小穴隆一「二つの繪」(38) 「影照」(13) 「車中の娘さん」
車中の娘さん
僕は女人たちに、「芥川さんはどういう女の人が好きだつたのですか、」と聞かれると簡單には説明できずに、どういふものかまはりくどい大正十四年の秋の娘さんを思ひだすのだ。さうして、輕井澤の歸り芥川、僕ちやん(比呂志君)蒲原たちの四人は田端でおりるので大宮で電車に乘りかへた、僕らのうしろからは下町風の質素な身なりの身だしなみのよい母娘が乘つてきて向ひ側に腰をかけた、娘さんが立上つて網棚に荷をあげようとする、電車が走つてゐるので二、三度よろめいてゐる、と、輕井澤にゐて、このてらになかときぐんやぶれきてはらきりたりときけばかなしも、と言つてゐて氣色がすぐれず、僕の顏いろをみてゐた毎日のその芥川が、すうつと立つていつてその荷を棚にあげてやる、娘さんが芥川に禮を言つて席に腰をおろす、娘さんはこちら側の僕の左りの席に置いてあつた芥川のスーツ・ケースにじつと目をさらしてゐる。ケースについてゐる小さい活字の芥川の名刺が挿しこんである名札入れが垂れ下つて、娘さんの正面に向いてゐる。娘さんはやがて合點して、ちよつと芥川のはうをうかがつてからこつくりをするとつつましやかなほほゑみをうかべる。といふ情景を思ひだして話をしてゐる。
娘さんはどうして芥川の住所を知つたのか、芥川は、「こなひだの娘が禮のはがきをよこしたよ、」と言つてゐた。
僕はさういふまはりくどい話しをしたあとに、芥川と知合ひになつたばかりの頃、いつしよに町を步いてゐて、なんであつたか芥川が「僕は身なりが綺麗であつても馬鹿と步くのは恥づかしいと思ふよ、」と突然言つてゐたことを忘れずにつけ加へてゐる。
[やぶちゃん注:「大正十四年の秋」以下のシチュエーションは宮坂覺年譜によれば大正一四(一九二五)年九月七日。軽井沢の避暑は定宿の鶴屋旅館に於いて八月二十一日(到着)からで、小穴隆一の来軽は八月二十八日頃、長男比呂志は九月四日に弟子の蒲原(かもはら)春夫が連れて来た。
「芥川、僕ちやん(比呂志君)蒲原たちの四人は」いつもの小穴隆一独特の奇妙な書き方に気づく。後に「僕ら」とあるようにこの「四人」には小穴隆一が含まれている。「芥川、私、僕ちやん(比呂志君)蒲原たちの四人は」とすべきところである。
「輕井澤にゐて、このてらになかときぐんやぶれきてはらきりたりときけばかなしも、と言つてゐて氣色がすぐれず、僕の顏いろをみてゐた毎日のその芥川」以前の章「その前後」を参照。
「僕は身なりが綺麗であつても馬鹿と步くのは恥づかしいと思ふよ」芥川龍之介は大正七(一九一八)年十月発行の雑誌『婦人公論』に掲載された諸家アンケートの回答の一つと思しい「私の嫌ひな女」で以下のように述べている(リンク先は私の《芥川龍之介未電子化掌品抄》テクストの一つ)。
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要するに莫迦な女は嫌ひです。殊に利巧だと心得てゐる莫迦な女は手がつけられません。歷史上に殘つてゐるやうな女はどうせ皆莫迦ぢやない人だから、この場合ちよいと例にはなり兼ねます。それから又現代の婦人になると、誰彼と活字にして莫迦の標本にするのは甚失禮だから、これも同じく差扣へて置きませう。兎に角、夫人たると令孃たるとを問はず、要するに莫迦な女は嫌ひです。唯、莫迦と云ふ語の内容を詳しく説明する時間と紙數とに乏しいのは、遺憾ながら仕方がありません。
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とも述べている。]
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