小穴隆一「二つの繪」(40) 「影照」(15) 「節をまげぬためには入用の金」 / 「影照」~了
節をまげぬためには入用の金
その一生をふりかへつての話のなかで芥川は、「大每の貮百圓、文藝春秋から五拾圓、それで僕hs幸に節をまげることなくすませてこられた。」と言つてゐた。
大每から貰ふ月月の手當とボーナスを合せて月割にすると貮百圓になると言ひ、文藝春秋の五拾圓は月月の卷頭に寄せてゐたものから受取る稿料のことである。
[やぶちゃん注:「大每」芥川龍之介が社員であった大阪毎日新聞社。非常に嫌っていた海軍機関学校の教職をやっと辞することにし、大正八(一九一九)年二月十五日に入社内定(菊地寛とともに)、三月八日に正式な客員社員(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)辞令が届いている。なお、これと並行して慶応大学教授招聘の動きがあったが(当時、同大文学部講師であった小島政二郎が仲介)、教授会の一部が難色を示して交渉が遅滞、漸く慶応招聘が教授会で通ったのは大毎内定直後の二月二十三日以前で、既に後の祭りであった。この事実はあまり知られているとは思えないので敢えて記しておく。芥川龍之介が慶應大学文学部教授となっていたらどうなっていただろうかと考えてみるのは面白いことではある。
「貮百圓」入社当初の月給は百三十円であったが、原稿料や、無論、ボーナスは別であった。この月給百三十円の金額は大毎からの提示ではなく、芥川龍之介自身が提示した金額で決まったものである。鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)によれば、機関学校時代の『月給と同じにして』おいて、『怠けないようにしたいことと、沢山もらうと責任が大きくなるというのが、その言い分であった』とある。即ち、芥川龍之介が想定した社が示そうとした金額はもっと高かったのである。
「月月の卷頭に寄せてゐたもの」大正一二(一九二三)年一月一日発行の雑誌『文藝春秋』(創刊号)から大正一四(一九二五)年十一月一日発行の同誌に三十回に亙って毎号の巻頭に掲載された「侏儒の言葉」を指す(リンク先は私の合成完全版)。
以上を以って「影照」パートは終わる。]
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