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2017/01/09

小穴隆一 「二つの繪」(11) 「死ねる物」

 

      死ねる物

 

 鵠沼に移る前に、芥川は、下島空谷(勳)の藥局から藥品を盜みださうと言つてゐた。後に陰で下島空谷馬鹿親爺とひとりごとを言つてゐたことがあつたが、そのわけははつきりしてゐない。芥川はまた、金田精一の藥局にはいるのに金田を紹介しろなどとも、大びらにゆするやうな駄々をこねたりしてゐた。

[やぶちゃん注:「金田精一」後述内容から医師らしいが、不詳。新全集の人名索引にも出ない。

「大びら」ママ。先行する「鯨のお詣り」でも『大びら』。]

 藥品でなくても、ピストルでもいい、ただ何かいつでも死ねる物がありさへすれば、それを持つてて生きてゐられる。自分に生きてゐて貰ひたいのなら、死ねる物を持たせろといふ態度であつた。

 あづまや(鵠沼の宿屋)で、まはりに飛んでゐる蠅をつかまへて幾匹か呑下してて、それで大便を瀉したといつてゐた芥川は、僕の油繪の筆の豚毛を、鋏で細く切りきざんで大事に紙に包んでもゐた。

[やぶちゃん注:実際にそういう場面(飛んでいる蠅をぱっと龍之介が獲って口の中に入れて吞み込むというシーン)を彼の生前に目撃したという記載を誰かの回顧記事で読んだ(誰だか思い出せぬ)が、そこではそれを見た筆者が驚いていると、龍之介「健康にいいんだ」と言ったと記されているように記憶している。何よりまた、芥川龍之介の遺稿「闇中問答」(昭和二(一九二七)年九月発行の『文藝春秋』九月号(芥川龍之介追悼号)に発表されたもの)に、

   *

僕  僕は度たび自殺しようとした。殊に自然らしい死にかたをする爲に一日に蠅を十匹づつ食つた。蠅を細かにむしつた上、のみこんでしまふのは何でもない。しかし嚙みつぶすのはきたない氣がした。

   *

と龍之介自身が記している。まあ、しかし「大便を瀉」す程度のものでしかない。或いは、芥川龍之介は「スパニッシュ・フライ」を蠅だと勘違いしていたから、如何にも子供染みた発想(次段にも「芥川の劇藥についての知識は甚だ幼稚だ」と出る)からの仕儀やも知れぬ。

「僕の油繪の筆の豚毛を、鋏で細く切りきざんで大事に紙に包んでもゐた」目的不詳。豚毛が有毒だとは聴いたことがない。]

 注射器を買つて、蒔淸からモルヒネを貰ふ日を待つてゐた、さういふ芥川を僕は怖いとは思はなかつた。蒔淸は、金田は醫者のくせに藥について少しも知識がない、呆れた、と豪語してゐた男である。(藥局方にはあつても、ポピュラーでない藥の場合には、醫者であらうが、一寸知らずにゐるときもありうるであらう。)その蒔淸に言はせると、芥川の劇藥についての知識は甚だ幼稚だといふ。蒔淸がただ一度芥川に渡したモルヒネは、芥川がもし、それを使用したところで、單に數時間の間婆婆苦を忘れてゐるだけの鎭痛安眠の量であり、僕は芥川が蒔淸からそれを貰つて丁寧に薩をいつてゐるのをみてもゐたが、その芥川は一寸、死ねる物のコレクション・マニヤのやうにもみえてた。

 僕のたつた一匹のスパァニッシュ・フライは勿論、密かに用意してゐた注射器も、夫人につぶされて捨てられたと芥川は言つてた。さういふ話のときの芥川は、またなにか手にいれようといふたのしみを持ちつづける人のやうににこにこしてゐた。

 芥川が首縊りの眞似をしてゐるのをみてゐたときよりも、押入の中で、げらげらひとりで笑つてゐたといふ話を聞いたときのはうが凄く感じた。

「醫學博士齋藤茂吉といふ名刺を僞造して、藤澤の町で靑酸加里を手にいれようか、」と眞面目に相談しかけてくる芥川にはまだ安心してゐた。が、恐しかつたのは、藤澤の町を夜の散步として步いてゐたときに、通りがかりの店で、たむし藥を買つてゐた僕のうしろから、いきなり前に出た芥川が、「靑酸加里はありませんか、」「證明がなければ賣りませんか、」と言ひ、店の者が、「證明がなくてもお賣りするにはしますが、いまはありません、」と答へてゐたときであつた。僕はさういふ芥川を怖れて、そのときには憎い奴だと思つた。僕が芥川をしんそこ憎い奴と思つたのはそれ一度きりである。

 帝國ホテル事件(帝國ホテルの章參照)の後のことであつたかも知れない。夕方伴れだされた。僕は上着も着てゐず、芥川は羽織も着ない着ながしで草履をつつかけたままであつたので、(かやうな姿の芥川は鵠沼の暮し以後のものであらう)話しのまま芥川の家の門を潜ることにきめてると、芥川は家の垣根に沿つて素通りしてしまつて神明町のはうに行く、「今度こそはほんとに靑酸加里を手に入れたよ。一寸、君、」と言つて藥屋にはいつていつた芥川を僕は神明町の入口の角でその日みた。目藥の罎よりも小さい空罎を買つて、透してみながら、「やつとこれでいれ物ができたよ」と嬉しさうだつた。(芥川は泉鏡花がくるところだといつて、そこの待合に案内して大勢の藝者に顏見せをして貰ひ僕を無理に殘して歸つた。)

[やぶちゃん注:「帝國ホテル事件」昭和二(一九二七)年四月七日、妻文の幼馴染みで、文自身が芥川龍之介の自殺を監視させるために紹介し、親しくなっていた平松麻素子と帝国ホテルに於いて心中を決行しようとしたとされる出来事を指す。平松はホテルに赴かず、この小穴隆一へその計画を漏らし、文・小穴・葛巻義敏三人がホテルへ駆けつけ、自殺は未遂に終わった。この事件は不明な点も多い。

「帝國ホテルの章」この後の七章目「帝國ホテル」。

「神明町」田端の南西直近の旧駒込神明町、現在の本駒込五丁目附近であろう。ここは以前は花街であった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 僕は芥川が死んで二十九年になる今日、若い世代の人から芥川がのんだ藥はなにか、死體は解剖されたかといふ、はじめてのことを聞かれて、改めて醫者の下島が書いた文藝春秋の(昭和二年九月號)「芥川龍之介氏終焉の前後」をみたが、「私は私の職務の上から死因を探究しなければならない。そこで先づ齋藤さんの睡眠藥の處方や、藥局から取つてきた包數や日數を計算して見たが、怎うも腑に落ちない。そこで奧さんや義敏君に心當りを聽いて見ると、二階の机の上が怪しさうだ。直ぐ上つて調べて見て、初めてその眞因を摑むことが出來たのであつた。」とだけで、その眞因もなにも藥の名一つさへあげてはゐない腑に落ちないものであつた。同じく改造九月號の「芥川龍之介氏のこと」のはうをみると、これも十二年の長い間の接觸とあるが、それにしてはその芥川の身體報告は如何にも軍醫らしくきめが荒いものであり、(下島は元軍醫)その「芥川氏は稀れに見る品行方正の藝術家であつた。」といふ結びでもわかるほどのものであつたのには驚いた。今日とはちがつて、昭和二年の當時では、藥の名を記事に明らかにすることは許されなかつたでもあらうが、僕も二階の紫檀の机の上にこぼしてゐる白い粉ぐすりとその瓶、それはみてゐる、芥川といふ人間を思ひその神經を考へると、僕にはどうも芥川がわざとこぼしておいた見せ金のやうな見せ藥とも考へられ、僕が芥川と會つてゐる最後の七月二十二日は、下島ともいつしょになつたが、僕には

「――ああ、うるさいから電報で返事をしておいた。どうせ西の方だ。」

「――それまでにおれはもうあの世にいつてゐるから、」

「――だから僕はただ、ユクとしておいたのだ、ユクとだけで場所は書かなかつたよ。」(「Ⅳ」參照)

と言つてゐる芥川が、下島には「鵠沼へは何時行かれるかと聽くと、明日か明後日頃だと答へられた。」で、明後日の二十四日に死んでをり、僕にはどうしても芥川が、鵠沼にまた當分行つてゐるからと言つて下島を欺かして、睡眠劑を餘計にもらつてゐる形跡を感じさせるし、下島が歸つたあとで芥川が、下島空谷馬鹿親爺と吐きだすやうに言つてゐたこと、芥川の遺書のなかの「下島先生と御相談の上、自殺とするも病殺とするも可。若し自殺と定まりし時は――」との脈絡が、また僕に芥川のユウモアを感じさせてもゐる。僕は死ぬ死ぬと言ひつづけられてて、一年三ケ月のうちに芥川がなんの藥で死んだのかなどといふことの詮議など今日まで全く忘れてゐた。遺書を懷中にして本人が死んでゐる以上解剖などといふこともなかつたし、東京新聞社の田中の調べでは當時の警視廰の係官(現存の人といふ、)の手もとに𢌞つてきた瀧野川署からの報告書には、藥の名があるといふ話ではあるが、報告書は單なる報告書にすぎず、それをもつて、僕らよりは科學的にものを考へる若い世代の人達を納得させられるとは、到底思へないことである。

[やぶちゃん注:『下島が書いた文藝春秋の(昭和二年九月號)「芥川龍之介氏終焉の前後」』私は、これを読んだことがないのであるが、山崎光夫氏の優れた考証作「藪の中の家 芥川自死の謎を解く」(平成四(一九九二)年文藝春秋刊)に引用がある。そこで氏はこれを『主治医ならではの生々しい〝臨終記録〟』と評価し、『(二、八、五)――昭和二年八月五日と執筆月日が記され、芥川の死後さして時間の経過しない記憶の鮮明なうちに書くかれた文章である』とした上で以下のように引用されておられる。以下、下島の記載は恣意的に正字化して示す(踊り字「〱」「〲」は正字化した)。

   *

 七月の半ばから暑気のために胃を病んでゐられる老人(父君)の診察に行つたのは、二十日のたしか午後四時少し過ぎごろであつた。診察を了つてから二階の應接間兼臨時の書齋へ這入ると、内田百閒氏が歸りがけとみえて椅子から離れたところであつた。内田氏を玄關に見送つて上つて來た芥川氏は、元氣ではあつたが、内田氏の何か一身上の問題をひどく案じてゐられた。又宇野氏のことも案じてゐられた。

   *

以下、山崎氏による梗概。『下島はすぐに帰るつもりでいたところ、花札遊びの猪鹿蝶に誘われ、三番たて続けに負ける。龍之介は「頗る大得意のこコニコもの」で意気軒昂である。下島は「電燈が灯つてから」の時間になって帰った』。『その二日後の二十二日に下島は芥川家に赴いている』。

   *

午後三時半頃、老人の診察が了るか了らぬうちに伯母さんが出て來られて、「怎(ど)うも二階のが胃が惡さうだから診てやつてくれ」と云つて、間もなく二階から下座敷へ引ぱつて來た。「何、昨日午後睡眠藥を飮んで晝寢をしてゐるところを、突然起こされたんで例の腦性嘔吐をやつたんです。まるで關係も何もない雜誌の記者が來たと云つて、用事も無いのに起すんですから……。それだからまだ今日もフラフラしてゐます。ほかには何も故障はないのです」と不平たらだらである。

   *

以下、山崎氏による梗概。『下島はただちに龍之介を仰向きに寝かせて診察する。そして、体調の急変を感じとった』。

   *

外觀上それ程にも思つてゐなかつた肉體が、一般に衰弱してゐることで、殊に心臟の力も例の過敏であるべき筈の膝蓋腱反射も力が足らず、それに瞳孔も少し大きいやうに思つたので、これは睡眠藥の飮み過ぎに違ひない、あとで充分忠告の必要があると思つたのである。

   *

以下、山崎氏の本文。

   《引用開始》

 下島は睡眠薬の飲み過ぎを懸念している。このあと、二階の書斎で複製の長崎屏風を見せてもらってから、下島は気になっていたとみえ、

「あまり睡眠薬を濫用してはいけない。どうもそんな症状があるから充分気をつけたまえ」

 と釘をさしている。

 龍之介は不愉快そうな顔に苦笑をもらして「大丈夫です、大丈夫です」と繰返してこたえている。

 二人のやりとりから察して、睡眠薬は共通の関心事になっている。少なくとも下島は龍之介の睡眠薬中毒現象を憂慮している。

 この後、小穴隆一が訪ねてきて雑談が始まる。小穴は龍之介の枕元でデスマスクを描いた画家で、死の前年に自殺の意志を伝えた相手で、龍之介が最も心を許した、いわば刎頸(ふんけい)の友である。龍之介は藤椅子の背に後頭部をあずけて陰気な顔をしている。下島は龍之介に勧められるまま『改造』掲載の「西方の人」と「東北、北海道、新潟」を読み感嘆の声をあげると、龍之介は「さも満足気さうな表情を浮か」べるのである。やがて下島は暇ごいをする。

   《引用終了》

   *

梯子段の上まで送つて來て体がフラフラすると云ふから、固く見送りを辭退したが仲々聽かない。いつもの通り玄關まで下りて來て、丁寧にチヤンと手をついて送つてくれた。が、これが今生のお別れであつた。……

   *

以下、山崎氏の本文。

   《引用開始》

 龍之介の体調を気づかい見送りを断わる主治医。お客を玄関に送り礼儀正しく手をつく小説家。二人の友誼と交遊がこの一場面でわかるというものだ。

 わたしには、この下島が「ベロナールおよびジャールの致死量」を龍之介に手渡すとはとても考えられない。

   《引用終了》

この少し後の部分で、山崎氏は下島勲の後の単行本「人犬墨」(昭和一一(一九三六)年竹村書房刊)にある転載された「芥川龍之介氏終焉の前後」を再度、採り上げておられる。前半が、芥川龍之介急変の報知を受けた部分、後半がここで小穴隆一が引いている箇所である。以下、山崎氏の本文。下島の引用部は前の通り、恣意的に正字化した(底本では引用は全体が二字下げである。ここでは山崎氏の本文と区別するために引用部を太字で示した。下島の引用の一部の拗音を変更した)。

   《引用開始》

 

 二十四日は未明から雨が降り出して久し振りに凉味を覺えながら、よい心持にまだ夢うつゝを辿つてゐた。すると、玄關の方で確かに聞きなれた芥川の伯母さんの聲である。家内が出て應答の慌たゞしい聲の間に、變だとか、呼んでも答へがないなど響くと同時に私はギヨツとして床の上に起き直つた。家内の取次ぎの終らぬうちに急ぎ注射の準備を命じ、臺所へ飛んで口を漱ひしてゐると、また老人の聲がする。いきなり手術衣を引かけるが早いか、鞄と傘を引たくるやうにして家を出た。

 近道の中坂へかゝると、雨の爲赭土は意地惡く滑り加減になつてゐる。焦燥と腹だゝしさの混迷境を辿つて、漸く轉がるやうに寢室の次の間へ一步這入るや、チラと蓬頭蒼白の唯ならぬ貌が逆に映じた。――右手へ𢌞つて坐るもまたず聽診器を耳にはさんで寢衣の襟を搔きあけた。と、左の懷ろから西洋封筒入りの手紙がはねた。と、同時に左脇の奥さんがハツと叫んで手に取られた。遺書だなと思ひながら、直ぐ心尖部に聽診器をあてた。刹那、――微動、……素早くカンフル二筒を心臓部に注射した。そして更に聽診器を当てゝ見たが怎うも音の感じがしない。尚一筒を注射して置いて、瞳孔を檢し、軀幹や下肢の方を檢べて見て、体温はあるが、最早全く絶望であることを知つた。そこで近親其他の方々に死の告知をすましたのは、午前七時を少し過ぎてゐた頃かと思ふ。

 

 主治医が龍之介の死に出会ったときの驚愕と周章狼狽がよく著わされている。「芥川龍之介氏終焉の前後」と題し四ページにわたり掲載され、抜き書きをした個所は龍之介の死に遭遇した条のハイライトである。

[やぶちゃん注:中略。]わたしは龍之介急変の報をきいて芥川家に駈けつけた下島のその日の体験記を読み返した。

 すると雑誌で読んだときとはちがって、気になる記述に出会った。死の告知も済ませた原稿の終りに近い部分である。

 

私は私の職務の上から死因を探求しなければならない。そこで先づ齋藤茂吉氏の睡眠劑の處方や、藥店から取つて來た包數や日數を計算して見たが、どうも腑に落ちない。そこで奥んや義敏君に心當りをきいて見ると二階の机の上が怪しさうだ。直ぐ上つて檢(しら)べて見て、初めてその眞因を摑むことが出來たのであつた。

 

 わたしはこの部分を三、四回読み直した。下島は死因を探求するため処方された薬を検査したが、「腑に落ちない」と書いている。これは処方された睡眠薬では死亡しない、と表現しているのに等しい。致死量の睡眠薬ではなかったのだ。不審に思った下島はそこで夫人や甥の葛巻(くずまき)義敏にたずねると二階の書斎に置かれた机の上が怪しいといわれ、すぐ二階へ行って調べた。

 

初めてその眞因を摑むことが出來たのであつた。

 

 下島は机の上に何かを見たのである。しかしそれが何であったかは書いていない。わたしはそれこそ龍之介のいう「蘇生する危険のない」ものが置いてあったにちがいないと思った。「毒物学の知識」を生かした薬品と想像した。

 わたしは『人犬墨』を注意深く読み直した。そればかりではなく下島の書きのこした『井月の句集』『随筆・富岡鐡齋其の他』の著作物にもあたった。だが、「机の上」のものには言及してなかった。

   《引用終了》

因みに、私はこの山崎光夫氏の論考を、凡百の芥川龍之介論よりも読むべき価値のあるものと考えている。是非、御一読をお薦めするものである。

 

『改造九月號の「芥川龍之介氏のこと」』これは既に私が電子化している。をどうぞ。

「僕が芥川と會つてゐる最後の七月二十二日」新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この日は『この年の最高気温(華氏九五度、摂氏三五度)を示す猛暑』であった午後三時半頃、『下島勲が来訪して診察を受け、睡眠薬の飲み過ぎを注意される』。『夕方小穴隆一も来訪し、午前』零時頃まで『死について話をした』。一緒に住んでいた甥の『葛巻義敏には「今夜死ぬ」と言っていたが、「続西方の人」が完成していないため、取止める』とある。言わずもがなであるが、芥川龍之介の自死は翌々日、七月二十四日(日曜日)未明であった。

『「Ⅳ」參照』を参照されたい。

『下島には「鵠沼へは何時行かれるかと聽くと、明日か明後日頃だと答へられた。」』これは「芥川龍之介氏終焉の前後」にあるものと推測される。

「病殺」芥川龍之介の遺書のママ。私の 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫の「芥川文子宛遺書」を参照のこと。

「東京新聞社の田中」不詳。

「瀧野川署」当時の田端は東京府滝野川町で(現在は東京都北区田端)、その所轄署。現在の警視庁滝野川警察署。]

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