小穴隆一 「二つの繪」(12) 「漱石の命日」
漱石の命日
「いままで度々死に遲れてゐたが、今度この十二月の九日、夏目先生の命日には、いくらどんなに君がついてゐてもきつと俺は死んでしまふよ、」
「その間一寸君は帝國ホテルに泊つてゐないかねえ、」
「いやかねえ、」
芥川は鵠沼で僕にさういふことを言つてゐた。
僕は芥川が死ぬまで、毎月九日がすぎるとほほつとしてゐた。
芥川は昭和二年の春、麻素子さん(平松)と帝國ホテルで死なうとしてゐる。
[やぶちゃん注:本章は以上が全部で、底本の中では最も短い一章である。
「夏目先生の命日」夏目漱石は大正五(一九一六)年十二月九日に亡くなっている。例えば、死の前年の十二月九日は新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、芥川龍之介も小穴隆一も鵠沼にいたが、小穴はこの日、妹尚子(ひさこ)危篤の報を受け、急遽、上京している(後の「降靈術」「手帳にあつたメモ」参照。後者に尚子は十二月三十一日に十三歳の若さで逝去したことが記されている)。その前年の大正一四(一九二五)年の十二月九日から六日程過ぎた頃には、かの、漱石の墓を探しあぐねるという奇怪なシークエンスを含む、痛切な内実告白「年末の一日」を脱稿しており、大正十三年十二月九日には龍之介の青春への挽歌「大導寺信輔の半生」を脱稿している(リンク先は私の古いテクスト)。これらには明らかに漱石の祥月命日との精神的な意味での強い連関性が認められるように私は思う。
「芥川は昭和二年の春、麻素子さん(平松)と帝國ホテルで死なうとしてゐる」前章で既出既注であるが、再掲しておく。昭和二(一九二七)年四月七日、妻文の幼馴染みで、文自身が芥川龍之介の自殺を監視させるために紹介し、親しくなっていた平松麻素子と帝国ホテルに於いて心中を決行しようとしたとされる出来事を指す。平松はホテルに赴かず、この小穴隆一へその計画を漏らし、文・小穴・葛巻義敏三人がホテルへ駆けつけ、自殺は未遂に終わった。この事件は不明な点も多い。この後の「帝國ホテル」でもその一件が語られている。]