑はされてゐた。文藝春秋に書いてゐた芥川の、「若し王者たりせば」はその日、歸宅後に書いてゐたものであらうか。
〔僕はこの映畫を見ながらヴィヨンの次第に大詩人になつた三百年の星霜を數へ、「蓋棺の後」などと言ふ言葉の怪しいことを考へずにはゐられなかつた。「蓋棺の後」に起るものは神化か獸化(?)かの外にある筈はない。しかし、何世紀かの流れ去つた後には、――その時にも香を焚かれるのは唯、「幸福なる少數」だけである。のみならずヴィヨンなどは一面には愛國者兼「民衆の味かた」兼模範的戀人として香を焚かれてゐるのではないか?〕
僕がここに芥川の「若し王者たりせば」を引用したのはほかでもない。「自分達二人が何か爭つたとする。あとで自分が惡かつたと思つて、詑びようとして二階から下におりてゆく。すると矢張り女房のはうも謝りにこようとして、廊下で鉢合せする。よくそんな事がある。」と芥川が言つてゐたそんな實例のやうなものの感じを、その日の芥川夫婦から受けてて、なほ「神化か獸化(?)か」の芥川を想ふからである。
[やぶちゃん注:ここに一部を引いているのは、昭和二(一九二七)年の自死の月である七月の一日に発行された『文藝春秋』に、『改造』と同じく「文藝的な、餘りに文藝的な」の題で掲載されたものの掉尾の一章『九 「若し王者たりせば」』のこと。これは後の龍之介の死後(同年十二月)に刊行された単行本『侏儒の言葉』で「續文藝的な、餘りに文藝的な」として所収されたものの最終章である。「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版)」を参照されたい。当該章全文を以下に引いておく。
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九 「若し王者たりせば」
「我若し王者たりせば」と云ふ映畫によれば、あらゆる犯罪に通じてゐた抒情詩人フランソア・ヴイヨンは立派な愛國者に變じてゐる。
それから又シヤロツト姫に對する純一無雜の戀人に變じてゐる。最後に市民の人氣を集めた所謂「民衆の味かた」になつてゐる。が、若しチヤプリンさへ非難してやまない今日のアメリカにヴイヨンを生じたとすれば、――そんなことは今更のやうに言はずとも善い。歷史上の人物はこの映畫の中のヴイヨンのやうに何度も轉身を重ねるのであらう。「我若し王者たりせば」は實にアメリカの生んだ映畫だつた。
僕はこの映畫を見ながら、ヴイヨンの次第に大詩人になつた三百年の星霜を數へ、「蓋棺の後」などと云ふ言葉の怪しいことを考へずにはゐられなかつた。「蓋棺の後」に起るものは神化か獸化(?)かの外にある筈はない。しかし何世紀かの流れ去つた後には、――その時にも香を焚かれるのは唯「幸福なる少數」だけである。のみならずヴイヨンなどは一面には愛國者兼「民衆の味方」兼模範的戀人として香を焚かれてゐるではないか?
しかし僕の感情は僕のかう考へるうちにもやはりはつきりと口を利いてゐる。――「ヴイヨンは兎に角大詩人だつた。」
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「ジョン・バリモア」(John Barrymore 本名 John Sidney Blyth 一八八二年~一九四二年)はアメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア出身の、サイレント期から活躍した映画俳優。
「我若し王者たりせば」アラン・クロスランド(Alan Crosland)監督の一九二七年の映画“The
Beloved Rogue”(「愛すべき悪党」)で主人公で実在した十五世紀中葉のフランスのピカレスク詩人フランソワ・ヴィヨン(François Villon)をジョン・バリモアが演じた。]
芥川は「君もさうだらうが、僕なぞのやうな人間は姉さん女房を持たなかつたのが不幸だ、」といつたことも言つていた。
「女房の弟はね、僕のところへきて、女房の前で僕のものを讀みながら、ここがいいところだ、と聲をだして讀んで女房に教へてゐるんで困るんだ。」と八洲(やしま)さんのことを話してゐた時の(大正十年)芥川には、ほのぼのとした暖かさに包まれてゐる芥川を感じた。
芥川は八洲さんの學校のできが非常にいいと言つてゐたが、八洲さんは胸を患つて大學にはいつた年から寢こんでしまつた。僕は八洲さんが健在であつたならばと、芥川夫人のために惜んでゐる。
[やぶちゃん注:「女房の弟」「八洲(やしま)さん」既注であるが、再掲しておくと、文の実弟塚本八洲(明治三六(一九〇三)年~昭和一九(一九四四)年)。長崎県生まれ。一高に入学し、将来を期待されたが、結核を患い、没年まで闘病生活を送った。本書刊行時(昭和三一(一九五六)年)には既に鬼籍に入っていた。]
「家中の者が朝めしをたべてゐた時に、君の足を切る知らせを聞いた。さうしたら女房が箸をおいて、いきなりわつと泣きだしたものだから、皆がいつしよにおいおい泣きだしたものだよ。」
と芥川は僕に言つてゐた。僕はそんな話も憶えてゐる。
[やぶちゃん注:小穴隆一は脱疽のために大正一一(一九二二)年十二月十八日に順天堂病院で右足第四指を切断する手術を受けたが、既に手遅れで、翌年一月四日に同病院で再手術を行い、右足首を切断した。ここは後者であるから、恐らく、この報知は(正月の雰囲気はしないし、四日の術式というのは、三が日空けで予定されていたもの(既に述べたが、事実、両手術ともに芥川龍之介が立ち会っているのである)と読めるから)十二月末のことではあるまいか。]