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2017/01/13

小穴隆一 「二つの繪」(18) 「帝國ホテル」

 

     帝國ホテル

 

「どうもやうすが變です、」

 春の一日(昭和二年)下宿のはやい夕飯を食べ終るところに、いつもとちがつたやうすで一人で廊下に立つて、さう言つてゐる芥川夫人をみた。

「夕方どこにゆくとも言はずにぶらつと出かけていつたのですが、どこにいつたのかわからないのです、」

 少しせきこみがちに言ひながら夫人が坐つた。

「まあ、」と僕が膳をさげさせようとしたそのときに、開いてゐた入口の障子のところに麻素子さんの顏がのぞいた。

「まあ、」

「まあ、」

「いまお宅にあがらうと思つてゐたのですが、」

「わたしもいまお宅にあがらうと思つてゐたところなんです、」

と、言つてゐる麻素子さんと芥川夫人をみて、僕はそのやうすにとまどつた。麻素子さんは僕を下宿に訪ねてきたことのない人であるし用件がわからない。芥川夫人は「どこにいつたんだかわからないんですよ、」と麻素子さんに言つてゐる。

「心あたりもありますから搜しに出かけてみませう、」と僕が芥川夫人に言ふと、

「では、どうかよろしく、」

と言つて、夫人はそのままいそいで歸つていつてしまつた。

 僕の心あたりといふのは、帝國ホテルと淺草の待合春日(春日とよが女將であつた)の二ケ所であつた。(芥川は時には、このニケ所で原稿を書いてゐた。)

 麻素子さんと僕は芥川夫人に一ト足後れて下宿を出た。

 雨があがつてゐたのか降つてゐたのか、麻素子さんは傘を持つてゐた。十五六間ほど步いたところで麻素子さんは、文子さん(芥川夫人)にはただ一人の友達である立場、その人の夫の芥川に困惑してゐるいまの氣持がわかるかといふことを言ひだした。(その時、僕は麻素子さんに、あなたでなくとも、どの婦人にでも取縋らうとするのが、いまの芥川ではなからうか、と言つたと憶えてゐる。)

 僕は麻素子さんにさういふことを言ひだされても、格別驚きはしなかつたので、田端の驛の裏出口、芥川の家、さうしてまた近くと開いてゐる麻素子さんの家、それぞれの丁度なかばあたりで、「あなたは、」と麻素子さんに聞いてゐた。

「わたし……」と麻素子さんは一寸立止つて、

「わたしも今日は有樂町の家に行きます、」と言つた。 

 

 驛に下りる石段で、霞に烟る三河島の一帶、(數ヶ月後に、死體となつた芥川を燒いた火葬場の烟突が三本見える。)淺草方面のほんのりと見える灯、それを見たら、心あたりとしてゐる春日、帝國ホテル、もし、この二ケ所のうちで芥川を捉へられないとすると、鎌倉の小町園まで行つて(ここの女將のことは宇野の書いた「芥川龍之介」にでてくる)きつと捉へるが、十二時までに間に合ふか(僕は、芥川が十二時までは生きてゐると考へてゐた、)一寸考へさせられた。

「さつき、文子さんの前では言へなかつたのですが、芥川さんの行つたさき、ほんとはわたし知つてます、帝國ホテルにゐます、……」

と麻素子さんが言つてくれた、(麻素子さんは落ちついた人である。僕にそこまでとは氣づかせてゐなかつた。)その麻素子さんをたよりにして僕は、有樂町までの切符を買つた。麻素子さんは、省線のなかでまた麻素子さんの立場を言つてゐた。さうして有樂町の驛で降りると、有樂町の家に歸らずに、僕を案内して、正面の入口からでなく、側面の小さい出入口をえらんでそこから僕をホテルに導いていれた。(僕はよく勝手を知つてゐる麻素子さんを一寸疑つたが、あとで芥川から彼女の父がホテルの支配人とは知合ひであると説明された。)帳場のところまで麻素子さんに案内されて、僕がその場の人に芥川が泊つてゐるかどうかと聞くと、

「さきほどおみえになりまして、また、どちらかへお出かけになりました。」「お歸りになるにはなります。」と帳場の人が言つた。

 僕は麻素子さんを信用し、帳場の人の言ふことを信用して、麻素子さんとホテルのそとにでた。

 麻素子さんは僕と步いてゐる、芥川といつしよに死にはしない。僕はそこらで時間をつぶしませうと麻素子さんとそとにでたが、芥川はいづれ麻素子さんと死ぬつもりで戾つてくるであらうが、もう見こしがついた芥川の居どころを一刻もはやく、芥川の家に知らせたくなつてきて、時間は大丈夫だから、僕はひとまづ田端に知らせにゆくが、あなたは、と、ホテルの近邊と聞いてゐた彼女の兩親の家のことを考へて言つた。

「それぢやあ、わたしもいつしよにまゐりませう。」

と、急に麻素子さんも僕といつしよに田端に逆戾りした。

 芥川の門を潛つて、夫人、伯母、養母、義ちやんの顏をみた。僕はその人達よりも一と足さきに階段をのぼつていつた。僕は二階の芥川の書齋の隅によせられてしまつてゐる机の上の袋にはいつた部厚な物、ただそれだけがのせてあつたその机の上の物に注目した。

(芥川夫人は忙しく書齋の隅々に目をつけてゐたやうすであつた。といふのは、芥川はいつも遺書のやうなものを書いてゐて、夫人が、やたらそこらへんにおいておくので、女中達が掃除のときに讀んでしまつてゐるらしく、ほんとに困つてしまふんです、と言つてたやうに、さういふ物を書物の間に挾むとか、道具の蔭に隱しておくなぞはよくあつたことであるから、)

 僕は机の上のハトロン封筒の表に思ひがけなく、小穴隆一君へ、と書いてあるのを手にとつて中をみた。封筒の中には「或阿呆の一生」の原稿だけであつた。「或阿呆の一生」は、後に、〔僕はこの原稿を發表する可否は勿論、發表する時や機關も君に一任したいと思つてゐる。君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は發表するとしてもインデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。僕は今最も不幸な幸福の中に暮してゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯、僕の如き惡夫、惡子、惡親をもつたものたちを如何にも氣の毒に感じてゐる。ではさやうなら、僕はこの原稿の中で少くとも意識的には自己辯護をしなかつたつもりだ。最後に僕のこの原稿を特に君に托するものは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都會人と言ふ僕の皮を剝ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。昭和二年六月二十日 芥川龍之介 久米正雄君 となつてゐたものだが、僕がここに久米宛の手紙まで引用したのは、芥川が闇中問答を葛卷に與へてゐたとおなじやうな目的で、はじめは僕に「或阿呆の一生」の原稿を渡さうとしてゐたことを言つておきたいからだ。おなじやうな目的、「最後の會話」の章參照〕[やぶちゃん字注:太字「意識的」は底本では傍点「ヽ」。以下の二ヶ所の「ば」も同じ。]

 僕は芥川の書齋で、夫人に、芥川が帝國ホテルに宿をとつてゐたこと、十二時頃ホテルに歸つてなにか書置を書くとして二時頃自殺を決行、僕のこの推察には誤まりはなからうこと、時間はまだ間にあふ點、さうして、芥川の身をほんたうに不安に考へてゐるならば、芥川を自分のものだと思ふのなら、とにかくホテルに僕とまたいつしよにいつてみないかと言つた。僕は麻素子さんの前で、とにかく自分のものと思ふならに力をいれてゐたやうだ。(芥川はあとで僕に、女房にでも自分のものだと、さういつた考へを持たれて生きてゐるのは、自分はいやなんだ。と言つてゐた、)

 が、夫人は返事をしなかつたのである。

 僕は鵠沼にゐるとき、「子供の着物を買ひに行くが、いつしよに散步に横濱に行かないか、」「東京だと年寄がやかましくて、女中にやる盆暮の安反物さへなかなかの面倒だ。」と言つてゐた芥川夫妻を知つてゐるので、夫人を默らせてゐる年寄達に憤慨した。

「では、下で年寄達がなんと申しますか、一應年寄にたづねてみます、」

 僕が義ちやんと三人でゆきませうといつたときに、夫人ははじめて口をきつてさう言つた。が、夫人が下にいつてから相當待たされたので、僕は、その間二階で、死にたがつてゐる芥川を日頃よろしくと言つてをりながら年寄達は何事だと腹を立ててゐた。

 ――やうやく僕達三人は坂を下つて動坂の電車通りにタクシを拾ひに出た。

 麻素子さんは芥川の家に近い彼女の兄の家に泊つた。

 街も既に寢靜つてゐた。 

 

 ――號室、3の字があつた室であつた。

「おはいり、」

と、大きな聲で呶鳴つたのは芥川である。

 僕達はドアを開けて、ベッドの上に一人ふてくされてゐる芥川をみた。

「なんだ、お前まできたのか、歸れ――」

 三人が三人ともまだ全部室のなかにはいらないうちに、芥川は「おはいり、」と言つたその時よりも大きな聲で義ちやんに呶鳴つた。

「歸れといふなら歸りますよ、」

「そんなら、なぜまた自分がこんな人騷がせをするんです、」

と、こみあげて泣きだしてゐた義ちやんは、つづけてさう呶鳴り返すと、一步足を室に踏みいれただけで、田端に戾つて行つた。 

 

 芥川と芥川夫人、僕の三人になつた。

「麻素子さんは死ぬのが怖くなつたのだ。約束を破つたのは死ぬのが怖くなつたのだ。」

 ベッドに仰向けになつたままの芥川は呶鳴るやうなうつたへるやうな調子で起きあがつた。

(一寸、舞臺を眺めてゐるやうな思ひででもある。)

 もう夜中である。

 三人のこころが迷つたとき、(夫人が泊つてゆくか、僕が歸るか、別の室をとるかと思つてゐるとき、)

「わたしは歸ります。」

と言つて、芥川夫人が廊下へ消えていつた。 

 

 芥川と二人になつた僕は、ただ眠かつた。喉がかわいて無性に水が飮みたくなつてしまつた。僕は空いてゐるはうのベッドへはいつて、義足をはづして仰向けになつた。スチームが強かつたので、毒がはいつてゐて明日の朝は芥川といつしよに冷たくなつてゐても、もう仕方がないとあきらめて、枕もとの水壜を手にとつた。水はごくんと音をたてて喉にはいつた。 

 

「もつと早くホテルに來て早く死んでしまふつもりであつたが、家を出るとき堀辰雄がきて、いま東京中を自動車で乘廻す小説を書いてゐるのだが、金がなくて車を乘りまはせないと言つてゐたから、ついでだからいつしよに東京中乘りまはしてゐて遲くなつた。」

「眠れないなら藥をやらうか、」

 僕はうとうとしてて芥川がさう言つてるのを聞いた。 

 

 芥川は、帝國ホテルは、種々の國際的人物が宿泊する關係上、時たま自殺者があつても、表沙汰にならないといふことを關係者側の人からの又聞きの又聞きで聞いたといふ。それで帝國ホテルで死ぬことにしたといつてゐた。麻素子さんが教へたと言つてゐた。 

 

 ベッドのなかで義足をはづして橫になつたときに、睡眠藥をのんで向ふむきになつて毛布をかぶつた芥川をみた。しかし僕はただもう眠つてしまつてゐた。目がさめたときに、芥川のかぶつてゐる毛布が動いた。僕は救はれた氣がした。僕らは何時間眠つてゐたのだらうか、

「おはいり、」

 芥川の聲でボーイがはいつてきた。ボーイの顏をみたら、朝だ、といふ氣が急にした。ボーイは見慣れざる客の僕をみたやうである。ボーイが立去ると芥川は小さい聲で、「僕は食堂に出る着物ぢあないんだ。」と言つた。僕は、父が何年か着ふるした服を着てゐるので、夜でなければ堂々と室外に出てゆけぬだらうと息苦しくなつてきた。 

 

 けふもまた逃れられない僕だと觀念した。窓の向側(現在、東京寶塚劇場の側)の建物には陽があたつてゐる。金目のかかつた建物かは知らないが、薄暗い室で、朝餐か晝食かわからない物を食べ終ると、芥川はカフエをすすりながら向側の建物に目をやつて、

「向ふのあの室ではもう、阿部章藏が僕らがここにかうしてゐる事をなにも知らず働いてゐるだらう。」(阿部章藏は水上瀧太郎のこと、)

と言つた。僕は窓の下を步いてゐる人達がただ羨しかつた。たばこに火をつけると芥川は、

「日本の文壇を根本的に批評していくには、どうしても日本にゐては自分には出來ない。(この言葉は「饒舌錄」による谷崎潤一郎との間の論戰によるものか、但しこの論戰は僕には、芥川が單に谷崎との舊交の思出に親しんでゐたといふやうに思はれる。芥川はよく谷崎の逞しさをいつて、芥川流に僕を勵ましてゐたものである。)巴里の魔窟のなかに暮してでなければ駄目だ。(巴里の魔窟に住むで亂倫不逞の生活をして、弱い性格をくろがねのやうにたたきあげるといふ言葉は、幾度か彼の口からでた。彼は彼の顏を寫眞になどしない國で、無賴の徒の間に伍して暮さうといふのである。)谷崎は今日既に駑馬として終り、佐藤春夫はこれまた過渡期の人間である。自分も顧みれば既に過渡期の人として過ぎてきた。自分の仕事といふものは既に行きづまつてしまつた。自分は仕事の上では今日までは如何なる人々をも恐れてはゐなかつた。また、さうしてやつてきた。智惠では決して人に負けないと信じてきてゐたが、ここに唯一人自分にとつて恐るべきは志賀直哉の存在だ。恐るべき存在は志賀直哉であつた。志賀直哉一人だ。志賀直哉の藝術といふものは、これは智惠とかなんとかいふものではなく、天衣無縫の藝術である。自分は天下唯一人志賀直哉に立ち向ふ時だけは全く息が切れる。生涯の自分の仕事も唯一人志賀直哉の仕事には全くかなはない、」とゐずまひをただして暗然たるかと思ふと、かつて、かたはらの雜誌をとつて、「この小説の冒頭の會話だけでも、既に僕らにはかういふ新時代の會話が書けない。」と僕に言つてゐたその作者の、佐佐木茂索がその後なにも書いてゐないのを嘆いてゐた。

 芥川は夫人が迎へにきた時まで、何時間かの時間を、すさまじい必死で一人でしやべりつづけてゐた。夫人とかはつて、すぐホテルを出た僕の顏をあたためてくれたのは午後の遲い日ざしであつた。

[やぶちゃん注:既に注した昭和二(一九二七)年四月七日の平松麻素子との帝国ホテルでの心中未遂の小穴証言による顚末である。この事件は不明な点も多く、鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)では、この日付を四月十六日としつつ、『七日とする説もある』とするが、実は

現行では、この帝国ホテルでの心中或いは自殺未遂は――実に二回もあった――と考えられている

現在の最新の宮坂覺氏の新全集の年譜では

第一回目を七日に断定

しており、これはそれである。宮坂によれば、この七日、『「歯車」の最終章「六 飛行機」を脱稿した後、田端の自宅から帝国ホテルに向かう。この日、帝国ホテルで平松麻素子と心中を計画していたとされる』。『但し、平松は芥川の気持ちを静め、自殺を食い止めようとしていたものとも考えられ』、『平松が、小穴隆一の下宿を訪ね、文、小穴、葛巻魏義敏の三人が駆けつけ、未遂に終わる、この日は、そのまま小穴と二人で帝国ホテルに宿泊』と記す。但し、この記載の主要部分はこの小穴隆一の記載と、芥川文述・中野妙子記「追想 芥川龍之介」(一九七五年筑摩書房刊)に依拠するものである点には注意しておく必要がある。

二回目の帝国ホテルでの心中未遂について宮坂は五月上旬或いは下旬としている

以下、宮坂年譜。『再び帝国ホテルでの自殺を計画したが、未遂に終わる』。この時もやはり『平松麻素子の知らせで文たちがホテルに駆けつけた時には、服薬した後で昏睡状態にあったが、手当てが早かったため、覚醒』したとし、『文は「後にも、先にも、私が本当に怒ったのはその時だけ」とし、この時の芥川が珍しく涙を見せたことを』「追想 芥川龍之介」の中で『回想している』とある(下線はやぶちゃん)。

 なお、平松麻素子(明治三一(一八九八)年~昭和二八(一九五三)年)について少しここで述べておくと、戸籍上の名は「ます」で高輪の生まれ。文の幼馴染みで、文より二歳年下、龍之介より六歳年下であった。父平松福三郎は弁護士・公証人で、有楽町に法律事務所兼ねた公証人役場を営業していたが、大正八(一九一九)年に職を投げ打ち、出口王仁三郎の大本教に入信、東京支部長となった。麻素子は若くして結核に罹患、東京女学館を卒業後は家事手伝いをし、病気もあって婚期を逸していた。当初は、大正九(一九二〇)年に発表する「秋」の執筆に際して、当時の女性の風俗を龍之介に解説して貰うために文自身が龍之介に紹介したものである(前記「追想 芥川龍之介」)。関東大震災で高輪に家を焼け出された平松一家は、一時、福三郎の長兄の住む田端に身を寄せたことなどから、近くの芥川家との訪問が頻繁となり、龍之介の晩年には文が龍之介の疲弊した神経を慰めて呉れるであろうこと、及び、彼の自殺を監視させる目的をも暗に含んで、龍之介との交際を文も勧めていたようである。ここで小穴が述べるように、父の縁で晩年の芥川の仕事場として、帝国ホテルを斡旋したのも彼女とされる。戦後になって結核が悪化、国立武蔵療養所に入院したが、ほどなく逝去し、本書刊行時(昭和三一(一九五六)年)には既に鬼籍に入っていた。

「淺草の待合春日(春日とよが女將であつた)」既出既注

「十五六間」二十七~二十九メートル。

「鎌倉の小町園まで行つて(ここの女將のことは宇野の書いた「芥川龍之介」にでてくる)」「女將」は芥川龍之介の愛人の一人と目される野々口豊(既婚者)。括弧書きの部分は、私の宇野浩二「芥川龍之介」の上巻下巻を「野々口豊」で検索されたい(私の注で掛かる)。但し、宇野は上巻で『小町園』の女将(『お上』『おかみさん』)として出しているだけで、「野々口豊」の名は出してはいない。

「僕は、芥川が十二時までは生きてゐると考へてゐた」何だか、予言めいて意味深長だ。直後に麻素子にも「時間は大丈夫だから」とまで断言しているのだが、要は後で出るように、「芥川が帝國ホテルに宿をとつてゐたこと、十二時頃ホテルに歸つてなにか書置を書くとして二時頃自殺を決行」という「僕のこの推察には誤まりはなからう」と踏んだからに過ぎないことが判る。或いは、この帝国ホテル自殺未遂第一回の時は、麻素子が行かない限り、龍之介は心中が失敗したと理解して、独りで自殺はしないと踏んだものでもあろうかとは思われる。こうした隔靴掻痒が小穴の謂い方にはしばしば現われる。私は何となく芸術家肌の人間にありがちな、クソ霊感みたようで気分が悪くなる部分ではある。

『「或阿呆の一生」の原稿だけであつた。「或阿呆の一生」は、後に、……』決定稿は芥川龍之介の死後、昭和二(一九二七)年十月一日発行の雑誌『改造』に掲載されている。しかし私の或阿呆の一生 附未定稿(草稿)」の冒頭注で私が述べた通り、この叙述に従うならば、「或阿呆の一生」は当初は小穴隆一に託すつもりであったことになり、私は、旧友久米正雄よりも遙かに、この小穴隆一こそ、「君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう」「この原稿を特に君に托するものは君の恐らくは誰よりも僕」「都會人と言ふ僕の皮を剝」いだ僕「を知つてゐると思ふからだ」と龍之介から言われてしかるべき人物であると考えている。或いは、まさにこの帝国ホテル事件に於いて、自殺を邪魔した結果となった小穴隆一に対する、ある種の失望感こそが、「或阿呆の一生」を渡す相手を久米に変更する動機となったのではないかとも推理するのである。以下の、現行の「或阿呆の一生」冒頭久米正雄宛の前書きは読点や表記の一部の違いを除けば、特に引用に問題はない(上記リンク先で対照されたい)。なお、『改造』に発表された折りには、この芥川龍之介の前書きに続いて、実は久米正雄の識文が附加されてある。これは、まず、現行の「或阿呆の一生」とセットで読まれることがなく、未知の方も多いと思われるので、やや場違いとは思うが、ここでそれを以下に電子化しておくこととする。底本は岩波旧全集の後記にあるものを用いた。なお、久米は既にパブリック・ドメインである。

   *

 右の遺志に依り、私は此處に此の原稿を發表する。時期も場所も、最も自然な狀態だと信じて。――が、其點に就て、幾らかの粗洩があるとすれば、遺靈に對して詫びる外はない。

 云ふ迄もなく、是は故人の「自傳的エスキス」である。(原稿にはさう割註がしてあつて、抹消されてある。消してある文句を、玆に發表するのも如何かとは思はれるが、幾らかでもさう云ふ割註をしたい意志があつたやうに思ふので、玆に敢て補註して置く。)が、更に云ふ迄もなく、是は一個の「作品」である。私は此の發表に際して、故人が私に囑した如く、私から讀者に、此の中に出て來る人物に對して、ヂヤーナリスティツクな、乃至はゴシップ的な、違ふ形式の「インデツクス」は付けずに置いて貰ひたいと思ふ。

 それから原稿には、左の脱字乃至は誤字と目さるべきものがある。もつとあるかも知れないが、氣付いたものだけを記して置く。明に誤字だと分つては居ても、訂正する事が出來ないのは悲しい。

 以上、遺文を汚す恐れを抱き乍ら、敢て數行のプレフェースを付ける。インデックスでないから故人も許して呉れるだらう。(久米正雄識)

   *

「粗洩」はママ「粗漏」の誤記或いは久米の癖か。また、この第三段落の叙述については、旧全集後記に、同初出の篇末には『「或阿呆の一生」中語句の誤りであらうと思はれるところを久米さんが左の如く指摘して下さいました(記者)」として』『正誤表が付されている。なお疑念部分は訂正することなく本文に傍點を付し、そのまま組まれている』とある。

「芥川が闇中問答を葛卷に與へてゐた」「闇中問答」は昭和二(一九二七)年九月発行の雑誌『文藝春秋』九月号(芥川龍之介追悼号)に「闇中問答(遺稿)」の題で掲載されたもの(リンク先は私の古い電子テクスト)。芥川龍之介が「闇中問答」の原稿を無言で葛巻義敏の部屋に投げ込んでいったという記事をどこかで読んだ記憶があるのであるが、捜し得ない。見つかり次第、追記する。平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の「芥川龍之介作品事典」の「闇中問答」の項(今野哲氏執筆)によれば、「闇中問答」の執筆時期については、初出誌の「編集後記」で菊地寛が『「昨年末若しくは今年初のもの」と推定している』とある。

「最後の會話」後掲される章。

「年寄達」芥川道章と妻トモ及び龍之介の伯母フキの三人。

「タクシ」ママ。

「毒がはいつてゐて明日の朝は芥川といつしよに冷たくなつてゐても、もう仕方がないとあきらめて、枕もとの水壜を手にとつた。水はごくんと音をたてて喉にはいつた」小穴隆一には悪いが、これこそ芝居染みた謂いである。

「堀辰雄がきて、いま東京中を自動車で乘廻す小説を書いてゐるのだが、金がなくて車を乘りまはせないと言つてゐたから、ついでだからいつしよに東京中乘りまはしてゐて遲くなつた」このような事実は年譜上は記されていない。「堀辰雄」の「東京中を自動車で乘廻す小説」は完成されたものかどうかも不詳。識者の御教授を乞う。

「東京寶塚劇場」現在も帝国ホテルの道を隔てた北東側にある。阪急電鉄の小林一三が設立した株式会社東京宝塚劇場(現在の東宝)によって、昭和九(一九三四)年に開館した(本「二つの繪」は昭和三一(一九五六)年刊)。ウィキの「東京宝塚劇場」によれば、『第二次世界大戦中は、日本劇場とともに風船爆弾工場として使用された。一方で、戦争が終わるとGHQにより接収され』(昭和二〇(一九四五)年十二月二十四日から昭和三〇(一九五五)年一月二十七日まで)、『異文化の国に駐留する兵士達の慰問を目的としたアーニー・パイル劇場
Ernie Pyle Theatre)と改称、日本人は観客としての立入が禁止された』(アーニー・パイルという名は昭和二〇(一九四五)年四月十八日に『沖縄県伊江島の戦闘で殉職した従軍記者に因んだもの』)。接収解除後、宝塚の『星組公演『虞美人』で公演が再開された』。この時、芥川龍之介や小穴隆一が眺めた『開場以来使われてきた旧劇場は、関東大震災の復興期におけるモダニズム建築の傑作のひとつに数えられていたが、老朽化のため』、平成九(一九九七)年十二月二十九日に一旦、閉場して翌年一月から建替え工事が開始され、二〇〇一年一月一日に新築オープンしたものが現在のそれである。

「阿部章藏」「水上瀧太郎」「阿部章藏」は小説家・劇作家・評論家の水上瀧太郎(明治二〇(一八八七)年~昭和一五(一九四〇)年)の本名(泉鏡花に傾倒し、「水上」及び「瀧太郎」は孰れも鏡花の作品からとったペン・ネームである)。慶應義塾普通部から慶應義塾大学に進み、大学では永井荷風の教えを受けた。明治四四(一九一一)年から『三田文学』に短編を発表し、芥川龍之介とは大正六~七(一九一七~一九一八年)頃に新詩社の短歌会の席上で知り合い、水上の小説「紐育―リヴアプウル」(『新小説』大正八(一九一九)年六月発表)を高く評価し、大正一四(一九二五)年三月以降には鏡花を敬愛していた芥川及び谷崎潤一郎・里見弴・久保田万太郎らとともに「鏡花全集」の校訂・編集に当たっており、また、同年十一月に興文社から出版された芥川龍之介の渾身の編集になる「近代日本文芸読本」(全五集。著作権等のトラブル続きで龍之介を精神的に痛めつけた)の第五集には、水上の「昼―祭りの日―」が収録されている。

「饒舌錄」昭和二(一九二七)年三月号の『改造』に発表された谷崎潤一郎の評論。これは同年二月號の『新潮』に載った座談会の中で、芥川龍之介が谷崎の作品に触れて〈「話の筋」の芸術性〉を疑問視する発言をし、それが谷崎の癇に障って反論したもの。

「谷崎潤一郎との間の論戰」芥川はその「饒舌錄」に対して、「文藝的な、餘りに文藝的な」(昭和二(一九二七)年四月一日及び五月一日及び六月一日、八月一日発行の『改造』に掲載)、及び、『文藝春秋』に『改造』と同じく「文藝的な、餘りに文藝的な」の題で掲載(同年四月一日及び七月一日発行。こちらは没後に「續文藝的な、餘りに文藝的な」と改題された)した論文で反論した。私の「文藝的な、餘りに文藝的な(やぶちゃん恣意的時系列補正完全版) 芥川龍之介」を参照されたい。この芥川龍之介の最晩年に文学論争は、ある意味、棲む世界の違う作家同士の平行世界の無益な議論であって、芥川龍之介をダメ押しで精神的に疲弊させた元凶の一つであったと言ってよい。少なくとも小穴の言うような「芥川が單に谷崎との舊交の思出に親しんでゐた」というレベルの問題では、ない。

「芥川はよく谷崎の逞しさをいつて、芥川流に僕を勵ましてゐたものである。)巴里の魔窟のなかに暮してでなければ駄目だ。(巴里の魔窟に住むで亂倫不逞の生活をして、弱い性格をくろがねのやうにたたきあげるといふ言葉は、幾度か彼の口からでた。彼は彼の顏を寫眞になどしない國で、無賴の徒の間に伍して暮さうといふのである。)谷崎は今日既に駑馬として終り、佐藤春夫はこれまた過渡期の人間である。自分も顧みれば既に過渡期の人として過ぎてきた。自分の仕事といふものは既に行きづまつてしまつた。自分は仕事の上では今日までは如何なる人々をも恐れてはゐなかつた。また、さうしてやつてきた。智惠では決して人に負けないと信じてきてゐたが、ここに唯一人自分にとつて恐るべきは志賀直哉の存在だ。恐るべき存在は志賀直哉であつた。志賀直哉一人だ。志賀直哉の藝術といふものは、これは智惠とかなんとかいふものではなく、天衣無縫の藝術である。自分は天下唯一人志賀直哉に立ち向ふ時だけは全く息が切れる。生涯の自分の仕事も唯一人志賀直哉の仕事には全くかなはない」「駑馬」(どば)の原義は足ののろい役立たずの馬であるが、専ら「才能の鈍い人」の喩えに用いられる。この小穴隆一によって採録された発言は、私はストリー・テラーとして行き詰った芥川龍之介の末期(まつご)の本音として信じ得るものと心得る。

『「この小説の冒頭の會話だけでも、既に僕らにはかういふ新時代の會話が書けない。」と僕に言つてゐた』「その作者」「佐佐木茂索」私はこれが佐佐木茂索の何という小説の冒頭なのか分らぬ(というか、佐佐木の小説を不学な私は多分、一篇も読んだことがないのである)。識者の御教授を乞う。

「芥川は夫人が迎へにきた時まで」宮坂年譜によれば、この昭和二(一九二七)年四月八日は長男比呂志の小学校の始業式(二年のそれ)で、文はそれに出席した後に帝国ホテルに龍之介を迎えに来たのであった。だから「午後の遲い日ざし」なのである。但し、宮坂年譜はこれに続けて、この日、平松麻素子の私淑していた歌人『柳原白蓮のとりなしにより、星ケ岡茶寮で』、『麻素子、白蓮と昼食をとることになっていたため、文も誘ったが、』文は行かなかった、とあり(先の「追想 芥川龍之介」に拠る記載)、この「遲い日ざし」というのは、或いはやや小穴の脚色が入っている可能性が疑われないではない。この、この日の柳原白蓮とのことは次の「麻素子さん」の章に出る。]

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