小穴隆一「二つの繪」(51) 「月花を旅に」
月花を旅に
[やぶちゃん注:小穴隆一のデッサンと俳句を含む添書きであろう(右下部の落款が小穴のものと思しい。なお、小穴は「一生修業」の信念から自作になかなかサインしなかったことで知られる)。添書きは、
昔ミタ碓氷山上ノ月
月花を旅で見て來て冬篭
路バタノ小サナ墓ニカウイフ句ガキザミデアツタ
であろう。「昔ミタ碓氷山上ノ月」はデッサン全体の題というより、句の前書で、「冬篭」は言わずもがな乍ら、「ふゆごもり」と読む。なお、碓氷峠の月は芥川龍之介にとっては、忘れ難い片山廣子との追憶と結びついている]
先月は伊豆にいつて、蓮臺寺で、山桃といふものをはじめてみた。通りがかりの自分と同じ年ぐらゐの地の女が、おいしいものだとをしへてくれたのに食べてみなかつた。思ひだしてちよつと食べてみればよかつたと思つてゐるが、あとのまつりである。
今月は碓氷峠に用事があつて、輕井澤にゆかなければならなかつた。いまは、車もないといふので、隻脚義足が心配になつたが、岩手正法寺の山の中にゐたので、三キロメートル程度の山路には堪へられると思つた。しかし、念のため、途中松井田でおりて、岡田さんのところに一晩泊めて貰ひ、山羊の乳をのみ、たまごを食べ、大いに氣力を養つてから輕井澤にいつた。熊野神社の上信國境と彫つた石の前で、昔、芥川と堀君との三人で、力餅を食べながら眺めた景色に用があつたのであるが、景色もなにも昔の夢であつた。私は峠の上で、昭和六年にも、同じ用事で、車でのぼつて無駄足をしたのを、忘れてしまつてゐた自分のもうろくが淋しかつた。
[やぶちゃん注:「正法寺」は「しょうぼうじ」(現代仮名遣)と読み、現在の岩手県奥州市水沢区黒石町にある曹洞宗大梅拈華山(だいばいねんげざん)正法寺のことか。
「松井田」碓氷峠を含む同峠南東麓に当たる旧群馬県松井田町(まち)。現在は安中市内。
「岡田さん」不詳。
「熊野神社」碓氷峠(現在の群馬県安中市松井田町峠)にある。個人ブログ「◇レキントン◇のブログ」の「『 熊野皇大神社 』 長野 『 熊野神社 』 群馬」の三枚目の写真に写っているのがそれであろう。]
芥川の宿であつた、つるやに一晩泊つて歸つてきたが、畫のはうのスケッチといへば、室生さんのところの庭だけであつた。つるやのおやぢさんは珍品を持つてゐた。龍之介、白秋自畫像の一幅である。おやぢさんにそれをやつた室生さんの話では、室生さんが愛の詩集をだしたときの、記念會でのよせ書で、二十七年前のものだといふ。
[やぶちゃん注:「愛の詩集」刊行は感情詩社で大正七(一九一八)年。]
芥川のことはさておき、「詩と音樂」に私の拙い詩をのせてくだすつた、北原さんの自畫像に、私はすこし感慨があつた。昔、白衣(芥川龍之介の肖像)を出品してる二科會の會場で、そのころはまだ松葉杖で步いてゐた私は、芥川に紹介されて、北原さんにいろいろ話しかけられても、松葉杖で步く努力の疲れでろくろく御返事もできなかつたのだ。まつくろでまる顏の、北原さんのやさしい目を思ひだして、もう一度、お目にかかつておくべきであつたと悔んだのである。 (昭和二十三年)
[やぶちゃん注:最後のクレジットは底本では二字上げ下インデント。
「詩と音樂」北原白秋と山田耕筰の二人が主幹となって大正一一(一九二二)年に創刊された月刊芸術誌。大家や新人の作品を掲載した優れた雑誌であったが、翌年の関東大震災によって一年余(十三号)の短命で終わった。
「白衣(芥川龍之介の肖像)を出品してる二科會」大正十一年九月に開催された二科展で小穴隆一が出品した芥川龍之介をモデルとした肖像画「白衣(はくい)」のこと。以下の注によって、諸データでルビを振らないこの画題が芥川龍之介自身の命名であって、しかも「処士」(「在野の人」の意)である「はくい」と読まねばならぬと芥川龍之介が厳命していたことが、この作者小穴隆一自身の附註によって明らかとなっている。正直、未だにこれを、したり顔で「びゃくえ」等と読むんだと言って悦に入っている龍之介似非フリークがいる。]
註「白衣」芥川は、白衣といふ畫題をつけ
て、びやくと讀まないで、はくいと讀ん
でくれたまへ、處士といふ意味があるの
だといつてゐた。


