小穴隆一「二つの繪」(28) 「影照」(3) 「千圓の金」
千圓の金
七月二十一日に芥川は僕に金はいらぬかと言つてゐた。芥川は二十四日に死んでゐるが、その二、三日前に改造社から千圓を借りてゐて、僕は社の人になんでその金が必要であつたのかとあとで聞かれた。芥川が家の人達にかくしてゐたのであらうその金は、中野重冶にやつたとかいふことを僕は葛卷に聞いた。麻素子さんも「ええ、わたしにはそんな事を言つてゐました。」と言つてゐた。芥川が左翼の人のシンパであつたかどうか僕にはわからない。多分芥川は中野といふ男の人間を買つて贈つたものと思ふ。當時の新聞記事にも生活難で死んでゐる人達のこととが多かつたと思ふが、芥川は二十圓の金で死んでゐる人のことが載つてる新聞をひろげて、「僕はかういふ人達の事をみるにつけても、かうやつて自分が生きてゐることがすまないと思ふ、僕は日に二枚書けば生きてゆかれるのだ、」と言つて淚をこぼしてゐたのを僕はみてゐたことがある。もつとも、死ぬ話などしなかつた頃の芥川が、何かの時に淸浦伯と席を同じくして、「僕もあの時は、ああいふ席になると自分もやはり、つくづく勲章がほしいと思つたよ、」と言つてゐたことはあつた。
[やぶちゃん注:芥川龍之介がプロレタリア文学に共鳴し、マルクス主義革命による新世界の到来にある程度の理解や期待を示していたことは確かであるが、千円もの大金(昭和初期のそれは二、三百万円に相当する)を左翼シンパとして中野重治に贈与していたという事実は現行では確認されていないと思われる。中野自身も後年恐らくそんなことは述べていないと思うが、しかしここで小穴隆一が葛巻義敏と平松麻素子の二人もの人物からの直話として記しているのは看過出来ぬ。こういう事実があったとするなら、芥川龍之介の名誉のため(千円もの使途不明金、行方不明の大金が自死直前にあるという疑惑)にもそれは明らかにすべき内容ではある。
「淸浦伯」政治家清浦奎吾(きようらけいご 嘉永三(一八五〇)年~昭和一七(一九四二)年)伯爵。肥後国鹿本郡来民村(現在の山鹿市)の浄土真宗明照寺住職大久保了思の五男。後に清浦の姓を名乗った。貴族院議員・司法大臣・農商務大臣・内務大臣・枢密顧問官・枢密院副議長・枢密院議長・第二十三代内閣総理大臣(大正一三(一九二四)年一月七日~同年六月十一日の百五十七日間)などを歴任した。彼と芥川龍之介の接点は厳密には判らぬが、一つ、大正八(一九一九)年十一月十三日附薄田淳介宛書簡(旧全集書簡番号六一二)に『龍村平蔵氏事今度淸浦氏、正木校長等の主催で日本橋俱樂部に展覽會を開きます』とある中の『淸浦氏』は高い確率で清浦奎吾であろうと思われ(京の染織研究家龍村平藏を清浦奎吾が後援していたことは確認がとれたからである)、さればこの時(大正八十一月十五日附小島政二郎宛書簡(旧全集書簡番号六一三)で同展覧会を『今日見て感服』とある)に「日本橋俱樂部」で龍之介は清浦奎吾と同席した可能性をまずは考えてよいのではないかと私は思う。この年であったとすれば、清浦奎吾はこの前年に旭日章の最上位である勲一等旭日桐花大綬章を下賜されている。なお、細かいことを言うなら、彼が伯爵になるのは龍之介没後の昭和三(一九二八)年で、龍之介生存中の彼は子爵であった。以上は一部でウィキの「清浦奎吾」を参考にしている。]
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