二つの繪 小穴隆一 附やぶちゃん注 「龍之介先生」~ 始動
[やぶちゃん注:芥川龍之介の盟友であった小穴隆一(おあなりゅういち 明治二七(一八九四)年十一月二十八日~昭和四一(一九六六)年)は北海道函館市生まれで、長野県塩尻市育ちの洋画家。旧制開成中学中退。太平洋画会研究所にて中村不折に師事し、二科展には第一回から出品、後に春陽会に移った。大正八(一九一九)年十一月二十三日、瀧井孝作に連れられ、田端の芥川邸を訪れ、以後、終生無二の親友となった。誕生日の日付が芥川の実母フクの命日(没年は明治三五(一九〇二)年)だったため、芥川から「僕の母の生まれかはりではないかと思ふよ」と言われていたという。大正一〇(一九二一)年三月刊の第五短編集「夜来の花」以降、芥川の著書の装丁を担当し、翌大正十一年九月の二科展では芥川龍之介をモデルとした肖像画「白衣」を出品(本画は別に「在野の人」を意味する「処士」とも称する。なお、「白衣」は諸データにルビがないので、「びゃくえ」ではなく「はくい」と読んでよいように思われる)、話題となった。同年十一月には芥川に次男多加志(たかし)が誕生しているが、この名は、「隆一」の「隆」に因んだ命名である。本書の冒頭にも出るが、大正一二(一九二三)年一月には脱疽のために右足を足首から切断、以後、義足を使用するようになった(感染時期ははっきりしないが、右足の傷から黴菌が入ったと芥川龍之介宛書簡で記しているのは前年一月中旬)。この時も、先立つ手術とともに龍之介が立ち会っている。昭和二(一九二七)年七月二十四日、芥川龍之介は自死するが、そうした自殺願望を最初に龍之介が告白したのも彼であった(そうした経過は本書に詳しい)。龍之介はその遺書の中の(リンク先は最新資料に基づく私の詳細注附き復元版電子テクスト)、「わが子等に」宛ての第三条では、
三 小穴隆一を父と思へ。從つて小穴の教訓に從ふべし。
とさえ記している。龍之介より二歳年下であった。しかし、龍之介の死後、本書にも出る龍之介私生児説(本書の「橫尾龍之助」)を語って長男比呂志の強い反駁を受けたり、龍之介の甥で作家であった葛巻(くずまき)義敏を芥川家に巣食う「家ダニ」と指弾する(本書末章の「奇怪な家ダニ」。彼は事実、芥川龍之介の遺稿などを出し惜しみ、小出しにして生きた傾向があり、芥川龍之介研究家の間では頗る評判が悪い。例えば、彼の「芥川龍之介未定稿集」(昭和四三(一九六八)年岩波書店刊)の内容は同じ岩波の出版でありながら、長く同書店の全集類に反映されなかった。
本底本は、所持する昭和三一(一九五六)年中央公論社刊の初版本を使用した。本書は全二百四十五ページから成る、短章構成のものであるが、その全篇が芥川龍之介への追懐を主調としたものである。
但し、正直、小穴の文章は下手ではないものの、画家らしいエクセントリックな、かなり癖のあるもので、しかもある種の捩じれのようなものが常に纏わりついていて読みにくい(ものと私は感ずる)。更に、現在では憚る必要もない周知の事実が伏字となっていたりするので、注は絶対に必要である。注は基本、各章の末尾に纏めて配することとする。
さても、本来はブログ・カテゴリ「芥川龍之介」が相応しいと思うのであるが、この後、それに先行する昭和一五(一九四〇)年中央公論社刊の「鯨のお詣り」(ここで書いた芥川龍之介の記事に、小穴は後に幾つかに誤りを見出し、それを補正する意味も含めて、単行本「二枚の繪」は発刊されたものでもあった)も電子化する予定であるので、広汎な芥川龍之介関連電子テクストの公開カテゴリとして用いている「芥川龍之介」のテクスト・データ等と混在してしまって読みにくくなるのを避けるため、新たに「芥川龍之介盟友 小穴隆一」をブログ・カテゴリとして立てることとした。「芥川龍之介盟友」と名打ったのは単にカテゴリが並ぶ際、芥川龍之介と併置されることを狙ったに過ぎず、他意はない。
ここに、小穴の描いたデス・マスクを配した底本のカバー(本体ではない)を画像で添えておくこととする。なお、本の装幀は、かの恩地孝四郎である。
それでは、小穴隆一がパブリック・ドメインとなった本日より、開始する。【2017年1月1日 藪野直史】]
二つの繪
芥川龍之介の囘想
小穴隆一
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中央公論社
[やぶちゃん注:改ページ。]
装 幀 恩地孝四郎
カバー 小穴隆一
[やぶちゃん注:上記は内表紙裏側の下方に記されてある。以下に「二つの繪 目錄」が入るが、それは全電子化の後に示す。]
龍之介先生
龍之介先生の顏――岡本一平が書いた似顏は、首相加藤友三郎とちやんぽんだ。
小説の事はいはずもがな、支那で六圓に買つてきた古着を、坪何兩いふ品と泉鏡花に思込ませた人だ。(坪トハ錦繡、古渡リ更紗ナドニ、一尺四方、又ハ一寸四方ナルヲイフ)
不思議によく猿股を裏がへしに着けてゐる。
顏を寫す時、西洋の文人、自分の一家一族の人の寫眞に至るまでどつさりみせて、やつぱり立派に畫いて呉れと言つた。
常常、君、女子と小人はなるたけ遠ざける方がいいよ、と言つてゐる。
又、僕かあ、君、いつなんどきどういふ羽目で妻子を捨てないともかぎらないが、やつぱり仕舞にやしつぽを卷いて、すごすごおれが惡るかつたから勘辨して呉れつて女房のところに、しつぽをふつて歸つてくるなあ、と高言してゐる。
知らないうちに、橫山大觀に自分の弟子になれと口説かれてゐた。
君、僕かあ十六歳の頃まで燐寸をする事が出來なかつたものだから、僕の方の中學は三年から發火演習があつて鐡砲を擔がせるんだぜ、(その時は弱つたらうな、)否、僕かあ何時も小隊長だつたから洋刀(サーベル)を持つてゐたんだが、大體僕は利口だからそれとなく何時も部下に火をつけさせてゐたんだよ。
右足脱疽で私が二度目に踝から切られる時の立會人――骨を挽切る音の綺麗さや、たくさんの血管を抑へたつららの樣に垂れたピンセットが一つ落ちて音をたてた事や、その血管が内に這入つて如何なつたか心配だつた事を、みんな話してくれた人だ。
[やぶちゃん注:「岡本一平が書いた似顏」【2017年2月13日追記】岩波旧全集の「第八卷」の「月報8」の最終頁(八頁)に「資料紹介」の一つとして「來靑の芥川さん」として、改造社円本全集宣伝講演の帰途、青森で『東奥日報』の記者から受けたインタビュー記事が載り(昭和二(一九二七)年五月二十二日附同日報掲載)、その中に芥川の言葉として、『僕は時々漫畫家にしてやられるがこの度(たび)北海タイムスの漫畫程(ほど)、われ乍ら感心したものはないね、岡本一平君のものしたよりは餘程うまく出(で)てますね』(太字「もの」は底本では傍点「ヽ」)とあって、そこに挿絵として岡本一平画のそれ(上。元は大正一四(一九二五)年四月発行の『新潮』)と、昭和二年五月発行の『北海タイムス』の『悦郎生画』の絵(下)が載るので以下に示す。但し、後者の画家の没年を確認出来ないので、指摘があればそちらは除去する。岡本への芥川龍之介の個人的な不快感(小穴隆一「鯨のお詣り」の方の「龍之介先生」の私の注を参照)がよく出ている言い回しだと私は思う。
「加藤友三郎」第二十一内閣総理大臣加藤友三郎(文久元(一八六一)年~大正一二(一九二三)年。在任は大正一一(一九二二)年六月から翌大正十二年八月二十四日まで(在任のまま大腸癌により死亡)。日本帝国海軍軍人(海軍大将)で、日露戦争では連合艦隊参謀長(日本海海戦時は第一艦隊参謀長兼任)、ワシントン会議では日本首席全権委員を務めている。シベリア出兵及び撤兵を遂行し、軍縮や協調外交にも積極的であった(以上は、ウィキの「加藤友三郎」に拠る)。芥川龍之介の鼻筋の通った縦長の顔は、確かにカリカチャライズすれば加藤に似るように思われる。]