小穴隆一「二つの繪」(43) 「河郎之舍」(2) 「河郎之舍の印」
河郎之舍の印
芥川の言ふ「書く會」、碧童の言ふ「行燈の會」での歌は、今日になると碧童のもののはうが昔を偲ばせる。
行燈ノ燈影ヨロコヒコヨヒシモ三人カアソブ燈影カソケキ
生キノ身ノ三人カヨレバ行燈ノ燈影ヨロコビ歌作リワブ
呉竹ノ根岸ノ里ノ鶯ノ靑豆タべテ君カヨロコフ
秋タケシ我鬼窟夜ノシチマナル三人ノアソヒミタマヨヒカフ
行燈ノ燈影ヨロコフ酒蟲ノあか歌いかに酒蟲の歌
幼ケナキコロヲ偲フハ行燈の燈影タノシミ寢し我かも
シツヤシツ行燈ホカケヨロベルウマ酒ノ醉身ヌチメクルモ
夜ヲコメテ行燈ホカケヨロコベル三人ノモノノ歌ヒヤマスモ
むらむらに黃菊白菊挿しあへる河郎の舍の夜のよろしも
白菊ノ花ノミタレヨ行燈ノホカケニミレハ命ウレシキ
(片假名平假名のまじりなど、碧童の醉筆のままに寫す。)
これら三十何年前の游心帖のなかに埋れたままになつてゐる、碧童の一連の歌をみてゐると僕は、「書く會をやらばや」の酒蟲ノアカヨロコベル行燈ノ主寂シモのその主の芥川、河郎之舍の名護屋行燈、淺草で買つた五圓の南京の鉢に蜂屋柿、陶物の杯臺(灰落しに使つてゐる)、和蘭陀茶碗、南京の鉢は淺草の瓢簞池に近い道具屋にあつたもので、それを買つた日には、背景に畫いた十二階を使つてゐる寫眞屋にはいつて、皆で寫眞を撮つてもらつたが、できたのをみると、香取さんがこしらへた鳥冠(とりかぶと)の握りのついた太い籐のステッキを手にして構へた、芥川の黑のソフトの上に、箱庭の五重塔のやうな十二階がのつて寫つてたなどの事を四、五日前のことのやうに思ひだすのである。芥川は、
河郎の舍の主に奉る
河郎の陸をし戀ふる堪えかねて月影さやにヒヨロト立ち出つ
[やぶちゃん注:底本では「河郎の陸をし戀ふる堪えかねて月影さやに月影さやにヒヨロト立ち出つ」となっているが、狂歌として見ても、「鯨のお詣り」を見ても、この下の句の二番目の「月影さやに」は衍字としか思えぬので、特異的に除去した。]
といふ碧童の歌のヒヨロに「このヒヨロト立ち出つはうまいなあ、」と感心してて、後日になつてやうやく、〔橋の上ゆ胡瓜投ぐれば水ひびきすなはち見ゆる禿のあたま〕といふ歌を僕に示してゐた。芥川が當日示してゐたものに
行燈の火影は嬉し靑竹の箸にをすべき天ぷらもがな
行燈の古き火影に隆一は柹を描くなり蜂屋の柹を
磐禮彦かみの尊も柹をすと十束の劍置きたまひけむ
といふ歌があつた。
河郎之會の印は、入谷住ひの碧童が(仲丙が篆刻家としての號、)今日は娘達の運動會を見にゆくのをたのしみにしてゐたが、雨でながれたものだからと言つて、刻むでゐたのを游心帖に押してみせた、それを僕が芥川に紹介し芥川の物になつた。(新書判全集、書簡六四一參照)當時僕は、河童はその河童の印にまで水に緣があるものなのかと思つてゐたものである。
小澤碧童は夜ふけ淺草の五錢の木戸の安來節に、人を押しわけてゆき、舞臺の女といつしよになつて大聲でゐるかと思ふと、その三味線を彈く盲の女がいく度か切れる糸をまさぐつてゐる、それをみておろおろと泣く、さういふ人であつた。
[やぶちゃん注:参考までに、中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の再版(昭和五三(一九七八)年)の小穴隆一著「芥川龍之介遺墨」に載る朱判の「河郎之舎」(かはらうのいへ:「いへ」の読みは先行する「鯨のお詣り」に基づく。言わずもがなであるが「かはらう(かわろう)」とは河童の別名である)の同印影を以下に示しておく。なお、篆刻者である小澤碧童は昭和一六(一九四一)年没であるから、彼の作品もパブリック・ドメインである。
「書く會」「行燈の會」(後者は「あんどんのくわい」と読む)については、岩波新全集未定稿後記及び第二十四巻宮坂覺氏編の年譜によって、大正九(一九二〇)年十一月二日に同定されており、この日、小穴隆一と小澤碧童の三人で「行燈の会」と称するものを開き、それぞれが俳句や短歌、俳画をものしたとする。或いは、同じ名称で同様のメンバーで同様の回を後にも開いた可能性もあるのかも知れぬ。
「行燈ノ燈影ヨロコヒコヨヒシモ三人カアソブ燈影カソケキ」「鯨のお詣り」では、
行燈(アンドン)ノ燈影(ホカゲ)ヨロコビコヨヒシモ三人(ニン)ガアソブ燈影(ホカゲ)カソケキ
と表記する。
「生キノ身ノ三人カヨレバ行燈ノ燈影ヨロコビ歌作リワブ」「鯨のお詣り」では、
生(イ)キノ身(ミ)ノ三人(ニン)ガヨレバ行燈(アンドン)ノホカゲヨロコビ歌作(ウタツク)リワブ
と表記する。
「呉竹ノ根岸ノ里ノ鶯ノ靑豆タべテ君カヨロコフ」「鯨のお詣り」では、
呉竹(クレタケ)ノ根岸(ネギシ)ノ里(サト)ノ鶯(ウグヒス)ノ靑豆(アヲマメ)タべテ君(キミ)ガヨロコブ
と表記する。
「秋タケシ我鬼窟夜ノシチマナル三人ノアソヒミクマヨヒカフ」「鯨のお詣り」では、
秋(アキ)タケシ我鬼窟(ガキクツ)夜(ヨル)ノシジマナル三人(ニン)ノアソビミタマヨヒカフ
と表記する。最終句は「御靈呼び交ふ」の謂いであろう。
「行燈ノ燈影ヨロコフ酒蟲ノあか歌いかに酒蟲の歌」「鯨のお詣り」では、
行燈(アンドン)ノ燈影(ホカゲ)ヨロコブ酒蟲(サカムシ)ノアカ歌(ウタ)イカニ酒蟲(サカムシ)ノ歌(ウタ)
と表記する。「アカ歌」は「吾が歌」の謂いであろう。
「幼ケナキコロヲ偲フハ行燈の燈影タノシミ寢し我かも」「鯨のお詣り」では、
幼(イト)ケナキコロヲ偲(シノ)ブハ行燈(アンドン)ノ燈影(ホカゲ)タノシミ寢(イネ)シ我(ワレ)カモ
と表記する。
「シツヤシツ行燈ホカケヨロベルウマ酒ノ醉身ヌチメクルモ」「鯨のお詣り」では、
シヅヤシヅ行燈(アンドン)ホカゲヨロベルウマ酒(ザケ)ノ醉身(ヨヒミ)ヌチメクルモ
と表記する。「ヌチ」は上代からある連語で、元は格助詞「の」に名詞「内(うち)」の付いた「のうち」の音変化したもの。「~の内」の意。「メクルモ」は「巡(めぐ)るも」の謂い。
「夜ヲコメテ行燈ホカケヨロコベル三人ノモノノ歌ヒヤマスモ」「鯨のお詣り」では、
夜(ヨ)ヲコメテ行燈(アンドン)ホカゲヨロコベル三人(ニン)ノモノノ歌(ウタ)ヒヤマズモ
と表記する。
「むらむらに黃菊白菊挿しあへる河郎の舍の夜のよろしも」「鯨のお詣り」では、
ムラムラニ黃菊(キギク)白菊(シラギク)挿(サ)シアヘル河郎(カハラウ)ノ舍(イヘ)ノ夜(ヨル)ノヨロシモ
と表記する。
「白菊ノ花ノミタレヨ行燈ノホカケニミレハ命ウレシキ」「鯨のお詣り」では、
白菊(シラギク)ノ花(ハナ)ノミダレヨ行燈(アンドン)ノホカゲニミレバ命(イノチ)ウレシキ
と表記する。「鯨のお詣り」では歌の順序が異なり、しかも本書では小穴隆一はわざわざ「片假名平假名のまじりなど、碧童の醉筆のままに寫す」と注している以上、「鯨のお詣り」のデータよりも、こちらの方がより正確なものであると考えてよい。
「酒蟲ノアカヨロコベル行燈ノ主寂シモ」は「鯨のお詣り」でも、この未完成状態で本文挿入がされている(「酒蟲(サカムシ)ノアカヨロコベル行燈(アンドン)ノ主(アルジ)寂(サビ)シモ」とルビを振る)。
「名古屋行燈」(なごやあんどん)は角行灯 (かくあんどん) の一つで、火袋(ひぶくろ)の枠を細い鉄で作ったもの。江戸中期以降に用いられた。
「蜂屋柿」(はちやがき)柿の一品種で渋柿。果実は大きく長楕円形で頂部は鈍く尖る。岐阜県美濃加茂市蜂屋町の原産で、非常に古くから干し柿としたもの。「美濃柿」とも呼ぶ。
「背景に畫いた十二階を使つてゐる寫眞屋にはいつて、皆で寫眞を撮つてもらつた」この写真は、鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)の一〇八ページの「了中先生渡唐送別記念会」(「了中」は芥川龍之介の古い俳号の一つ)写真として見ることが出来、確かに芥川龍之介は写真の左端にあって、「香取さんがこしらへた鳥冠(とりかぶと)の握りのついた太い籐のステッキを手にして構へた、芥川の黑のソフトの上に、箱庭の五重塔のやうな十二階がのつて寫つて」いる。「香取さん」は鋳金工芸師香取秀真(明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の田端の家のすぐ隣りに住み、龍之介とは友人でもあった。「鳥冠(とりかぶと)」写真のステッキの柄は小さくてよく確認は出来ないが、どうもモクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属
Aconitum の花の形を模した金属製の握りのように私には見える。
「仲丙」以下の書簡では、宛名に「仲平先生」とあり、「鯨のお詣り」では「仲丙(ちうべい)」「仲平(ちうべい)」と二様に出ていることから、これらはてっきり「仲平」の誤植かとも思ったが、小穴隆一著「芥川龍之介遺墨」のこの陰影の脇にははっきりと「小沢仲丙刻」とあるから、これも号の一つであったらしい。小澤の本名は清太郎であったが、後に西徳・忠兵衛とも称し、この「忠兵衛」を篆刻で彫り易いように簡略化した号かとも推測される。
「河郎の舍の主に奉る」「かはらうのいへのあるじにたてまつる」。「鯨のお詣り」のルビに拠る。
「河郎の陸をし戀ふる堪えかねて月影さやにヒヨロト立ち出つ」「堪え」はママ。「鯨のお詣り」では、
河郎(かはらう)の陸(くが)をし戀(こ)ふる堪(た)へかねて月影(つきかげ)さやにヒヨロと立ち出づ 碧童
の表記で出る。
「橋の上ゆ胡瓜投ぐれば水ひびきすなはち見ゆる禿のあたま」これは大正九(一九二〇)年から大正十一(一九二二)年に書かれたと思しい芥川龍之介の手帳「蕩々帖」(署名は「我鬼」)の中に記された短歌の一首。そこでは、
橋の上ゆ胡瓜投ぐれば水ひびきすなはち見る禿のあたま
となっている。但し、音数律からみても「見る」は「みゆる」と読ませていると考えてよい。後の大正十一(一九二二)年四月二十五日から五月二十九日までの二度目の長崎行の際、五月十八日に渡辺庫輔や蒲原春夫らの案内で丸山遊郭の待合「たつみ」に遊び、東検番の名花と謳われた名妓照菊(本名・杉本わか)に、銀屏風に乳房のある「水虎晩帰之図」を描き与えた際に吟詠されたと思しい二首の内の一首に同じ歌があり(そこでは「戲れに河郎の圖を作りて」の前書がある)、そこでは龍之介は「禿」を「かむろ」と読ませたようである(芸妓への贈答句なら確かに「かむろ」がよい)。訓じていたようである。意は無論、皿になった禿(はげ)頭のことである。個人的には「とくろ」と読みたくなることを附け加えておく。「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を参照されたい。
「行燈の火影は嬉し靑竹の箸にをすべき天ぷらもがな」「當日示した」とあるように、これ以下三首は現在、この大正九(一九二〇)年十一月二日「行燈の會の歌」での芥川龍之介の吟とされる。同じく「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」を参照されたい。
「行燈の古き火影に隆一は柹を描くなり蜂屋の柹を」「柹」は「柿」の本字。
「磐禮彦かみの尊も柹をすと十束の劍置きたまひけむ」「磐禮彦かみの尊」「いはれひこ(いわれひこ)かみのみこと」と読む。神武天皇の和風諡号で、「古事記」では「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれひこのみこと)」、「日本書紀」では「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)」と称する。「をす」は「食(を)す」。「十束の劍」は「とつかのつるぎ」と読む。日本神話に登場する剣で、一束(ひとつか:拳一つ分の幅)を十並べた長さの長い直刀の意。以下、ウィキの「十束剣」から引用する。『一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされる』。『最初に登場するのは神産みにおいてイザナギがカグツチを斬る場面である。この剣には、天之尾羽張(あめのおはばり)または伊都之尾羽張(いつのおはばり)という名前がついている(伊都之尾羽張という名前は、その後タケミカヅチの父神の名として登場する)。その後、黄泉の国から逃げる際に、十拳剣を後手(しりへで)に振って追っ手から逃れている』。『アマテラスとスサノオの誓約の場面では、古事記ではスサノオが持っていた十拳剣からアマテラスが』三柱(はしら)の『女神を産んでいる。最も有名なのはヤマタノオロチ退治の時にスサノオが使った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」』(「羽々」とは「大蛇」の意)で、『ヤマタノオロチの尾の中にあった草薙剣に当たって刃が欠けたとしている(この十拳剣は石上布都魂神社に祭られ崇神天皇の代に石上神宮に納められたとされる)』。『山幸彦と海幸彦の説話では、山幸彦が海幸彦の釣り針を無くしてしまったため、自分の十拳剣を鋳潰して大量の針を作っている』。『葦原中国平定の説話において、アメノワカヒコの葬儀に訪れたアジスキタカヒコネが、怒って十掬剣で喪屋を切り倒している。その後、タケミカヅチらが大国主の前で十掬剣を海の上に逆さまに刺し、その切先にあぐらをかいて威嚇している。この剣は後に神武東征の場面において神武天皇の手に渡る。そこに、この剣が佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)または布都御魂(ふつのみたま)という名前であると記されている』。『仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手がそれぞれ白銅鏡、八尺瓊と共に十握剣を差し出して降伏している』とある。
「新書判全集、書簡六四一」私は新書版全集を所持しないので確定は出来ないが、恐らくは旧全集書簡番号八一五、大正九(一九一〇)年十二月六日附田端発信の小澤忠兵衛(碧童のこと)宛の以下の書簡、
*
合掌 御手紙難有く頂きました相不變毎日原稿に惱まされてゐます 昨日も折柴改造の社長と同道にて參り何でも六日中に脱稿を賴むとの事にて今日は嫌々ながらずつとペンを握りつづけですその後私雲田と云ふ號をつけると申した所、大分諸君子にひやかされました雲田の號がそんなに惡いでせうか 小穴先生に聞けば蜆川あたりはの御歌畫箋紙に御書きになつたのがある由頂戴出來るなら頂戴したく思ひますそれから河郎舍の印も頂戴しないとつぶされてしまふ由欲張つてゐるやうですが頂かせて下さいこれも小穴先生の入知惠です何しろ原稿の催促ばかりされてゐる爲一向歌も句も出來ません仕事をしまつたら一日ゆつくり風流三昧にはひつて見たいと思つてゐます風流三昧と云へば小穴先生に素ばらしい鷄の畫を貰ひました意淡にして神古るとでも云ひたさうな畫ですあゝなると河童ではとても追ひつきませんこの頃でも時々氣が滅入つて弱ります
僅に一首
苦しくもふり來る雨か紅がらの格子のかげに人の音すも
その内又參上愚痴を聞いて頂きます 頓首
十二月六日 龍之介
衷平先生侍史
*
を指すものと思われる。文中の急かされた原稿は雅号のところで知れるように、前章に出た、かの大正一〇(一九二一)年一月一日発行の『改造』初出の「秋山圖」である(脱稿は鷺只雄氏が前年の十二月七日、宮坂覺氏が九日頃とする。この八一五書簡の前の八一四書簡は同月六日附瀧井孝作宛で、それを見ると、この六日には「秋山圖」の改稿した一部(途中まで)を送付していることが判る)。「神古る」は「かみさぶる」と読む上代語で、神々しく人間離れした性質・状態を現わし、恋している心持ちとは正反対の様態を示す語として用いられる。]