柴田宵曲 妖異博物館 「鼠妖」
鼠妖
延享何年であつたか、金澤堅町橫小路の脇田某の長屋で鼠が非常に荒れて、衣類道具は勿論の事、金物類まで傷つける。長持や簞笥などへ、幾重かにして入れたものも食ひ破られた。鼠を防ぐ手段はいろいろ講ぜられたが、容易にやむ樣子がない。たゞ不思議なことは、石坂町の甚助といふ者の娘で、十二歳になるのが奉公に來て居つたが、この娘の衣類、手道具、紙や鬢附油に至るまで、少しも損害がない。多分この娘の仕業だらうといふことになつて、傍輩から主人に訴へた。主人も腑に落ちぬものの、輕々しく決するわけに往かず、先づ鼠狩りに力を入れて見たが、鼠落しにも落ちず、猫にも捕られず、毎晩鼠の荒れるに任す狀態なので、結局この娘を詮議するより外に途がなくなつた。直接問ひ糺して見るのに、何分返答が不明瞭である。暇を出して石坂町へ返すと、その晩から鼠は全く出ず、かたりといふ音も聞えない。あまり不思議で堪らぬから、もう一度呼び戾して、ひそかに聞いて見た。娘の答へはかうであつた。
[やぶちゃん注:「延享」一七四四年から一七四七年。
「金澤堅町」現在の石川県金沢市竪町(たてまち)のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここは「堅町」で、以下に引く原典では「立町」の表記であるが、ウィキの「竪町(金沢市)」によれば、『「竪」の字が一般的でなく、また片町(かたまち)と』北西で『隣接していることもあってか、しばしば「堅町」と表記されることがある』『が、誤りである』とある。
「石坂町」現在の石川県金沢市野町附近と推測される。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
「實は私が夜眠りますと、鼠が澤山來て胸へ上るまでは覺えて居りますが、それから先は夢中でございます。箱をあけたり、長持を引出したりしたことも、かすかに覺えがございますが、傍輩衆が恐ろしうございますので、此間は何も知らぬと申しました、さうやつて夜中駈け𢌞りますため、晝間はくたびれてしまつて、いつも氣持が惡うございました、何卒この罪をおゆるし下さいまし」
涙を流してかういふのを聞いて、それ以上責める氣にならず、多分何かの病氣であらう、と慰めて返した。その後娘は久しく煩つたといふことであつたが、果してどうなつたものかわからない(三州奇談)。
[やぶちゃん注:以上は「三州奇談」の「卷之二」の「少女變鼠」。二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化した。
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少女變鼠
金澤立町橫小路の内、脇田何某の長屋のうちに、鼠妖と云はやしける事あり。延享いづれの年にや、十月比の事成し。此長屋のうち、鼠あれて衣類・道具・銅鐡までも疵付、喰ちらす。長持・簞司などへ幾重か入置とも、不思議にくひやぶりし。色々防ぎけれども、とかく止まず。
其中に石坂町甚助と云者の娘、十二歳に成けるが、奉公に来り居しに、是が衣類・手道具・紙・鬢付油等までひとつもあたらず。樣々に試むるに、とかく心得がたき事多し。大方此娘が仕業ならんと、傍輩云合せ、主人へ訴へけれども、何とも心得ぬ事とて、先づ只鼠を狩り出しけれども、おとしにも落ず、猫にもおぢず、每夜每夜鼠荒ければ、せんかたなくて傍輩の奉公人の訴にまかせ、おかしき事ながら、「此娘を詮義せよ」と呼出し、云聞せけるに、返答分明ならず。「さらば」とて、隙をとらせ、石坂町へ返しけるに、其夜より鼠ふつと出ず、物音もなし。あまり不思議故に又娘を呼返し、段々尋られけるに、「今は何をか隱し申さん。私眠ると思へば、鼠多く來りて胸へ上るとまでは覺へて、夫より夢中のごとし。箱の蓋を明け、長持を引出し申せし事も、成ほど私おぼへあれども、傍輩中へ恐ろ敷、隠し申也。夜と共にかけ𢌞り、晝は草臥はてゝ、氣色も惡く侍りぬ。何角の罪ゆるし給へ」と淚を流しぬ。あまりの不思議さに、病にて有べしとなぐさめて戾せしが、其後、此娘久しく煩ひしと聞しが、末は知らず。
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文中の「何角の」は「なにかどの」とルビするが、これは「なにかとの」(何彼との)で「いろいろな」「あれこれの」の意の当て字であろう。これは明らかに、未成年の少女が意識的・無意識的に起こす疑似的超常現象であって、恐らくはこの娘の奉公への強いストレスが原因となった行為であったと私は推理する。]
この娘と鼠との因緣は、これだけでは判然せぬ。「瀟湘錄」に見える左の話は明かに鼠の化身であつた。嵩山の下に代々住んでゐる朱仁といふ百姓があつた。一人の子供を可愛がつて育ててゐたが、五歳の時に行方不明になり、十除年たつても消息がわからぬ。或時托鉢の僧が朱仁のところに現れ、その供に連れた小僧の容貌が、行方不明になつた我子にそつくりなので、僧を内に招じ齋を供へた後、この事を話すと、この小僧の素姓は師匠もよく知つてゐない。どこからか泣いて飛び込んで來た幼子を養育し、或年齡に達してから髮を剃つたのだが、聰明絶倫、只者とは思はれぬといふことであつた。朱仁の妻は我子なら背中に黑子がある筈と云ひ、驗するにその通りである。一家これを見て號哭し、僧は父母の手に留めて立去つた。然るにこの子は毎夜姿をくらまし、曉になつて歸つて來る。或は盜賊でも働くのではないかと疑ひ、びそかにその樣子を窺ふと、子は毎夜大きな鼠と化して走り出で、曉に歸つて來るものとわかつた。父母の交々尋ねるのに對し、多くを語らなかつたが、私はあなたの子ではありません、嵩山の下に住む鼠王の輩下の小鼠です、已に私の形を見られた以上、こゝに居るわけに參りません、と告げ、鼠に化してどこへか行つてしまつた。
「鼠」(岡本綺堂)はこの二つの話より脱化したものかと思はれる。行方不明になつた娘に再會するといふ筋は「瀟湘錄」に似、鼠によつて傍輩に疑はれる一條は「三州奇談」に似てゐる。尤もこの方は家中鼠が荒れ𢌞るといふほど大袈裟なものではない。旅中一匹の鼠が袂に入つて、それがどこまでもついて來る。江戸に落著いてからも、絶えずその娘を離れずにゐる、といふのが家人の疑惑の的になるのである。この小鼠には「三州奇談」にも「瀟湘錄」にもない一種の妖氣が含まれてゐる。
[やぶちゃん注:「瀟湘錄」唐代の柳祥(明代の叢書類では総て「李隠」とする)撰の志怪小説集。以上は、その中の「朱仁」。中文ウィキソース「瀟湘錄」から加工して引く。
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朱仁者、世居嵩山下、耕耘爲業。後仁忽失一幼子、年方五歳、求尋十餘年、終不知存亡。後一日、有僧經遊、造其門、攜一弟子、其形容似仁所失之幼子也。仁遂延僧於内、設供養、良久問僧曰、「師此弟子、觀其儀貌、稍是餘家十年前所失一幼子也。」。僧驚起問仁曰、「僧住嵩山薜蘿内三十年矣、十年前、偶此弟子悲號來投我、我問其故、此弟子方孩幼、迷其蹤由、不甚明、僧因養育之、及與落發。今聰悟無敵、僧常疑是一聖人也、君子乎、試自熟驗察之。」。仁乃與家屬共詢問察視、其母言、「我子背上有一黶記。」。逡巡驗得、實是親子、父母家屬、一齊號哭、其僧便留與父母而去、父母安存養育、倍於常子。此子每至夜、即失所在、曉卻至家、如此二三年。父母以爲作盜、伺而窺之、見子每至夜、化爲一大鼠走出、及曉却來。父母問之、此子不語、多時對曰、「我非君子也、我是嵩山下鼠王下小鼠。既見我形、我不復至矣。」。其父母疑惑間、其夜化鼠走去。
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『「鼠」(岡本綺堂)』昭和七(一九三二)年十一月作。『サンデー毎日』初出。「青空文庫」のこちらで読める。]
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