小穴隆一「二つの繪」(50) 「懷舊」
懷舊
昔、夏目漱石が、文展の畫の評を新聞に書いたといへば、人を驚かすかも知れないが、往年の二科展で、佐藤春夫の畫をみた人も、少なくなつてしまつたであらう。
漱石の批評は、記憶といつても、僕の記憶には、牛に松のある畫、坂本繁二郎の「うすれ日」であつたと思ふが、それを、自分は門外漢で、畫のことはよくはわからないけれども、坂本氏の畫を見て立止つてゐることが、紳士として一向に恥づかしくはない、といつてゐた、ただそのことだけがのこつてゐるにすぎない。
[やぶちゃん注:「夏目漱石が、文展の畫の評を新聞に書いた」大正元(一九一二)年十月十五日から同月二十八日にかけて『東京朝日新聞』に連載された「文展と藝術」で、初出の二日前、大正元年十月十三日に開かれた第六回文部省美術展覧会(文展)を朝日新聞社の依賴で観覧した際にものされたものである。この注のために、昨日一日かけて全文を電子化注した。お読み戴くと判るが、全体に漱石独特の諧謔と論破性に富んだ飽きさせぬ論評である。じっくりとお読みあれかし。
「往年の二科展で、佐藤春夫の畫を見た」二科展に限らず、公募展は、宣伝効果を狙って作家や芸能人の作品を入選させることがあり、現在でもかなり頻繁に見受けられる。没後 五十年記念として二〇一四 年五月に慶應義塾図書館で慶應義塾大学三田メディアセンター展示委員会主催で行われた「佐藤春夫―三田文学ライブラリー所蔵資料を中心に―」のパンフレット(PDF)によれば、佐藤春夫は大正四(一九一五)年から三年間の間二科展にに連続三回、計六点の作品が入選している旨の記載があり、「東京大学大学院人文科学研究科・文学部」公式サイト内の河野龍也氏の「佐藤春夫研究」によれば、佐藤は実際、自分の画才に強い自負を持っていたらしく、『自分の作風が後期印象派に近いものであることを当時』、『言明していた』ともある。ウィキの「佐藤春夫」によれば、第二回二科展で「自画像」(これは大正一〇(一九二一)年刊の自身の詩集「殉情詩集」(新潮社刊)の巻頭口絵として掲げられている。先の「佐藤春夫―三田文学ライブラリー所蔵資料を中心に―」のパンフレットで画像が見られる)「静物」二点、第三回で「猫と女の画」「夏の風景」二点が第四回で「上野停車場附近」「静物」二点が入選しているとある。]
瀧井君と僕は、芥川の案内で、一度、漱石死後の書齋を見たことがあつた。書齋の次ぎの間は、佛間になつてゐたやうに思ふが、そこの鴨居のうへにあつた油彩、安井曾太郎の、十號程の風景畫を見ながら、芥川は、「夏目先生は、自分には、丁度このくらゐの細かさの畫がいいといつてゐた」と、教へてくれた。
その畫は、大正四年に、三越を會場とした二科第二囘展に、特別陳列としてならべられた、四十四點の滯歐作のなかの一つで、終戰後、石井柏亭が書いてゐた「安井曾太郎」には、〔安井のこの時の陳列には四十五年西班牙旅行以後のものが多くを占め、四十二年フロモンヴィルの作であるところの「田舍の寺」などの、ミレかピサローかの感化を受けたようなものの僅かを交へたに過ぎなかつた。そのミレ、ピサロー影響からセザンヌの感化を受けたものへの過渡期の諸作はすべてこれを省いてあつた。〕といふ一節があるが、僕はなんとなく、〔省いてあつた〕といふその部類にあてはまるもののやうに覺えてゐる。
[やぶちゃん注:「油彩、安井曾太郎の、十號程の風景畫」風景用Pサイズの十号キャンバスは五三〇×四一〇。「県立神奈川近代文学館」公式サイト内の「夏目漱石デジタル文学館」の収蔵品の中の、この書誌情報によれば、安井曾太郎(明治二一(一八八八)年~昭和三〇(一九五五)年)作「麓の町」という油彩・額入り一点があり、執筆年数と思しいものは大正二(一九一三)年、寸法は四四〇×五三〇とする。これである。個人ブログの「漱石先生交友録 3」に当該作の画像があり(これ)、記事の中で大正四(一九一五)年十月に開催された『二科展特別陳列として、滞欧』期の安井の作品四十四点が『出品された中から、漱石が購入したもので』、『出品目録の価格では』百円となっているという。『この絵について安井は「旧作の思ひで三つ四つ」で「あの画は割に気持ちよく出来て、自分の好きな絵です、夏目さんが買はれましたけれど、自分が持つて居たい様な気がして惜かつた」と回想してい』るともある。リンク先の画像を見て戴くとお分かりの通り、小穴隆一の言うように、これはロケーションといい、家屋の形象化といい、その色といい、明らかに後期のセザンヌ(Paul Cézanne 一八三九年~一九〇六年)である。
「フロモンヴィル」パリ郊外の南東に位置するフォンテーヌブロー(Fontainebleau)郡モンクール=フロモンヴィル(Moncourt-Fromonville)のことか。
「田舍の寺」明治四二(一九〇九)年、滞欧中の作。これ。
「ミレ」「晩鐘」(L'Angélus 一八五七年~一八五九年)で知られるフランスのバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet 一八一四年~一八七五年)。
「ピサロー」フランス印象派のジャコブ・カミーユ・ピサロ(Jacob Camille Pissarro 一八三〇年~一九〇三年)。個人的には「赤い屋根のロッジ群、村の一角、冬景色)(Les
Toits rouges, coin de village, effet d'hiver 一八七七年)が好きである。]
「君。大觀は、僕に繪かきになれといふんだ。さうすれば、自分が引きうけて、三年間みつちり仕込むで必ず者にしてみせる、といふんだ。」
「大觀は、墨を使へる者が、いま、一人もゐないといふんだ。もつともさういふ自分もまだだといつてたがね、」
「君。大觀といふ男は、實に無法な男だよ、藝術は、われら藝術家に於いては、とかいつて話をしてゐるから、なんのことかと思つてると、畫や繪かきのことだけをいつてゐるので、小説のことは、はつきり、小説とか、小説道では、といふんだ。」
などと、芥川は、大型の人である横山大觀の話のいろいろを、愉快な面もちで聞かせてくれたことがあつた。
[やぶちゃん注:かの近代日本画壇の巨匠横山大観(明治元(一八六八)年~昭和三三(一九五八)年)からこのような驚天動地の慫慂を受けていたといのは、芥川龍之介関連書ではまず見かけたことがないが、芥川龍之介の画力には御大大観でさえ惹かれた何かがあるようには確かに私には感じられる。]
芥川は、どこぞの葬儀でみた、大觀の香奠の包みかたにも感心してゐたが、僕を輕井澤に招んだときに、僕が拂はなければならない宿屋の茶代を、自分の金で、大觀式の包にこしらへてくれた。芥川は、お線香のやうにくるくると卷くのだといつてゐたが、セロファン包みのあめんぼうに似た形である。
「僕も夏目さんの歳まで生きてゐたならば、夏目先生よりは少しはうまくなるかなあ、ねえ、君、」
かういつたことをいつてゐた、以前の芥川ではなく、
「君、ピカソの步む道は、實に苦しいよ、」
かういつて話しかけた芥川は、畫帖にいくつかのばけものを描きのこしてゐた。氣忙しく、あちこちの人達に描きのこした河童の畫とは異つて、芥川の風貌を傳へるものであらうが、天壽を全うし得ない人の畫かもしれない。
[やぶちゃん注:「僕も夏目さんの歳まで生きてゐたならば」漱石は満四十九で没している。芥川龍之介は満三十五で自死しているが、もし彼が生きていたとすると、芥川龍之介四十九歳の時は昭和一六(一九四一)年となる。或いは軍靴の音の中、小説家としての筆を折らざるを得なくなっていたかも知れぬが、逆に絵でも描いて、画力は上達していたかも知れぬ。
「ピカソ」スペインのマラガに生まれ、主にフランスで創作活動したパブロ・ピカソ(Pablo Picasso)は一八八一年生まれ(一九七三年没)であるから、芥川龍之介より十一年上であった。
折角だから、芥川龍之介の「のつぺらぽう」(「ぽ」はママ。絵をご覧あれ)を掲げて終りとする。
龍之介の妖怪画では先に掲げた「一目怪」と並ぶ怪作と存ずる。引用元は例の小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」である。]