フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 2017年1月 | トップページ | 2017年3月 »

2017/02/28

柴田宵曲 妖異博物館 「道連れ」

 

 道連れ

 

「旅は道連れ世は情け」といふ諺を見ると、旅をする者に取つて、道連れほど賴もしいものはなささうだが、現世の事實は決してさうではない。時に道連れのために生ずる不安がある。護摩の灰などといふ連中は、道連れ業者とでも稱すべきもので、彼等に惱まされた旅人は算へきれぬほどであつた。

[やぶちゃん注:「護摩の灰」「ごまのはひ(はい)」。旅人を脅したり騙したりして金品を捲き上げる者。一説によれば高野聖のいで立ちで有り難い護摩壇で修法(ずほう)した其の霊験あらたかな灰と称して押し売りをした者のあったことからとも、別に「胡麻の蠅」と書いて「ごまのはへ(はい)」とも読むことからは、胡麻粒では蠅が留まって一寸判らぬことから昔、道中の旅人にくっついた詐欺師・人を騙る詐欺漢の謂いとなったとも言う。]

 桶南谿が備後國を旅行してゐた時、百姓らしい二人の老人と道連れになつた。南溪の樣子を見て、如何なる人で何處から何處へ行くかと問ひ、京都の醫者だとわかると、かういふことを云ひ出した。實は親しい家の女房で、難病に罹つてゐる者があるが、山里の事で診察を乞ふ醫者もない、せめて脈だけでもお取り下すつて、彼等の心を慰めていたゞくわけには參りますまいか、といふのである。何も修行であるから、承知して一緖に步み、日も傾く頃に本鄕といふ寂しい里に著いた。病人は五十餘りの女で、永らくの病苦に生きた色もなかつたが、脈にはまだ慥かなところがあるので、療治を加へ、藥を與へ、今後の手當なども委しく說明して、三原の城下へ出て來た。こゝでその話をすると、それは危いことでございました、全く先生の誠意を佛神がお護り下されたものでございませう、さういふことは大方盜賊の僞りで、深山まで連れて行つて、金銀衣類を奪ふことが珍しくありません、今後は御用心なされぬと危うございます、と注意された。南谿もはじめて心付いて、自分の無事をよろこんだが、二年ばかり諸國をめぐり、京都へ歸つた後、備後國から六兵衞といふ百姓が尋ねて來た。女房の難病は全く平癒したので、先生のことは弘法大師の再來の如く尊んでゐるといふ。南谿には愉快な話であつたが、もし三原の人の云ふところが事實とすれば、世の中には危險千寓な道連れが存在するらしい。

[やぶちゃん注:以上は、「西遊記」の「卷之四」の巻頭「篤實(とくじつ)」である。例によって気持ちの悪い東洋文庫版で示す。思ったより原話は長い。読みは最小限に留めた。一部、こんな変なことをしているのに、原典の誤りのママに活字化している箇所は、勝手に訂した。

   *

 備後国を通りし時、百姓とみえし年老いし男二人、ふと道連れに成り、山の名、里の風俗など尋問いて行きたりしに、我野服(やふく)を着し、方頂巾(ほうちょうずきん)を戴だきしをあやしみて、「いかなる人にて、いずくよりいずくへ行き給うにや」と問うに、「都方(みやこがた)の医者なるが、医術修行の為に諸国に遊歴するなり」と答えしかば、「扨も頼もしき御人や。我等が住む里は向こうの山の奥なるが、親しき家の女房に奇妙の難病ありて早や二年(ふたとし)に成り、近きあたりに住み候えば聞くもいぶせく、其家にもいろいろと医療尽さざることもなけれど、露(つゆ)ばかりのしるしもなく、今は早(はや)、命だにあやうく見え候いぬ。かく山深き片田舎にて名高き医師も候わず。あわれ都近くも有るならばなど、親類の者は歎き居(い)候いぬ。きょうははからずも京都の御医と承り候えば、親類共が常々の詞(ことば)も思い出だし候いて、あわれにも候えば、何とぞ脈(みゃく)ばかりにても取らせ給いて、彼等が心をもなぐさめたまわらばや」と、誠の心言葉に出でて、又余義(よぎ)もなく見えたりしかば、「余も此道修行の事なれば、いとやすき事なり」とうけがいて、彼(かの)者共のしりえに従いて、尾の道の二三里斗(ばか)りこなたより右の方に分(わけ)入る。鹿(しか)狼(おおかみ)の通うごとき細道を、谷に下だり峯にのぼりて、ゆけどもゆけども程遠きに、日影もやや傾(かたぶ)き、腹(はら)餓え、足つかるれば、僕(ぼく)腹立てて、「程もしれぬいたずら事」とつぶやく。とこうなだめて行くほどに、ようように至り着きぬ。とある山あいのいと淋しき人里なり。本郷という所なりと。其家に入れば、病者は五十斗りなる女にて、其夫を六兵衛と云う。ものしかじかの由をいえば、家内皆驚き悦び、「去年(こぞ)の冬より淋病(りんびょう)の心地なりしが、次第に強く、露(つゆ)ばかり落つる便事(べんじ)に、其痛(いたみ)忍びがたく、内よりは頻りに通じの心きざして腹(はら)裂くる心地して、其くるしみたとえんかた無し。日々月々に病いつのり、春の頃よりは一しおにて、横に臥(ふ)せば下ばらひとしおさくるがごとく、立てばくるしく、座すれば堪(たえ)がたし。それゆえ昼夜(ちゅうや)只(ただ)火燵(こたつ)のやぐらに両手をつかえ、立ちながらうつむきて居る事のみ少し心やすらかなるようなれば、春以来は片時も座せず臥さず、只昼夜食事にも眠るにも、此通(とおり)なり。其くるしみ中々いうもおろかなり。近き頃は殊にあしければ、命の限りも遠からじと、一日も早く臨終をのみ待ち侍る也。命の事はたすかるべくも思い侍らねど、都の人と承ればゆかしくこそ候え。何とぞ一日なりとも此くるしみをたすけ給わりて、横にふしてやすらかに臨終を得さしめ給わば、上(うえ)も無き御恵(めぐみ)」と、涙を流せるさま、げに見るさえあわれなり。昼夜立ちてうつぶし居れば、足は柱(はしら)のごとく腫気(しゅき)ありて、顔も亦眼(ま)ぶちはれ、額(ひたい)も浮(う)きて、活(い)きたる人のごとくにもあらず。肛門は牡丹花(ぼたんか)のごとく、長さ五六寸もぬけたり。一しきり一しきり腹はり来たる時のくるしみの声隣(となり)を動かし、聞く者すら堪えかねたり。病体(びょうてい)は誠(まこと)にかくのごとく危く甚だしけれど、其(その)脈に見所(みどころ)有りければ、いそぎ薬を与え、猶且(なおかつ)薬湯を以て腰より漬(ひた)し、種々の療術(りょうじゅつ)を用いしかば、大小用の通利(つうり)出で来て、初めて横さまに臥(ふ)すことを得たり。猶品々(しなじな)の療治をくわえ、此以後に用いる薬方を委敷(くわしく)書しるして、猶用いかた抔(など)迄もくわしく伝え置きて、其家を辞して、数里の深山をわけ出でて三原の城下へ着きぬ。三原にて此物語をせしに、「扨(さて)もあやうき事なり。御心に誠(まこと)有りぬればこそ仏神の助(たすけ)も有りて、まことの事に逢い給うならめ。多くは、かくのごとき事は盗賊のいつわる事にて、旅する人を人なき深山に連(つれ)行き、さし殺して金銀衣類を奪う事珍らしからず。此後(のち)はかならず楚忽(そこつ)のふるまいし給うべからず」といいけるにぞ、初て心付きて恙なかりし事の嬉しかりき。

 それより諸国をめぐり、二とせをへて京へ帰り居たりしに、或日六条の旅宿のあるじたずね来たり、「一両年以前九州へおもむき給いし御医者はこなたなりや」と問う。「いかなる用ぞ」と聞けば、「備後国より六兵衛という百姓一人のぼり来たり、『下に市の字(じ)の付きたる御医師を聞及(ききおよ)ばずや。何とぞ尋ねくれよ。去々年しかじかの事にて高恩にあいぬれば、御礼(おんれい)のために来たりたり。其御名は聞かざりしかども、荷物の下(さ)げ札(ふだ)に市(いち)の字(じ)を見及びたり』という。手がかりも無き尋ねようかなと存じ候えども、其志(こころざし)の殊勝にも候えば、先(まず)試みに標札をみめぐりて、市の字を見当り候えば御尋ね申すなり」というにぞ。「其事有り」といえば、則ち帰りて、其次の日彼(かの)六兵衛同道して来たりつつ、備後畳(だたみ)をみずから持ちて礼物(れいもつ)とし、「扨も過ぎし年は不思議の御縁(ごえん)にて、妻なる者御療治に逢い、命は無きものと覚悟致し居り候いしを、其日よりしるしを得、仰置(おおせお)かれし日限(にちげん)のごとくに、かかる難病平愈して、再び常体(つねてい)の人となれる事、殊に近所の者の行逢(ゆきあ)いより始まりて御名(おんな)さえ承らず候えは、弘法大師(こうぼうだいし)の来たらせ給うなりとのみ、一村(ひとむら)の評判にこそ致し候え。京(きょう)を尋ねたりとて逢い奉るべしとははからず候えども、命たすかりし御高恩(ごこうおん)、一言(いちごん)の御礼も申さざる心の中も安からず。もし逢い奉る事なくば、東寺にても参り候て弘法大師様へ御礼申しかえるべしと存じ極めて参り侯いし也。先ずは尋当(たずねあた)りて日頃(ひごろ)の本望(ほんもう)に叶い候なり」とて、真実(しんじつ)顔色(がんしょく)にあらわれたり。余も嬉しくて、しばしもてなぐさめて帰しやりぬ。都近くの者ならましかば、百里に余れる海山を、いかではるばる尋来たるべき。辺土(へんど)の民の篤実なる事、感ずるにも猶あまりあり。

   *

文中の「野服」は『粗末な服』、「方頂巾」は『後方に垂れのある頭巾。すみずきんとも』、 「備後畳」は『備後産の畳表』、という注が、底本の校注者宗政五十緒氏によって附されてある。

 個人的にはこの話柄、非常に好きである。]

 この話は南谿の「西遊記」の中の出來事であるが、その南谿が「北窓瑣談」の中に、全く違つた場合の妙な道連れの事を書いてゐる。安永三年十月晦日、山寺何某といふ大坂の士が眞田山の邊を通りかゝると、耳許に何か頻りに人の話し聲が聞える。振返つて見ても誰も居らず、步き出せばまた聲がする。幾度となく振返りながら行くうちに、半町ばかりもうしろの方に、羽織を著た町人と、虛無僧との話して來る姿が見えた。天蓋を上に脫ぎかけた虛無僧の顏は、まるで塵紙で作つたやうで、然も例の話し聲は依然として聞える。これはこの虛無僧が妖怪であるに相違ない、一太刀に斬らうと思ひ、愈々うしろ近くに來た時、きつと振返る途端に、わつと叫んで抱き付いたのは町人であつた。如何致したかと問へば、さてさて恐ろしい事でございます、只今まで同道して參りました虛無僧が、あなた樣のうしろを御覽なされる拍子に消えてなくなりました、といふ。こゝまで何を話しながら來たかと尋ねたら、自分は遠國の者で當地の案内を知らぬ、どこへ宿を取つたらよからうかと申しますので、幸ひ自分が宿屋をして居るから、今夜はお泊め申しませう、と云つたところです、と答へた。「山寺氏の氣、妖怪に徹して逃去りしなるべし」といふのであるが、もしこの人が行き合せなかつたならば、妖怪と同道した上に、宿まで提供するところであつたらう。

[やぶちゃん注:「安永三年十月晦日」同月は小の月であるから二十九日で、これはグレゴリオ暦一七七四年十二月二日に当たる。

「眞田山」現在の大阪府大阪市天王寺区真田山町(さなだやまちょう)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。かの真田丸跡付近である。

「半町」約五十四メートル半。

「長町」「ながまち」で現在の大阪府大阪市中央区及び浪速区の日本橋(にっぽんばし)に相当する位置にあった、一大宿場町。この附近(グーグル・マップ・データ。示したのは浪速区の日本橋。この北に中央区部分の日本橋が続く)。

 以上は「北窓瑣談」の「卷之四」の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。頭の柱「一」は除去した。妖しさ満杯の見開きの挿絵(一柳嘉言画)も添えた。

   *

 

Ayasikikomusou

大坂の士山寺(やまでら)何某といふ人有しが、安永甲午の年十月晦日、眞田山の邊を過(よぎり)しに、耳もとにて何か喧(かまびす)しく人の噺し聲聞ゆる故、ふりかへり見れども、うしろに人無し。其まゝ行に又人聲聞ゆ。又ふりかへり見れども人なし。如ㇾ此(かくのごとく)すること數度(あまたゝび)に及び、あまりに不思議にてうしろを遙に見るに、半丁許も隔たりて、羽織着たる町人と、天蓋(てんがい)を上にぬぎかけたる虛無僧(こむそう)と同道して物語し來るあり。此虛無僧の顏を見るに、塵(ちり)がみにて作りたる顏のごとし。不思議に思ひながら行に、耳もとの噺聲頻なり。山寺氏思ふに、此虛無僧、定て妖怪(ゑうくわい)なるべし。一太刀に切んものをと心に思ひ、しづかに 步み行(ゆき)、うしろ間近(まぢか)く來るとおもふ時、きつとふりかへり見るに、わつとさけびて抱きつゝ、急に押へて見れば、彼町人なり。何者ぞと問(とふ)に、扨て恐(おそ)ろしき事なり。只今まで同道いたし來りし虛無僧、そなた樣のうしろを御覽なさるゝと、其まゝ消失候ひぬ。あまりの恐ろしさに取付(とりつき)まゐらせしなりといふ。何事を語(かた)り合(あひ)來りしといふに、我は遠國の者なり。當地の案内をしらず、旅宿(りよしゆく)すべき町は何所(いづく)ぞと申候ひし故、某答へて、幸(さいは)ひ長町に住候ひて其業(わざ)仕り候へば、今宵は御宿進らせ申べしと、語り合(あひ)て來りし折節なりといふ。山寺氏の氣、妖怪に徹して迯去りしなるべし。

   *]

 小石川の茗荷谷に三四百坪ばかりの明屋敷があつた。主人は稻富氏といふことであつたが、入口の脇に道心者らしい男が小屋掛けのやうにして一人居る外、つひぞ出入りの人を見たことがない。いつ頃からあるのか、屋敷内に大きな石塔が三つ四つあつて、垣根より高く見えてゐる。晝でもあまり人通りのないところだから、夜に入つては猶更で、この屋敷には久しく化物が住むといふ評判であつた。或時大野三太夫といふ人が、小日向の方から大塚の組屋敷へ歸らうとして、日暮れ過にこゝを通ると、先に立つて行く出家がある。これはいゝ道連れであると足早に追ひ付き、二十間ぐらゐの距離になつたと思ふ時、その出家の丈が急に高くなつた。見る見る屋敷の垣根を越し、大石塔の五輪の上より遙かに見上げるほどになり、その門口まで行くかと見えたが、忽ち姿が見えなくなつた。この話などはまだ道連れになるところまで往かぬけれど、この人通りのない道で、道連れになつたとすれば、その先は想ひやられる。「惣じて此邊怪しきことゞも時々あり」と「望海每談」に記されてゐる。

[やぶちゃん注:「二十間」三十六メートル強。

「望海每談」筆者不詳の随筆。江戸府中の旧事及び江戸の古跡などを記す。成立は元文(一七三六年~一七四一年)から明和(一七六四~一七七二年)の間とされる。以上は同書の「大塚村怪異」の中に記されてある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。]

「宮川舍漫筆」には疫神と道連れになる話が二つある。一方は物貰ひ體の女、一方は一人の男といふだけで樣子はわからぬ。女の方は空腹だといふので蕎麥を食べさせ、男の方は犬を恐れるので一緖に行つて貰ひたいといふ。別れに臨み、いづれも自ら疫神であると名乘り、疫病を免れる法を告げて去るのである。その法が一方は泥鰌、一方は小豆粥といふことで、さつぱり合致せぬのが面白い。

[やぶちゃん注:「宮川舍漫筆」は宮川政運著で安政五(一八五八)年序。筆者はの幕吏で儒者の志賀理斎の次男。以上は、同書の「卷之三」の「疫神(やくじん)」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みはオリジナルに歴史的仮名遣で附した(一部は推定)。【 】は原典割注。本文の歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

   ○疫神

嘉永元年の夏より秋に至り、疫病大に流行なりし處、宴覽思議の一話あり。淺草邊の老女、【名を失念。】或時物貰體(ものもらひてい)の女と道連(みちづれ)になりし處、彼女いふ、私事(わたくしこと)三四日何も給(たべ)申さず、甚だ飢(うゑ)におよび申候。何とも願ひ兼(かね)候得ども、一飯御振舞の程願(ねがふ)といふ。老女答(こたへて)、夫(それ)は氣の毒なれども、折惡敷(あしく)持合せ無之(これなし)。しかし蕎麥位(ぐらひ)の貯(たくはへ)はあるべし。そばをふるまい申べしとて、蕎麥二椀たべさせける。彼女、大きに歡び禮を述(のべ)別れしが、亦々呼(よび)かけ、扨何がな御禮致(いたす)べしとぞんじ候得共、差當(さしあた)り何も無之(これなく)、右御禮には我等(われら)身分御噺(はなし)申(まうす)べし。我等儀者(は)疫神に候。若(もし)疫病(やくびやう)煩(わづらひ)候はゞ、早速鯲(どぜう)を食し給へ。速(すみやか)に本復(ほんぶく)いたすべしと教へ別れけるよし。右は友松井子の噺なり。この趣(おもむき)と同譚(どうだん)の事あり。實父若かりし時、石原町に播磨屋惣七とて、津輕侯の人足の口入(くちいれ)なりしが、兩國より歸りがけ、一人の男來り聲をかけ、いづれの方え參られ候哉(や)と問(とふ)、惣七答(こたへ)て、我等は石原の方え歸るものなりといえば、左(さ)候はゞ何卒私儀(わたくしぎ)同道下されかし。私義(わたくしぎ)は犬を嫌ひ候故、御召連下されといふ。それなれば我と一所に來(きた)れよと同道いたし、石原町入川(いりかは)の處にて、右の男、扨々ありがたくぞんじ候。私義は此御屋敷え參り候。【向坂(さきさか)といへる御旗本にて千二百石、今は屋敷替相成(あひなる)。】扨申上候。私義は疫神に候。御禮には疫病神(やくびやうがみ)入申(いりまう)さゞる致方(いたしかた)申上候。月々三日に小豆(あづき)の粥(かゆ)を焚(たき)候宅(たく)えは、私(わたくし)仲間一統(いつとう)這入(はいり)申さず候間(あひだ)、是を御禮に申上候といひて、形ちは消失(きへうせ)けるぞふしぎなれ。其日より向坂屋敷中(ちう)疫病と相成候よし。予が實父え播磨屋の直(すぐ)ばなしなり。右故(ゆゑ)、予が方にても、今に三日には小豆粥致し候。此儀に付ては我等方にても疫病神をのがれし奇談あり。二の卷にしるしおくゆえ、こゝに略す。

   *

末尾に「二の卷にしるしおくゆえ、こゝに略す」とあるが、同書の「卷之二」にはそのような記載は管見する限り、ない。或は「宮川舎漫筆」の続篇を記すつもりがあったものか。]

「搜神記」の糜竺は都から歸る途中、一人の女から車に載せてくれと賴まれた。承知して何里か來たところで、女が別れ去るに當り、自分は天使である、これから東海の糜竺の家を燒きに行くところだ、今あなたに車に載せて貰つたから、これだけ告げる、と云つた。竺は驚いて何とか 免れる方法はあるまいかと賴んだけれど、一たび命ぜられた以上、燒かぬわけには往かぬ、あなたは急いでお歸りなさい、私はこれからゆつくり步くことにする、といふことであつた。竺は大急ぎで家に歸り、家財を運び出したが、果して日中に火が起り、家は全燒になつた。女は緩步によつて竺の災難を少くしたのである。かういふ連中は存外恩を忘れぬ、義理堅いところがあると見える。

[やぶちゃん注:「糜竺」(びじく ?~二二一年)は後漢末から三国時代の政治家。ウィキの「糜竺より引く。『徐州東海郡県(江蘇省連雲港市)の人。妹は糜夫人(劉備の夫人)。弟は糜芳。子は糜威。孫は糜照。本来は縻(または靡とも)と読まれるという』。『先祖代々裕福な家であり、蓄財を重ねた結果』、小作一万人を『抱え、莫大な資産を有していたという』。『陶謙に招かれ、別駕従事の職にあった』。一九四年、『陶謙の死後に遺命を奉じて、小沛に駐屯していた劉備を徐州牧に迎えた』。一九六年、『劉備が袁術と抗争し』、『出陣している時、劉備の留守につけ込んだ呂布は下邳を奪い、劉備の妻子を捕虜にした。劉備が広陵に軍を移動させていたが、糜竺は妹を劉備の夫人として差し出すとともに、自らの財産から下僕』二千人と『金銀貨幣を割いて劉備に与えた。劉備はこのお蔭で再び勢力を盛り返す事ができた』。『劉備が曹操を頼った時、糜竺は曹操に評価され、上奏により嬴郡太守の地位を与えられた。また、弟にも彭城の相の地位が授けられた。しかし劉備が曹操に叛くと、糜竺兄弟もそれに従い各地を流浪した』。『劉備はやがて荊州の劉表を頼ることを考え、糜竺を挨拶の使者に赴かせている。糜竺は左将軍従事中郎に任命された』。『劉備が益州を得ると安漢将軍に任命されたが、これは当時の諸葛亮を上回る席次の官位だった。劉備に古くから付き従った家臣である孫乾や簡雍よりも上位であったという(「孫乾伝」・「簡雍伝」)』。『糜竺は穏健誠実な人柄で、人を統率するのが苦手だったため、高く礼遇されたものの一度も軍を率いる事はなかった。一方で弓馬に長け、弓は左右どちら側からでも騎射を行なうことができた。子や孫まで皆がその道の達人だったという』。『弟は関羽とともに荊州を任されていたが』、二一九年、『個人的感情から仲違いをし、呂蒙にほとんど抵抗する事無く降伏した(「呂蒙伝」)。このため荊州に孫権軍が侵攻し、関羽は敗死してしまった。糜竺は自ら処罰を請うため自身に縄を打って出頭した。兄弟の罪に連座する事は無いと劉備に宥められたが、剛直な彼の怒りは収まる事がなく、そのまま発病して』一『年程で亡くなったという』とある。

 以上は「搜神記」の「卷四」に載る以下。中文サイトのそれを加工して示す。

   *

麋竺、字子仲、東海人也。祖世貨殖、家貲巨萬。常從洛歸、未至家數十里、見路次有一好新婦、從竺求寄載。行可二十餘里、新婦謝去、謂竺曰、我天使也。當往燒東海麋竺家、感君見載、故以相語。竺因私請之。婦曰、不可得不燒。如此、君可快去。我當緩行、日中、必火發。竺乃急行歸、達家、便移出財物。日中、而火大發。

   *

柴田宵曲 妖異博物館 「形なき妖」

 

 形なき妖

 

 鯉川といふところに住む貧乏人の夫婦の家に、何威からともなく聲が聞えて來る。形は少しも見えぬので、はじめは恐れて居つたけれど、後には馴れて話をするやうになつた。食物なども夫婦が食べたいといふ物が、何でもその家の中に出て來る。同時に近所の家では、いろいろな食物が見えなくなるので、これは狐狸の仕業だらうといふことになつた。その聲に向つて將來の事を問へば、吉凶悉く答へるのが少しも違はぬ。錢とか米とかを持つて來て、その占ひを問ふ人もあり、中にはその聲を怪しとして、正體を見顯はさうとする人もある。形は無論見えず、捻ぢ合つて角力を取る體であつたが、なかなか力が強く、人に負けることはなかつた。正體は何ともわからぬうちに、いつとなくこの怪は止んでしまつた。寶曆七年の事である(譚海)。

[やぶちゃん注:私の電子化注「譚海 卷之二 同領地十二所の人家に錢をふらす事」を参照されたい。]

 これは全然形がないのだから、捕捉することは出來ぬが、狐狸の類が人に饗應する場合、附近の品物がなくなる例はよくある。狐狸の仕業だらうといふ判斷は、あたつてゐるかも知れぬ。

「新著聞集」にある妖は、形が全然ないこともなく、さうかと云つて正體をしかと摑むことも出來ぬ、不思議なものであつた。延寶六年の冬、薩州の家中の竹内市助なる者が、夜更けてひとり歸つて來ると、向うから貝を吹いて來る者があり、それが額當つたと思ふ途端に、自分はうしろに倒れて居つた。別に身體が痛むこともないので、そのまゝ歩いて行つたところ、また同じやうに貝を吹いて來る。今度は刀を拔いて額に當てたら、刀に恐れたと見えて、脇へ外れて過つて行つた。市助は無事に歸宅して、伯父にその話をすると、そんな事に遭つた時は、もう一度行く方がいゝさうすれば後に災ひはないと聞いてゐる、と伯母が云ふので、今來た道を取つて返した。果して何事もなかつたが、慥かに步いて行つたことを證明するため、知合ひの門を敲き、夜更けて甚だ恐縮であるが、斯く斯くの次第で參つた、と云ひ捨てて歸つた。

[やぶちゃん注:「延寶六年」一六七八年。]

 

 この時の妖は殆ど形なきに近い。額に當つて倒れたのを見れば、何かの形を具へてゐたに相違ないが、捕捉し得なかつたものであらう。然るに翌年の春になつて、市助が江戸參觀の用意をしてゐた頃、一夜友達が大勢集まり、十時頃に皆歸つて行つた。市助心寂しく坐つてゐると、半分ほど明いてゐた座敷の戸の間から、顏の長さ三尺ばかりもある大坊主が顏を出した。何者だと脇差を拔いて飛びかゝるところを、箕のやうな大きな手で肩をひしと摑まれた。屈せず疊みかけて斬つたが、何だか手應へなく、綿でも切るやうで、搔き消すやうに失せてしまつた。貝を吹きながら步いて來た妖と、戸の間から顏を出した異物とは、同じであるかどうかわからない。前のは額に當つても形が見えず、後のは形を現してゐるのに、たゝみかけて斬つても手應へがないのだから、先づ似たものであらう。顏の長い大坊主や、箕のやうな大きな手は、狐狸の惡戲を思はせる。

[やぶちゃん注:以上は、「新著聞集」の「第十 奇怪篇」の「形(かた)ち有(あ)り體(てい)なき妖者(えうしや)」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柴田は変事への対応を答えたのを「伯父」とするが、原典はその妻らしき「伯母」である。一部にオリジナルに推定で歴史的仮名遣で読みを附した。

   *

   ○形ち有り體なき妖者

薩州の家中の竹内市助といふ者、延寶六年の冬、夜ふけて、他所(よそ)より歸りしに、向ふより貝をふく音して來り、額(ぬか)にあたると覺えしに。アツトいふて後(うしろ)へ倒れしかど、さのみ痛む事もなかりし。訝(いぶか)りて行くに、又同じ樣にて來れり。頓(やが)て刀をぬき額にあてしかば、刀にや恐れけん。脇へそれて通り、恙なく宅に歸り、伯父なりし者にかくとかたれば、伯母、さある事に逢(あひ)ては、今一度ゆかれよ。後に災なき物と傳へ聞(きき)たりと有れば、頓(やが)て取(とり)て返しける印(しるし)にとて、しれる者の門を敲(たた)き、夜(よ)更(ふけ)ぬれど、かゝる事有(あり)て來りしと、證據にして歸りぬ。扨(さて)翌年の春、江戸參觀の用意せし比(ころ)、友多く來り、亥の刻ばかりに歸れる跡、淋しく居(をり)けるに、座敷の戸、半ば明(あき)てありしが、面(おもて)三尺ばかりの大法師(だいはうし)、さしのぞきしを、何物ぞとて脇指(わきざし)をぬき飛かゝる處に、箕(み)のごとくなる大手をのべて、肩をひしと摑(つまみ)しかど、事ともせず、たゝみかけ截(きり)けるに、何共(なんとも)、正體(しやうたい)なく、綿(わた)など切る樣(やう)に覺えし。妖者しとめたりと聲を立(たて)しかど、かの者、かきけす樣にうせしとなん。

   *]

 橘南溪が「東遊記」に書いたのは聲だけの妖である。越前國鯖江に近い新庄村の百姓家で、床下に聲あつて人の口眞似をする。家の者が驚いて床板を剝がして見たが、そこには何も居らず、床を塞いで話し出せば、また床の下で口眞似をするのである。村中の評判になつて、若い者が大勢集まり、いろいろ話をしてゐるのを悉く眞似る。上からお前は古狸だらうと云ふと、狸ではないと云ふ。それなら狐だらうと云へば、狐でもないと云ふ。猫かと云つても、さうではないと云ふ。面白がつて鼬、河太郎、獺、土鼠など、口から出まかせに竝べて見たが、聲はいづれもこれを否定した。最後に、お前はぼた餠だらうと云つた時、成程ぼた餠だと云つたところから、遂にぼた餠化物と異名して大評判になつた。この事が城下に聞えて、吟味の役人が大勢乘り込んで來たが、その時は一晩中待つても何も云はぬ。役人が歸ると、翌晩からもとの通りになる。役人は何度か來たが、その晩は一度もものを云はなかつた。已むを得ず、そのまゝ捨て置くうちに、一月ばかりで何の聲も聞えなくなつた。この話などはあらゆる妖異譚の中で、最も明るい、愛すべきものの一つであらう。

[やぶちゃん注:「鯖江に近い新庄村」現在の福井県鯖江市の南直近にある福井県越前市北町の新庄地区であろう。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「東遊記」の「後編 卷之五」の「六九 床下の聲」である。平凡社東洋文庫版のそれを示す。底本は新字の上に現代仮名遣に変換した実に気持ちの悪いものであるが、ここででも使わないと使い道がない。致し方ない。お許しあれ。

   *

  六九 床下の声

 越前国鯖江の近辺新庄村に、百姓の家の下にて、何物か声ありて人のいうことの口まねす。家内の男女大いに驚き、急に床板を引明けて見るに、何事も見えず。又床をふさぎ、人人物いう時は何事にても床の下より口まねす。後には村中の沙汰となり、若き者共毎夜大勢来り集り、色々の事をいうに、皆々床の下にても口まねす。上より「己は古狸なるべし」といえば、「狸にはあらず」という。「然らば狐なるべし」というに、「狐にもあらず」という。「描か」というに、「然らず」という。鼬(いたち)、河太郎(かわたろう)、獺(かわうそ)、鼴鼠(うごろもち[やぶちゃん注:モグラ。])など色々の名を出ずるに任せて問うに、「いずれにもあらず」と答う。「然らばおのれはぼた餅(もち)なるべし」といいしに、「なる程ぼた餅なり」という。それよりぼた餅化物(ばけもの)と異名して、其近辺(きんぺん)大評判に成れり。こころ

 此事城下に聞こえければ、奇怪(きかい)のことなりとて吟味の役人大勢来り、一夜此家に居て試(こころ)むるに何の声もせず。役人帰れば、其翌夜(よくや)は又声ありていろいろの事をいう。其後も毎度役人来たりしかど、其来たれる夜は壱度も物を云わず。故にせんかたなくて共ままに打捨(うちす)て置きしが、一月ばかりして其後は何の声もなく、怪事(かいじ)は止みにけり。何の所為(しょい)ということも知れず、いかにしてやみたりということも無くて、おのずから終りぬ。

   *

私は思うに、この家の家族の子どもの中には、高い確率で未婚の思春期の少女がいると思う。洋の東西を問わず、こうした目に見えない声だけ、或いは、突如、石が屋根の上や室内に投げられる、投げたような音がする天狗礫(てんぐつぶて)などの疑似心霊現象は、その多くがそうした精神的に不安定な時期の少女が意識的に行っていたという事実がよく知られているからである。吟味の役人が大勢来た碑時には、どう考えても子らは邪魔だから、近所の知れた者のところに預からせたのに違いない。だから怪異は起りようがなかったのである。]

柴田宵曲 妖異博物館 「氣の病」

 

 氣の病

 

 或大守の姬君が、自分の鼻が少し大きいことを氣にして居られたところ、或日ふと鼻に手を觸れると、拳ぐらゐの大きさになつてゐる。鼻は次第に大きくなつて、顏中鼻といふほどに發達したから、姬君は昔風に衣引きかづきて臥し、遂に物狂ほしいまでになつた。こんな病氣になつては人に顏も見せられぬ、飮食を斷つて死なうと決意されたのを、父母の勸めに從ひ、名醫何某の藥を用ゐてゐるうちに、鼻はだんだん小さくなり、遂にもとの通りになつた。姬君が鏡を取つて見られると、以前よりも小ぶり――人竝の鼻になつてゐるので、從來の不安は全く一掃された。醫師には謝禮として多くの黃金を賜はつたと「反古のうらがき」に見えてゐる。

[やぶちゃん注:以下、治癒させた医師の多くは、これを現在のノイローゼや強迫神経症様(よう)の一種と認識しており、プラシーボ(擬薬)を投与して治癒に成功させている。

 以上は「反古のうらがき」の「卷之一」の「奇病」である。以下に示す。底本は「日本庶民生活史料集成 第十六巻」(一九七〇年第一書房刊)を用いた。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部に歴史的仮名遣の表記の誤りや濁点脱落が見られるのはママである。

   *

  ○奇病

 いつの頃にや、或太守の姬君一人持玉ひけるが、二八の春を向へて、花の姿世にいつくしく生立玉ひけり、父母のよろこびめで玉ふものから、よき婿君もがなと、よりより尋玉ひけり。此姬自から思ひ玉ふに、十二分の顏色かく處はなけれども、少し鼻の大きく思ひ玉ふにぞ、つねづね、心にかゝり玉ひけり、或日何心なく自から探り見玉ふに、鼻の大きさこぶしの大きさになりけり、こわそもいかにと驚き玉ふ、いよく大きくなりて、おもてとひとしくなりけり、今はたまりあへず、衣引かづきて伏し玉ひけるが、いよいよ大きくなるにぞ、聲を上て泣叫び、物狂るはしく見え玉ひける。人々おどろき、そのよふを聞くに、吾何の因果にや、かゝる奇病にかゝりたれば、とても人に面てを見すること能はず、此儘飮食を絕ちて死んと思ふなりとて、絕て飮食もし玉はざりけり。其頃名醫の聞へありける何某とかいへる者、御藥りすゝめけれども、つやつや用ひもし玉はさりけるを、父母せちにすゝめ玉ひければ、止事を得ず用ひ玉ひけり、數日を經て少しづゝちいさくなりて、元の如くになりけり、姬君うれしく鑑を見玉ふに、元より少し小ぶりになりて、人並みになりて、はじめ心にかゝりけるも、此病のつひでにちいさくなりつることこそめでたけれとて、殊に黃金あまたをたびて、醫師に謝し玉ひけるとなん。これは世にある病にて、鼻の大きになるにあらず、かゝる心持に覺ゆる心の病也と、後醫師、人に語りけると聞けり。

 予が友櫻園鈴木分左衞門も、この病を煩ひけり、これは手の大きくなるよふに覺ゆる病也、夜の間は殊甚しく、衾の内にてだんだんと大きくなりて、後に箕の大さ程になるよふなれば、ともし火の下に出して見れば、何もかわることなし、眼を閉て寐んとすれば、だんだん大きくなる、探りてみるにやはり大きなるよふ也。かかる故に寐こと能はず、燈火明くして手を見つめて夜を明すより外なし。外に苦しむ處なしといへども、身の疲るゝこと甚しく、大病となりけり。肝氣の病なるべし、これも數月の後癒たり。予も訪ひ行けるに、先病も癒侍りとて、手を出して撫さすりつして、人に見せ侍りては、初より手の病にては非ざる物を、手を見たりとて何にかせん、かゝればこれはも肝氣の病とは知りながら、兎角に手の大きくなる病と息ふ心は忘れがたしと見ゆとて、人に語りて笑ひけり。されば彼姬君の鼻の、前よりちいさく成たるよふに覺るも埋りこそと思ひ合せて、同病とおもわるゝ也。

   *

文中に出る「櫻園鈴木分左衞門」は底本の朝倉治彦氏の注によれば、筆者醉桃子鈴木桃野の友で大田南畝の門人であった鈴木幽谷。「櫻園」(わうえん(おうえん))は号。幕府徒(かち)目付を勤め、諸著作がある。また、そこでこれらを「肝氣の病」と断じているのは、洋の東西を問わぬ面白い一致である。西洋でも古代より「メランコリア」(現行の鬱病や抑鬱症状)は「胆汁質」タイプ(体質・性質)に発生し易い病いとされ、肝臓を病原臓器として強く挙げているからである。]

「耳鳴草」にあるのは「京都何某の婦人」とあるだけで、身分の事は書いてない。この人のは鼻の高くなる病で、次第に伸びて一二尺の高さに見える。倂し眼を閉ぢて探つて見ても、何も手に觸れぬので、自分でも氣の病であることを知り、醫を更へ藥を改めて見るが、一向癒る樣子がない。これを聞いた或醫者が、この病人を診察し、成程、私の眼にも高く見えます、藥を改めませう、と一劑を與へた。夕方にまた來て、まだ大分高いやうですが、はじめ拜見した時より低くなつたかと思ふ、如何ですか、といふ。仰しやる通り、少し低くなつたやうです、と病人も云ふので、また藥を與へて去つた。その次の日は、昨日よりもう少し低くなつた、といふと、病人もこれを肯定する。遂に日を重ねて全く病は癒えた、といふのである。

[やぶちゃん注:「耳鳴草」不詳であるが、国立国会図書館の蔵書内の明四四(一九一一)年春陽堂刊の「俳諧奇書珍書」の中に、随筆として谷田部石三著「耳鳴草」なるものがあるが、同一物かどうかは不明。【二〇二三年十月十四日:削除・改稿】谷田部石三なる人物(秋田藩藩士。名は要人。俳号初号は湖梅。五明の門人。文化一〇(一八一三)年没。享年六十四)の俳文を含む随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの「俳諧奇書珍書」(安藤和風(信順)編・明治四四(一九一一)年春陽堂刊)のこちらで当該部が正規表現で確認出来る。]

 芥川龍之介の「鼻」の材料になつた禪珍内供の鼻は、自他ともに鼻の異常なことを認めたのであるが、右の二つの例は、他人が見ては何事もなく、自分だけ異常に感ずるのだから始末が惡い。かういふ心の病は女性の上に限るかといふと、必ずしもさうではないので、「反古のうらがき」の著者鈴木桃野の友人、鈴木櫻園の罹つたのは手の大きくなる病であつた。夜は殊にそれが甚しく、衾の中で箕のやうな大きさになる。燈火の下に出して見れば、別に變つたこともないが、眼を閉ぢて眠らうとすれば、だんだん膨脹するのである。この故に眠りをなさず、燈火を明るくして手を見詰め、夜を明すより仕方がない。苦痛は何もないけれども、身體の疲勞甚しく、數箇月を經て漸く癒えた。最初から手の病ではないので、手を見たところでどうにもならぬのだが、手が大きくなるといふことを忘れ得なかつた、と笑ひながら話したさうである。夏目漱石が若い頃晝寐をすると、よく變なものに襲はれたといふ一例として、「親指が見る間に大きくなつて、何時迄經つても留らなかつた」と「硝子戶の中」に書いてゐるが、これなどももう少し發達すれば、鈴木櫻園のやうになつたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、芥川龍之介の「鼻」(大正五(一九一六)年二月『新思潮』)の主人公は「禪珍内供」ではなく「禪智内供」で誤り

 夏目漱石の「硝子戶の中」は大正四(一九一五)年一月十三日から同年二月二十三日にかけて三十九回に亙って『朝日新聞』に掲載された小品で、漱石最期の随筆となったもの漱石は翌年十二月九日に満四十九で没した)で、ここで柴田が示したのは、そのまさに掉尾から一つ前の「三十八」。短いので、全文を示しておく。底本は岩波旧全集を用いた。踊り字「〱」は正字化した。「拾い」はママ。

   *

     三十八

 私が大學で教(おす)はつたある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別を贈らうと思つて、宅(うち)の藏から高蒔繪(たかまきゑ)の緋の房(ふさ)の付いた美しい文箱(ふばこ)を取り出して來た事も、もう古い昔である。それを父の前へ持つて行って貰ひ受けた時の私は、全く何の氣も付かなかつたが、今斯うして筆を執つて見ると、その文箱(ふばこ)も小搔卷(こがいまき)に仕立直された紅絹裏(もみうら)の裲襠(かいどり)同樣に、若い時分の母の面影(おもかげ)を濃(こまや)かに宿してゐるやうに思はれてならない。母は生涯父から着物を拵へて貰つた事がないといふ話だが、果して拵へて貰はないでも濟む位な支度をして來たものだらうか。私の心に映(うつ)るあの紺無地(こんむぢ)の絽(ろ)の帷子(かたびら)も、幅の狹い黑繻子(くろじゆす)の帶も、矢張嫁に來た時から既に簞笥の中にあつたものなのだらうか。私は再び母に會つて、萬事を悉く口づから訊いて見たい。

 惡戲(いたづ)らで强情な私は、決して世間の末(すゑ)ツ子(こ)のやうに母から甘く取扱かはれなかつた。それでも宅中(うちぢゆう)で一番私を可愛(かはい)がつて呉れたものは母だといふ强い親しみの心が、母に對する私の記憶の中(うち)には、何時(いつ)でも籠つてゐる。愛憎を別にして考へて見ても、母はたしかに品位のある床しい婦人に違なかつた。さうして父よりも賢こさうに誰の目にも見えた。氣六づかしい兄も母丈(だけ)には畏敬の念を抱(いだ)いてゐた。

「御母(おつか)さんは何にも云はないけれども、何處かに怖(は)いところがある」

 私は母を評した兄の此言葉を、暗い遠くの方から明らかに引張出(ひつぱりだ)してくる事が今でも出來る。然しそれは水に融(と)けて流れかゝつた字體を、屹(きつ)となつて漸(やつ)と元の形に返したやうな際(きは)どい私の記憶の斷片に過ぎない。其外の事になると、私の母はすべて私に取つて夢である。途切(とぎ)れ途切(とぎ)れに殘っている彼女の面影(おもかげ)をいくら丹念に拾ひ集めても、母の全體はとても髣髴する譯に行かない。その途切途切(とぎれとぎれ)に殘つてゐる昔さへ、半(なか)ば以上はもう薄れ過ぎて、しつかりとは摑めない。

 或時私は二階へ上(あが)つて、たつた一人で、晝寐をした事がある。其頃の私は晝寐をすると、よく變なものに襲はれがちであつた。私の親指が見る間に大きくなつて、何時迄(いつまで)經(た)つても留らなかつたり、或は仰向(あふむき)に眺めてゐる天井が段々上から下りて來て、私の胸を抑へ付けたり、又は眼を開(あ)いて普段と變らない周圍を現に見てゐるのに、身體丈(だけ)が睡魔の擒(とりこ)となつて、いくら藻搔(もが)いても、手足を動かす事が出來なかつたり、後で考へてさへ、夢だか正氣だか譯の分らない場合が多かつた。さうして其時も私はこの變なものに襲はれたのである。

 私は何時何處(いつどこ)で犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金錢を多額に消費してしまつた。それを何の目的で何に遣(つか)つたのか、その邊も明瞭でないけれども、小供の私には到底(とても)償ふ譯に行かないので、氣の狹い私は寐ながら大變苦しみ出した。さうして仕舞に大きな聲を揚げて下にいる母を呼んだのである。

 二階の梯子段(はしごだん)は、母の大眼鏡と離す事の出來ない、生死事大無常迅速(しやうじじだいむじやうじんそく)云々と書いた石摺(いしずり)の張交(はりまぜ)にしてある襖の、すぐ後(うしろ)に附いてゐるので、母は私の聲を聞きつけると、すぐ二階へ上(あが)つて來て吳れた。私は其所に立つて私を眺めてゐる母に、私の苦しみを話して、何うかして下さいと賴んだ。母は其時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母(おつか)さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云つて吳れた。私は大變嬉しかつた。それで安心してまたすやすや寐てしまつた。

 私は此出來事が、全部夢なのか、又は半分丈(だけ)本當なのか、今でも疑つてゐる。然し何うしても私は實際大きな聲を出して母に救を求め、母は又實際の姿を現はして私に慰藉の言葉を與へて吳れたとしか考へられない。さうして其時の母の服裝(なり)は、いつも私の眼に映(うつ)る通り、やはり紺無地の絽の帷子(かたびら)に幅の狹い黑繻子の帶だつたのである。

   *

……母なる存在とは……常に……こういうものである…………]

 永富獨嘯庵は「漫游雜記」に、或婦人が、私の顏は今日何寸も長くなつたとか、今日は何寸短くなつたとかいふ話を書いてゐる。獨嘯庵は醫者だから、かういふ婦人は嫉妬心の强いもので、主人の多情のため、常に鬱悶を懷くと云ひ、三黃湯を氣長に服用させたら癒えた、すべて氣の病で、怪狀をなす者は大。これだといふのであるが、前に擧げた鼻の例も、この診斷に該當するのであらうか。病は鼻に在らず、顏に在らずとすれば、いくらその爲に醫療を盡したところで、驗の見える筈がない。直ちに病源を洞察して適藥を與へるのが、名醫の名醫たる所以であらう。

[やぶちゃん注:「永富獨嘯庵」「漫游雜記」永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん 享保一七(一七三二)年~明和三(一七六六)年)は江戸中期の医師。ウィキの「永富独嘯庵」によれば、『山脇東洋の門下であり、古方派の医師であるが、古方派に欠けるところは西洋医学などで補うことを主張した』。『長門国豊浦郡宇部村(山口県下関市長府町王司)に生まれ』、十三歳で『医師、永富友庵の養子となった』。十四歳で『江戸に出て医学の修業を始めるが、医学にあきたらず山県周南のもとで儒学を』び、十七歳で『帰郷して儒学を講じてすごすが、京都の古方派の山脇東洋や香川修庵の存在を知り、京都に赴き東洋の門人となった。以後、医学に熱意をもって取り組み、その才能は広く知られるようになった。諸侯から多くの招聘の声がかかるが、東洋は任官を勧めなかった』。二十一歳の『時、東洋に命じられて越前の奥村良筑のもとに赴き、「吐方」(嘔吐させて治療する方法)を学んだ』。二十九で、『諸国を漫遊し』、『長崎ではオランダ医学を吉雄耕牛に学んだ。この旅行の見聞をまとめ』たものが、ここに出る「漫遊雑記」である。同書は『華岡青洲が読み、乳がん手術を行う契機になったとされる』。三十歳で『大阪で開業し、多くの門人を育て』たが、三十五歳の若さで病没した。彼の言葉に、『病を診すること年ごとに多きに、技(わざ)爲すこと年ごとに拙(まづ)し。益々知る、理を究(きはむ)ることは易く、事に應ずることは難きことを。』があるという。同書(漢文)は早稲田大学図書館古典総合データベースにあり、当該箇所はここ(右頁四行目)である。

「三黃湯」現行の漢方調剤に「三黄瀉心湯(さんおうしゃしんとう)」が現存する。正式な薬剤会社のデータによれば、『比較的体力があり、のぼせ気味で、顔面紅潮し、精神不安で、便秘の傾向のあるものの次の諸症』に効果があるとして、『高血圧の随伴症状(のぼせ、肩こり、耳なり、頭重、不眠、不安)、鼻血、痔出血、便秘、更年期傷害、血の道症』を挙げる。成分は「オウゴン」「オウレン」「ダイオウ」とある。]

 嘗て雜誌「阿迦雲」で讀んだ「東三筋町」(歪頭山人)の中に出て來るのは、明治のドクトルの話であつた。このドクトルのところへ來たのは、顏の長くなる患者で、どこの醫者へ行つても取合はず、或は鏡を見せて然らざる所以を證明しようとするが、患者の方は、噓の鏡を見せてごまかすのだ、と云つて承知しないのである。ドクトルはこの患者の顏をつくづく見て、先づ顏の尺を測つて見せ、幸ひにまだ手おくれにはなつて居らぬ、きつと治して上げる、と云ひ、沁みるやうな藥を塗つた上、顏にぐるぐる繍帶を卷いて、毎日通はせた。時々尺を測つて次第に短くし、遂に繍帶を外して鏡を見せた。このやり方は「耳鳴草」の醫者と同じである。かういふ病があるならば、療法に古今の差別はあるまい。このドクトルは後に大きな腦病院を經營し、代議士に出てゐたかと記憶する。

[やぶちゃん注:「阿迦雲」「あかぐも」と読み、「子規庵歌会」が昭和五(一九三〇)年から戦後の昭三〇(一九五五)年まで出していた機関誌。柴田宵曲はかつての正岡子規の門弟で、『ホトトギス』社編集員でもあった。

「東三筋町」現在の東京都台東区三筋か。

「歪頭山人」「わいとうさんじん」(現代仮名遣)と読んでおく。不詳であるが、「大きな腦病院を經營し、代議士に出てゐた」とある以上、かなり知られた人物と思われる。識者の御教授を乞う。]

柴田宵曲 妖異博物館 「執念の轉化」

 

  執念の轉化

 

 或家で僕を手討ちにしなければならぬことになつた。本當はそれほど大きな罪でもなかつたのであるが、この男を斬らぬと、人に對して義理の立たぬ事があつたので、已むを得ず刀の錆にせざるを得なかつたのである。僕は怨み且つ憤り、私は何も手討ちになるほどの罪があるわけではない、死後に祟りをなして、取り殺さずには置かぬといふ。その時主人は笑つて、その方にわしを取り殺すことが出來るものか。もし出來るといふなら證據を見せい、これから首を刎ねる時、その首が飛んで庭石に嚙み付いたなら、その方が祟りをなす證據としよう、と云つた。然るに刎ねられた首は、主人の云つた通り石に嚙み付いたから、家内の者の恐怖は一通りでなかつたが、祟りは一向にない。或人がその理由を尋ねたら、主人の答へはかうであつた。あの男は初め祟りをなして、わしを取り殺さうといふ心が切(せつ)であつたが、後には石に嚙み付いて證據を見せようといふ志が專らになつた、首を刎ねられる刹那には、己に祟りをなすことを忘れて居つたから、何事もないのだ。

 小泉八雲は「怪談」の中にこの話を書いて「術數」と題してゐる。「小泉八雲全集」はその出所を記して居らぬが、多分右に擧げた「世事百談」の話に據つたものであらう。「世事百談」は天保十四年の刊本であるが、この話の先蹤と見るべきものが、享保十七年刊の「太平百物語」に出てゐる。

[やぶちゃん注:『小泉八雲は「怪談」の中にこの話を書いて「術數」と題してゐる』これは、Kwaidan(一九〇四年)のDiplomacyディプロマシー:「情勢を繊細且つ巧みに処理すること・公務の処理における賢明な行動・外交・外交的手腕・外交上の駆け引き・国家間交渉・他者との交渉上の駆け引き・如才なさ・礼儀」の意。ラテン語で「旅券・公文書」を語源とする。原文を、英文のテクスト・サイトのこちらにあるものを一部に手を加えて示す。

   *

DIPLOMACY

IT HAD BEEN ORDERED that the execution should take place in the garden of the yashiki. So the man was taken there, and made to kneel down in a wide sanded space crossed by a line of tobi-ishi, or stepping stones, such as you may still see in Japanese landscape-gardens. His arms were bound behind him. Retainers brought water in buckets, and rice-bags filled with pebbles; and they packed the rice-bags round the kneeling man ― so wedging him in that he could not move. The master came, and observed the arrangements. He found them satisfactory, and made no remarks.
   Suddenly the condemned man cried out to him: 
"Honored sir, the fault for which I have been doomed I did not wittingly commit. It was only my very great stupidity which caused the fault. Having been born stupid, by reason of my karma, I could not always help making mistakes. But to kill a man for being stupid is wrong ― and that wrong will be repaid. So surely as you kill me, so surely shall I be avenged; ― out of the resentment that you provoke will come the vengeance; and evil will be rendered for evil."
   If any person be killed while feeling strong resentment, the ghost of that person will be able to take vengeance upon the killer. This the samurai knew. He replied very gently ― almost caressingly: 
"We shall allow you to frighten us as much as you please ― after you are dead. But it is difficult to believe that you mean what you say. Will you try to give us some sign of your great resentment ― after your head has been cut off?" 
"Assuredly I will," answered the man.
 
"Very well," said the samurai, drawing his long sword; ― "I am now going to cut off your head. Directly in front of you there is a stepping-stone. After 
your head has been cut off, try to bite the stepping-stone. If your angry ghost can help you to do that, some of us may be frightened. . . . Will you try to bite the stone?"
 
"I will bite it!" cried the man, in great anger ― "I will bite it! ― I will bite ―
There was a flash, a swish, a crunching thud: the bound body bowed over the rice sacks ― two long blood-jets pumping from the shorn neck; ― and the head rolled upon the sand. Heavily toward the stepping-stone it rolled: then, suddenly bounding, it caught the upper edge of the stone between its teeth, clung desperately for a moment, and dropped inert.
   None spoke; but the retainers stared in horror at their master. He seemed to be quite unconcerned. He merely held out his sword to the nearest attendant, who, with a wooden dipper, poured water over the blade from haft to point, and then carefully wiped the steel several times with sheets of soft paper…. And thus ended the ceremonial part of the incident.
   For months thereafter, the retainers and the domestics lived in ceaseless fear of ghostly visitation. None of them doubted that the promised vengeance would come; and their constant terror caused them to hear and to see much that did not exist. They became afraid of the sound of the wind in the bamboos ― afraid even of the stirring of shadows in the garden. At last, after taking counsel together, they decided to petition their master to have a Ségaki-service performed on behalf of the vengeful spirit.
 
"Quite unnecessary," the samurai said, when his chief retainer had uttered the general wish. . . . "I understand that the desire of a dying man for revenge may be a cause for fear. But in this case there is nothing to fear."
   The retainer looked at his master beseechingly, but hesitated to ask the reason of this alarming confidence.
"Oh, the reason is simple enough," declared the samurai, divining the unspoken doubt. "Only the very last intention of that fellow could have been dangerous; and when I challenged him to give me the sign, I diverted his mind from the desire of revenge. He died with the set purpose of biting the stepping-stone; and that purpose he was able to accomplish, but nothing else. All the rest he must have forgotten. . . So you need not feel any further anxiety about the matter."
   And indeed the dead man gave no more trouble. Nothing at all happened.

   *

同作の訳文は、山宮允氏の訳になる昭和二五(一九五〇)年小峰書店刊の小泉八雲抄訳集「耳なし芳一」の「はかりごと」を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認することが出来る。

 なお、本作は、偏愛する平井呈一氏(一九六五年岩波文庫版及び一九七五年恒文社刊「小泉八雲作品集」)・上田和夫氏(一九七五年新潮文庫刊「小泉八雲集 怪談・骨董 他」)は孰れも「かけひき」で、私の小学校時代の小泉八雲原体験書である一九六七年角川文庫版田代三千稔氏訳「怪談・奇談」では「はかりごと」で、講談社学術文庫版「怪談・奇談」の平川祐弘氏訳では「策略」となっている。柴田の謂う、その訳標題は、第一次の小泉八雲全集(一九二六年第一書房刊)での田部隆次の訳「術數」を指しているものと思われる。因みに、小泉八雲直弟子のその田部氏の同作の訳(先の全集版と全く同じかどうかは不明だが、表題は同じく「術數」である)は、後の一九五〇年新潮文庫刊の古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」に載り、「日本の名作名文ハイライト」の「電子テキスト」のこちらPDF版)で入手出来、読める。

 柴田が指す「世事百談」のそれは「卷之三」に載る「欺(あざむき)て寃魂(ゑんこん)を散ず」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

 欺て寃魂を散ず

人は初一念(しよいちねん)こそ大事なれ。たとへば臨終一念の正邪(しやうじや)によりて、未來善惡の因となれる如く、狂氣するものも金銀(きんぎん)のことか。色情か。事にのぞみ迫りて狂(きやう)を發する時の一念をのみ、いつも口ばしりゐるものなり。ある人の、主命にて人を殺(ころす)はわが罪にはならずと云(いふ)を、さにあらず、家業(かげふ)といへども殺生(せつしやう)の報(むくひ)はあることゝて、庭なる露しげくおきたる樹(き)をゆり見よとこたへけるま1、やがてその木(こ)の下(もと)に行(ゆき)て動(うご)しければ、その人におきたる露かゝれり。さてその人云やう、怨みのかゝるもその如く云(いひ)つけたる人よりは太刀取(たちとり)にこそかゝれといひしとかや。諺(ことわざ)にも盜(ぬすみ)する子は惡(あし)からで、繩(なは)とりこそうらめしといへるは、なべての人情といふべし。これにつきて一話(はなし)あり。何某(なにがし)が家僕(かぼく)、その主人に對し、指(さし)たる罪なかりしが、その僕を斬(きら)ざれば(ひと)人に對して義の立(たゝ)ざることありしに依(より)て、主人その僕を手討(てうち)にせんとす。僕、憤り怨(うらみ)て云(いふ)、吾(われ)さしたる罪もなきに、手討にせらる。死後に祟(たゝ)りをなして、必(かならず)取殺(とりころ)すべしと云(いふ)。主人わらひて汝(なんぢ)何(なに)ぞたゝりをなして我をとり殺すことを得んや。といへば、僕、いよいよいかりて、見よとり殺さんといふ。主人わらひて、汝我を取殺さんといへばとて、何の證(しよう)もなし。今その證を我に見せよ。その證には汝が首を刎(はね)たる時、首飛(とん)で庭石に齧(かみ)つけ。夫(それ)を見ればたゝりをなす證とすべしと云(いふ)。さて首を刎(はね)たれば、首飛びて石に齧(かみ)つきたり。その後(のち)何(なに)のたゝりもなし。ある人その主人にその事を問(とひ)ければ、主人こたへて云(いふ)、僕初(はじめ)にはたゝりをなして我を取殺さんとおもふ心切(せち)なり、後には石に齧(かみ)つきてその驗(しるし)を見せんとおもふ志(こゝろざし)のみ專(もは)らさかんになりしゆゑ、たゝりをなさんことを忘れて死(しゝ)たるによりて祟(たゝり)なしといへり。

   *

「天保十四年」一八四三年。

「享保十七年」一七三二年。

「太平百物語」菅生堂人恵忠居士なる人物の百物語系浮世草子怪談集で高木幸助画。大坂心斎橋筋の河内屋宇兵衛を版元とする。五巻五十話。目次の後には後編を後に出す旨の記載があり、真正の百物語にするつもりがあったかなかったか知らぬが、後編未刊である(よく知られていないので一言言っておくと、百物語系怪談本で百話を完遂していて現存する近世以前のものは、実は「諸國百物語」ただ一書しかない。リンク先は私の挿絵附き完全電子化百話(注附))。以下は同書の「卷一 四 富次郎娘蛇に苦しめられし事」である。国書刊行会「江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して示す。挿絵も添えた。読みは歴史的仮名遣でオリジナルに添え、必ずしも参考底本には従っていない。事実、原典が歴史的仮名遣を誤っている部分もあるからである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。「步(ほ/あゆみ)」は原典の読みルビと左ルビとしてある意味風添書きを示したもの。

   *

       四 富次郞娘蛇に苦しめられし事
 

Mtomijiroumusumehebi

 越前の國に富次郞とて代々分限(ぶんげん)にして、けんぞくも數多(あまた)持ちたる人有り。此富次郞一人の娘をもてり。今年十五歳なりけるが、夫婦の寵愛殊にすぐれ、生れ付きもいと尋常にして、甚だみめよく常に敷島の道に心をよせ、明暮れ琴を彈じて、兩親の心をなぐさめける。或る時、座敷の緣に出(いで)て庭の氣色を詠めけるに、折節初春の事なれば、梅に木づたふ鶯の、おのが時(とき)得し風情(ふぜい)にて、飛びかふ樣のいとおかしかりければ、

  わがやどの梅(むめ)がえになくうぐひすは

   風のたよりに香をやとめまし

と口ずさみけると、母おや聞きて、「げにおもしろくつゞけ給ふものかな。御身の言の葉にて、わらはもおもひより侍る」とて、取りあへず、

  春風の誘ふ垣ねの梅(むめ)が枝になきてうつろふ鶯のこゑ

かく詠じられければ、此娘聞きて、「實(げ)によくいひかなへさせたまひける哉」と、互に親子心をなぐさめ樂しみ居(ゐ)ける所に、むかふの樹木(じゆぼく)の陰より、時ならぬ小蛇(こへび)壱疋(いつぴき)するするといでゝ、此娘の傍(そば)へはひ上るほどに、「あらおそろしや」と內(うち)にかけいれば、蛇も同じく付いて入る。人々あはて立ち出でて、杖をもつて追ひはらへども、少しもさらず。此娘の行く方にしたがひ行く。母人(はゝびと)大(おほ)きにかなしみ、夫(をつと)にかくと告げければ、富次郞大きにおどろき、從者(ずさ)を呼びて取り捨てさせけるに、何(いづ)くより來たるともなく、頓(やが)て立ち歸りて娘の傍(そば)にあり。幾度(いくたび)すてゝも元のごとく歸りしかば、ぜひなく打ち殺させて、遙かの谷に捨てけるに、又立ち歸りてもとの如し。こはいかにと切れども突けども、生き歸り生き歸りて、なかなか娘の傍を放れやらず。兩親をはじめ家內の人々、如何(いかゞ)はせんと嘆かれける。娘もいと淺ましくおもひて、次第次第によはり果て、朝夕(てうせき)の食事とてもすゝまねば、今は命もあやうく見へければ、諸寺諸社への祈禱山伏ひじりの咒詛(まじなひ)、殘る所なく心を盡せども、更に其驗(しるし)もあらざれば、只いたづらに娘の死するを守り居(ゐ)ける。然るに當國永平寺の長老、ひそかに此事を聞き給ひ、不便(ふびん)の事におぼし召し、富次郞が宅に御入(おい)り有りて、娘の樣體(やうだい)、蛇がふるまひをつくづくと御覽あり、娘に仰せけるやうは、「御身(おんみ)座を立ちて、向ふの方(かた)に步(あゆ)み行くべし」と。仰せにしたがひ、やうやう人に扶(たす)けられ、二十步(ほ/あゆみ)斗(ばかり)行くに、蛇も同じくしたがひ行く。娘とまれば、蛇もとまる。時に長老又、「こなたへ」とおほせけるに、娘歸れば蛇も同じく立ち歸る所を、長老衣の袖にかくし持ち給ひし、壱尺餘りの木刀(ぼくたう)にて、此蛇が敷居をこゆる所をつよくおさへ給へば、蛇行く事能(あた)はずして、此木刀を遁(のが)れんと、身をもだへける程、いよいよ强く押へたまへば、術(じゆつ)なくや有りけん、頓(やが)てふり歸り木刀に喰ひ付く所を、右にひかへ持ち給ひし小劍(こつるぎ)をもつて、頭を丁(てう)ど打ち落し給ひ、「はやはや何方(いづかた)へも捨つべし」と。仰せにまかせ、下人等(ら)急ぎ野邊(のべ)に捨てける。其時長老宣(のたま)ひけるは、「最早此後(のち)來たる事、努々(ゆめゆめ)あるべからず。此幾月日(いくつきひ)の苦しみ兩親のなげきおもひやり侍るなり。今よりしては心やすかれ」とて、御歸寺(ごきじ)ありければ、富次郞夫婦は餘りの事の有難さに、なみだをながして、御後影(おんうしろかげ)を伏し拜みけるが、其後は此蛇ふたゝびきたらず。娘も日を經て本復(ほんぶく)し、元のごとくになりしかば、兩親はいふにおよばず、一門所緣の人々迄、悅ぶ事かぎりなし。「誠(まこと)に有難き御僧(おんそう)かな」とて、聞く人感淚をながしける。

[やぶちゃん注:以下の筆者評の部分は底本では全体が一字下げ。]

評じて曰く、蛇木刀に喰ひ付きたる内、しばらく娘の事を忘れたり。其執心(しうしん)のさりし所を、害し給ふゆへに、ふたゝび娘に付く事能(あた)はず。是れ倂(しか)しながら知識(ちしき)の行なひにて、凡情(ぼんじやう)のおよぶ所にあらず。誠に此一箇(いつこ)に限らず萬(よろづ)の事におよぼして、益ある事少なからず。諸人よく思ふべし。

   *]

 

 越前國に住む富次郞といふ分限の一人娘が、庭の梅の花を見て歌などを詠んでゐる時、時ならず這ひ出た小蛇に魅入られた。幾度取り捨てさせても歸つて來る。是非なく打ち殺させて、遙かの谷に捨てさせたが、立ち歸ることに變りはない。兩親はじめ家內の人々は深く悲しみ、娘はこれがために次第に弱つて、命も危くなつた。諸寺諸社への祈禱、山伏や聖(ひじり)の呪(まじな)ひ、あらゆる手段を講じて見たけれど、更に驗らしいものが見えず、今は死を待つばかりとなつた時、永平寺の長老が富次郞の宅に來られ、つぶさに樣子を見屆けた上、娘に向ひ、御身座を立つて向うの方に步み行くべし、と命ぜられた。娘は瘦せ細つた身を起し、漸う人に扶けられて二十步ばかり步くと、蛇も同じやうについて行く。娘が止まれば蛇も止まる。今度は此方へと命じ、娘が歸るに從つて蛇も歸るのを、長老は衣の袖に隱し持つた一尺餘りの木刀で、蛇に敷居を越えさせず、强く押へてしまつた。蛇は先へ進むことが出來ないので、木刀を遁れようとしたが、愈々强く押へられて、詮方なさに木刀に喰ひ付いた。その時長老、小劍を以て首を打ち落し、早くどこへでも捨てよと云ひ、下人等が急ぎ野邊に捨てたのを見て、もうこの後來ることはない、御安心あれと挨拶して歸られた。果して蛇は再び來ず、娘も日を經て本復したから、一同よろこぶこと限りなく、感淚を流して長老を有難がつた。

「太平百物語」はこの話に特に評を加へて、蛇は木刀に食ひ付くうち、暫く娘の事を忘れた、その執心の去つたところを首を打ち落したから、再び娘に取り付くことが出來なかつたのである。名僧智識の行ひで、凡慮の及ぶところでないが、この理はこれだけに限らぬ、萬事に及ぼして益あることが少くない、諸人よく思ふべしと云つてゐる。評の意は僕を手討ちにした主人の言葉と同じであるが、二つの話を比較すれば、「太平百物語」の方が遙かに面白い。單に殺す者が人間と異類との相違があるだけではない。一方はそれほどの罪でないのを殺すといふのが不愉快である上に、祟りをなすならば證據を見せよなどと云ひかけ、僕の心の轉化を試みたのは、小泉八雲の名付けた通り「術數」に墮してゐるからである。永平寺の長老は最初から娘の命を救ふために來り、理窟らしいことは一言も云はず、自ら刀を揮つて蛇首を斷じ去つた。前の僕に若干の同情を寄せる者と雖も、この蛇を憐れむ餘地はあるまいと思はれる。尤もこの蛇は何度も殺されてゐるのだから、亡靈になつてゐるわけであるが、その恐るべき執念を木刀の上に轉ぜしめ、徐ろに首を落したのは、活殺自在な禪僧の所行と云はなければならぬ。

[やぶちゃん注:これは私などには、江戸時代の臨済中興の祖とされる名僧白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)の逸話とされる、地獄を問う武士を、けんもほろろに追い返して怒らせ、禅師を斬らんとしたその瞬間、彼に向って「それぞ地獄!」と応じた変形公案と同工異曲のように思われる。白隠は、まさに「太平百物語」の板行された享保一七(一七三二)年当時の同時代人である。]

 この話は兩方とも時代が書いてない。書物の刊年から見て、百年以上の距離があることは慥かである。

2017/02/27

柴田宵曲 妖異博物館 「小さな妖精」

 

 小さな妖精

 

 小泉八雲の書いた「ちん・ちん・こばかま」は小さな妖氣の漂ふお伽噺である。美しいけれども無性だつた女の子が、長じて立派な士と結婚する。士が戰ひに行つたあとの家庭は、寂しいと同時に氣樂なものであつたが、その家庭に測らずも不思議な事が起つた。小さな物音に目を覺ました彼女の枕許に、背の高さ一寸そこそこの小人が何百人も踊つてゐる。彼等は主人公の士が祭日に著るやうな上下を著け、小さな大小をさし、此方を見ながら笑ふ。「ちん・ちん・こばかま、よもふけさふらふ、おしづまれ、ひめぎみ、や、とんとん」といふ歌を何遍も何遍も繰り返してうたふのである。この歌の文句は今の人には少し耳遠いから、八雲に從つてその意味を書いて置いた方がいゝかも知れぬ。「私等はちん・ちん・こばかまです――時もおそうございます、おやすみなさい、姬君樣」

[やぶちゃん注:「無性」「むしやう」。大人の分別を持ち合わせていないこと。しかし、どうも宵曲には悪いが、これ、「無精(ぶしやう)」の誤記である。原文は、
ONCE there was a little girl who was very pretty, but also very lazy. Her parents were rich and had a great many servants; and these servants were very fond of the little girl, and did everything for her which she ought to have been able to do for herself. Perhaps this was what made her so lazy. When she grew up into a beautiful woman, she still remained lazy;
 

と、まさに――彼女のずぼら加減を――畳み掛けて――断っているからである。後の全原文を見られたい。

 以下の話は小泉八雲の「ちりめん本」童話“ Chin Chin Kobakama (明治三六(一九〇三)年刊)。“Internet Archive”こちらで美しい「ちりめん本」原画像で原文が読め、ダウンロードも出来る。【2019年11月23日追記】小泉八雲 ちん・ちん・こばかま (稲垣巌訳)」を正規表現で電子化注した。

 

 言葉は丁寧のやうでも、彼等が自分をいぢめるつもりであることはよくわかつた。彼等は彼女に向つて意地の惡い顏付もするからである。勇氣を起してつかまへようとしたが、すばしこくて捉へられぬ。追ひ拂はうとしても逃げず、依然として「ちん・ちん・こばかま」を歌ひ、彼女を嘲るのをやめない。彼等が小さな化物だとわかつた時、彼女は急に恐ろしくなつたが、現在武士の妻になつてゐる以上、そんな事は誰にも打ち明けられぬ。小人どもは每晩午前二時頃に姿を現し、夜の明けるまで歌ひ且つ踊る。彼女は眠られぬためと恐怖とで遂に病氣になつた。そのうちに主人公が歸つて來た。彼女から病氣の原因を聞いた主人公は、寢間の押入れに隱れて樣子を窺ふことになつた。「ちん・ちん・こばかま」はその夜も出て踊つたので、士は一刀を拔いて斬り付けた。小人の群れは一時に消え、あとには一つかみの古楊枝が疊の上に殘つた。

 若い武士の妻は無性で爪楊枝を始末せず、疊の間に突きさして置いた。疊を大切にする化物達が腹を立てて、彼女を苦しめたのだといふ委細がわかると、この話の妖氣は忽ち消えて、例の敎訓が殘る。彼女は主人公から叱られ、古い爪楊枝は燒き棄てられる。「ちん・ちん・こばかま」の歌は再び聞かれなくなつた。

[やぶちゃん注:ウィキの「ちいちい袴」には以下のようにある。『ちいちい袴(ちいちいばかま)またはちいちい小袴(ちいちいこばかま)は、新潟県佐渡島に伝わる民話』で以下の通り。『その昔のこと。一人暮しの老婆が夜に家で糸を紡いでいたところ、四角張った顔の袴姿の子男が現れ』『「お婆さん淋しかろう。わしが踊って見せましょう』」『と言って「ちいちい袴に 木脇差をさして こればあさん ねんねんや』」『と唄いながら、どこかへと消えてしまった』。『老女は気味悪く思って家の中を捜したところ、縁の下に鉄漿付け用の楊枝があった。これを焼き捨てたところ、このような不思議な出来事が起きることはなくなった』。『昔から、鉄漿付けの楊枝は古くなると焼き捨てるものだといわれる』。『岡山県、大分県にも同様の民話がある』。『近年の文献によっては、この話に登場する小男は、楊枝が化けた付喪神(器物が化けた妖怪)と解釈されている』とし、以下の本小泉八雲の「ちんちん小袴」の梗概が載る。なお、小泉八雲のChin Chin Kobakamaの最後にはごく短かく、今一つの教訓話が添えられており、そこではやはり無精な女の子が梅の種を畳に挟んで放置しておいたところ、夜中に振袖姿の小さな女たちが現れて踊り、少女の眠りを妨げて懲らしめたという。「ちりめん本」はそこをも丁寧に絵を添えていて、実に掬すべき愛書となっている。強く、ダウンロード(無論、無料)をお薦めするものである。「ちりめん本」版原画像を底本にして、以下に幾つかの英文テクストを校合して原文を示す。

   * 

 

CHIN CHIN KOBAKAMA 

 

THE floor of a Japanese room is covered with beautiful thick soft mate of woven reeds. They fit very closely together, so that you can just slip a knife-blade between them, They are changed once every year, and are kept very clean, The Japanese never wear shoes in the house, and do not use chairs or furniture such as English people use. They sit, sleep, eat, and sometimes even write upon the floor. So the mats must be kept very clean indeed, and Japanese children are taught, just as soon as they can speak, never to spoil or dirty the mats.

   Now Japanese children are really very good. All travelers, who have written pleasant books about Japan, declare that Japanese children are much more obedient than English children and much less mischievous. They do not spoil and dirty things, and they do not even break their own toys. A little Japanese girl does not break her doll. No, she takes great care of it, and keeps it even after she becomes a woman and is married. When she becomes a mother, and has a daughter, she gives the doll to that little daughter. And the child takes the same care of the doll that her mother did, and preserves it until she grows up, and gives it at last to her own children, who play with it just as nicely as their grandmother did. So I,― who am writing this little story for you,―have seen in Japan, dolls more than a
hundred years old, looking just as pretty as when they were new. This will show you how very good Japanese children are; and you will be able to understand why the floor of a Japanese room is nearly always kept clean,― not scratched and spoiled by mischievous play.

   You ask me whether all, all Japanese children are as good as that? Well―no, there are a few, a very few naughty ones. And what happens to the mats in the houses of these naughty children? Nothing very bad ― because there are fairies who take care of the mats. These fairies tease and frighten children who dirty or spoil the mats. At least-they used to tease and frighten such mischievous children. I am not quite sure whether those little fairies still live in Japan,― because
the new railways and the telegraph have frightened a great many fairies away. But here is a little story about them:―

 

ONCE there was a little girl who was very pretty, but also very lazy. Her parents were rich and had a great many servants; and these servants were very fond of the little girl, and did everything for her which she ought to have been able to do for herself. Perhaps this was what made her so lazy. When she grew up into a beautiful woman, she still remained lazy; but as the servants always dressed and undressed her, and arranged her hair, she looked very charming, and nobody thought about her faults.

   At last she was married to a brave warrior, and went away with him to live in another house where there were but few servants. She was sorry not to have as many servants as she had had at home, because she was obliged to do several things for herself, which other folks had always done for her. It was such trouble to her to dress herself, and take care of her own clothes, and keep herself looking neat and pretty to please her husband. But as he was a warrior, and often had to be far away from home with the army, she could sometimes be just as lazy as she wished. Her husband's parents were very old and good-natured, and never scolded her.

   Well, one night while her husband was away with the army, she was awakened by queer little noises in her room. By the light of a big paperlantern she could see very well, and she saw strange things What?

   Hundreds of utile men, dressed just like Japanese warriors, but only about one inch high, were dancing all around her pillow. They wore the same kind of dress her husband wore on holidays ,―(Kamishimo, a long robe with square shoulders), ― and their hair was tied up in knots, and each wore two tiny swords. They all looked at her as they danced, and laughed, and they all sang the same song, over and over again,―

 "Chin-chin Kobakama,
Yomo fuké soro,―    
Oshizumare, Hime-gimi! ―
     
Ya ton ton!" ―

Which meant: ―"We are the Chin-chin Kobakama; ― the hour is late; Sleep, honorable noble darling!"

   The words seemed very polite; but she soon saw that the little men were only making cruel fun of her. They also made ugly faces at her.

   She tried to catch some of them; but they jumped about so quickly that she could not. Then she tried to drive them away; but they would not go, and they never stopped singing

 "Chin-chin Kobakama,….."

and laughing at her. Then she knew they were little fairies, and became so frightened that she could not even cry out. They danced around her until morning;― then they all vanished suddenly.

   She was ashamed to tell anybody what had happened ― because, as she was the wife of a warrior, she did not wish anybody to know how frightened she had been.

   Next night, again the little men came and danced, and they came also the night after that, and every night ― always at the same hour, which the old Japanese used to call the "Hour of the Ox"; that is, about two o'clock in the morning by our time. At last she became very sick, through want of sleep and through fright. But the little men would not leave her alone.

   When her husband came back home, he was very sorry to find her sick in bed. At first she was afraid to tell him what had made her ill, for fear that he laugh at her. But he was so and coaxed her so gently, that after a while she told him what happened every night.

   He did not laugh at her at all, but looked very serious for a time. Then he asked:―

      "At what time do they come?"

   She answered: ―"Always at the same hour ― the 'Hour of the Ox.'"

   "Very well," said her husband,― "to-night I shall hide and watch for them. Do not be frightened."

   So that night the warrior hid himself in a closet in the sleeping room, and kept watch through a chink between the sliding doors.

   He waited and watched until the "Hour of the Ox." Then, all at once, the little men came up through the mats, and began their dance and their song:―

 "Chin-chin
             Kobakama,
                      Yomo  fuké soro……"

They looked so queer, and danced in such a funny way, that the warrior could scarcely keep from laughing. But he saw his young wife's frightened face; and
then remembering that nearly all Japanese ghosts and goblins are afraid of a sword, he drew his blade, and rushed out of the closet, and struck at the little dancers. Immediately they all turned into-what do you think?

Toothpicks!

   There were no more little warriors ― only a lot of old toothpicks scattered over the mats.

   The young wife had been too lazy to put her tooth picks away properly; and every day, after having used a new toothpick, she would stick it down between the mats on the floor, to get rid of it. So the little fairies who take care of the floor-mats became angry with her, and tormented her.

   Her husband scolded her, and she was so ashamed that she did not know what to do. A servant was called, and the toothpicks were taken away and burned. After that the little men never came back again.

――――――

THERE is also a story told about a lazy little girl, who used to eat plums, and afterward hide the plum-stones between the floor-mats. For a long time she was able to do this without being found out. But at last the fairies got angry and punished her.

   For every night, tiny, tiny women ― all wearing bright red robes with very long sleeves,― rose up from the floor at the same hour, and danced, and made faces at her and prevented her from sleeping.

   Her mother one night sat up to watch, and saw them, and struck at them,― and they all turned into plumstones! So the naughtiness of that little girl was found out. After that she became a very good girl indeed.

――――――

   

同作の訳文は、山宮允氏の訳になる昭和二五(一九五〇)年小峰書店刊の小泉八雲抄訳集「耳なし芳一」の「ちんちん・こばかま」を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認することが出来る。【再掲:2019年11月23日追記】小泉八雲 ちん・ちん・こばかま (稲垣巌訳)」を正規表現で電子化注した。] 

 

 かういふ小さな妖精は、西洋のお伽噺にはよく出て來るから、西洋人には却つてわかりいゝかも知れぬが、日本にはあまり同類がない。「黑甜瑣語」にあるのは、秋の夜のつれづれに獨り家に居ると、疊の間から筆の長さぐらゐの小人が三四人出て、そこらを駈け𢌞つて戰ふ。煙管でこれを打てば、皆消えてなくなつたが、暫くしてまた一人出て來た。今度は鎧冑に身を固め、大將軍の風がある。弓に矢をつがへて放つのを、また煙管で拂つたが、その時矢に射られたと思つたのは、恐らく自分の煙管で傷つけたのであらう。その時以來一眼になつた。――この小人は「黑甜瑣語」の著者も、どうやら幻想と解してゐるやうである。

[やぶちゃん注:以上は「黑甜瑣語」は「第一編卷之四」にある「棚谷家の怪事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。確かに、最後のところで筆者人見蕉雨は『心鬱の祟りならんか』と述べている。悪くない。私は一読、平安末から鎌倉初期頃に描かれた私の好きな絵巻「病草紙」の、小法師の幻覚を見る男の絵、詞書に、

   *

なかごろ持病もちたるおとこありけり やまひおこらむとては たけ五寸ばかりある法師の かみぎぬきたる あまたつれだちて まくらにありと見みえけり

   *

とあるのを鮮やかに思い出した。熱性マラリアによる脳症のそれというより、私はこれは重篤な精神疾患による幻覚症状と思っている。]

 

「聊齋志異」の「小獵犬」は、僧院に在つて蚤蚊に苦しめられ、夜ろくろく睡り得ぬ人が、食後、橫になつてぼんやりしてゐると、小さな武士が馬に乘つて出て來た。臂にとまらせた鷹は蠅ぐらゐの大きさである。この武士が室內をぐるぐる駈け𢌞つてゐるうちに、また一人現れた。前の武士と同じやうな行裝をしてゐるが、この方は大蟻ぐらゐの犬を曳いてゐる。やがて室内には何百人といふ武士が、各々鷹を携へ犬を曳いて現れ、一齊に活動をはじめた蠅や蚊は鷹を放つて捕らせる。獵犬は牀と云はず、壁と云はず攀じ登つて、蚤や虱を退治する。瞬く間に一掃してしまつた。寢たふりをしてぢつと見てゐると、今度は黃色の著物に平らな冠をかぶつた人が出現した。これは王者の如く別の腰掛に倚る。今まで活動してゐた武士達は、悉くその周圍に集まり、獲物を獻上するやうであつたが、何を云つてゐるのか少しもわからない。黃衣の人が輦(てぐるま)に登ると同時に、武士達は慌しく馬にまたがり、紛紛としていづれへか走り去つた。その有樣は歷々と目に殘つてゐるけれど、何の痕跡もない。自分の身邊を見𢌞しても、一切が夢のやうである。たゞ夢でない證據には、壁のところに小さな犬が一疋殘つてゐた。急いでこれをつかまへ、硯箱の中に飼ふことにしたが、飯粒などは匂ひを嗅ぐだけで顧みず、寢室に登り、著物の縫目を尋ねて蚤虱の類を獵る。お蔭で僧院のさういふ蟲類は全く驅除された。犬はどこかへ行つてしまつたかと思ふと、依然この室內にぢつとしてゐる。或時晝寐をした際に、ついその人の下敷きになつて死んでしまつた。「池北偶談」の記すところも、ほゞこれと同じである。黃衣の人が朱衣であるのと、一疋取り殘された獵犬が下敷きの厄に遭はぬ點が、僅かに違つてゐるに過ぎぬ。

[やぶちゃん注:これは私の偏愛する清代の志怪小説集である、蒲松齢の「聊齋志異」の「卷四」の「小獵犬」である。中文サイトにある原文を加工して、まず、引く。

   *

山右衞中堂爲諸生時、厭冗擾、徙齋僧院。苦室中蟲蚊蚤甚多、竟夜不成寢。食後、偃息在牀、忽一小武士、首插雉尾、身高兩寸許、騎馬大如蜡、臂上靑鞲、有鷹如蠅、自外而入、盤旋室中、行且駛。公方凝注、忽又一人入、裝亦如前。腰束小弓矢、牽獵犬如巨螘。又俄頃、步者、騎者、紛紛來以數百輩、鷹亦數百臂、犬亦數百頭。有蚊蠅飛起、縱鷹騰擊、盡撲殺之。獵犬登牀緣壁、搜噬蝨蚤、凡罅𨻶之所伏藏、嗅之無不出者、頃刻之間、決殺殆盡。公僞睡睨之。鷹集犬竄於其身。既而一黃衣人、著平天冠、如王者、登別榻、繫駟葦篾間。從騎皆下、獻飛獻走、紛集盈側、亦不知作何語。無何、王者登小輦、衛士倉皇、各命鞍馬、萬蹄攢奔、紛如撒菽、煙飛霧騰、斯須散盡。公歷歷在目、駭詫不知所由。躡履外窺、渺無蹟響。返身周視、都無所見、惟壁磚上遺一細犬。公急捉之、且馴。置硯匣中、反復瞻玩。毛極細葺、項上有小環。飼以飯顆、一嗅輒棄去。躍登牀榻、尋衣縫、齧殺蟣蝨。旋復來伏臥。逾宿、公疑其已往、視之、則盤伏如故。公臥、則登牀簀、遇蟲輒噉斃、蚊蠅無敢落者。公愛之、甚於拱壁。一日、晝寢、犬潛伏身畔。公醒轉側、壓於腰底。公覺有物、固疑是犬、急起視之、已匾而死、如紙翦成者然。然自是壁蟲無噍類矣。

   *

次に、やはり、私の偏愛する柴田天馬氏(パブリック・ドメイン)の訳を角川文庫版(年昭和五三(一九七八)年改版十五版・新字)で示す。注などいらぬ。充分、天馬節で判り、同時に楽しめる。

   *

 

 小猟犬 

 

 山西の衛中堂がまだ諸生であった時、やかましいのを厭って、書斎を僧院に移したが、部屋(へや)には、虫(なんきんむし)や、蚊(か)や、蚤(のみ)が、ひどく多かったので、一晩苦しんで寝つかれず、食後に、牀(ねだい)で休んでいると、首に雉(きじ)の尾を插した、二寸ばかりの身のたけの小さな武士が、蜡(ろうむし)ぐらいの大きさの馬に乗り、腕に青い鞲(ゆごて)をかけ、それに蠅(はえ)ほどの鷹(たか)をとまらせて、外からはいって来ると、部屋の中をぐるぐる駆けまわるのだった。

 公が、じっと見ていると、また一人はいって来たが、やはり前のような装いで、腰に小さな弓矢をつけ、大きさが蟻(あり)ほどの野犬をひいていた。また、しばらくすると、歩(かち)の者、騎馬の者が数百人紛々とやって来た。鷹もやはり数百羽、犬もやはり数百匹だった。そうして蚊や蠅が飛びたつと、鷹を放って、ことごとく撲殺(うた)せ、野犬は寝台に登って壁をよじ、あらゆるすきまに隠れているのを、すっかり嗅ぎだし、しばらくの間に、ほとんど殺し尽くしたが、鷹や犬はねたふりをして見ている公のからだに、集ったり隠れたりするのだった。

 そのうちに、黄色い衣をき、平天冠(へいてんかん)をつけた王さまのような人が、ほかの寝台に登って、馬を葦篾(あんぺら)の上につながせると、従っている騎兵はみな馬から下りて、飛(つばさ)あるもの、走(あし)あるものをたてまつり、おそばに群れつどったが、どういうことを言っているか、わからなかった。

 まもなく、王が小さな輦(くるま)に登(の)ると、衛士はみな、あわただしく馬にまたがり、駒を並べてはせゆくありさまは、山椒の実をまきちらしたようで、土けぶりをたてて、たちまち、いなくなってしまった。

 公は、ありありと見てはいたものの、どこから来たのか、わからないので、履(くつ)をはいて出て見たがあとかたもなかった。帰ってきて見まわしたけれど、何も見えず、ただ壁瓦(かべかわら)の上に一匹の小犬が残されているだけだった。

 公は急いでそれを捉(つか)まえた。慣れているのだ。すずり箱の中に置いて、よく見ると、毛がたいそう細やかで、首に小さな環(わ)がはめてあった。飯粒をやったが、ちょっと嗅いで捨ててしまい、寝台に飛びあがって衣縫(ぬいめ)をさがし、蝨や蟣(たまご)をかみ殺すと、すぐに、また帰って来て寝ころんでいた。

 一晩すぎた。公は、それがもう、どこへか行ってしまったろうと思いながら見ると、もとのように丸くなって伏(ね)ていた。そして公が寝ると、寝台のむしろにあがって来て、虫を見さえすれば、食い殺した。蚊でも蠅でも、もらすことはなかった。

 公は犬を愛すること拱壁(たま)よりもはなはだしかったが、ある日、昼寝をしていて、犬が身のまわりに潜伏(もぐりこ)んだのを知らず、目をさまして寝がえったので腰の下に圧しつぶしてしまった。公は、きっとそれが犬だったろうと思い、急いで起きて見ると、紙を剪(き)ってつくったように、平たくなって死んでいた。しかし、それからは、虫(なんきんむし)が無噍類(たえた)のである。

   *]

 以上の三つの話は、恐らく相互に關係はなからう。小人がすべて武士であるのも偶然の類似と思はれる。「ちん・ちん・こばかま」の歌も愉快でないことはないが、憾むらくは規模が小さい。一室に鷹犬を放つて害蟲を除くの壯快なるに如かぬ。

柴田宵曲 妖異博物館 「生靈」

 

 生靈

 

「源氏物語」の中で、夕顏を頓死せしめた物の怪(け)の恐ろしいのはいふまでもないが、更に氣味の惡いのは、葵の上を惱ます六條御息所の生靈である。葵の上の樣子が俄かに變つて、調伏される身の苦を訴へる一段の鬼氣は、讀む者の心にひしひしと迫るやうに感ぜられる。

[やぶちゃん注:葵上のそれは最早、疑いなく六条御息所の生霊で疑いないのであるが、夕顔をとり殺したのは、現行では、「源融の河原院をモデルとする『なにがしの院』の地付きの物の怪に源氏を恋慕し、六条御息所を含めた複数の女性たちの妬心と遺恨が複合化したものだ。」などと、まことしやかに研究者の間で語られる。しかし、事実上、決定的な怪異を目撃するのは、心理的に罪障感を持っている光唯一人であり、火が総て消えていたり、宿直人(とのいびと)が、全員、眠り込んでいたり、右近が、ヒステリー状態になったりするのは、周縁的な疑似的な見かけ上の怪異であって、真の怪異とは言い難く、私は寧ろ、夕顔には、実は、先天的な、かなり重い心臓疾患などがあったところに、頭中将の正妻からの嫌がらせなどで、精神的なストレスが高まり、慢性の心身症症状がだらだらと続いていた状態で、光の性急な関係要求が、それに拍車をかけて悪化させ、突然死に至ったものと考えた方が、遙かに自然で「まことしやか」であると考える人種である。実際、紫式部は、当時としては珍しく、鬼神や霊を信じていなかったのだから。

 幽靈の話は多いが、生靈の方は少い。「雪窓夜話抄」にあるのは、野一色勘兵衞といふ人、日頃側近く召仕つた女に暇を遣り、代りに小女を召抱へた。暇を出された女はひどく恨んで、その家の老女に向ひ、小女に暇を出して、自分を呼び戾して貰ふやうに賴んだが、さうもならなかつた。然るに或夜その小女が俄かに狂人の如くなり、口走るところは悉く暇を出された女の心中の事である。勘兵衞は怪しみながら、一間に押込めて置いたが、その時何かに當つたと見えて、小女の耳の下から血が流れ、衣服を染むるに至つた。翌日はもう平生の通りになり、昨夜の事を尋ねても、少しもおぼえて居りません、といふ。耳の下の疵も綺麗になくなつてゐる。勘兵衞愈々不審に堪へず、前の女のところへ人を遣つて尋ねさせたら、昨夜から氣分が惡くて寢てゐたが、どうしたのか、耳の下に疵が付いて痛がつてゐる、といふことなので、使の者は念のため女に逢ひ、その疵を見屆けて歸つた。「然者(されば)生靈の祟りと云ふこと世にあることなり」と「古今著聞集」じみた書き方をしてゐる。

[やぶちゃん注:「雪窓夜話抄」のまさに巻頭を飾る「卷之一」の「野一色勘兵衛召仕女の生靈の事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。「野一色」が姓で「のいつしき(のいっしき)」と読んでおいてよかろう。
『「然者(されば)生靈の祟りと云ふこと世にあることなり」と「古今著聞集」じみた書き方をしてゐる』と柴田は言うが、私はその謂いが、「古今著聞集」染みた常套的言い回しだとは思われない。]

 寬文の頃、阿波國美馬郡貞光といふところに住む何其の家來七兵衞、傍輩の栗といふ女と夫婦約束をしながら、人の媒酌により鄰家の娘と結婚してしまつた。栗この事を深く憤り、村つゞきの井の脇村の藥師を祈り、佛の眼耳胸三所まで釘を打つた。然るに七兵衞には何事もなく、妻女に栗の生靈が付いて、さまざまに惱ます。三年を經て已に死ぬべき樣子になつた時、東林寺の周啓和尙、病人の枕に寄り、わが聲に付いて念佛せよ、と云つて十念を授けたら、卽座に背中が輕くなつたと手を合せて喜んだ。更に三日の間精進して念佛を唱へ、全く快癒したとある(新著聞集)。

[やぶちゃん注:「寬文」一六六一年から一六七二年。

「阿波國美馬郡貞光」かつて徳島県にあった貞光町(さだみつちょう)の前身。現在の徳島県北西部に位置するつるぎ町(ちょう)内。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「井の脇村」恐らくは旧貞光町と西で隣接していた脇町(わきちょう)の前身であろう。現在は美馬(みま)市脇町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「新著聞集」の「執心篇 第十一」にある「妬女妻を惱(なやま)し念佛たちまち治(いや)す」の一条。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

寬文のころ、阿州美馬郡貞光といふ所の、しぢらや某氏の家來七兵衞といふ者と、傍輩の栗といふ女と、夫婦の約束せしに、又其隣の娘を、人の媒にて、七兵衞妻にむかへし。栗、此事を深く憤り、村つゞきの井の脇村の藥師を祈り、佛の眼耳胸三所まで釘を打けり。然るに七兵衞は恙なくて、妻に、かの栗の生靈付て、さまざまに惱しける程に、山ぶしあまた集りて、祈り加持すれ共、さらに驗しなかりし。三年を經て、既に死すべき樣にみへし比、脇村の東林寺周譽に、此事を語りしかば、夫(それ)こそいと安き事とて、病人の枕に依て、わが聲に付て念佛せよとて、十念授けたまへば、卽座に脊かるくなりしとて、手を合せ、よろこびし。さらば三日の間精進して、隨分念佛せよとて、血脉授けたまひしに、終に快氣せり。

   *

この「血脉」は「けちみやく(けちみゃく)」で、師が教法を仏弟子に伝えることを指す。この話、しかし可哀想な栗ちゃんの側のことを何も語っていない点で、私は、甚だ、気に入らぬな。]

「三州奇談」にあるのは、內藤善大夫といふ人の屋敷で、腰元のたよといふ者が傍輩と同じ部屋に寢てゐると、或夜の夢に見馴れぬ女が來て、さんざんに恨みかこち、果ては髻を摑んで組付いたりした。やつとの事で目が覺めたら、髮も亂れ、櫛や笄もあたりに散らばつてゐる。夢とは云ひながら、こんな難儀な目に逢つたことがない、と傍輩に語るのを聞いて、皆も氣の毒がり、外の人にも話すうちに、傍輩の一人であるたまといふ女が、ひそかにたよにかういふ話をした。實はお恥かしい話だが、私はこの家のおとな何某殿といゝ仲になつてゐる、それが本妻の方に知れたものか、夢の中に女が來て恨み、打擲されることがもう二箇月も續いてゐる、一晩も缺けたことがなかつたのに、昨夜だけは不思議に來ず、ぐつすり眠れたと思つたが、それでは間違へてあなたの方へ行つたのでせう、といふのである。二箇月も續いて來て居れば、夢にも人違などはしさうもないのに、どうしてこんな事になつたか。たよとたまでは一字違ひだが、その外に何か紛らはしい事情があるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「笄」「かうがい(こうがい)」と読み、江戸時代の女性用髪飾りの一つ。髷(まげ)などに挿し、高級品は金・銀・鼈甲・水晶・瑪瑙などで作った。本来は髪を整えるための実用的な「髮搔(かみかき)」が元。

 以上は「三州奇談」の「卷之四」の「怪異流行」の後半部。二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、以下に全部を示す。恣意的に正字化し、一部、編者の補訂挿入した字も入れてある。読みは一部に限った。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

     怪異流行

 材木町鹽屋何某、心易き友三人連立(つれだち)、元文元年仲秋の良夜、月見がてらに、四更の比(ころ)、紺屋坂の下堂形前の空地に至りしに、あやしや長(たけ)高き人三人裸になり、肌帶斗(ばかり)に成(なり)、衣類大小帶にてからげ、何れも頭の上に戴き、手を取組(とりくみ)、「爰は淺し、彼(かし)こは深し」と渡瀨をさぐり行(ゆく)體(てい)にて、叢を大事に步(はこ)び行(ゆく)。「爰は水急にして渡り難し、歸らん」と云ば、又ひとりは、「我に任せよ」と云も有。「もはや水は肩に越(こえる)よ」と云聲して、終(つひ)に奥村氏の馬場の土手に登り、みを拭ひ衣類を着し、馬場の中五六返往來して、小将町の方へ行し。誠に希有の夜行也。思ふに、是好事の者、野狐をして還而疑(かへつてうたがは)しむるの術と覺へたり。

 猶又新しく聞へしは、彥三町に內藤善太夫と云人有。此屋敷・腰本(こしもと)たよと云者、同じ傍輩と枕を並べ部屋に臥たりしに、或夜の夢に見馴ぬ女來りて、散々恨みかこち、後にはたぶさをつかんで組付(くみつき)けるが、辛うじて目覺見へければ、髮も打亂(うちみだ)れて、櫛も笄もあたりへ打散(うちちり)て有し。夢とは云共(いへども)、終(つひ)に覺ざる難義の程を傍輩にも語りければ、ともども介抱して、「ふしぎ成(なる)事」と、人々にも是を語傳(かたりつた)へしに、同じ端の本[やぶちゃん注:腰元。]に玉と云る女、ひそかに私語(さゝやき)て云樣(いふやう)、「近比(ちかごろ)恥しきざんげなれ共、我等此家のおとな何某殿と密通して居る。本妻の許(もと)へ洩(もれ)けるにや、いつの比(ころ)よりか每夜我夢に來て是(これ)を恨み、且(かつ)打擲せらゝ[やぶちゃん注:ママ。「せらるゝ」の脱字であろう。しかし、そのまま活字になっていて補正されていないのは甚だ不審である。]事凡(およそ)二月斗(ばかり)、一夜も缺ざるに、夕部[やぶちゃん注:ママ。「ゆふべ」。]斗(ばかり)は妻女の夢に來(きた)らざりしゆへ、心よく寢入たると思へば、扨は取違へてそなたの方へ來られし物ならん」と淚ながらに語りける。生き靈の取違も亦一奇談也。

 思ふに、古き本に云(いへ)る幽靈は、必ず「申々(まうしまうし)」と呼(よぶ)。是は慥(たしか)に夫(それ)とは知ながらも、古人は物每丁寧を專(もつは)らとする故にぞ呼(よぶ)ならん。今の人の輕卒は人間世の事とのみ思ひしに、扨は幽溟へも此(この)風移りにけりな。さあらば極樂にも日々音樂に新手を工夫し、いやみの地獄を拵へしと聞(きゝ)しも、戲言のみには非ざりし。

   *

これらは如何にもな疑似怪談であると私は思う。特に後者などは、もう落とし噺しの域であり、主人は「たよ」にも手を出していたものとかがしているのだ。されば、原典も、それを確信犯とし、現世の礼節の劣化を歎くのが目的のようにさえ見える、劣化したクソ怪奇談なのである。【後日追記】なお、後年、私は「三州奇談」の全電子化注を終えている。当該話を含むそれは、「卷之四 怪異流行」である。

 女が男に對する恨みを、その相手の女に持つて行く。生靈の動き方は、六條御息所以來ほゞ一定してゐるやうであるが、戀に貴賤の別なしと云つても、人により品下る[やぶちゃん注:「ひんさがる」。]ことは如何ともしがたい。「三州奇談」に至つては、鬼氣は殆ど失はれ、人違の滑稽が主になつてしまつた。かういふ生靈譚は、更にひろく古今東西の文獻に徴しても、或はあまり類のない珍談であらう。

 戀の恨みの生靈は、それでもまだ若干の趣がある。「新著聞集」には家主の細君に晝夜惱まされる若者の話があるが、これは大坂から叔父に呼び寄せられた利根才覺の男であつた。家主の妻はこの者が近所に居つては、自分の子供は到底競爭出來まいといふところから、びどくこの若者を憎み、取り殺してしまたいといふ一念が、若者が寢入らうとすると、咽喉を締めたりして苦しめるものとわかつた。家主は驚いて惡念を止めよと戒め、若者の叔父には事情を話して店替をして貰つた。女も五十を過ぎれば利慾の塊りのやうになつて、飛んだ生靈を演じたものである。これでは全くお話にならぬ。

[やぶちゃん注:以上は「新著聞集」の「第十二 寃魂篇」の「活靈(いきりやう)咽(のんど)を占(し)む」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。読みは歴史的仮名遣でオリジナルに附した。「瀨戶物棚」は長屋の固有名。「出居衆」は「でゐしゆ(でいしゅ)」とも読み、近世、武家奉公・商用などのために地方からの出稼ぎのために町方で部屋借りをして暮らした者たちを指す。

   *

江戶靈巖島瀨戶物棚(だな)、喜兵衞が家の出居衆(でゐし)に、六兵衞といふ者、年久しくありて、同じ家の店(たな)をかり、大阪より猶子(をひ)を呼下しけるが、其者は、利根才覺にて、商(あきなひ)をもよくせしが、いつとなく煩(わづらひ)しを、六兵衞も不審げにおもひ、若き者の事なれば、何にても思ふ事の有(ある)にや。假令(たとひ)金銀をつかふとても苦(くるし)からず、何とぞ、氣色も取(とり)なをすやうにせよかしといひしかば、我わづらひは別儀にあらず。家主(やぬし)の妻、晝夜傍を離れず、寢入(ねいら)んとすれば咽(のんど)をしめ、さまざまにくるしむる也と語りければ、六兵衞おどろき、五十にあまる女の、戀慕にてはよもあらじ。いか樣(さま)子細有(ある)べしとて、ひそかに事の由(よし)を、喜兵衞に告(つげ)ければ、大(おほい)に肝(きも)を消(けし)、妻をよび、かゝる事あり。いかに思ふ事の有(ある)にや。包(つつま)ず語れと責(せめ)しかば、妻色をかへ、今は何をか隱さん。かの者は、商ひよくして、物ごと利發才覺なり。かれ此家にありなば、我子は不調法ものなれば、終(つひ)にあきなひ仕負(しまけ)、家をもとられんと、思ふが口惜(くちをし)さに、殺したし殺したし、と、おもふ一念、かくこそと云(いひ)ければ、夫(をつと)聞(きき)、それは以(もつて)の外の僻事(ひがごと)かな。はやく心をあらためよ。六兵衞には、店を替(かへ)させんとなだめしかば、さもあらば、心を飜(ひるがへ)すべしと云(いひ)けり。そのおもむき、病家(びやうけ)につたへて、店をかへさせしより、病氣は快(こころよく)なり侍りし。

   *

――亡き人にかごとをかけてわづらふもおのが心の鬼にやはあらぬ――紫式部――

柴田宵曲 妖異博物館 「光明世界」



 光明世界

 

 元文年間の話である。加賀大聖寺の家中で、小笠原長八といふ士が、夜半頃に全昌寺のうしろを通りかゝると、浦風の吹くに從ひ、火の玉がふらふらと飛んで來た。丁度長八の面前に來たところを、拔打ちに丁と斬る。玉は二つに割れて長八の顏に當つたが、途端にあらゆるものが眞赤に見える。その邊の山々や寺院なども、朱で塗つたかと思はれるほどなので、これは魔國鬼界に落ちたかと、兩手で頻りに顏をこするうちに、ねばねばした松脂のやうなものが多く衣類に付いて、次第にもとの闇夜に還つた。翌日一日は顏に糊がかゝつたやうで閉口したが、別に何といふこともなかつた。その後海邊の老人に聞いたところによれば、海月(くらげ)の中に時として風に乘じ飛行するものがある、闇夜にはそれが火のやうに光るから、多分そんなものであらう、といふことであつた。如何にもさう云はれて見ると、腥い香がしたやうに思ふ、と長八も云つてゐた(三州奇談)。

[やぶちゃん注:シチュエーションとしては浦風がかなり強く吹いていたと読めるから、実際に砂浜に打ち上げられたクラゲが、たまたま強風に煽られて長八の顔面に附着することはないとは言えない。まあ、ミズクラゲ(刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属ミズクラゲ Aurelia sp.)でよかった。強毒性で乾燥した刺胞も危険な旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ Chrysaora pacifica、別名ハクションクラゲなんぞだったら、顔面が激しく炎症を起こし、眼は失明の可能性もあったやも知れぬ。但し、これらの種は逆立ちしても赤色発光はしないから、まんず、珍しい海月の妖怪ということにしておこうではないか。

「元文」一七三六年から一七四〇年。

「加賀大聖寺」加賀藩支藩大聖寺(だいしょうじ)藩。江沼郡にあって江沼郡及び能美郡の一部を領した(現在の加賀市・能美市、小松市の大部分・白山市の一部に相当する)。

「小笠原長八」私の持つ原典(後掲)では『小原長八』である。

 以上は「三州奇談」の「卷之一」の「火光斷絶」である。原典はかの「奥の細道」のシークエンスを語って風流な枕を置いている。以下に二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化し、読みは独自に歴史的仮名遣で附したものを示す。【 】は原典の割注。句の前後を一行空けた。

   *

     火光斷絶

 加州大聖寺の全昌寺は、元祿の比、芭蕉翁の行脚の杖を留られし梵院なり。其わかれの日、門前の柳に一章を殘し、

  庭掃て出でばや寺にちる柳  はせを

おしい哉、其柳も近年の囘祿のために跡もなけれども、高名は世に高く、其日の姿を彦根の五老井の人の摸(うつ)したるに、翁の眞蹟を張(はり)て爰(ここ)に猶のこれり。目のあたり、其日にあふ心地ぞする。其比、曾良は一日前にやどりして、旅中のなやみ心細くや有けん【世に行はるゝ芭蕉の句選に、此句、翁の句とし、金昌寺と誤る】、

 夜もすがら秋風聞くや浦の山  曾良

と聞へしも爰也。實(げに)も浦風の吹越(ふきこ)しやすく、山ひとへに北濱の大洋をへだつ佳景は、しばらく論ぜず。

 元文年中の事にや、大聖寺家中に小原長八と云(いふ)人、用の事ありと此寺の後ろを夜半比(ころ)通られしが、浦風の面に颯(さつ)と吹くにしたがふて、向ふより火の丸かぜゆらゆらと來る。此夜はことに黑闇成(なり)しも、此火出んにあたりも赤々と見えわたりけるに、長八が前に間近く飛來るを、長八も莊年の不敵者なれば、心得たりとぬきぬき打ちに一(ひ)と打切りけるに、手ごたへなく、只(たゞ)空を切る如くながら、火の玉は二つに割れて、長八が顏にひたと行當(ゆきあた)りける。顏は糊などを打かぶせたる樣に覺へ、兩眼ともに赤ふみへすきて、我眼ながらあやしく、其あたりの山々、寺院なども朱にて塗りたるやうにみへければ、忽ち魔國鬼界の別世界に落ちやしぬらんと、袖を上げ兩手を以頻(しきり)に面をこすり落(おと)すに、ねばねばとしたる松やにの如く成もの、たゞ衣類に付きて、次第次第に元のごとく物みへ、一時斗(ばかり)してぞ、もとの闇夜とは覺へける。何のかわりたる事もなけれども、心元なく、其あたり近き知れる人のもとを敲(たゝ)き起して、やどり灯を點じて見るに、ねばねばとしたる斗にて、何とも分つべき方なし。

 翌一日も、顏には糊のかゝりたる如く、せんかたなし。然れども、何のたゝりもなし。久敷(ひさしく)して、浦邊に老(おい)たるものに此事を尋(たづね)けるに、「海畔(うみべ)に生ずる水海月(みづくらげ)といふもの、時として風に乘じて飛行(ひぎやう)する事侍る。闇夜めぐらせば、腥(なまぐさ)さき匂ひも有けるようぞ覺へける」とは云(いひ)し。

   *

参考底本では老人の台詞の末尾は「有けるよう(に)ぞ覺へける」と推定補語がなされてある。前段の芭蕉のそれは私のシンクロニティ『「奥の細道」の旅 75 庭掃いて出でばや寺に散る柳」』に詳しい。参照されたい。]

 もし小笠原長八が海月を斬つた爲、一時眼界が赤くなつたといふだけならば、奇談として大したものではない。同じ「三州奇談」にある話でも、「關氏の心魔」の方は大分異色がある。元祿年間加州にゐた關善右衞門といふ人は、中條流兵法の家として四方に聞え、その門には多くの弟子が集まつた。或年の冬、弟子の家に行つて談論風發し、夜更けに我家へ歸ると、妻女は縫物をして未だ寢ねず、婦女もその傍に在つて、例の如く灯を提げて迎へた。然るに不思議な事には、屋中光明赫然として七寶を鏤(ちりば)めたる如く、妻女も婦女も錦繡の袖を飜し、携へて出た行燈に至るまで、瑪瑙(めのう)瑠璃(るり)のやう見える。善右衞門は暫く眼を閉ぢて、かういふ不思議は未だ曾て聞いたこともない、今自分は狂亂の病に羅つたか、さうでなければ魔魅(まみ)の欺くものであらうと、急ぎ婦女に命じて湯を沸かさしめ、浴室に入つて見ると、こゝもまた綺麗なこと、言語の及ぶところでない。目を塞いだまゝ浴し了つて、新しい衣に著更へ、先づ燈明を點し、本尊摩利支天を押して、祕印を結び九字を修した。この人は兵法の道に達するばかりでなく、ひろく内典外典にも通じて居つたから、こゝで光明眞言、多門天の咒、般若心經、法華の陀羅尼要本、いろいろなものを誦してゐる。然る後佩刀を拔いて、祕密沓返しといふ妙手を使つたので、妖魅は自ら退散したものであらう。光輝は次第に消え失せ、心地も朗かになつて、平生に復ることが出來た。これは心魔の致すところであらうと書いてある。

[やぶちゃん注:以上は「三州奇談」の「卷之三」の「關氏心魔」。以下に同前の仕儀で示す。柴田は後半を次の段で簡単に述べているだけであるが、そこも総て示す。

   *

   關氏心魔

 元祿年中、加陽の英士・關善右衞門は、代々中僕流兵法の道に達し、其名四方に響けり。傳聞(つたへきく)富田五郎左衞門入道勢源より奧祕を傳へ、連錦[やぶちゃん注:ママ。「綿」の誤字であろう。]として不絶(たえず)。殊更此人は稽古の功積りて、甚だ精妙をえたり。剩(あまつさへ)、内外の教典にも疎(うと)からず。質直にして門人も日々增長し、其傍に出たる者數十員、車馬門前に充滿せり。去(され)ば人情の習ひ、聊か憍慢(きやうまん)の念慮有(あり)けるにや。或年の冬、門弟子の許へ行き、古今英雄を論じ、才劍の得失を談じ、稍(やゝ)深更に及(および)しが、辭して歸られけるに、我家に入(いる)に、妻女未(いまだ)縫物していねず。婦女も又傍に在(あり)て、例の如く灯を提(さげ)て迎へたるを見ければ、忽(たちまち)屋中光明赫然として、恰も七寶をちりばめ色どりかざるがごとし。妻女も婦女も、衣裳皆悉く錦繡の袖を飜し、携へよる行燈に至る迄も瑪瑙瑠璃の類ひにして、知ず天上に生るゝかと怪しまる。善右衞門須臾(しばらく)開眼して案(あんず)るに、「我(われ)如斯(かくのごとく)の奇事有(ある)事、古今其例を不聞(きかず)。疑(うたがふら)くは、我(われ)今(いま)狂氣の病(やまひ)にかゝれるや。さらずば魔魅の欺(あざむ)くものならん」と、急ぎ婢に命じて湯を湧(わか)さしめ、沐浴せんとするに、浴室に入(いり)て見れば、爰も又奇麗なる事言語の及ぶ所に非ず。玉のいしだゝみ暖かにして、七寶のいさごを敷(しき)、金銀の盥(たらひ)及び硨磲(しやこ)の提子(ひさげ)に水を入(いれ)たり。めを塞(ふさい)で浴し終り、新敷(あたらしき)衣に布衣(ほい)を着し、まづ燈明を點し、本尊摩利支天の像を拜し畢而(おはりて)、祕印を結び九字を修し、光明眞言七返、多聞天の呪二十一返、般若經・法華の陀羅尼要品(だらにえうぼん)を誦し、佩刀を拔(ぬき)て當流の祕密沓返(ひみつくつがへし)と云妙手を遣ひければ、彼(かの)妖魅退(のき)しにや、「漸々(やうやう)として光輝消失せ、心地朗(ほがら)かに成(なり)て平常に歸し」と、門人藤井氏へ物語有し也。是は心魔の遮(さへぎ)る成(なる)べし。強氣も又邪を退(しりぞけ)るにや。

 古寺町福藏院には、菅神(かんじん)の傍に稻荷の社も有(あり)。此社内廣ければ、片町石浦屋書兵衞借屋・原屋久右衞門と云(いふ)足駄(あしだ)を作る男有(あり)し。彼(かの)下駄の下地桐(したぢぎり)・柵檀(さくだん)などの割木(わりき)を多く夏に乾置(ほしおき)しに、或(ある)夕暮に此割木を片付けるに、狐壱つ飛出(とびいだ)しを、したゝかに割木を以て打たゝき、追散(おひちら)して家に歸る。二階に上り伏(ふし)けるに、其夜何とやらんいね難く、二階の障子を明(あけ)みるに、爰は石浦屋の土藏に對すべき所なるに、此藏忽(たちまち)福藏院の向ひ安部氏の居宅と見え、式臺の手燭(てしよく)輝き、金屛數多(あまた)引(ひき)つらねたる如くに覺えし程に、我(われ)居る所も我家に非ず、福藏院の社地に替り、寢所の上に奉納の繪馬出來(いでき)たり。松梅の樹木多く吹鳴(ふきなり)て、心茫然とせしかば、「扨は未歸らで福藏院の庭にゐるにや。去(さる)にても家に歸るべし」と思ひ、立出(たちいで)んとせしが、慥(たしか)に我は家に歸り二階に臥(ふし)たる物をと思ひ定め、「是は必定(ひつぢやう)、物のたぶらかす成(なる)べし。何條(なんでふ)鬼魅に負(おふ)べきや」と、寢處の上敷(うはじき)の片端を力(ちから)につかんで急度(きつと)心を靜(しづめ)たりしに、少(すこし)は燈明もうすく彩光も減ぜし樣なれ共(ども)、目を明(あく)るに又宮殿・金屛あたりに立(たち)て思ひ分(わけ)がたく、一夜(ひとよ)直(ただ)に不眠(ねむらず)。「寢衾(ねぶすま)を引きちぎり引きちぎりしてこらへたりしに、曉の鐘明(あけ)ても猶不消(きえず)、日出(いづ)る比(ころ)迄は石浦屋の土藏式臺前の體(てい)有(あり)しが、人通り多く、日明らかに出ければ、消(きえ)て本(もと)の如し」と語りぬ。是も又此怪の類(たぐひ)にや。術無故(すべなきゆゑ)、久消(ひさしくきえ)ざりしか。

   *]

「三州奇談」はこの話に硬いて、原屋久右衞門といふ足駄作りの男が、似たやうな不思議を見ることを述べてゐるが、かういふ現象は昔の加州に起つただけではない。もつと近い時代にもあつた證據として、「山居」(小杉放庵)の記載を擧げなければならぬ。

 小川芋錢が東京から牛久の我家に歸る。停車場から宿(しゆく)を出拔けて村に到る畑道を、闇夜に躓きもせず歩いて來ると、忽然としてあたりは一面の銀世界になつた。見馴れた桑も大根もすべて銀色である。これはたゞ事でないと思つて、やはり銀色になつた草の上に腰を据ゑ、瞑目閉息の後眼を開いたら、もとの闇に過つてゐたさうである。

[やぶちゃん注:『「山居」(小杉放庵)』小杉放庵(明治一四(一八八壱)年~昭和三九(一九六四)年)は洋画家。短歌もよくした。但し、「山居」(昭和一七(一九四二)年中央公論社刊)はまさに歌集と思われ、私は彼の著作を持たないので何とも言えないが、柴田は何らかの小杉の隨筆集を誤認しているのかも知れぬ。「芋錢」(うせん)は私が愛する数少ない日本画家であるが、この怪異譚は初めてこれで読んだ。引用元について、識者の御教授を乞う。

「小川芋錢」(うせん 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は日本画家。本名は茂吉。ウィキの「小川芋銭」によれば、生家は『武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り』、『農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる』。『生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという』。『身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている』。『芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している』とある。]

 もう一つの例は川上眉山で、深更厠に立つて手洗ひの窓を開くと、庭の中の松の木が根から幹から葉先まで、すべて銀色にはつきり見えた。月もなければ灯もさして居らぬので、庭に下りて袂の紙を小撚りにし、枝に結んで寢に就いたが、翌朝何よりも先に庭に出て見たら、小撚りは慥かに松の枝にあつたといふ。

[やぶちゃん注:「川上眉山」(明治二(一八六九)年~明治四一(一九〇八)年)は小説家。大阪生まれ。当初の「硯友社」同人から離れ、『文學界』のメンバーと親交を結んだ。反俗的な社会批判を含む観念小説「書記官」「うらおもて」などを発表したが、文学的行き詰まりから剃刀で咽喉を切って自殺した。彼は最晩年にはある種の精神疾患が疑われるようにも思われる。このエピソードの引用元を知りたい。識者の御教授を乞う。

「小撚り」「こより」。紙縒(こよ)り。]

 芋錢は狐狸の業(わざ)かと自ら話したさうだが、眉山のは自分の庭で、狐狸が特伎を揮ひさうな舞臺でもない。明治藝苑の大家に似たやうな現象のあつたことは、「三州奇談」を讀む興味を更に深いものにする。

鄰の笛 (芥川龍之介・小穴隆一二人句集推定復元版)

 [やぶちゃん注:これは芥川龍之介と盟友の画家小穴隆一の二人(ににん)句集で、大正一四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』に「芥川龍之介」の署名の龍之介の発句五十句と小穴一游亭隆一の発句五十句から成るものとして発表されたものである。私は当該初出誌を所持せず、現認したこともないので断言は出来ないが、龍之介のものが「芥川龍之介」署名である以上、以下の小穴隆一分も「小穴隆一」署名と考えてよいと思う)。

 今回、小穴隆一の随筆集「鯨のお詣り」の全電子化注をブログで完遂したが、その中に小穴隆一分の「鄰の笛」が掲載されていた。そこで岩波書店の正字の旧「芥川龍之介全集 第九卷」の「詩歌」に載る「鄰の笛」の芥川龍之介分と、その小穴隆一分を合わせて、形の上での初出形を、推定復元したものが本テクストである。当該「芥川龍之介全集第九卷」の編者の「後記」によると、文末に「後記」で始まる一文があるとされているので、そこに載るその「後記」を小穴隆一分の後に配してみた。順序は芥川龍之介・小穴隆一とした。小穴隆一を前に持ってくることは改造社側が認めなかったであろうと推断したからである。また、柱がないとおかしいので、頭にそれぞれ「芥川龍之介」「小穴隆一」という署名を配した芥川龍之介のパートの最後に『――計五十句――』とあるので、同じものを小穴隆一パートの最後にも附してみた。くどいが、推定復元であって、初出実物は見ていないので注意されたい

 なお、大正十四年七月、芥川龍之介は、この二人句集「鄰の笛」掲載について以下のような記載を残している

 七月二十七日附小穴隆一宛葉書(旧全集書簡番号一三四八書簡)では、

「冠省 僕の句は逆編年順に新しいのを先に書く事にする、君はどちらでも。僕は何年に作つたかとんとわからん。唯うろ覺えの記憶により排列するのみ。これだけ言ひ忘れし故ちよつと」

とある。続く八月五日附小穴隆一宛一三五〇書簡では、

「あのつけ句省くのは惜しいが 考へて見ると僕の立句に君の脇だけついてゐるのは君に不利な誤解を岡やき連に與へないとも限らずそれ故見合せたいと存候へばもう二句ほど發句を書いて下さい洗馬の句などにまだ佳いのがあつたと存候右當用耳」

と続き、八月十二日附小穴隆一宛一三五四書簡では、

「けふ淸書してみれば、君の句は五十四句あり、從つて四句だけ削る事となる 就いては五十四句とも改造へまはしたれば、校正の節 どれでも四句お削り下され度し。愚按ずるに大利根やもらひ紙は削りても、お蠶樣の祝ひ酒や米搗虫は保存し度し。匆々。」

最後に八月二十五日附小穴隆一宛一三五八書簡で、

「改造の廣告に君の名前出て居らず、不愉快に候。」

となって、出版社関係の個人名が挙げられ、経緯と今後の対応が綴られている(ちなみに筑摩書房全集類聚版の同書簡では、ここが八十二字分削除されてある)。

 察するに、芥川龍之介は親友の小穴を軽く見た、『改造』編集者への強い不快感を持ったのである(それと関係があるやなしや分からぬが、翌大正十五年の『改造』の新年号の原稿を芥川は十二月十日に断っている。以上は私が「やぶちゃん版芥川龍之介句集 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」で注した内容の一部に手を加えたものである)。

 なお、その経緯の中に現われる「大利根や」は以下の小穴隆一の、

 

大利根や霜枯れ葦の足寒ぶに

 

の句を、「もらひ紙」は、

 

よごもりにしぐるる路を貰紙

 

を、「お蠶樣の祝ひ酒」は、

 

ゆく秋やお蠶樣の祝ひ酒

 

を、「米搗虫」は、 

 

ゆく秋を米搗き虫のひとつかな 

 

の句を指すから、当然と言えば当然乍ら、芥川龍之介の望んだ句は削除対象四句から外されていることが判る。さらに、「鯨のお詣り」の「鄰の笛」の後には、追加するように、 

 

  小春日

蘇鐡(そてつ)の實(み)赤きがままも店(みせ)ざらし 

 

  歳暮の詞

からたちも枯れては馬の繫(つな)がるる 

 

ゆく年やなほ身ひとつの墨すゞり

 

  アパート住ひの正月二日

けふよりは凧(たこ)がかかれる木立(こだち)かな 

 

四句が掲げられて、その後に前の「隣りの笛」を含めて『大正九年――大正十四年』のクレジットを打っている。このことから、小穴隆一が自分の五十四句の中から、芥川龍之介の五十句に合わせるために送られてきた「鄰の笛」校正刷で削除した四句は以上の四句である可能性が高いと私は考えている。

 芥川龍之介の「鄰の笛」は、既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」で電子化注しているが、今回、初学者向けに注を大幅に追加した。相同句や改稿句があり、それらについて注をしたものが「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」にあるので、それらも参照されたい。

 芥川龍之介と小穴隆一の友情の思い出に――【2017年2月27日 藪野直史】]

 

 

 鄰の笛

   ――大正九年より同十四年に至る年代順――

 

 

 芥川龍之介

 

竹林や夜寒のみちの右ひだり 

 

木枯や目刺にのこる海のいろ 

 

臘梅や枝まばらなる時雨ぞら 

[やぶちゃん注:「臘梅」「らふばい(ろうばい)」と読む。双子葉植物綱クスノキ目ロウバイ科ロウバイ Chimonanthus praecox。中国原産。一月から二月にかけて、やや光沢を持った外側の花弁が黄色、内側中心にある花弁が暗紫色の、香りの強い花を開く。「梅」と附くが、バラ科サクラ属スモモ亜属ウメ Prunus mume の仲間と思われがちであるが、全くの別属である。唐の国から来たこともあり唐梅とも呼ばれ、また中国名も蠟梅であったことに因む。本草綱目」によれば花弁が蠟のような色であって尚且つ臘月(旧暦十二月の異名)に咲くことに由来するという(以上は主にウィキの「ロウバイ」の記載を参考にした)。] 

 

お降りや竹深ぶかと町のそら

[やぶちゃん注:「お降り」「おさがり」と読む。元日又は三が日の雪又は雨を言う。新年の季語。] 

 

  一游亭來る

草の家の柱半ばに春日かな 

 

白桃の莟うるめる枝の反り 

[やぶちゃん注:「白桃」は「はくたう(はくとう)」で桃(バラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica)の品種水蜜桃の一種。明治三二(一八九九)年に岡山県で発見された。

「莟」「つぼみ」と読む。] 

 

炎天にあがりて消えぬ箕のほこり

[やぶちゃん注:「箕」「み」と読む。穀物を篩(ふる)って、殻(から)や芥(ごみ)を分けるための農具。] 

 

桐の葉は枝の向き向き枯れにけり 

 

元日や手を洗ひをる夕ごころ 

 

  湯河原

金柑は葉越しにたかし今朝の露 

 

  あてかいな、あて宇治の生まれどす

茶畠に入日しづもる在所かな

 

白南風(しらばえ)の夕浪高うなりにけり

[やぶちゃん注:「白南風」は「しろはえ」とも読み、梅雨が明ける六月末ごろから吹く南風を言う。夏の季語。] 

 

秋の日や竹の實垂るる垣の外

[やぶちゃん注:「竹の實」種によって大きく異なるが、竹類(単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科 Bambusoideae)は非常に長いスパン(六十年から百二十年周期)で開花し、尖塔状部の頭にごく小さな実をつけ、全個体が枯死する。人間の寿命から見ると非常に珍しい現象に見え、竹林全体(同一個体群であることから)や同一種群が大規模に共時的且つ急速に衰滅することから、鼠が多量に発生するとか、広く凶事の前兆ともされてきた。タケ亜科マダケ属マダケ Phyllostachys bambusoides で百二十年周期とされ、地球規模で一九六五年から一九七〇年頃に一斉開花したことから、次期の開花は孟宗竹(タケ亜科マダケ属モウソウチク Phyllostachys heterocycla forma pubescens)で推定六十七周期と言われる(但し、事実上の確認は二度しかなされていない)。私は確かに小学校六年の終り、一九六八年の冬に裏山で沢山のそれを見た。先っぽには米粒のような小さな白い実が入っていた。次期の真竹の開化は二〇九〇年前後、私はもう、いない。] 

 

野茨にからまる萩のさかりかな

 

荒あらし霞の中の山の襞 

 

  洛陽

麥ほこりかかる童子の眠りかな

[やぶちゃん注:芥川龍之介の中国特派を素材とした随想「雜信一束」の「十 洛陽」を参照されたい(リンク先は私の注釈附電子テクスト)。] 

 

秋の日や榎の梢(うら)の片なびき

[やぶちゃん注:「梢(うら)」「末」とも書く。「梢(こずえ)」と同義で枝先のこと。] 

 

  伯母の言葉を

薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十三(一九二四)二月一日発行の雑誌『女性』に、全集後記によると「冬十題」という大見出しで掲載された(これは諸家十人の冬絡みの小品と言う意味であろう)、「霜夜」参照とある。該当部分をすべて以下に引用する。太字「はんねら」は底本では傍点「ヽ」。

   *

        霜 夜

 霜夜の句を一つ。

 いつものやうに机に向かつてゐると、いつか十二時を打つ音がする。十二時には必ず寢ることにしてゐる。今夜もまづ本を閉ぢ、それからあした坐り次第、直に仕事にかかれるやうに机の上を片づける。片づけると云つても大したことはない。原稿用紙と入用の書物とを一まとめに重ねるばかりである。最後に火鉢の始末をする。はんねらの瓶に鐵瓶の湯をつぎ、その中へ火を一つづつ入れる。火は見る見る黑くなる。炭の鳴る音も盛んにする。水蒸氣ももやもやと立ち昇る。何か樂しい心もちがする。何か又はかない心もちもする。床は次の間にとつてある。次の間も書齋も二階である。寢る前には必ず下へおり、のびのびと一人小便をする。今夜もそつと二階を下りる。座敷の次の間に電燈がついてゐる。まだ誰か起きてゐるなと思ふ。誰が起きてゐるのかしらとも思ふ。その部屋の外を通りかかると、六十八になる伯母が一人、古い綿をのばしてゐる。かすかに光る絹の綿である。

 「伯母さん」と云ふ。「まだ起きてゐたのですか?」と云ふ。「ああ、今これだけしてしまはうと思つて。お前ももう寢るのだらう?」と云ふ。後架の電燈はどうしてもつかない。やむを得ず暗いまま小便をする。後架の窓の外には竹が生えてゐる。風のある晩は葉のすれる音がする。今夜は音も何もしない。ただ寒い夜に封じられてゐる。

     薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな

 

   *

「はんねら」とは南蛮焼の一種で、江戸時代に伝わった、無釉又は白釉のかかった土器。灰器としては、普通に用いられたようである。] 

 

庭芝に小みちまはりぬ花つつじ 

 

  漢口

ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏

[やぶちゃん注:先に引いた「雜信一束」の「二 支那的漢口」では、この句を示す前の本文に「漢口」に対して「ハンカオ」とルビしている。ここでもそう読むべきであろう。

「籃」は「かご」。

「巴旦杏」は「はたんきよう(はたんきょう)」と読む。これは本来は、中国語ではバラ目バラ科サクラ属ヘントウPrunus dulcis、所謂「アーモンド」のことを言う。しかし、どうもこの句柄から見て、漢口という異邦の地とはいえ、果肉を食さないずんぐりとした毛の生えたアーモンドの実が籠に盛られているというのは、相応しい景ではないように私は思う。実は中国から所謂「スモモ」が入って来てから(奈良時代と推測される)、本邦では「李」以外に、「牡丹杏(ぼたんきょう)」・「巴旦杏(はたんきょう)」という字が当てられてきた。従って、ここで芥川はバラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicina の意でこれを用いていると考えるのが妥当であると私は考えている。] 

 

  病中

赤ときや蛼鳴きやむ屋根のうら

[やぶちゃん注:「赤とき」は「曉(あかつき)」に同じい。

「蛼」は「いとど」。本来、狭義には直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目カマドウマ上科カマドウマ科カマドウマ亜科カマドウマ属カマドウマ Diestrammena apicalis を指すが、本種は無翅で鳴かないので、ここは、剣弁亜目コオロギ上科Grylloidea のコオロギ類を指すと読んでよかろう。] 

 

唐黍やほどろと枯るる日のにほひ

[やぶちゃん注:「唐黍」「たうきび(とうきび)」で玉蜀黍(とうもろこし)のこと。

「ほどろ」は、はらはらと散るさまであるが、ここでは唐黍の穗のほおけたさまを指すのであろう。] 

 

しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり

[やぶちゃん注:「堀江」は大阪市の真ん中、道頓堀と長堀の間にある地名。堀江堀がそこを南北に分けていて、待合茶屋が多かった。]

 

  再び長崎に遊ぶ

唐寺の玉卷芭蕉肥りけり

[やぶちゃん注:唐寺は唐四箇寺とも呼ばれ、中国様式建築の顕著な崇福(そうふく)寺・興福寺・福済(ふくさい)寺・聖福(しょうふく)寺の四寺があるが、これはその中で最も古いとされる崇福寺と思われる。] 

 

木の枝の瓦にさはる暑さかな 

 

蒲の穗はなびきそめつつ蓮の花 

 

  一游亭を送る

霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉 

 

  園藝を問へる人に

あさあさと麥藁かけよ草いちご 

 

山茶花の莟こぼるる寒さかな 

 

  菊池寬の自傳體小說「啓吉物語」に

元日や啓吉も世に古簞笥

[やぶちゃん注:「啓吉物語」は大正一三(一九二三)年二月に玄文社より出版されたもの。岩波版新全集「隣の笛」の本句の注解で山田俊治氏は『「啓吉」「雄吉」「準吉」などの作者を思わせる人物[やぶちゃん補注:作者とは菊池。]を主人公にして、その幼年期から学生時代、そして結婚生活を描いた短編を収録。この句はその表紙を飾る』とあり、更に「世に古簞笥」については『「世に経(ふ)る」を掛ける。』とし、太祇(該当注解では「祗」を用いているがこれは誤りである)の「元日の居ごころや世にふる疊」『を参考にして新婚の菊池の箪笥が古くなるように、啓吉物も一巻になったことを祝す』歳旦句と解説している。] 

 

雨ふるやうすうす燒くる山のなり

 

  再び鎌倉の平野屋に宿る

藤の花軒ばの苔の老いにけり

[やぶちゃん注:(京都の平野屋の支店)」現在の鎌倉駅西口の、私の好きな「たらば書房」から、市役所へ抜ける通りの右側一帯にあった平野屋別荘(貸別荘。旧料亭。現在の「ホテルニューカマクラ」(旧山縣ホテル)の前身)。「京都の平野屋」は愛宕街道の古道の一の鳥居の傍らで四百年の歴史を持つ鮎茶屋のことと思われる。京都でも私の特に愛する料亭である。] 

 

  震災の後、增上寺のほとりを過ぐ

松風をうつつに聞くよ夏帽子 

 

春風の中や雪おく甲斐の山

[やぶちゃん注:『改造』初出はこれ但し、この句、底本の岩波旧全集では、芥川龍之介の他でのこの句の上五が総て、 

 

春雨の中や雪おく甲斐の山

 

となっていることから、誤植と判断して改めている(後記からの推定)。確かに「春風」では句としても変である。] 

 

竹の芽も茜さしたる彼岸かな 

 

風落ちて曇り立ちけり星月夜 

 

小春日や木兎をとめたる竹の枝

[やぶちゃん注:「木兎」は「づく(ずく)」或いは「つく」で、所謂、「ミミズク」のこと。鳥綱フクロウ目フクロウ科Strigidae のフクロウ類の内、羽角(うかく。兎に「耳」のように毛が立っている部分)を持つ種の総称である。古名は「つく」であるが、ここは「ずく」と読みたい。] 

 

切利支丹坂は急なる寒さ哉

[やぶちゃん注:「切利支丹坂」現在の文京区小石川にあった切支丹屋敷近くの急坂。現行では「庚申坂」の方が一般的。サイト「東京坂道ゆるラン」の「謎多き数々のキリシタン坂」に江戸時代から現代に至る地図と詳しい解説が載る。「切支丹坂」と呼ばれた場所は複数あり、リンク先を見ると、文京区公認の切支丹坂が如何にもそれらしいが、しかし、芥川龍之介がそこを確かに名指していると明確な断定は出来ぬ。] 

 

初午の祠ともりぬ雨の中 

 

乳垂るる妻となりつも草の餠

[やぶちゃん注:大正十三年五月二十八日付室生犀星宛旧全集書簡番号一一九八書簡によれば、五月十五日に犀星の世話で兼六公園内の茶屋三芳庵別荘に二泊した旅での詠吟の改作。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄) 附 辞世」を参照されたい。]

 

松かげに鷄はらばへる暑さかな

[やぶちゃん注:「鷄」は「とり」。鷄(にわとり)。] 

 

苔づける百日紅や秋どなり

[やぶちゃん注:「百日紅」はフトモモ目ミソハギ科サルスベリ属サルスベリ Lagerstroemia indica であるが、音数律から見て、音の「ひやくじつこう(ひゃくじつこう)」で読んでいよう。] 

 

  室生犀星金澤の蟹を贈る

秋風や甲羅をあます膳の蟹 

 

  一平逸民の描ける夏目先生のカリカテユアに

餠花を今戶の猫にささげばや

[やぶちゃん注:「一平逸民」漫画家岡本一平。「逸民」(いつみん)とは、世を逃れて気楽に暮らしている人のこと。この句については芥川龍之介の「澄江堂雜詠」(リンク先は私の電子テクスト)の『四 「今戸の猫」』の本文と私の注を参照されたい。

「カリカテユア」カリカチュア(英語:caricature:イタリア語語源)。戯画・漫画・風刺画の意。] 

 

明星の銚(ちろり)にひびけほととぎす

[やぶちゃん注:「ちろり」は銅や真鍮製のお燗に用いる容器。筒形や円錐形で下の方がやや細く、注ぎ口と取手とがある。この句も芥川龍之介の「澄江堂雜詠」の「二 ちろり」参照されたい。] 

 

  寄内

臀立てて這ふ子おもふや笹ちまき

[やぶちゃん注:「寄内」は漢文表記で「内(ない)に寄す」で、妻への贈答句の意。]

 

日ざかりや靑杉こぞる山の峽(かひ) 

 

臘梅や雪うち透かす枝のたけ

[やぶちゃん注:この句も芥川龍之介の「澄江堂雜詠」の「一 臘梅」を参照されたい。] 

 

春雨や檜は霜に焦げながら

 

鐵線の花さき入るや窓の穴

[やぶちゃん注:「鐵線」キンポウゲ目キンポウゲ科キンポウゲ亜科 Anemoneae 連センニンソウ属 Clematis Clematis亜属 Viticella テッセン Clematis florida。原産地は中国で、現地では「鉄線蓮」と呼ばれ、本邦への移入は万治四・寛文元(一六六一)年~寛文一一(一六七一)年頃とされる。]

            ――計五十句――

 

 

 小穴隆一 

 

  信濃洗馬にて

雪消(ゆきげ)する檐(のき)の雫(しづく)や夜半(よは)の山(やま)

[やぶちゃん注:「洗馬」は「せば」と読む。中山道の宿名。現在の長野県塩尻市洗馬。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

伸餅(のしもち)に足跡つけてやれ子ども

 

雨降るや茸(たけ)のにほひの古疊(ふるだたみ) 

 

百舌鳥(もず)なくや聲(こゑ)かれがれの空曇(そらぐも)り 

 

  雨日

熟(う)れおつる蔓(つる)のほぐれて烏瓜(からすうり)

 

けふ晴れて枝(えだ)のほそぼそ暮(くれ)の雪

 

  庚申十三夜に遲るること三日 言問の
  渡に碧童先生と遊ぶ

身をよせて船出(ふなで)待つまののぼり月(づき)

[やぶちゃん注:ブラウザの不具合を考え、前書を改行した。以下、長いものでは同じ仕儀をした。以下、この注は略す。

「庚申十三夜」旧暦九月十三日の十三夜に行う月待(つきまち)の庚申(こうしん)講(庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事)。但し、ここの「庚申」とは、その定日や狭義の真の庚申講(庚申会(え))を指すのではなく、ただの夜遊びの謂いと思われる。

「言問の渡」「こととひのわたし」。浅草直近東の、現在の隅田川に架かる言問橋(ことといばし)の附近にあった渡し場。架橋以前は「竹屋の渡し」と称した渡船場があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

薯汁(いもじる)の夜(よ)から風(かぜ)は起(た)ち曇(くも)る 

 

山鷄(やまどり)の霞網(かすみ)に罹(かゝ)る寒さ哉(かな)

[やぶちゃん注:「山鷄(やまどり)」鳥綱キジ目キジ科ヤマドリ属ヤマドリ Syrmaticus soemmerringii を指すが、ここは広義の山野の鳥の謂いで、必ずしも同種に限定する必要はなく、もっと違う小型の山野鳥のように思われる。

「霞網(かすみ)」二字へのルビ。] 

 

手拭(てぬぐひ)を腰にはさめる爐邊(ろべり)哉 

 

  厠上

木枯(こがらし)に山さへ見えぬ尿(いばり)かな

[やぶちゃん注:「厠上」後でルビを振っているが「しじやう(しじょう)」と読み、「厠(かわや)にて」の意。] 

 

鳥蕎麥(とりそば)に骨(ほね)もうち嚙むさむさ哉

 

わが庭をまぎれ鷄(どり)かや殘り雪 

 

  暮秋

豆菊(まめぎく)は熨斗(のし)代(がは)りなるそば粉哉

[やぶちゃん注:「豆菊(まめぎく)」キク亜綱キク目キク科キク亜科ヒナギク属ヒナギクBellis perennis のことか。] 

 

籠(かご)洗ひ招鳥(をどり)に寒き日影かな

[やぶちゃん注:「招鳥(をどり)」は現代仮名遣「おとり」で、「媒鳥」「囮」の字を当てる。鳥差しに於いて仲間の鳥を誘い寄せるために使う、飼い慣らしてある鳥のこと。「招き寄せる鳥」の意である「招鳥(おきとり)」が転じたものとも言われる。秋の季語である。] 

 

  冬夜 信濃の俗 鳥肌を寒ぶ寒ぶと云ふ

寒(さ)ぶ寒ぶの手を浸(ひた)したる湯垢(ゆあか)かな

 

雉(きじ)料理(れう)る手に血もつかぬ寒さかな 

 

壜(びん)の影小窓に移す夜寒(よさむ)哉 

 

鶴の足ほそりて寒し凧(いかのぼり) 

 

大利根(とね)や霜枯(しもが)れ葦(あし)の足(あし)寒(さ)ぶに 

 

尺あまり枝もはなれて冬木立(ふゆこだち) 

 

まろまりて落つる雀の雪氣(ゆきげ)哉 

 

  三の輪の梅林寺にて

厠上(しじやう) 朝貌(あさがほ)は木にてかそけき尿(いばり)かな

[やぶちゃん注:「三の輪の梅林寺」現在の東京都台東区三ノ輪にある曹洞宗華嶽山梅林寺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「厠上」は電子化した通り、句上部に同ポイントで入る。但し、これは句の一部ではなく、句意を強調するために前書とせずに句頭に掲げたもので、或いは小穴隆一はポイントを小さくする予定だったものかも知れぬ。似たような用例は芭蕉の名句、

 狂句こがらしの身は竹齋(ちくさい)に似たる哉(かな)

は言うに及ばず、後の芥川龍之介の大正一五(一九二六)年九月の『驢馬』「近詠」欄初出形、

 破調(はてう) 兎(うさぎ)も片耳垂(かたみみた)るる大暑(たいしよ)かな

でも見られる。そこでは芥川龍之介は「破調」のポイントを落している。但し、後に龍之介はこれを前書に移している。] 

 

  すでに冬至なり そこひの伯父は
  庭鳥の世話もづくがなければ賣つ
  ぱらふ

餌(ゑ)こぼしを庭に殘せる寒さかな

[やぶちゃん注:「そこひ」漢字では「底翳」と書き、視力障害を呈する眼疾患の広く指す古語。現在でも以下の眼疾患の俗称として用いられている。「白そこひ」(白内障)・「青そこひ」(緑内障)等。

「づくがなければ」こちらの記載によれば長野方言のようである(現代仮名遣では「づく」は「ずく」のようである)。「億劫でそれをする気が起こらない・根気がない・やる気が続かない」といった感じの意味合いを持つものと考えてよい。

「庭鳥」「にはとり」。鷄。] 

 

連れだちてまむしゆびなり苳(ふき)の薹(たう)

[やぶちゃん注:「まむしゆび」別名「杓文字(しゃもじ)指」とかなどと呼ばれるが、医学的には「短指症(たんししょう)」と称し、指が正常より短い形態変異を広く指す。爪の縦長が短く、幅があって、横に爪が広がっているような状態に見える。実際には手の指より足の指(特に第四指)に多く見られ、成長とともに目立つようになるという。女性に多く見られる遺伝的要因が大きいとされる先天性奇形の一種であるが、機能障害がない限り(通常は障害は認められない)は治療の対象外である。ここは蕗の薹を採るその手(兄弟の子らか)であるから、手の指、特に目立つ親指のそれかも知れぬ。一万人に一人とされるが、私は多くの教え子のそれを見ているので、確率はもっと高く、疾患としてではなく、普通の他の個体・個人差として認識すべきものと考える。ここは姉妹か兄弟か、孰れにせよ童子をキャスティングするのがよい。] 

 

  望鄕

四五日は雪もあらうが春日(はるひ)哉 

 

庭の花咲ける日永(ひなが)の駄菓子(だぐわし)哉 

 

  端午興

酒の座の坊(ぼう)やの鯉(こひ)は屋根の上

 

桐の花山遠(とほ)のいて咲ける哉

 

夏の夜の蟲も殺せぬ獨りかな 

 

豌豆(ゑんどう)のこぼれたさきに蟆子(ぶと)ひとつ

[やぶちゃん注:「蟆子(ぶと)」「蚋」(ぶゆ・ぶよ)に同じい。昆虫綱双翅(ハエ)目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidae
に属するブユ類の総称。体長は標準的には二~八ミリメートルで蠅に似るものの小さい種が多い(但し、大型種もいる)。体は黒又は灰色で、はねは透明で大きい。♀の成虫は人畜に群がって吸血し、疼痛を与える。これ自体も(「豌豆」は夏)夏の季語である。] 

 

餝屋(かざりや)の槌音(つちおと)絕ゆる夜長かな 

 

  澄江堂主人送別の句に云ふ 

   霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉

  卽ち留別の句を作す

木枯にゆくへを賴む菅笠(すげがさ)や 

 

  望鄕

山に咲く辛夷(こぶし)待つかやおぼろ月 

 

しやうぶ咲く日(ひ)のうつらうつら哉 

 

庭石も暑(あつ)うはなりぬ花あやめ 

 

  長崎土產の產り紙、尋あま少なるを貰ひて

よごもりにしぐるる路(みち)を貰紙(もらひがみ) 

 

  大正十二年正月脫疽にて足を失ふ
  松葉杖をかりて少しく步行に堪ふるに
  及び一夏を相模鎌倉に送る 小町園所見

葉を枯(か)れて蓮(はちす)と咲(さ)ける花(はな)あやめ 

[やぶちゃん注:「小町園」鎌倉の現在の横須賀線ガードから東北部分にあった料亭。芥川龍之介が独身の時から贔屓にしていた。なお、後にここの女将(おかみ)となった野々口豊(とよ)は既婚者であったが、龍之介と彼女とは間違いなく関係があったと推定され、彼女に龍之介は心中を懇請した可能性も深く疑われている。]

 

  短夜

水盤に蚊の落ちたるぞうたてなる

[やぶちゃん注:「水盤」(すいばん)は底の浅い平らな陶製又は金属製の花活け。楕円形や長方形のものが多く、盛り花や盆栽・盆景などにも使用される。夏の季語。] 

 

  平野屋にて三句

藤棚の空をかぎれをいきれかな

 

山吹を指すや日向(ひなた)の撞木杖(しゆもくづゑ) 

 

月かげは風のもよりの太鼓かな 

 

  思遠人 南米祕露の蒔淸遠藤淸兵衞に

獨りゐて白湯(さゆ)にくつろぐ冬日暮(ふゆひぐ)れ

[やぶちゃん注:「鯨のお詣り」の「游心帳」で前書にルビを振っており、「思遠人」は「ゑんじんをおもふ」で、「祕露」は「ペルー」

「蒔淸遠藤藤兵衞」遠藤古原草(こげんそう 明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年)は俳人・蒔絵師。本名は清平衛。「蒔淸」は「まきせい」でその組み合わせによる、一種の綽名であろう。「海紅」同人で、前に出た小澤碧堂や、また小説家仲間の滝井孝作(俳号・折柴)の紹介で知り合った。] 

 

しぐるるや窓に茘枝の花ばかり

[やぶちゃん注:「茘枝」は「れいし」で、ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis。花はこれ(ウィキ画像)。] 

 

  よき硯をひとつほしとおもふ

ゆく秋を雨にうたせて硯やな 

 

  せつぶんのまめ

よべの豆はばかりまでのさむさかな 

 

みひとつに蚊やりうち焚く夜更けかな 

 

笹餅は河鹿(かじか)につけておくりけり

[やぶちゃん注:「河鹿」これは奇異に思われる向きもあろうが、私は断然、これは両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri であると思う。その何とも言えぬ美声を賞玩するために人に贈ったのである。これは近代まで嘗ては普通に季節の贈答として行われていたからである。] 

 

ゆく秋やお蠶樣(かひこさま)の祝ひ酒

 

ゆく秋を米搗(こめつ)き虫(むし)のひとつかな

[やぶちゃん注:鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ亜目コメツキムシ上科コメツキムシ科 Elateridae に属する小型昆虫の総称。但し、和名を「コメツキムシ」とする種は存在しない。仰向けになると自ら跳ねて音を立てて元に戻る種が多く、それが米を搗く動作に似ていることからの呼称である。]

            ――計五十句―― 

 

後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少なくない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は畢竟これだけに盡きてゐると言つても好い。卽ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以である。 芥川龍之介記

柴田宵曲 妖異博物館 「手を貸す」

 

 手を貸す

 

 忙しい時に人手を借りるのは普通の話で、昔の人は猫の手も借りたいなどとよく云つたものだが、さういふ一般的な意味でなしに、實際に手を借りる話が二つある。

「耳囊」に見えてゐるのは、小日向邊住む水野家の祐筆を勤める者が、或日門前に出てゐると、通りかゝつた一人の出家が、今日はよんどころない事で書の會に出なければならぬ、あなたの手をお貸し下さい、と云つた。祐筆は更に合點が往かず、手を貸すといふのは如何樣の事かと尋ねたが、別に何事もない、たゞ兩三日貸すといふことを、御承知下されば宜しいのぢや、といふ。怪しみながら承知の旨を答へた後、主人の用事で筆を執るのに一の字を引くことも出來なくなつてゐた。兩三日すると、前の出家がやつて來て禮を述べ、何も御禮の品もないからと云つて、懷中から紙に書いたものを取出し、もし近鄕に火災があつた節は、この品を床の間に掛けて置けば、必ず火災を免れます、と告げて去つた。祐筆の手は元の通りになり、貰つた紙は主人が表具して持つて居つたが、その後度々の火災に水野家はいつも無事であつた。或時藏へしまひ込んで、床の間へ掛ける暇が無かつたら、住居は全部燒失し、怪しげな藏だけが一つ殘つた。

[やぶちゃん注:以上は「耳嚢卷之一」のコーダ百話目の「怪僧墨蹟の事」で、個人的に好きな話柄である。私の電子化訳注でお楽しみあれ。]

 

「三養雜記」にある祥貞和尙の話は、室町時代の事だから大分古い。順序はほゞ同じで、或時天狗が來て和尙の手を暫く借りたいといふ。手を貸すのはお易い御用だが、引拔いて行かれたりしては困ると答へると、そんなことではない、貸すとさへ云へばそれでいゝのだ、といふ挨拶である。それなら貸さうと云つた日から、和尙の手は縮んで伸びなくなつた。あたりの人々は、和尙の事を手短かの祥貞と呼ぶに至つたが、三十日ばかりしたら、天狗がまた來て、拜借の手はお返し申すと云ひ、火防(ひぶせ)の銅印を一つくれた。和尙の手は忽ち舊に復し、火防の銅印を得たせゐか、和尙の書もまた火防の役に立つと評判された。

[やぶちゃん注:「三養雜記」のそれは、「卷之二」の「天狗の銅印」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。歴史的仮名遣の一部に誤りがあるがそれは底本のママである。

   *

下野國字都宮のほとりに、東盧山盛高寺といふ精舍あり。第四世を祥貞和尙といひて、永平十一世の法裔、文明、明應のころ、此寺に住職たり。永正八年遷化といへり。さてかの祥貞和尙の手かく技に拙からざりしが、ある時、天狗の來りていへるは、和尙の手をしばしがほど、借うけ申たきよし、達て所望なりと云。和尙こたへていふ、手をかさんことは、いと心やすき望なれど、引ぬきてもち行れんことなどは諾なひがたし。さるのぞみならば、ゆるしたまはれといひけれは、天狗云、さにはあらず。たゞ借すとさえいはゞ、それにてこと足れりといへば、さらば借しまゐらすべしといふに、彼天狗謝してかへりぬ。それより後、和尙の手、いつとなくしゞまりてのびず。さればあたりの人々、和尙を手短の祥貞とあだなしてよびたりとかや。三十日ばかりすぎて、天狗再び來りて、さいつ頃、借申したる手を、返し申よしいひて、火防の銅印一枚を贈りて歸りしとぞ。その後、和尙の手、もとの如くにのびたりといへり。祥貞和尙の書も亦、火防になるよしいへり。この一条は、外岡北海、かの地に遊歷のをりから、きゝたりとて話なり。

 且火防の銅印の押たるも、そのころ贈られたり。

 

Tengunodouin

 

   *

文末にその銅印の印影があるので、トリミングして上に掲げておいた。「永正八年」は一五一一年である。但し、「三養雜記」は江戸時代の随筆家・雑学者であった、かの滝沢馬琴らの耽奇会・兎園会の常連、山崎美成(寛政八(一七九六)年)~安政三(一八五六)年)の、天保一一(一八四〇)年巻末書記の考証随筆なので、勘違いされぬように。

 

「耳囊」の出家の正體は何とも書いてないが、「三養雜記」の方は明かに天狗になつてゐる。手を借りられた者が字が書けなくなり、禮にくれるものが火防の役に立つあたり、二つの話は同類項に屬すと見てよからう。人間なら代筆を賴めば濟むところを、實際に能書の人の手を借りて行くのは、人間より自在なるべき天狗の方が、この却つて融通が利かぬらしい。

2017/02/26

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の爪」

 

 天狗の爪

 

 因幡國高草郡荒田村の百姓嘉右衞門なる者が、六十六部に出て越中の立山に登山した時、山の半腹に年頃十五六歲ばかりの童子が現れた。宗右衞門に一物を渡し、これは天狗の爪甲である、これを紙に捺して家の内に貼つて置けば、火難、盜難、一切の災厄を遁れることが出來る、お前は信心深い者だから、これを與へる、と云つた。その後姿を見送つてゐると、俄かに山鳴り谷響き、大木倒れ大石轉び、大地震動したが、暫くにして夢がさめたやうになつた。山中に何の別條もない。世にいふ天狗倒しとはこれだらうと思はれた。宗右衞門は後年になつて、その時附與された物を見せてくれたが、その形は失の根に似、色は瑠璃紺にしてビイドロの如く、表裏すき通つて見える。如何さま天狗の爪甲でなければ、世にこんなものはあるまいと思はれる不思議なものであつた。

[やぶちゃん注:「因幡國高草郡荒田村」「高草」は「たかくさ」と読む。荒田村は認められない。但し、旧高草郡は現在の鳥取市の一部に相当し、現在の鳥取県鳥取市良田(よしだ)に荒田神社という神社がある。ここと関係があるか?

「六十六部」狭義には、「法華経」六十六部分を書き写して日本全国の六十六ヶ国の国々の霊場に一部ずつ奉納して廻った僧を指した。鎌倉時代から流行が始まり、江戸時代には遊行(ゆぎょう)聖以外に、諸国の寺社に参詣する巡礼者をも指すようになり(ここはそれ)、白衣に手甲・脚絆・草鞋掛けという出で立ちで、背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠を被った独特の姿で国を廻った。後にはそうした巡礼姿ながら、実際には米や銭を請い歩いた乞食も多く出た。単に「六部」とも呼称する。

「爪甲」そのまま音読みすると「さうかふ(そうこう)」。「つめ」のこと。]

 

「雪窓夜話抄」の著者が、この天狗の爪を見せられたのは、寶曆元年三四月の頃と書いてあるが、大田南畝の「一話一言」にも天狗の爪に關し「民生切要錄」を引いてゐる。能登の石動山の林中に天狗の爪といふものがある。色靑黑く、長さ五分ばかり、石のやうで、先は尖り、後の幅が廣く、獸の爪に似てゐる。土地の人は雷雨の後などに、林の中でこれを拾つて來る。これを水中に投じてその水を飮むと、瘧(こり)を患ふ者は癒える。倂し何物であるかわからない。思ふに金石の類なので、人誑(あざむ)いて神物とするか、とある。

[やぶちゃん注:これは「雪窓夜話抄」の「卷六」の「天狗の爪の事幷に其の解釋」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。

「寶曆元年」一七五一年。

『大田南畝の「一話一言」』幕府御家人で支配勘定でありながら、狂歌師でもあり、天明期を代表する文人であった大田南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)の随筆であるが、全五十六巻もの大著である。私は所持しない。複数の画像データベースで見られるが、調べる気力が湧かぬ。悪しからず。

「民生切要錄」元禄五(一六九二)年成立で、恒亭主人守株子なる人物の纂輯になること以外は不明。妖怪関連の記載があるらしい。

「五分」一・五センチメートル。]

 

 越中も能登も北陸道で鄰り合つた國だから、似たやうな云ひ傳へがあつても不思議はない。雨後の林中で拾つて來るといふ點から見れば、雨のために土中から現れるものの如くであるが、特に雷雨と斷つてあるのは、雷との間に何かの連關を認めたのかも知れぬ。

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の夜宴」

 

 天狗の夜宴

 

 どこの飛脚であつたか、二人連れで箱根を踰えようとした時、寂然たる夜更けの山上に當り、何か人聲が聞える。不審に思ひながら行くうちに、路傍に幕を打ち𢌞してあるところに出た。中は數人群宴の體で、或は舞ひ、或は歌ひ、或は賑かな絃聲が聞える。路は幕に遮られて進むことが出來ないので、二人は相談の上、幕の中に向つて、急ぎの者でございます、何卒こゝをお通し下さい、と聲をかけた。幕の中から聲がして、通りなされい、といふ。恐る恐る幕の中に入つた(と思ふと、今まであつた幕は忽ち消滅し、笑語も歡聲も絕えて、物音もない深山の中に立つて居つた。二人は驚いて走り過ぎたが、暫く來れば、絃歌人聲またもとの如くである。振り返つて見ると、最初の通り幕が張られてゐる。二人は益々驚き、飛ぶが如く走り續けて、漸く人家のあるところへ出た。世にいはゆる天狗なる者がこれであらう、といふことになつてゐる(甲子夜話)。

[やぶちゃん注:「踰えよう」「こえよう」。越えよう。

 以上は「甲子夜話卷之廿三」の十条目の「飛脚、箱根山にて怪異に逢ふ事」である。以下に示す。「闌」は「たけなは」(ここは深夜の意)、「交起り」は「こもごもおこり」、「故」は「もと」(元)、「疾行」は「とくゆき」と読む。「顧望すれば」は私は「かへりみすれば」と訓じたい。

   *

何れの飛脚か二人づれにて箱根を踰けるとき、夜闌に及びひとしほ凄寥たる折から、山上遙に人語の喧々たるを聞く。二人不審に思ひながら行くに、程なく山上の路傍、芝生の處に幕打𢌞し、數人群宴の體にて、或は酔舞、或は放歌、弦聲交起り、道路張幕の爲に遮られて行こと能はず。二人相言て曰。謁を通じて可ならんと。因て幕中に告ぐ。幕中の人應て云ふ。通行すべしと。二人卽幕に入れば幕忽然として消滅し、笑語歡聲も絕て寂々たる深山の中なり。二人驚き走行くに、やゝありて弦歌人聲故の如し。顧望すれば幕を設くること如ㇾ初。二人益々驚き、疾行飛が如くにしてやうやく人居の所に到りしと。これ世に所謂天狗なるものか。

   *]

 

 鎌倉圓覺寺の誠拙和尙が、南禪寺の招きによつて上京し、暫く逗留して居つたが、その時寓居の院は、南禪寺の山中でも嶮しい峯の下に在つた。然るに和尙の逗留中、晴れて月のいゝ晩などには、時時深更に及んで、峯頭に數人で笛を吹き、太鼓を鳴らし、歌舞遊樂の聲が何時間も聞える。この峯頭は尋常人の至るところでないから、初めのうちは從者なども怪訝に堪へなかつたが、一山中の故老の話によれば、昔からこの山中に吉事がある時は、必ず峯頭に歌舞音曲の聲が聞える、これは守護神が歡喜するのである、といふことであつた。守護神は卽ち天狗である。「甲子夜話」はこの話の末に「印宗和尙話」の五字を註してゐる。

[やぶちゃん注:「誠拙和尙」誠拙周樗(せいせつしゅうちょ 延享二(一七四五)年~文政三(一八二〇)年)は伊予生まれの傑出した臨済僧で歌人としても知られた。円覚寺の仏日庵の東山周朝に師事し、その法を継ぎ、天明三(一七八三)年に円覚寺前堂首座に就任した。書画・詩偈も能くし、茶事にも通じ、出雲松江藩第七代藩主で茶人としても知られた松平不昧治郷とも親交があった。香川景樹に学び、歌集に「誠拙禅師集」がある。文政二(一八一九)年に相国寺大智院に師家として赴任したが翌年、七十六で示寂した。(以上は思文閣の「美術人名事典」及びウィキの「誠拙周樗に拠った)。松浦静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)より十五年上になるが、同時代人である。

「印宗和尙」不詳。明山印宗という法力抜群の禅僧がいるが、誠拙周樗より前の人物であるから、違う。

 以上は「甲子夜話卷之六十四」の三条目、「南禪寺守護神」である。東洋文庫版を参考に、恣意的に正字化して以下に示す。後半の漢文部分は訓点を除去したもの(句読点は残した)をまず示し、後に〔 〕で訓点に従って(一部に訓点の脱落が疑われるところがあり、そこは参考底本のそれに従わずに訓読し、また句読点はオリジナルに変えて増やしてある)書き下したもの(一部に推定で読みを歴史的仮名遣で附し、送り仮名の一部や記号もオリジナルに加えた)を示した。特に「自爾」の箇所は参考底本では「自ㇾ爾となっているが私は全く従わずに二字で「おのづから」と読んだ)。「淹留」は「えんりう(えんりゅう」と読み、長く同じ場所に留まること、滞在の意。「頻」は「しきり」と読む。二箇所の「ノ」はママ。【 】は原典の割注。参考底本では漢文の末に鍵括弧閉じる配されて、本文が続くが、改行した。

   *

享保辛酉[やぶちゃん注:享保年間に辛酉(かのととり)の年はない。享保二(一七一七)年丁酉(きのととり)或いは享保六(一七二一)年辛丑(かのとうし)の誤りであろう。]の夏、鎌倉圓覺寺の誠拙和尙、京都南禪寺の招に依て上京淹留す。このとき寓居の院は、南禪の山中嶮峰の下に在り。然るに和尙淹留中、晴天月夜などには、時々深更に及び峰頂にして數人笛を吹き、鼓を鳴し、歌舞遊樂の聲頻なること數刻。この峰頂は尋常人の至る處にあらず。因て初は從徒もあやしみ驚きたるが、山中の古老曰ふには、この山中、古代より吉事ある時は、必ず峰頂に於て歌舞音曲の聲あり。これ守護神の歡喜する也と。守護神は天狗なりと言傳ふ【印宗和尙話】。

『高僧傳』云。正應間、龜山上皇在龍山離宮、妖怪荐作、妃嬪媵嬙屢遭魅惑。上皇大惡之、乃集群臣議其事。僉曰。此地妖怪聞之久矣。非佛法力、決不可治。於是命南北高德。百計無效。時西大寺睿尊律師有戒行譽。勅棲宮闈。尊率沙門二十員、晝夜振鈴誦咒。至三閲月。而妖魅尙驕、投飛礫於護摩壇。尊不辭而退。群臣奏門德望【釋普門號無關。東福ノ開山聖一國師ノ弟子。逝年八十。嘉元間、勅諡佛心禪師。元亨三年、加賜大明國師】。乃召下宮。且宣曰。卿能居乎。門奏曰。妖不勝德。世書尙有之。況釋氏乎。釋子居之。何怪之有。上皇壯其言、勅有司俾門入宮。門但與衆安居禪坐、更無他事。自爾宮怪永息。上皇大悅、乃傾心宗門、執弟子禮、習坐禪受衣鉢。因革宮爲寺。雖梵制未備、特勅門爲開山始祖。後來伽藍具體。號太平興國南禪禪寺。

〔『高僧傳』に云く、正應の間、龜山の上皇、龍山の離宮に在(おは)すに、妖怪、荐(しきり)に作(なし)て、妃嬪媵嬙(ひひんようしやう)、屢(しばしば)魅惑に遭ふ。上皇大(おほい)に之れを惡(にく)み、乃ち、群臣を集めて其の事を議す。僉(みな)曰く、「此の地の妖怪、之れを聞くこと久し。佛法の力に非ずんば、決して治むべからず。」と。是に於いて南北の高德に命ず。百計、效(かう)、無し。時に西大睿尊(えいぞん)律師、戒行(かいぎやう)の譽(ほまれ)有り。勅して宮闈(きうゐ)に棲(す)ましむ。尊、沙門(しやもん)二十員を率(ひき)ひ、晝夜、鈴を振り、咒(じゆ)を誦(とな)ふ。三たび月を閲(み)るに至る。而れども、妖魅、尙ほ驕(おご)り、飛礫(とびつぶて)を護摩壇に投ず。尊、辭せずして退(しりぞ)く。群臣、門の德望を奏す【釋の普門、無關と號す。東福の開山聖一國師の弟子。逝(ゆけ)る年、八十。嘉元の間、勅して佛心禪師と諡(おくりな)す。元亨三年、加へて大明國師と賜ふ】。乃(すなは)ち下宮に召し、且つ、宣(せん)して曰く、「卿(けい)、能く居(をら)んや。」と。門、奏して曰く、「妖は德に勝たず。世書(せいしよ)にも尙ほ之れ有り。況んや釋氏をや。釋子、之れに居(を)る。何の怪か、之れ、有らん。」と。上皇、其の言を壯(さう)とし、有司(いうし)に勅して門をして宮に入らしむ。門、但だ、衆と安居禪坐(あんごぜんざ)し、更に他事(たじ)無し。自爾(おのづから)、宮怪、永く息(や)む。上皇、大いに悅び、乃(すなは)ち、心を宗門に傾け、弟子の禮を執り、坐禪を習ひ、衣鉢(いはつ)を受く。因りて宮を革(あらた)め、寺と爲(な)す。梵制、未だ備はらずと雖も、特に勅して、門、開山(かいざん)始祖と爲す。後來(こうらい)、伽藍(がらん)體(てい)を具(そな)ふ。「三太平興國南禪禪寺」と號す。〕

然れば怪此時より有しなり。今は還て穩なるは太平の號、由る所あり。

   *

亀山天皇が譲位して上皇となったのは文永一一(一二七四)年一月で、彼は嘉元三(一三〇五)年に亡くなっているので、その間の出来事となる。文中の「妃嬪媵嬙」は皇后の次席が「妃」でその次が「嬪」、以下、「媵」「嬙」と続くが、これは一般に女官級である。「睿尊」(建仁元・正治三(一二〇一)年~正応三(一二九〇)年)「叡尊」とも書く。律宗僧。大和の出身。当初は密教を学んだが、後に戒律復興を志して奈良西大寺を復興。蒙古襲来の際には敵国降伏を祈願して神風を起こしたと伝えられる。貧民救済などの社会事業を行い、また殺生禁断を勧めた。「宮闈」は宮中で后妃の居所。後宮。「釋の普門、無關」は臨済僧大明国師無関玄悟(むかんげんご 建暦二(一二一二)年~正応四(一二九二)年)。信濃出身で「南禅」と号した。京の東福寺の円爾(えんに)の法を継いだ。建長三(一二五一)年宋に渡海、断橋妙倫の印可をうけて十二年後に帰国、後に東福寺三世となった。ここに書かれている通り、亀山上皇の離宮に出る妖魅を鎮めたことから、その離宮を改めて創建したこの南禅寺の開山として招かれた。「普門」は房号。「壯」は「強いこと」。「有司」は役人。]

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(3)/「天狗の誘拐」~了

 

 天狗のところから戾る徑路は、本人にも不明瞭なのが多いやうだが、中にはそこに一くさり話の加はつてゐるのがないでもない。江戶白金の瑞聖寺にゐた七助といふ男は、朝飯を焚いてゐるうちに行方不明になつた。六年ばかりたつて、七助が紛失したその月その日に、門前に罵り騷ぐ人聲が聞えるので、何事かと寺僧が出て見ると、遠かなる空中より、一むらの黑雲の如きものが次第に地に下りて來る。やがて瑞聖寺の庭に落ちたのは大きな蓮の葉であつた。その中にうごめく者があるのを開けば、七助が茫然として這ひ出した。一兩日經て彼の語るところを聞くに、或僧に伴はれて天竺まで行つた、その土地の人物言語、甚だ異樣である、たまたま火事があつて大騷ぎになつた時、この蓮の實の中に入つてゐよ、と云はれ、包んで抛り出されたと思つたが、その後は何も覺えてゐないといふのである(譚海)。

[やぶちゃん注:「瑞聖寺」「ずいしょうじ」(現代仮名遣)と読み、現在の東京都港区白金台三丁目にある黄檗宗系禅宗寺院である紫雲山瑞聖寺。本尊は釈迦如来。創建は寛文一〇(一六七〇)年で開山は本邦の臨済宗黄檗派(黄檗宗)第二代の明の渡来僧木庵性瑫(もくあんしょうとう 一六一一年~貞享元(一六八四)年:江戸時本山黄檗山萬福寺開山で黄檗宗祖隠元隆琦(一五九二年~寛文一三(一六七三)年:福建省福州福清県生まれ。萬福寺は生地福清の古刹)の弟子)。江戸時代は幕末まで江戸黄檗宗の中心寺院として壮大な伽藍を誇った。(グーグル・マップ・データ)。

 

 以上は「譚海」の「卷の二」にある「江戶白銀瑞聖寺什物(じふもつ)天竺蓮葉の事」。この話はかなり有名なもので、私が「譚海」電子化の底本としている一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂注版の注によれば、これに基づいた多数の伝承が存在するらしい。読みは私が推定(歴史的仮名遣)で添えて以下に示す。「苒々」はオノマトペイア(擬態語)。二箇所の「覺へ」はママ。

   *

○江戶白銀瑞聖寺は、黃檗山(わうばくさん)の旅宿寺也。瑞聖寺に年來(としごろ)勤め居たる男七助と云(いふ)もの、一日朝飯焚(たき)ゐたるが、そのまゝ跡をかくし行方なし。月日を經(ふ)れば入水(じゆすゐ)などせしにやなど皆々申(まうし)あひたるに、六年過(すぎ)て七助うせたる其月のその日に、門前にて人ののしりあざむ事甚し。何事にやと寺僧も出(いで)て見るに、遙(はるか)なる空中より一むら黑雲の如きもの苒々(ぜんぜん)に地へ降る、是をみて人騷動する也。さて程なく空中のものくだり來て瑞聖寺の庭に落たり、大なる蓮の葉也。その内にうごめく物有(あり)、人々立寄(たちより)て開きみれば件(くだん)の七助茫然として中より這出(はひいで)たり。奇怪なる事いふばかりなし。一兩日過(すぎ)て、七助人心地(ひとごこち)付(つき)たる時、何方(いづかた)より來(きた)るぞと尋(たづね)たれば、御寺に居たるに僧一人來りて天竺へ同伴せられしかば、共に行(ゆく)と覺えしに、さながら空中をあゆみて一所に至る時、其所の人物言語共に甚(はなはだ)異也(ことなり)、天竺なるよし僧のいはれしに、折しも出火ありてさはがしかりしかば、此僧われにいはるゝ樣(やう)、この蓮の葉に入(いり)てあれと入(いれ)たれば、やがて包みもちて投(なげ)すてらるゝと覺へし、その後(のち)何にも覺へ不申(まうさず)といひけり。此蓮の葉は天竺の物なるべし、八疊敷程ある葉也。寺庫に收(をさめ)て今にあり、蟲干の節は取出(とりいだ)し見する也。此七助その後八年程ありて七十二歲にして寺にて卒したり。此蓮の葉彼寺の蟲干の節行逢(ゆきあひ)て、正しく見たる人の物語也。

   *

この話、個人的には好みである。]

 

 加藤嘉明の家來小嶋傳八の一子に惣九郞といふのがあつたが、十一歲の春の末に行方不明になつた。百方搜索しても更にわからぬ。唯一の手がかりといふべきは、古手屋甚七なる者が、朝早く店戸をあけると、大山伏が二人、惣九郞を中に挾み、前後に立つて東に向ひ道を急いで來る、一人の山伏が甚七のところへ來て、この邊に十歲ばかりの子供の穿く草鞋の質物はないかと尋ねたので、無いと答へたらそれきりどこかへ行つてしまつた、といふ報告だけである。傳八夫婦は天狗にさらはれたものとし、妙法寺の日覺上人といふ大德に祈禱を乞うた。早速護摩壇を飾り、法華坊主二十人ばかりで讀經祈禱を續けるほどに、滿願の七日の晝中、一點の雲もない靑空にぽつりと小さい物が見えた。見物の諸人は山をなして、いづれもこれを仰いでゐると、東の方より大鳶一羽來つて、これをさらひ取らうとすることが度々であつたが、一羽の金色の鴉がどこからか現れて、この鳶を隔てて近付かせぬ。だんだん地に下つて來て、三十番神の壇に落ちたのを見れば、紛れもない小嶋惣九郞であつた(老媼茶話)。

[やぶちゃん注:「加藤嘉明」(永禄六(一五六三)年~寛永八(一六三一)年)安土桃山時代から江戸時代にかけての武将で大名。豊臣秀吉の子飼衆で賤ヶ岳の七本槍一人。伊予松山藩・陸奥会津藩の初代藩主。

「小嶋傳八」不詳。

「古手屋」「ふるてや」と読み、古着や古道具を売買する店。

「三十番神」国土を一ヶ月三十日の間、交替して守護するとされる三十の神。神仏習合に基づいた法華経守護の三十神が著名。初め天台宗で、後に日蓮宗で信仰された。見られたことない方にはイメージしにくいと思われるので、グーグル画像検索「三十番神」をリンクさせておく。

 以上は「老媼茶話」の「卷の三」の、ズバリ、「天狗」である。国書刊行会「江戸文庫」版を参考に、例の仕儀で加工して以下に示す。但し、そこでは小島傳八の主君を『加藤嘉成』とする。実名表記を憚った意識的変更か。最後の「空氣」は「うつけ」と読む。

   *

 加藤嘉成の士に小嶋傳八一子惣九郎、十一の春の暮、何方へ行けるかかひくれて見へす。さまさま尋見れ共、行衞更に知れす。傳八夫婦鳴悲しみ、佛神へきせいをかけ御子・山伏を賴み、色々祈願なす。甲賀丁に古手屋甚七といふもの、傳八方へ來り申けるは、「是の惣九郞樣廿日斗前の曉頃、我等用事有てはやく起、見せの戶をひらき候折、大山伏兩人跡先に立、惣九郞樣を中にはさみ、東へ向きて道をいそき候か、壱人の山伏我等か方へ參り、「此邊に十斗成子共のはくへきわらちのうりものは、これなきや否や」と申。「無」と答へ候へは、夫よりいつく江行候や、姿を見失ひ申候」と語る。

 傳八夫婦聞て、「扨は天狗にさらわれたるもの也」とて、其頃妙法寺の日覺上人といふたつとき出家を賴、五の町車川の端に護摩壇をかさり、法家坊主弐拾人斗にて經讀祈禱する。七日にまんする日中、一點の雲なき靑天虛空にちいさき物見ゆる。見物の諸人山をなして空を見るに、東より大とび壱羽飛來り。是をさらい取んとする事度々なり。時に壱羽金色の烏何方共なく飛來り。此鳶を隔て近つけす、段々に地にくたり、間近く見るに人なり。三拾番神の壇に落たるを見るに、小嶋惣九郞也。諸人奇異の思ひをなし、其頃、日覺上人をは佛の再來也と諸人沙汰せしといへり。惣九郞は一生空氣に成、役にたゝさりしと也。

   *]

 

 この歸還の模樣は、前の瑞聖寺の七助の話と相通ずるものがある。たゞ違ふのは、七助が七十二まで瑞聖寺にながらへたといふのに、惣九郞は一生うつけのやうになつて物の役に立たなかつたといふ點である。

 以上の誘拐談と少し型の違ふのが「雪窓夜話抄」に出てゐる。西野午之進といふ人が讚岐に居つた頃、乳母が三四歲ばかりになる甥を抱いて、日の暮れ方門外に居るところ、山伏が一人やつて來て、さてもよい生れつきである、この子はよい相を備へてゐる、ちよつと抱かせられい、と云つて抱き取るが早いか、飛鳥の如く見えなくなつた。乳母は泣きわめいて追駈けたが、更に行方知れず、父母も午之進も四方に人を出して搜させたけれども、その踪跡は杳として不明であつた。それから十五六年たつて、三四人連れの山伏が、午之進に逢ひたいと云つて訪ねて來た。不審に思ひながら座敷に通すと、上席に坐つた山伏が、こゝに居る若者は正しくあなたの甥である、成長の樣をお目にかけようと存じ、これまで連れて參つた、よくよく御覽なされい、と云ふ。午之進は感淚に堪へかね、その手を執つて父母にも逢はせ、せめて一兩日も逗留させたいと云つたが、人家に宿る者ではないと云つて承知しない。煮焚きしたものは一切食はぬといふので、瓜などを出してもてなした。午之進はその後因幡へ來て主取りをしたが、或時百姓が摩尼山へ薪を採りに行くと、山伏が七八人、摩尼の奧の院、立岩のあたりに休んでゐる。そのうちの一人が百姓に向ひ、當國に西野午之進といふ人が居る筈だが、今も息災であるか、と尋ねた。無事の旨を答へたら、今に武運長久の祈念を怠らぬと、午之進殿に傳へて貰へぬか、といふ。御名はと聞いても、名は申すに及ばぬ、自分は午之進の甥だから、さう云へばわかる、たゞ何となく傳へて貰ひたい、と云つて立ち去つた。午之進は百姓からこの話を聞いて幾度かうなづき、自分の甥は天狗になつて、この御國へも來たに相違ない、と答へた。

[やぶちゃん注:「踪跡」(そうせき)は「蹤跡」(しょうせき)に同じい。行方(ゆくえ)の意。

「主取り」(しゆうどり(しゅうどり))は、新たに主人に仕えることや武士などが主君に召し抱えられることを指す。

「摩尼山」(まにさん)は現在の鳥取県鳥取市にある山。標高三百五十七メートル。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「雪窓夜話抄」の「卷上」の「卷一」にある「西野午之進が甥の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のと次で視認出来る。]

 

 この話の中で常に午之進が登場し、兩親は陰になつてゐるのは、午之進に子がなくて特にその甥を可愛がつたとか、ゆくゆくは養子に貰ふ約束があつたとか、何か事情がなければなるまい。甥が因幡まで來て午之進の安否を問ひ、武運長久を祈つてゐるなどといふのも、單なる叔姪の關係ではなささうに思はれるが、「雪窓夜話抄」はこの點には少しも解れずにゐる。

[やぶちゃん注:「叔姪」「しゆくてつ(しゅくてつ)」と読み、叔父と姪又は甥のこと。]

2017/02/25

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」(2)

 

 天狗に誘拐される話は、「四不語錄」「黑甜瑣語」「續道聽塗說」「梅翁隨筆」「耳囊」等に記されてゐるが、天狗とあるだけで、畫にあるやうな鼻高の姿などはない。登場するのはきまつて山伏である。知らぬ間に遠隔の地に伴はれ、未知の山川を見て歸る。山伏でなくても、不思議な人物に出遭ひ、忽ちのうちに戾つて來るといふのが多いやうに思ふ。たゞ少し變つた例として、「甲子夜話」の記載を一つ擧げて置きたい。

 嵯峨の天龍寺に近い遠離庵といふ尼寺に、十九になる初發心の尼が居つたが、或時尼達四五人連れで、近くの山へ蕨採りに行つたところ、庵へ歸つて見ると、十九の尼だけがゐない。途中で災難に遭つたか、狐狸にでもたぶらかされたかと心配して、皆で祈禱などをしてゐるうちに、それから三日ほどたつて、淸瀧村の木樵が山中の溪川で、若い尼が衣を洗つてゐるのを見かけた。顏色も靑ざめてゐるので、どうしてこんな山奧に來たか、と尋ねたら、自分は愛宕山に籠つてゐる者だと答へる。木樵がいろいろと賺(すか)して淸瀧村まで連れ歸り、遠離庵へ知らせて來たから、その夜駕籠で迎へにやつた。その尼は實體な無口の者であつたのに、庵へ歸つて後も、頻りに大言壯語して人を罵る。飯を三椀ほど山盛りにして食べると、そこに仆れて、その後は鎭靜に還り、最初からの話をした。蕨を採つてゐるうちに、年頃四十ばかりの僧が杖をついて近付いて來た。その言葉に從ひ、杖を持ち眼を塞いでゐたら、大分遠いところへ來たと覺しく、金殿寶閣などが見えた。團子のやうなものを與へられたが、非常に旨く、更に空腹を感じなかつた。僧は尼に向ひ、そなたは貞實な者であるから、愛宕へ往つて籠れば善い尼になれるであらう、追々方々見物させる、讚岐の金毘羅へも參詣させるなどと云つた。庵に歸つた翌日も、あの坊さんがおいでになつたと云つたが、他の人には何も見えぬので、天狗の所爲といふことに定め、尼は親里に歸すことにした。「甲子夜話」はこの記事の末に「或人云ふ、これまでは天狗は女人を取り行かぬものなるが、世も澆季に及びて、天狗も女人を愛することになり行きたることならんか」といふ評語を插んでゐる。

[やぶちゃん注:「遠離庵」「をんりあん」と読んでおく。「厭離」と音通するからである。

「淸瀧村」現在の京都市右京区嵯峨清滝町

「澆季」「げうき(ぎょうき)」と読む。「澆」は「軽薄」、「季」は「末」の意で原義は「道徳が衰え、乱れた世」で「世も末だ」と嘆息するところの「末世」を指す。単にフラットな「後の世・後世・末代」の意もあるが、ここで静山が言っているのは、鎖国で閉塞して爛れきった江戸時代の末期の世相を前者として捉えていたものでもあろう。

 以上は「甲子夜話」の「卷之四十九」の第四十条目の「天狗、新尼をとる」である。所持する「東洋文庫」版で示す。なお、「哺時」は午後の非時(ひじ)である「晡時」。音は「ほじ」で申(さる)の刻。現在の午後四時頃を指す。また広く「日暮れ時」を言うので、ここは「ひぐれどき」と訓じている可能性もある(「東洋文庫」版ではそうルビを振る)。但し、私はここは尼寺でのシチュエーションであるからには、「晡」ではなく「時」(ホジ:食事の時間。本来は仏僧は午前中一回の食事しか摂らず、それを「斎(とき)」と称するが、それでは実際にはもたないので、午後に正規でない「非時」として晩飯を摂る)の意であると(同じく午後四時頃になる)考える。「少尼」は「わかきあま」と読む。「芴然」は「こつぜん」で「芴」は野菜、特に蕪(かぶら)の類。柴田は菜っ葉のように真っ青な顔の意でとっているが、或いは根茎の白さで青白い謂いかも知れぬ。「鿃ぐ」本来は「瞬(またた)く」の意だが、底本では「鿃(ふさ)ぐ」とルビする。

   *

嵯峨天龍寺中瑞応院と云より、六月の文通とて印宗和尙語る。天龍寺の領内、山本村と云に尼庵あり。遠離庵と云。その庵に年十九になる初發心の尼あり。この三月十四日晡時のほどより、尼四五人て後山に蕨を採にゆき、歸路には散行して庵に入る。然るに新尼ひとり帰らず。人不審して狐狸のために惑はされしか、又は災難に遭しかと、庵尼うちよりて祈禱宿願せしに、明日に及でも歸らず。その十七日の晡時比、隣村淸滝村の樵者薪採にゆきたるに、深溪の邊に少尼の溪水に衣を濯ふ者あり。顔容芴然たり。樵かゝる山奥に何かに、して來れりやと問へば、尼我は愛宕山に寵居る者なりと云。樵あきれて彼れをすかして淸滝村までつれ還り、定めしかの庵の尼なるべしと告たれば、其夜駕を遣はして迎とりたり。尼常は實體なる無口の性質なるが、何か大言して罵るゆゑ、藤七と呼ぶ俠氣なる者を招て、これと對させたれば、尼還る還る云て、去らば飯を食せしめよと云ふ。乃食を与へたれば、山盛なるを三椀食し終り卽仆れたり。其後は狂亂なる體も止て、一時ばかりたちたる故、最初よりのことを尋問たれば、蕨を採ゐたる中、年頃四十ばかりの僧、杖をつきたるが、此方へ來るべしと言ふ。。その時何となく貴く覺へて近寄りたれば、彼僧この杖を持候へと云て、又眼を鿃ぐべしと云しゆゑ、其若く爲たれば、暫しと覺へし間に遠方に往たりと見へて、金殿寶閣のある処に到り、此所は禁裡なりと申し聞かせ、又團子のやうなる物を喰ふべしとて与へたるゆゑ、食ひたる所、味美くして今に口中にその甘み殘りて忘られず、且少しも空腹なることなし。又僧の云ひしは、汝は貞實なる者なれば、愛宕へ往きて籠らば善き尼となるべし。近々諸方を見物さすべし。讚岐の金比羅へも參詣さすべしなど、心好く申されたるよし云て、歸庵の翌日も又、僧の御入じやと云ゆゑ、見れども餘人の目には見へず。因てこれ天狗の所爲と云に定め、新尼を親里に返し、庵をば出せしとなり。或人云ふ。是まで天狗は女人は取行かぬものなるが、世も澆季に及びて、天狗も女人を愛することに成行たるならんか。

   *

この話、私は全く妖気(ようい)を感じない寧ろ、佯狂(ようきょう)を疑う善意に解釈するなら、このなったばかりの若き尼は、実は尼になりたいなどとは思っていなかったか、同じ修行の尼僧らとの関係に於いて実は激しいストレスを持っていたことから、一種の精神的な拘禁反応による心因性精神病からヒステリー症状を発し、突発的に山中へ遁走してしまい、保護されて庵に戻ってからも病態が変化しただけで、遂には幻視(僧の来庵)を見るようになったのだ、と診断出来なくもないが、それより全部が芝居と考えた方が遙かにずっと腑に落ちる静山の最後の皮肉も実はそうした悪心をこの尼の心底に見たからではあるまいか、とも思われるのである。]

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の誘拐」 (1)

 

[やぶちゃん注:本話は特異的に長く、注も長くなったので、分割して示す。]

 

 天狗の誘拐

 

 天狗にさらはれた話は、江戶時代の書物にいろいろあるが、その内容は必ずしも一樣でない。「甲子夜話」に記されてゐるのは、東上總の農夫の子で、後に松浦邸内の下男になつた者の話であるが、この男は子供の時分天狗に連れて行かれた經驗を持つてゐる。七歲の時祝ひに、馬の模樣を染めた著物を著て、氏神の八幡宮に詣でたところ、その社の邊で山伏に誘はれ、それきり行方不明になつた。子供の事ではつきりわからぬが、八年ばかりたつた時、前の山伏が、お前の身はもう不淨になつたからと云つて、相州の大山に置いて行かれた。里人がそれを見付け、腰の札に記された國郡等により、宿(しゆく)送りで家に歸つた。不思議な事には、七歲の時に著て出た馬の模樣の著物は少しも損じてゐなかつたさうである。爾來三年は家に居つたが、十八歲の時、前の山伏が迎へに來て、また連れて行つた。この時は背に負ひ、目を瞑つて居れと云つて、帶の如きものが眉にかゝると思つたら、風の音の中を行くやうで、やがて越中の立山に著いて居つた。こゝに天狗界に關する種々の見聞が記されてゐるが、長くなるから省略する。

[やぶちゃん注:「宿送り」は既注であるが、再掲しておく。特別な身分の者や行路病者などを、町内の自身番や宿(しゅく)役人などの責任に於いて、順に隣りの正規宿へ送り届けるシステムを指す。

 以上は「甲子夜話卷之七十三」の第六条「天狗界の噺(はなし)」である。柴田がカットした部分も含め、総て以下に示す(これぞ、私の注の本領発揮たる所以である)。《 》部は原典の欄外注記、【 】は割注。一部に参考底本(平凡社東洋文庫版一九七八年刊。但し、新字体)版組の関係上、二箇所で改行の有無が不明な箇所があったが、前後の記載法と内容から、孰れも改行した。

   *

我邸中の僕に、東上總泉郡中崎村《泉『和名鈔』云。上總國夷灊(イシミ)郡。灊『說文』水出巴郡宕渠西南シテ入ㇾ江。○中崎村、同書。同郡長狹(ナカサ)。蓋此處》の農夫源左衞門、酉の五十三歲なるが在り。この男嘗天狗に連往れたりと云。その話せる大略は、七歲のとき祝に馬の模樣染たる着物にて氏神八幡宮に詣たるに、その社の邊より山伏出て誘ひ去りぬ。行方知れざるゆゑ、八年を經て佛事せしに、往ざきにて前の山伏、汝が身は不淨になりたれば返すと云て、相州大山にさし置たり。夫より里人見つけたるに、腰に札あり。能く見れば國郡其名まで書しるせり。因て宿送りにして歸家せり。然るに七歲のとき着たりし馬を染たる着物、少しも損ぜざりしと。これより三ケ年の間はその家に在しが、十八歲のとき嚮の山伏又來り云ふ。迎に來れり。伴ひ行べしとて、背に負ひ目を瞑(ネム)りゐよ迚、帶の如きものにて肩にかくると覺へしが、風聲の如く聞へて行つゝ、越中の立山に到れり。この處に大なる洞ありて、加賀の白山に通ず。その中塗に二十疊も鋪らん居所あり。ここに僧、山伏十一人連坐す。誘往し山伏名を權現と云ふ。又かの男を長福房と呼び、十一人の天狗、權現を上坐に置き、長福もその傍に坐せしむ。此とき初て乾菓子を食せりと。又十一人各口中に呪文を誦する體なりしが、頓て笙篳篥の聲して、皆々立更りて舞樂せり。

かの權現の體は、白髮にして鬚長きこと膝に及ぶ。溫和慈愛、天狗にてはなく僊人なりと。かの男諸國を𢌞れる中、奧の國は昔の大將の僊となりし者多しと。

又伴はれて鞍間、貴船に往しとき、千疊鋪に僧達多く坐しゐたるに、參詣の諸人種々の志願を申すを、心中口内にあること能く彼の場には聞ふ。因て天狗議す。其の願は事當れり。協へつかはすべし。某は咲ふべし。或は癡愚なり迚、天狗大笑するも有り。又は甚非願なり。協ふべからずとて、何にか口呪を誦すること有るもありと。

又諸山に伴はれたるに、何方にても天狗出來て、劍術を慣ひ兵法を學ぶ。かの男も授習せしとぞ。又申樂、宴歌、酒客の席にも伴なはれ往しと。師天狗權現は每朝天下安全の禱とて勤行せしと。

又或時、昔一谷の合戰の狀を見せんと云こと有しときは、山頭に旌旗返翻し、人馬の群走、鯨波の聲、その場の體、今何にも譬へん方なしと。妖術なるべし。

又世に木葉天狗と云者もあり。彼境にてはハクラウと呼ぶ。此者は狼の年歷たるがこれに成るとぞ。定めし白毛生ぜし老物なるべければ、ハクラウは白狼なるべし。

又十九歲の年、人界へ還す迚、天狗の部類を去る證狀と兵法の卷軸二つを與へ、脇指を帶させ、袈裟を掛けて歸せしとぞ。

始め魔界に入しとき着ゐたりし馬の着服、幷に兵法の卷軸と前の證狀と三品は、上總の氏神に奉納し、授けられし脇指と袈裟は今に所持せりと。予未ㇾ見。

又或日奉納せし卷物を社司竊に披き見しに、眼くらみ視ること協はず。因て其まゝ納め置しと。卷物は梵字にて書せりと。

又天狗何品にても買調る錢は、ハクラウ【白狼なり】ども薪など採り賣代なし、或は人に肩をかし抔して、その賃を取聚め、この錢を以て辨ずるとぞ。天狗は酒を嗜むと云。

又南部におそれ山と云高山あり。この奧十八里にして、天狗の祠あり。ぐひん堂と稱す【ぐひん、『合類集』云。狗賓、俚俗所ㇾ言。天狗一稱】。この所に每月下旬信州より善光寺の如來を招じ、この利益を賴でハクラウの輩の三熱の苦を免れんことを祈る。そのときは師天狗權現その餘皆出迎ふ。如來來向のときは炬火白晝の如しと。

又源左衞門この魔堺にありし中、菓子を一度食して、常にもの食ふことなし。因て兩便の通じもなしと。

以上の說、彼僕の所ㇾ云と雖ども、虛僞疑なきに非ず。然ども所ㇾ話曾て妄ならず。何かにも天地間、この如き妖魔の一界あると覺ゆ。

   *

原典の「僊人」は仙人と同音同義であろう。]

 

 子供を連れて行くのは誘拐し易いためと思はれるが、同じ「甲子夜話」には四十一歲でどこかへ誘はれた男の話がある。兩國橋のあたりで氣持が惡くなつたといふだけで、如何なる者に誘はれたかも不明だけれど、氣が付いた時は信濃の善光寺の門前に立つて居つた。兩國橋の邊に行つたのが三月五日で、氣が付いたのは十月二十八日だから、半年以上經過してゐる。衣類はばらばらに破れ裂け、月代(さかやき)は伸びて禿のやうになつて居つた。幸ひ故鄕の知人に出遭つたので、その人と一緖に江戶へ出たが、歸つて後も五穀の類は食はれず、薩摩芋だけ食つて居つた。厠に上る每に木の實の如きものが出たが、それが止むと穀食に還つた。この誘拐者を天狗らしく感ぜしめるのは、最後の穀食を嫌ふ一條である。これも上總の男で、松浦家の馬丁か何かであつたらしい。あまり似通ぎてゐるから、或は同一人ではないかといふ氣もするが、それにしては話の内容が一致せぬ。しばらく別人として置く。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話卷之三」の二十七条目の「上總人足、天狗にとられ歸後の直話」である。

   *

予が厩に使ふ卑僕あり。上總の產なり。此男嘗天狗にとられたると聞ば、或日自ら其ことを問に、奴云ふ。今年五十六歲、さきに四十一の春三月五日の巳刻頃、兩國橋のあたりにて心地あしく覺たる計にて、何なる者より誘れたるも曾て不ㇾ知。然して十月廿八日のことにて、信濃國善光寺の門前に不圖立居たり。それまでのことは一向覺ず。衣類は三月に着たるまゝ故、ばらばらに破さけてあり。月代はのびて禿の如なりし。其時幸に、故鄕にて嘗て知し人に遭たる故、それと伴て江戶に出たり。其本心になりたる後も、食せんとすれば胸惡く、五穀の類は一向食れず。たゞ薩摩芋のみ食したり。夫より糞する每に木實の如きもの出て、此便止、常の如くなりてよりは、腹中快く覺て穀食に返しとなり。然れば天地間には人類に非るものも有るか。

   *]

 

 京都西洞院武者小路に宇兵衞といふ銀工があつた。享保十二年七月十四日の暮方、西陣に用事があると云つて出たきり歸らぬので、兩親をはじめ皆心配してゐると、三日目の五ツ時(午後八時)頃、無事に戾つて來た。彼の語るところによれば、あの日一條戾り橋のところで一人の僧に逢つた。前々から懇意の人のやうに會釋して、そなたは日頃大峯へ參りたい念願であつたが、何とこれから參詣なさらぬか、同道しよう、といふ。云はれるまゝに連れ立つて、東堀河を南へ下り、黑川又四郞といふ名高い狂言師の家の前に出た。宇兵衞と又四郎とはかねて親しい間柄で、將棋の仲間である。わしはこゝに待つてゐるから、中へ入つて將棋二三番さしておいでなさい、三番とも勝つやうにわしが祈念して進ぜる、と僧が勤めるので、宇兵衞は心得て案内を乞うた。又四郞の方では、夜中突然の訪問を多少不審に思つたやうであつたが、將棋と聞いて直ちに盤に向ふ。京中で二三のさし手と云はれる又四郞が、先づ平手、次に角落ち、更に飛車落ちで、三番立て續けに負けてしまつた。それから大峯をめぐり、吉野から伊勢に出、奈良、初瀨、龍田、法隆寺を一覽し、今度は東國の方を見物させよう、と云つて步いて來ると、向うから緋の衣を著た老僧が、五六十人も僧を隨へてやつて來る。老僧は此方の僧を見るなり、お前がその人を取り隱した爲、兩親の悲歎は一通りでない、早くもとのところへ還すがよい、と頭から叱り付けた。此方は一も二もなく恐れ入つて、老僧一行の姿が見えなくなるのを待ち、それでは故鄕へ歸らせよう、と云つて一二町步いたと思ふ間もなく、こゝは一傑西の洞院ぢや、こゝまで來ればもう案内せずともよからう、と云ひ捨てたまゝ、どこかへ行つてしまつた。氣が付いて見れば慥かに一條西の洞院の辻なので、直ぐ家に歸つたといふのであるが、一座の者は一人も宇兵衞の言葉を信じない。今宇兵衞の話した名所古跡は、十四五日もかゝらなければ見物出來ない、それを三日で步いたなどといふのは、多分狐に化かされたのだらう、と云つて取り合はぬ。宇兵衞は大峯で共に登山した人、東大寺で逢つた人等の名を擧げ、それらの人が下向したら、聞いて見ればわかる、と主張する。果して彼が云ふ通りであつた。宇兵衞の遍歷は僅か三日間であつたが、その間に何か天狗から學び得たらしく、醫者の療治の叶はぬ病人などは、彼に加持せしめれば立ちどころに不思議の效驗があるので、宇兵衞の家は貴賤群集する盛觀を呈した。「雪窓夜話抄」の著者は、これを武者小路新町に住む名古屋玄二といふ人から聞いて、委しく書き留めてゐる。

[やぶちゃん注:「享保十二年」一七二七年。原典(後注参照)の条の擱筆に『享保丁未の事なり』とあるのによる。

「黑川又四郞」不詳。

 以上は「雪窓夜話抄」の「卷六」にある「天狗に誘はれて名所巡覽の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。]

 

 正德年間の話で、江戶神田鍋町の小間物屋の丁稚が、手拭を持つて錢湯へ出て行つたと思ふと、暫くして裏口に佇む者がある。誰だと咎めたら、今し方錢湯へ出かけた丁稚が、股引草鞋の旅姿で、藁苞(わらづと)を杖にかけてゐる。主人は驚いた樣子も見せず、先づ草鞋を解いて足を洗へ、といふ。丁稚は畏まつて足を洗ひ、臺所の棚から盆を出して來て、苞から出した野老(ところ)を積み、これがお土產でございます、と云つて差出した。今朝はどこから來たのかと聞くと、秩父の山中を今朝出ました、永々留守に致しまして、さぞ御事缺けでございましたらう、といふ返事である。愈々不審になつて、一體いつ家を出たのだと云へば、十二月十三日の煤掃(すすはき)の晩でございます、それから昨日まであの山に居りまして、每日お客の御給仕を致しました、お客は皆御出家ですが、昨日の話に、明日は江戶へ歸してやらう、土產に野老を掘るがいゝ、といふことで、これを掘つたのでございます、と答へた。倂しこの家では丁稚が煤掃の晩から姿を隱したことを誰一人知らなかつた。恐らく錢湯へ出かけるまで、誰かが身代りを勤めてゐたのであらう。話はこゝに至つて妖氣を帶びて來る。丁稚はその時十四五歲であつた(諸國里人談)。

[やぶちゃん注:「正德年間」一七一一年から一七一五年。先の享保の前。柴田にしては珍しい梗概の落としがあって、原典(後掲)では丁稚(でっち)が銭湯に行った日を『正月十五日』と明記してある。即ち、丁稚の本体が失踪していたのは二十九日或いは三十日(旧暦の正一ヶ月分)の間であったことがこれによって判る

「神田鍋町」現在の東京都千代田区神田鍛冶町三丁目。附近(グーグル・マップ・データ)。

「藁苞(わらづと)」藁を編んで物を包むようにしたもの。そこから転じて「土産物」の意ともなった。

「野老(ところ)」ここは「山芋」のこと。

「御事缺け」「ことかけ」は「ことかき」と同じで「必要な物を欠くこと」の意であるから、ここは御不自由(をおかけしたこと)の謂い。

 以上は「諸國里人談」の「卷之二」「四 妖異部」の「雇天狗」(天狗に雇はる)の一条。以下に示す。「調市」(「ちょういち」→「丁一」→「丁稚」)は「でつち」の当て字。オリジナルに歴史的仮名遣で読みを振り、直接話法を鍵括弧として改行、句読点も追加した。

   *

正德のころ、江戶神田鍋町(なべちやう)小間物(こまもの)商ふ家の十四五歲の調市(でつち)、正月十五日の暮かた、錢湯へ行(ゆく)とて、手拭など持出(もちいで)けり。少時(しばらく)して、裏口に彳(たたず)む人あり。

「誰ならん。」

と、とがむれば、かの調市なり。股引草鞋(ももひきわらぢ)の旅すがたにて、藁苞を杖にかけて、内に入(いり)けり。主人、了(さと)き男にて、おどろく體(てい)なく、

「まづわらんじを解(とき)、足をすゝぐべし。」

といへば、かしこまりて足をあらひ、臺所の棚より盆を出し、苞をほぐせば、野老なり。これを積(つみ)て、

「土產(みやげ)なり。」

とて出(いだ)しぬ。主人の云(いはく)、

「今朝(けさ)はいづかたよりか來れる。」

「秩父の山中を今朝出(いで)たり。永々(ながなが)の留主(るす)、御事かけにぞ侍らん。」

といへり。

「いつ、家を出たる。」

と問ふに、

「旧臘(きうらう)十三日、煤(すす)をとりての夜(よ)、かの山に行(ゆき)て、きのふまで其所(そこ)にあり。每日の御客にて給仕し侍り。さまざまの珍物(ちんもつ)を給はる。客はみな、御出家にて侍る。きのふ、仰せつるは、明日は江戶へかへすべし。家づとに野老をほるべし。」

とあるによつて、これを掘(ほり)ける、など語りぬ。その家には此もの、師走(しはす)出(いで)たる事を曾(かつ)てしらず。其(その)代(しろ)としていかなるものか化(か)してありけると、後にこそはしりぬ。其後何の事もなく、それきりにぞすみける。

   *

「旧臘」「臘月」は旧暦十二月の異名。去年の師走の謂い。]

 

 これと似たやうで違ふのが、「黑甜瑣語」にある秋田の話で、雄猿部(をさるべ)といふ深山の楠の梢に、百姓作之丞といふ者の屍が倒しまにかゝつてゐる。高い山の岨(そば)から深い谷へ垂れさがつた木なので、杣や木樵でも近寄ることは出來ない。たゞ遠くから見て、それらしいと云ふに過ぎなかつた。作之丞の家は無事に殘つて居つたが、或時昔の作之丞が突然歸つて來た。彼の物語りによれば、自分が四十歲に近い頃、山深く爪木を伐つてゐると、一人の大男がやつて來て、何か一つ二つ話すうちに、お前は過去が見たいか、未來が見たいかと云ひ出した。過ぎ去つた事は話にも聞けますが、行く末の事は壽命がなければ見られぬと思へば、ひとしほなつかしうございます、と答へたら、それでは今お前の命を縮め、八十年後に再生せしめて、更に三十年の壽命を與へよう、さうすれば百年後の世界が見られるわけだ、と云つて自分を見詰めた眼色の恐ろしさは何とも云ひやうがない。魂が消えるやうになつて、ひたすら詫言を云つたけれど、何事も宿業の致すところだ、と云つて自分は卽座に縊られてしまつた。その後の事は固より何も知らぬが、此間ふと氣が付いて見ると、例の大男が側に居つて、自分を仰臥させ、絕身を按摩してくれた上、今こそ許して歸す、長い間木の上で苦しかつたらう、と云ひ、歸る道を敎へてくれた。その山を出れば雄猿部の頂きであつた。山の木立、里の住居も變つたやうだが、自分の里に間違ひはない、と云つた。家人も訝しく思ふものの、過去の話をすれば悉く證據がある上に、前に見えた梢の屍が見えなくなつてゐるので、家の先祖として敬つたといふ話である。作之丞はそれから三十年たつて、正德の未に病死したといふから、彼が怪しい大男に逢つたのは百餘年前の勘定になる。

[やぶちゃん注:「雄猿部」現在の秋田県北秋田市七日市(なぬかいち)地区に「雄猿部川」という川名を現認出来る。であろう(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「黑甜瑣語」の「四編卷之三」の「雄猿部の尸(かばね)」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。]

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗(慢心)」

 

 天狗(慢心)

 

 伏見が繁昌した頃といへば、無論豐臣氏の時代であらう。内野七本松で勸進角力を催された。勸進元の取手には、立石、伏石、荒浪、立浪以下三十人ほどあり、これに對する寄手は畿内をはじめ諸國から集まつた武士であつたが、いつも勸進元の勝になつた。この上は如何なる人にても、名乘り出る者があれば取り續ける、といふことになつたけれども、さて出て取らうといふ者は一人もない。その時、暫く角力をお待ち下され、お望みの方がござる、といふ聲が聞えたので、行司もその儀ならば早くお出なされ、といふ。果してどんないかめしい男が出るかと見てゐると、立出でたのは年頃二十歲ばかりの比丘尼である。行司の問ふのに答へて、私は熊野邊の者でございますが、常々若い方々が角力をお取りなさるのを見て居ります、今日もこゝで皆樣がお取りなさるのを羨ましく存じ出て參りました、女の身と申し、比丘の分際ではあり、歷々の方々が居竝んでおいでになりますので、まことにお恥かしうございます、と云つた。見物の人達も驚いたが、とにかく前代未聞の事であるから、早速取らせたらよからうと所望する。立石は苦笑して、かやうな微弱な者は十人も十五人も一つまみに出來る、自分が相手になるのは大人氣ないから、若い小角力に取らせたらよからう、と辭退したけれども、比丘尼は承知しない。いえいえ、どうせ取るならば、勸進元の上の方を出して下さい、それでなければ取りますまい、といふ。見物の貴賤も、それは面白い、立石取れといふことになつて、立石も仕方なしに土俵に上つた。比丘尼が帷子を脫いで出たのを見ると、下には縞のカルサンを著けてゐる。行司が兩方を合せ、立石が大手をひろげて立つのを、比丘尼がつツと飛び込んだと思つたら、立石の身體は仰向けに突き倒されて居つた。これは侮り過ぎて不覺を取つたと、その次は愼重に構へ、比丘尼の寄つて來る右手を捉へ、三度ばかり振り𢌞したが、比丘尼は驚かず、後脛を取つて、今度は仰向けに投げ倒した。滿場鬨の聲を揚げて囃したが、比丘尼の投げ口は電光石火の如く、立石に次いで出た角力も皆やられた。比丘尼はその後も各所の角力場に姿を現し、連勝の勢ひを見せた。これは葛城山の天狗が假りに比丘尼となり、力に驕る者どもの頭を押へたものと取沙汰された(義殘後覺)。

[やぶちゃん注:「内野七本松」現在の上京区下長者町通七本松西入鳳瑞町の内。(グーグル・マップ・データ)。

「帷子」「かたびら」。袷(あわせ)の「片ひら」の意で、裏を付けない衣服。単衣(ひとえ)。

「縞のカルサン」縞織りの「輕衫」(かるさん)。軽衫は袴の一種。筒が太く、裾口が狭いもの。裾には横布があってきゅっとしまっている。語源は「ズボン」の意のポルトガル語“calção”(音写「カァルソン」)。初期形態は渡来人のそのものであったが、次第に日本化してゆき、踏込袴・裁付(たっつけ)袴・山袴と酷似したものとなり、当初の括緒(くくりお)袴様(よう)のものから、裾に襞をとって幅の狭い横布を附けた形態へと変化した。縞は細かな縦縞であろう。

 これは「義殘後覺」の「卷五」の「比丘尼相撲の事」である。坪田敦緒氏のサイト「相撲評論家之頁」のこちらにある電子テクストを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認しつつ、電子化する。一部にオリジナルに句読点・記号及び歴史的仮名遣による読みを附し、読み易さを考え、直接話法(心内語を含む)を改行した。

   *

京伏見、はんじやうせしかば、諸國より名譽のすまふども到來しけるほどに、内野七本松にて勸進すまふを張行(ちやうぎやう)す。くわんじんもとの取手にハ、立石・ふせ石・あらなみ・たつなみ・岩たき・そりはし・藤らふ・玉かつら・くろ雲・追風・すぢがね・くわんぬきなどをはじめとして、都合三十ばかり有けり。よりには京邊土畿内、さてハしよこくの武家よりあまりてとりけれども、さすかに勸進すまふをとるほどのものなれハ、いつにても、とりかちけり。寄手の人々、

「こはくちをしきかな、いかなる人もあらば、もとめて、取おほせたくこそ存づれ。」

など、ぎしける處に、ある日、立石、せきにいづるとき、行事、申(まうし)けるは、

「御芝居にすまふハつき申候や。もし、御望のかた御座候ハゝ、只今御出(おいで)候へ。さらば、なのり申(まうす)。」

と、よばゝりけれども、いでん、といふ人、壹人もなし。かゝる處に、ねずみ戶(ど)よりも、

「しばらく、相撲をは、まち給へ。御のぞみのかた御座候。」

と申ほどに、行事、

「そのぎならハ、はやく御出候へ。」

と申けれハ、いでにけり。人々、何たるいかめしき男なるらん、と見る所に、としの比(ころ)、はたち斗(ばかり)なる、びくになり。行事、

「こハ、いかなる人ぞ。」

と申けれハ、比丘尼(びくに)、申けるは、

「さん候。我ハ熊野あたりの者にて候が、常にわかき殿ばら、たちすまふをとらせ給ふを見および候によつて、人々とらせ給ふがうらやましさにまいりて候。女と申(まうし)、比丘と申、似合ぬ事にて候へハ、れきれきの殿ばらたち、並居(なみゐ)させ給へば、はつかしくこそ候へ。」

と申けれハ、芝居中(ぢう)、是をきゝてみれハ、いとやさしきあまなり。

「かゝる中へ、かやうの事をいふてすまふをのぞむハ、いかさま、きゝもおよばぬふしぎかな。いそぎあはせ給へ。」

といひけれハ、立石、申けるハ、

「かやうのびじやくなるものハ、十人も十五人も一つまみづゝにすべきに、いかで、それがし、おとげなくも、とるべきぞ。わかき小ずまふの候ハんに、あはせ給へ。」

といひけれハ、比丘、聞(きき)て、

「いやいや、とる程ならば、勸進本(もと)にてうわすまふをいたし給へ。さなくば、とるまじき。」

と申(まうす)。見物のきせん、これをきゝて、

「まことにおもしろし。立石、とれ。」

と一同に所望しければ、ちからなく、取(とり)にける。さて、びくに、かたびらをぬぎていでけるをみれハ、下には島(しま)のかるさんをぞきたりける。行事、すまふをあはするとき、立石、大手(おほで)をひろげて、

「やつ。」

といふて、かまへけれハ、びくにハ、つつ、と入(いり)て、あをのけにぞつきたをしける。芝居中、是を見て、あきれはてゝぞほめたりける。立石、くちおしくおもひ、

『なめ過(すぎ)てまけゝる。』

と思へば、こんどハ、小躰(こてい)にかまへてかゝる所に、比丘ハ、つゝ、と、よりけれハ、立石、弓手(ゆんで)のかいなをとつて、三ふりばかりふりけるか、ふられて、びくハ、うしろすねのおつとりをとつて、うつふさまにぞなげたりける。芝居中ハ、ときのこゑをつくつて、わらひけるほどに、しばしハ、なりもやまざりける。それより、もふせいし・くわんぬきなどいでゝとれども、後、次第に、びくにがなげぐちハ、でんくわう・いなびかりのごとくに、いかゝとるやらん、目にも見へず、手にもためずぞとつたりける。かくて、すまふハ此びくにせきをとられければ、芝居ハ則(すなはち)退散、それより又、伏見にて、くわんじんすまふありけるに、又、このびくにいでゝ、とりおほせけり。醍醐・大さかなどまて行(ゆき)て、世にすくれたる大すまふといへは、ひろひけるほどに、世中の人、

「これは、たゞものにてハあるまじき。」

と、おそれをのゝきけるが、後にきけは、かつらき山の天狗、おごるをにくみて、頭をおさんがために比丘となつてとりける、と、きこゆ。奇代の事と、さたしけり。

   *

文中の「ねづみど」は「鼠木戶(ねずみきど)」のこと。近世に於いて芝居・見世物などの興行場の観客の出入り口を指す。無料入場を防ぐためにわざと狭くしたことから、かく称した。]

 

 これは角力譚の一の型で、いろいろなものに出て來る。蕪村の「飛入の力者怪しき角力かな」や太祇の「勝逃の旅人あやしや辻角力」なども、當然この範疇に入るべきものである。角力ほど華々しくはないけれども、深川永代八幡の社地に爲朝明神の開帳があつた時、力自慢の男どもが集まつて、五十貫、七十貫、百貫の石を手輕に持ち、或は牛を舟に載せなどして見せた。その日も夕暮近くなつて、見物の人も散りかけた頃、二十四五歲の色白な瘦せ形の武士が出て、さてさていづれも珍しい大力である。某も聊か力があるつもりだが、まだこんな大石を試したことがない、一つ試して見たくなつたから、お許し願へまいか、と云つた。力自慢の面々は、その人の弱々しげな樣子を見て、笑ひながら、どうぞ御自由に、と云つたところ、武士は兩刀も取らず、羽織袴のまゝ、八十貫といふ大石を、何の苦もなく三度まで差上げ、音もなく地におろし、丁寧に一禮を述べて立ち去つた。力自慢の連中は呆然として一語も發せず、見物の中には天狗だらうといふ者もあつたが、後に聞くところによれば、四谷左門町の組屋敷に居る人だつたさうである(眞佐喜のかつら)。

[やぶちゃん注:「飛入の力者怪しき角力かな」岩波文庫版尾形仂(つとむ)校注「蕪村俳句集」(一九八九年刊)によれば、「とびいりのりきしやあやしきすまひかな」と読み、推定で明和七(一七七〇)年七月十一日の作とする。

「太祇」老婆心乍ら、炭太祇(たんたいぎ 宝永六(一七〇九)年~明和八(一七七一)年)は江戸中期の江戸生まれの俳人。まさに前の与謝蕪村とも交流があったとされる。

「勝逃の旅人あやしや辻角力」「かちにげのたびびとあやしやつじすまふ」或いは「つじすまひ」であろう。「辻角力」は大道芸人や好事の者らが道端で即席に興行した素人相撲のこと。早稲田大学図書館古典総合データベースので自撰「不夜菴太祇發句集」の当該句の影印が視認出来る。そこでは、

勝迯の旅人あやしや辻角力

となっている。

「眞佐喜のかつら」は以前に述べたように所持しないので、原典を示せない。]

 

 前の角力の話は微弱な比丘尼が現れて、片端から投げ倒すところに驚異がある。後の力石にしても、色白の瘦男なるが故に效果を發揮する。かういふ人物の出現に際し、人は先づたゞ者でないと感じ、天狗の仕業であらうといふ結論に達するらしい。

 比丘尼の角力を傳へた「義殘後覺」は、別に武田信玄に就いてこんな話を書いてゐる。信玄に仕へた容顏美麗の少年があつた。小坊主にして茶堂重阿彌に預けたが、甚だ怜悧で信玄にも一方ならず寵愛を受けてゐた。或時この小坊主に茶を挽かせてゐると、若侍の中に口論がはじまり、物騷がしい物音がする。信玄これを聞いて、予が庭前にかゝる狼藉を仕るは何者か、一々討ち果すべしと云ふに、小坊主は緣の前の障子をあけて庭の樣子を見定め、十人ばかり入り亂れて斬合つて居る模樣でございます、と報告し、次の間に立てて置いた薙刀を持つて來た。薙刀ではいかぬ、弓を持つて參れと命じ、聲のする方角に矢を放つたら、それきり物音は聞えなくなつた。そこで信玄が、これは不思議である、予が明け暮れ弓箭の計り事を工夫するにより、胸中を測らんため、天狗がかゝる業(わざ)をして驚かすと見えた、人の所爲ではあるまいと云ふと、小坊主畏つて、御意御尤もに存じますると云ひ、その晩から姿が見えなくなつた。さては魔の所行疑ひなし、油斷あるべからずといふのであるが、この場合、信玄もやはり天狗に歸してゐる。庭前の物音ばかりではない、やんごとなき人の子なりといふその小坊主が已に怪しく思はれる。

[やぶちゃん注:「茶堂」原典もママであるが、後の高田衛氏のテクスト(後述)から、茶道と同義であることが判る。高田氏はこれを、広義の茶道ではなく、『茶道を以て仕える戰國大名の側近衆。伽の衆でもあった』と注され、職掌としてのそれであることを示しておられるから、だとすると「茶堂」とも呼んだものかも知れぬ。

「重阿彌」「じふあみ」。不詳。

 以上は「義殘後覺」の「卷三」の「五 小坊主、宮仕への事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここからでも視認出来るが、ここは岩波文庫刊の高田衛編「江戸怪談集(上)」(一九八九年刊)に載るものを参考底本としつつ、恣意的に漢字を正字化、直接話法部を改行して以下に示す。

   *

 或る時、信玄公へ、やんごとなき人の子なりとて、年十五、六歲なる、容顏美麗の若衆を連れて參り、

「召し使はれ候はばや。」

と申し上げければ、信玄御覽ずるに、世に類なき美しきかたちなれば、召しおき給ひて、やがて頭を剃り、法師になして、茶道重阿彌にあづけ給ふ。

 かくて御腰元にて召し使はるるに、信玄公の御心をかさねて悟り、物ごとに先へ整のへて置くやうにしけるほどに、御意にいる事たぐひなし。かくて二年あまり宮仕へけるが、ある夜、信玄公、この小法師を召されて、茶を御前にて挽(ひ)かさせ給ふときに、御陣の内に、若侍の十人ばかり寄合ひ、物語りする聲して、擧句には口論し、後にはさんざんに斬り合ふ音のしければ、小法師申しけるは、

「御坪の内にて、若侍衆、口論つかまつり、只今討ち合ひ候。」

と申しければ、信玄、聞召(きこしめ)して、いと騷ぎ給はず、

「誰れ誰れにて有るやらん。」

と仰せければ、

「いづれにて候やらん。聞きなれぬ聲にて侍る。」

と申す。

「憎き奴輩(やつばら)かな。予が庭前にて何者なれば、かかる狼籍をつかまつるらん。いちいちに討ちはたすべき。」

と仰せられければ、小法師、茶を挽きさして、づんと起つて、緣の前なる障子をさらりと明けて、庭を急度(きつと)と見、立ちもどつて申すやうは、

「十人ばかり、打ち亂れて斬り合ひ申し候。御用心候へ。」

とて、次の間に立て置きたる御長刀(なぎなた)を取つて、參らせければ、信玄公、仰せられけるは、

「長刀を差しをき[やぶちゃん注:ママ。]、弓を參らせよ」

と仰せらるるほどに、かしこまつて七所籐(ななどころどう)の弓をそへて奉りける。

 信玄公、ひつくわへ、よつぴいて、放し給へば、

「どつ」

といふ聲して、ことごとく退散して、何の音もせざりけり。そのとき仰せらるるは、

「あな不思議や。これはひとへに天狗の所爲なるべし。予があけくれ弓箭のはかり事のみ、工夫するによつて、胸中をつもらんがために、かかる業をなして驚かすかと見えたり。まつたく人にはあるまじ。

と仰せられければ、

「御意もつともに候。

とて、その夜、かきくれて見えずなりにけり。

 信玄公、

「さては魔の所行、疑ひなし。油斷有るべき事ならず。」

とぞ、覺しける。

   *

文中の「七所藤の弓」とは弓の彎曲部の七ヶ所に籐(とう)を卷いた強弓と底本の高田氏の脚注にある。「弓箭のはかり事」は「きうぜんのはかりごと(きゅうぜんのはかりごと)」で、戦さに於ける戦略戦術法の謀議・研究の意。「胸中をつもらんがために」同じく高田氏注に『見すかそうとして』とある。]

 

 日光山は天狗が住んで恐ろしいところと云はれて居るが、或浪人が知音あつて山中の院に寄宿してゐた。一夜人々集まつて碁を打つのに、この浪人に敵する者がなかつたので、院中には自分に先させて打たうと云ふ者はあるまい、と自慢しはじめた。その時側に居つた僧が、左樣な事はこゝでは申さぬものぢや、鼻の高い人があつて、びどい目に遭ひまするぞ、と注意するや否や、明り障子を隔てた庭の方で、こゝに聞いて居るぞ、といふしはがれた聲がした。浪人は忽ち顏色を失ひ、碁盤碁石を片付け、夜の明けるのを待ちかねて、下山してしまつた(譚海)。

[やぶちゃん注:「自分に先させて打たうと云ふ者」「先」は「せん」と読んでおく。私は囲碁を全く知らぬ迂闊な人間だが、それでも対局者の強弱がはっきりしている場合は弱い者が黒石を持って先手(せんて)になること、それを「先(せん)」と呼ぶことぐらいは知っている。さればここはそれに照らせば、この一言で、この浪人の驕りのさまが手にとるように知れるということなのであろう。

 これは「譚海」の「卷の五」の「下野山日光山房にて碁を自慢せし人の事」である(「下野山」の「山」はママ。原典の「國」の誤記が疑われる。底本の誤植の可能性は低い。私が「譚海」電子化注(作業中)で使用している底本は一九六九年三一書房刊「日本庶民生活史料集成 第八巻」所収の竹内利美氏校訂版であるが、国立国会図書館デジタルコレクションの国書刊行会本(大正六(一九一七)年もこうなっている。底本は東北大学付属図書館蔵の狩野文庫本とその国書刊行会本を対照校訂しているからである。読みは私がオリジナルに推定で歴史的仮名遣によって附している。

   *

○下野國日光山は、天狗常に住(すみ)ておそろしき處なり。一とせある浪人、知音(ちいん)ありて山中の院に寄宿し居(ゐ)けるが、一夜(ひとよ)院内の人々集(あつま)りて碁を打(うち)たるに、この浪人しきりに勝(かち)ほこりて、皆(みな)手にあふものなかりしかば、浪人心おごりて、此院中に我(われ)に先(せん)させてうたんと云(いふ)人はあらじなど自讚しける時、かたへの僧左樣成(さやうなる)事こゝにてはいはぬ事なり、鼻の高き人有(あり)て、ややもすればからきめ見する事多しと、刺しける詞(ことば)に合(あは)せて、明り障子を隔てて庭のかたにからびたる聲して、爰(ここ)に聞(きき)て居(を)るぞといひつる聲せしかば、浪人顏の色も菜(な)のごとくに成(なり)て、ものもいはず碁盤碁石打(うち)すて置(おき)て寢(いね)、翌日のあくるを待(まち)あへずして、急ぎ下山して走り去りぬとぞ。

   *]

 

 天狗といふ言葉は現在でも慢心を現す言葉になつてゐる。鼻が高いとか、鼻を高くするとかいふ言葉も、皆それから出たものであらう。然るに以上の話では、天狗そのものが慢心を警める役に𢌞つてゐる。天狗の鼻が高いのは何でもないが、人が妄りに鼻を高くするのは危い。そこで鼻高族の天狗が何等かの形で警告を與へるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「警める」「いましめる」と訓ずる。]

2017/02/24

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗になつた人」

 

 天狗になつた人

 

 京都の東松崎に日蓮宗の寺があつた。こゝの上人は高才の人であつたが、病氣になつて遷化(せんげ)も遠からずと見えた頃から、何となく容貌が物凄く變り、看護の人達も心許なく思ふうちに、ふと起き上つて、只今臨終ぞと四方を見る眼が輝き、鼻が高くなり、左右の肩に羽が生え、寢室より走り出て、緣側へ行つたと見る間もなく、如意ガ嶽に飛び去り、行方が知れなくなつた。上人には有力な弟子が五人ほどあつたが、師の成行きを見て、いづれも宗旨を改めた。そのうちの一人が淨土宗になり、了長坊と稱して東山で念佛をすゝめて居つた。この人の口から、上人の天狗に化して飛び去つた時の恐ろしかつたことが傳へられた(新著聞集)。

[やぶちゃん注:「東松崎」現在の京都市左京区松ヶ崎東町、この附近か(グーグル・マップ・データ)。

「心許なく思ふ」何とも心配で、気掛かりに思う。

「如意ガ嶽」如意ヶ嶽(にょいがたけ/にょいがだけ)は山頂が京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町にある京都東山の標高四百七十二メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の松ヶ崎東町からは、南東に五・五キロメートルの位置にある。

 以上は「新著聞集」の「第十四 殃禍篇」(「殃禍」は「わうくわ(おうか)」で「災い・災難」の意)の「日蓮學僧活(いき)ながら天狗となる」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。歴史的仮名遣でオリジナルに推定の読みを附した。

   *

洛陽の東松が崎に、日蓮宗の寺あり。此上人、高才の人にて、門弟にも、上人分(ぶん[やぶちゃん注:師の才智に相応しただけの知力を持っているの謂いであろう。])の聖(ひじり)あまたありし。師煩(わづらひ)て遷化遠(とほ)からず見へし比(ころ)より、何となく、面像(めんざう)のあたり物すごくて、看病の面々、心もとなく思ひしに、不圖(ふと)をきあがり、只今臨終ぞとて、四方を吃(きつ)と見たる眼(まなこ)かゞやき、見る見る鼻高くなり、左右に、羽(は)がひ生(はへ)て、閨(ねや)より走り出(いで)て、緣(ゑん)ばなに行(ゆく)とみへしが、むかふの如意(によい)が岳(たけ)に飛(とび)さり、行方(ゆくへ)なく成(なり)し。弟子の上人五人、みなみな宗旨をあらためし中(うち)に、浄土宗に獨り成(なり)て、名を了長坊とあらため、東山におはして、多くの人に念佛をすゝめたまひし。此人の、くはしく語りて、舌を振(ふり)ておそれあへり。まことに其上人の日來(ひごろ)の行跡樣(ぎやうせきやう)、おもひやられて哀(あはれ)なり。

   *]

 近江の長命寺に居つた普門坊といふ僧は、松ガ崎の巖上に百日の荒行をして、終に生身の天狗になつた。この僧は長命寺に近い牧といふ村の者で、何某忠兵衞といふ郷士の家から出た。天狗に化して後、一度暇乞ひに來て、以後はもう參りますまい、といふ聲だけ聞えた。「今は百有餘年前のことゝかや」と「閑田耕筆」に書いてある。「閑田耕筆」は享和元年版だから、先づ元祿末年の事と見てよからう。

[やぶちゃん注:「長命寺」琵琶湖畔に聳える長命寺山の山腹、現在の滋賀県近江八幡市長命寺町にある天台宗姨綺耶山(いきやさん)長命寺(ちょうめいじ)。創建は推古天皇二七(六一九)年とし、聖徳太子を開基と伝える古刹で(但し、伝承の域を出ず、確実な史料上の長命寺寺号の初見は承保元(一〇七四)年)、参照したウィキの「長命寺」によれば、伝承によると、第十二代景行天皇の御世、かの『武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り』長寿を祈願したことから、宿禰は三百歳の『長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている』とある、私に言わせれば、天狗を産み出しそうな面妖な寺である。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「普門坊」「ふもんばう(ぼう)」。非営利教育機関「JAPAN GEOGRAPHIC」公式サイト内の長命寺ページ(写真多数)の中山辰夫氏の記載によれば、寺の境内の一番奥まったところに「太郎坊権現社」が祀られており、これが普門坊が天狗となったものを祭祀したものと記しておられる。以下に引く。『この祠の両脇にも巨石がゴロゴロ。割れ目のある岩は女性とされる』。『祀られているのは、太郎坊という大天狗。もとは、長命寺で修行をしていた普門坊という僧で、厳しい修行の結果、超人的、神がかり的能力を身につけ、大天狗になって、寺を守護しているのだとか』。『屋根に覆い被さるような巨石は「飛来石」』。京の天狗のメッカ、『愛宕山に移り住んだ太郎坊が、長命寺を懐かしく思って、近くにあった大岩を投げ飛ばし、長命寺の境内に突きささったものだとか』とある。

「松ガ崎」地図上では確認出来ないが、こちらの方の記載中に、『長命寺の山を下りて、すぐ目の前にある「名勝 松ヶ崎」という場所』で撮った琵琶湖への落日の写真があるので、長命寺の直下にある湖岸の呼称であることは間違いない。

「牧」現在の近江八幡市牧町(まきちょう)。現行の牧町は長命寺の南から南西方向の四キロメートル圏内にある。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「閑田耕筆」の「卷之三」の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「○」は除去した。歴史的仮名遣でオリジナルに推定の読みを附した(カタカナは原典のもの)。

   *

淡海(あふみ)長命寺に普門坊といへる住侶(じふりよ)、其(その)麓(ふもと)松が崎の巖上(ぐわんじやう)に百日荒行(あらぎやう)して、終(つひ)に生身(しやうしん)天狗に化(か)したりとて、其(その)社(やしろ)、卽(すなはち)松が崎の上(うへ)本堂の裏面の山に有(あり)。此僧の俗性(ぞくせう)は、此長命寺のむかひ牧(マキ)といふ村にて、某氏(ばうし)忠兵衞といふ郷士(がうし)の家(いへ)より出(で)たりしが、化して後、一度至り暇乞(いとまごひ)し、今よりは來(きた)らじと聲計(ばかり)聞えてされりとなん。今は百有餘年前のことゝかや。今も年々某(ばう)月日(つきにち)、此社の祭は彼(かの)忠兵衞の家より行ふとぞ。

   *

「享和元年」一八〇一年。

「元祿末年」元禄は十七年(グレゴリオ暦一七〇四年)の三月十三日に宝永に改元している。]

 倂し天狗になる者は必ずしも出家方外の人には限らぬ。信州松本の藩士萱野五郎太夫といふ人は、文武兩道の嗜みがあり、萬事物堅い人物であつたが、その代り物に慢ずるところがあつた。或年の正月、大半切桶を新たに作らせ、幾日の晝頃には必ず出來(しゆつたい)するやうにと、嚴しく下男に命じた。果して何事がはじまるのか、訝りながらその通り調製すると、今度は新しい筵十枚をとゝのへ、餠米四斗入三俵を赤飯にしろといふ。十枚の筵は座敷に敷かせ、大半切桶には赤飯を盛つて筵の上に据ゑ、自分は日の暮を待つて沐浴し、麻上下を身に著けた。家人は悉く退け、無刀でその一間に閉ぢ籠つたので、氣が違つたのではないかと思つたが、他には別に不審の事もなく、殊に無刀であるから、五郎太夫の云ふに任せた。その夜半頃になつて、人數ならば三四十人も來たやうな足音であつたが、もの言ふ聲は少しも聞えない。曉方にはひつそりして、やがて夜も明け放れたのに、何の音もなくしづまり返つてゐる。こはごは襖を少し明けて覗いたら、人影は全くないのみならず、あれほどの赤飯が一粒もない。五郎太夫の姿も見えぬので、方々搜したが、結局行方不明であつた。そのまゝには捨て置けず、領主へ屆け出たところ、常々貞實の者であり、不埒な事で出奔したといふでもないが、理由なく行方不明になつた以上、家名は斷絶、代々の舊功により、倅を新規に呼び出し、もと通りの食祿で召仕はれることになつた。翌年の正月、誰が置いたかわからぬ書狀が一通、床の間にあつて、紛れもない五郎太夫の筆蹟で、自分は當時愛宕山に住んで、宍戸シセンと申す、左樣に心得べしと書いてあつた。尚々書に「二十四日は必ず必ず酒を飮むまじく候」とあつたが、その後變つた事もなかつた。たゞ領主はその年故あつて家名斷絶した。シセンの文字も書狀にはちやんと書いてあつたのだけれど、傳へた人が忘れたのださうである(耳囊)。この話は五郎太夫に心願があつて、天狗になつたものと解せられるが、天狗にならうとした動機、天狗になつてからの消息は、一通の書狀の外、何もわからない。

[やぶちゃん注:これは「耳囊」の「卷之十 天狗になりしといふ奇談の事」である。私の電子テクスト訳注でお楽しみあれ。]

 永祿頃の話といふから少し古いが、川越喜多院の住持が天狗になつて、妙義山中に飛び去つた。代代の住職の墓の中に、この住持の墓だけないといふ話がある。この住持が天狗になつた時、使はれてゐた小僧も天狗となり、同じやうに飛立つたが、まだ修行が足りなかつたのであらう、庭前に墜ちて死んだ。その小僧は恰も味噌を摺りつゝあつたが、摺粉木を抛り出して飛び去つた。そのためかどうか、今でもこの院で味噌を摺ると、必ず何者かが摺粉木を取つて行つてしまふ。味噌を摺ることが出來ないので、槌で打つて汁にすると「甲子夜話」に書いてある。たゞこの話には、小僧の墜ちたところに小さな祠を建てたとある外、天狗になつた後日譚は何も見當らぬ。

[やぶちゃん注:「永祿」一五五八年から一五七〇年で室町末期。

「川越喜多院」現在の埼玉県川越市小仙波町(こせんばまち)にある天台宗星野山(せいやさん)喜多院。鬼となって厄病を防いだかの元三大師良源を祀り、「川越大師」の別名でも知られる。五百羅漢の石像でも有名。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「甲子夜話」の「卷之四十二」にある、川越喜多「院に味噌をすること成らず」である(原典目次は前が同じ川越喜多院の話柄であることから「同院」となっている)。以下に示す。「搨」は「する」(擂る)と読んでいる。

   *

又永祿の頃とか。喜多院の住持、天狗となりて、妙義山中の嶽と云に飛去りたりとぞ。因て住職代々の墓の中に、この住持の墓ばかりは無しとなり。又この住持の使ひし小僧も天狗となり飛立しが、庭前に墜て死す。故にその處に今小祠を建てあり。この小僧飛去る前に味噌を搨りゐたるが、搨こ木を擲捨て飛たりとぞ。その故か、今にこの院内にて味噌を搨れば、必ず物有て搨こ木を取去ると。因て味噌を搨ことならざれば、槌にて打て汁にするとぞ。是も亦何かなる者の斯くは爲る乎。

   *]

2017/02/23

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の姿」

 

 天狗の姿

 

 天狗の話は澤山あるが、明かにその姿を見た者は存外少い。山中で出會つたり、誘拐されたりした話を見ても、大體は山伏姿である。「梅翁隨筆」その他に見えた加賀國の話のやうに、たまに天狗らしい風體の者があると思へば、それは金を欲しがる贋天狗で、傘を持つて上から飛び下りることは出來るが、飛び上ることは曾てならぬといふ心細い手合であつた。

[やぶちゃん注:「梅翁隨筆」のそれは「卷之五」の「加賀にて天狗を捕へし事」である。柴田は贋天狗の笑い話なので、妖異に当たらぬものとして本文では少ししか語っていないので、ここは一つ、お慰みに、吉川弘文館随筆大成版を参考に例の仕儀で加工して示そうぞ。頭の柱「一」は除去した。オリジナルに歴史的仮名遣で読みを推定で附した。本文の「いわく」はママ。

   *

加州金澤の城下に堺尾長兵衞といふて數代の豪家(がふけ)あり。弥生(やよひ)半(なかば)の頃、まだ見ぬかたのはなを尋(たづね)んとて、手代小ものめしつれて、かなたこなたとながめけるに、ある社(やしろ)の松の森の方より羽音(はおと)高く聞えける故、あふぎ見れば天狗なり。あなおそろしやとおもふ間もなく、この者の居(ゐ)たる所へ飛來(とびきた)るにぞ、今ひき裂(さか)るゝやらんと、生(いき)たる心地もなくひれふしけるに、天狗のいわく、其方にたのみ度(たき)子細あり。別儀に非ず。今度(このたび)京都より仲ケ間(なかま)下向(げかふ)に付(つき)、饗応(きやうわう)の入用(にふよう)多き所、折ふしくり合(あは)せあしくさしつかへたり。明後日晝過(すぎ)までに金子三千兩此所(ここ)へ持參して用立(ようだつる)べしといふ。長兵衞いなといはゞ、いかなるうきめにや逢(あは)んと思ひて、かしこまり候よし答へければ、早速(さつそく)承知(しやうち)過分なり。しからばいよいよ明後日此處(ここ)にて相待(あひまつ)べし。もし約束違(たが)ふことあらば、其方(そのはう)は申(まうす)に及ばず、一家のものども八裂(やつざき)にして、家藏(いへくら)ともに燒(やき)はらふべし。覺悟いたして取計(とりはから)べしといひ捨て、社壇のかたへ行(ゆき)にける。長兵衞命(いのち)をひろひし心地して、早々我家に歸り、手代どもへ此よしをはなしけるに、或は申(まうす)に任(まか)すべしといふもあり。又は大金を出す事しかるべからずといふもありて、評議まちまちなりけるに、重手代(おもてだい)のいわく、たとひ三千兩出(いだ)したりとも、身(しん)だいの障(さは)りに成(なる)ほどの事にあらず。もし約束をちがへて家藏を燒はらはれては、もの入(いり)も莫大ならん。其上(そのうへ)一家のめんめんの身の上に障る事あらば、金銀に替(かふ)べきにあらず。三千兩にて災(わざはひ)を轉じて、永く商売繁昌の守護とせんかたしかるべしと申(まうし)けるゆへ、亭主元來其(その)心なれば、大(おほい)に安堵(あんど)し、此(この)相談に一決したり。されば此(この)沙汰(さた)奉行所へ聞えて、其(その)天狗といふものこそあやしけれ。やうす見屆けからめ取(とる)べしと用意有(あり)ける。扨(さて)その日になりければ、長兵衞は麻上下(あさがみしも)を着(ちやく)し、三千金を下人に荷(にな)はせ、社の前につみ置(おき)、はるか下つて待(まち)ければ、忽然と羽音高くして天狗六人舞(まひ)さがり、善哉(よきかな)々々、なんぢ約束のごとく持參の段(だん)滿足せり。金子(きんす)は追々返濟すべし。此返禮には商ひ繁昌寿命長久うたがふ事なかれと、高らかに申(まうし)きかせ、彼(かの)金を一箱づゝ二人持(もち)して、社のうしろのかたへ入(いり)ければ、長兵衞は安堵して、早々我家へ歸りける。かくて奉行所より達し置(おき)たる捕手(とりて)のものども、物蔭に此体(てい)をみて、奇異のおもひをなしけるが、天狗の行方(ゆくへ)を見るに、谷のかたへ持行(もちゆき)ける。爰(ここ)にて考(かんがへ)みるに、まことの天狗ならば三千兩や五千兩くらひの金は、引(ひつ)つかんで飛去(とびさ)るべきに、一箱を二人持(もち)して谷のかたへ持行(もちゆく)事こそこゝろへね。此うへは天狗を生捕(いけどり)にせんとて、兼(かね)ての相圖なれば、螺貝(ほらがひ)をふき立(たつ)るとひとしく、四方より大勢寄(より)あつまり、谷のかたへ探し入(いり)、六人ながら天狗を鳥(とり)の如く生捕にして、奉行所へ引來(ひききた)れり。吟味するに鳥の羽、獸(けもの)の皮にて身をつゝみこしらへたるものにて、實の天狗にてはあらず。されば飛下(とびくだ)ることは傘(かさ)を持(もち)て下るなれば自由なれども、飛上(とびあが)る事とては曾てならずとなり。扨(さて)是(これ)をば加賀國にて天狗を生捕たるはなしは末代(まつだい)、紙代(しだい)は四文(しもん)、評判々々と午(うま)の八月江戸中をうり歩行(ありきゆき)しは、此(この)事をいふ成(なる)べし。

   *]

「甲子夜話」にあるのは深山幽谷でも何でもない、江戸は根岸の話である。千手院といふ眞言宗の寺に、大きな樅の木があつたが、朝の五ツ時(午前八時)頃、その枝間に腰をかけてゐる者がある。顏赤く鼻高く、世にいふ天狗といふ者そつくりであつた。目撃者は數人あつたといふが、あとも先もない。全く繪に畫かれたと同じ存在である。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」は全巻所持するが、探すのが面倒なので、発見し次第、追記する。悪しからず。【2018年8月9日追記:調べてみたところ、「甲子夜話卷之七十」の天狗の長い記載の最後に、「根崖」(ねぎし)で「喬木の梢に」「グヒン」(天狗のこと)のような「白首高鼻巾鈴の人」が居たのを見たという婦人の談が載るが、「千手院といふ眞言宗の寺」「樅の木」「朝の五ツ時」という記載はない。他にダブって書いているものか? 不審。】]

 そこへ往くと「雪窓夜話抄」の記載は大分特色がある。因幡國の頭巾山は昔から魔所と呼ばれ、寶積坊權現の社が山上に在つた。そこの神主田中主税重矩といふ人が、享保十一年六月十八日に登山して、神前に一七日の斷食をした。二十三日の申の刻(午後四時)時分、神前に三四間ぐらゐある大石が三つ四つ重ねてあるのにもたれ、ひとり煙草をのんでゐると、遙かな谷底より大夕立の降つて來るやうな音がする。一天雲なく、雨の降りさうな樣子もないので、風の音かと見るのに、木の葉一つ搖がうともせぬ。そのうちにもたれてゐた石の上に、ひらりと飛び下りる人影があつた。主税とは五六尺の距離だから、手に取る如く鮮かに見えたが、相對すること半時ばかり、一語も發せず、左右を見𢌞すこともなく、立つたまゝ主税をぢつと見詰めるだけである。その眼つきにも人を憎むやうなとこ

ろはない。やがて人形を絲で引上げるやうな風に、七八間も空中に騰つたが、その時仰ぎ見て、はじめて兩翼のあることがわかつた。翼は背中で合せたやうになつてゐるので、石上に立つ間は少しも見えなかつた。翼は背中で左右にひろがり、前の方へ俯向いたかと思ふと、隼落しに谷底へ落ち込んだ。その時にも大夕立のやうな羽音が聞えたさうである。

[やぶちゃん注:「因幡國の頭巾山」「ときんやま」で、鳥取県鳥取市にある三角山(みすみやま:「三隅山」とも書く)の別名。「襟巾山」とも書き、「とっきんざん」とも読む。標高五百十六メートル。山頂には三角山神社がある。

「寶積坊權現」「ほうしゃくぼうごんげん」(現代仮名遣)と読むと思われる。ウィキの「三角によれば、『三角山は、古くは「滝社峰錫(ほうしゃく)権現(峰錫坊権現、峯先錫坊権現)」といい、山岳信仰・修験道の修行地で、江戸時代には鳥取藩の祈願所が置かれていた』。『山域は太平洋戦争前までは女人禁制で、麓には垢離場や女人堂が残されている』。『このため用瀬では山や神社を「峰錫さん」とも呼ぶ』。『祭神は猿田彦大神である』とあり、この「峰錫(ほうしゃく)」は「寶積」と音通であるからである。また、猿田彦神はしばしば天狗の形象と相似する点でも親和性が強いと言える。

「田中主税重矩」「たなかちからしげのり」の読んでおく。

「享保十一年」一七二六年。

「三四間」五メートル半から七メートル強。

「五六尺」一・五~一・八メートル。

「半時」約一時間。

「七八間」十二メートル半強から十四メートル半ほど。

 ここ以下の話は「雪窓夜話抄」の「卷下」の「卷六」巻頭にある「因州頭巾山に天狗の飛行(ひぎやう)を見る事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のから視認出来る。]

 この時主税の見た姿は、面體などは常の人に變らず、一尺二三寸もあらうといふ長い顏で、五月幟に畫いた辨慶のやうな太い目鼻であつたが、殊に口の大きいのが目に付いた。眼光はぎらぎらして凄まじく、目と目を見合せることは困難であつた。筋骨逞しく赤黑く、髮は縮んで赤い。木の葉のやうなものを綴つて身に纏つてゐたとおぼしく、それが膝頭まで垂れてゐた。自分の心は常よりしつかりしてゐて、別に恐ろしいとは思はなかつたが、五體は全くすくんで手も足も動かぬ。既に空中に飛び上り、眞逆樣に谷へ落ち込んだと思つたら、はじめて夜の明けた心持になり、手足も縛られた繩を解かれた如く自由になつた。こゝに至つて漸く、只今目のあたり拜んだのが寶積坊であつたらうと考へ及んだ、といふことであつた。

[やぶちゃん注:「一尺二三寸」三十七~三十九センチメートル。]

 主税が頭巾山の頂上で一七日斷食をすると聞いて、その安否を氣遣ひ、わざわざ登山した醫者があつた。恰も天狗の姿を見た日の五ツ(午後八時)頃、主税が大きな洞穴に引籠つて、火を焚いてゐるところへやつて來たので、今日の話などをしてゐると、夜半頃になつて、また谷の方から大きな羽音が聞えて來た。今度は晝の經驗があるので、思はず身の毛よだち、身を詰めて二人とも洞中に屈伏してゐたが、この時は地には下りず、遙か空中を翔り過ぎた。數百疋の狼が聲を合せたやうな、大きな聲で咆哮し、空中を通る時、山に響き谷に應(こた)へ、大地も震ふばかりであつたけれども、少しの間でそれもやみ、山は閑寂たる狀態に還つた。一日に二度不思議を見聞したわけである。

[やぶちゃん注:先のリンク先を見て貰うと判るが、原典では医師の来訪の前の部分に別の伝聞が挿入されており、しかもその直後に『(中畧)』とあって医師来訪後の夜の話があるから、原話はもっともっと長いことが判るのである。]

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗と杣」

 

 天狗と杣 

 

 山城國淀の北橫大路といふ里の庄屋善左衞門の家は、裏の藪際に土藏があり、その土藏の傍に大きな銀杏樹があつた。近年大風などの際、銀杏樹の下枝が土痺の瓦を拂ひ落すことがあるので、善左衞門が仙を雇つて下枝を切り拂はせた。だんだん下から切つて行つて、三ツ又のところに到り、その太い枝を切らうとすると、俄かに陰風吹き來り、首筋を何者か摑むやうに覺えてぞつとした。仙大いに恐怖し、急に逃げ下りたが、顏色土の如く、首筋元の毛が一摑みほど拔かれてゐる。これは天狗の住まれるところを切りかゝつたためと思はれます、もう少しぐづぐづしてゐたら、命はなかつたかも知れません、と云ひ、その上の祟りを恐れて、俄かに樹木に神酒を供へ、ひたすら罪を謝した上、その日の賃錢も取らずに歸つてしまつた。三ツ又のところは、琢(みが)いたやうに淸淨になつてゐたので、如何にも神物の久しく住んでゐたものであらうと、善左衞門もこの樹を敬ふやうになつた。寬政四年四月の話である(北窓瑣談)。

[やぶちゃん注:「杣」「そま」と読む。樵(きこり)のこと。

「寛政四年」一七九二年。

 以上は「北窓瑣談」の「卷之三」に出る。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「一」は除去した。歴史的仮名遣の誤りが見られるが、ママとした。

   *

寬政四年壬子四月の事なりし。山城國淀(よど)の北橫大路(よこおほぢ)といふ里あり。其村の庄屋を善左衞門といふ。其家の裏の藪際(やぶぎは)に土藏あり。土藏の傍に大なる銀杏樹(いちやうのき)あり。近年大風などふく度に、土蔵の瓦を下枝(したえだ)にて拂ひ落しければ、善左衞門、仙(そま)をやとひ下枝を切拂はせけるに、段々下より切りもてゆきけるに、やうやう上に登り、三ツまたの所に到りて、件の三ツまたに成たる枝を切んとせしに、俄に陰風(いんふう)吹來り、杣が首筋を何やら物ありて、つかむやうに覺へて、身の毛ぞつと立ければ、杣、大いに恐れて急に迯下り見るに、首筋元(くびすじもと)の毛一つかみほど、引ぬきて、顏色土のごとくに成たり。善左衞門も怪みて何事にやといふに、杣、恐れて天狗の住給ふ所を切かゝりし故にとぞ思はる。今少しおそく下らば、一命をも失れんを、猶此上の祟(たゝり)もおそろしとて、俄に樹木に神酒(みき)を備へ、罪を謝し過(あやまち)をわびて其日の賃錢さえ取らで迯歸れり。其三ツまたの所は、甚だ淸浄にて琢(みがき)たるやうに有ける。何さま神物の久しく住ける處にやと、善左衞門も恐れて、此銀杏樹を敬しける。此事、善左衞門親類の嘉右衞門物語りき。

   *]

 

 天狗と樹木とが密接な關係を有する以上、樹を伐る杣の上に怪異が伴ふのは怪しむに足らぬ。美濃の郡上郡、武儀郡、賀茂郡、惠那郡あたりでは、はじめて山に斧を入れる時、先づ狗賓餠(ぐひんもち)といふものを拵へて山神に供へ、人々もこれを祝つて後、木を伐るので、さうしなければ種々の怪異があつて、なかなか木が伐れない、と「想山著聞奇集」にある。怪といふのも一樣でないが、多くは杣の道具を取るとか、使つてゐる斧の頭を拔き取るとかいふ類の事で、或時は山上より大木大石を落す音をさせたり、進んでは山を崩し巖を拔く勢ひを示したりする。そこで怪異の小さいうちに恐れをなし、狗賓餠を供へて神を祭り、御詫びをしてから木を伐ることになつてゐる。長い間木を伐つて𢌞る山などでは、時々狗賓餠を供へて祭り直しをしないと、木を伐ることがならぬのである。

[やぶちゃん注:「郡上郡」現在の岐阜県郡上(ぐじょう)市の大部分と下呂市の一部に相当する旧郡。

「武儀郡」「むぎぐん」と読む。旧郡。現在の美濃市全域と関市の大部分とその他で、旧郡上郡の南に接していた。

「賀茂郡」岐阜県加茂郡は現存するが、旧郡域は現在より遙かに広域で旧武儀郡の東方に接していた。

「惠那郡」旧郡。現在の岐阜県恵那(えな)市と中津川市の大部分と瑞浪(みずなみ)市の一部に加え、愛知県豊田市の一部も含まれていた。

「狗賓餠(ぐひんもち)」「狗賓」とは天狗の一種の個別呼称。ウィキの「狗賓」によれば、『狼の姿をしており、犬の口を持つとされ』た天狗の一種とする。一般的には『著名な霊山を拠点とする大天狗や小天狗に対し、狗賓は日本全国各地の名もない山奥に棲むといわれる。また大天狗や烏天狗が修験道や密教などの仏教的な性格を持つのに対し、狗賓は山岳信仰の土俗的な神に近い。天狗としての地位は最下位だが、それだけに人間の生活にとって身近な存在であり、特に山仕事をする人々は、山で木を切ったりするために狗賓と密接に交流し、狗賓の信頼を受けることが最も重要とされていた』。『狗賓は山の神の使者ともいえ、人間に山への畏怖感を与えることが第一の仕事とも考えられている。山の中で木の切り倒される音が響く怪異・天狗倒しは狗賓倒しとも呼ばれるほか、天狗笑い、天狗礫、天狗火なども狗賓の仕業といわれる。このように、山仕事をする人々の身近な存在のはずの狗賓が怪異を起こすのは、人々が自然との共存と山の神との信頼関係を続けるようにとの一種の警告といわれているが、あくまで警告のみであるため、狗賓が人間に直接的な危害を加える話は少なく、人間を地獄へ落とすような強い力も狗賓にはない』。『しかし人間にとって身近といっても、異質な存在であることは変わりなく、度が過ぎた自然破壊などで狗賓の怒りを買うと人間たちに災いを振りかかる結果になると信じられており、そうした怒りを鎮めるために岐阜県や長野県で山の神に餅を供える狗賓餅など、日本各地で天狗・狗賓に関する祭りを見ることができる』。『また、愛知県、岡山県、香川県琴平地方では、一般的な天狗の呼称として狗賓の名が用いられている』。『ちなみに広島県西部では、他の土地での低級な扱いと異なり、狗賓は天狗の中で最も位の高い存在として人々から畏怖されていた。広島市の元宇品に伝わる伝説では、狗賓は宮島の弥山に住んでいると言われ、狗賓がよく遊びに来るという元宇品の山林には、枯れた木以外は枝一本、葉っぱ一枚も取ってはならない掟があったという』とある(下線やぶちゃん)。

 以上と後の二段の内容は総て、「想山著聞奇集」の「卷之一」の「天狗の怪妙、幷(ならびに)狗賓餠の事」に拠るものである。所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻」(一九七〇年三一書房刊)挿絵とともに以下に示す。〔2017年3月11日追記:「想山著聞奇集」の電子化に伴い、本条をこちらで別個に電子化注した。当初、こちらに配した画像は、容量を食うので除去した。リンク先で見られたい。〕「武儀(むげ)郡」の読みはママ。【 】は原典の二行割注。

   *

  天狗の怪妙、狗賓餅の事

 天狗の奇怪妙變は、衆人の知恐るゝ事にて、人智の量(はか)るべきにあらねども、その種類も樣々有事としられ、國所(くにところ)によりては、所業(なすわざ)も又、色々替りたるかと思はる。爰に北美濃郡上(ぐじやう)郡・武儀(むげ)郡、東美濃賀茂(かも)郡・惠那(ゑな)郡邊の天狗は、其所業、一條ならずといへども、大概、同樣の怪をなすなり。先(まづ)、山の木を伐時に、初て斧を入る節は狗賓餅(ぐひんもち)と云を持て山神に供へ、人々も祝ひ食てのち木を伐也。然らざれば、種々の怪ありて、中々木を伐事、成難し。長く所々木を伐𢌞る山などは、折々狗賓餠をして、齋(ものい)み仕直さねば、怪有て、木を伐事ならぬと也。扨、其怪、種々にて一樣ならざれども、多くは杣道具をとり、又、遣ひ居る斧の頭を拔取、或は山上より大木大石を落す音をさせ、甚敷時は、山をも崩し巖をも拔の勢を爲故、小怪の内に甚恐れをなし、直(ぢき)に狗賓餠をして神を祭り、厚く詫を乞て木を伐る事也。或時、濃州武儀郡志津野村の【中山道鵜沼宿より三里許北の方】村續きの平山を伐たり。是は山と云程の所にもなく、殊に古樹の覆ひ繁りたる森林(もりはやし)にもなく、村續きの小松林の平山にて、中々天狗など住べき所とは、誰人も思はざるゆゑ、かの狗賓餠をもせずして、木を伐るとて、杣ども寄合て伐初ると、皆、振上る斧の頭をとられたり。それ天狗出たりとて、道具を見れば、悉く失せたり。是にては、中々けふは仕事ならず、いざ狗賓餠をなすべしとて、おのが家々に歸(かへ)り、支度して餠を拵へ、山神を祭りて詫をなし、やがて道具を得て、翌日より無事に木を伐たりと。一年(ひとゝし)此村のよし松と云ものを、予が下男となして聞しる所也。木を伐居たるとき、斧を振上て木へ打付る間に、聊も手ごたへなくして、頭(かしら)なくなり、柄斗(ばかり)となるを知ずして、木へ打付て後、始て頭をとられし事をしるなり。不思議と云も餘り有る事也。其時は、杣道具も、いつの間にか取れて失(うせ)ぬるなり。しかれども、狗賓餠をしてわびぬれば、失たる道具も、いつとなく、元の所へ戾し置ことなりとぞ。其邊にては、か樣の怪異も常の事故、さして不審とはせざれども、餘國の人の見聞く時は奇怪なる事也。

[やぶちゃん注:以下の一段落分は底本では全体が二字下げ。]

狗賓餠を行ふ時は、先村内(むらうち)にふれて、けふは狗賓餠をするに來れといへば、老少男女大勢山に集りて、さて飯を强(こは)く焚き、それを握り飯となして串に貫き、能(よく)燒て味噌を附け、先(まづ)初穗を五つ六つ木の葉などに盛り、淸き所に供へ置て、其後各心の儘に飽まで喰ひぬる事となり。甚だ旨き物なれど、此餠を拵ると天狗集り來るとて、村内の家屋にては一切拵へざると也。同國苗木邊にては是を山小屋餠と云て大燒飯となす也。又、小くも拵て串に貫き燒たるをごへい餅と云り。【御幣餠の意か辨へずと云り】國所(くにところ)によりて、製し方も名付方も變るべし。是古に云粢餠(しとぎ)の事(こと)にて、今も江戶近在の山方にては粢餠と云とぞ。

 又文政七八年の事なるが、苗木領の二ツ森【城下より西北二里程の所】の木を伐出す迚、十月七日に山入してごへい餠を拵しが、山神へ供る事を忘れて皆々食盡したり。さて夜(よ)に入(い)ると大木を伐懸る音して一山荒出せし故、漸と心附、早々餠を拵、詫入て無事にて濟たる事あり。夫より以來は右邊にては、わけて意(こゝろ)を込て大切に供る事と、苗木侯の山奉行何某の咄なり。

 又、越後の國蒲原(かんばら)郡・磐船(いはふね)郡の杣人に聞に、山に入て木を伐る時、其一枝を折、異なる所に差て、是を祭らざれば、大木などには、殊に其祟有由なり。又、越後の國・出羽の國などにては、杣人にても狩人にても、山に入時は、鮝魚と云魚を懷中して入なり。大木を伐に難儀なる時、是を供れば、難なく安く伐得。又、狩人も終日狩て得物なき時は、山の神へ祈請して、鮝魚の頭を少し見せかけて、獸を得せしめ給ふて、感應あらせ給はゞ、全形を見せ參らせんと祈る也。しかする時は、速かに感應有事とぞ。されども、中々輙(たやすく)は行はぬことにて、其究る時ならざれば、感應もなしと云り。

   *

これは私には非常に興味深い話である。天狗どころか、所謂、山の神信仰の古形がはっきりと保存されている記載だからである。なお、幾つか語注をしたい。

・「武儀郡志津野村」現在の岐阜県関市志津野(しつの)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「鵜沼宿」現在の岐阜県各務原市鵜沼附近。(グーグル・マップ・データ)。志津野の南。

・「苗木」現在の岐阜県中津川市苗木(なえぎ)。美濃苗木藩は美濃国恵那郡の一部と加茂郡の一部を領有していた、江戸時代最小の城持ちの藩であった。(グーグル・マップ・データ)。

・「粢餠(しとぎ)」「しとぎ」はここでは二字へのルビである。「しとぎ」は「糈」とも書き、水に浸した生米(粳(うるち)米)を搗き砕き、種々の形に固めた食物で、神饌に用いるが、古代の米食法の一種とも謂われ、後世では糯(もち)米を蒸して少し搗いたところで卵形に丸めたもの指すようになった。

・「文政七八年」文政七年は一八二四年。

・「苗木領の二ツ森」前の前のグーグル・マップ・データを参照。同地区外の北西に「二ツ森山」を確認出来る。

・「越後の國蒲原郡」新潟県の旧郡。現行の多数の市域等を含む広域なのでウィキの「蒲原郡を参照されたい。

・「磐船郡」新潟県に「岩船郡」として現存する。現在は関川(せきかわ)村と粟島浦(あわしまうら)村の二村のみであるが、旧郡域は現在の村上市を含む新潟県の最北端に位置していた郡である。ウィキの「岩船郡を参照されたい。

・「苗木侯」藩主遠山氏。江戸時代を通じて、ほぼ財政窮乏が続いた。「文政七八年」当時は第十一代藩主遠山友寿(ともひさ 天明六(一七八七)年~天保九(一八三九)年)。

・「鮝魚」これで「をこぜ(おこぜ)」と読む。生物種としては、条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目オニオコゼ科(フサカサゴ)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus を指し、「オニオコゼ」には「鬼鰧」「鬼虎魚」の漢字を当てたりする。別に「ヤマノカミ」という俗称を持つが、これは古くから本種の干物を山の神への供物にする風習があったことに由来する。伝承によれば、女神である「山の神」は不器量で、しかも嫉妬深いとされたことから、醜悪な「おこぜ/おにおこぜ」の面(つら)を見ると、安心して静まり、山の恵みを与えて呉れるとされ、現在でもこれを祭る儀式は山間部や林業職に関わる人々の間で今なお保存され続けている(なお、同種は背鰭の棘条が鋭く、しかも毒腺を持っているので取扱いには注意を有する)。これについては私の古い電子テクスト、方熊楠の「山神オコゼ魚を好むということ」(明治四四(一九一一)年二月発行の『東京人類学会雑誌』初出)を読まれたい。【二〇二二年五月五日追記】ブログ版の正規表現で新補注を附した決定版『「南方隨筆」版 南方熊楠「俗傳」パート/山神「オコゼ」魚を好むと云ふ事」』を、昨日、公開したので、そちらを必ず見られたい。

 

 或時武儀郡志津野村の村續きにある平山を伐つたが、これは山といふほどのところでもなし、小松林の平山で、誰しも天狗の住みさうなところとは思はぬので、狗賓餠もせずに伐りはじめた。やゝあつて氣が付くと、振上げる斧の頭がない。さてこそ天狗が出たと、道具を見ると皆なくなつてゐる。これでは到底今日は仕事が出來ぬといふので、家へ歸つて狗賓餠を拵へ、山神を祭つて詫びをしたら、なくなつた道具もどこからか出て來て、翌日は無事に伐木を了へた。或男の如きは、いくら斧を振上げても手ごたへがない。柄ばかりになつてゐるのを知らずに、木へ打付けてはじめて頭を取られたことを知つた、といふやうな話もある。

 狗賓餠といふのは飯を强(こは)く焚き、握り飯にしたのを串に貫き、よく燒いて味噌を付けるので、その初穗を五つ六つ木の葉に盛つて淸淨なところに供へ、然る後皆集まつて食ふ。甚だ旨いものであるが、この餠を拵へると天狗が集まつて來るといふので、村内の家屋では一切拵へぬことになつてゐる。ところによつて山小屋餠といひ、小さく拵へて串に貫き燒いたのを御幣餠といふ。文政七八年頃、苗木領の二ツ森山の木を伐り出した時は、山入りして御幣餠を拵へたが、山神に供へるのを忘れて、皆で食ひ盡してしまつた。夜に入ると大木を伐りかゝる音がして、一山が荒れ出したから、漸く氣が付き、匆々に餠を拵へて詫びたなどといふ話もある。

   天狗住んで斧入らしめず木の茂り 子規

といふ句は、諸國に傳はるかういふ話を考慮に入れて解すべきものと思ふ。

[やぶちゃん注:子規の句は明治三五(一九〇二)年の作で、民俗を詠んで面白くはあるものの、句としてはそれほどともとれぬのだが、これ、「病牀六尺」に記された結果、人口に膾炙してしまったものと言えよう(私もそれで覚えていた)。同書の「八十五」章である。全文を引いて、注の〆と致す。底本は岩波文庫版の一九八四年改版を恣意的に正字化して示した(読みは一箇所を除いて除去した)。句の前後を一行空けた。

   *

○この頃茂りといふ題にて俳句二十首ばかり作りて碧虛兩氏に示す。碧梧桐は

     天狗住んで斧入らしめず木の茂り

の句善しといひ虛子は

     柱にもならで茂りぬ五百年

の句善しといふ。しかも前者は虛子これを取らず後者は碧梧桐これを取らず。

     植木屋は來らず庭の茂りかな

の句に至りては二子共に可なりといふ。運座の時無造作にして意義淺く分りやすき句が常に多數の選に入る如く、今二子が植木屋の句において意見合したるはこの句の無造作なるに因るならん。その後百合の句を二子に示して評を乞ひしに碧梧桐は

     用ありて在所へ行けば百合の花

の句を取り、虛子は

     姬百合やあまり短き筒の中

の句を取る。しかして碧梧桐後者を取らず虛子前者を取らず。

     畑もあり百合など咲いて島ゆたか

の句は餘が苦辛(くしん)の末に成りたる物、碧梧桐はこれを百合十句中の第一となす。いまだ虛子の說を聞かず。贊否を知らず。

   *

因みに、私は敢えて選ぶとすれば、「姬百合やあまり短き筒の中」を善しとする者である。]

柴田宵曲 妖異博物館 「秋葉山三尺坊」

 

 秋葉山三尺坊

 

 秋葉の三尺坊の天狗咄は、西鶴の「好色一代女」(貞享三年)に出てゐるが、それは人の噂に過ぎなかつた。「一代女」より三年後の「本朝故事因緣集」(元祿二年)にも「遠州秋葉山三尺坊奇瑞」といふ話が書いてある。近頃この山の麓で大鐡砲を放つた者があり、その昔と同時に虛空に飛び上り、片時の間に信州諏訪の衣ガ崎に行つて居つた。これが天狗の仕業なので、汝は大鐡砲を放つてわしの眠りを驚かしたが、その罪は赦してやる、これから富士を見せよう、と云つたと思へば、忽ちに頂上に登り、田子の浦を眺めてもとの所へ歸つて來た。こゝで空から墮されたけれど、何の怪我もなかつたといふのである。秋葉山の靈異はかなり廣く傳播されたものであらう。鳥取の人の手に成つた「雪窓夜話抄」なども、いろいろ委しい消息を傳へてゐる。

[やぶちゃん注:「秋葉山三尺坊」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家にある秋葉山(あきはさん:赤石山脈南端・標高八百六十六メートル。ここ(グーグル・マップ・データ))の、火防(ひぶせ)の神である「秋葉大権現」という山岳信仰と修験道が融合した神仏習合神の別称。但し、明治の廃仏毀釈によって秋葉山本宮秋葉神社と秋葉寺に分離したが、後者は明治六(一八七三)年)に廃寺となり、現在、その仏像仏具類は本寺であった現在の静岡県袋井市久能にある「可睡斎(かすいさい)」に移され、「三尺坊」の神像もそこに現存する。現在、静岡県浜松市天竜区春野町に秋葉三尺坊大権現を祀る秋葉山(しゅうようざん)秋葉寺という寺があるが、これは明治一六(一八八三)年に再建されたものである。詳しくは、参考にさせて戴いた「ぞえじい」氏のサイト「ぞえじいの福々巡り」の「秋葉山 秋葉寺(三尺坊)」「可睡齋」の記載や、個人ブログ「神が宿るところ」の「秋葉山総本山 秋葉寺(三尺坊)」を参照されたい。なお、後者のブログ記載によれば、『「秋葉大権現」が「三尺坊大権現」という天狗として認識されるようになったのは、次のような伝承による。即ち、三尺坊は』、宝亀九(七七八)年、『信濃国・戸隠(現・長野県長野市)生まれで、母が観音菩薩を念じて懐胎し、観音の生まれ変わりといわれた神童だったという。長じて、越後国・栃尾(現・新潟県長岡市)の蔵王権現堂で修行し、僧となった。「三尺坊」というのは、長岡蔵王権現堂の子院』十二坊の内の一つで、その名を取ったものであり、『ある日、不動三昧の法を修し、満願の日、焼香の火炎の中に仏教の守護神である迦楼羅天を感得し、その身に翼が生えて飛行自在の神通力を得た。そして、白狐に乗って飛行し、遠江国秋葉山のこの地に降りて鎮座したとされる』。『現在も頒布されている秋葉山の火防札には「三尺坊大権現」の姿が描かれているが、猛禽類のような大きな翼が生え、右手に剣、左手に索を持ち、白狐の上に立っている姿である。火炎を背負い、身体は不動明王のようだが、口は鳥のような嘴になっている。これは、もともとインド神話の鳥神ガルーダが仏教に取り入れられた迦楼羅天』(かるらてん:八部衆・後の二十八部衆の一つ。)『の姿に、不動明王を合わせ、更に白狐に乗るところは荼枳尼天の形が取り入れられているようだ。実は、この姿は、信濃国飯縄山の「飯縄権現(飯縄大明神)」とほぼ同じである。「飯縄権現」は、飯縄智羅天狗とも呼ばれ、日本で第』三『位の天狗(「愛宕山太郎坊」(京都府)、「比良山次郎坊」(滋賀県)に次いで「飯縄山飯縄三郎」とも呼ばれる。)とされる。こうしたこともあり、「三尺坊大権現」は、その出自や修行地からして、戸隠や白山などの修験者の影響が強いようだ。そうすると、火難避けの神様としての秋葉山信仰は、古くても中世以降、民衆レベルでは江戸時代以降なのではないかと思われる。江戸時代には、資金を積み立てて交代で参拝する秋葉講が盛んに組織された』とある。

『西鶴の「好色一代女」(貞享三年)に出てゐる』「貞享三年」は一六八六年。これは同作の「卷三」巻頭の「町人腰元」の冒頭、

   *

十九土用とて人皆しのぎかね。夏なき國もがな汗かゝぬ里もありやと。いうて叶はぬ處へ鉦女鉢を打鳴し。添輿したる人さのみ愁にも沈まず跡取らしき者も見えず。町衆はふしやうの袴肩衣を着て珠數は手に持ながら掛目安の談合。あるは又米の相場三尺坊の天狗咄し若い人は跡にさがりて。遊山茶屋の献立禮場よりすぐに惡所落の内談それよりすゑずゑは棚借の者と見えて。うら付の上に麻の袴を着るも有。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *

を指すのであろう。

『「本朝故事因緣集」(元祿二年)』「元祿二年」は一六八九年。「遠州秋葉山三尺坊奇瑞」は同書「卷之二」のそれ。「国文学研究資料館」公式サイト内のここの画像で読める。

「雪窓夜話抄」のそれは同「下卷」の「遠洲秋葉山靈異の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。読まれれば判るが、次段の内容がそれである。]

 寛延年間の話らしい。紀州から御代參として、長谷川右近といふ物頭(ものがしら)が登山した。前夜は山下の在家に止宿するのであつたが、この山中に雉子が澤山居ると聞いて、それを料理して出すやうに命じた。それは御登山以後になされた方がよろしうございませう、當山は餘所とは異り、いろいろ怪異のある山ですから、今夜は御精進なされた方が御爲であると存じます、と亭主はしきりに止めたけれど、橫紙破りの右近は聞き入れない。本人ならば精進すべきであらうが、拙者は代參であるから、その必要はない、三尺坊は神である、魚鳥を食ふ者を忌み嫌ふ理由はない筈だ、と云ひ張るので、云ふなりに料理して出し、主從十六人、したゝかに食べた。然るに翌日登山すると、八九分通り上つたところで、一天雲霧が覆ひかゝり、一寸先も見えなくなつた。一同居すくみといふものになつて、生きた心地もなかつたが、十六人悉く山上から投げ落された。暫くたつて雲霧は晴れ、夜の明けたやうになる。人人目を開いてあたりを見廻せば、誰も怪我した者はなく、秋葉山の絶頂から五六里も麓に寢て居つた。どうしてこゝへ來たものか、前後不覺で更にわからぬ。この怪異に恐れて、再び登山する勇氣を失つたが、代參として參詣した以上、登山しないでは歸られず、秋葉寺の役僧に内談して、紀州より持參した神柄の物を供へ、例の如く符守を頂戴して歸國したいと賴んだ。寺の方では、未だ登山せぬ人に符守などを進ずることは出來ないと斷つたけれど、この御禮には一たび紀州に歸つた上、必ずまた引返して登山し、神前に於て懺悔する、と云つたので、何しろ歷々の士の死活に關する事であるから、符守を取り揃へて渡すことになつた。右近は本國に歸つて、御代參の次第を申上げ、自分宿願ある由を以て御暇を願ひ、一日もその足を休めずに引返して、秋葉に參詣したさうである。

[やぶちゃん注:「寛延年間の話らしい」先に示した「雪窓夜話抄」の原文を見ると、『今年(寶曆三年)より五六年には過ざる事なり』とあるから、数えでの謂いと考えると、宝暦三(一七五三)年から四、五年前は寛延元年・延享五(一七四八)年か寛延二年となるも、「過ぎざる」と言うのだから、柴田の寛延年間は正しい謂いとなる。

「物頭」武頭(ぶがしら)とも称し、弓組・鉄砲組などを統率する長を指す。

「符守」「ふしゆ」は「神符守札(しんぷしゅれい)」の略。神社等で出す護符、御守りの御札のこと。]

 秋葉山の靈異に就いてはいろいろな話があつて、西國方の大名から代參として登山した足輕などは、道中で身持の惡い事があつたと見え、權現に攫まれて行方不明になつた。その男は引裂かれ、大木の松の枝に久しく懸つてゐたさうである。この話を聞かされた岩越分四郎といふ人が、自分は精進潔齋の心持で來たから、何の障礙もあるまいと思ふが、薄氣味惡くなつて、竹輿を舁く者にさういふと、その御心配はありません、障りのあるなしは麓の光明山あたりで知れます、身持の惡い人を舁いて行く場合には、光明山あたりまで參るうちに、同じところを何遍もぐるぐる𢌞つたり、五町も十町も登つたと思ふのに、やはりもとのところにゐて、どうしても登山出來ません、今日は麓まで何の子細もなく、光明山も遙かに過ぎましたから、御別條はありますまい、といふことであつた。

[やぶちゃん注:「光明山」秋葉山のほぼ南、天竜川を挟んだ六・五キロメートルの位置にある山。ここ(グーグル・マップ・データ)。秋葉台権現の火伏せの霊験に対し、水難避けの神として信仰を集める(暴れ川天竜の近くなれば納得)。現在、曹洞宗金光明山光明寺(静岡県浜松市天竜区山東地内)が山麓に建つ。

「五町」約五百四十五メートル半。]

 秋葉權現は火防(ひぶせ)の神と云はれてゐるが、毎年十一月の祭日には、近國から夥しい人が集まつて通夜をする。深山の事であるから、暫くも火を離れては居られぬ。手に手に薪を持つて來て、堂上堂下の差別なく、大篝りを焚いて寒氣を凌ぎ、一夜を明すので、火の用心などといふことは少しもないに拘らず、どこにも火の燃え付くことはない。また時により曇つて小雨降る日の暮方、無數の魚が谷川に充ち滿ちて見えることがある。この時は三尺坊が遊獵にお出かけになると云つて、家々は門を鎖して用心する。はじめ秋葉の山上にほのかに火が一つともるかと思ふと、時の間に二つ三つと數が殖え、山も谷も一面の火になる。やがてその火が崩れかゝり、谷川の上から下へ、非常な迅さで翔(かけ)り去る。川端にあるものは何によらず、龍卷に卷かれたやうになくなつてしまふが、山中でこの不思議に出遭つた人は、平地に伏して目を塞いでゐれば何事もない。風雲の吹いて通るやうなもので、數萬の火は消えて、もとの闇に還ると云はれてゐる。

[やぶちゃん注:現在の秋葉神社で十二月十六日に行われている「秋葉の火まつり」の原型であろう。同神社の公式サイトの同祭の頁をリンクさせておく。]

 この秋葉の火に就いては、「耳囊」にも簡單な記載がある。山上に火が燃えて遊行し、雨などの降る時は、川に下りて水上を遊行する。土地の者はこれを天狗の川狩りと稱し、戸を鎖して愼んでゐるといふのは、「雪窓夜話抄」と變りがない。「諸國奇人談」にある大井川の天狗なども、多分秋葉山に屬するものであらう。翅の直徑六尺ばかりある大鳥の如きもの、深夜の川面に飛び來り、上り下りして魚を捕る。人音がすれば忽ち去るので、土手の陰に忍んで、ひそかに窺ふより仕方がない。これは俗にいふ木葉天狗の類だらうといふことである。

[やぶちゃん注:以上の「耳囊」のそれは「卷之三 秋葉の魔火の事」である。私の原文電子化訳注を参照されたい。

『「諸國奇人談」にある大井川の天狗』これは「諸國里人談」の誤りである。同書の「卷之二」の「木葉天狗(このはてんぐ)」のこととしか思われないからである。以下に示す。

   *

駿遠の境大井川に天狗を見る事あり。闇なる夜深更におよんで、潛に封疆塘の陰にしのびてうかゞふに、鳶のごとくなるに翅の徑り六尺ばかりある大鳥のやうなるもの、川面にあまた飛來り、上りくだりして魚をとるのけしきなり。人音すれば忽に去れり。是は俗に云術なき木の葉天狗などいふ類ならん。

   *

文中の「封疆塘」は「どてづつみ」(土手堤)と読むものと思われる。「云術なき」(じゆつなき)と読んでおく。恐らくは「特に神通力を持たない下級の」という意味と判ずる。

「六尺」一・八メートル。思うにこれは、私の好きな哲学者然とした、翼開長が一五〇~一七〇センチメートルにもなる、鳥綱ペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属アオサギ Ardea cinerea の誤認ではないかと疑うものである。]

 

2017/02/22

柴田宵曲 妖異博物館 「適藥」

 

 適藥 

 

 京の油小路二條上ル町、屛風屋長右衞門の倅長三郎、十二歲になる少年が不思議な病にかゝつた。腹に出來た腫物に口があつて、はつきりものを云ひ、食物は何によらず食ふ。あまり食ひ過ぎては如何かと云つて食はせぬと、大熱を發し、樣々に惡口する。醫師が代る代る治療を加へても、何の利き目もなかつた。病のはじめは五月中旬であつたが、七月に至り菱玄隆といふ博識の名醫に診察を乞うたところ、かういふ病人は本朝では聞いたことがない、異朝の書物に見えてゐるといふことで、先づいろいろな藥を例の口に食はせて見た。然る後、彼が厭がつて食はぬもの五七種を集めて調劑し、病人に服用させた。定めし惡口を云ふであらうが、構はず服藥をお續けなさい、と云つて飮ませて見ると、もの言ふ聲も次第に嗄れ、食物も漸く減じて來た。十日ばかりたつて、長さ一尺一寸、頭に一角のある雨龍[やぶちゃん注:「あまりよう」。]の如きものが糞門から出たのを、直ちに打ち殺した。元祿十六年の話といふことになつてゐる(新著聞集)(元祿寶永珍話)。

[やぶちゃん注:私の好きな人面疽(じんめんそ)・人面瘡(そう)物である。因みに言っておくと、しかし、私は人面疽物では手塚治虫の「ブラックジャック」の「人面瘡」以外は面白いと思った作品がない。映画の二重体物の「バスケット・ケース」などは、あまりのレベルの低さに最後は大笑いしてしまった。

「嗄れ」「しやがれ」。

「元祿寶永珍話」筆者未詳。本書は国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。以下に「新著聞集」の方の「雜事篇第十八」の「腹中に蛇を生じ言をいひて物を食ふ」を、何時もの仕儀で以下に引く(これは同書の掉尾に配されたものである)。

   *

京あぶら小路二條上ル町、屛風や長右衞門といふ者の子、長三郞とて十二歲になりし、元祿十六年五月上旬に、夥しく發熱し、中旬にいたり、腹中に腫物の口あきて、其口より、言便[やぶちゃん注:「ごんびん」。ものの言い方。]あざやかに、本人の言にしたがひて、ものをいひ、又食事、何によらずくらひけり。若食過て[やぶちゃん注:「もし、くひすぎて、」。]いかゞやとて、押へて噉[やぶちゃん注:「くは」。]さゞりければ、大熱おこり、さまざま惡口し、罵り辱しめたり。醫師、代る代る來りて、巧をつくしゝかど、何のしるしなかりしが、七月におよび、菱玄隆とて、博識の高醫、懇に見とゞけて、かゝる病人、本朝にはいまだつたへ侍らず。異朝の書典にみへ侍りしとて、種々の藥味を、件の口にくはせ試て、かれがいなみて喰はざるものを、五七種あつめ配劑し、さだめてかれ、いぶせくおもひて、いかばかり惡口せんずれ共、すこしもいとひなく服用したまへとて、本人にたてかけ吞せければ、一兩日にぜんぜんに件の口のこゑかれ、食物もやうやくに減少し、十日ばかりして、糞門より、長一尺一寸、額に角一本ありて、その形、雨龍のごとくなる者飛出しを、卽時に打殺してけり。

   *

何やらん、実在するヒト寄生虫らしいしょぼい結末については、次段の注の引用も参照されたい。]

 

 腹中に物あつて何か言ふ話は、應聲蟲と稱する。「鹽尻」の記載は殆稱右の通りで、菅玄際なる醫者が、雷丸の入つた湯藥三帖を服せしめんとするに、腹中の聲大いに拒んで、その藥用ふべからずといふ。强ひて飮ませた結果、日を經て聲嗄れ、一蟲を下す。蜥蜴(とかげ)の如くにして額に小角ありといふ。菱玄隆と菅玄際の如きは、筆寫の際に生じた誤りと見るべきであらう。

[やぶちゃん注:「應聲蟲」ウィキには「応声虫」の項がある。以下に引いておく(下線やぶちゃん)。『応声虫による症状』『があらわれた人物の説話は、中国の『朝野僉載』や『文昌雑録』、『遯斎間覧』などに記述がみられ、本草書である『本草綱目』には応声虫に効果があったとされる雷丸(らいがん)や藍(あい)の解説文中にもその存在が言及されている』。『応声虫が人体の中に入り込むと、本人は何もしゃべっていないのに腹の中から問いかけに応じた返事がかえって来るとされる。雷丸(竹に寄生するサルノコシカケ科の一種で漢方薬の一つ』(信頼出来る漢方サイトによれば、サルノコシカケ科 Polyporaceae のライガンキン Omphalia lapidescens の菌核を乾燥したものとあった)『を服用すれば効果があり、虫も体外に出るという』。『腹の中から虫が声を出すという症状を受け、中国では「自分の意見をもたず付和雷同した意見のみを言う者」を応声虫と揶揄して呼んだともいう』。『日本においても、回虫などの寄生虫のように人間の体内に棲む怪虫によって引き起こされる病気であるとされ、人間がこの病気に冒されると、高熱が』十『日間ほど続いて苦しんだ後、腹に出来物ができ、次第にそれが口のような形になる。この口は病気になった者の喋ったことを口真似するため、応声虫の名がある。喋るだけでなく食べ物も食べる。自ら食べ物を要求し、これを拒むと患者を高熱で苦しめたり、大声で悪口を叫んだりもする』。『江戸時代に記された説話集『新著聞集』や随筆『塩尻』に見られる説話では、以下のように語られている』(ここに原典を出した「新著聞集」の梗概があるが省略する)。また、「閑田次筆」には以下のような話がある。元文三(一七三八)年、『応声虫に取り憑かれているという奥丹波の女性の話を見世物小屋の業者が聞きつけ、見世物に出そうと商談に訪れた。その女性の家を訪ねたところ、女性は確かに応声虫の病気を患っているらしく、腹から声を出していた。女性の夫が言うには、寺へ参拝に行った際、腹から出る声を周囲の人々が怪しみ、とても恥ずかしい思いをしたので、見世物など到底無理とのことだった。こうして業者の思惑は外れてしまったという』。『これらの話は、実在の寄生虫である回虫を綴ったものであり、回虫が腹にいることによる異常な空腹感や、虫下しを飲んで肛門から排泄された回虫の死骸を描写したものであるとも考えられている』『が、前述のように応声虫はもともと中国に存在する説話であり、また『新著聞集』にあるものなどは中国に伝わるものに人面瘡の要素(口のようなできものが発症する点)が加わっており、中国の文献を単純に換骨奪胎し脚色しただけのものであるとする説もある』とある。

「鹽尻」江戸中期の尾張藩士で国学者であった天野信景寛文三(一六六三)年~享保一八(一七三三)年)の随筆。全千巻とも言われる一大随筆集(現存は百七十巻程)。私は所持しない。]

 

「齊諧俗談」に「遯齋閑覽」を引いてゐるのは、一人の道士の說により、本草を讀んで、その聲に應ぜざる藥を飮ませよといふことになる。雷丸に至つて遂に答へなきを見、雷丸を服せしめて癒えたとある。異朝の書物に見えてゐるといふのは、或はこれかも知れぬ。倂し「酉陽雜俎」には左の腕に出來た腫物の話がある。この腫物はいはゆる人面瘡で、ものを言ふことはなかつたが、酒を與へれば吸ひ盡し、食物も大槪のものは吞却する。名醫の言に聞いて、あらゆるものを與へてゐるうちに、貝母といふ草に逢著したら、腫物は眉を寄せ、口を閉ぢて、敢て食はうとせぬ。貝母の適藥であることを知り、この搾り汁を注いで難病を治し得た。本草を讀んで雷丸に至り答へぬなどは、いさゝか留學的知識に富み過ぎてゐる嫌ひがある。「酉陽雜俎」の記載が古いところであらう。

[やぶちゃん注:「齊諧俗談」「せいかいぞくだん」と読む。大朏東華(おおでとうか:江戸の者とする以外の未詳)著の怪異奇談集。記載は「卷之三」の「應聲蟲」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

遯齋閑覽(とんさいかんらん)に云、往古(むかし)人あり。其人、言語を發する度に、腹中にて小き聲ありて是に應ず。漸々に其聲大なり。然るに一人の道士ありて云、是(これ)應聲蟲なり。但本草を讀べし。其答ざるものを取て、是を治せとおしゆ。困て本草を讀に、雷丸に至て答へず。終に雷丸を數粒服して、すなはち愈たりと云。

   *

「遯齋閑覽」中文サイトによれば、宋代の范正敏の撰になる歴代笑話集とある。中文サイトで同書を閲覧したが、この叙述は見当たらなかった。

「酉陽雜俎」「ゆうようざっそ」(現代仮名遣)と読む。唐の段成式(八〇三年~八六三年)が撰した怪異記事を多く集録した書物。二十巻・続集十巻。八六〇年頃の成立。ここで言っているのは、以下。記事にある原文を加工させて貰い、頂戴した。

   *

許卑山人言、江左數十年前、有商人左膊上有瘡、如人面、亦無它苦。商人戲滴酒口中、其面亦赤。以物食之、凡物必食、食多覺膊内肉漲起、疑胃在其中也。或不食之、則一臂瘠焉。有善醫者、敎其歷試諸藥、金石草木悉與之。至貝母、其瘡乃聚眉閉口。商人喜曰、此藥必治也。因以小葦筒毀其口灌之、數日成痂、遂愈。

   *

「貝母」「ばいも」と読む。これは中国原産の単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属アミガサユリ(編笠百合)Fritillaria verticillata var. thunbergii の鱗茎を乾燥させた生薬の名。去痰・鎮咳・催乳・鎮痛・止血などに処方され、用いられるが、心筋を侵す作用があり、副作用として血圧低下・呼吸麻痺・中枢神経麻痺が認められ、時に呼吸数・心拍数低下を引き起こすリスクもあるので注意が必要(ここはウィキの「アミガサユリに拠った)。]

柴田宵曲 妖異博物館 「煙草の效用」

 

 煙草の效用

 

 落語の「田能久」で大蛇の化けた老人が、柿澁と煙草の脂(やに)が大嫌ひだと云つたのは、どこまで本當であるかわからぬが、煙草の脂に關する話は若干ないでもない。

[やぶちゃん注:「田能久」「たのきう(たのきゅう)」と読む。個人サイト「落語ばなし」のこちらが痒いところに手が届く優れたシノプシスと解説となっている。必見!]

 

 備後福山の家中内藤何某が、或時庭に出て來た蛇を杖で强く打つたら、そのまゝ逃れて穴に入つてしまつた。暫くたつて下男が發見して、先ほどの蛇が草の中で死んで居りますといふので、杖でそれを搔きのけようとした時、蛇は頭を擧げて煙の如きものを吹きかけた。煙は内藤の左の眼に入り、蛇は倒れて死んだが、内藤の眼は俄かに痛んで腫れ上り、熱が出て苦しんだ。已に命も危く見えたのを、煙草の脂が蛇に毒であることを思ひ出し、脂を眼に入れたら、次第に腫れが減り痛みもなくなつた。あとはたゞ眼が赤いだけであつたが、日々脂を入れることを怠らず、五六日で快癒した。翌年のその時節にまた眼が痛くなり、醫者の治療を受けてもなほらず、また脂を用ゐてなほつた。こんな話が「北窓瑣談」に出てゐる。著者は醫者だから、全くの浮說でもあるまい。一說に蛇を打つたのは助左衞門といふ人で、内藤は毒の側杖を食つたのだといふが、これはいづれでも差支へない。肝腎なのは脂が蛇毒に利くといふことだけである。

[やぶちゃん注:以上は「北窓瑣談」の「卷之四」の一節。挿絵とともに吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。冒頭の柱の「一」は除去した。

   *

Karasuhebi

 

備後福山の家中内藤何某といふ人、或時、庭に出たりしに、烏蛇(うじや)を見付たりしかば、杖もて强く打けるに、其まゝ走りて巢中に入りければ、草の上より頻りに打て尋求けれども、つひに見失ひぬ。暫程へて奴僕見當りて、草中に蛇死し居れりと告しかば、内藤出て、杖もてかきのけんとしける時、其蛇、頭をあげ内藤に向ひ、烟草(たばこ)の煙のごときものを吹かけゝるが、其烟、内藤が左の目に當りて、蛇は其まゝ倒れ死しける。内藤が眼、俄に痛てはれあがり、寒熱(かんねつ)出て苦惱言んかたなし。既に命も失ふべく見えし程に、内藤、煙草のやにの蛇に毒なることを思ひ出して、煙管のやにを眼中に入れしに、漸々に腫消し痛みやはらぎて、一日中に苦惱退き、眼赤きばかりなりしかば、日々にやにを入れたるに、五六日して全く癒たり。其翌年、其時節又眼(め)痛(いたみ)出したるに、色々の眼科醫(めいしや)の治療を施しけれども癒(いえ)ざりしかば、蛇毒の事を思ひ出し、又煙管のやにを入れしに、忽ち癒たり。二三年も其時節には、必眼目痛ければ、いつも其後はやにを入れて癒ぬ。此事、村上彥峻(げんしゆん)物語なりき。又云、蛇(じや)を打し人は助左衞門と云人にて、毒に當りし人は、其庭に居合せし内藤なりとぞ。

   *

「烏蛇」一般にかく古くから呼び慣わす(訓で「からすへび」)のは無毒の有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属シマヘビ Elaphe quadrivirgata  の黒変個体である。]

 

 上總の鹿野山では時々人が行方不明になることがあつた。狒々(ひひ)といふ獸の所爲だと云はれ、人々恐怖するものの、往來に避けられぬ道なので、やはり通らざるを得ない。寬政三年の夏、或村の商人が煙草を一駄買つて、この麓を通り過ぎた時、俄かに山鳴りがしたので、何事かと見上げたところ、恐ろしい蟒(うはばみ)が山から出て、この人を目がけて迫つて來る。一所懸命に逃げ出したけれど、到底蟒の速力にはかなはぬ。路傍の木に大きなうつろがあつたので、急いで逃げ込まうとすると、已に追ひ迫つた蟒がうしろから一吞みにしようとする。辛うじて頭を突込んだだけで、足はまだ外に在つたが、蟒は大口をあけ、背に負つた煙草の荷を一口に吞み去つた。商人は暫くうつろの中に小さくなつてゐるうち、物音もしづまつたやうだから、恐る恐る這ひ出して、跡をも見ずに逃げて歸つた。年頃人を取つたのは、狒々ではなしにこの蟒であつたかと、人々怖毛(おぞけ)をふるつたところ、それから日數を經て、この山を通つた人が、谷間に大きな蟒の死んでゐるのを見出した。已に死骸は腐爛しかけてゐたけれど、頭は例によつて四斗樽ほどあつたから、「その丈もおもひやるべし」とある。煙草は蛇に大毒だから、商人の荷を吞んだため、その毒に中つたものだらうといふ評判であつた(譚海)。

[やぶちゃん注:「上總の鹿野山」これで「鹿野山(かのうざん)」と読む。現在の千葉県君津市にある、千葉県では二番目に高く、上総地方では最高峰である。ここ(グーグル・マップ・データ)。三峰から成り、白鳥峰(しらとりみね)(東峰)が最高標高で三百七十九メートルある。

「寬政三年」一七九一年。

「一駄」「駄」は助数詞で馬一頭に負わせる荷物の量を「一駄」として、その数量を数えるのに用いた。江戸時代には「一駄」は「三十六貫」(約百三十五キロ)を定量としたが、ここではちょっと重過ぎる。有意に大きな背負い荷物分ぐらいな意味にとっておく。

 以上は「譚海」の「卷之七」の冒頭にある「上總鹿納山(かなうやま)うはゞみの事」である(「鹿納山」はママ)。以下に示す。読みは私のオリジナル。

   *

○上總の加納山には、人(ひと)とり有(あり)て每年人うする事(こと)有。ひゝといふけだ物の所爲(しよゐ)ななどいひ傳へて、人々恐るれども、往來によけぬ道なれば、人のとほる所なり。寛政三年の夏、ある村の商人、たばこを壹駄買(かひ)得て、背に負て麓を退けるに、夥(おびただ)しく山鳴りければ、何事ぞと見あげたるに、すさまじきうはばみ、山のかたより出て、此人をめがけて追來(おひきた)りければ、おそろしきにいちあしを出(いだ)してにげけれども、うはばみやがて追(おひ)かゝりてせまりければ、今はかなはじとおもひて、かたへの木の大成(だいなる)うつろの有けるに、にげ入らんとするに、うはばみ追付(おひつき)てのまんとす。其人ははふはふうろたへかしらさし入(いれ)たれど、足はまだ外に有けるに、此うはばみ大口(おほぐち)をあきて、負(おひ)たるたばこ荷(に)を一口にのみてさりにけり。商人(あきんど)久しくうつろのうちにありて聞(きく)に、やうやう物の音しつまりければ、をづをづはひ出(いで)て跡も見ずはしり歸りつゝ、しかじかの事、あやうき命ひろひつなどかたるに、さればとし頃(ごろ)人とりのあるは、此うはばみ成(なり)けりなど、人々もおのゝき物がたりあひしに、日ごろ經(へ)てある人此(この)山を過(すぎ)たるに、大成(なる)うはばみ谷あひに死してあるを見て、驚きはしりかへりて人に告(つげ)ければ、みなうちぐして行(ゆき)て見るに、はやう死(しに)たる事としられて、體もやうやうくちそこなひ、くさき香(か)鼻をうちてよりつくべうもなし。かしらは四斗樽ほど有けるとぞ、其丈(たけ)もおもひやるべし。さればたばこ蛇のたぐひにきわめて毒なるものなれば、此うはばみたばこの荷をのみたるに、あたりて死たる成(なる)べしといへり、めづらしき事に人いひあへり。

   *]

 

 まことに十坂峠の老蟒われを欺かずである。それほど毒な煙草の荷を一口に吞却したところを見れば、この蟒も大分あわてたか、然らずんばいさゝか空腹だつたに相違ない。この話は數多い日本の蟒ばなしの中で、最もユーモアに富んだものの一つで、前半が恐ろしさうなだけ、後年に轉化の妙がある。少し工夫して見たら、落語にしても「田能久」に對抗することが出來るかも知れぬ。

小穴隆一「鯨のお詣り」(93)「後記」 /「鯨のお詣り」~了

 

 後記

 

「鯨のお詣りは如何した鯨も隨分ながい晝寢だなあ」。「お詣りの道中はなかなかながいですねえ。」と、人々が笑へば、自分も笑つてゐた。その間に、ここまる一年の月日がたつてしまつてゐた。一年の月日が自分に窮餘の一策を教へた。自分は一策を得た。それで「この九月には、いよいよ鯨をお詣りさせてしまひせせう。」といふ橋本政德君の言に同感の意を表することとした。窮餘の一策、それは、この本の扉の文字を松下英麿君に書いて貰ふことにあつあ。松下君の筆を煩はしたのは、同君が、この本を出版しようと言ひ出した中公論社内の發願人であらう、それに對しての愛想ではない。日頃、豪快に飮み、帋縑と見るや、則ち墨塗りの至藝を發揮するといふ噂のある同君の藝當に執着してしまつてゐるからである。

[やぶちゃん注:「橋本政德」不詳。中央公論社の編集者か。

「松下英麿」(明治四〇(一九〇七)年~平成二(一九九〇)年)編集者で美術研究家。長野県生まれ。早稲田大学英文科卒業後、中央公論社に入社、本書刊行の昭和一五(一九四〇)年からは『中央公論』編集部長を務めた。

「帋縑」「シケン」と音読みする。「帋」は「紙」に同じで、「縑」は訓「かとり」(「固織(かたお)り」の音変化)で、「目を緻密固く織った平織りの絹布」、「かとりぎぬ」のことで、要は墨書・揮毫し得るものという謂いであろう。]

 文字や表紙等の板の彫りには伊上次郎君を煩はした。次郎君は、拙い自分の畫を生かして彫つてくれてゐた、故伊上凡骨の息子である。たとへば、芥川龍之介之介の黃雀風の表紙、あの當時の凡骨の彫師としての氣合ひは、今日では感謝の種である。

[やぶちゃん注:「伊上凡骨」「いがみぼんこつ」と読む。木版画彫師。本名は純蔵。徳島県生まれで、浮世絵版画の彫師大倉半兵衛の弟子。明治時代に於ける新聞・雑誌の挿絵は原画の複製木版画であったが、凡骨は洋画の筆触・質感を彫刀で巧みに表現し、名摺師の西村熊吉の協力を得て、美事な複製版画を作った(以上は「百科事典マイペディア」に拠った)。Kozokotani氏のブログ『「北方人」日記』の記事によれば、「伊上次郎」は実際には実子ではなく養子で、後に二代目「凡骨」を継いだらしい。]

 見返しには父の生家の林泉圖を複製して用ゐた。安政二卯年調であるから、亡父誕生十年前の林泉である。

 

  昭和十五年夏       小穴 隆一

 

 

[やぶちゃん注:以下に奥付を画像で示す。]

 

Kujiranoomairiokuduke



小穴隆一「鯨のお詣り」(92)「一游亭句集」(4)「田端」 /「鯨のお詣り」本文~了

 

 田端

 

 

 からたちの芽やいつしかにつくし草

 

 からたちは玉(たま)となるかや梅雨ぐもり

 

   一昔たちて大阪に人を訪ぬ

 白壁(しらかべ)はまぼし小皿(こざら)のわらびもち

 

 食(を)すも旅わらびもちなとひるさがり

 

   靑梅にて二句

    壜の中の皆二匹づゝなれば、どれが

   雌か雄かと言ひ、雌を容れておいては

   鳴かぬと言ひ切らる。

 おぞましく事(こと)たづねたり河鹿(かじか)どの

 

 旅立つや雨にぬれたる草ばうき

 

 今年の丈(たけ)のびきりつ葉鷄頭(はげいとう)

 

   雨の夜將棋盤を購ふ

 これはこれ獨り稽古の將棋盤

 

[やぶちゃん注:私は将棋の「金」「銀」の駒の動かし方も知らぬ輩であるが、恐らくは湿気を嫌う将棋板を雨の夜に買うというシチュエーションに既にして句の翳りがセットされているのではあろう。]

 

 山獨活(やまうど)を食(た)ぶる冥利の淸水(しみづ)哉

 

   東海道

 ひがん花(ばな)富士はかうべに晝の月

 

   三千院、寂光院へまゐる

 ひがん花殘りてぞあれ大原(おほはら)や

 

 白萩(しらはぎ)や目に須磨寺(すまでら)の昔かな

 

          昭和二年

 

[やぶちゃん注:クレジットは底本では二字上げ下インデントでポイント落ち。以上の以って「後記」を除いた「鯨のお詣り」の本文は終わっている。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(91)「一游亭句集」(3)「鵠沼」

 

 鵠沼

 

   卽事

 甲蟲(かぶとむし)落ちて死んだるさるすべり

 

   海濱九月

 膝ををる砂地(すなぢ)通(かよ)ふや黃(あめ)の牛

 

   二百二十日も無事にすみたるにて

 去年(こぞ)の栗ゆでてすみたるくもりかな

 

 潮騷(しほさ)ゐや鶺鴒(せきれい)なとぶ井戸の端(はた)

 

 らん竹(ちく)に鋏(はさみ)いれたる曇り哉

 

[やぶちゃん注:「らん竹」「蘭竹」であるが、これは特定の植物種ではなく、東洋文人画の蘭と竹を配したもの絵を指している。蘭・竹・菊・梅の四種の植物は、中国では古来より「四君子(しくんし)」と称され、徳・学・礼・節を備えた人のシンボルであった。蘭は〈高雅な香と気品〉を、竹は冬にも葉を落とさず青々として曲がらぬところから〈高節の士〉を指すとされた。ここはそうした絵に鋏を入れて切り裂くという画家ならではの反逆的シチュエーションと私は採る。大方の御叱正を俟つ。]

 

 ひときはにあをきは草の松林

 

 わくら葉(ば)は蝶(てふ)となりけり糸すゝき

 

 この釜(かま)は貰ひ釜(がま)なるひとり釜(がま)

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「鵠沼・鎌倉のころ」パートの「鵠沼」に参考画像として私が出したの釜であろう。]

 

   人に答へて

   鵠沼はひとり屋根にもの音をきく

 湯やたぎる凍(し)みて霜夜(しもよ)の松ぼくり

 

 夜具綿(やぐわた)は糸瓜(へちま)の棚に干しもせよ

 

   若衆二人にて栗うりをなすに

 大(おほ)つぶもまじへて栗のはしり哉

 

 うすら日(ひ)を糸瓜(へちま)かわけり井戸の端(はた)

 

 鳳仙花種をわりてぞもずのこゑ

 

 つぼ燒きのさざえならべて寒(かん)の明け

 

 足袋(たび)を干す畠(はたけ)の木にも枝のなり

 

 垣(かき)に足袋干させてわれは鄰りびと

 

 

   しちりんに手をかくること

   またあるべくもなき鵠沼を去るにのぞみ

 一冬(ひとふゆ)は竈(かまど)につめし松ぼくり

 

          大正十五年

 

[やぶちゃん注:クレジットは底本では二字上げ下インデントでポイント落ち。]

 

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(90)「一游亭句集」(2)(四句)

 

         ○

 

   小春日

 蘇鐡(そてつ)の實(み)赤きがままも店(みせ)ざらし

 

   歳暮の詞

 からたちも枯れては馬の繫(つな)がるる

 

 ゆく年やなほ身ひとつの墨すゞり

 

   アパート住ひの正月二日

 けふよりは凧(たこ)がかかれる木立(こだち)かな

 

          大正九年――大正十四年

 

[やぶちゃん注:クレジットは底本では二字上げ下インデントでポイント落ち。

 考えるに、この添えられた句数は四句、しかも「鄰の笛」と纏めて作句年代が最後にクレジットされてあるということは、この四句こそが小穴隆一が「鄰の笛」のために校正段階で芥川龍之介の句数五十句に合わせて削除した幻しの四句と断じてよかろう。妙な褒め方であるが、正しい削除である。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(89)「一游亭句集」(1)「鄰の笛」(全)~芥川龍之介との二人句集の小穴隆一分五十句全!

 

 一游亭句集

 

 

  鄰の笛

 

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介との二人(ににん)句集で大正一四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』に「芥川龍之介」の署名の龍之介の発句五十句とともに掲載されたものの小穴一游亭隆一の発句五十句である。

 芥川龍之介分の五十句は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」の「鄰の笛――大正九年より同十四年に至る年代順――」を参照されたい。近い将来、芥川龍之介のそれとこの小穴隆一のこれをカップリングした、初出「鄰の笛」の原型に近いものを電子テクスト化したいと考えている。暫くお待ちあれかし。

私は当該初出誌を所持せず、現認したこともないので断言は出来ないが、龍之介のものが「芥川龍之介」署名である以上、以下の小穴隆一分も「小穴隆一」署名と考えてよいと思う)。岩波書店旧「芥川龍之介全集」の編者の「後記」によると、文末に次の一文があるとする。

   *

後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少なくない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は畢竟これだけに盡きてゐると言つても好い。即ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以である。 芥川龍之介記

   *

なお、大正十四年七月、芥川龍之介はこの二人句集「鄰の笛」掲載について以下のような記載を残している

 七月二十七日附小穴隆一宛葉書(旧全集書簡番号一三四八書簡)では、

「冠省 僕の句は逆編年順に新しいのを先に書く事にする、君はどちらでも。僕は何年に作つたかとんとわからん。唯うろ覺えの記憶により排列するのみ。これだけ言ひ忘れし故ちよつと」

とある。続く八月五日附小穴隆一宛一三五〇書簡では、

「あのつけ句省くのは惜しいが 考へて見ると僕の立句に君の脇だけついてゐるのは君に不利な誤解を岡やき連に與へないとも限らずそれ故見合せたいと存候へばもう二句ほど發句を書いて下さい洗馬の句などにまだ佳いのがあつたと存候右當用耳」

と続き、八月十二日附小穴隆一宛一三五四書簡では、

「けふ淸書してみれば、君の句は五十四句あり、從つて四句だけ削る事となる 就いては五十四句とも改造へまはしたれば、校正の節 どれでも四句お削り下され度し。愚按ずるに大利根やもらひ紙は削りても、お蠶樣の祝ひ酒や米搗虫は保存し度し。匆々。」

最後に八月二十五日附小穴隆一宛一三五八書簡で、

「改造の廣告に君の名前出て居らず、不愉快に候。」

となって(太字やぶちゃん)、出版社関係の個人名が挙げられ、経緯と今後の対応が綴られている。[ちなみに全集類聚版ではここが八二字削除されている]。

 察するに、芥川龍之介は親友の小穴を軽く見た、『改造』編集者への強い不快感を持ったのである(それと関係があるやなしや分からぬが、翌大正十五年の『改造』の新年号の原稿を芥川は十二月十日に断っている)。以上は私が「やぶちゃん版芥川龍之介句集 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」で注した内容の一部に手を加えたものである。

 なお、その経緯の中に現われる「大利根や」は以下の、

 

大利根や霜枯れ葦の足寒ぶに

 

の句を、「もらひ紙」は、

 

よごもりにしぐるる路を貰紙

 

を、「お蠶樣の祝ひ酒」は、

 

ゆく秋やお蠶樣の祝ひ酒

 

を「米搗虫」は、

 

ゆく秋を米搗き虫のひとつかな

 

の句を指すから、当然と言えば当然乍ら、芥川龍之介の望んだ句は削除対象四句から外されていることが判る。]

 

 

   信濃洗馬にて 

 雪消(ゆきげ)する檐(のき)の雫(しづく)や夜半(よは)の山(やま)

 

 伸餅(のしもち)に足跡つけてやれ子ども

 

 雨降るや茸(たけ)のにほひの古疊(ふるだたみ)

 

 百舌鳥(もず)なくや聲(こゑ)かれがれの空曇(そらぐも)り

 

   雨日

 熟(う)れおつる蔓(つる)のほぐれて烏瓜(からすうり)

 

 けふ晴れて枝(えだ)のほそぼそ暮(くれ)の雪

 

   庚申十三夜に遲るること三日 言問の

   渡に碧童先生と遊ぶ

 身をよせて船出(ふなで)待つまののぼり月(づき)

 

[やぶちゃん注:ブラウザの不具合を考え、前書を改行した。以下、長いものでは同じ仕儀をした。以下、この注は略す。

「庚申十三夜」旧暦九月十三日の十三夜に行う月待(つきまち)の庚申(こうしん)講(庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事)。但し、ここの「庚申」とは、その定日や狭義の真の庚申講(庚申会(え))を指すのではなく、ただの夜遊びの謂いと思われる。

「言問の渡」「こととひのわたし」。浅草直近東の、現在の隅田川に架かる言問橋(ことといばし)の附近にあった渡し場。架橋以前は「竹屋の渡し」と称した渡船場があった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 薯汁(いもじる)の夜(よ)から風(かぜ)は起(た)ち曇(くも)る

 

 山鷄(やまどり)の霞網(かすみ)に罹(かゝ)る寒さ哉(かな)

 

 手拭(てぬぐひ)を腰にはさめる爐邊(ろべり)哉

 

   厠上

 木枯(こがらし)に山さへ見えぬ尿(いばり)かな

 

[やぶちゃん注:「厠上」後でルビを振っているが「しじやう(しじょう)」と読み、「厠(かわや)にて」の意。]

 

 鳥蕎麥(とりそば)に骨(ほね)もうち嚙むさむさ哉

 

 わが庭をまぎれ鷄(どり)かや殘り雪

 

   暮秋

 豆菊(まめぎく)は熨斗(のし)代(がは)りなるそば粉哉

 

 籠(かご)洗ひ招鳥(をどり)に寒き日影かな

 

[やぶちゃん注:「招鳥(をどり)」は現代仮名遣「おとり」で、「媒鳥」「囮」の字を当てる。鳥差しに於いて仲間の鳥を誘い寄せるために使う、飼い慣らしてある鳥のこと。「招き寄せる鳥」の意である「招鳥(おきとり)」が転じたものとも言われる。秋の季語である。]

 

   冬夜 信濃の俗 鳥肌を寒ぶ寒ぶと云ふ

 寒(さ)ぶ寒ぶの手を浸(ひた)したる湯垢(ゆあか)かな

 

 雉(きじ)料理(れう)る手に血もつかぬ寒さかな

 

 壜(びん)の影小窓に移す夜寒(よさむ)哉

 

 鶴の足ほそりて寒し凧(いかのぼり)

 

 大利根(とね)や霜枯(しもが)れ葦(あし)の足(あし)寒(さ)ぶに

 

 尺あまり枝もはなれて冬木立(ふゆこだち)

 

 まろまりて落つる雀の雪氣(ゆきげ)哉

 

   三の輪の梅林寺にて

 厠上(しじやう) 朝貌(あさがほ)は木にてかそけき尿(いばり)かな

 

[やぶちゃん注:「三の輪の梅林寺」現在の東京都台東区三ノ輪にある曹洞宗華嶽山梅林寺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「厠上」は電子化した通り、句上部に同ポイントで入る。但し、これは句の一部ではなく、句意を強調するために前書とせずに句頭に掲げたもので、或いは小穴隆一はポイントを小さくする予定だったものかも知れぬ。似たような用例は芭蕉の名句、

 狂句こがらしの身は竹齋(ちくさい)に似たる哉(かな)

は言うに及ばず、後の芥川龍之介の大正一五(一九二六)年九月の『驢馬』「近詠」欄初出形、

 破調(はてう) 兎(うさぎ)も片耳垂(かたみみた)るる大暑(たいしよ)かな

でも見られる。そこでは芥川龍之介は「破調」のポイントを落している。但し、後に龍之介はこれを前書に移している。]

 

   すでに冬至なり そこひの伯父は

   庭鳥の世話もづくがなければ賣つ

   ぱらふ

 餌(ゑ)こぼしを庭に殘せる寒さかな

 

[やぶちゃん注:「づくがなければ」こちらの記載によれば長野方言のようである(現代仮名遣では「づく」は「ずく」のようである)。「億劫でそれをする気が起こらない・根気がない・やる気が続かない」といった感じの意味合いを持つものと考えてよい。

「庭鳥」「にはとり」。鷄。]

 

 連れだちてまむしゆびなり苳(ふき)の薹(たう)

 

[やぶちゃん注:「まむしゆび」別名「杓文字(しゃもじ)指」とかなどと呼ばれるが、医学的には「短指症(たんししょう)」と称し、指が正常より短い形態変異を広く指す。爪の縦長が短く、幅があって、横に爪が広がっているような状態に見える。実際には手の指より足の指(特に第四指)に多く見られ、成長とともに目立つようになるという。女性に多く見られる遺伝的要因が大きいとされる先天性奇形の一種であるが、機能障害がない限り(通常は障害は認められない)は治療の対象外である。ここは蕗の薹を採るその手(兄弟の子らか)であるから、手の指、特に目立つ親指のそれかも知れぬ。一万人に一人とされるが、私は多くの教え子のそれを見ているので、確率はもっと高く、疾患としてではなく、普通の他の個体・個人差として認識すべきものと考える。]

 

   望郷

 四五日は雪もあらうが春日(はるひ)哉

 

 庭の花咲ける日永(ひなが)の駄菓子(だぐわし)哉

 

   端午興

 酒の座の坊(ぼう)やの鯉(こひ)は屋根の上

 

 桐の花山遠(とほ)のいて咲ける哉

 

 夏の夜の蟲も殺せぬ獨りかな

 

 豌豆(ゑんどう)のこぼれたさきに蟆子(ぶと)ひとつ

 

[やぶちゃん注:「蟆子(ぶと)」「蚋」(ぶゆ・ぶよ)に同じい。昆虫綱双翅(ハエ)目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidae に属するブユ類の総称。体長は標準的には二~八ミリメートルで蠅に似るものの小さい種が多い(但し、大型種もいる)。体は黒又は灰色で、はねは透明で大きい。の成虫は人畜に群がって吸血し、疼痛を与える。これ自体も(「豌豆」は夏)夏の季語である。]

 

 餝屋(かざりや)の槌音(つちおと)絶ゆる夜長かな

 

   澄江堂主人送別の句に云ふ 

    霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉

   卽ち留別の句を作す

 木枯にゆくへを賴む菅笠(すげがさ)や

 

   望郷

 山に咲く辛夷(こぶし)待つかやおぼろ月

 

 しやうぶ咲く日(ひ)のうつらうつら哉

 

 庭石も暑(あつ)うはなりぬ花あやめ

 

   長崎土産のちり紙、尋あま少なるを貰ひて

 よごもりにしぐるる路(みち)を貰紙(もらひがみ)

  

   大正十二年正月脱疽にて足を失ふ

   松葉杖をかりて少しく步行に堪ふるに

   及び一夏を相模鎌倉に送る 小町園所見

 葉を枯(か)れて蓮(はちす)と咲(さ)ける花(はな)あやめ

 

   短夜

 水盤に蚊の落ちたるぞうたてなる

 

   平野屋にて三句

 藤棚の空をかぎれをいきれかな

 

 山吹を指すや日向(ひなた)の撞木杖(しゆもくづゑ)

 

 月かげは風のもよりの太鼓かな

 

   思遠人 南米祕露の蒔淸遠藤淸兵衞に

 獨りゐて白湯(さゆ)にくつろぐ冬日暮(ふゆひぐ)れ

 

[やぶちゃん注:先行する帳」で前書にルビを振っており、「思遠人」は「ゑんじんをおもふ」で、「祕露」は「ペルー」。]

 

 しぐるるや窓に茘枝の花ばかり

 

[やぶちゃん注:「茘枝」ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis。花は(ウィキ画像)。]

 

   よき硯をひとつほしとおもふ

 ゆく秋を雨にうたせて硯やな

 

   せつぶんのまめ

 よべの豆はばかりまでのさむさかな

 

 みひとつに蚊やりうち焚く夜更けかな

 

 笹餅は河鹿(かじか)につけておくりけり

 

 

[やぶちゃん注:「河鹿」これは奇異に思われる向きもあろうが、私は断然、これは両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri であると思う。その何とも言えぬ美声を賞玩するために人に贈ったのである。これは近代まで嘗ては普通に季節の贈答として行われていたからである。]

 

 ゆく秋やお蠶樣(かひこさま)の祝ひ酒

 

 ゆく秋を米搗(こめつ)き虫(むし)のひとつかな

 

[やぶちゃん注:「虫」はママ。ここまでが「鄰の笛」の小穴隆一分全五十句である。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(88)「答人」

 

 答人

 

 童(わらべ)ありて、駱駝(らくだ)を描(ゑが)くに、

 駱駝の顏、

 まこと駱駝の顏なれど

 駱駝の足(あし)、

 駱駝の足はまこと松葉杖をつきたらむにも似つ、

 さればわれわが杖をとりて庭に出(い)で、

 首(かうべ)をのべて童にわが駱駝の足を見するかな。

 

 童あり、脱疽にて足頸(あしくび)を失へるわが脚(あし)、

 わが脚は袋(ふくろ)かむせてあれば、

 馬の首(くび)馬の首とてうち囃(はや)す。

 まこと馬の首に似つ、わが脚。

 さればわれわが片足を撫(ぶ)して立ち、

 馬首(ばしゆ)を廻(めぐら)して童に嘶(いなゝ)きてみするかな。

 

 童あり、「おまきかへ」をするわが部屋に入込(いりこ)みて、

 踵(くびす)なきわが足の創口(きりくち)を窺(のぞ)き、

 象(ぞう)の鼻(はな)象の鼻とて喜悦す。

 まことわが足は象の鼻の如くなりて癒ゆるかな。

 さればわがこころ象となりて、

 わが象の鼻をのばし、ふりたてて童に戲むる。

 

[やぶちゃん注:「答人」の標題にルビはない。謂いは「人に答ふ」であるが、「タフジン(トウジン)」と音で読ませる気かも知れぬ。

「おまきかへ」老婆心乍ら、「お卷き替へ」で切断面をカバーしている繃帯を取って交換し、巻き替えることである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(87)「秋色」

 

 秋色

 

    行く秋や身に引まとふ三布蒲團   芭蕉

 

 紅葉(もみぢ)は

 ――庭の落葉(おちば)

 桐油合羽(とおゆ)を通(とほ)したのは

 ――障子が開(あ)いてゐて吹きこんだ時雨(しぐれ)

 遠く辿(たど)つてゐた小徑(こみち)は

 

 ――廊下

 

 林の中に佇んでゐたが

 ――それは茶を汲みに這入(はい)つた茶間(ちやのま)

 さうして樹(き)の上のあの猿は

 ――如何(どう)した事か微(うす)ぐらい部屋の隅の簞笥(たんす)の上に

 日頃(ひごろ)元氣な兒(こ)がくぼまつてゐたのだ

 

[やぶちゃん注:私は本パート五篇の内、最も好きなものである。最後のシークエンスが慄っとするほど素敵だ!

 芭蕉の添え句は「韻塞(いんふたぎ)」「泊船」などに載り、服部土芳編「蕉翁句集」(=蕉翁文集一冊「風」・宝暦六(一七五六)年完成)では貞享五・元禄元(一六八八)年作とする句。「三布蒲團」(小穴はルビを振っていない)は「みのぶとん」と読み、「三幅布團」とも書く。三幅(みの:「の」は和装織物の最も一般的な幅。和服地では鯨尺九寸五分で約三十六センチ。「みの」はその三倍であるから一メートル八センチ相当)の大きさに作った布団。如何にも貧弱で、事実、寒い。芭蕉庵の独り寝の侘びしさを伝える。

「桐油合羽(とおゆ)」四字へのルビ。桐油(とうゆ)は桐油紙(とうゆがみ)で油紙(美濃紙などの厚手の和紙に柿渋を塗って乾燥させてその上に桐油または荏油(えのあぶら)を何度も塗り乾かした強靱な防水紙)。これを表の素材とし、裏に薄布を合わせた防水着を「桐油合羽(とうゆがっぱ)」と名づけ、古くから外出着・旅行用合羽として用いられた。]

2017/02/21

小穴隆一「鯨のお詣り」(86)「儚なきことすぎて」

 

 儚なきことすぎて

 

 はかなきはことすぎて

 きおくにかへることぞ

 あはれたらちねのははの骨(こつ)

 おのれがたけよりもおほいなる甕(かめ)にいるるとて

 のぞきみしたるおぼえはあれど

 さて

 そのふたいかにせしかはおほえずによ――

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(85)「雨中山吹」

 

 雨中山吹

 

 あしくびはやきばにゆきていづこゆきたらむ

 あはれはらばひてとざせるへやをいづるに

 いつもいつもさかぬやまぶきはなつきて

 あめのしもとあめのしもと

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(84)「偶興」

 

[やぶちゃん注:以下、小穴隆一「鯨のお詣り」の詩篇パート。散文では散々読者を苦しめる小穴隆一であるが、詩篇では俄然、その朦朧体が優れたサンボリスムを醸し出すことが判る。孰れも、いい。

 

 

 偶興

 

 あしのゆびきりてとられしそのときは

 すでにひとのかたちをうしなへる

 あしのくびきりてとられしそのときは

 すでにつるのすがたとなりにけむ

 あしのくびきりてとられしそのときゆ

 わがみのすがたつるとなり

 かげをばひきてとびてゆく

 

 

[やぶちゃん注:この詩篇の本文自体(標題「隅興」は無し)は既に游心帳で掲げてはいる。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(83)「又三郎の學校」

 

 又三郎の學校

 

 四十年も前の事である。母に死なれた子供達はその父に連れられて函館から祖父が住む信州に、倅(せがれ)に後添(のちぞへ)が出來た、孫共は祖父に連れられて再び函館の倅へといつた次第で、そのをりの私の祖父の長帳(ながちやう)に綴ぢた道中記には確か松島見物の歌などもあつた筈ではあるが、東北の人に東北は始めてですかと聞かれれば、始めてですと答へるよりほかにないその東北に、物の一つ一つが珍しい旅をすることができた。尤も私が步いたのは單に花卷(はなのまき)、盛岡、瀧澤の範圍だけである。

[やぶちゃん注:「長帳」主に近世の商人(あきんど)が営業用に用いた帳簿の一つ。その形式。

「瀧澤」現在の岩手県の中部に位置する滝沢市。盛岡市の北西に接する。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 私は最近坪田讓治から宮澤賢治といふ名を始めて聞いた。書店は私に宮澤賢治全集、宮澤賢治名作選、註文の多い料理店等(など)の本を吳れた。また賢治の會(くわい)といふものが、東京から盛岡にかけて幾箇(いくつ)かある事も聞かされた。

[やぶちゃん注:「宮澤賢治全集」文圃(ぶんぽ)堂版全三巻本と思われる(昭和九(一九三四)年~昭和十年刊行)。

「註文の多い料理店」短編集「注文の多い料理店――イーハトヴ童話――」の初版本は大正一三(一九二四)年十二月一日に盛岡市杜陵出版部及び東京光原社を発売元とし、千部が自費出版同様に出版されたている(発行人は盛岡高等農林学校で一年後輩に当たる近森善一)が、当時、賢治は一部の識者以外には殆んど知られておらず、定価一円六十銭と当時としては比較的高価であったこともあり、殆どが売れ残ったという(ウィキの「註文の多い料理店」に拠る)。本文で書店が呉れたと小穴は言っているから、ずっと後の、別書店からの再刊本であろう。]

 

 しかしながら自分のやうな者は、本來安井曾太郞と中川一政の二人を偉いと思つてゐればよいので、正直なところ宮澤賢治の故鄕花卷(はなのまき)のはづれや、瀧澤から二つさきの放牧場で、向うの山の麓(ふもと)、あれが啄木の出たところですと人々に指さし敎へられても、これはなかなか戰國時代だなあと腹の中に呟きこんでゐたのである。

[やぶちゃん注:「あれが啄木の出たところ」誤り。言わずもがな、現在の岩手県盛岡市渋民。ここ(グーグル・マップ・データ)。実際には啄木は現在の盛岡市日戸(ひのと)生まれ(ここ(グーグル・マップ・データ))であるが、一歳で渋民に移っており、ここもそちらと採っておく。]

 

 私はただ「風の又三郞」の作者を生んだ土地を見、かたがたのその又三郞を入れるのに適當な學校を探すために、遙々(はるばる)奧州へも下つてみたのである。

 斯う書けば、宮澤賢治の敬愛すべき父母(ふぼ)、またよきその弟、また幾箇(いくつ)かの賢治の會(くわい)、この賢治の會には、賢治が彼の意圖(いと)のコンパスを擴(ひろ)げて土を耕し小屋を建て、その小屋に童共(わらべども)を集めてグリムやアンデルセンの物を聞かせてゐったと聞く、當時の童が今日は齡(よはひ)二十四五、農學校に教諭として彼を持つた生徒の齡は三十三四、斯ういつた人達もゐるであらうに、私の感情が冷たいとの誤解があるかも知れない。

 私が又三郞を入れる學校は、彼(かれ)宮澤賢治がその作物を盜みぬかれてゐたその一つ一つの跡へ、薄(すゝき)の穗を一本づゝ插しておいたといふ畑の橫を流れてゐる北上川の渡を渡つて行つた島(しま)分敎場であつた。

 島分教場は兒童の在籍數

Matasaburounogakkou

といふ學校である。[やぶちゃん注:以上は底本をスキャンし、画像で取り込んだ。]

 

 讀者はこの學校の所在地を貧窮なものとして考へるかも知れない。私も見ないうちはさう考へてゐた。見ればその部落は甚だ綺麗で、作物も立派であり、家々は少くとも私の家よりは堂々としてをり、そこに豐かで落ついた靜かな暮しが想はれるのである。

 それに戶每(こごと)の戶袋(とぶくろ)には意匠がほどこしてあるのである。一軒の家に殊に立派なものがあつた。私は一寸見た時始め佛壇が戶外(こぐわい)に安置されてゐるのかと思つた。漆喰(しつくひ)でかためたものであつた。私の興味は花卷(はなのまき)に殘つてゐる足輕(あしがる)同心(どうしん)の家よりもあの部落の戶袋に殘つてゐる。

[やぶちゃん注:「漆喰(しつくひ)」の音は「石灰」の唐音に基づくもので、「漆喰」という漢字は当て字である。従って歴史的仮名遣を「しつくひ」とするのは誤りである。消石灰に麻糸などの繊維質や海藻のフノリ・ツノマタなどの膠着剤を加えて水で練ったもの。砂や粘土を加えることもあり、壁の上塗りや石・煉瓦の接合に用いる。]

 

 風の又三郞を讀んでゐる人の中には、先生が三人、生徒が計百十一人といふ學校では、少々建物(たてもの)が大きすぎるといふ人があるかも知れない。

  ツヤ(クレヨン)

  四年京子(綴方(つゞりかた))六錢預(あづか)り

           十月二日

 と書いてある職員室の黑板から目を離して、室(しつ)の入口に立戾つて、改めて入口から室にはいるその眞正面を見れば、そこにはお宮(みや)が安置されてあるのを見るが、短い廊下を左に廻れば、又三郞の學校に相應(ふさ)ふべき狀(さま)の臍緖(へそのを)が、雨天體操場(うてんたいさうぢやう)にも講堂にもならうといふやうに改造されてはゐるが、依然として今日でも殘されてゐるのである。臍緖(へそのを)、つまり現在島(しま)分敎場となつてゐるそもそもの建物(たてもの)は、講堂と講堂正面の黑板の左の玄關、右の先生の部屋それなのである。

 先生の部屋か住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。この「居」は当て字で歴史的仮名遣は「すまひ」が正しい。])か、柱のカレンダーは今日(けふ)の日を示してゐるとは思はれないほどの、幾(いく)十年かの昔の空氣を持つてゐた。その講堂の黑板の中央の上にもお宮が安置されてゐた。校舍のなかがあまりに淸潔で、一寸私にお宮のなかを步ある)かせられてゐるといふ奇異な感じを持たせ、講堂のお宮の橫にくつついて大きなベルがあつたことが、

「これは大變だ、神樣も耳のそばでベルを鳴らされたのではおちおち晝寢もできまい。」と思はず私に私達を案内して吳れた先生の前でも言はせてしまつたのである。

 黑板の左が玄關、玄關といつても、そこは今日(こんにち)玄關として使用されてはゐない。暗い小さいその部屋には小使(こづかひ)であらう婦人が一人靜かに爐の火を搔立(かきた)ててゐた。入口はといふ淸六さんの問ひに先生は、

「そこの窓のところです。」と答へた。私はその窓とすれすれに桑の畑を見た。

[やぶちゃん注:「淸六さん」宮澤賢治の実弟宮澤清六(明治三七(一九〇四)年~平成一三(二〇〇一)年)。]

 

 私達は再び織員室に戾つて茶の馳走になり、今日の玄關の入口の前の二宮金次郞の銅像にも別れを告げて歸路についた。

「どうもあの先生は神主くさい。」

 といふ私の言葉に、淸六さんが、

「神主です。いまでも何かの時には神主の裝束(しやうぞく)をつけて出かけてゆくのです。」と答へた。

 何年か前の花時(はなどき)の事、女房と近所の童女を連れて上野の動物園に行つたことがあつた。一わたり園内を步き廻つて、燈火(とうくわ)がつき夜間開場あることに氣づいた。さうして、だんだん世智辛(せちから)くなると動物園の動物まで夜勤をしなければ喰(た)べてゆかれぬのかと思つた。しかし、あの島分敎場の講堂の上の神樣には、ベルが鳴る度(たび)ににこにこして扉のなかから兒童の姿を見てゐるのである。私は日も落ちてしまつ北上川の渡船(わたしぶね)のなかの空氣、暗(やみ)のなかにさくさくと草を喰(は)む馬のけはひ、ああいつたものに再び出會ふことを夢にも考へてゐなかつた。私は幸福であつた。その日(ひ)森さんが路の落栗(おちくり)を一つ拾つて私に吳れた。私は家に持つて歸つて女房に渡した。女房は東北の人間である。この栗が私の家の申譯(まうしわけ)ばかりの庭に芽を生やす時こそ見物(みもの)である。

[やぶちゃん注:「森さん」不詳。]

 

 盛岡といふ所も甚だ愉快に思へた。私を愉快にしたのは何も賢治の會の方々ではないのである。私は公園で、オホコノハヅクと梟(ふくろ)を樂(たのし)んで見た。盛岡の高橋さんは私に敎師の手帖といふ隨筆集を呉れた。高橋さんの隨筆集を讀めば、梟(ふくろ)は善(よ)い鳥ではないらしい。しかし、小桶(こをけ)の中に入つては水を浴び、まつ黑い鐡砲玉のやうな目をきよとんとさせては、ぷるぷると羽根をふるはせてゐる梟(ふくろ)の顏をみてゐれば、飽きもせぬたのしさを時(とき)をすごすものである。

[やぶちゃん注:「オホコノハヅク」フクロウ目フクロウ科 Otus 属オオコノハズク Otus lempiji

「梟(ふくろ)」同前フクロウ科 Strigidae の他種を広範囲に指す。

「高橋さん」不詳。]

 

 盛岡は明るいユウモワがある土地である。案内役を買つて呉れた菊池さんの兄さんの小泉さんの家(うち)に一夜(や)の宿を借りたのであるが、翌朝の私は鳶(とび)の聲で目が醒めた。寢床に起きなほつて枕の覆ひの手拭(てぬぐひ)に目を落すと、鷹匠精衞舍(たかじやうしせいゑいしや)といふ文字が染出されてゐたのである。鳶に鷹がこれほどにぴつたりこようとは思ひもつかなかつた。

[やぶちゃん注:「菊地さん」不詳。

「鷹匠精衞舍(たかじやうしせいゑいしや)」不詳。]

 

 馬賊鬚(ばぞくひげ)を生やし、よく乾燥した、つまり筋肉が引きしまつて精悍な小泉さんは瀧澤の種畜場(しゆちくぢやう)に電話をかけて馬車の交渉をして、私を瀧澤の放牧地へ連れて行つて呉れたのであるが、南部の鼻まがりに對し何(なん)とかのまがり家(や)といつて、居(ゐ)ながらに馬ツ子(こ)に注意ができるやうになつてゐる民家を見ながら、相當の距離を走つてゐた時であつた。私達男ばかりがざつと十人も乘込んでゐる馬車をたつた一人の男が止めたのである。

[やぶちゃん注:「小泉さん」不詳。]

 

 私は何かと思つた、誰(た)れかが馬車を止めた相當の年配をした堂々たる體軀(たいく)の其(その)男に錢(ぜに)を渡した。するとその男が馬車を離れて馭者が馬に鞭を加へた。

 馬車の後ろに席をとてつてゐた私には、その男が何者であるかを了解できなかつたのであるが、馬車とその男の間(あひだ)にへだたりができて始めて、股引(もゝひき)もなく半纏(はんてん)だけの膝(ひざ)を叩いて笑つてこちらを見送つてゐる、その男の膝のところに偉大なるものが笑つてゐるのを認めて一切を了解した。私は馬を見にきて馬を見ずに馬のやうな奴を見たとと言つた。するとそれ迄は一言(ひとこと)も言はなかつた皆(みんな)が急に陽氣に笑つた。ことによると、人々が東北健兒の物のサンプルと思はれては困ると心配してゐたのかも知れない。

 私は私達のその日の愉快なピクニツクで、始めて馬も喰はぬといふ鈴蘭に赤い綺麗な實みがあるのもみた。馬車の馬も車を離れて飛び廻つての歸途、夫人子供を連れた知事が瀧澤の驛から種畜場(しゆちくぢやう)迄私達を運んだ馬車に乘つて後(あと)から驅けてきた。知事に先に路を讓つた私達に知事は目禮して行つたが、私達は知事もやはり偉大なる魔羅に喜捨をとられたであらうと笑ひながら心配してゐた。

 以前の場所に以前の男が矢張(やは)りゐた。既に喜捨をした一行とみて今度は近よりかけてやめてしまつた。實話雜誌の社長といふものは私達と違つて何でも知つてゐるらしいが、私達が、知事は婦人子供の手前二十錢もとられたらうと騷いだといふ話をしたら、一度見たい、盛岡までは自分はよく行くからと言つてゐた。謹嚴な坪田讓治でさへもが、井上友一郞(ともいちらう)勵ます會(くわい)に出席してこの瀧澤の傑物(けつぶつ)の話を傳へて人々を喜ばせたさうである。

 男子は須(すべ)からく男根隆々たるべきか。

[やぶちゃん注:「井上友一郞」(明治四二(一九〇九)年~平成九(一九九七)年)は作家。大阪市生まれ。早稲田大学仏文科卒。『都新聞』記者となり、昭和一四(一九三九)年に『文学者』で『残夢』を発表、作家生活に入った。風俗小説作家として活躍し、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、昭和二四(一九四九)年発表の小説「絶壁」が宇野千代・北原武夫夫妻をモデルとしていると非難されて抗議を受け、一九七〇年代には忘れられた作家となった(以上はウィキの「井上友一郎に拠った)。

「男子は須からく男根隆々たるべき」ここで本書後半では久しぶりに芥川龍之介に繋がるように書かれてある。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(82)「一游亭雜記」(13)「ミコチヤン」

 

         ミコチヤン

 

 ミコチヤンが家(うち)の前を行き過ぎると、「おい、赤坊(あかんぼう)が通るよ。」ミコチヤンが垣根のそとに立つてゐると、「おい、赤坊がゐるよ。」と私は女房に呼ばはる。また、ミコチヤンも女房に逢ふ度(たび)ごとに何時(いつ)も、「ヲヂチヤンナニシテヰル。」と聞くといふ。しかし、ミコチヤンは何時(いつ)となく私を避けてゐるのである。さうなつてからの一日(にち)、私の晩めしの前に坐つていつしよに食事をするミコチヤンの顏に、私はミコチヤンを認めたのである。私は臺所の女房に、「おい、赤坊は赤坊といはれるのをいやがるんだねえ。」と言つた。すると「ウン、ミコチヤンダヨ、」と、ミコチヤンが小聲で言つてにつこりした。ミコチヤンは小さい口を開けては私の箸の先から魚肉を食べてゐたのである。ミコチャンももう數へ歳(どし)で三つになつてゐた。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(81)「一游亭雜記」(12)「カザグルマ」

 

         カザグルマ

 

(女房の先生のそのまた先生の學生時代の話。)

 女房の女學校の御作法(おさはふ)の先生が始めて唱歌を習つた時には、

「ミヅグルマー」

「ミヅノマアニマアニメグルナリー」チヨン

 と、先生が拍子木(ひやうしぎ)を打つて教へてゐたといふ。

「カザグルマー」チヨン

「カゼノーマアニマアニメグルナリー」チヨン

 があまりに可笑しいので先生は笑つて、先生に叱られた由。またこの話を聞かされた生徒一同は皆(みな)笑つて、「何が可笑しいんです」と東北辯(べん)の先生、卽ち拍子木の生徒に叱られてしまつたといふ。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(80)「一游亭雜記」(11)「昔ばなし」

 

         昔ばなし

 

          1

 

「兵隊さんのおならはネトネトしてる」

 喇叭(らつぱ)のリズムをとつて、斯(か)ういふ言葉を歌にしてゐる童(わらべ)の聲を垣根のそとに聞いた時に、わたしの心には卒然として、

「ちよこちよこ連隊十三聯隊、まら○○前へおーい」

 と、いふ言葉が湧(わ)いた。

 三十何年の前にもなる日露戰爭當時の佐世保、服部中佐の銅像がある軍港佐世保その街で、わたし達少年は舟越海軍少佐の子も品部陸軍大尉の子も、喇叭のリズムに合はせて、ちよこちよこ聯隊十三聯隊まら○○前へおーいを、息脹(いきふくら)めて歌つてゐたのである。

[やぶちゃん注:「まら○○」「○○」には子らの姓が入るのか。「まら」は男根の意か。好く判らぬ。識者の御教授を乞う。

「服部中佐の銅像」戦前にあった海軍中佐の銅像(昭和十八年頃の軍事物資不足による金属供出で消失したものであろう)。よく判らぬが、日清戦争の大沽砲塁の戦いで戦死した海軍指揮官の服部雄吉中佐のことか?

「舟越海軍少佐」日露戦争の第二艦隊司令部の参謀に船越海軍少佐というのがいるが、これか?

「品部陸軍大尉」不詳。]

 

          2

 

 當時の佐世保尋常小學校には唱歌室などはなく、樂器の何物をも持たない先生が手ぶらで教壇に立つて、まづ一小節を歌つては口うつしで萬事(ばんじ)わたし達に歌はせてゐたものである。諸君が歌つてゐる軍隊の行進を思浮(おのひうか)べてくれれば幸(さいはひ)である。先生は一小節ごとに手拍子足拍子で、「アヽ、コリヤコリヤ」と合(あひ)の手を入れた、日露の戰(いくさ)まつさかりの時故(ゆゑ)、教(をそは)つたものは軍歌の類と、美しき天然(てんねん)である。

「アヽ、コリヤコリヤ」

 われら生徒は歌の興(きよう)酣(たけなは)なるにいたれば、机を叩き、床を蹴り、一小節ごとに聲を張上げてゐたのである。

 

          3

 

 何時(いつ)か、「アヽ、コリヤコリヤ」の先生、そのわたし達を受持つてゐた先生が去つて、何時か神戸から新任の先生が來た。

 唱歌の時間、この紙戸から來た先生とて、樂器無しには無論(むろん)口うつし法であつた。神戸の先生にとつての最初の唱歌時間、先生の歌に、アヽ、コリヤコリヤといつせいに合(あひ)の手を入れた生徒達を先生は驚いたらしい。東京から來た生徒、卽ち、わたしも初めは不思議な土地だと思つてもゐたのである。

「皆(みんな)が何時もさういふことをいふのか。」

「ハイ。前の先生には左樣にして教(をそ)はつてをりました。」「アヽ、コリヤコリヤは下等だから止めなければいけない。」と、いつたやうな先生と生徒、三十何年前の古き時代の神戸の先生、その羊羹色(やうかんいろ)の服は、モーニング・コートであつた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(79)「一游亭雜記」(10)「賣れつ子」

 

         賣れつ子

 

(RESTURANT・Xにて)

 一番の賣れつ子といふものはなかなか閙(いそが)しい。だから不潔で年中虱(しらみ)をわかしてゐる。

(BAR・Yにて)

 あの洋裝のモガ? あれはこないだ階段から落ちて、ズロースの奧までみせたからもうこの店には出てゐない。

(CAFE・Zにて)

 はだかのキユーピーに六十圓も衣裝代をかけたここのKチャンは、ここのマネーヂヤアと結婚、幸福で目出度い。

 こんな話はY君の話である。

 このY君は、知らぬこととはいへ知らぬ間(ま)に、自分がこの不景氣に一人でも失業者を出してゐたといふことは、氣の毒なことをしたと思つてゐる。と、車のなかで、笑ひながら話してゐた。

 Y君がY君の義兄の家に行つて、話をしてゐたら、知らぬ間にそこの女中に箒(はうき)を逆さにたてられてゐた。姉がそれを知つて咎めた。女中は斷然非を認めない。姉も斷然あやまれと言ふ。あやまらない女中は馘首(くわくしゆ)されたといふのである。

[やぶちゃん注:「閙」(音「ドウ」)は一般には「騒がしい」の意味である。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(78)「一游亭雜記」(9)「白と赤」

 

         白と赤

 

 白のパジヤマを着てウクレレを持つのはモデル女。

 ――顏は黑い。ポーズが終了してもなほそのパジヤマの白を凌がんがほどにお白粉を亂用してゐる。

 赤のセミ・イーヴニングを着てバンジオを持つのはお孃さん。

 ――顏は白い。ポーズが終ればそのドレスに似せて色取(いろど)れる顏を拭(ぬぐ)ひ跡を人に示さない。

[やぶちゃん注:「バンジオ」弦楽器のバンジョー(banjo)。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(77)「一游亭雜記」(8)「自畫像」

 

         自畫像

 

 二人の時、飯を食ひながら女房は私に斯う言つたものである。

「あなた、あんなお母さんの子にどうしてあんな可愛らしいお孃さんが出來たんだらう、ねえ。」

 三人の時、火鉢を圍みながらの話にお孃さんは斯う私達に語つた。

「母と一緒に歩くとはづかしい。」

 ――乍去(さりながら)描(か)かれた畫面をみれば、悲しむべし。母娘(おやこ)の相違は、單に娘が斷髮であり、洋裝であるといふ以外に示す何物もない。私をして愕然たらしめたものは、おそるべし。お孃さん自身の手になる木炭畫の數枚、その自畫像であつた。私は最初母親がポーズしたものと思つた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(76)「一游亭雜記」(7)「襁褓」

 

         襁褓

 

 實の子供を生んで育てて、夫と子供二人計三人を同時に失つた母親が口をとんがらせて言ひつのつた。

「このおしめだつてさ、かう天日(てのぴ)で乾(かはか)したのと炭火で乾したのとでは違ふんだよ。お前達は子供を産んだことがないから知らないだらうが、お母さんなんぞはさんざんためしてきたんだからね。」

 すると、もうやがて年頃の娘が突如としてその母親を詰(なじ)つた。

「あら、さう、お母さんはわたしをためしに使つたの?」

 母親はふてくされてしまつた。

「ああ、さうさ、お母さんの言ふことは、みんないろいろにためしてきたことなんだからねえ」

 娘の顏は蒼ざめて既に大人である表情を現はしてゐた。

 

[やぶちゃん注:「襁褓」私は「むつき」と読みたくなるが、ここは本文に即して「おしめ」と読んでいよう。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(75)「一游亭雜記」(6)「廣告術」

 

         廣告術

 

「今日は三越明日は帝劇」といふ言葉は、濱田氏が往年まだ三越の平社員である時代に、考へついた言葉である。しかし、株式會社がこれを使用するに至るまでには、これまた一年の考慮があつたといふ。濱田氏がその「今日は三越、明日は帝劇」で年金を貰つたか如何(どう)かは知らない。(江川正之から聞いた話。)

[やぶちゃん注:ウィキの「三越」によれば、この宣伝文句の使用は大正二(一九一三)年のことで、『東宝が日本初の西洋式の劇場として帝国劇場を開設。来場客に無料で配付した一枚刷りの「筋書き」(プログラム)に掲載された広告のキャッチ・フレーズ』に用いられたのが初回であったという。『「帝劇での観劇」と「三越でのお買い物」は当時の有閑富裕階級の女性を象徴する一般庶民の憧れだと鮮烈に印象付けた。コピーライターは浜田四郎(三越の広告担当)。ポスター用の婦人画は竹久夢二だった』とある。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(74)「一游亭雜記」(5)「初戀の味は年金」

 

         初戀の味は年金

 

 初戀の味については演説の必要もないであらう。

 僕はここに、「初戀の味」といふことばを考へた、世にも幸福なその一人の人物を人々に紹介してみたいのである。

 始めに、彼は地方の中學の漢文の教師であつた。と書かなければならない。およそそれに似合はしくもない漢文の教師が「カルピスの味は初戀の味」といふ言葉を得た。ともかくも彼はそこに初戀の味といふ言葉を考へ得たとみえる。先生が斷じた「初戀の味」といふ言葉をカルピス社が拾つた。會社は、初戀の味に關する東西古今の文獻、小説、戲曲などについて、改めて調査する事一年の長きに亙つたといふが、結論して現はれてきたものも、初戀の味といふものがやはりさう惡いものではない。唯(たゞ)、それにつきてゐたといふ。結果、會社がこれを廣告用の字句として採用することに一決して、羨むべし漢文の先生! 先生は先生が考へた「初戀の味」といふ言葉に對して、カルピス會社から光榮ある年金を獲得するに至つたのである。

 自分がこの話を書く今日、時遲く、すでに肝心の漢文の先生は幸福にも地下に眠つてゐる。先生の年金も亦今日では先生の遺族扶助料に變じてゐるといふのである。(江川正之から聞いた話。)

[やぶちゃん注:ここに記されていることは事実で、「カルピス㈱」公式サイトの「創業者三島海雲」にも記されている。この考案者は三島の学生時代の後輩で、当時の中学校国漢教師であった驪城(こまき)卓爾である。それによれば、大正九(一九二〇)年、驪城が『甘くて酸っぱい「カルピス」は「初恋の味」だ。これで売り出しなさい』と提案したが、海雲は一度は『とんでもない』と断ったとあり、結局、それが採用されて最初に用いられたのは、大正一一(一九二二)年四月の新聞広告のキャッチ・フレーズとしてであったとあり、その画像も小さいながら、見ることが出来る(視認するに『カルピスの一杯に初戀の味がある』とある)。彼は少なくとも大阪府立今宮中学校に奉職していいた時期があり、こちらのページで驪城氏の顔写真も見ることが出来る。

「江川正之」出版者。純粋造本を志向した江川書房の創立者として知られる。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(73)「一游亭雜記」(4)「金田君と村田少將」

 

        金田君と村田少將

 

 醫學士金田君は、高等學校時代に、弓で鳴らしたものだといふのが蒔淸(まきせい)の話である。

[やぶちゃん注:「金田君」不詳。

「蒔淸」遠藤古原草。]

 然し彼金田君に於いては、一日(にち)、庭木に猫を吊るして矢を放つたところ、如何(どう)間違つてか、猫は繩からはなれて金田君よりも死物狂(しにものぐる)ひに金田君に飛びついてきた。それで、弓術名譽の彼が無慙(むざん)にも、目をつぶつてめくらめつぱうに地蹈鞴蹈(ぢたんだ)んで、弓で地べたを叩きまはつてゐた。と、告白してゐる。

 爾來十數年、人には怖ぢぬ金田君の猫をこはがることこれはまた尋常ではない。であるから僕は、もし金田君との喧嘩ならば猫を連れてゆかうとひそかに思つてゐる。

 

 玉突場がへりの途(みち)で蒔淸から聴いた話である。

 ――村田少將は、あの村田銃のさ、金田は一度弓道部の學生として、少將の家に行つたさうだ。金田のことだから例の調子でしやべりたてたことだらう。とにかく村田少將、キユーを手にしてゐたのださうだがね、撞球(どうきう)の數學的であり且つまた全身にわたる運動である所以(ゆゑん)を盛んに説いてゐたさうだ。それからそのその頃弓銃(きうじう)の考案をやつてゐて、障子を明けると書割のやうに正面に的場(まとば)が出來てゐたといふが、それを珠臺(たまだい)のこつちから射(う)つてみせて弓銃の效能を述べてゐたさうだ。

 

 僕の玉は? 僕は中學で幾何(きか)では零點(れいてん)を貰つたことがあるのである。おまけに中年(ちうねん)隻脚(せききやく)となつてしまつた。到底村田少將のやうなわけにはゆかん。

 勝負は氣合(きあひ)ものときめてゐる。

[やぶちゃん注:「村田少將」「あの村田銃の」旧薩摩藩藩士で日本陸軍軍人の村田経芳(天保九(一八三八)年~大正一〇(一九二一)年)。明治一三(一八八〇)年に最初の国産銃である十三年式村田銃を開発した人物。

「キユー」ビリヤード(billiards)のキュー(cue)。

「弓銃」所謂、洋弓、クロスボウ(crossbow)のことか。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(72)「一游亭雜記」(3)「臼井君」

 

         臼井君

 

 昨日は朝五時に起きた。玄關に行つてみたが新聞もきてかない。ゼリーで腹をこはしたやうだから自分で風呂を焚いてはいつた。風呂から出たら步けると思つた。そこで自分の足で往復できる臼井君の家(いへ)まで行つた。お役人の臼井君は日曜の朝寢をやつてゐた。それで庭のはうにまはつてみたら、普通ならば石が竝べてありさうなところを、夥(おびただ)しい靴墨ととお白粉(しろい)との空瓶(あきびん)がさしたててあつて、乏しい葉つぱの紫蘇(しそ)などが大切に圍はれてあつた。それで自分は、臼井君のために、臼井君の日本(につぽん)の生活が今日では三年に及んでゐることを嘆じた。が、それと一しよに、その殺伐なる庭のなかに、郊外の一風景を發見して立つてゐた。

[やぶちゃん注:「臼井君」不詳。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(71)「一游亭雜記」(2)「老紳士」

 

         老紳士

 

 僕の家(いへ)の前を二丁ほど行くとゴルフ練習場に出る。このゴルフ場の橫に空地がある。そこを木村壯八(さうはち)のところの若者達が三角ベースで野球をする場所としてゐる。またこの傍(そば)には、早慶戰のレコードなどかけてゐる郊外建(だ)ての家がある。その家の主人公は、女中に練習場のキヤデイと同じやうな小さいバケツを持たせて、一人で悠々と二月の風のさなかを、僕等の三角ベースのグラウンドで、ゴルフに興じてゐたのである。

[やぶちゃん注:「木村壯八」(明治二六(一八九三)年~昭和三三(一九五八)年)は東京生まれの洋画家・版画家・随筆家。ルビは「そうはち」だが、一般には「しょうはち」(現代仮名遣)と読む。岸田劉生と親しく、大正元(一九一二)年の「ヒュウザン会」結成に参加している。大正一一(一九二二)年の「春陽会」創設には客員として参加、大正末頃から小説の挿絵の注文が増え、特に昭和一二(一九三七)年の『朝日新聞』に連載された永井荷風の「濹東綺譚」では作品とともに爆発的人気を博した。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(70)「一游亭雜記」(1)「男の子」

 

 一游亭雜記

 

 

         男の子

 

 別に通る人もない二月なかばの日の事である。

 夕方、一軒を置いて隣同志の男の子供達は、めいめいの家(いへ)の門(もん)を出てかちあつた。ことによるとそれは、僕の家で買つてゐたときらしい。子供達が豆腐屋の桶をのぞきこんだ。七つの子が五つの子に

「コノナカニオシツコヲスルト、アワガブクブクタッチオモシロイヨ。」

 と言つた。

 五つの子はちんちを出してみた。七つのはうもちんぽこを出した。さうして、同時にオシツコをしてしまつた。子供達が愉快とした事も、その桶のなかのアブクから露顯してしてしまつて、雙方の親が桶の豆腐を辨償した。わるいことには、豆腐屋はその豆腐を捨てずに、またほかに持ちまはつて賣つてゐたものらしいのである。

 氣持ちのいいものだ。僕は少年時代に度々(たびたび)浴槽のなかで小便をした。その話を、話を聞かせた家人に聞かせて、自今(じこん)豆腐は豆腐屋まで買ひにゆくべしと堅く申渡しておいた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(69)「子供」(7)「角力」

 

         角力

 

 繼母(けいぼ)ができた。私達はまた函館に戾された。さうしてまた東京に來た。私は永代橋の上から一錢蒸気を眺めて暮してゐた。(函館の港のふちで暮した自分は船大工(ふなだいく)になるつもりでゐた。)家(いへ)は深川からまたすぐ本郷に移つた。これでは私の父がルンペンであつたかの樣であるが、その頃の父は郵船の社員で、轉任また轉任が、私の尋常一年を函館、深川、小石川と三つの學校に分けてもゐたのである。

 本郷に移つて私にはまだ一人(ひとり)の友達もない。私は家の近所を一人でしよんぼり步きまはつて、いつか路地のなかで角力(すまふ)をして遊んでゐる一團の子供の集りをみてゐた。みてゐるうちに私にも角力が面白く思へた。行司をのぞいた角力のなかで一番強い子供をみてゐると如何(どう)したのか、なんだこんな奴、耳を引つぱつてしまへばなんでもないと思ひだした。

 すると腕がむずむずして、

「かててけれやあ」

 と言つた。すると、皆が何だいと聞きなほしたから、また「かててけれやあ」と言つた。

「なんだ田舎つぺい、面白いぞ、いれてやれ」といつて皆が角力仲間にしてくれた。私は函館で相撲見物につれていつて貰ひ、何枚かの一枚繪を買つて貰つた覺えはあるが、本職の角力を見物したのは、天にも地にもそれかぎりであるし、まして子供に四十八手もなにもなかつた。ガムシヤラなフンバリで順々に相手を負かし、最後に一番強さうな子が出てきた時に、私はいきなり相手の左右の耳をぎゆつとつかんでフンバツタ。皆がやあやあ言つてゐたが、やあやあもへつたくれもなくガンバツテゐるうちに私の勝になつた。向ふも耳の吊出(つりだ)しの手で、もう一度もう一度でくるのを我慢しとほしたら、「やあ、この田舍つペ強いぞ、またおいで、」と行司がまた遊びにこいと誘つてくれた。

 私は私が耳の吊出しで勝つた相手の子と後(のち)に偶然同じ學校で同級生となつた。高木といふ米屋の子であつた。

 私は高木の耳をみて大きなとんがつた耳だなあと思つた。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(68)「子供」(7)「銅像の手」

 

         銅像の手

 

 一體私の幼年時代の大人という者はげえねえ、子供のこはがる話ばかりして聞かせてゐたものである。萬藤(まんとう)の先代が大學病院に入院してゐた頃、伯母も松本から來てゐて、私の家(いへ)に泊つてゐた。入院してゐた萬藤の伯父は、病院の銅像がいけない子供を喰べて地だらけな口をして、每晩夜中になると窓から自分の室(しつ)に遊びにきていろいろな話をする、そんな話を私に聞かせた。私は或る晩私の胸に觸つた手を、銅像の手だと思つて、聲も出せず蒲團のなかで兩手を力いつぱいに握りつづけてゐたが、床をならべて寢てゐた伯母の手にちがひないのである。私は後年、每晩子供を喰べる銅像の前に改めて立つてみて妙な氣がした。先代の萬藤は寫眞を見れば全くにが蟲を嚙潰(かみつぶ)したといふ面(つら)である。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。私なら事実でなくても、エンディングを「私は後年、每晩子供を喰べる銅像の前に改めて立つてみて妙な氣がした。先代の萬藤は寫眞を見れば全くその銅像と瓜二つの、にが蟲を嚙潰したといふ面であつたからである。」としたであろう。小穴隆一の嘘はつけない生真面目さが伝わってくる。

 

「萬藤」不詳。小穴の親族であろうが、商家の屋号のようである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(67)「子供」(6)「地震」

 

         地震

 

 子供の時靑瓢簞(あをべうたん)と人に言はれた。またこの靑瓢簞は靑瓢簞なるとともに存外の臆病者であつたのである。

 或る晩のこと、ふと目をさますと大頭の大(おほ)どろばうが唐紙の䕃に蹲(うづくま)まつて、こちらの部屋の樣子をぢつとみてゐる。敷居のところに大きな顏を半分出してゐるのである。私はいつしよに寝てゐる父を起こすこともできずに、蒲團のなかにぴつたりとなつたまま、掛蒲團の橫の下から大頭の人間をそうつと見つめてゐた。すると家が搖れだした。私はどろばうが家(いへ)を搖すぶつてゐるのだと思つたから、一層默つたまま蒲團にしがみついてゐた。すると父が大聲で私の名を呼立(よびた)てて、蒲團をはぎとつて私を引立(ひきた)てた。夜の明け方の地震であつたのである。大頭の大どろばうは家の提燈(ちやうちん)であつた。

 私はこはがつても、泣くとか、聲をたてるとかといふことはしなかつた。非常にこはいと思つた時には敷蒲團の偶に潜つてゐた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(66)「子供」(5)「旗」

 

         

 

 食べられない河豚(ふぐ)を釣る。あれも釣りであらう。幼稚園から尋常一年になる頃函館にゐて、河豚を釣つては下駄で潰してぽんと音をたてるのをたのしんでゐた。その力(ちから)をこめて河豚の腹を蹈潰(ふみつぶ)してゐた足が今日では義足である。日露戰爭の時には佐世保にゐて、島屋(しまや)のをぢさんに一度烏賊(いか)釣りに連れていつて貰つた。

 どうも釣りの樂しさは食べられない河豚を釣つてゐる幼年の頃にあるやうだ。

 函館といへば、私の母は函館で亡くなつたのであるが、朝起こされて便所につれてゆかれ小便をしたら、一枚あけた雨戸の間から母が庭へ凧(たこ)を出し、すうつとそれがあがつたのが目についてゐるのである。儚(はか)ないが私が母に對する記憶はこの一つしかない。凧の形はハタといふのである。(私とすぐ上の姉とは長崎生れである。)ハタが繪も字もないまつ白なものであつたのは、ことによると母が夜なべにこしらへておいたものなのかも知れない。

小穴隆一「鯨のお詣り」(65)「子供」(4)「子供の復讐」

 

         子供の復讐

 

 草箒(くさばうき)を持つて、大勢で赤とんぼを追ひかけまはつてゐた私、お菓子は家(いへ)の玄關のわきの部屋にはいるといつでもあつた。胸の高さまであつたその木箱に、そつと手を入れては、いつぱいに摑出(つかみだ)してゐた私、おばあさんから黑砂糖を貰つてしやぶつてゐた私。

 日野家(ひのや)はおぢいさんの家に向つて左鄰(どな)り、右鄰りの家に二人の子がゐた。

 私はなんで腹を立ててたか、兄弟、その弟が家の前を通るのをめがけて家のなかにつつたつたままで石を投げた。石はその子の頭にあたつて、その子は頭をおさへて泣きながら家にとんでいつてしまつた。頭から血が流れてゐたやうに思つてゐるが、おぢいさんから叱られた記憶もなし、その事あつて間もなくその子の家に行つて、茶の罐(くわん)の蓋を薄い餅にあてて、せんべいを何枚かつくつて遊んだ覺えのあるところを思ひ考へると、せいぜい瘤(こぶ)の一つ位(ぐらゐ)といふところかも知れない。

 私は私のしたことを忘れてゐて、一日(にち)、私が石を投げつけたその兄弟に誘はれて山に行つた。兄弟は麥畑(むぎばたけ)の上に屋根を出してゐる牛屋(うしや)を指さして、一寸あそこまで行つてくるからここに待つておいでと、私を殘したまま靑い麥畑の中に驅込むんでしまつた。どの位(くらゐ)待つてゐたかいまもつてわからないが、私は殘されてぢつと待つてゐた。日がとつぷり暮れて私はその山路(やまぢ)に泣いてゐた。暗いなかから私に聲をかけた大人がゐた。その大人は私の伯父であつた。私は薪(まき)を背負つた伯父に連れられておぢいさんのところに歸つてきた。

 後年幾度か、私は、私が六歳の時泣いて立つてゐた場所を、なつかしんでそこに立つてみた。

 私はうし公(こう)とそれから私に復讐をしたその兄弟がなつかしく、度々(たびたび)人々にその行方を聞いてもみたが、誰(だ)れもうし公やその兄弟の事を忘れてゐて知つてゐる者がない。

小穴隆一「鯨のお詣り」(64)「子供」(3)「洗馬宿」

 

         洗馬宿(せばじゆく)

 

 村のまんなかにあつた學校の屋根は、高い高い、ものであつた。

 さうして、その學校のうしろには大きい山があつた。

 學校、奇異なその建物(たてもの)のてつぺんには、木曾義仲が馬の脚を洗つてゐる刻物(ほりもの)がのつかつてゐた。

 時をり、自分はしみじみとしてそれを眺めてゐた。

 晴れた日の空のなかに高く、川は群靑(ぐんじやう)に、鎧(よろひ)が紅(あか)で、流れで馬の脚を洗つてやつてゐるその木曾の義仲はすつかり自分の氣に入つた。しかし、いくつもの峠を馬に乘つてきた自分を、山の中におぢいさんの家にゐる自分を、――お父さんは一人で函館に歸つてしまつた。――私の好きな海に大きい汽船が浮いてゐる函館を――ぼんやり考へてゐた。

[やぶちゃん注:標題柱にルビが振られているのは本書ではこの章のみである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(63)「子供」(2)「とんもろこし」

 

         とんもろこし

 

 母は函館で死んだ。それで一時、私達、二人の姉と一人の弟と私、四人の孫が信州のおぢいさんの家に預けられた。私は鄰の日野家(ひのや)のうし公(こう)から小便で泥饅頭(どろまんぢう)をつくることを教(をそ)はつた。土をよせあつめてそこを肱(ひぢ)でちよいちよいと凹(へこ)ませて、小便を少しづつたらせばいくつかの饅頭が出来る愉快な遊び、あれである。

 私が日野家からどれだけのとんもろこしを貰つたものか見當もつかないでゐる。しんばかりになつたのを持つてゆくとまた實(み)のついたのが貰へたから。

 日野家には牛がいくつかゐて、私が食べたあとのしんをみんな引受けてくれてゐたのである。

小穴隆一「鯨のお詣り」(62)「子供」(1)「猫におもちや」

 

 子供

 

 

         猫におもちや

 

 仔猫を貰つて大事にしてゐたものである。その頃の私は月に二三囘外出するかしないかのの暮しをしてゐた。それは足がわるくてろくろく步けないから、長い間にさういふ習慣が自然と私についてしまつてゐたのだ。私は外出をする。さうすると、必ず猫のために何か買つてやらなければ、落着いて街にゐるわけにもゆかなかつた。私はいつも氣をつけて猫のよろこびさうなおもちやを街でさがしてきたが、畢竟私は人間であり、仔猫といへども猫は獸であるから、私の買つてきたものに猫はいつも滿足してはゐなかつた。猫に買つたのではあるが、人の子のおもちやはこれを人の子に、いつか一つ二つと人の子にやつてしまつた。

 私には子供がない。それがために、いつか大道商人がらスモール・バアドを買つて、「坊チヤンが喜びますぜ」と愛嬌をふりまかれた私は、私の笑ひをしたがその時の笑ひを依然として今日(こんにち)でも持つてゐる。

 猫のおもちやだといつて人の子のおもちやがなかなか買へるものではない。

[やぶちゃん注:「スモール・バアド」子供の大型玩具の乗用ペダル・カーに同名のものがあるが、これは戦後の一九六〇年代以降の出現であるし、流石に猫のためのおもちゃには買って帰るまい。デコイ風の小鳥の木製フィギアか、小鳥の形をした木笛か(しかし後者だったら小穴隆一ならそう説明する気もする)。識者の御教授を乞う。]

2017/02/20

小穴隆一「鯨のお詣り」(61)「伯父」(2)「T伯父」

 

         T伯父

 

 T伯父さんは私の祖父の實家の人である。T伯父、この伯父は舊家に生れた有德(うとく)の人である。はつきりと言へば、今井四郎兼平の嫡流と書かなければならない。

[やぶちゃん注:「今井四郎兼平」(仁平二(一一五二)年~寿永三(一一八四)年)は言わずと知れた、木曾義仲の乳母子で義仲四天王の一人で、粟津の戦いで討死にした義仲の後を追って凄絶な自害を遂げた人物である。]

 私は一度父に連れられて、この伯父と淺草に一緒に行つた子供の頃の記憶を持つのである。珍世界の鄰の小屋では芝居をやつてゐたと思ふ。私は楠公子別(なんこうこわか)れの場面が描(か)いてあつたその小屋の繪看板に見惚(みと)れて、もう少しのところで、迷子になつてしまふところであつた。何處(どこ)ぞで御飯も食べた。何を食べたかは憶えてもゐない。廊下を步いてゆく藝者と姐(ねえ)さんの髪飾(かみかざり)が不思議であつたらしい。

[やぶちゃん注:「珍世界」明治三五(一九〇二)年から明治四十一年まで浅草六区にあった妖しげな珍奇博物標本を展示した見世物感覚のテーマ・パーク。小穴隆一は明治二一(一八九四)年十一月二十八日生まれであるから、「子供の頃」とある以上、開館当時の十四歳頃か。]

 伯父はまた一度、私が描いた風景畫を見て、これはどこの眞景かと聞いたことがある。伯父の眞景といふ言葉は私の耳に甚だ愉快ではあつたと同時に、伯父と私との年齡の開きを非常に感じさせられもした。

 私が二十何歳の頃であつたか、記憶にのぼるかぎりではこれが始めてではあるが、私はK伯父さんに連れられてT伯父さんの家(いへ)に行つた。

 T伯父をはじめてその家に訪ねた時に、私に文具料と書いて水引のかけてある立派な紙包を貰つた。さうして伯父の家を辭してから、K伯父と私は眞晝の上諏訪と下諏訪との間の道をてくてくと步いてゐた。この途中茶屋のやうな家で鮨(すし)を食べた。その勘定の時に、私はK伯父にさとられぬやうにこの紙包の金に手をつけた。包の中にはきちんとした一枚の一圓札がはいつてゐたのである。後で祖母にT伯父からお金を貰つたが、途中でつかつてしまつたといつたら叱られた。私はK伯父の汽車賃やら何やら立替(たてか)へてゐたものであるからともいへずに、頭を搔いてしまつた。この文具料から後(のち)十五年以上も經過して、私は父に信州にあつた空家(あきや)を一軒貰つたのである。空家にあつた物は、十七歳の時から國を出た父のあらかたの手紙、鼠の糞にまみれたさういふ物ばかりで、その間から

[やぶちゃん注:以下、特異的に漢文体の書状を一切の読み無しで掲げ、後に【 】で最低の読みを附して示した。原文は総ルビである。最後の署名以下はブラウザの不具合を配慮して字配を操作した。]

  敬白

 父上様母上様御中日久しく度々不和相生候段誠に以て私儀心配仕淚胸中に滿ち難忍落淚仕事更に無之候依て父の御惠愛を以て此事御聞入被下置偏に御中睦親之段只管に奉悃願候此事情口上にて申上べく之所鈍愚之口に恐懼して難述依て如此相認御忿如をも不顧諫書仕候此段偏に御聞入被下度肺肝を碎き奉歎願候

右之情皆下女○○より起りたる事に御座候間彼をお雇なく暇遣候ば宜敷御座候彼有らば愈家に大害を生じ御名を汚すに至るかと奉存候此段御聞屆之程偏に奉願候

右之條々私心を御洞察被下御聞入被下置候はば雀躍歡喜生涯中之幸福元より大なるは無候之偏に奉歎願候

    ○○○○

         頓首謹白

  ○○父上大君樣

【 敬白

 父上様母上様御中(おんなか)日久(ひひさ)しく度々(たびたび)不和相生候段(あひしやうじさふらふだん)誠に以て私(わたくし)儀心配仕(つかまつり)淚胸中に滿ち難忍(しのびがたく)落淚仕(つかまつりし)事更に無之(これなく)候依(よつ)て父の御(ご)惠愛を以て此(この)事御聞入被下置(おきゝいれくだされおき)偏(ひとへ)に御中(おんなか)睦親(ぼくしん)之(の)段只管(ひたすら)に奉悃願(こんぐわんたてまつり)候此(この)事情口上(こうじやう)にて申上(まうしあぐ)べく之(の)所鈍愚(どんぐ)之(の)口(くち)に恐懼(きようく)して難述(のべがたく)依(よつ)て如此(かくのごとく)相(あひ)認(したゝめ)御忿如(ごふんじよ)をも不顧(かへりみず)諫書(かんしよ)仕(つかまつり)候此(この)段偏(ひとへ)に御聞入被下度(おきゝいれくだされたく)肺肝(はいかん)を碎き奉歎願候(たんぐわんたてまつりさふらふ)

右之(の)情皆下女○○より起りたる事に御座候間(あひだ)彼をお雇(やとひ)なく暇(いとま)遣候(つかはしさふらは)ば宜敷(よろしく)御座候彼(かれ)有らば愈(いよいよ)家(いへ)に大害(たいがい)を生(しやう)じ御名(おんな)を汚(けが)すに至るかと奉存候(ぞんじたてまつりさふらふ)此段御聞屆(おききとどけ)之(の)程偏(ひとへ)に奉願候(ねがひたてまつりさふらふ)

右之條々私心(ししん)を御洞察(ごどうさつ)被下(くだされ)御聞入被下置候(おきゝおきくだされさふらは)はば雀躍歡喜生涯中(ちう)之(の)幸福元より大なるは無候(なくさふらふ)之(これ)偏(ひとへ)に奉歎願候(ぐわんたてまつりさふらふ)

    ○○○○

         頓首謹白(とんしゆきんぱく)

  ○○父上大君(たいくん)樣】

 と認(したゝ)めた一通の書狀が出た。

 伏字以外は原文どほりである。

 正にT伯父が少年時代の筆蹟と思はれる物、私はこれを別にして保存してゐた。保存しておいて三年、たまたま叔母の死ぬに遇つて、諏訪に行つた時に、私はその席で伯父に幾年ぶりかで逢へた。

[やぶちゃん注:以下、同然の異例の処置を施した。]

 芳簡拜披殘暑今以て殘り候處益益御健勝奉賀候偖先日○○にてお話有之候祕書御戾し被下難有受納致候老生多年心掛り之品入手致し安堵之至云々

【芳簡(はうかん)拜披(はいひ)殘暑今以て殘り候處益益(ますます)御健勝奉賀(がしたてまつり)候偖(さて)先日○○にてお話有之(これあり)候祕書(ひしょ)御戾し被下(くだされ)難有(ありがたく)受納(じふなふ)致候老生(らうせい)多年心掛り之(の)品(しな)入手致し安堵之(の)至(いたり)云々】

 これが伯父が生涯中(ちう)に唯一度(ど)私に書いた手紙である。

 T伯父、これもまた數年前(ぜん)に死んでしまつてゐるのである。

 私はいま、どうしてそれが私のおぢいさんの手にあつたものか。どうしてまた私のところに移つたものか。その時分はおやぢの前に出てはとても物などいへるものではない。それで、あれを書いてそつとおやぢの机の上にのせて置いたものだが、それについておやぢは一言(こと)もいはず、自分もまた一言もいへず、人に話しもできず、ただその後(あと)はその書いた物をおやぢはどうしたかと、そればかり苦(く)になつてゐて、未だに苦にしてゐた物だ。と言つてゐた伯父に親しむ。

 長者の髭鬚(ししゆ)を生(はや)した、謹嚴でにこやかな伯父が、瞼(まぶた)をすこしあからめて、いふところの祕書(ひしよ)を得て喜び安堵したといふわけかどうかしらぬ。その後(ご)幾何(いくばく)もなくこの伯父の訃告(ふこく)に接した。

[やぶちゃん注:これは、本書中、白眉の一章と言える。芥川龍之介も生きておれば、きっと「いいものを書いた。」と小穴を讃えたものと疑わぬ。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(60)「伯父」(1)「K伯父」

 

 伯父

 

 

         K伯父

 

 さうよ、松本藩廢止して天領となり、伊那縣となり、筑摩縣となり長野縣となりとなるかな、俺らはどうもといふのが、やはり順なのであらう。彼處(あそこ)は木曾の三宿の一つで、貫目改所(かんめあらためじよ)があつた土地である。地名の由來が、遠い昔、木曾ノ義仲がその馬の脚の疵(きず)を自分で洗つてやつた、といふにあるかと思へばまた、ここで二人あすこで三人と飯盛女を抱へてゐた。木曾街道六十九次、廣重の錦繪で見ると、さびゆく秋の色ぞかなしきであるが、木曾の奥からは女房子(にようぼうこ)が馬を曳いておらやとつさを迎へに出張(でば)つてもきや賑やかな場所であつたはずである。はるばる江戸まで稼ぎにいつて錢を持つたとつさが、郷里(きやうり)のちかまでやれやれと大事なところでゆるみだし、少しは財布の紐もはづさうか、かかさはさはさせじの木曾の入口、そこがK伯父さんの生れた土地なのである。

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。以下、同じ。

「木曾の三宿」奈良井宿・妻籠宿・馬籠宿。但し、以下の木曾義仲の馬の脚云々は中山道の洗馬(せば)宿の由来譚であり、実際、「北国西街道」(善光寺街道・善光寺西街道とも称した)が「中山道」から分岐していた洗馬宿内には、街道を通行する伝馬の荷物の重量を検査するための貫目改所が置かれたから、どうもここは洗馬宿を指しているように思われ、また歌川広重の描いた「木曾街道六十九次」では、洗馬宿のそれこそが「さびゆく秋の色ぞかなしき」に相応しいと思う私にははなはだ不審ではある。

「貫目改所」江戸幕府が問屋場に置いた機関で、街道を往来する荷物の貫目(重量)の検査に当った。大名や旗本が過貫目の荷物を運搬させて宿や助郷(すけごう)の人馬役業務を苦しめたことを鑑みて設置されたものであるが、通過荷物の重量を総てをここで改めていたのでは往還の業務に支障を来たすため、実際には荷物付け替えの際に重い荷物のみを改めたという。伝馬(てんま)荷物は一駄(だ)三十二貫目、駄賃荷物は四十貫目を標準とした。]

 K伯父さん、この伯父はその一生をまことに不遇で終つてしまつた。小言も言はず、物もくれなかつたかはりに、げえもねえ話でも、ただありのままにそのままに昔話にしてくれた伯父であつた。

 げえもねえ話のげえもねえ話の例をあげると、

 棒(ぼう)ちぎりに黐(もち)をつけて、納戸(なんど)のなかの樽の呑口(のみくち)につつこみ、錢を釣上(つりあ)げては持出してつかつてゐた話(物價が、一、二錢四厘男ぞうり三足(ぞく)。一、八錢、女わらぞうり十足。といつた時の、また一昔(むかし)も二昔も前の時代である。)積上げた米俵の上に跨がつて遊んでゐたら、通りがかりの人に梅毒だと教へられた話(褌(ふんどし)もせずにちんぽこを出して知らずに遊んでゐたありさまの子供、花柳病の名も知らぬうちに左樣な病氣を持たされた土地、また時代でもあつたとみえる。伯父は何も知らぬのだからちんぽこを出してゐたのだと言つてゐた。宿場女郎であるのか飯盛女か、その相手がそれを聞いて藥を屆けてよこしたといふのである。)本箱を持つて諏訪に遊學してゐたときには、塾生(じゆくせい)一同が本を賣つてまでして、…………………………たものであるが、先生に……………………しようではないかといふことになつて、けいあんに周旋(しうせん)をたのんでおいたところ、先生の家の玄關に連れてきたのが、以前自分達が雇うつてゐてお拂箱(はらいばこ)にした女であつたので、自分達も驚いたが女も驚いた話。神戸(かうべ)の遊廓では夜中に、コロリだ、コロリだ、といふ騷ぎがあつて皆狼狽しておもてに飛出したら、コロリでなくて心中があつての騷動であつた話。等々(とうとう)である。

[やぶちゃん注:「積上げた米俵の上に跨がつて遊んでゐたら……」以下の部分、勿論、その後の点線で伏字にしてある部分がまるで分らぬ。チンポコを丸出しにしている子どもへの冗談としても、「梅毒」はよく判らぬ。識者の御教授を乞う。

「けいあん」は「桂庵」「慶庵」などと書き、縁談や奉公の仲介を生業(なりわい)とする者、口入れ屋のことである。寛文年間(一六六一年~一六七三年)頃の江戸の医師大和桂庵が奉公や縁談の世話をしたことに由る呼称とされる。ここは特に縁談のそれであろう。確かにそれなら吃驚りする。]

 私は信州人の子であり、またこの八年前からは戸籍も信州生れとなつたのであるが、育つた土地ではないので、信州の地理にも委しくなくて困るが麻市(あさいち)があると聞いた大町(おほまち)、日本アルプスの登山口であらうか、あの大町にあそこに高遠(たかとほ)の長尾無墨(ながをむぼく)が塾を開いてゐた時、伯父はその塾に塾生となつてゐたといふ。さうして或る日、文武兩道の士この無墨に連れられて一同が有明山(ありあけさん)に登つた時のことであるが、無墨は武士のさういふときの姿、伯父達は當時の流行で紫の片面引染(かためんひきぞめ)の木綿の三尺帶、それに一本ざしで出掛けたものの夜(よる)宿(やど)をとつて泊つたところが、階下の爐ばたに一晩中人が集まつてゐて、その騷ぎでうるさくて睡られもせず、夜が明けて騷ぎの仔細を尋ねたら、人の出入りがはげしかつたのも道理、里の人々のはうでは一行を山賊と思ひこんで、若者達を狩集めて夜中警戒をしてゐたのだといふには呆れたともいふ。それに明治五年もうその歳(とし)の暮におしつまつて曆法改正のことがあつた時には、(明治五年十二月四日の次の日を六年一月一日(じつ)として太陽曆となる。)他の土地から集つてきて佑た塾生高の間で、新曆の正月で休みをとる者と舊曆の正月で休みをとる者とを二組にわけて、じやんけんがあつたといふことである。通ひの門弟もあるし、塾生全部が新曆で休みをとることは許されなかつたといふ。通ひの門弟にとつては、新曆で休むといふことが左ほどに痛切ではなかつたと思ふ。明治五年は伯父が十六歳の時であらう。

[やぶちゃん注:ここの叙述、暦制変更に関わる市井の状況を伝えるという点でも面白い叙述である。

「長尾無墨」(?~明治二七(一八九四)年)は官吏で日本画家。維新前は信濃高遠藩士で藩校進徳館の大助教であった。維新後は筑摩県に勤務し、明治七(一八七四)年に県権令永山盛輝に従って県下の教育事情を調べ、「説諭要略」に纏めた。退職後、田能村竹田(たのむらちくでん)の門に学び、雁の絵を良くしたという。本姓は宇夫形(うぶかた)。著作に「無墨山人百律」「善光寺繁昌記」がある(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。]

「さうさなあ、英京龍動(えいきやうロンドン)が佛國(ふつこく)パリスにでも行つたならばどうか知らんが、面白いことはあまりないずら。」と言つてゐた晩年の伯父に、無墨について私は何故もう少し聞いてはおかなかつたかと今日一寸後悔してゐるのである。一二年前(ぜん)の文藝春秋に、向島に住んでゐた明治中半(なかば)の文人墨客(ぼつきやく)についてたれかが書いてゐた。そのなかに無墨の名も交つてはゐたが、人は長尾無墨の名などはあまり知らぬらしい。K伯父が少しでも詩書畫(ししよぐわ)に志(こゝろざし)を持つてゐた人であれば、その不遇の一生のなかにも、これまた風流の趣(おもむき)を捉らへ得た筈であると密かに考へもするその私にしてからが、無墨が私の祖父の家で畫(か)いた繪を持ち、未だにこれを表具(へうぐ)もさせずにゐるのではある。

[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「英京龍動(えいきやうロンドン)」はイギリスの首都ロンドン、「佛國(ふつこく)パリス」はフランスの首都パリ、の意である。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(59)「鯉」

 

 

 

 睡蓮の鉢を三つ四ついれられる程の池を去年の庭にこしらへた。ついでにめだかをいれておいた。すると秋にはめだかの子が出來た。そこでこれは別にガラスの器に收容してその池にいれておいた。然し始めてのことなので注意が足りず、一夜の雨に五十ぴきばかりの子を一つも殘さずなくなしてしまつた。めだかの子は器から溢れだして親に喰べられてでもしまつたらしい。そこで今年は用心して、櫻の花びらがお向ひから一つ二つとこの池に浮んでゐる日頃(ひごろ)から、再びめだかの卵をみつけだした。注意よろしく現在は、人が「やあ、熱帶魚?」と聞く程、卽ち大方の人にはまだめだかかとはつきりわからぬ五六分(ぶ)位(ぐらゐ)の魚(さかな)となつてゐる。

[やぶちゃん注:「五六分」一・五~一・八センチメートルほど。]

 お向ひのお醫者さんの家には池らしい池があつて五六圓どこの鯉が泳いでゐるのだ。このお醫者さんのおばあさんにめだかの卵を若干進呈した。すると俄然お向ひの人達は自家(じか)の池、金魚鉢などのなかに魚(さかな)の卵を物色しはじめた。さうして鯉の卵だといふものを僕の家(うち)に呉れた。家(うち)の細君は欣喜(きんき)として、砂糖甕(さたうがめ)だか味噌甕(みそがめ)だか知らぬが甕(かめ)を庭に出してきて、この鯉の卵の目鼻に注意を集中しだした。卵は甕にあること一兩日で孵り何やら魚(さかな)のかたちはして菱(ひし)の葉の陰に動きだした。

 この鯉が生れてから幾日であつたであらうか。

 関西に轉地してゐた年下の友人が、昨夜突然夫婦づれで我家(わがや)を訪れてきた。この人達もめだかの子をつかまへて「やあ、熱帶魚ですか。」と言つてゐる。甕を疊の上に持出して鯉の子を見せたら、「あら、これが鯉? 丸煮(まるに)に出來るあの鯉?」と妻君は感心してゐた。

 僕は若い女の凄い空想に驚いた。

 

         ○

 

 小さい庭のまんなかに醬油樽を埋(い)けて、金魚の池としてゐたことがある。然しこれは、實際には犬の水呑場(みづのみば)やあつたのかも知れない。

 始め庭さきで、ぢやぶ、ぢやぶつ、といふ音がした時には何んだと思つた。まだあの時は犬を飼つてはゐなかつた。

 その池? に鯉を買つていれておきたいと細君はいふ。

 入物(いれもの)が小さいから駄目だと自分はいふ。その夏はそれですんだ。翌年またも鯉を買つてはいけないかといふ。承知をしたら、ほんとは去年に買うつてあるのだといふ。どこに置いてあるのだと聞くと預けてあるといふ。どうせ十錢か十五錢の鯉なら小つぽけなものだらう、それにしても一年もたつてゐればまた少しは大きくなつてもゐるだらう。とつて來いと言つたら早速に飛出して行つた。行つたら店(みせ)の親爺が、どの鯉を預つたのだかわからなくなつてしまつたからどれでも好きなのを持つてゆけと言つたといふ。そこで細君は一番大きいのを貰つて元氣で歸つてきた。それは到底醬油樽に住(すま)へる代物(しろもの)ではない。樽から飛出すのをつかまへて入れ入れしてゐるうちに、何時(いつ)か猫か犬にとられてしまつた。

 以前借家に居た時の話である。

[やぶちゃん注:志賀直哉風の小品である。小穴隆一の文章にしては、迂遠な表現やまどろっこしい描写が殺がれており、微笑ましい。しかし、芥川龍之介が生きていたとして、これを褒めたかどうかは別問題ではある。私は基本、志賀が嫌いだから判らぬと言っておくにとどめる――と――小穴隆一風に終わることとしよう。]

柴田宵曲 妖異博物館 「人の溶ける藥」

 

 人の溶ける藥

 旅商人が越後で大蛇の人を呑み、且つ傍らの草を舐めると、膨れた腹が忽ちもとのやうになるのを見、その草を摘んで歸る。江戸へ歸つてから、蕎麥を五六十食べると云ひ出して賭になる。二十五ばかり食べたところで廊下に出して貰ふ約束で、ひそかにその草を嘗めたのはいゝが、元來人を溶かす藥であつたので、蕎麥が羽織を著て坐つてゐたといふ落語がある。

[やぶちゃん注:この落語は一般に江戸落語では「そば清(せい)」と呼ばれるもので、蕎麦を手繰る音が極め付けの私も好きな演目である。別名を「蕎麦の羽織」「羽織の蕎麦」などとも称する。ウィキの「そば清」よりシノプシスを引く。江戸の『そば屋で世間話をしている客連中は、見慣れぬ男が大量の盛りそばを食べる様子を見て非常に感心し、男に対し、男が盛りそばを』二十『枚食べられるかどうか、という賭けを持ちかける。男は難なく』二十『枚をたいらげ、賭け金を獲得する』。『悔しくなった客連中は、翌日再び店にやってきた男に』三十『枚への挑戦を持ちかけるが、またしても男は完食に成功し、前日の倍の賭け金を取って店を出ていく。気の毒がったひとりの常連客が、「あの人は本名を清兵衛さん、通称『そばっ食いの清兵衛』略して『そば清』という、大食いで有名な人ですよ」と、金を奪われた客連中に教える』。『悔しさがおさまらない客連中は、今度は』五十『枚の大食いを清兵衛に持ちかける。清兵衛は自信が揺らぎ、「また日を改めて」と店を飛び出して、そのままそばの本場・信州へ出かけてしまう(演者によっては、清兵衛は行商人として紹介され、信州へ商用で出かけたと説明する)。』『ある日、清兵衛は信州の山道で迷ってしまう。途方にくれ、木陰で休んでいると、木の上にウワバミがいるのを見つけ、声が出せないほど戦慄する。ところがウワバミは清兵衛に気づいておらず、清兵衛がウワバミの視線の先を追うと、銃を構える猟師がいるのが見える。ウワバミは一瞬の隙をついてその猟師の体を取り巻き、丸呑みにしてしまう。腹がふくれたウワバミは苦しむが、かたわらに生えていた黄色い(あるいは赤い)草をなめると腹が元通りにしぼみ、清兵衛に気づかぬまま薮のむこうへ消える。清兵衛は「あの草は腹薬(=消化薬)になるんだ。これを使えばそばがいくらでも食べられる。いくらでも稼げる」とほくそ笑み、草を摘んで江戸へ持ち帰る』。『清兵衛は例のそば屋をたずね、賭けに乗るうえ、約束より多い』六十『枚(あるいは』七十『枚)のそばを食べることを宣言する。大勢の野次馬が見守る中、そばが運び込まれ、大食いが開始される。清兵衛は』五十『枚まで順調に箸を進めたが、そこから息が苦しくなり、休憩を申し出て、皆を廊下に出させ(あるいは自分を縁側に運ばせ)、障子を締め切らせる。清兵衛はその隙に、信州で摘んだ草をふところから出し、なめ始める』。『観客や店の者は、障子のむこうが静かになったので不審に思う』。『一同が障子を開けると、清兵衛の姿はなく、そばが羽織を着て座っていた。例の草は、食べ物の消化を助ける草ではなく、人間を溶かす草だったのである』。]

 幸田露伴博士が「圏外文學雜談」に記すところに從へば、この話は元祿六年の「散人夜話」に出てゐるさうである。延享五年の「教訓しのぶ草」には、蕎麥でなしに餠になつてゐるといふ。「散人夜話」はどうなつてゐるか、見たことがないからわからぬが、文政三年の「狂歌著聞集」にあるのも牡丹餅であつた。先づ元祿あたりが古いところであらう。

[やぶちゃん注:「幸田露伴」の「圏外文學雜談」は書誌情報さえ未詳。識者の御教授を乞う。

「元祿六年」一六九三年。

「散人夜話」寛文一一(一六七一)年頃に会津藩藩主保科正之に招かれて以後、三代に亙って藩主侍講を勤めた後藤松軒の儒学随筆(kitasandou2氏のブログのこちらの情報に拠る)らしい。

「延享五年」一七四八年。

「教訓しのぶ草」不詳。識者の御教授を乞う。

「文政三年」一八二〇年。

「狂歌著聞集」江戸前期の俳人椋梨一雪(むくなしいっせつ 寛永八(一六三一)年~宝永六(一七〇九)年頃?:京都生まれ。松永貞徳・山本西武(さいむ)門。寛文三年に「茶杓竹(ちゃしゃくだけ)」を著わして安原貞室を論難した。後、大坂で説話作者となった)の説話集。詳細不祥。]

 

 大坂ではこの落語を「蛇含草」と称するさうだが、この名前は落語家がいゝ加減につけたものではない。「子不語」に白蛇來つて雞卵を呑む。然る後樹に上り、頸を以て摩すると、膨れた卵は忽ち溶けてしまふ。そこで戲れに木を削つて雞卵の中に入れ、もとの處に置いたら、これを呑んだ蛇は大いに窘(くる)しみ、遂に或草の葉を取つて前の如く摩擦し、木卵を消し去つた。消化不良の際、その草を以て拂拭するに、立ちどころに癒えざるなしとある。こゝまでは至極無事であつたが、鄰人の背中に腫物が出來た時、食物なほ消す、毒また消すべしといふわけで、煎じて飮ませたところ、この應用は失敗に了つた。背中の腫物は癒えたが、飮んだ人の身體がだんだん小さくなり、これを久しうして骨まで溶けて水になつた。この事が蛇含草といふことになつてゐる。日本でも寛政九年版の「北遊記」に蛇含草の名が用ゐてあるが、これは醫者が難病を治するまでで、身體が溶けるやうな危險はなかつたらしい。

[やぶちゃん注:「蛇含草」「蛇眼草」とも表記する。ウィキの「そば清」より「蛇含草」のシノプシスを引く。『夏のある日。一人の男が甚平を着て友人(東京では隠居)の家に遊びに行ったところ、汚れた草が吊ってあるのを見つける。友人は「これは『蛇含草』と呼ばれる薬草で、ウワバミ(=大蛇)が人間を丸呑みにした際、これをなめて腹の張りをしずめるのだ」と言う。珍しがった男は、蛇含草を分けてゆずってもらう』。『そんな中、友人が火を起こし、餅を焼き始める。男は焼けたばかりの餅に手を伸ばし、口に入れる。友人は「誰が食べていいといったのか」と、いたずらっぽくたしなめ、「ひと言許しを得てから手を付けるのが礼儀だろう。それならこの箱の中に入った餅を全部食べてくれても文句は言わない」と言い放つ。男は面白がり、「それなら、これからその餅を全部食べてやろう」と宣言する』。『男は「『餅の曲食い』を見せよう」と言って、投げ上げた餅をさまざまなポーズで口に入れる曲芸を披露する(「お染久松相生の餅」「出世は鯉の滝登りの餅」といった、滑稽な名をつける)など、余裕を見せるが、ふたつを残したところで手が動かなくなり、友人に「鏡を貸してくれ」と頼む。友人が「今さら身づくろいをしても仕方がないだろう」と聞くと、男は「いや、下駄を探すのだ。下を向いたら口から餅が出てくる」』『長屋に帰った男は床につき、懐に入れた蛇含草のことを思い出して、「胃薬になるだろう」と口に入れてみる』。『その後、心配になった友人が長屋を訪れ、障子を開けると、男の姿はなく、餅が甚平を着てあぐらをかいていた。蛇含草は食べ物の消化を助ける草ではなく、人間を溶かす草だったのである』。

「子不語」に載る以上の話は「第二十一卷」の「蛇含草消木化金」である。中文サイトのそれを加工して示す。

   *

張文敏公有族姪寓洞庭之西磧山莊、藏兩雞卵於廚舍、每夜爲蛇所竊。伺之、見一白蛇吞卵而去、頸中膨亨、不能遽消、乃行至一樹上、以頸摩之、須臾、雞卵化矣。張惡其貪、戲削木柿裝入雞卵殼中、仍放原處。蛇果來吞、頸脹如故。再至前樹摩擦、竟不能消。蛇有窘狀、遍歷園中諸樹、睨而不顧、忽往亭西深草中、擇其葉綠色而三叉者摩擦如前、木卵消矣。

張次日認明此草、取以摩停食病、略一拂試、無不立愈。其鄰有患發背者、張思食物尚消、毒亦可消、乃將此草一兩煮湯飮之。須臾間、背瘡果愈、而身漸縮小、久之、並骨俱化作水。病家大怒、將張捆縛鳴官。張哀求、以實情自白、病家不肯休。往廚間吃飯、入内、視鍋上有異光照耀。就觀、則鐵鍋已化黃金矣、乃捨之、且謝之。究亦不知何草也。

   *

次の段に書いてある内容が末尾にある。

「寛政九年」一七九七年。

「北遊記」ネット上で見出せる寛政九年板行の勢州山人著「諸国奇談北遊記」(四巻四冊)か。それ以上の書誌などは現在、不明。]

 

 蛇含草は人を溶かすが、それを煎じた鍋は鐡化して黄金となると「子不語」に書いてある。「日陰草」といふ寫本の隨筆は、その成つた時代を詳かにせぬが、外國の事として「子不語」の話の後年を傳へ、煎じた釜が金になつたことまで記してゐる。たゞいさゝか不審なのは、「子不語」が「究むれども亦何草たるを知らざるなり」と云つてゐるこの事に就いて、「いでや此草は金英草とて、鐡を點して金となす草也、されども大に毒草也、馬齒莧に似て紫なる草也となり、見知ておくべき物也」などと知識を振𢌞てゐる一事である。尤も「子不語」は背瘡の患者に與へたのに、この書は「腹脹をやめる人」となつてゐるから、兩者の間にもう一つ記載があり、「日陰草」はそれによつて書いたものかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「日陰草」現在の秋田県能代の住吉神社別当を勤めた修験者で国学者の大光院尊閑(たいこういんそんかん 慶安四(一六五一)年~元禄一四(一七三七)年:役 尊閑(えき(えん?)のたかやす)とも称した)の著に同名の書があるが、それか。

「金英草とて……」以下の叙述と酷似する者と思われる内容が、中文(簡体字)サイトのここにある。別称とする「透山根」の方をやはり中文サイトを調べると、ここには誤食すると即死するとある! しかも……写真入り! なんじゃあ、こりゃあ! 柴田じゃあないが、今以ってネットでも「知識を振𢌞てゐる」と言える記載である。

「點して」不詳。ある熱による変化を与えて変性させて、という意味か。

「馬齒莧」音なら「バシケン」或いは「バシカン」であるが、これが現代中国語で、庭の雑草としてよく見かける(私の家の庭にもよく蔓延る)、食用になるナデシコ目スベリヒユ科スベリヒユ属スベリヒユ Portulaca oleracea のことである。]

 

 蛇含草の名は見えぬけれども、同じ話は「子不語」より古く「耳奇錄」に出てゐる。鹿を呑んだ大蛇が一樹に就いてその實を食ふと、腹中の物は次第に消え去つた。これを目擊した官人が、從者に命じてその葉を採らしめ、家に歸つた後、飽食の腹を減ぜんとして、例の葉を煎じて飮む。一夜明け午になつても起きて出ぬので、布團を剝いで見たら、殘るところ骸骨のみで、餘は水になつてゐた。結局原産地は支那で、林羅山が「怪談全書」に紹介した頃は醫療譚であつたのが、一轉して大食譚になり、遂に蕎麥が羽織を著て坐つてゐる話までに發展したものと思はれる。

[やぶちゃん注:「耳奇錄」不詳。識者の御教授を乞う。

『林羅山が「怪談全書」に紹介した』「怪談全書」は江戸初期の朱子学派の儒者で林家の祖たる林羅山(天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)が出家後の号林道春(どうしゅん)の名で著した中国の志怪小説の翻訳案内書。全五巻。漢字カナ混じり文。ここで柴田が言っているのは同書「卷之二」の「歙客(せふかく)」である。所持する三種の別テクストを校合し、最も読み易い形に私が成形したものを以下に示す。

   *

 歙客(せふかく)と云ふ者、潛山(せんざん)を行き過ぐる時、蛇の腹、腫れふくれて、草の内に這ひ顚(ころ)ぶ。一つの草を得て、之れを咬み、腹の下に敷きて摺りければ、脹の腫れ、消して常の如し。蛇、走り去る。客(かく)の心に此の草は脹滿腫毒(ちやうまんしゆどく)を消(しよう)する藥なりと思ひ取りて、箱の内に入れおく。

 旅屋に一宿するとき、隣りの家に旅人有りて、病ひ痛むの聲、聞ゆ。客(かく)、行きて之れを問へば、

「腹、脹りて痛む。」

と云ふ。即(すなは)ち、彼(か)の草を煎(せん)じ、一盃、飮ましむ。暫く有りて苦痛の聲なし。病ひ、癒えたりと思へり。

 曉(あかつき)に及びて水の滴(も)る聲、有り。病人の名を呼べども答へず。火を曉(とも)して是れを見れば、其の肉、皆、融けて水と成り、骨許(ばか)り殘りて床(ゆか)に有り。客(かく)驚き周章(あはて)て、未明に走り行く。

 夜明けて、亭主、之れを見て、其の故(ゆゑ)を知らず。其の殘る所の藥の入れたる釜、皆、黃金(わうごん)となる。不思議の事也。潛(ひそか)に彼(か)の人の骨を埋(うづ)む。

 年を經て、赦(しや)を行はれければ、彼(か)の客(かく)、皈(かへ)り來つて、此の事を語る。故に、世人、傳へ聞けり。【「春渚記聞」に見えたり。「本草綱目」に「海芋(かいかん)」と云ふ草を練りて黃金(わうごん)に作ると云へり。此の草の事にや。】

   *

この最後の割注に出る「春渚紀聞」(現代仮名遣「しゅんしょきぶん」)は宋の何子遠(かしえん)の小説集で、同書の「卷十記丹藥」の「草制汞鐵皆成庚」を指している。以下に中文サイトより加工して示す。

   *

朝奉郎劉筠國言、侍其父吏部公罷官成都。行李中水銀一篋、偶過溪渡、篋塞遽脱、急求不獲、即攬取渡傍叢草、塞之而渡。至都久之、偶欲求用、傾之不復出、而斤重如故也。破篋視之、盡成黃金矣。本朝太宗征澤潞時、軍士於澤中鎌取馬草、晚歸鎌刀透成金色、或以草燃釜底、亦成黃金焉。又臨安僧法堅言、有歙客經於潛山中、見一蛇其腹漲甚、蜿蜒草中、徐遇一草、便嚙破以腹就磨、頃之漲消如故。蛇去、客念此草必消漲毒之藥、取至篋中。夜宿旅邸、鄰房有過人方呻吟床第間。客就訊之、云正爲腹漲所苦。卽取藥就釜、煎一杯湯飮之。頃之、不復聞聲、意謂良已。至曉、但聞鄰房滴水聲、呼其人不復應、卽起燭燈視之、則其人血肉俱化爲水、獨遺骸臥床、急挈裝而逃。至明、客邸主人視之、了不測其何爲至此、及潔釜炊飯、則釜通體成金、乃密瘞其骸。既久經赦、客至邸共語其事、方傳外人也。

   *

「本草綱目」の「海芋」は中文ウィキソース本草の「六」「1.51 海芋として載る。そこには先に出た「透山根」が附録として掲げられ、その中には「金英草」も出、やはり両者がごく近縁種であることが確認出来、しかもやっぱり『大毒』とある。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(58)「東郷大將」

 

 東郷大將

 

 先月のことと思ひます。

 畫人(ぐわじん)石井鶴三は春陽會洋畫研究所の學生達を前にして東郷大將がとつた丁字(ていじ)戰法を論じ人間東郷を更に見直させ、而して鶴三一流に、人間一生の腹の据ゑ樣(やう)をば説きました。

[やぶちゃん注:「石井鶴三」(明治二〇(一八八七)年~昭和四八(一九七三)年)は彫刻家・洋画家。

「春陽會」大正一一(一九二二)年一月に設立された在野の現存する洋画団体。ウィキの「春陽会」によれば、『院展の日本画部と対立、脱退した洋画部同人を中心に創立された。創立時のメンバーは、小杉放庵らの日本美術院洋画部系の画家と、岸田劉生や梅原龍三郎らだった。その後、梅原と岸田は脱会し、河野通勢や岡本一平らが参加』とある。

「東郷大將がとつた丁字戰法」日露戦争の日本海海戦に於いて連合艦隊司令長官東郷平八郎(弘化四(一八四八)年~昭和九(一九三四)年:事蹟はウィキの「東郷平八郎」を参照)が《採ったとされる》砲艦同士の海戦術の一つ。敵艦隊の進行方向を遮るような形で自軍の艦隊を配し、全火力を敵艦隊の先頭艦に集中できるようにして敵艦隊の各個撃破を図る戦術を指す。しかし、日本海海戦では、この戦法は採用はされたものの、実際にはその配置にはならず、「丁字戦法」は結果的には形勢されなかったとされている。まず、ウィキの「日本海海戦」を見よう。『連合艦隊は秋山参謀と東郷司令長官の一致した意見によって、敵前の大回頭と丁字戦法を実施することを考えていたが、黄海海戦での失敗を受けて連携水雷作戦を海戦で使用することを決めた。しかしそれも当日の荒天により使用が不可能になると、敵前逐次回頭という敵の盲点を衝くことと、連合艦隊の優速を活かし、強引に敵を並航砲撃戦に持ち込む方法に切り替えた』。『当時の海戦の常識から見れば、敵前での回頭』(しかも二分余りを費やして一五〇度も回頭せねばならなかった)『は危険な行為であった。実際、回頭中はともかく、その後の同航戦中は旗艦であり先頭艦であった三笠は敵の集中攻撃に晒され、被弾』四十八発の内、四十発が『右舷に集中していた。しかし、一見冒険とも思える大回頭の』二『分間には、日本海軍の計算が込められていた。それは次のようなものである』。『確かに連合艦隊は』二分間余り、『無力になるが、敵も連合艦隊が回頭中はその将来位置が特定できず、バルチック艦隊側も砲撃ができない(実際、三笠が回頭を終えた後に発砲してきている)』。ジャイロ・コンパスが発明されていない当時、一点に『砲弾を集中し続けることは事実上できなかった』。『当時は照準計の精度が悪く、第』一『弾が艦橋や主砲などの主要部に』一『発で命中することはごく稀であった』。そのため、第一弾の『着弾位置(水柱)から照準を修正して、第』二『弾からの命中を狙うことが多かった。しかしバルチック艦隊が使用していた黒色火薬は、発砲後にその猛烈な爆煙によって視界が覆われ、煙が晴れて第』二『弾を放つまでに時間が掛か』。即ち、回頭中に第二弾は『飛来しないか、飛来するとしても慌てて撃つため命中精度が低い』。『バルチック艦隊が、それでも仮に一点に砲撃を集中したとしても、わざわざ砲撃が集中している場所に後続艦は突っ込まずに回避すればよい』。『バルチック艦隊は旗艦である三笠を集中砲撃するが、東郷としては最新鋭で最も装甲の厚い三笠に被弾を集中させ、他艦に被害が及ばないことを狙った』。万一、『三笠が大破し、自らが戦死してでも丁字の状態を完成させることを最優先とした』。『また、前述の旅順封鎖中などの艦隊訓練により東郷は、各艦の速度・回頭の速さなどの、いわゆる「癖」を見抜いており、これが敵前大回頭を始める位置を決めるのに役立った』。『こうして敵前回頭は行われたが、実際の海戦ではその後の両艦隊は並列砲戦に終始し、今まで言われているような「日本側は丁の字もしくはイの字体形に持ち込み丁字戦法を行った」という事実はなかった』(下線やぶちゃん)。『日本側はウラジオストクに逃げ込もうとするロシア艦隊に同航戦を強要し、かつロシア艦隊より前に出ることはできたが、相手の進路を遮断することはできておらず、このため現場のどの部隊も「日本海海戦で大回頭後に丁字(もしくはイの字)体形になった」とは思っておらず、一次資料の各部隊戦闘詳報にも公判戦史にも書かれていない。ところが海戦直後の新聞紙面で初めて「丁字戦法」のことが触れられ世間に広まり』、『一次史料にはどこにも書いていないのに、やったかのようになってしまった』とあり、また、ウィキの「丁字戦法」にも(戦術図有り)、『日本海海戦において日本海軍の東郷平八郎連合艦隊司令長官は戦艦』四隻・装甲巡洋艦八隻を『率いてロシアのバルチック艦隊主力』(戦艦八隻・装甲巡洋艦一隻・海防戦艦三隻)『を迎え撃った』。一九〇五年五月二十七日十四時七分、『ロシア艦隊と反航戦の体勢で進んだ日本側は敵の面前で左へ』百六十五度の『逐次回頭を行った。これを日本側は丁字戦法と説明している』が、予想に反して、三十『分程度で主力艦同士の砲戦は決着がつき、ロシア艦隊は大損害を受けて統制を失った。日本艦隊は主力艦の喪失ゼロに対して、ロシア艦隊は最終的に沈没』二十一隻・拿捕六隻・中立国抑留六隻と『壊滅的な打撃を受け、ウラジオストク軍港にたどり着いた軍艦は巡洋艦』一隻と駆逐艦二隻に『過ぎなかった』。『実際にはバルチック艦隊の変針により並航戦へすぐ移り、「敵艦隊の進路を遮る」事が遂にできず通常の同航戦でみられる様な「ハ」の字、若しくは「リ」の字に近い形で推移、完全な丁字は実現しなかった』(下線やぶちゃん。以下も同じ)。『また戦闘詳報や各種一次資料に「日本海海戦で敵前大回頭後に丁字戦法をした」という記述はないことから、このため当事者たち自身は大回頭後に「丁字」若しくは「イの字」の体勢が出来たとは考えていないと推測される』。但し、『戦策の丁字戦法には「敵の先頭を圧迫する如く運動し」という記述があり、戦闘詳報に「敵の先頭を圧迫」という記述は存在する』。後に半藤一利は海戦直後の五月二十九日、『詳細な報告も無いまま軍令部よりマスメディアに対して「日本海海戦は丁字戦法で勝てた」と虚偽の発表がなされ、翌日の紙面にそれが掲載されそれがそのまま世間に浸透してしまったという説を唱えているが』、『実際に発表されたのは』六月二十九日の『ことであり』、六月三十日『の朝日新聞に掲載されている』とあるのである。なお、後者のウィキによれば、丁字戦法は『同方向に併走しながら戦う同航戦や』、『すれ違いざまに戦う反航戦から丁字戦法を成り立たせるためには、敵艦隊より速力で上回り敵先導艦を押さえ込めること、丁字の組み始めから完成までに比較的長く敵の攻撃にさらされる味方先導艦が充分な防御力を持つこと、丁字完成後も丁字を長く維持するための艦隊統制及び射撃統制が取れることなどが必要なため、着想は容易だが実行は難しい戦法であるといえる』とある。]

 そこで私も亦、東郷大將についていまここにお話しをする光榮を持ちたいと思ひます。

 私のいふ東郷大將、東郷元帥のことでありますが この東郷さんの姿を遠くからでもよい、一度でも實際に見たといふ人はこれは存外に少ないと思ひます。唯一度(ど)ではあるが私は東郷さんをまのあたりに見た過去を有します。而も、幸運あつて乃木大將と二人を同時に一しよに見てゐるのであります。それは私が小學生の時にでありました。

[やぶちゃん注:「乃木大將」乃木希典(まれすけ 嘉永二(一八四九)年~大正元(一九一二)年九月十三日:事蹟はウィキの「乃木希典」を参照されたい)。]

 私は本郷の西片町(にしかたまち)、東片町で育ちました。その私には、自分の學校の歸りに二三の友達と大學の構内で一わたり遊んでから、家に戾る習慣を持つてゐた時期がありまして、巡視にひどく叱られたこともあります。その時代にです。日露戰爭後で、明治は何年頃(ごろ)でしたか。ピツチ・キヤツチ・シヨウトニホワスト・セカンドオオといふ歌、河野(かうの)とか山脇とか言つてゴムまりで遊んでゐた年頃か、その一寸後(のち)のことでせう。

[やぶちゃん注:「ピツチ・キヤツチ・シヨウトニホワスト・セカンドオオ」私は野球のルールも知らない異常な人間であるが、野球用語を覚えるための子どもの遊び唄であろうか。識者の御教授を乞う。

「河野(かうの)とか山脇とか言つてゴムまりで遊んでゐた」不詳。同前。]

 その日もまづ大學の柔道場ののぞきから始まり、御殿御殿と言つてゐた池のふちの建物の側(そば)までまはつていつた時に、幕にそつて建物の方に何か人々がぞろぞろ這入(はい)つてゆく、その中に私達も混つていつかそのなかに這入てしまつたのです。建物のなかに這入ると皆がしーんとしてゐました。なんといふことなく私達も膝を折つてしまつて隅から室(しつ)のまん中を見詰めてををりした。その時です。私達の傍(そば)を東郷大將、乃木大將が通つたのです。

 あれは道場開きででもあつたのでせうか。二三番見たかその後で私は來賓としての乃木大將と高商の人の(どういふものか高商の文字だけ不思議に忘れません)劍道の試合を見ることになりました。しかしその試合を前にして、東郷大將はまた私達の傍を通つて今度は歸つてゆくのです。

[やぶちゃん注:「高商」一橋大学の前身。]

「如何(どう)して歸るんだらう。」「東郷さんは如何して、乃木さんの試合を見てゆかないのだらう。」とさうけげんには思ひながら片方を見ますれば、かが乃木大將は面、籠手(こて)をつけ、竹刀(しなひ)を持つて道場のまん中に立つてをります。乃木さんのその時の恰好はたゞのお爺さんくさく見えました。相手學生の方はきちんとして強さうに見えました。二三合(がふ)あつたかのうちに、學生の體當(たいあた)りを喰つて乃木さんはどんと仰のけにひつくりかへりました。あつと思つて私は隨分心配したものです。また高商の人も困るだらうなあと思ひました。しかし乃木さんが直(すぐ)に起上り、再びぽかぽかと打合つたかと思ふと、あつけなくそれがその試合の引分けでした。

 私の東郷大將の話はたつたこれだけで終りです。

 何故、東郷さんは乃木さんの試合を見ずに歸つたのか。これを今日(こんにち)、私がみだりに論じたくはありません。また一方乃木大將の場合、自分があの時の乃木さんを見ておかなければ、芥川龍之介の「將軍」によつて、私の一生乃木大將を見る目に歪(ゆが)みをつけたかも知れぬと思つてをります。

[やぶちゃん注:「將軍」大正一一(一九二二)年一月『改造』発表。芥川龍之介の作品の中で、唯一、激しい伏字が今も復元されずにある(現行紛失のため)唯一の作品である。

 小穴隆一の朦朧体に加えて、刊行時期が時期なだけに(昭和一五(一九四〇)年十月)末尾部分、小穴の心境は汲み取り難くされてある。しかし素直に読むなら、小穴隆一は芥川龍之介の「將軍」に示された、異様にマニアックな乃木のイメージを暗に支持しているものと読める。だから主題を乃木とせずに、東郷平八郎の思い出にずらしてあるのだと思う。なお、芥川龍之介の遺児たちは特に父の書いたこの「將軍」故に、陰に陽に学校や軍隊内でいじめを受けたのであった。]

北條九代記 卷第十一 北條時宗卒去 付 北條時國流刑

 

      ○北條時宗卒去  北條時國流刑

 

同七年四月四日、北條相摸守時宗、病(やまひ)に依(よつ)て、剃髮し、法名道果(だうくわ)とぞ號しける。去年の春の初より何となく心地煩ひ、打臥(うちふ)し給ふ程にはあらで、快らず覺え、關東の政治も合期(がふご)し難く、北條重時の五男彈正少弼業時(だんじやうのせうひつなりとき)を以て執權の加判せしめらる。今年になりて、時宗、取分(とりわ)けて、病、重くなりければ、内外の上下、大に驚き奉り、樣々醫療の術を賴みて耆扁(ぎへん)が心を差招(さしまね)くといへども、更に其驗(しるし)もなし。今は一向(ひたすら)打臥し給ひ、漿水(しやうすゐ)をだに受け給はねば、諸人、足手(あして)を空(そら)になし、神社に幣帛を捧げ、佛寺に護摩を修(しゆ)し、精誠(せいじやう)の祈禱を致さるといへども、天理に限(かぎり)あり。命葉、保(たもち)難く、漸々(ぜんぜん)に気血(きけつ)衰耗し、この世の賴(たのみ)もなくなり給ひて、圓覺寺佛光禪師祖元を戒師として、出家せられしが、同日の暮方に遂に卒去し給ひけり。行年三十四歳。寳光寺殿(どの)とぞ稱しける。去ぬる文永元年より今弘安七年に至る首尾二十一年、天下國家の政道に晝夜その心を碎き、朝昏(てうこん)其(その)思(おもひ)を費し、未だ榮葩(えいは)の盛(さかり)をも越えずして、命葉(めいえふ)、忽(たちまち)に零(お)ち給ひけるこそ悲しけれ。嫡子左馬權頭貞時十四歳にて、父の遺跡を相續し、將軍惟康(これやす)の執權たり。彈正少弼業時、加判して、政治を行はれ、貞時の外祖(がいそ)秋田城介(あいだのじやうすけ)泰盛、陸奥守に任ぜられ、その威、既に八方に盈(み)ちて、その勢(いきほひ)、四境に及び、肩を竝(ならぶ)る者なし。奉行、頭人(とうにん)、評定衆も先(まづ)この人の心を伺ひ、諸將、諸司、諸大名も、偏(ひとへ)にその禮を重くせしかば自(おのづから)執權の如くにぞ侍りける。同五月、北條時國、六波羅南の方として、西國の成敗を致されし所に、如何なる天魔の入替りけん、如何にもして世を亂し、關東を亡(ほろぼ)して、我が世を治めて執權となり、眉目嘉名(びもくかうめい)を天下後代(こうだい)に殘さばやとぞ思ひ立たれける。内々その用意ある由(よし)聞えければ、關東より飛脚を以て「俄に密談すべき子細あり」と申上せられしかば、時國、思も寄らず、夜を日に繼ぎて、鎌倉に下向せられしを、是非なく捕へて常陸國に流遣(ながしつか)はす。一味與黨の輩、憤(いきどほり)を挾(さしはさ)み、常州に集(あつま)り、時國を奪取(うばひと)りて大將とし、北陸の軍勢を催し、城郭に楯籠(たてこも)り、討死すべき企(くはだて)ありと聞えしかば、潛(ひそか)に配所に人を遣し、時國をば刺殺(さしころ)しければ、その事、終(つひ)に靜りけり。

[やぶちゃん注:「同七年」弘安七(一二八四)年。

「合期」思うようなる、思い通りに展開すること。

「北條重時の五男彈正少弼業時」北条業時(仁治二(一二四一)年或いは仁治三年~弘安一〇(一二八七)年)は普音寺流北条氏の租。彼は実際には重時の四男であったが、年下の異母弟義政の下位に位置づけられたことから、通称では義政が四男、業時が五男とされた。参照したウィキの「北条業時」によれば、『時宗の代の後半から、義政遁世後に空席となっていた連署に就任』(弘安六(一二八三)年四月に評定衆一番引付頭人から異動)、第九『代執権北条貞時の初期まで務めている。同時に、極楽寺流内での家格は嫡家の赤橋家の下、異母弟の業時(普音寺流)より、弟の義政(塩田流)が上位として二番手に位置づけられていたが、義政の遁世以降、業時の普恩寺家が嫡家に次ぐ家格となっている』とある。

「時宗、取分けて、病、重くなりければ」時宗は満三十二歳の若さで亡くなっているが、死因は結核とも心臓病ともされる。孰れにせよ、執権職の激務も死を早めた要因ではあろう。

「耆扁(ぎへん)」名医。歴史上、名医とされる耆婆(ぎば)と扁鵲(へんじゃく)から。耆婆(生没年不詳)はインドの釈迦と同時代の医師で、美貌の遊女サーラバティーの私生子であった。名医として知られ、釈尊の教えに従った。扁鵲(生没年不詳)は中国の戦国時代(前四〇三~前二二一)の名医で、事実上の中国医学の祖師とされる人物。渤海郡(現在の河北省)の生まれで、「史記」によれば、各地を遍歴して施術を行い、特に脈診に優れていたとされる。彼の才能に嫉妬した秦の太医によって殺害された。

「心を差招く」懇切に依頼して招聘する。

「漿水」飲料水。

「足手(あして)を空(そら)になし」なすすべもなく、途方に暮れ。

「精誠(せいじやう)の」精魂込めた。

「命葉」後で「めいえふ」(めいよう)とルビが振られる。「命数」に同じい。

「気血」漢方医学に於ける人体内の生気と血液で、経絡の内外を循環する生命力の源とみなされる。

「圓覺寺佛光禪師祖元」無学祖元(一二二六年~弘安九(一二八六)年)。明州慶元府(現在の浙江省寧波市)生まれの臨済僧。諡は「仏光国師」。弘安二(一二七九)年に執権時宗の招きに応じ、来日、蘭渓道隆遷化後の建長寺住持となった。懇切な指導法は「老婆禅」と呼ばれ、時宗を始めとして多くの鎌倉武士の厚い帰依を受け、弘安五年には時宗が元寇での戦没者追悼のために創建した円覚寺の開山となり、本邦に帰化して無学派(仏光派)の祖となった。建長寺で示寂し、墓所も同寺にある。

「文永元年」一二六四年。

「榮葩(えいは)」「葩」は「花」「華やかさ」の意で「栄華」のに同じい。

「零(お)ち」前の「葩」の落花・凋落に掛けたもの。

「嫡子左馬權頭貞時」第九代執権北条貞時(文永八(一二七二)年~応長元(一三一一)年)。かの悪名高き第十四代執権北条高時は彼の三男である。

「加判」連署職。

「貞時の外祖(がいそ)秋田城介(あいだのじやうすけ)泰盛」安達泰盛(寛喜三(一二三一)年~弘安八(一二八五)年)は有力御家人安達義景の三男。異母妹(後の覚山尼(かくさんに))を猶子として養育して、弘長元(一二六一)年に時宗に正室として嫁がせ、北条時宗の外戚となり、得宗家との強固な関係を決定的にし、幕府の重職を歴任、栄華を誇った。時宗の死後、「弘安徳政」と称される幕政改革も行ったが、内管領平頼綱と対立、弘安八(一二八五)年十一月の「霜月騒動」で一族郎党とともに滅ぼされた。北条貞時の側室で高時の母となる後の覚海円成(えんじょう))も、彼の次兄安達景村の子泰宗の娘であった。

「陸奥守に任ぜられ」弘安五(一二八二)年のこと。この時、泰盛は「秋田城介」を嫡子宗景に譲り、その代りとして「陸奥守」に任ぜられている。ウィキの「安達泰盛」によれば、『陸奥守は幕府初期の大江広元、足利義氏を除いて北条氏のみが独占してきた官途であり、泰盛の地位上昇と共に安達一族が引付衆、評定衆に進出し、北条一門と肩を並べるほどの勢力となっていた』とあり、彼の権勢が、ここにかたっれるように名実ともに最も輝いた頂点の時であったと言える。

「同五月」弘安七(一二八四)年五月。

「北條時國」(弘長三(一二六三)年~弘安七(一二八四)年十月三日(但し、異説有り。後注参照))は北条氏佐介流の一族で「佐介時国」とも呼ばれた。「卷第十 改元 付 蒙古の使を追返さる 竝 一遍上人時宗開基」の私の注を参照されたい。

「如何なる天魔の入替りけん」如何なる悪辣なる天魔がその心と入れ替わってしまったものか。

「眉目嘉名(びもくかうめい)」「嘉名」は通常、歴史的仮名遣でも「かめい」で「名声」の意。「眉目」もここは「面目・名誉」の意。

「申上」「せられしかば」と続くので「しんじやう」と音読みしておく。

「潛に配所に人を遣し、時國をば刺殺しければ」ウィキの「北条時国」によれば、この時国の死は「鎌倉年代記」の建治元(一二七五)年の条では『常陸国伊佐郡下向、十月三日卒』、「武家年代記」の建治三年条では十月三日に「於常州被誅了」とする一方、「六波羅守護次第」では十月四日に自害とするが、異説として九月、常陸にて逝去とも伝える。「關東開闢皇代並年代記事」の「北條系圖」でも死因を自害としているが、その時期を遡る八月としており、「尊卑分脈」や「續群書類從」所収の「北條系圖」及び「淺羽本北條系圖」では八月十三日に「被誅」(誅さる)とする、とある。如何にも怪しい。]

2017/02/19

柴田宵曲 妖異博物館 「乾鮭大明神」

 

 乾鮭大明神

 

 岡田士聞の妻が安永六年に奧州の旅をして「奧の荒海」といふ紀行を書いた。北から來て廣瀨川、名取川を渡り、武隈明神に詣でた後のところに、からさけ大明神の事が記されてゐる。昔松前に赴いた一商人が乾鮭を持つてゐたが、行程の長いのに思ひ煩ひ、乾鮭を松の枝に掛け、この處の主となれ、と戲れて立ち去つた。暫くたつてこの魚が光りを放つのを奇瑞とし、土地の人が神と崇めるに至つた。この神が生贄(いけにへ)を好むため、所の歎きになつて居つたが、或人不審してこれを窺ひ、古狸の仕業と判明したとある。

[やぶちゃん注:「岡田士聞」河内の出身の儒者岡田鶴鳴(寛延三(一七五〇)年~寛政一二(一八〇〇)年)の字(あざな)。代々、幕臣水野家に仕え、河内片野神社神職も兼ねた。彼の妻となった「奥の荒海」の作者小磯逸子は、京出身で、右大臣花山院常雅の娘敬姫の侍女っであった。敬姫は松前藩藩主に嫁いだが亡くなり、安永六(一七七七)年に京都へ帰る途中の事柄を日記にしたものが「奥の荒海」だという(小磯逸子については、msystem氏のブログのこちらの記載に拠った)。以上の箇所は国立国会図書館デジタルコレクションのちらの画像で視認出来る。]

「怪談登志男」にあるのは飛驒の話で、黐繩(もちなは)に雁が一羽かゝつたところへ、越後より通ふ商人が四五人通り合せて雁を取り、代りに馬につけた乾鮭をかけて去る。これを見て獵師が先づ不思議がり、それからそれと話は大きくなつて、から鮭大明神の社造營となつた。翌年の春、越後の商人が歸りがけにこの社を見、去年は無かつた筈だと里人に尋ね、はじめてその由來がわかる。商人等顏を見合せて笑ひ出し、その乾鮭は自分達が掛けて行つたのだ、神樣でも何でもないと立ち去つた。信仰忽ち崩れ、社は毀たれたが、これには生贊だの、古狸の仕業だのといふ怪談めいた事は一切書いてない。

[やぶちゃん注:この話は後で柴田も挙げているように明らかに中国の説話由来である。これ、授業でやったわ! 木の股の洞に水が溜まったところに魚の行商人が悪戯に売れ残った鰻(原文は「鱣」)を投げ入れて立ち去った。後から来た男がその鰻を見つけて、こんな所に鰻がいるはずがない、これは霊鰻だということになり、社(やしろ)が出来、栄えた。暫くして、先の行商人がそこを通り、件の霊験譚を耳にし、それを取って調理して食ってしまい、見る間にその社は廃れた、という話である。調べたところ、これは宋の劉敬叔の志怪小説集「異苑」(但し、一部は明末に発見されたものの増補と考えられている)の「卷五」の以下であった。

   *

○原文

會稽石亭埭有大楓樹、其中空朽。每雨、水輒滿溢。有估客載生鱣至此。聊放一頭於朽樹中、以爲狡獪。村民見之、以魚鱣非樹中之物、咸謂是神。乃依樹起屋、宰牲祭祀、未嘗虛日。因遂名鱣父廟。人有祈請及穢慢、則禍福立至。後估客返、見其如此、卽取作臛。於是遂

○やぶちゃんの書き下し文

 會稽の石亭埭(せきていたい[やぶちゃん注:堤の名であろう。])に大楓樹、有り。其の中(うち)は空朽(くうきう)なり。雨ふる每(ごと)に、水、輒(すなは)ち滿溢(まんいつ)す。估客(こきやく[やぶちゃん注:行商人。])の生鱣(せいせん[やぶちゃん注:生きた鰻。])を載せて此に至る有り。聊(いささ)か一頭を朽樹(きうじゆ)の中に放ち、以つて狡獪(かうくわい)を爲す。村民、之れを見て、魚鱣(ぎよせん)は樹中の物に非ざるを以つて、咸(みな)、是れ、神なりと謂ふ。乃(すなは)ち、樹に依りて屋(をく)起(た)て、牲(にへ)を宰(をさ)めて祭祀し、未だ嘗て虛日(きよじつ)あらず[やぶちゃん注:供養しない日はなかった。既にして大盛況となっていることを指す。]。因りて遂に「鱣父廟(せんぽべう)」と名づく。人、有りて祈請し、穢慢(ゑまん[やぶちゃん注:穢れのある行為や、祭祀を怠ること。])に及べば、則ち禍・福、立ち至る。後に估客、返りて、其の此(か)くのごときを見て、卽ち、取りて臛(あつもの)と作(な)す。是(ここ)に於いて遂に絕ゆ。

   *

 「怪談登志男」は「かいだんとしおとこ」(現代仮名遣)と読み、寛延三(一七五〇)年刊の慙雪舎素及(ざんせつしゃそきゅう)著の怪談集。私の好きな怪談集で、いつかは全文を電子化したいと考えている。以上は「卷之三」の冒頭にある「十二 乾鮭の靈社」で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。]

 

 田中丘隅が妻の實家を訪ふに當り、川狩りをしてギヽウといふ魚一尾を獲た。これを携へて道を急ぐうち、或山中で獵師の張つた網に雉子がかゝつてゐるのを見付け、姑への土產にはこの方がよからうといふので、雉子を取つて代りにギヽウを置いて行つた。そのあとに來た獵師はこれを見て大いに驚き、水に住む魚が山の中の網にかゝるのは不思議だと云ひ出し、陰陽師に占はせた結果、これは山神の祟りである、速かにこの魚を神に祭るべし、といふことになつた。ギヽウ大明神の岡は忽ち出來上つたが、たまたま大風雨があつたので、村民は神變と心得て、神前に湯花を捧げ、神樂(かぐら)を奏する。この間に乘ずる謠言などもあつて、騷ぎは次第に大きくなつた。丘隅はこの事を聞き、ギヽウ大明神の祟りは某が鎭めよう、どんな事があつても驚いてはならぬぞ、と戒めた上、祠を毀つて燒き、ギヽウを燒いて食つたのみならず、神酒まで飮んで歸つて行つた。村民はびつくり仰天し、山神の祟りを恐れたが、その後何事もなかつた。

[やぶちゃん注:「田中丘隅」江戸中期の農政家・経世家(政治経済論者)田中休愚(きゅうぐ 寛文二(一六六二)年~享保一四(一七三〇)年)の別名である(同じく「きゅうぐ」と読むか)。ウィキの「田中休愚」によれば、『武蔵国多摩郡平沢村(現・東京都あきる野市平沢)出身。大岡越前守忠相に見出され、その下で地方巧者として活躍した。なお、共に大岡支配の役人として活動した蓑正高は休愚の娘婿にあたる』。『平沢村の名主で絹物商を兼業する農家・窪島(くぼじま)八郎左衛門重冬の次男として生まれる』。『子供の頃から「神童」の誉れが高かった休愚は、兄の祖道とともに八王子の大善寺で学んだ後、絹商人となる。その後、武蔵国橘樹(たちばな)郡小向村(神奈川県川崎市)の田中源左衛門家』『で暮らすようになる。これが縁で東海道川崎宿本陣の田中兵庫の養子となり、その家督を継いで』、宝永元(一七〇四)年四十三歳の時、『川崎宿本陣名主と問屋役を務め』、宝永六(一七〇九)年には『関東郡代の伊奈忠逵(ただみち)と交渉して、江戸幕府が経営していた多摩川の六郷渡しを、川崎宿の経営に変えることで、付近の村の村民が人足に駆り出されることがないようにし、同時に川崎宿の復興と繁栄をもたらす基礎を築』いた。正徳元(一七一一)年五十歳に『なった休愚は猶子の太郎左衛門に役を譲り、江戸へ出て荻生徂徠から古文辞学を成島道筑から経書と歴史を学』んだ。享保五(一七二〇)年、四国三十三ヵ所巡礼から帰宅した彼は、『自分が見聞きしたことや意見等をまとめた農政・民政の意見書』民間省要の執筆を開始』、翌六年に『完成させる(田中丘隅名義)。『民間省要』を上呈された師の成島道筑は、当時関東地方御用掛を務めていた大岡忠相を通じて幕閣に献上。時の将軍・徳川吉宗は、大岡と伊奈忠逵を呼んで休愚の人柄を尋ねた後』、享保八(一七二三)年に『休愚を御前に召』した。当時六十二歳に『なっていた休愚は、将軍からの諮問に答え、農政や水利について自身の意見を述べ』、『この一件で休愚は支配勘定並に抜擢され』、十人扶持を『給され、川除(かわよけ)普請御用となる。荒川の水防工事、多摩川の治水、二ヶ領用水、大丸用水、六郷用水の改修工事、相模国(神奈川県)酒匂川の浚渫・補修などを行』った。『富士山の宝永大噴火の影響で洪水を引き起こしていた酒匂川治水の功績が認められ、支配勘定格に取り立てられて』三十人扶持を給されて三万石の『地の支配を任される』。享保一四(一七二九)年七月には遂に代官となり、『正式に大岡支配下の役人として、地元の武蔵国多摩郡と埼玉郡のうち』三万石を支配、殖産政策にも携わって、同年中には『橘樹郡生麦村(横浜市鶴見区)から櫨(ろうそくの原料)の作付状況が報告されたという記録が残されている』という。『死後、子の田中休蔵が遺跡を引き継ぐ。なお、休愚の急死は、六郷用水の補修で世田谷の領地を突っ切ったことで、伊奈家から大岡に苦情があったため、切腹したとされる伝説も残っている』という。

「ギヽウ」古くから食用とされた川魚である条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps こと。和名はオノマトペイアで、彼らが水中で腹鰭の棘と基底の骨を擦り合わせて「ギーギー」と低い音を出す(陸の人間にも聴き取れる)ことに由来する。また背鰭・胸鰭の棘が鋭く、刺さるとかなり痛いので注意が必要である。]

 

「百家琦行傳」は丘隅の話を傳へた後に、「風俗通」の話を掲げてゐる。その話は先づ田の中で麞(くじか)を拾ひ得たことに始まる。これを澤の中に置いてどこかへ行つたあとに、魚商人が通りかゝり、商賣物の鮑魚(ほしうを)を麞に換へて去る。麞を置いた男は、その俄かに鮑魚と變じたのを神異とし、鮑魚神と祭られるに至る。數年たつてから前の魚商人が來て、これ我が魚なり、何ぞ神ならんやと云ひ、祠に入つて鮑魚を持ち去つた。順序は田中丘隅の話と同じである。鮑魚神の話は「怪談登志男」にも引いてあつた。

[やぶちゃん注:「百家琦行傳」「ひゃっかきこうでん」(現代仮名遣)は八島五岳著。五巻五冊。天保六(一八三五)年自序で弘化三(一八四六)年刊。以上は「卷之四」の「田中丘隅右衞門」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。

「風俗通」後漢末の応劭の「風俗通義」の略称。諸制度・習俗・伝説・民間信仰などに就いて記す。以上のそれは「怪神」の中の「鮑君神」である。中文サイトより加工して示す。

   *

謹按、汝南鮦陽有於田得麇者、其主未往取也。啇車十餘乘經澤中行、望見此麇著繩、因持去。念其不事、持一鮑魚置其處。有頃、其主往、不見所得麇、反見鮑君、澤中非人道路、怪其如是、大以爲神、轉相告語、治病求福、多有效驗、因爲起祀舍、眾巫數十、帷帳鍾鼓、方數百里皆來禱祀、號鮑君神。其後數年、鮑魚主來歷祠下、尋問其故、曰、此我魚也、當有何神。上堂取之、遂從此壞。傳曰、物之所聚斯有神。言人共獎成之耳。

   *

「麞(くじか)」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis(一属一種)。体長 七十五~九十七センチ、体高約五十センチメートル。雄の上犬歯が長く、牙状(この歯は下顎の下方にまで達する)を呈することが名の由来。川岸の葦原や低木地帯に小さな群れを成して棲息する日中活動性の鹿である。「風俗通義」の「麇」は近縁種のノロジカ属ノロジカ Capreolus capreolus

「鮑魚」「はうぎよ(ほうぎょ)」で、これは魚の種を指すのではなく、広く塩漬けにして保存食とした魚の加工品を指す。]

 

 支那にはこの類の話が多く、「太平廣記」などにも、「異苑」「抱朴子」等からいくつかの話を擧げてゐる。民間信仰の起りにはかやうのものが多いから、强ひてからさけ大明神を以て支那渡りとするにも當らぬが、魚の祭られる一點は同一系統に屬すると云へるかも知れぬ。たゞ「太平廣記」にある話は悉く魚ではない。

[やぶちゃん注:「太平廣記」宋の太宗の勅命によって作られた、稗史(はいし:中国で公的な正史の対語で、民間から集めて記録した小説風の歴史書を指す)・小説その他の説話を集めた李昉(りぼう)らの編に成る膨大な小説集。五百巻。九七八年成立。神仙・女仙・道術・方士以下九十二の項目に分類配列されており、これによって散逸してしまった書物の面影を今に知ることが出来る貴重な叢書である。

「抱朴子」「はうぼくし(ほうぼくし)」は晋の道士葛洪(かっこう)の著作。三百十七年に完成した。内篇は仙人の実在及び仙薬製法・修道法・道教教理などを論じて道教の教義を大系化したものとされ、外篇は儒教の立場からの世事・人事に関わる評論。]

 

 貞享三年の「其角歲旦牒」にある

  干鮭も神といふらし神の春   仙化

といふ句も、から鮭大明神に因緣あるらしく思はれるが、これだけでは十分にわからぬのを遺憾とする。

[やぶちゃん注:句と俳号の字配は再現していない。

「貞享三年」一六八六年。

「歲旦牒」「歳旦帳(帖)」のこと。月の吉日を選び、連歌師・俳諧師が席を設けて門人と歳旦の句を作って「歳旦開き」に披露するため、前年中に歳暮・歳旦の句を集めて板行した小句集。これを出すことが俳諧師の面目であり、門下を拡大する必須行為でもあった。

「仙化」(生没年未詳)「せんか」と読む。直接の蕉門の門人。芭蕉庵で行われた句会を元にした貞享三(一六八六)年閏三月板の「蛙合(かわづあはせ)」を編している。この集中で、かの蕉風開眼とされる「古池や蛙飛びこむ水の音」に対し、「いたいけに蝦(かはづ)つくばふ浮葉哉(かな)」の句をものしており、別号も青蟾堂(せいせんどう)である。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(57)「鯨のお詣り」

 

 鯨のお詣り

 

 ――一度(ど)どうもあなたそれはどつさり鯨が捕れたんでしたつけがねえ どうもそれはどつさり捕れたんですよ ええ 鯨つてえものはどうも大きなものですねえ

 どうして丈(たけ)なんざあ大人が寢た位(くらゐ)大人が寢た位もあるんですからねえ 頭なんてものも大きなもので さあこちらの火鉢程ありませうかね ねえあなた なにしろ頭が火鉢位(ぐらゐ)なんですからねえ どうも大層なものですね ねえあなた

 一度それがどうもどつさり捕れましてね どうもあなた どつさり捕れたんですが それを濱でもつてね みんなで切りましてね ねえあなた 鋸(のこぎり)で切るんで御座いますね どうもそれを鋸でもつてみんな一尺位(ぐらゐ)に切りましてね どうも鋸でもつてみんな 一尺位に切つてしまつてね 切つてしまつたんですが なんでもその時そこにぶらさがつている樣な囊(ふくろ)がどつさり出ましたんですがね どつさり出たんですよ ええ

 ――その氷囊(ひようなう)かえ

 ――ええ そこにぶらさがつてる樣な囊なんですがね ええ なんでもどつさり出ましたよ ええ まつちろなのがぶつぶつ浮いてましたけがね

 あなた

 それでもつてみんな切つて賣るところは賣り とつとくところはとつとくとこで鹽(しほ)に漬け 賣るところは賣り とつておくとこはとつておくところで鹽に漬け どうも大變な騷ぎでしたがねえ なんですよあちらではお魚(さかな)だらうがなんだらうが女(おんな)がみんな持つて賣りに歩くんですからね どうも女衆(おんなしう)の忙しいことつたら それはなんですよお魚でも捕れるとみんなそれは夜中であらうがなんであらうがそれを持つて擔いでゆくんですからねえ どうしてあなた

 さうしてそのまあをかしいぢやありませんか ねえほんとでせうか いつたいこんなことがあるもんでせうかねえ ほゝほゝゝゝゝ

 鯨がお詣(まゐ)りするなんて事が全くありますかねえ あなた 鯨がお詣りするなんてねえあなた可笑(をか)しいぢやありませんか あなた ほんとでせうかね そのまあ鯨を切りました人がね 晩になるとそれはどうも大層な熱で苦しんだと申しますがねえ それでもつて御不動樣へ御祈禱を賴みにいきますとね これは鯨はやはたの八幡へお詣りに來たところをまだお詣りもすまさないうちに捕つたのでその祟(たゝ)りだと申しましたさうですがね あなた いくらなんだつて鯨がお詣りするなんてそんな事がほんとでせうかね でもね 御祈禱して貰つたらすぐ治(なほ)つたつて言ひますがね あなた ほんとでせうかね いくらなんだつて あなた ほゝほゝゝゝ お神主(かんぬし)は殺したものは仕方がないから卒塔婆(そとば)でも建ててやれと申したさうですが そのとほりにしたらぢき治つたさうですよ ええ 

 ――さあ鯨は三十ぴきも來ましねかねえ

 

Gungeisankeizu

 

   群鯨參詣圖について

 私が「鯨のお詣り」を書いたのは大正十二、三年の頃と思ふ。家の婆やの話が面白くて、そのままに書いておいたのを、芥川さんがまた面白がつてこれに僕が挿畫を畫いて載せようと、いつか先に立つて、「人間」であつたか、「隨筆」であつたかに送つてしまつた。この鯨のお詣りは芥川さんが送つたのではあるが、運わるく、その雜誌社そのものが、芥川さんの折角の畫は板にまでしながら、雜誌に載せもせぬうちに廢滅してしまつて、印刷にならなかつたものである。未だインキに汚れてもゐない凸版の板木は神代種亮がその折に貰つて手に入れてゐた。昭和八年に江川正之が雜誌「本」を創めるに當つて、私はこの自分の鯨のお詣りを江川に贈り、あはせて神代氏から芥川さんの群鯨參詣國の板木を借出すやうにすすめたものであつたが、さうした今日、私は私の隨筆集の上梓に當つて、神代氏も既に亡き人なるを思ひ、いまは誰れがその板木を持つてゐるのか、これを江川に問合せてみた。江川からは、「本」の印刷所に預けたままになつてをりましたが、先年その印刷所が全燒してしまひ、何とも申譯なきこと乍ら炎上いたしてしまひました。といふ返事があり、神代氏所有の板木も既に、神宮繪畫館正面突當りにある愛光堂が全燒の際烏有に歸してゐるといふのである。群鯨參詣圖の原畫の行衞については私は全くの知らずである。ともあれ、芥川さんの、遂に潮を吹上げなかつ畫の鯨を、私は「本」創刊號の寫眞版から再製して、ここに使はせて貰ふこととした。

[やぶちゃん注:以上は、我鬼山人の署名と落款を持つ芥川龍之介の描いた「群鯨參詣圖(ぐんげいさけいず)」(原画では「參」は「参」である)のキャプションとして下にポイント落ちで示されたものである(標題「群鯨參詣圖について」もポイント落ちであるが、それよりも更にキャプション本文はポイントが落ちる)。絵とキャプションは「鯨のお詣り」の本文の途中、左ページを使って挟まれてある。

 このキャプションの内容は後の昭和三一(一九五六)年中央公論社刊の「二つの繪」の芥川の畫いたさしゑにも書かれているが、小穴隆一の「ばあや」の話はここでしか読めない。最早、焼失してしまった芥川龍之介の「群鯨參詣圖」と、この「ばあや」の話を一緒に読めるのは、本書以外には、ない。私はそれをこのネット上で再現出来たことを、心から嬉しく思っている。

 

 なお、この「ばあや」の語りの中に出てくる鯨の体内から多量に出て来たという氷囊のような形状の物体ととはなんであろう? 海洋生物フリークの私でも一寸判らぬ。識者の御教授を切に乞うものである。

小穴隆一「鯨のお詣り」(56)「遠征會時代」

 

 遠征會時代


Dainipponnzenzu_2

[やぶちゃん注:本章は本「鯨のお詣り」の中で初めて芥川龍之介とは全く関係のない小穴隆一個人の随筆として出るものである。個人的には全体的には幾分、時勢に媚びた如何にもな文章であるようにも私は感ずるのであるが、それはまた、今のダレ切った日本の「おぞましき私」の感想に過ぎぬのかも知れぬ。注する意欲も特異的にかなり失われた。悪しからず。]

 

 父は親孝行といふことはしたことのない私(わたし)に、空家になつてゐた田舍の家(いへ)を一軒殘しておいてくれた。私はその家を貰つた。さうして、これは誰も持出(もちだ)してゆきてが無つた。紙魚(しみ)の這出(はいだ)す塵が飛び散る古文書(こぶんしよ)や古新聞のきれぎれが詰つてゐる、二つの行李も貰つたのである。

[やぶちゃん注:「はいだ」の読みはママ。

「田舍の家」小穴隆一は北海道函館市生まれであるが、長野県塩尻市の祖父のもとで育った。しかし父は中山道洗馬宿(現在の塩尻市洗馬)の旧家である志村家の出であった。この田舎の家がどこを指すかはよく分らぬが、塩尻であることは間違いないように思われる。]

 家は持歸(もちかへ)ることができず何年か前の村の火事で燒失(やけう)せてしまつた。

 中の物は七八年も風にあてておいたから、鼠の小便のにほひも漸く薄れてきた。親孝行といふことはしたことのない私であつても、年をとり古いものをとりひろげて、私共の父母が生れて死んだその間(あひだ)の、時代の動きを思ひ、靜かにしてゐることば格別に樂しい。

 遠征會要領なるものも私は古行李(ふるかうり)から拾つたものであるが、私はいま別してこの遠征會について知りたいのである。私がここに書いてみようとしてゐる話は甚だ口惜しいが、昔、私が東片町(ひがしかたまち)に父と暮してゐた當時、母が動物園の話から、「あの福島中佐の馬、あれは如何(どう)してゐるかねえ。」と言つてその子供達の笑ひを買つたそれと大差のない物だ。

[やぶちゃん注:「東片町」町名だけを出して読者に判るとなれば、これは東京の地名で、駒込東片町か。現在の文京区向丘・西片・本駒込附近に相当する。

「福島中佐」日本陸軍軍人福島安正(嘉永五(一八五二)年~大正八(一九一九)年)。ウィキの「福島安正」によれば、信濃国松本城下(現在の長野県松本市)に松本藩士福島安広の長男として生まれ、慶応三(一八六七)年に江戸に出、『幕府の講武所で洋式兵学を学び、戊辰戦争に松本藩兵として参戦』、明治二(一八六九)年には『藩主・戸田光則の上京に従い、開成学校へ進み外国語などを学』んだ。その後、明治六(一八七三)年四月に明治政府に仕官、司法省から文官として明治七(一八七四)年に陸軍省へ移った。二年後の明治九年には七月から十月までアメリカ合衆国に「フィラデルフィア万国博覧会」への陸軍中将西郷従道(つぐみち)に随行、明治一〇(一八七七)年の西南戦争では福岡で征討総督府書記官を務めた。明治二〇(一八八七)年、陸軍少佐に昇進した彼はドイツのベルリン公使館に武官として駐在し、公使西園寺公望とともに情報分析を行い、ロシアのシベリア鉄道敷設情報などを報告しているが、明治二五(一八九二)年の帰国に際して、『冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの』約一万八千キロを一年四ヶ月『かけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を』日本陸軍に齎したことで知られる。ここで小穴隆一の母が言っている「馬」とは、その「シベリア単騎横断」の際の馬のことである。福島の「シベリア単騎横断」については、未完ながら、こちらに詳しい解説がある。小穴隆一の以下の叙述に従うなら、この馬は幸せにも本邦に戻って動物園で余生を暮したということであろう。その動物園は伊勢雅臣氏のこちらの記事によって上野恩賜動物園であったこと、馬は一頭ではなく、三頭であったことが判る。]

 私はあと一週間たてば一寸俗用があつて、二三日の豫定で信州に行く。行けばまた福島中佐について何か若干知るてとが出來るかもしれない。

 私もまたずうつと子供のころほひに動物園でみた福島中佐の馬、小舍(こや)にしよぼしよぼとなつてゐた馬、あれは一體、あの時の馬は何歳であつたものであらう。

 

○日本地圖

明治十年の大日本(だいにつぽん)地圖

 明治十年の二月に出版されや地圖には、臺灣もまた樺太もないのである。ましてや朝鮮などがありやう筈はない。まだ頭も尻もないこの大日本地圖、富士山が最高を、信濃川が最長を示してゐる日本地圖で、私が持つてゐる物には下等小學第貮賞品の印(いん)が押されてゐるのだ。

 私共は小學校の昔、「四千餘萬の兄弟(あにおと)どもよ。」の歌を唱(うた)つた。私は母の前で、四千餘萬の兄弟どもよ。」と唱つて「おや、三千餘萬ではなかつたのかねえ、この頃は四千餘萬になつたのかねえ、といはれたこともある。然しながらまた私の女房になると、「北は樺太千島より」で、「七千餘萬の兄弟どもよ。」と習つたといつてゐる。現在支那事變この方、私はラヂオで一億の日本國民といふ言葉を聞き、六十年も昔のこの地圖を再びとりひろげてみて、丁度私共の父母が生れたあたりの時代から漲るいぶきが、如實にかんじられるのを、樂しまざるをえない。

 なほ、この地圖は十年二月十六日出版御屆(おんとゞけ)となつてゐるのであるが、御屆一日(にち)前の二月十五日といふ日は、私學校(しがくかう)の生徒が西郷隆盛を擁して鹿兒島を出發して兵一萬五千に桐野利秋、篠原國幹(くにもと)、別府晋助、村田新八等(ら)が動いてゐた時でもあるのだ。

 

 

  ○作文

  明治十年頃の兒童の作文、一例。

 

  加藤淸正

 身體長大ニシテ力(チカラ)極メテ強ク知力アリ夫(ソ)レ天下ニ高名ノ人物ニシテ始終豐臣秀吉ニ事(ツカ)ヘ戰ニ出ヅル每(ゴト)ニ偉功(ヰカウ)アリ殊ニ志津嶽(シヅガタケ)ノ戰(イクサ)ノ如キ尤モ大功(タイコウ)ヲナシ武威ヲ一世ニ輝カシ福島正則、加藤嘉明、糟谷武則、平野長泰、片桐且元(カツモト)、脇坂(ワキザカ)泰治ト共ニ志津嶽七本槍ト稱シ後世ニ英名ヲ存(ソン)シ又朝鮮征伐ノ時其勢(イキホヒ)破竹ノ如クニテ向(ムカ)フ所殊(コトゴト)ク(悉くの誤りであらう。)之ヲ破リ大功ヲ顯ハシ、實(ジツ)ニ未曾有之(ノ)豪傑ナリ然(シカ)リ而(シカウ)シテ方今(ハウコン)如此(カクノゴト)キ人物アラバ何ゾ薩賊ヲ伐(ウ)ツニ足ラン、鳴呼淸正ノ偉(ヰ)而(シカシテ)大(ダイ)ナラン哉(ヤ)

[やぶちゃん注:「方今(ハウコン)」まさに今。ただ今。]

 

 私は、この作文加藤淸正なるものは父が書いたのであると思つてゐるのだが[やぶちゃん注:「書いたのである」は底本では「書いのである」であるが、意味が通じないので、脱字と断じて特異的に訂した。]、或は他の人の物であるのかも知れぬ。父とすれば、これは父が十三歳の時の物である。私の父は信州人であり、耳學問では松本藩廢止して天領となり、伊那縣となり、筑摩縣となり長野縣となる順序であるが、父が生れた土地といふものは元來が天領であつたやうである。

 九段の遊就館の第十一室(維新前後及(および)明治時代)には、熊本ニ於テ薩軍ヨリ投ジタル文(ブミ)として、然ルニ當縣鎭臺名義ヲ辨セズ城(シロ)ヲ閉ヂテ云々なる物が陳列されてゐるが、私には父の「加藤淸正」にも甚だ興味があるのである。私は思ふのである。當時薩摩の兒童に加藤淸正の題を與へて文章をつゞらせてゐたものならば、薩賊のかはりには如何なる言葉が現はれてゐたであらうか。

 加藤淸正を書いた父も血氣定まらぬ時代には、孤軍奮鬪圍(カコミ)ヲ衝(ツ)イテ歸ルと兵兒(へこ)の謠(うた)を愛吟してゐた筈である。私は、「敵の大將たるものは古今無双の英雄ぞ。」といふ歌を小學校で習つた。當時は漫然たゞこの古今無双の英雄ぞといふ文句が好きであつたが、今日では古今無双の英雄ぞと句が使はれてゐるその意氣がありがたいと思はざるをえない。

  ○徴兵

 明治十二年十月八日東京日日新聞掲載の寄書(きしよ)

  ○徴兵論 北總(ほくそう) 林彦兵衞

 この論文は、明治十二年の日本では、理(リ)ハ情(ジヤウ)ヲ得テ通ズル底(てい)の物であつたあらうが、今日(こんにち)に於いては全文の掲載にすこしく不安を感ずる。

[やぶちゃん注:「林彦兵衞」不詳。同一姓の通名で、千葉在の同時代の教育関係者がいるが、軽々に同一人物と比定するには、事蹟を読む限りでは不審があるので、敢えて示さない。識者の御教授を乞うものである。]

 明治十二年十月といへば既に招魂社(十二年現稱靖國神社に改む)も建てられてゐた。

 この徴兵論は、慶應三年將軍慶喜大政奉還、王政復古の大號令、慶應四年が明治元年となり、五箇條の御誓文の宣布、御(ご)卽位式、明治四年全國に四鎭臺(東京、仙臺、大阪、熊本)を置き舊藩の武士から兵を徴す。五年十二月詔(せう)して、全國徴兵の制を定められ翌六年正月徴兵令發布、といふこの今日の陸海軍之(の)制の礎(いしずゑ)をつくつた兵部大輔(ひやうぶだいすけ)大村益次郎が在京師爲兇人所成薨(けいしにありてきようじんのためにこうぜられて)から後(のち)十年の物である。男子の散髮令、取平民に苗字を呼YO)ぶことを許されてから九年、帶刀禁止令があつてから三年目、大正天皇御降誕の年の物である。さうして、これを掲げた日(ひ)の「日日」の一面には陸軍省録事(ろくじ)として○達(たつし)甲第拾六號(陸軍士官學校生徒入學檢査格例(かくれい)の續き、陸軍士官學校生徒入學心得書(しよ)等(とう)、四面公告には、志願人(にん)檢査課目が載せられてゐるが、士官學校人學願(ねがひ)のところで、

  年號何年何月何日生(うまれ)

 明治十二年十二月何年何ケ月に目をとめて數(かず)をはかると、志願人は安政四年から文久三年の間(あひだ)に生まれた人達に限られてゐて、元治(ぐわんぢ)、慶應に生れた人では未だ入學を許可される年齢に達してもゐない。さういふ今日(こんにち)から五十八年も前の時代の物であることを知る。

 私はこの林彦兵衞といふ人物については全然何も知らない。(明治の初めに働いた人達といふ者は、年は若くとも私共とは違つて、隨分圖太(づぶと)く性根(しやうね)を据ゑて事(こと)にかゝつたらしい。林彦兵衞も彼が存外若い時にこの徴兵論を書いたものとして命數のながい人であれば、八十何歳かで昭和十二年に生きてゐるかも知れぬ。)

 日本も、五十八年前の日本には林彦兵衞の徴兵論が必要であつたと思はれる。私はこの林彦兵衞の徴兵論をひろひとつて一讀した時に、日露開戰前の私共小學生の姿を再び思出した。如何(どう)いふものか當時東京の子供達の間(あひだ)にでも、君のところは士族か平民かと聞合(きくあ)ふ習慣のやうなことがあつた。私のところは平民であるから今日でもこれを忘れずにゐるのである。私は、明治十二年頃では士族對平民の感情も、どこかここ十年か前の水平社の人達の思ひにも似たものがさしはさまつてゐたのではなからうかとも思ふ。今日は今年二一歳の末弟の如き、「いまでも士族といふものがあるかねえ。」と言つてゐる次第であるが。

 明治十二年、十二年十月の東京日日新聞には、マイエツト氏日本(につぽん)公債ノ辯(べん)も連載してゐるのである。

[やぶちゃん注:「マイエツト氏」ポール・マイエット(Paul Mayet 一八四六年~一九二〇年)はドイツの政治経済学者で「お雇い外国人」教師。明治九(一八七六)年に来日し、東京医学校ドイツ語教師や農商務省調役等として活躍、公債の諸制度や統計院・会計検査院の設置に関する建議・立案のため奔走した。一八九三年に帰国した後はドイツ統計局員を務めた。「日本公債弁」(一八八〇年)等の著書を持つ(以上は日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」に拠った)。]

(マイエツト氏日本公債ノ辯カラ鈔寫(セウシヤ))

 附言――將(マ)タ千八百七十六年一月一日(ジツ)ノ計算デハ四十萬八千八百六十一名ノ士族ハ其家族トモ百八十九萬四千七百八十四人ニシテ全國ノ人口ノ十八分ノ一ニ當リ内(ウチ)十二萬ノ千八百八十一名ノ士族ニシテ元來俸祿ヲ有セス或ハ業(ゲフ)已ニ之ヲ奉還セシモノハ其家族トモ五十九萬四千零(レイ)四十二人又(マタ)二十八萬六千九百八十名ノ士族ニシテ尚ホ之ヲ有(イウ)セシモノハ其(ソノ)家族トモ百二十萬零(レイ)七百四十二人卽チ全國ノ人工二十六分ノ一ナリ(尤モ右計算ニ從ヘバ俸祿受領人ハ此外(コノホカ)ニ家族二千九百二十九人ヲ有シタル四百六十六名ノ華族ト家族三萬零(レイ)二十六人ヲ有シタル平民五百四十二名アリ但シ俸祿受領人ノ統計表ニ於テハ皆各(カク)其(ソノ)數(スウ)ヲ異(コト)ニス是レ全ク編纂ノ時日(ジジツ)同ジカラザル故(ユヱ)ニ因(ヨ)ル)――

 

 鳥羽・伏見の戰(いくさ)、上野戰爭、函館戰爭、佐賀の亂、熊本・萩の亂、西南の役、明治元年か明治十二年の間(あひだ)に日本人(につぽんじん)を敵にしてこれだけの戰(くさ)をしてゐたのでる。私は先日神戸の湊川神社に參拜した。さうして竝んで神前に額(ぬか)づく兵士の列を(うしろ)のはうからをがんだ。楠正成もなにもない。ただ神が神にお辭儀をしてゐるその姿に思はず掌(て)を合はせてしまつたのである。

[やぶちゃん注:「鳥羽・伏見の戰」慶応四年一月三日(グレゴリオ暦一八六八年一月二十七日)に起こった旧幕府軍及び会津・桑名藩兵と薩長軍との内戦。新政府が王政復古の大号令に続く小御所会議で、徳川慶喜の辞官納地を決定したのに対し、旧幕府方が挙兵、慶喜を擁して鳥羽・伏見で薩長軍と交戦したが、慶喜は江戸に逃げ帰った。戊辰戦争の発端となったが、旧幕府軍の大敗に終わり、討幕派の優勢がここに確立した。

「上野戰爭」慶応四(一八六八)年五月十五日、江戸城無血開城を不満として江戸上野の寛永寺に立て籠もって抵抗した彰義隊を新政府軍が壊滅させた戦い。

「函館戰爭」「五稜郭の戦い」とも称する。明治元(一八六八)年から翌年にかけて箱館五稜郭を中心に榎本武揚ら旧幕臣が臨時政府を創って官軍に抵抗した戦い。榎本らの降伏によって終結し、鳥羽伏見の戦いから続いた幕府側の抵抗はこれをもって終焉を迎えた。

「佐賀の亂」明治七(一八七四)年、征韓論争に敗れて下野した前参議江藤新平が中心となって、島義勇(しまよしたけ)の率いる憂国党と結んで佐賀で蜂起した、反政府派士族による反乱。征韓・攘夷・旧制度復古をスローガンとしたが、期待していた西郷隆盛らの応援もなく、全権を受けた大久保利通の指揮下の追討政府軍に鎮圧され、敗れた江藤・島は晒し首に処せられた。

「熊本・萩の亂」前者は明治九(一八七六)年十月に熊本に起こった反政府暴動「神風連(しんぷうれん/じんぷうれん)の乱」のこと。新政府の開明政策に不満を抱いた旧士族太田黒伴雄(おおたぐろ ともお)らが結成した政治団体の「神風連」(敬神党)が、国粋主義を掲げて鎮台・県庁を襲撃したが、ほどなく鎮圧されたものを指す。後者は同明治九年、山口県の萩で前兵部大輔前原一誠(まえばらいっせい)ら不平士族が蜂起した反政府反乱。先の熊本神風連の乱や、秋月(あきづき)の乱(同年十月に福岡県秋月(現在の朝倉市)で旧秋月藩士宮崎車之助(しゃのすけ)らが起こした反乱。政府の対韓政策を批判して立ったが小倉鎮台兵に鎮圧された)と呼応して政府粛正の奏上を計画、山陰道を上京しようとしたが、政府軍に平定された。

「西南の役」西南戦争。明治一〇(一八七七)年に西郷隆盛らが鹿児島で起こした反乱。征韓論に敗れて帰郷した西郷が、士族組織として私学校を結成、政府との対立が次第に高まり、遂に私学校生徒らが西郷を擁して挙兵、熊本鎮台を包囲したが、政府軍に鎮圧され、西郷は郷里の城山で自刃した。明治維新政府に対する不平士族の最後の反乱となった(私は維新史に興味がないため、オリジナルに記す力がない。以上の注は総て信頼出来る辞書解説に拠った)。

「湊川神社」現在の兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る明治になって創建された神社。ウィキの「湊川神社」によれば、勤皇の忠臣楠木正成は延元元(一三三六)年五月二十五日にこの湊川の地で足利尊氏と戦って亡くなった。その墓は長らく荒廃していたが、元禄五(一六九二)年に、『徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立した。以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った』。慶応三(一八六七)年、『尾張藩主徳川慶勝により楠社創立の建白がなされ』、明治元(一八六八)年、『それを受けて明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ』、翌年、墓所や最期の地を含む場所を境内地と定め、明治五(一八七二)年五月に湊川神社が創建されているとある。]

 私を生んだ母の弟で、私より僅か六つだけ年長の叔父が、私共の祖父にあたるその父に、子供の時、德川家をとくがはけといつて叱られて、何故とくがはけといつては惡いかと言葉をかへすと、とくせんけと言へと毆(なぐ)られた話にも驚きはしない。私は五箇條の御誓文の宣布以後、臺灣征伐、江華島事件、朝鮮京城の變、東學黨の亂、日淸戰爭、に至るに及んで一新(しん)祖國日本(につぽん)といふ心がまへが、本當に日本人全體に漲るやうになつたと考へてかゐるのである。

[やぶちゃん注:「五箇條の御誓文の宣布」明治天皇が天地神明に誓約する形で公卿・諸侯などに示した明治政府の基本理念である「五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」は慶応四年三月十四日(グレゴリオ暦一八六八年四月六日)に布告された。

「臺灣征伐」第一次「台湾出兵」、「征台の役」とも称する。明治四(一八七一)年に台湾に漂着した琉球島民五十四人が殺害された事件及び明治六年に岡山県の船員が略奪されたことを理由に清政府に犯罪捜査を要請したところ、清政府はこれを「台湾人は化外の民(統治から遠く離れて支配の力が及ばない人民、未開人・野蛮人といった蔑視的ニュアンスをも含む語)で清政府の責任範囲にない(清政府が実効支配してない管轄地域外での)事件)」として拒否、責任を回避したことから、当時、征韓論を唱えて大陸進出を画策していた外務卿副島種臣らが、明治七(一八七四)年、明治政府が台湾への犯罪捜査名目で出兵した事件を指す。政府は大規模な殺戮事件であったことから警察ではなく軍を派遣したと称したが、日本軍が行った最初の海外派兵となった。

「江華島事件」明治八(一八七五)年九月、日本の軍艦「雲揚(うんよう)」が朝鮮の江華島付近に進入、砲撃されたため、これに対して砲台を撃破した事件。これを理由として維新後間もなかった明治政府は欧米列強に倣うやり方で朝鮮政府に迫り、鎖国政策をやめさせ、翌年二月には不平等条約である「日朝修好条規」を結ばせて朝鮮半島侵略の手懸りとしたのであった。

「朝鮮京城の變」朝鮮国の京城(日本統治時代のソウルの名。但し、この時点で朝鮮は独立国であり、ここは「漢城」といった)で起った一八八二年(明治十五円相当)の壬午事変(興宣大院君らの煽動を受けて漢城に於いて大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃(みんぴ/びんぴ)一族の政府高官・日本人軍事顧問・日本公使館員らが殺害されて日本公使館が襲撃を受けた事件)、一八八四年(明治十七年相当)の甲申政変(漢城で発生したクーデター事件。開化派(独立党)の金玉均・朴泳孝らが朝鮮独立と政治改革を掲げて日本政府の援助を受けて王宮を占領したものの、二日後に清の武力干渉によって失敗した)という二つの排日運動を背景とした事件の総称であるが、近年は使用されなくなった。

「東學黨の亂」「甲午農民戦争」とも呼ぶ。一八九四年(明治二十七年相当)に起こった朝鮮歴史上最も大規模な農民蜂起。この事件を端緒として、清の勢力を排除し、朝鮮を支配下におくことを画策していた日本政府は公使館警護と在留邦人保護の名目によって大軍を繰り出し、「日清戦争」を引き起こすこととなった。以下、小学館「日本大百科全書」の馬渕貞利氏の解説を引く(読みを概ね除去した)。『当時、朝鮮の民衆は、朝鮮政府の財政危機を取り繕うための重税政策、官僚たちの間での賄賂と不正収奪の横行、日本人の米の買占めによる米価騰貴などに苦しんでいた。それにまた』、一八九〇『年代の初めには干魃が続いて未曽有の飢饉に悩まされていた。これに耐えかねた農民たちが、日本への米の流出の防止、腐敗した官吏の罷免、租税の減免を要求して立ち上がったのがこの戦争の始まりである。指導者には、急速に教勢を拡大していた民衆宗教である東学教団の幹部であった全準や金開南らが選ばれた。そのため東学党の乱とよばれたこともあった』。五『月初め、全羅道古阜(こふ)郡で結成された農民軍は、全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り』、五『月末には道都全州を占領した。農民軍の入京を恐れた朝鮮政府は清国に援軍を出してほしいと要請した。ところが、ここで予期しないことが起きた。清軍の到着と同時に日本軍が大挙して朝鮮に侵入してきたのである。朝鮮政府は急遽方針を変更して農民軍と講和交渉を行い、農民たちの要求をほぼ全面的に受け入れることで停戦した(全州和約』・六月十日)。『全羅道の各郡には執綱(しっこう)所という機関が設けられ、農民たちの手による改革が始まった。農民戦争はこれで終わったかにみえた。ところが、朝鮮に上陸した日清両軍は、朝鮮政府のたび重なる要請にもかかわらず撤退しようとしなかった。それどころか、日本政府は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府にこれが拒否されるや』、一八九四年(明治二十七年)七月二十三日、『王宮を占領し、親日政府を組織させた』。『清国がこうした日本の行動を批判したのを好機として始められたのが日清戦争である。日本政府は日清戦争と併行して朝鮮を植民地化する政策を推し進めた。この日本の勢力を追い出すため、朝鮮の農民たちは』十月『なかばになって再決起した。全準たちは東学組織を使って各地の蜂起を統一したものにしようとした。このとき立ち上がった農民は』二十『万人を超えたといわれる。日本軍と朝鮮政府軍を相手にして農民軍はよく闘った。しかし、日本軍の圧倒的な火力の前になすすべはなかった。翌年』一月、農民軍は壊滅、全準は三月末にソウル(京城)で処刑された、とある。

「日淸戰爭」明治二七(一八九四)年八月から翌年にかけて、日本と清国の間で戦われた戦争。朝鮮進出政策をとる日本は宗主権を主張する清国と対立、前述の甲午農民戦争を機に両国が朝鮮に出兵、日本軍は豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃して開戦に至った。日本軍は平壌・黄海・威海衛などで勝利し、一八九五年四月に下関で講和条約を締結した(私は近代史に不学であるため、オリジナルに記す力がない。以上の注は総て信頼出来る辞書解説に拠った)。]

 

  ○遠征會

   遠征會要領

 本會ハ福島安正氏ノ單騎遠征ノ偉業ヲ表彰シ後進者ヲシテ氏(シ)カ餘風ニ起(オコ)ラシムルノ目的ヲ達センカ爲メ信濃人(シナノジン)若クハ信濃ニ關敬係アル有志者(シヤ)ヨリ義金(ギキン)ヲ募リ單騎遠征獎學資金トスルノ主旨ニシテ爾來幸(サイハヒ)ニ賛同者ノ衆(オホ)キヲ加フルニ至レリトイエドモ醵金(キヨキン)猶未タ少額ナルヲ以テ益々同志ヲ得ルコトニ黽勉(ビンベン)シ居レリ。

[やぶちゃん注:「黽勉(ビンレイ)」「僶俛」とも書く。務め励むこと。精を出すこと。]

 然ルニ熟々(ツラツラ)宇内(ウダイ)ノ形勢ヲ察スルニ今ヤ歐洲列國強國ノ勢力東亞ヲ凌壓(リヨウアツ)スルノ狀(サマ)日(ヒ)ニ甚シキニ至レリ之カ對抗ノ策ヲ講スルハ實(ジツ)本邦人(ホンパウジン)ノ須臾(シユユ)モ忽(ユルガセ)ニスヘカラサルノ秋(トキ)ナリ必竟福島氏ノ先(マ)ツ亞細亞大陸遠征ノ偉業ヲ立テラレルモ其意蓋(ケダ)シ玆(ココ)ニ在(ア)ラン斯(カク)ノ如キ危殆(キタイ)ノ狀勢ナルヲ以テ嚮(サキ)ニ本會カ主旨トシタルトコロノ學生ヲ養成スル目的ヲ以テ進ンテ探檢ヲ繼カシメント欲ス仍(ヨツ)テ單騎遠征彰功會(シヤウコウクワイ)ヲ改テ遠征會ト稱ス

 今ヤ遠征ノ事ニ從フヤ先(マ)ツ東亞及び南洋各邦(カクハウ)ノ實況ヲ視察シ之カ研究ヲ爲サヽルベカラス故ニ西比利亜(シベリヤ)、滿洲、支那(シナ)、及南洋諸島ニ着手シ進ンテ西亞諸邦(セイアシヨハウ)ニ及ホシ之カ探檢ヲ爲サシムヘシ

 此撰ニ充(アツ)ルモノ士ハ信濃人(ジン)ニシテ勇敢堅忍艱辛(カンシン)ヲ甞(ナ)メ冒險之レ事(コト)ニ堪ユヘキ軀幹(クカン)學識アル者ヲ要ス然シテ本會ハ之ニ適當ナルヘキモノヲ得ルニ於テ既ニ望ムトコロノモノアルアアリ

 前段ノ目的ヲ達セントスルニハ最も幾多ノ金額ヲ要ス依ツ近クハ信濃人若クハ信濃ニ關係アル者ニ就キテ同志ノ義金ヲ募リ又他(タ)ノ地方人ト雖モ此旨趣(シシユ)ヲ賛成セントスルモノハ之ニ應スヘシ

 

  明治廿六年十一月  遠征會

 私は今日(こんにち)この面白さうな遠征會についてその詳細を知りたいと思ふのである。私には祖父志村巖(いはほ)が義金(ぎきん)金(きん)三圓以上の寄附と、その所掌(しよしやう)村内(そんない)で凡(およそ)金貮拾圓以上の募集方(かた)、この二つを遠征會委員から冀望(きぼう)されていたまでしかわかつてゐない。遠征會委員は伊藤大八、今村淸之助、石塚重平(いしづかぢうへい)、原卓爾(はらたくじ)、大濱忠三郎、小笠原久吉(ひさきち)、田中平八、辻新六、中村彌(や)六、山田莊(そう)左衞門、丸山名政(なまさ)[やぶちゃん注:読点ナシ。]牧野毅(たけし)、皆川(みながは)四郎、兩角(もろずみ)彦六。事務所は東京市神田一ツ橋通町(とほりまち)廿一番地にあつたのである。

[やぶちゃん注:「冀望」「希望」に同じい。

「伊藤大八」(安政五(一八五八)年~昭和二(一九二七)年)は政治家・実業家。帝国議会衆議院議員を五期務めている。長野県下伊那郡上殿岡村(現在の飯田市上殿岡)生まれウィキの「伊藤大八」を参照されたい。

「今村淸之助」(嘉永二(一八四九)年~明治三五(一九〇二)年)は実業家。信濃国伊那郡出原村(現在の長野県下伊那郡高森町)生まれウィキの「今村清之助」を参照されたい。

「石塚重平」(安政二(一八五五)年~明治四〇(一九〇七)年)は衆議院議員。信濃国北佐久郡小諸(現在の長野県小諸市)生まれウィキの「石塚重平」を参照されたい。

「原卓爾」不詳でるが、恐らく、佐原六良氏の論文「諏訪市湖南地 区南真志野の教育」(PDF)に出る、明治七(一八七四)年一月二十五日附『筑摩県吏原卓爾の巡視の際に提出した届書』(筑摩県は明治四(一八七一)年に飛騨国及び信濃国中部・南部を管轄するために設置された県。現在の長野県中信地方・南信地方及び岐阜県飛騨地方と中津川市の一部に相当する)とある役人と同一人物と考えられる。

「大濱忠三郎」(明治四(一八七一)年~大正一四(一九二五)年)相模国(神奈川県)生まれ。東京専門学校(早稲田大学の前身)英語本科卒後、家業の洋糸織物商を継いだが、横浜市議・同議長・神奈川県議などを経、大正九(一九二〇)年から衆院議員に当選(二回)、また、横浜生命保険社長・横浜倉庫取締役・横浜取引所理事長・神奈川県農工銀行取締役などを務めた(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「小笠原久吉」不詳。同名人物が複数いるが、軽々に比定出来ない。

「田中平八」(天保五(一八三四)年~明治一七(一八八四)年)は信濃生まれの実業家。開港後の横浜で「糸屋」と称して生糸を売り込み、洋銀売買などで活躍、「天下の糸平(いとへい)」と称された。維新後は洋銀相場会所・田中銀行などを設立した(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「辻新六」不詳。

「中村彌六」(安政元(千八百五十五)年~昭和四(一九二九)年)は林業学者で農商務官僚・政治家。日本における林学博士第一号で、原敬首相を暗殺した犯人中岡艮一(こんいち)の大叔父に当たる。信濃国伊那郡高遠城下(現在の長野県伊那市)に儒学者中村元起二男として生まれた。中村家は代々高遠藩藩儒の家柄であった。詳しくはウィキの「中村弥六」を参照されたい。

「山田莊左衞門」(嘉永四(一八五一)年~大正六(一九一七)年)は政治家。信濃東江部(ひがしえべ)村(現在の長野県中野市)の大地主の息子として生まれた。十二代荘左衛門を襲名、北信商社の創立に参画、明治一三(一八八〇)年に県会議員、明治二十三年には貴族院議員、明治三十一年には衆議院議員となった。

「丸山名政」(安政四(一八五七)年~大正一一(一九二二)年)は政治家・官僚で実業家。信濃国須坂藩家老丸山兵衛次郎本政長男として江戸藩邸で生まれた。明治法律学校(明治大学の前身)卒業後、内務省地理局勤務を経て、自由民権運動に入り、嚶鳴社員として立憲改進党結成に参画、東京横浜毎日新聞記者・下野新聞主筆などを務めた後、明治一八(一八八五)年に代言人(現在の弁護士)となった。第二回・第八回の衆議院議員総選挙に当選、実業家としては日本証券株式会社社長・松本瓦斯株式会社取締役など、多くの会社の経営に参画、明治三六(一九〇三)年~明治三十八年には東京市助役も務めている(ウィキの「丸山名政」に拠った)。

「牧野毅」(弘化元(一八四五)年~明治二七(一八九四)年)は陸軍少将・大阪砲兵工廠提理(「主任」相当)。近代日本の砲兵術・製鉄事業の先駆けの一人。信州松代藩士大島規保次男として生まれた。ウィキの「牧野毅」を参照されたい。

「皆川四郎」(嘉永五(一八五二)年~明治四四(一九一一)年)は実業家。信濃国伊那郡中村(現在の長野県飯田市)の岩崎家に生まれたが、飯田城下の皆川家の養子となったウィキの「皆川四郎」によれば、『維新後に上京し、安井息軒に師事した後、代言人となったが実業界に転身する。渋沢栄一夫人の妹と結婚し、第一銀行に入行し、石巻支店長を経て、東京電灯会社支配人となる。また株式会社化した東京歌舞伎座』(第二期)を創立、明治三一(一八九八)年の第五回衆議院議員総選挙に長野県第七区から出馬し、当選している。

「兩角彦六」(慶応元(一八六五)年~明治四一(一九〇八)年)は信濃国諏訪(現在の長野県諏訪市)に諏訪藩士の子として生まれた、司法官僚・弁護士で衆議院議員。ウィキの「両角彦六」から引く。明治一七(一八八四)年に『司法省法学校予科を修了』後、明治二十一年には『東京帝国大学法科大学を卒業した』。『判事試補、司法省参事官試補、宮城控訴院書記長、函館地方裁判所判事、横浜区裁判所・横浜地方裁判所判事を歴任』したが、明治二六(一八九三)年に『退官し、弁護士を開業した』。また、『和仏法律学校(現在の法政大学)の理事兼講師、明治法律学校(現在の明治大学)講師、専修学校(現在の専修大学)講師を務めた』。明治三五(一九〇二)年の第七回『衆議院議員総選挙に出馬し、当選』。第八回の同『総選挙でも再選を果たし』ている。]

 福島安正氏單騎遠征ノ偉業ヲ繼キ且(カツ)時勢忽(ユルガ)セニスヘカラサルヲ感シ東亜及南洋諸島探檢ノ事業ヲ企圖致シ候(サフラフ)遠征會については、全く私も人にこれを聞かなければならぬのである。私がいまたまたま手廻りにあつた明治二十七年一月十二日の信府日報(しんぷにつぱう)に、林政文(はやしまさぶみ)氏の出發今囘亞細亞大洲(だいしう)の跋渉(ばつせふ)を試むる長野町(まち)なる林政文(はやしまさぶみ)氏(松本町田生)は愈々來る十四日を以て長野を出發することに定めしといふ雜報記事を發見して、遠征會を結びつけて考へなぞしてゐる有樣(ありさま)である。

[やぶちゃん注:「信府日報」『信陽日報』が明治二四(一八九一)年に改称して出来た地方紙であるが、これが松本に於ける政党系新聞の走りとされている。東京経済大学山田晴通氏の講演記録「戦前における松本の日刊新聞-ユタ日報と同時代の小さな新聞を読む-」に拠った。

「林政文」現在、金沢に本社を置く「北国(ほっこく)新聞」の第二代社長林政文(明治二(一八六九)年~明治三二(一八九九)年)か。この人物も信州出身である。]

 

Hukusimayasumasa

 

(福島中佐の寫眞は手札(てふだ)型の物。裏面(りめん)に福島安正君松本彰※會(しやうくくわい)之印あり、□印(じるし)のところの文字は肉のつきわるく讀難(よみがた)し。私の父が持つてゐた物。(福島中佐の單騎遠征は明治二十五年である。)

[やぶちゃん注:「※」の部分は「」(太字ママ)の中に太字の「」の字が書かれた活字。このためにわざわざ活字を彫ったものと思われる。後の後の「□印のところ」とは「※」の部分を指す。「讀難し」と言っている割にはちゃんと示している。]

 座右の百科辭典に依れば、福島中佐は、

 福島安正(一八五二―一九一九)軍人嘉永五年信州松本に生る。慶應元年十四歳にして江戸に出(いで)て、講武所(こうぶしよ)に入りてオランダ典式を學び、後(のち)、大學南校に學んだが、家貧にして資給せざりしため學費を得る能はず故に私塾の教員となり或は身を林信立(はやしのぶたつ)、江藤新平等(ら)の家(いへ)に寄せて慘憺たる苦學を重ねた。江藤はその才氣の非凡なるを認めて明治二年司法省十三等(とう)出仕に補(ほ)したが七年陸軍省に移つて十一等出仕となつた。西南戰役には征討軍筆記生として從軍し、平定の後(のち)陸軍中尉に任ぜられ明治二十年少佐にて在ドイツ公使館武官に補せられ、二十五年任滿ちて歸朝するに當り單騎ベルリンを發し、露都(ろと)を過ぎウラルを越え、シベリヤより蒙古に入(い)り、再びシべリヤに歸り、黑龍江の氷上を渡つて滿洲に入り三度(たび)旦シべリヤを通つて二十六年六月浦鹽(うらじほ)に着いて歸朝したが、この壯擧により彼の名は内外に喧傳(けんでん)し、明治天皇 は勳三等を賜り、その壯擧を嘉賞(かしやう)し給ひ、國民また歡呼(くわんこ)して、彼を迎へた。その後(ご)幾度(いくたび)か歐亞を旅行して足跡殆ど世界の半ばに亙り、十箇國以上の語に通じ、軍部第一の地理學者と称せられた。日淸戰爭には參謀として出征、三十三年の北淸事變には少將を以て最初の日本(につぽん)軍司令官として出征、日露戰爭には滿洲軍參謀として出征して功あり三十九年參謀次長に補せられ、七月中將に進み四十年男爵を授けらる。四十五年四月關東都督に任ぜられ、大正三年九月十五日大將に進むとともに後備役(こうびえき)に入り八年二月十九日六十八歳で歿す。

――である。

 私は小學校の昔、福島中佐萬歳萬歳萬々歳(ばんばんざい)といふ唱歌を知つてゐた。悲しい哉、今日その唱歌も萬歳萬歳萬々歳といふところだけしかの記憶になつてしまつた。のみならず單騎遠征は日淸戰爭の二年前であるべきに、日露戰爭の二年前とまでも誤つて考へてゐたほどの盲(めくら)になつた。私の網膜に映るのはただ昔(むかし)上野の動物園でみた福島中佐の馬(中佐を乘せて西比利亞(シベリヤ)を橫斷してきた馬、)偶然松本に行つてゐてみてみた福島中佐の歸省姿(私の見たのは福島大將)である。

 明治二十七年一月十二日の信府日報には又郡司大尉一行の近況が掲載されてゐる。寫して備忘としておきたい。

[やぶちゃん注:「郡司大尉」郡司成忠(万延元(一八六〇)年~大正一三(一九二四)年)は海軍軍人で探検家・開拓者。海軍大尉を退いて予備役となり、一民間人として千島を目指すことにした。開拓事業団「報效義会」を結成して北千島の探検・開発に尽力した。小説家幸田露伴は弟である。彼の事蹟の詳細はウィキの「郡司成忠」を参照されたい。]

   ○郡司大尉一行の近況

 千嶋の占守(しゆむしゆ)、シャシコタン、擇捉(えとろふ)へ分住(ぶんぢう)して越年の準備中なりし那司大尉一行の近狀を聞くに占守嶋(しゆむしゆたう)なる大尉外七名は最初より食料の準備充分なる上相應の獲物(えもの)あり又シャシコタン島(たう)なる一團も食料は前程には充分ならざれど獲物も隨分多ければ孰れも心配無かるべし又擇捉嶋(えとろふたう)なる大尉一行の家族百餘人は各所に散在し居りしも最早冱寒(ごかん)の候(こう)に向ひたれば留別(るべつ)と紗那(しやな)との二箇所に集合する事となり留別の方は獨身者二十五人紗那の方は其他の八十餘人なり同島(どうたう)には豫(かね)て食料として米百四十俵の用意ある上に有志者の寄附金にて買入れたる米五百九十俵幷に海軍部内より寄附の米五十五俵も到着したれば都合七百八十五俵の米あるのみならず此百餘名の内には乳兒凡そ七八十人位(ぐらゐ)もある事ゆゑ食物は最早充分にして本年の初航海には占守(しゆむしゆ)へ向け其内の四十俵を送致する見込なるよし左(さ)れば各嶋(かうたう)とも目下(もくか)は航海の便(べん)杜絶して其後の狀況を知るに由なきも食料にして已に充分なれば孰れも無事に此寒氣を過ごすべしと云へり。

[やぶちゃん注:「占守」千島列島北東端に位置する占守島(しゅむしゅとう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ロシア名はシュムシュ島(Шумшу)。ウィキの「占守島より引く。『サンフランシスコ条約締結以来、領有権の帰属は未確定であるが、ロシアの実効支配下にある』。『元禄御国絵図にある地名「しいもし」や鳥居龍蔵の記録にある「シュモチ」はこの島に当たるとされる』。『島の名前の由来は、アイヌ語の「シュム・ウシ(南西・<そこに>ある→南西に存在する、或いは南西に入る)」からとする説があるものの、この島の語源を「シー・モシリ(本島)」とし新知島の語源を「シュム・シリ(西島)」とする説や、占守島を「シュム・シュ(油・鍋)」とし新知島を「シュム・ウシ(南西にある、入る)」とする説もあり、山田秀三は「判断がつかない地名」としている』。『南西から北東へ約』三十キロメートル、幅は最大で二十キロメートルの『大きさで、全体的に楕円形の島である。北東のカムチャツカ半島のロパトカ岬とは千島海峡』に、西の幌筵(ほろむしろ/ぱらむしる)島とは『幌筵海峡』によって『隔てられている』。『島の北側の一部は砂浜であるが、それ以外はほとんど崖で、多くの岩礁がある』。海抜二百メートル『くらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原で覆われている。草原にはかつて日本人の住居があったが、現在は何も残っていない』。『現在この島の住民は灯台守だけで民間人はいない』。リンク先の「歴史」の項に、ここに記されてあるように、明治二六(一八九三)年八月三十一日に郡司成忠が創立した開拓事業団「千島報效義会(ちしまほうこうぎかい)」の会員がこの島に上陸して越年している、とある。

「冱寒(ごかん)」「冱」は「凍る」の意。凍り閉ざされるほどの激しい寒さを指す。

「留別(るべつ)」留別村。ウィキの「留別村によれば、『現在の北海道根室振興局択捉郡に属する村』であるはずで、『村名の由来は、アイヌ語のル・ペッ(道・川)からで、日本で最も面積の広い村である』。但し、ロシア連邦が占領、実効支配中である。択捉島の凡そ西半分に相当する地域。

「紗那(しやな)」紗那(しゃな)村。択捉島中央に位置し、明治期の択捉島では最も栄えた地域であった。]

 

 追記。私はこの遠征會時代を書いた後で、雜誌明治文化に、田邊尚雄(ひさを)氏の「明治年間の亞細亞探檢紀行」が掲載されてゐるのを知つた。また明治廿六年十月に發行された、畫工(ぐわこう)香朝樓國貞(かうてうろうくにさだ)となつてゐる。單騎旅行福島中佐軍歌壽語祿(すごろく)と昭和十四年東亞協會發行の福島將軍大陸征旅(せいりよ)詩集も購(あがな)つた。明治廿九年の文藝俱樂部にある須藤南翠の小説今樣水鏡(いまやうみづかゞみ)は――千萬年の後(のち)までも印度洋(いんどやう)とやらを通る人は玆(こゝ)で日本帝國の軍艦畝傍(うねび)號が沈沒した其折には乗組一同潔よく隊を整へ色(いろ)も變らず溺死したと言ふであらう其隊長こそ我良人(をつと)海軍大尉波多忠澄(はたたゞすみ)と名は知らぬまでも自然に名譽となる譯柄(わけがら)其妻が未練に‥‥アヽ此上は紀念兒(きねんじ)の巖(いはほ)を我が力(ちから)で育上(そだてあ)げ良人(をつと)に勝(まさ)るとも劣らぬやうな海軍士官に――といふやうな、波多忠澄の妻を書いてゐるのではあるが、それに絡む惡漢有賀泰介(ありがたいすけ)は月並として、久兵衞巖(いはほ)を座敷に密(そつ)と下(おろ)しサア坊樣(ぼうさま)今御覽なすツた福島中佐の油繪のお話しをなさいまし坊樣も今に彼の通りにお成なさるのです、のあたりは大佐に進級してしまつてゐる福島安正の目に觸れたものなのであらうかなどと思ひもするのである。

[やぶちゃん注:「明治文化」吉野作造を中心に大正十三(一九二四)年に結成された歴史研究団体「明治文化研究会」(めいじぶんかけんきゅうかい)の機関誌『新旧時代』(のち『明治文化研究』と改題)の別称。

『田邊尚雄氏の「明治年間の亞細亞探檢紀行」』不詳。同姓同名で知られた東洋音楽学者がいるが、内容的に彼とはちょっと思われない。識者の御教授を乞う。

「明治廿六年」一八九三年。

「香朝樓國貞」浮世絵師三代目歌川国貞(嘉永元(一八四八)年~大正九(一九二〇)年)。「香朝樓」は号の一つ。

「昭和十四年」一九三九年。本書刊行の前年。

「須藤南翠」(安政四(一八五七)年~大正九(一九二〇)年)は伊予(愛媛県)出身の小説家。改進党系の政治紙『改進新聞』などに発表した政治小説で文名をあげ、後に『大阪朝日新聞』」に招かれた。事蹟はウィキの「須藤南翠がよい。

「今樣水鏡」明治二九(一八九六)年二月十日発行の『文藝俱樂部』(第二巻第三編)。署名は南翠外史(日本近代文学館編「文芸倶楽部明治篇総目次・執筆者索引」に拠る)。私は未読。読みたくも、ない。

「軍艦畝傍」大日本帝国海軍の防護巡洋艦で、フランスで建造された最初の日本海軍軍艦。明治一九(一八八六)年十月に完成、日本に回航される途中、同年十二月上旬、シンガポール出発後、行方不明となった。フランス人艦長ルフェーブル、飯牟礼(いいむれ)俊位(「としひら」と読むか)海軍大尉以下の日本海軍将兵及び駐日フランス人家族合わせて全乗客乗員計九十名の消息は未だ不明とウィキの「畝傍防護巡洋艦にある。

「波多忠澄」不詳。須藤南翠の創った仮想人物か?

「紀念兒」形見の嬰児の謂いか。

「巖(いはほ)」その忘れ形見の男の子の名前であろう。

「久兵衞」波多家の老僕か。直系親族の台詞とは一寸思われない。

「大佐に進級してしまつてゐる福島安正の目に觸れたものなのであらうかなどと思ひもするのである」実に下らんことを気にするところは実に小穴隆一らしいと思う。]

2017/02/18

柴田宵曲 妖異博物館 「山中の異女」

 

 山中の異女

 

 寛文元年五月、安藝國府川の深山に容顏美麗の女人が現れた。金襴の衣を重ね、人のやうでもあるが、また人でないやうなところもある。最初に發見した樵夫が驚いて山を下り、村中に解れ𢌞つたので、百姓が大勢山に入つてその姿を見た。天人影向(やうがう)かと覺えて、或者が近くに寄り、御名を名乘り給へと云つたところ、自分はこの山に住居する山女である、自分の住所が近日破滅の憂ひがあるため、今こゝに來てゐる、と答へた。たとひ何人にもあれ、捕へて國主の一見に供へよう、と云ひ出す者があつて、大勢立ちかゝると、その姿は搔き消すやうに失せてしまつた。近村の男女大勢、雲霞の如く山を圍み、山中隈なく搜したけれども、遂にわからない。翌日その山鳴動して、一方崩れ落ちたが、その崩れた跡に穴があり、恰も漆を以て塗つたやうであつた。近邊には大豆のやうな白土の玉が谷を埋めてゐた(本朝故事因緣集)。

[やぶちゃん注:「寛文元年」一六六一年。

「安藝國府川」現在の広島県府中市府川町(ふかわちょう)か。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「影向(やうごう)」現代仮名遣は「ようごう」で、神仏が仮の姿をとって現れること。神仏の来臨の意。

「白土」原典(次注リンク先参照)では「シラツチ」とルビする。

「本朝故事因緣集」作者未詳。元禄二(一六八九)年に刊行された、説法談義に供された諸国奇談や因果話を収めた説話集。全百五十六話。同話は「卷之五」の「百廿二 山女(やまじよ)出現」で、「国文学研究資料館」公式サイト内画像データベースのこちらから視認出来る。]

 山中に時折出現する女人は、多く神異的色彩を帶びてゐる。「醍醐隨筆」に記されたのは土佐國の話で、鹿を捕へようとして山中に入り、魔笛を吹いたところ、俄かに山鳴り騷いで、茅葦が左右に分れ、何者か來るけはひである。樹の間に陰れて鐡砲を構へてゐると、向うの伏木の上に頭ばかり見えたのが、色白く髮うるはしく、眉目晴れやかな美しい女であつた。頭から下は見えぬけれど、場所が場所だけに、その美しいのが寧ろ凄まじく感ぜられる。危く鐡砲を放つところであつたが、萬一打ち損じては一大事と、身動きもせずにゐるうち、かの首は暫く四方を見𢌞して引込んでしまつた。再び風吹く如く茅が左右に分れ、もと來た道へ引返したらしい。此方も恐ろしくなつて、後をも見ずに逃げ出したとある。

[やぶちゃん注:以上の「醍醐隨筆」それは国立国会図書館デジタルコレクションの画像の(右上末行から)で視認出来る。]

「奧州波奈志」にあるのは、菅野三郎といふ者、朝早く起きて薪を取りに山へ行くと、松山の木の間を髮を亂して歩いて來る女がある。何者であらうと見守るほどに、次第に近寄つて來て、松の上から顏をさし出した。色白く髮黑くはいゝが、朝日にきらきら光る眼は慥かに人間ではない。束ねかけた薪も、持つてゐた鎌も抛り出して逃げ歸り、その後この山へは行かなかつた。家に歸つて考へて見るのに、松山の梢から頭が出る以上、どうしても身の丈二丈ぐらゐなければならぬ。頭の大きさも三尺ばかりと思はれた。多分これが山女であらうといふことである。

[やぶちゃん注:「二丈」六メートル十センチ弱。

「三尺」約九十一センチ。

 以上は「奧州波奈志」の「三郎次」にある。以下に例の仕儀で示す。【 】は原典の割注。

   *

 

     三郎次

 

 又爰なる家人に、菅野三郎次といふもの有し。【若きほどの名なり。今は三力と云。】知行は平地にて、【大みち】一里[やぶちゃん注:これは現行の一里、三・九キロメートル強相当。]の餘をゆかねば山なし。故に薪に不自由なれば、十六七の頃、さしたる役もなき故、朝とくおきて、一日の薪をとりにいつも山に行しに、ある朝、松山の木の間より、女の髮をみだしてあゆみくるを見て、いづちへ行ものならん、髮をもとりあげずして、早朝にたゞ壱人、爰を行はと、心とゞめてまもりをれば、こなたをさして、ちかよりこしが、松の上より頭ばかり出て、面(おもて)が見あはせしに、色白く髮は眞黑にて末はみえず、眼中のいやなること、さらに人間ならず。朝日に照て、いとおそろしかりしかば、つかねかけたる薪も鎌もなげすてゝ、逃歸りしが、二度その山にいらず。家にかへりておもひめぐらせば、松山の梢の上より頭の出しは、身の丈二丈もやあらん。頭の大さも三尺ばかりのやうにおぼえしとぞ。これ、世にいふ山女なるべし。

   *]

「甲子夜話」にある神遊行(しんゆぎやう)といふのは、立花家の臣某が、明け方山狩りに行くと、平素來馴れた路に、殊の外いゝ香が濡つてゐる。怪しみながら行くほどに、人の丈ばかりも茂つた茅原が、風もないのに自ら左右に分れ、何者か山を下つて來るやうなので、思はず傍に寄つてこれを避けたが、地を離るゝこと八九尺と覺しきところを、端嚴微妙、繪に畫いたやうな天女が、袖を飜しながら麓をさして來る。鐡砲を倒し平伏してゐたら、天女が一町ばかりも過ぎたらうと思はれる頃、漸く人心地がついた。それから狩り暮したけれども、遂に一物を獲ず、またもとの路に出た時、麓の方より茅が左右に分れ、天女は奧山に還られる樣子であつた。この話は前に引いた「醍醐隨筆」の記載に似たところがある。「醍醐隨筆」では首だけ出してあたりを見𢌞すところを、全然一顧も與へず、茅を分けて來り、茅を分けて去るのが如何にも神遊行にふさはしい。

[やぶちゃん注:以上と次段及び次々段のそれは総て「甲子夜話」の「卷之十二」の「筑後の八女津媛(やとつめひめ)の事 幷(ならびに) 神女の事」である。以下に示す。【 】は原典の割注。平仮名の読みは私が推定して附加した。漢文訓点は参考底本としている東洋文庫のそれをほぼ再現したが、一部におかしな箇所があるので、そこは私が正しいと思うもので訂した。

   *

或人の曰、三十五六年前柳川侯の【筑後の領主】公族大夫に立花某と云あり。其領せる所を矢部(ヤベ)と云ふ。此地古(いにしへ)は八女(ヤメノ)県(あがた)と云しなり。又八女(ヤメノ)國とも云しこと『日本紀』に見ゆ。其山は侯の居城の後まではびこりし高山と云ふ。或日大夫の臣某、山狩に鳥銃(つつぱう)を持、拂曉(ふつげう)に往(ゆき)しに、常に行馴(ゆきなれ)たる路殊の外に異香(いかう)薰(くん)じたれば怪みながら向(むかふ)さして行(ゆく)ほどに、丈(たけ)計(ばかり)も生立(おひたち)たる茅原(かやはら)の人もなきに左右へ自(おのづか)ら分れ、何か推分(おしわけ)て山を下るさまなれば、傍へに寄てこれを避(さく)るに、人は無くて地を離るゝこと八九尺と覺しきに、端嚴微妙まことに繪がける如き天女(てんによ)の、袖ふき返しながら麓をさして來(きた)るなり。因て駭(おどろ)き鳥銃(てつぱう)を僵(たふ)し平伏してありしが、やがて一町も過たりと覺しき頃、人心地(ひとごこち)つきて山に入り狩(かり)くらしたれど、一物をも獲ずして復(また)もとの路に囘(かへ)るに、麓の方より又茅(かや)左右に偃(ふし)て今朝のさまなれば、路傍に片寄り避てあるに、かの天女は奥山さして還り入りぬ。人々奇異の思をなしたりとなり。又彼(かの)藩の臼井省吾と云しは博覽の士なりしが、是を聞てそれぞ『日本紀』に見ゆる筑紫後(ノミチノシリノ)國の八女(ヤトメ)県の山中に在(おは)すと云(いふ)八女津媛(ヤトツメヒメ)ならんに、今に至て尚其神靈あるなるべし。景行紀、十八年秋七月辛卯朔甲午【四日也】〕到筑紫後(ミチノシリノ)國御木タマフ於高田行宮(カリミヤ)、丁酉【七日也】到八女(ヤメノ)県。則前山以テ南望粟ノ岬、詔シテㇾ之、其山峰岫重疊シテ美麗之甚シキ、若クハ神有。時水沼(ミヌマノ)県主猿大海(サルオホミ)奏シテ、有女神八女津媛(ヤトツメヒメ)。常レリ山中。故八女(ヤメノ)國之名由ㇾ此レリ也。是を證すべし。

又八九十年にも過(すぎ)ん、予が中に大館逸平(おほだていつぺい)と云(いへ)る豪氣の士あり。常に殺生を好み、神崎と云ふ処の【平戸の地名】山谿(さんこく)に赴き、にた待(まち)とて鹿猿の洞泉に群飮(ぐんいん)するを鳥銃(てつぱう)を以て打(うた)んとす。此わざはいつも深夜のことにして、時は八月十五日なるに、折しも風靜(しづまり)月晴(はれ)、天色淸潔なりしが、夜半にも過んと覺しきに、遙に歌うたふ聲きこへければ、かゝる山奥且(かつ)深夜怪しきことと思ふうち、やゝ近く聞こゆるゆゑ、空を仰ぎ見たれば、天女なるべし、端麗なる婦人の空中を步み來れり。その歌は吹けや松風おろせや簾(すだれ)とぞ聞へける。逸平卽(すなはち)鳥銃(てつぱう)にて打(うた)んと思(おもひ)たるが、流石(さすが)の剛強者(がうきやうもの)も畏懼(ゐく)の心生じ、これを僵(たふし)て居(をり)たれば、天女空中にて、善(よ)き了見(りやうけん)々々と言(いひ)て行過(ゆきすぎ)しとなり。是(きれ)らも彼の八女津媛(やとつめひめ)の肥の國までも遊行(ゆぎやう)せるものか。又前さき)の逸平の相識(あひし)れる獵夫も、平戸嶋志自岐(しじき)神社の近地(きんち)の野徑(のみち)を深夜に往行(わうかう)せしに、折から月光も薄く、人に逢(あひ)たり。獵夫乃(すなはち)これを斬(きら)んと思(おもひ)たるが、頻(しきり)に懼心(くしん)生じ刀を拔得(ぬきえ)ずして過(すぐ)したり。是より深夜に山谷(さんこく)をば行(ゆく)まじと云しと語傳(かたりつた)ふ。亦かの神遊行(かみゆぎやう)の類(たぐひ)か。

   *]

「甲子夜話」が擧げたもう一つの例は、神崎といふ平戸の山谿の話である。大館逸平といふ者、常に殺生を好み、鹿や猿の水を飮みに集まるのを錢砲で擊つ。この獵は深夜に限るのであつたが、十五夜の月明の空に遙かに歌聲が聞える。かゝる山奧に、夜半を過ぎて何事と思ふうちに、歌聲は次第に近付き、天女と思はれる端麗な婦人が空中を步み來つた。その歌の文句は「吹けや松風おろせや簾」といふやうである。はじめは鐡砲で擊つつもりであつたが、さすがに畏懼の心を生じ、銃を倒してゐると、天女は空中で「よき料簡々々」と云つて行き過ぎた。立花家の臣の遭遇した神は、筑後國八女郡の山中に在す八女津媛であらうといふ説があるが、同じ神の肥前まで遊行せらるゝのであらうかと「甲子夜話」は記してゐる。

[やぶちゃん注:「水」「たにみづ」と訓じておく。

 大館逸平のよく識つてゐる獵師は、平戸嶋志岐神社の近くで容貌正しい婦人に出違つた。時は丑の刻(午前二時)で、月の光りも薄かつたのに、衣裳は鮮明に見えたさうである。獵師は怪ならんかと疑ひ、一たび斬らうとしたが、頻りに懼心を生じ、刀を拔くことが出來ず、もうこれから深夜に山谷を行くことは止めると云つた。これもまた神遊行の類かも知れぬ。

「想山著聞奇集」の「狩人異女に逢たる事」は、大體に於て「甲子夜話」の第一の例に近いが、場所は信州御嶽山の麓である。夜明けの篠竹を分けて來る女人を變化(へんげ)と思ひ込み、鐡砲を構へてゐると、そなたに告げたい事がある、と云つてこれを制し、次第に近付いて來たのは、容貌美麗なる十六七の少女である。自分は飯田領何村の何某の娘である、十三年前の七月、川へ物洗ひに行つた際、遁れられぬ因緣あつて山へ入り、山の神となつた、故郷の父母はこれを知らず、その日を忌日として供養してくれるのは忝いが、自分にはそれが却つて障礙になつてゐる、來年は鈴鹿山の神になる順序のところ、この七月は十三囘忌といふことで、また佛事供養などを營まれると、鈴鹿の神となることも叶はぬ、どうか父母に逢つて、この子細を告げ、今後佛事は勿論、佛供一つも供へぬやうにして貰ひたい、と云ひ了つてその姿は消え失せた。狩人奇異の思ひをなし、狩裝束を脱ぎ捨てて信州に赴き、云はれた通りをその父母に告げた。娘が家を出たのは十六歳の時であつたが、狩人の前に現れた姿も十六歳ぐらゐに見えた。その容貌のあでやかな事は、人間とは思へなかつたさうである。狩人はこの女神から殺生をやめよと云はれたことを深く肝に銘じ、名古屋に出て武家奉公などをし、遂に江戸に來て市ケ谷自稱院の道心坊となつた。時代は寛政か享和頃といふことになつてゐる。

[やぶちゃん注:「障礙」「しやうがい」。障害・障碍に同じい。

「自稱院」原典(後掲)では『自證院』である。

「寛政か享和頃」寛政は享和の前であるから、一七八九年から一八〇四年の間。

 「想山著聞奇集」のそれは「卷の參」の「狩人(かりうど)、異女(いぢよ)に逢(あひ)たる事」である。【2017年5月3日改稿】「想山著聞期奇集」の電子化注で、そこに辿りついたのでリンクに変更した。

 神自ら姿を現じ、自分の身の上話をして、故郷への傳言を賴むなどといふのは、この類話の中に一つもない。篠竹を分けて現れ、搔き消すやうに失せるあたり、正に型の通りであるが、「甲子夜話」の神遊行の如き神韻縹渺たる趣は缺けてゐる。右に擧げた或者は神に近く、或者は怪に近く、一概に論じがたいけれど、出現の段取りは共通するところが多い。もう一つ參考のため、「甲子夜話」の第三例に近い小佛峠の話を「梅翁隨筆」から擧げよう。こゝに出て來る百姓與右衞門なる者は、肥前國嶋原領の男であるが、所用あつて江戸へ出、甲斐國龍玉村の名主を尋ねるため、小佛峠を越えた。俄かに日が暮れて道もわからず、あたりに家もないから、是非なく步いて行つたら、神さびた社のところに出た。今夜はこゝに一宿することにして、次第に夜も更け渡つた頃、年の頃二十四五位と思はれる、賤しからぬ女が現れ、與右衞門の側近く立𢌞ること數度である。これは化生(けしやう)の者に相違ない、近寄つたら一打ちにしようと思つたが、五體がすくんで全く動かぬ。女が少し遠ざかれば自由になり、近寄ればまた動けない。そのうちにだんだん近付いて來る模樣だから、或は食ひ殺されるかも知れぬ、それはあまり殘念だと、思ひ切つて女の帶をしつかり銜へた。その時女は恐ろしい顏になつて、今にも食はれさうであつたが、途端に身體が自由になつたので、脇差を拔いて切り拂ふ。女の姿は消えてしまつた。倂し考へて見ると、この神が人を厭ひ給ふこともあるかと氣が付き、直ちにそこを去つて夜道を急いだ。その後は甲州に到るまで、何の怪しいこともなかつた。――この話は神と怪との中間に在る。平戸の獵師が斬らんとして斬り得なかつた話に比べても、慥かに怪に一步近付いてゐるやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「小佛峠」「こぼとけたうげ」は高尾山北側の山麓を貫く旧甲州街道内のの峠。現在の東京都八王子市と神奈川県相模原市緑区の間にあり、標高は五百四十八メートル。

「數度」「あまたたび」。

 以上の「梅翁隨筆」のそれは、「小佛峠の怪異」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。本文文頭の柱の「一」は除去した。

   *

  ○小佛峠怪異の事

肥前國島原領堂津村の百姓與右衞門といふもの、所用ありて江戸へ出けるが、甲州巨摩郡竜王村の名ぬし傳右衞門に相談すべき事出來て、江戸を旅立て武州小佛峠を越て、晝過のころなりしが、一里あまり行つらんとおもひし時、俄に日暮て道も見えず。前後樹木生茂りて家なければ、是非なく夜の道を行に、神さびたる社ありける。爰に一宿せばやと思ひやすみ居たり。次第に夜も更、森々として物凄き折から、年のころ二十四五にも有らんと思ふ女の、賤しからぬが步行來り、與右衞門が側ちかく立𢌞る事數度なり。かゝる山中に女の只壱人來るべき處にあらず。必定化生のものゝ我を取喰んとする成べしと思ひける故、ちかくよりし時に一打にせんとするに、五體すくみて動き得ず。こは口惜き事かなと色々すれども足もとも動かず。詮かたなく居るに、女少し遠ざかれば我身も自由なり。又近よる時は初のごとく動きがたし。かくする内に猶近々と寄り來る故、今は我身喰るゝなるべし。あまり口おしき事に思ひければ、女の帶を口にて確とくわへければ、この女忽ちおそろしき顏と成て喰んとする時、身體自由に成て脇ざしを拔て切はらへば、彼姿はきえうせていづちへ行けん知れず成にける。扨おもひけるは、此神もしや人をいとひ給ふ事もあらんかと、夫より此所を出て夜の道を急ぎぬ。其後は怪敷ものにも出合ずして、甲斐へいたりぬとなり。

   *]

「閑田次筆」の獵師は寶寺の下に住む者である。その後他へ移つたが、或朝猪を狙つて山に入り、思ひがけず容顏美麗の女に逢つた。所がら怪しく思ひ、あとをつけて行くと、女はしづかに小倉明神といふ社(やしろ)をめぐる。獵師も共にめぐるうち、その女が見返つた顏を見れば、眼が五つある。驚いて走り歸り、ふつと殺生をやめて百姓になつたが、ほどなく足腰が立たなくなつた。これは神社が出て來る點で、平戸の話及び小佛峠の話に似てゐる。たゞ五つ眼といふやうな異形の話は、他にないところで、先づ怪と見る外はあるまい。

[やぶちゃん注:「寶寺」「たからでら」で、現在の京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(ちょう)大字大山崎字銭原(ぜにはら)にある真言宗宝積寺(ほうしゃくじ)のことか。(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「閑田次筆」の「卷之四 雜話」にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。頭の柱「○」を除去した。

   *

此筆記を草する時、山崎の者、ことのついでにかたらく、寶寺の下に住ける獵師、鐵炮甚だ上手にて、飛鳥をもよくうち落せしが、後其近村山家(ヤマガ)といふへ移(ウツ)り住て、一朝猪をねらひて山へ入しに、おもほえず容顏美麗の女にあへり。所がらあやしけれども從ひゆくに、小倉明神とまうす社をめぐる。おのれも共にめぐりしに、彼女吃(キ)と見おこせ睨(ニラミ)たるを見れば、限五になりたり。驚きて走(ハシ)り歸り。此後殺生を止(トヾ)め、農業をつとむ。されども從來の罪によりてや、ほどなく足腰不ㇾ起(タヽズ)。子は二人有しも、一人は早世し、一人は白癩(シロコ)にて、あさましき者なりといへり。常に見聞に、鳥屋には支離(カタハ)もの多、あるひは終をよくせざるもの多し。さるべき道理なり。

   *

「シロコ」は「白癩」の左意訳を示すルビ。本来は「びやくらい(びゃくらい)」と読んでいよう。多様な皮膚変性症状を呈するハンセン病の一つの病態の古称。身体の一部或いは数ヶ所の皮膚が斑紋状に白くなる症状のものを指した。]

芥川龍之介の幻の作品集「泥七寶」のラインナップを推理して見た――

 

 小穴隆一の「鯨のお詣り」の「影照斷片」のここ を読むと、どうしても推理して見たくなるのである。この時点で芥川龍之介が平安朝物ばかりを集めた幻の作品集「泥七寶」に収録しようとした作品はなんだったのか?

 この前の彼の作品集は第六作品集「春服」(大正一二(一九二三)年五月十八日春陽堂刊・収録作品十五篇)が、

「六の宮の姫君」・「トロッコ」・「おぎん」・「往生繪卷」・「お富の貞操」・「三つの寶」・「庭」・「神神の微笑」・「奇遇」・「藪の中」・「母」・「好色」・「報恩記」・「老いたる素戔嗚尊」・「わが散文詩」

で(下線やぶちゃん。これが純然たる王朝物四篇)、他に切支丹物三篇・古代物一篇・開化物一篇・中国物(「奇遇」。但し、現代物入子形式)・開化物一篇でこれら歴史小説が計十一篇、それに現代小説が三篇と童話一篇で、これまでの芥川龍之介の面目たる、歴史小説集の体裁を維持していると言える。

 ところが、この、ぽしゃった「泥七寶」の直後に出た、第七作品集「黃雀風」(大正十三年七月新潮社刊・収録作品十六篇)では、

「一塊の土」・「おしの」・「金將軍」・「不思議な島」・「雛」・「文放古」・「糸女覺え書」・「子供の病氣」・「寒さ」・「あばばばば」・「魚河岸」・「或戀愛小説」・「少年」・「保吉の手帳から」・「お時儀」・「文章」

で、「おしの」「金將軍」「糸女覺え書」の三篇のみが歴史小説で、しかもこれは近世初期を舞台とするものであり、それ以外は現代小説で埋められ、芥川龍之介の創作志向表明の方向転換が明確に打ち出されていることが判る。

 しかも前回の「春服」刊行以降、芥川龍之介は新たな本格物の王朝物を書いていないのである。

 則ち、芥川龍之介がこの時期、平安朝物ばかりを集めた作品集「泥七寶」を刊行しようと思ったのは、そうした、文壇への進出と流行、そこで中心核としてきた或いはされてきたところの歴史小説に仮託した創作姿勢への、一つの訣別の記念としての標(しるべ)、墓標としての意味があったと私は考える。

 では、そうした観点から、収録を予定していたものは何であったか?

 これはそうした彼の歴史小説作家としての前半生へのオマージュである以上、先行する単行本所収との重複や未完成の除外(禁則)はまずは無視してよいであろう(それらも候補としてよいということ、である)。さらに作品集の標題を「泥七寶」と称した以上、芥川龍之介は自作遺愛のそれから「泥七宝」と呼ぶに相応しい独特の色に変じた七篇を選んだと考えて自然であると思う。実は芥川龍之介の平安時代を舞台とした本格的な王朝物は前期に集中し、しかも意想外にそう多くはない。

 

「羅生門」・「鼻」・「芋粥」・「道祖問答」・「運」・「偸盗」・「地獄變」・「邪宗門」・「龍」・「往生繪卷」・「好色」・「俊寛」・「藪の中」・「六の宮の姫君」

 

十四篇が、幻の作品集「泥七寶」収録予定作品の候補の最大公約数と私は考えてよいように思う。

 まず消去法で行こう。この内、まず「邪宗門」は確実に除外される。何故なら、この未完中断作品を芥川龍之介はわざわざ既に未完のまま単独一作で大正一一(一九二二)年阿一一月十三日に春陽堂から単行本化しているからである。

次に除外される可能性が高いのは「龍」であろう。芥川龍之介は藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月『新潮』)で、『樹の枝にゐる一匹の毛蟲は、氣溫、天候、鳥類等の敵の爲に、絶えず生命の危險に迫られてゐる。藝術家もその生命を保つて行く爲に、この毛蟲の通りの危險を凌がなければならぬ。就中恐る可きものは停滯だ。いや、藝術の境に停滯と云ふ事はない。進步しなければ必退步するのだ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは藝術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた』と世間に告白してしまっているからである(リンク先は私のテクスト)。これは龍之介のダンディズム、否、矜持からも絶対に入れられない(私は個人的には入れたいが)

 次に芥川龍之介が必ず選ぶであろうものを考える。

 実際の公的処女作であり、第一作品集の標題ともした「羅生門」は絶対で、漱石絶賛の「鼻」も勿論、その漱石の激励に応えた「芋粥」(当時も今もやや失敗作とされることが多いが、瘧に彼に強い愛着があるはずである)も外せない

 未完と言えるピカレスク・ロマン「偸盗」も龍之介は愛したし(彼の手帳メモなどから明らかに続篇執筆の強い希望があったことが判る)及び、自他共に力作の自信作であった、自身に擬えられたような芸術至上主義者の破滅を描く「地獄變」も当然の如く選ぶと考えねばならぬ。

 「藪の中」は私的な愛憎からも必ず入集したであろう。

 ここまでで六篇。残り一篇をどうするか。

……「道祖問答」……「運」……「往生繪卷」……「好色」……「俊寛」……「六の宮の姫君」…………

 私なら迷わずに「六の宮の姫君」(大正一一(一九二二)年八月『表現』)である。これはまさに王朝物の最後の作品であるが、長く評価の悪い一作であった。私はこの作品はまさに芥川龍之介の王朝物群の中で、〈滅びの美〉ならぬ〈滅びの生の実相〉を描いた鬼気迫るものとしてすこぶる偏愛する作品だからである。

 以上、

 

私の幻の芥川龍之介の王朝物作品集「泥七寶」七篇(推定)のラインナップ――

 

「羅生門」

「鼻」

「芋粥」

「偸盗」

「地獄變」

「藪の中」

「六の宮の姫君」

 

である。これなら、絶対、私は買う。買いたいし、続けて読んでみたい。

 どうぞ、皆さんもオリジナルな芥川龍之介作品集「泥七寶」を、これ、お考えあれかし――

2017/02/17

小穴隆一「鯨のお詣り」(55)「影照斷片」(13) / 「影照斷片」~了

 

         ○

 

 彼にあつて志賀直哉は別格である。

 自分にあつては、文藝生活に於ける彼に絲(いと)を投げかけた者を、漱石、潤一郎と信ずる。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「芥川・志賀・里見」の原型の一部。]

 

         〇

 

「互(たがひ)にただの鼠(ねづみ)でないと人に思はれてゐるのがつらい。」

 仙臺の宿で、醉餘(すゐよ)の里見弴(とん)はかう搔口説(かきくど)いて彼に言つたといふ。

「君も僕もただの鼠でもない者が、ただの鼠ではないと思はれてゐる。」

 講演旅行から歸つて自身の室(へや)に這入(はい)るなり、彼は自分にさう言つて悄然としてゐた。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「芥川・志賀・里見」の原型の一部。]

 

         ×

 

Akutagawazoujyouhaitizukujiraban

 

[やぶちゃん注:底本では前の「×」と以下の文章全体がポイント落ちで、更に以下の文章は本文四字下げ下インデントである。ルビは一切附されていない。芥川龍之介の告別式の配置図は「二つの繪」版の「芥川の死」に挿入されているそれ()よりも大きな上に、版が異なるので底本のものを新たにスキャンしてここに示した。]

 

 二三二頁は昭和二年七月二十七日午後三時より行はれた下谷區谷中齋場に於ける芥川龍之介告別式場の見取圖である。菊池寛が友人代表として弔詞を讀んだ。

「芥川龍之介君よ、君が自ら選み、自ら決したる死について吾等何をかいはんや、たゞ吾等は君が死面に平和なる後光の漂へるを見て甚だ安心したり。友よ安らかに眠れ‥‥」

 と一言讀んで聲をのみ二言讀んで淚を拭ひ、終に聲をたててさへ哭いた。滿場涕位した。

小穴隆一「鯨のお詣り」(54)「影照斷片」(12)

 

         ○

 

 七月二十一日に、彼が、金はいらぬかと言つてゐたその金の高は自分にも不明である。が、彼の死後時に遇(あ)つてうなづけた。――死ぬる三日前(かまえ)に改造社から千圓を借りてゐる。何の爲それを彼が要した金であつたか。さうけげんに思つた改造社の者の言葉は、自分にもけげんではあつたが事の合點(がてん)が出來た。家人にも祕(ひそ)かにしたその金を彼が持つて、左翼の人に夜へてゐると知つたのはそれ以後の日(ひ)に斯(お)いてではあるが、その彼についてのM女は、「えゝ、わたしにはそんな事も言つてゐました。」と返事した。千圓の金が其儘(そのまま)に二三日の間に消えてゐる。噂の彼を自分も認めはする。殊に當時の新聞の三面には、生活難に死んだ人達の記事が多かつたと考へるが、全く淚を流して、「自分は斯ういふ人達の事をみるにつけても、かうやつて自分が生きてゐることがすまないと思ふ。」と、言つてゐた晩年の彼の、來(く)る朝每(ごと)の嘆きを見知つてゐるからである。

「僕も、あの時は、あゝいふ風になると、自分も矢張り、つくづく、勳章が欲しいと思つたよ。」

 何かの時に淸浦(きようら)伯(はく)と席を共にした事のある彼はさう語つてゐた。その頃の彼は、(死ぬ話)の出なかつた時代の彼である。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「千圓の金」の原型。本書で先行する「最後の會話」も参照されたい。

M女」平松麻素子。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(53)「影照斷片」(11)

 

         ○

 

 本を裝幀してゐるが如くに、墓をも積むと言ふのである。但し、棹(さを)の無い石塔を彼は空想してゐた。彼の註文どほりにゆけば、上野公園などに見るロハ臺(だい)の如き物の小なる物が出來(しゆつらい)する。それがよろしい。誰れにでも腰掛けられるものであつて欲しいと答へてゐた彼であるが。

 墓を彼のために考案するに當つて、臺石を平素彼が敷いてゐた二枚の座蒲團(ざぶとん)の寸法に倣(なら)つて定め、全體の型は推(お)していつた。卷紙に圖を畫(か)いて殘した、彼自身家族に示すところの如きものとは、赴(おもむき)を異(こと)にしたかと思ふ。自分が常常(つねづね)彼の墓に御無沙汰してゐるのは、憖(なま)じひに、彼の註文を受けて、墓石(ぼせき)の文字まで、自分の惡筆を刻ませてしまつてゐるからである。

[やぶちゃん注:「出來(しゆつらい)」のルビはママ。

「ロハ臺」「只(ただ)」を分解してカタカナに変え、座るにタダであることから、公園などに設けたベンチの謂い。]

 

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(52)「影照斷片」(10)

 

         ○

 

 一、若(も)し集を出すことあらば、原稿は小生所持のものによられたし。

 二、又「妖婆」(「アグニの神」に改鑄(かいちう)したれば)「死後」(妻の爲に)の二篇は除かれたし。

 この間(あひだ)の文字を見る。人はそこに、妻の爲にと告げおく事の彼の背後を搜すであらう。「自分が勝手な事をしておいて、勝手な事が言へや義理ではない。」「自分のやうな人間が『死後』の如き物を書いた事は間違(まちがひ)である。」と、言てゐた彼を、彼は其儘(そのまま)傳へて殘してゐる。

 ――集を出すことのために、訂正を試みた彼の筆(ふで)を二三の箇所に示す芥川龍之介集(現代小説全集、新潮社版(はん))を自分は所持する。これ亦その箇所を示す「夜來の花」は、彼の遺族の所有となつてゐる。自分の「夜來の花」は間違つて彼の死後も其儘に彼の家(いへ)に留り彼の「夜來の花」が自分の家に移つた。

[やぶちゃん注:前半部分は「二つの繪」版の妻に對する、子に對するに使用されている。

「芥川龍之介集(現代小説全集、新潮社版)」死の一ヶ月半後の九月十二日に新潮社から刊行された。因みに、新潮社は芥川龍之介の遺書によって土壇場で理不尽にも生前の全集刊行の契約を破棄されている。 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫を参照されたい。

「夜來の花」は中国特派旅行の直前(東京出発大正一〇(一九二一)年三月十九日)の三月十四日に新潮社から刊行された芥川龍之介の第五作品集。収録作品は「秋」「黒衣聖母」「山鴫」「杜子春」「動物園」「捨兒」「舞踏會」「南京の基督」「妙な話」「鼠小僧次郎吉」「影」「秋山圖」「アグニの神」「女」「奇怪な再會」の十五篇。これ以降、龍之介の作品集の殆んどの装幀を小穴隆一が手掛けることなった。

『その箇所を示す「夜來の花」は、彼の遺族の所有となつてゐる。自分の「夜來の花」は間違つて彼の死後も其儘に彼の家(いへ)に留り彼の「夜來の花」が自分の家に移つた』この部分はやや解り難いが、芥川龍之介は非常にマメで、小穴がここで述べているように、初出誌や初刊の単行本に後から訂正や改稿を手書きで加えたりしている(実際に全集本文の中には、そうしたものと校合して本文確定がなされているものがある)から、これは作品集「夜來の花」初刊筆者本で、芥川龍之介が本文に書入れをしたものが、本書刊行時である昭和十五年に於いても、何故か、小穴隆一の手元に置かれてあり、小穴隆一への献呈本が、何故か、芥川邸に置かれてある、ということを言っているのだと私は読む。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(51)「影照斷片」(9)

 

         ○

 

 昭和二年の夏に芥川さんは東日(とうにち)に「本所兩國」を書いた。その差畫(さしゑ)を藤澤古實(ふるみ)氏かするはずであつたところ、藤澤氏が辭退してしまつたので、岸田劉生に「銀座」あり、われもまたの勢いで、芥川さんは自身畫(ゑ)も兼ねようと、カットには橋、㈠の畫(ゑ)のところは芥川家が載つてゐる昔の地圖を臨模(りんも)、といつた次第で第一日分を作つた。しかし後(あと)十四日分が如何(どう)にもならず、結局前日になつてその差畫急に私に廻つた。

 今日になつてみると、あの時、芥川さんが後十四日分勝手なものを續けて作られなかつた物かとも思ふ。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「芥川の畫いたさしゑ」の前半に使われている。]

 

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(50)「影照斷片」(8)

 

         ○

 

 惡い物は人にやること

 これもまた僕に足のあつた昔の時の話である。我鬼先生當時三十一歳とみてよろしい。例の支那雜貨の守尾(もりを)、あそこで僕が筆を一本買つてゐる間(あひだ)に、先生は差渡(さしわたし)三寸(ずん)五分程のこんなToukiaku陶器をみつけた。さうして、そのなんだかわからないものを、呉須(ごす)も龍の繪も兩方ともいけないのを、如何(どう)したか、我鬼先生が五圓の値(ね)で買つてしまつた。「肉池(にくち)に使はう。」といふ。ところが店を出ること數步で、「僕はこれを地べたへ叩きつけたくなつた。癇癪が起きてくる。と言ひだした。夏の夕方の往來で懷(ふところ)だつて嵩張(かさば)るのはごめんといふわけでもあつた。我鬼先生はじりじりしながら、僕にうまい天ぷらを紹介して呉れたが、幾日かたつてまた會つた時には、「君、僕はあれを人にやつてよかつたよ。室生にやつたら、君、室生は早速肉を五圓買つてきていれておいたさうだがね。一晩で、みんな油を吸はれてしまつたといふんだ。君、惡い物は人にやることだねえ。」と、言つてゐた。僕は改めてまたその陶器に感心もした。

 一體、陶器に對する室生犀星さんの目が肥えたのも、もしこのことあつて以後であるとしたならば、僕等はよろしく、惡い物はこれを人にやる事を實行したはうがよささうでもある。

[やぶちゃん注:陶器の形は底本の当該部を画像でスキャンして嵌め込んだ。

「例の支那雜貨の守尾」この書き方からは当時、戦前にかなり知られた中国雑貨店と考えねばならぬが、不詳。識者の御教授を乞う。

「三寸五分」一〇センチ六ミリメートル。

「呉須(ごす)」本来は、磁器の染め付けに用いる鉱物性顔料。酸化コバルトを主成分として鉄・マンガン・ニッケルなどを含む。原石は黒ずんだ青緑色を成すすが、粉末にして水に溶いて磁器に文様を描き、上に釉(うわぐすり)をかけて焼くと、藍色に発色する。ここはその系統の色合いを指している。

「五圓」Q&Aサイトで大正十年の一円を現在の約七千七百四十三円相当とする換算式があったから、凡そ三万八千円ほどに相当するか。

「我鬼先生當時三十一歳」数えであるから大正一一(一九二二)年と推定される。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(49)「影照斷片」(7)~幻の作品集「泥七寶」!

 

         ○


Drositupou

 私の關係した範圍では、出版されようとして出版されなかつた二種の本が彼にある。一つは平安朝物ばかりを集めた「泥七寶(どろしつぱう)」、これはその見返しの繪、箱、扉の文字までが木版に出來上りながら、不幸にして版元玄文社そのものが廢滅(はいめつ)してしまつたので、本とはならなかつたものである。もう一つのは切支丹(きりしたん)物ばかりを集めた物で、このはうはどことの約束であつたのか、ただ私がはそのために、一度東洋文庫に石田幹之助さんを訪ねて、慶長版の切支丹本(ぼん)を見せて貰つた記憶があるばかりである。これが大正十五年五月のことで、泥七寶は同十四年の話と思ふ。(カツトは泥七寶の扉の文字。尚子筆。縮寫)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧部分は底本ではポイント落ち。

 「泥七寶」この語自体は「どろしっぽう」或いは「でいしっぽう」と呼ばれる七宝焼きの技法の一種で、ウィキの「七宝焼きによれば、『独特の釉薬(多くは不透明の釉薬)を用いて焼いた平安時代ないし桃山末期から見られる古来の技法。透明な釉薬は西洋では東ローマ時代から見られるが、東洋では不透明な釉薬を用いたものが多い。それら、ワグネル』(Gottfried Wagener 一八三一年~一八九二年:カタカナ音写は「ゴトフリート・ヴァーゲナー」が近い。ドイツ出身の「お雇い外国人」であるが、当初はアメリカのラッセル商会の石鹸工場設立参加のため来日したが(その事業は不成功となって廃案となった)、その後に政府に雇われた「お雇い外国人」としては特異なケースである。京都府立医学校(現在の京都府立医科大学)・東京大学教師・東京職工学校(現在の東京工業大学)教授などを勤め、陶磁器やガラスなどの製造を指導、明治の工学教育に大きな功績を残した。ここはウィキの「ゴットフリード・ワグネルに拠った)『により透明釉薬が発達する以前の七宝器や釉薬を、総じて泥七宝と呼ぶ。あるいは、日本では古来にも平田七宝のように透明感のある作もあるため、それらを区別して、単に泥七宝と呼ぶにふさわしい濁りのある釉薬を用いた作を泥七宝と呼ぶ場合もある。また、初期の尾張七宝の釉薬のことを泥七宝と呼ぶ場合や、京都では鋳造器に七宝を入れたものを泥七宝と呼んでおり』、『その定義は定まっていない』とある。翻って、この幻の作品集「泥七寶」の部分は「二つの繪」でカットされてしまっている。またここで小穴隆一は「泥七寶は同十四年の話と思ふ」と述べているが、これは大正十三年の誤りである。鷺只雄氏及び宮坂覺年譜の大正一三(一九二四)年五月二日(宮坂氏は『五月二日頃』と推定)の箇所に(以下、引用はの写真は、鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)より)『玄文社から王朝物の短編集『泥七宝』を出すことになり、装幀(表紙、扉、見返しで四〇円)を小穴氏に依頼する。小穴は五月一六日までに仕上げるが、玄文社が倒産したため、刊行されなかった』とあるからである。鷺・宮坂年譜ともに収録予定の作品への言及はない。何となく、芥川龍之介の死後の昭和一一(一九三六)年に野田書房から限定百七十部で出版された「地獄變」(本文・越前産特漉・小穴隆一題字・帙入)みたようなもんかなぁなどとは感じたりする「泥七寶」! 何を集録したであろう?! ああっ! 欲しい!(なお、芥川龍之介の作品では大正一三(一九二四)年六月発行の雑誌『隨筆』に掲載された、春の日のさした往來をぶらぶら一人步いてゐるに、『八百屋の店に慈姑がすこし。慈姑の皮の色は上品だなあ。古い泥七寶の靑に似てゐる』と「泥七寶」が登場している。

「尚子」既出であるが「ひさこ」と読む。小穴隆一の実の妹。小穴隆一の仕事を手伝い、芥川龍之介作品集の装幀用の字を隆一はしばしば彼女に書かせた。数え十三で夭折した。

小穴隆一「鯨のお詣り」(48)「影照斷片」(6)

 

         ○

 

 大正六年から大正十二年の間、君看雙眼色不語似無愁(きみみよさうがんのいろかたらざればうれひなきににたり)から暮春者春服既成得冠者(ぼしゆんにしゆんぷくすでになりくわんじや)五六人(にん)童子(どうし)六七人(にん)沿乎沂風乎舞雩詠而歸(きにそひぶうにふうしえいじてかへらむ)に至るまで、阿蘭陀(おらんだ)書房發行の「羅生門」から春陽堂發行の「春服(しゆんぷく)」に至るまでの、その間の彼の作品を順次に一度ゆつくり讀んでみたいと私は思つてゐる。何故ならば、夏目漱石先生の靈前に獻ずとした「羅生門」の扉に君看雙眼色不語似無愁を擇(えら)んだ彼が、「春服」の扉には暮春者春服既成を擇んでゐたことに、改めて氣付いたからでもある。本來春服には扉の春服の二字のほかにそれと彼の年少時代、袴着の祝ひの時の寫眞との間に、もう一枚に暮春に春服既に成りからに沂(き)に沿ひ舞雩(ぶう)に風(ふう)し詠じて歸らむまでの文字を扉としていれる彼の意向であつた。それをいれ落したといふ間違ひの原因は、彼の「春服」の後(のち)に、に書いてもあるがやうに、「春服」が私の病苦のさなかにつくられたためにほかならない。私はいま自分の手ずれた春服に觸(さは)り、この見返しの繪も、伊香保からやうやうに家(いへ)にたどりついて、脚(あし)を切斷するために入院するまでの、そのすぐの二日間の間に畫(か)いたものであらうことなど思ひめぐらすのである。彼も、春服の扉の春服と暮春者(ぼしゆんには)から詠而歸(えいじてかへらむ)までの文字を書いた私の妹も亦、既に白骨(はくこつ)と化してしまつてはゐるが、當時春陽堂にゐたが小峰八郎は、惜しむべき扉をいれ落したその始末を承知してゐる筈である。芥川龍之介は、版(はん)までこしらへておきながらはさむのを皆が心付かずに忘れてゐて、本になつてから氣付いたと言つてゐた。いま私には君看雙眼色と暮春者春服既成(ぼしゆんにはしゆんぷくすでになり)との間にある、彼の心のひろがりとくぼまりか動いて感じられてくるのである。一つには私の耳底(みゝぞこ)から、彼が夏目漱石を始めて訪ねた時に、漱石が、孔子曰、君子有三戒(くんしにさんかいあり)、を引いてわかき當時の彼を戒(いま)しめたといふ彼の言葉と、暮春者春服既成(ぼしゆんにはしゆんぷくすでになり)の彼の讀みと註釋が全く消えてゐないからかも知れない。ことわるまでもないことではあるが「黃雀風(くわうじやくふう)」とか「湖南の扇」とかの表紙に書きこんである詩は、彼の好みや註文に依つたものではなく、全く私の勝手仕事の物(もの)故(ゆゑ)、一寸(ちよつと)ここに書添(かきそ)へて彼の愛讀者の間に誤解のないやうにしておきたい。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「暮春には春服」の原型。最初に出る「暮春者春服既成得冠者」の文字列のルビで「ぼしゆんにしゆんぷくすでになりくわんじや」と「暮春に」の後に「は」が落ちているのはママである。

 なお、言っておくと、芥川龍之介の単行本の中後期の装幀が、概ね小穴隆一に任されていたという事実は芥川龍之介ファンの間では必ずしもよく知られているとは思われない。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(47)「影照斷片」(5)

 

         ○

 

 ――七月二十二日夕(ゆふ)、彼はサンドウィッチ、私はハムライス、二つとも彼の家(いへ)で出來たのを食べて、さて、われわれの夜がきた。

 私達はいつも二人だけの話になるときのやうに橫になつた。

 ――二十四日

 ――私は義ちやんの畫架(ぐわか)を借りて畫(か)いた。

 ゑのぐはつけないの?

 僕ちやん(芥川比呂志)は、私の畫布(ぐわふ)をのぞいて言つた。

「あとで」と私は答へた。

 僕ちやんは安心して行つてしまつた。

 僕ちやんは、もう一度、帳面を持つてそばにきた。クレイヨン畫家は寫生をせずに行つてしまつた。

 檢視官は「そのまま」と私に言つた。

 屍體はそれでも多少は動かされた。

 頸筋(くびすぢ)のところから、めきめき色が變つた。

 肖像畫として殘すのには、全く絶望する色となつて私は筆(ふで)を投(とう)じた。

 畫(ゑ)は、F號。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「死顏」の原型。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(46)「影照斷片」(4)

 

         ○

 

 ――あの時は、それでも僕等は嵐の中に互(たがひ)に互の空色(そらいろ)が出るのを待つてゐた。

 

 槻(つき)を句にしたがつてゐたがなあ、

 高槻(たかつき)や、高槻やと、置いてゐたがなあ、

「君は、僕の女房にどうしてあんなにわからずやになつたのかつて言つたさうだね。女房もほんとにどうしてかうわけがむからなくなつたのかと言つてゐたよ。ほんとに君、僕はそんなにわからずやになつてしまつたかね。女房は言つてたよ。小穴さんはどうしてあんなにわからずやになつたのかつて僕のことを言つてたつて、君ほんとに僕はさうかね。」

 僕は僕の家に這入(はい)つてくるといふよりはいつももぐつてくるといふ格好の無氣味を忘れないよ。

 うしろの松だつて、朝寒(さざむ)や、松をよろへる、蔦(つた)うるし這(はは)せて寒し庭の松、仕舞ひには、飛行機も東下(あづまくだ)りや朝ぐもりなんて僕のとこの唐紙(からかみ)のきれつぱしに書いてゐたではないか。

「女房は僕に、僕に君の癖がすつかりうつつちやつたつて言つてたよ。うつつちやつたつてね。」

 ああ、アハツハツツ――、

 さういふげらげら笑ひは僕にうつつちやつた。

[やぶちゃん注:この断片は「二つの繪」版の「鵠沼」にほぼ丸ごと活かされてある。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(45)「影照斷片」(3)

 

         ○

 

 大正十五年の冬、鵠沼にゐた僕等は、そこから一度横濱まで、シネマを見に出かけて行つた。

 僕等はヴアレンチノの「熱砂の舞(まひ)」を見物してゐた。彼は、「かうやつて死んだ者がまだ動いてゐるのをみると妙な氣がするねえ」と言つて見てゐた。(註。ヴアレンチノはその前かた天國の人になつてゐた。)

 昭和二年の秋、田端で大勢でシネマのなかの生前の芥川龍之介を見た。僕は改造社の現代日本文學全集の廣告フイルムのなかに動いて、なんともいへない顏をしてゐる彼を見た。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「影照」パートの「ヴァレンチノ」の原型。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(44)「影照斷片」(2)

 

         ○

 

 いま考へてもはづかしいが、私は入院中人が教へてくれる歌を、なんでも、苦痛をごまかすために歌つてた。

 さういふ際に、一度、芥川さんにぶつかつた。「それでは僕も歌はう。」と言つて、芥川龍さんが大聲でうたつたのは一中節(ちうぶし)である。勿論、病室の看護婦達は啞然となつてしまつた。

 私が足首を切斷される時には芥川さんも立會つた。

 病室で待つてゐた遠藤の語るところによれば、芥川さんは、まつさをになつて室(しつ)に歸つてきたさうである。さうして「僕は血管を抑へてぶらさがつてゐる澤山のピンセツトの、どれか一つでも落ちて、あれがあのまゝはいつていつたら大變だと、どうしようとそればつかり急に心配になつてきて見てゐずにはゐられないうちに、どうしても、いくらやつても首がくうつと抑へられるやうにのめつてきた。」と言つてゐたといふ。この芥川さん、後に、「君、いまだから言ふが、あのときピンセツトが一つ落ちたよ。もつとも、下島先生に聞くと、血管が一つ位(ぐらゐ)しばらずにはいつたつて大丈夫ださうだ。」なぞといふいやがらせを何度か私に言つたものである。

[やぶちゃん注:「大聲でうたつたのは一中節である」何度も注しているが、芥川龍之介が愛した伯母フキは江戸浄瑠璃系三味線音楽の源流である一中節(いっちゅうぶし)の名取であった。

「ピンセツト」鉗子(かんし)。

「あのまゝ」結束鉗子が落ちて、内部にその血管が結束されぬままに辷り込んでしまい、そのまま術式が終わって縫合されてしまうことを指しているようである。]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(43)「影照斷片」(1)

 

 影照斷片

 

[やぶちゃん注:これは本「鯨のお詣で」の中の芥川龍之介に関わる十四篇から成る雑録短章群である。後の「二つの繪」の「影照」群の原型で、そこで生かされて加筆され、独立章化したものも多いが、中にはカットされてしまい、ここでしか読めないものも含まれる点で重要な章である。]

 

 

         ○

 

 當時雜誌で讀んだ「手巾(はんけち)」の作者として以外、何も彼について知らなかつた僕を、彼に引合はせたのは、友人であり時事新報社記者であつた瀧井孝作である。

 大正八年十一月、その日、黑のスウエターを着籠(きこ)んでゐた彼は、先客の藤森淳三とただ二人で頭髮の長さを論じてゐた。互に相手の髮のはうが長いと言つてゐるのであつた。

 私はいづれにせよつまらない謙讓であると思つた。それで「それは錢湯(せんたう)でだれでも人のきんたまが大きく見えるが、鏡に寫つた自分のを見ると、案外さうでもない、と考へるのとおんなじだ。」と言つた。

「僕は錢湯にいかないから知らない。」

 ぴつくりした顏の芥川龍之介が斯(か)う言つて改めて私を見た。私はその日の日曜に、錢(ぜに)もなくて瀧井孝作と步いてゐた憂鬱な記憶のなかに彼を思ひだす(或阿呆の一生二十二參照)

[やぶちゃん注:この小穴隆一の芥川龍之介との初対面は、大正八(一九一九)年十一月二十三日日曜日のことであった。

因みに言っておくと、芥川龍之介の巨根はかなり知られており、小穴隆一も小澤碧童も小島政二郎も皆、認めている。「二つの繪」版の「宇野浩二」を見よ。

「手巾(はんけち)」大正五(一九一六)年十月『中央公論』に発表。芥川龍之介はこの年の二月十五日、第四次『新思潮』創刊号に「鼻」を発表、その四日後の二月十九日に夏目漱石からの「鼻」激賞の手紙を貰い、九月一日には「芋粥」を『新小説』に発表して実質上の文壇デビューを果たしていた。また、同年十月二十五日には塚本文にプロポーズの手紙を書いている。

「藤森淳三」(明治三〇(一八九七)年~?)は編集者で小説家・評論家。三重県上野町生まれ。「藤森順三」という別名もある。早稲田大学英文科中退。横光利一と上野中学で同窓で、大正一〇(一九二一)年に横光・富ノ沢麟太郎らと同人誌『街』を刊行。その後、芥川龍之介もよく作品を載せた『サンヱス』『不同調』などの編集に携わりつつ、作品を発表した。小説集「秘密の花園」・童話集「小人国の話」・評論集「文壇は動く」・美術評論「小林古径」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。後の「二つの繪」の『「藪の中」について』に名が出る。

「或阿呆の一生二十二」「或阿呆の一生」の小穴隆一を語った印象的で意味深長な一条である。以下。

   *

 

       二十二 或 畫 家

 

 それは或雜誌の插し畫だつた。が、一羽の雄鷄の墨畫(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの畫家のことを尋ねたりした。

 一週間ばかりたつた後(のち)、この畫家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの畫家の中に誰も知らない詩を發見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を發見した。

 或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽ちこの畫家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂欝にするだけだつた。

 「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」

 

 

   *]

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(42)「河郎之舍」(5)「訪問錄」 / 「河郎之舍」~了

 

         訪問錄

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「訪問錄」の原型。こちらもこれで「河郎之舍」パートが終わっている。底本では句の前書等でポイントを落しているが無視した。]

 

 私共の游心帖時代に全く大きな句點を打つてしまつたもの、それが訪問錄である。

 二十五字詰めの原稿紙を綴ぢた物に半紙の表紙をつけて訪問錄と書き、それを順天堂の私の病室の枕もと置いのは碧童さんであるが、私はここにその訪問錄のなかの芥川さんの筆蹟を收錄してこの河郎之舍(かはらうのいへ)の終結としたい。

 

 大正十一年十二月

 十八日

   一游亭足の指を切る

   人も病み我(われ)も病む意(い)太(はなはだ)蕭條(せうでう)

  初霜や藪に鄰(とな)れる住み心(ごゝろ)

  冬霜や心して置け今日あした

[やぶちゃん注:最後の句は「二つの繪」では最後の句は「冬霜よ心して置け今日あした」となっている。そこからここの「や」は単純な判読の誤りと採る。この句は他に類型句がない特異点の句であるが、小穴隆一は「二つの繪」で改稿する際に実際の「訪問錄」を確認したと信じる。さればこそ「よ」と〈訂正〉したと考える。そもそもここは「や」では片足首を切断した病者への贈答句としては甚だ欠礼に過ぎるからである。]

 

 二十五日

   小穴隆一、遠藤淸兵衞、成瀨日吉(なるせひよし)の三氏に獻ず。

 時(とき)  千九百二十二年耶蘇(やそ)降誕祭

 處(ところ) 東京順天堂病院五十五室

[やぶちゃん注:以下のト書きは底本では全体が三字下げで、続く台詞の柱も底本では一字下げであるが(台詞が二行に亙る場合は行頭まで上っている)、ブラウザの不具合を考え、再現していない。最後の「(未完)」はポイント落ち。]

患者一人ベツドに寢てゐる。看護婦一人(ひとり)病室へ入(はい)り來り、患者の眠り居(ゐ)るを見、毛布などを直したる後(のち)、又室外へ去る。室内次第に暗くなる。

再び明るくなりしとき、病室の光景は變らざれど、室内の廣さは舊に倍し、且つ窓外は糸杉、ゴシツク風の寺などに雪のつもりし景色となり居(ゐ)る。此處にトランプのダイヤの王、女王(ぢよわう)、兵卒の三人、大いなる圓卓のまはりに坐り居(ゐ)る。圓卓の下(した)に犬一匹。

ダイヤの王 ハアトの王はまだお出(いで)にならないのか?

ダイヤの女王 さつき馬車の音が致しましたから、もう此處へいらつしやいませう。

ダイヤの兵卒 ちよいと見て參りませうか?

ダイヤの王 ああ、さうしてくれ。

  ダイヤの兵卒去る。

ダイヤの女王 ハアトの王はわたしたちを計りごとにかけるのではございますまいか?

ダイヤの王 そんな事はない。

ダイヤの女王 それでも日頃かたき同志ではございませんか?

ダイヤの王 今夜皆イエス樣の御誕生を祝ひに集(あつま)るのだ。もし惡心(あくしん)などを抱く王があれば、その王はきつと罰せられるだらう。

   ダイヤの兵卒歸つて來る。

ダイヤの兵卒 皆樣がいらつしやいました。ハアトの王樣も、スペイドの王樣も、クラブの王樣も、‥‥

ダイヤの王(立ち上りながら)さあ、どうかこちらへ。

ハアトの王、女王、兵卒、スペイドの王、女王、兵卒、クラブの王、女王、兵卒、等(ら)皆(みな)犬を一匹引きながら、續々病室へ入(はい)り來(きた)る。(未完)

 

    あけくれもわかぬ窓べにみなわなす月を見るとふ隆一あはれ   龍之介

 耶蘇降誕祭以後訪問錄には我鬼先生の筆(ふで)がないのである。

[やぶちゃん注:「ふたつの繪」版の私の注に記した通り、この一首は龍之介の作品ではなく龍之介弟子である渡辺庫輔の短歌である可能性が高い。]

 十六日 十八日右足第四趾(し)切斷致すべく候ふ。二十九日足頸(あしくび)より切斷の宣告あり、既に右足の趾(ゆび)二つは切つて落せり、大正十二年一月四日足頸を落して、病み臥せばあけくれなくてをりをりに窓邊にいづる月は浮べり。その脱疽の苦しみから全く逃(のが)れ去ることも出來、私の病院生活はなほ續いたのではあつたが、最早訪問錄も不用になつてゐた。私はただ自由に步けなくなつただけで自由にしやべることはでき溝たのだ。十二年の夏は病院を出た身を鎌倉の平野屋に橫たへた。私はそこで芥川さんと同じ部屋に起居(ききよ)してゐた。私共の鄰には岡本一平さん夫婦とその子太郎君がゐた。一日(にち)、かの子さんは、何をあげてよいかわからないので東京驛でこれを買つて、きましたと言つて私に小さいゴム人形を一つ呉れた。芥川さんと私は震災五日前に平野屋を引上げてゐたが、岡本さん夫婦の部屋は眞先に潰れたと聞いて、私は自分が宿の部屋に殘してきたままのそのゴム人形が、潰されてピイと泣きはしなかつたか、それがかの子さんに聞えはしなかつたかなぞと思つた。後には每朝の新聞記事の三面に出てくる人の身の不幸な話に、ぽろぽろと淚を流してゐるやうに瘦せ細つた澄江堂といふ名より、私はあの平野屋で、あの平野屋の風呂番は、まだ足頸に繃帶をしたままでいる[やぶちゃん注:「いる」はママ。]私がいくら湯をうすめようとて怒(おこ)りはしなかつたが、一日(にち)、いつしよにはいつてゐた芥川さんに、芥川さんがうすめてゐると間違へて、窓のそとから怒鳴つた。その時、どうしたものか芥川さんは俺は風呂番にチツプをやらんぞと怒つた。芥川さんにしては珍しい怒りかたではあるが、私は弱つてしまつた澄江堂主(しゆ)より、ああした元氣のあつた紆我鬼先生のはうが好きなのである。

 

  牛久沼河童の繪師の亡くなりて唯よのつねの沼となりにけり 小杉放庵

 

柴田宵曲 妖異博物館 「鼠遁」

 

 鼠遁

 

 寛文十年の夏、現世居士、未來居士といふ二人の幻術者が來て、種々の不思議を見せ、諸人を惑はしたことがある。その國の國主は、左樣の者が居れば諸人亂を起す基だと云つて、直ちに召捕り、磔刑に處するやうに命じた。その時兩人が、我等只今最期に及び申した、こゝに一つのお願ひと申すは、我等がこれまでに仕殘した術が一つある、それを皆樣に見せてから刑に就きたいと思ふ、かほどきびしく警固の人々が槍刀で取圍んで居らるゝことであるから、外に逃れるべき途もない、少し繩をおゆるめ下さい、と云ひ出した。警固の者どもも、靑天白日の下ではあり、少しぐらゐ繩をゆるめたところで、どこへ行けるものでもあるまいと油斷して、ちよつと繩をゆるめたと思ふと、未來居士は忽ち一つの鼠となり、磔柱の橫木に上つてうづくまる。現世居士は鳶になつて虛空に飛び上り、羽をひろげて舞つてゐる。この狀態は少しの問で、鳶はさつと落ちかゝり、鼠を摑んで行方知れずになつた。警固の者は今更の如く驚き、方々尋ねたけれども、繩は縛つたまゝ殘り、二人の所在はわからぬので、その場に出た警固の役人、足輕に至るまで、重いお咎めを蒙つた(老媼茶話)。

[やぶちゃん注:この原文は既に「飯綱の法」で注引用した。]

 この話は國主とあるのみで、どこの出來事とも書いてないが、「虛實雜談集」では、これが豐太閤と果心居士になつている。太閤或時果心居士を召して、何か不思議の術を見せよと命ずると、白晝變じて闇夜となり、一人の女が現れて、太閤に向つて恨みを述べる。この女は木下藤吉郎時代に契つた者で、間もなく病死したため、誰にも話したことがなかつたのに、まざまざと昔の事を語るのに驚き、我が胸中の祕事を知つてゐるのは曲者である、かゝる者を生かして置いては、今後如何なる災禍を起すやも知れずと、近習を呼んで礫刑に行はしめる。その時自分はこれまで多くの術を行つたが、未だ鼠にならなかつたのが遺憾である、願はくは少し繩を弛め給へと云ひ、鼠になつて磔柱を搔き上ると、空から鳶が舞ひ下つてこれを摑み去る。「老媼茶話」は二人の居士が鼠と鳶を分擔するのであつたが、果心居士にはワキがない。一人二役を演じたものと見える。

[やぶちゃん注:「虛實雜談集」瑞竜軒恕翁(じょおう)作で寛延二(一七四九)刊。私は所持しない。なお、本話は先行する「果心居士」も参照されたい。

「ワキ」能の役方のそれを指す。次段参照。]

 この話は支那氣分が濃厚である。「列仙傳」の超廓は永石公に道を學んだが、師から見ると幾分不安な點があつたらしい。遂に法に問はれさうになつた時、先づ靑鹿となり、次いで白虎となり、最後に鼠になつて捕へられた。永石公はこれを聞いて面會に行き、兵士に圍まれた中で逢ふことを許される。廓、前の如く鼠になったところを、自ら鳶となつて摑み去り、飛んで掌中に入るとある。これもシテワキが備はつてゐる。

[やぶちゃん注:「列仙傳」道教に纏わる仙人の伝記集。二巻。ウィキの「列仙伝」によれば、前漢末、楚王劉交の子孫である官僚劉向(りゅうきょう)が、昔、秦の大夫であった阮倉の『記した数百人の仙人たちの記録を』七十余人に絞り込んで『書き記したものとされている』ものの、『劉向が選したというのは仮託であり、後漢の桓帝以降に成立したものと見られている』とある。但し、ここに出る「超廓」の話は、現行の正本の「列仙傳」には載らず、調べて見るとこれは北宋の「太平廣記」の「方士一」に「列仙傳」(逸文か)からとして引かれる「趙廓」の話である。以下に中文サイトより加工して引く。

   *

武昌趙廓、齊人也。學道於呉永石公、三年、廓求歸、公曰、子道未備、安可歸哉。乃遣之。及齊行極、方止息、同息吏以爲法犯者、將收之。廓走百餘步。變爲靑鹿。吏逐之。遂走入曲巷中。倦甚。乃蹲憇之。吏見而又逐之、復變爲白虎、急奔、見聚糞、入其中、變爲鼠。吏悟曰、此人能變、斯必是也。遂取鼠縛之、則廓形復焉、遂以付獄。法應棄市、永石公聞之、歎曰、吾之咎也。乃往見齊王曰、吾聞大國有囚、能變形者。王乃召廓、勒兵圍之。廓按前化爲鼠、公從坐翻然爲老鴟、攫鼠而去、遂飛入雲中。

   *]

「集異記」に見えた茅安道はすぐれた術士であつた。二人の弟子に隱形洞視の術を授けたが、術未だ熟せず、韓晉公に捕へられて殺されさうになつた。安道これを聞いて救ひに行くあたり、永石公と全く同じである。晉公は繩も弛めず、白刃の下に弟子と相見ることを許した。安道は公の左右に水を乞うたが、公は水遁の術を行はんことを恐れ、固く與へようとしない。安道は公の硯に近づき、その水を含んで二弟子に吹きかけると、二疋の黑鼠に化して庭前に飛び出す。安道は忽ち大きな鳶となり、兩方の足に一疋づつ鼠を摑んで、虛空遙かに舞び去つた。晉公は驚駭を久しうするのみで、如何ともすることが出來なかつた。この場合は役者が一人殖えてゐるが、二弟子の立場は全く同じだから、ワキヅレと見てよからう。

[やぶちゃん注:「隱形洞視」現代仮名遣で「いんぎょうどうし」と読んでおく。姿を隠す術と、相手の表情からその心を既に読み取る術のことか。

「集異記」は「集異志」とも表記し、晩唐の陸勲撰になる志怪・伝奇小説。全二巻あったが完本は伝わっていない。以上もやはり「太平廣記」の「方士三」に「茅安道」として載るその逸文である。前と同様に引く。

   *

唐茅安道、廬山道士、能書符役鬼、幻化無端、從學者常數百人。曾授二弟子以隱形洞視之術、有頃、二子皆以歸養爲請。安道遣之。仍謂曰、吾術傳示、盡資爾學道之用。即不得盜情而衒其術也。苟違吾教。吾能令爾之術、臨事不驗耳。二子授命而去。時韓晉公滉在潤州、深嫉此輩。二子徑往修謁、意者脱爲晉公不禮、則當遁形而去。及召入、不敬、二子因弛慢縱誕、攝衣登階。韓大怒、即命吏卒縛之、於是二子乃行其術、而法果無驗、皆被擒縛。將加誅戮、二子曰、我初不敢若是、蓋師之見誤也。韓將倂絶其源、卽謂曰、爾但致爾師之姓名居處、吾或釋汝之死。二子方欲陳述、而安道已在門矣。卒報公、公大喜、謂得悉加戮焉。遽令召入、安道龐眉美髯、姿狀高古。公望見、不覺離席、延之對坐。安道曰、聞弟子二人愚騃、干冒尊嚴。今者命之短長、懸于指顧,然我請詰而愧之、然後俟公之行刑也。公卽臨以兵刀、械繫甚堅、召致階下、二子叩頭求哀。安道語公之左右曰、請水一器。公恐其得水遁術。固不與之。安道欣然、遽就公之硯水飲之、而噀二子。當時化爲雙黑鼠、亂走於庭前。安道奮迅、忽變爲巨鳶、每足攫一鼠、冲飛而去。晉公驚駭良久、終無奈何。

   *]

 

柴田宵曲 妖異博物館 「外法」

 

 外法 

 

 米村平作といふ人が本括(じめ)役を勤めてゐた頃、類燒に遭ひ、暫く町宅を借りて住んで居つたが、土藏の内に入れて置いた御用銀三貫目が紛失し、いくら穿鑿しても知れぬ。恰も伯耆の倉吉から福正院といふ名高い僧が鳥取に來てゐたのを幸ひに、招いて占はせたら、これは何月何日に何某が取つたと、その名を指して云つた。果してその通りだつたといふ評判で、彼方此方から招いて占はせるのに、皆先方の心中を見通して何か云ふ。願ひある者は多くこの僧に賴んで祈らせるといふ風であつた。もう鳥取滯留の日數が盡きて、四五日の内には倉吉へ歸る順序になつた或夜の事である。近所の町人が福正院の旅宿を訪れ、宿の亭主もまじつて談笑してゐるところへ、慌しく門を敲き、御家中の某家よりの使である、夜中ながら急用につき、この使と共に直ぐ來て貰ひたいといふ。かういふ招請を受けるのはいつもの事であつたから、早速身拵へをして、使の者に提燈を持たせ、急いで出て行つた。今まで話してゐた近所の者も、亭主と話してゐても仕方がないので、暇乞ひをして歸る。先刻福正院が慌てて門を出る時、何か落したやうな音がしたと思つたが、一步踏み出す途端に足に障るものがある。そのまゝ袖に入れて歸り、行燈の光りで見ると、袱紗に包んだ香箱であつた。これほどの物が落ちたところで、家の奧にゐる自分に聞える筈がない。自分の耳に入るくらゐなら、本人の耳にも入る筈なのに、一人も氣が付かなかつたのは不審千萬だと、持佛堂の中に入れて寢てしまつた。

[やぶちゃん注:「外法」後の本文内でルビが振られるように「げはふ」(げほう)と読む。ここでは広義のそれで妖術・魔術・魔法と同義。

「本括(じめ)役」「もとじめやく」で、ここは鳥取藩(藩庁は因幡鳥取城(現在の鳥取市東町))勘定方元締役(財用方役人の長官)のこと。

「三貫目」後段で示されるように本話は「雪窓夜話抄」に載るが、同書は鳥取藩士上野忠親(貞享元(一六八四)年~宝暦五(一七五五)年)の記録した異聞集である。ネットのQ&Aサイト及び江戸期の貨幣価値換算サイト等によれば、元禄三(一七〇〇)年十一月に幕府が決めた金銀銅貨の交換レートは、金一両は銀六〇匁で、銀一貫は銀一〇〇〇匁に相当するから、銀三貫は十七両弱となり、元禄期の銀三貫なら凡そ五十両前後、これを現代に換算すると凡そ五百万円ほどとなるか。

「伯耆の倉吉」伯耆国久米郡倉吉(くらよし)。現在の鳥取県倉吉市。

「香箱」原典では(後段リンク先参照)『香合』で『コウバコ』とルビする。]

 福正院の方は招かれたところへ行つて、いろいろ尋ねられたが、その晩に限つて何一つ中らない。これは出がけに外法(げほふ)を袂に入れたのを、どこかで落したと見える。袂を探つてもないから、そこそこに挨拶して引返し、旅宿の戸外を尋ねたが見當らぬ。さては先刻同席した近所の町人が拾つたものであらう。夜中の事で人の出入りもないから、他に知つた者はない筈だ、と考へ付くや否や、その家へ行つて案内を乞ふ。家内は全部寢てしまつたから、用事なら明日來て下さい、と斷つても、今夜中に逢はなければならぬ急用だといふので、已むを得ず灯をともして呼び入れた。町人の坐つてゐるうしろは例の持彿堂であるが、その中から聲がして、そら本人が取り返しに來たぞ、容易に渡すな、と云ふ者がある。福正院は座敷へ通るなり、そなたは拙僧の旅宿の前で、手帛に包んだものを拾はれたに相違ない、拙僧はそれによつて露命を繫ぐ者ぢや、何卒お返し下されい、といふ。はじめは知らぬふりをして見たが、相手の態度は甚だ強硬で、次第によつてはその場で討ち果しもしかねまじき顏色なので、成程拾ふことは拾ひましたが、あなたの物と知つて拾つたわけでもない、何か代りを出されるならお返ししませう、と返事をした。先づ以てお返し下されうとの御一言は忝い、御禮の申上げやうもござらぬ、有り合せの銀五百匁を代りに差上げませう、といふ。拾つた方はそれほど大事なものとは思はなかつたので、承知の旨を答へようとすると、また持佛堂の中から、そんな事ではいかぬ、銀は澤山持つてゐるのだから同心するな、といふ聲が聞える。その通りに云つて斷れば、然らば是非に及ばぬ、一貫目で御同心下されと云ふ。だんだん値を釣り上げる事になつて、町人は異存はないけれども、持佛堂の聲が「まだまだ」と制するため、遂に三貫目までに達した。この時は持佛堂にも聲がない。福正院は所持の袋の底をはたいて三貫目を出し、袱紗包みを三度頂いて歸つて行つた。鳥取方面で儲けた銀は空しくなつたわけであるが、最も不思議なのは、福正院に相對する持佛堂の聲が、町人の耳にだけはつきり入つて、福正院には全然聞えぬ一事であつた。

[やぶちゃん注:「手帛」近代以降なら「ハンケチ・ハンカチ」と読むところだが、原典(次の段の私の注のリンク先を参照)でも『手帛』であるから、「しゆはく(しゅはく)」で、小さな白い絹物。前出の「袱紗(ふくさ)」と同義。

「鳥取方面で儲けた銀は空しくなつた」とのみ柴田は述べているのであるが、言わずもがなであるが、この話柄、最初に藩の御用金「三貫目」が〈妖術によってでもあるかのように〉突如、消失して行方不明となったことと、福正院が必死に外法の秘物を奪還するのに支払ったのも同じく「三貫目」であることを考え合わせると、そこに事件の真相が隠されている、と原話は暗に匂わせている。そこが面白い。]

「雪窓夜話抄」の傳へたこの話によれば、福正院は袱紗に包んだ香箱の告げのまゝに、種々の靈驗を示したので、その祕物を不用意に取り落した結果、儲けただけを吐き出さなければならなくなつたものであらう。持佛堂の聲は拾ひ主に思ひがけぬ福を與へたが、三貫目で折合つて福正院の手に戾つたのだから、一應不用意を戒めた程度で、全く彼を見放すには至らなかつたのである。

[やぶちゃん注:以上は「雪窓夜話抄」の「卷七」の冒頭にある「怪僧福正院の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。]

 外法の正體は如何なるものか、「雪窓夜話抄」だけでは竟にわからぬが、「耳嚢」の中にいさゝか徴すべきものがある。寶暦の初めであつたか、矢作の橋を普請することがあり、江戸表から大勢の役人職人等が三河に赴いた。或日人足頭の男が川緣に立つてゐると、板の上に人形らしいものを載せたのが流れて來た。子供の戲れかと思つたが、人形の樣子が子供のものらしくもない。面白がつてそれを旅宿に持ち歸つたところ、夢ともなく、うつゝともなく、今日の事を語り、明日の事を豫言する。巫女が使ふ外法とかいふものであらうと懷中して居れば、翌日もまたいろいろの事を告げる。はじめは面白かつたけれども、だんだんうるさく厭になつて來た。倂し捨てるのも何だか恐ろしいので、土地の者に聞いて見たら、それはつまらぬ物をお拾ひになりました、遠州の山入りに、さういふ事をする者があると聞いて居りますが、今お捨てになれば禍ひがありませう、と云はれ、途方に暮れてしまつた。漸く或老人の説に從ひ、はじめの如く板に載せて川上に至り、子供が船遊びをするやうに、人形を慰める心持で、自分はうしろを向いて、いつ放すとなく手を放し、そのまゝ跡を見ずに歸つて來た。その後は何の祟りもなかつたさうである。

[やぶちゃん注:これは「耳囊 之三 矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事である。私の原文訳注でお楽しみあれ。]

2017/02/16

小穴隆一「鯨のお詣り」(41)「河郎之舍」(4)「游心帳」

 

         游心帳

 

Umanikerareakappa

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「游心帳」の原型。前の「河童の宿」の冒頭注で述べた通り、ここには芥川龍之介が描いた河童を振り落す馬の絵と、久米正雄が対抗してフェイクした「芥川龍」のサインの絵が載るが、前と同様に本文でその絵について何ら、語っていない。しかも挿絵挿入に際して、原画その儘でなく、左を意識的に上げて入れてある、甚だ馬の蹴りの躍動感の消えてしまったものなので、これは特異的に前に既に掲げた、正立の原画を上に再掲することとした。読み易さを考え、詩歌は前後を一行空けた。前書がポイント落ちになっていたりするが、再現せず、同ポイントで示した。]

 

 サミダルル赤寺(アカデラ)ノ前ノ紙店(カミミセ)ユアガ買ヒテ來(キ)シチリ紙(ガミ)ゾコレハ   我鬼

 

 游心帳(いうしんちやう)には前期の物と後期の物とがある。そもそもは、自分の祖母から矢立(やたて)を一つ貰つたことに始まつて、私は半紙を四つ折にして綴ぢた帳面を拵へて、これに游心帳と書いてっ㋼た。これが卽ち前期の物であるが、これは全く私一人だけの物で、多くは暮秋、豆菊は熨斗代(のしがは)りなるそば粉(こ)哉、などといふ自分の俳句の獨稽古(ひとりげいこ)のためにつかつてゐたものである。後期の物、これは半紙を二つ折にした物で、必ずしも私一人の物ではなかつた。この後期の物は第二册目あたりから碧童題(だい)衷平(ちうぺい)題とかなつて、碧童さんの筆(ふで)で游心帳が游心帖(いふしんてふ)、ゆうしんぢよう、ゆうしんじやうとも變つてしまつた。さうして何時(いつ)と知らず、私の游心帳は我鬼先生、碧童さん、淸兵衞(せいべゑ)さんの歌句(かく)、繪の用(よう)にまでなつてゐたのである。⦿河童と豚の見世物(みせもの)、明治二、三年洗馬(せば)に於いて二十人を容(い)るるほどの小屋掛(こやが)けにて瓢簞(へうたん)に長き毛(け)をつけたる物を河童と稱(よ)び見世物となして興行せる者あり。見料(けんれう)大人(だいにん)と小人(せうにん)との別あり。豚も見世物となる。――斯樣(かやう)な種類の聞書(もんじよ)のあるのが前記の物に屬し、久米さんの河童の繪(ゑ)まである賑やかな物は後期に屬する。サミダルル赤寺ノ前ノ紙店ユアガ買ヒテ來シチリ紙ゾコレハ。長崎の長いちり紙(がみ)に添へて半紙に楷書紙(かいしよがみ)でも下に敷いたかのやうに行儀よく書かれてゐるたこの歌、これは勿論(もちろん)游心帳に書いてあつた歌ではない。『後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少(すくな)くない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は、畢竟これだけに盡きてゐると言つても好(よ)い。卽ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以(ゆゑん)である。芥川龍之介記』とある大正十四年九月の「改造」の「鄰(となり)の笛(ふえ)」、大正九年より同十四年度に至る年代順の芥川さんと私の五十句づつの句、そのなかの自分の句、

 

   長崎土産のちり紙、尋(ひろ)あまりなるを貰ひて

  よごもりにしぐるる路(みち)を貰紙(もらひがみ)

 

 これを思出(おもひだ)させる歌なのである。

 私は大正十二年の正月に右の足頸(あしくび)を脱疽で失くなした。私は松葉杖にたよるやうになつてからは、

 

   偶興(ぐうきよう)

  あしのゆびきりてとられしそのときは

  すでにひとのかたちをうしなへる

  あしのくびきりてとられしそのときは

  すでにつるのすがたとなりにけむ

  あしのくびきりてとられしそのときゆ

  わがみのすがたつるとなり

  かげをばひきてとびてゆく

 

といふ類(たぐひ)の詩をつくりだしてゐた。十二年震災の直後祕露(ペルー)に行く淸兵衞さんに餞別(せんべつ)として、私は私の紀念すべき矢立を贈つてしまつてゐた。

 

   思遠人(ゑんじんをおもふ)、南米祕露(ペルー)の蒔淸(まきせい)遠藤淸兵衞に

  獨りゐて白湯(さゆ)にくつろぐ冬日暮(ふゆひぐ)れ

 

 後期の游心帳は九年から十一年の夏で終つてゐた物らしい。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版では『後期の游心帳は意外にも九年十年十一年の晩秋で終つてゐる。』と書き直している。]

 すでに澄江堂なく、蒔淸も死す。小澤碧童とは相語らず。こゝに游心帳にある我鬼先生の筆蹟を拾ひ以下これを收錄して註を付する所以(ゆゑん)である。

[やぶちゃん注:「小澤碧童とは相語らず」小穴隆一が既に本書刊行の遙か以前から小澤碧童と疎遠になっていたことがここで明確に判明する。次の句群との間には一行空けが底本に存在する。]

 

 

  秋の日や竹の實(み)垂るる垣の外

 

  落栗や山路(やまぢ)は遲き月明り

 

  爐(ろ)の灰にこぼるゝ榾(ほだ)の木(き)の葉かな

 

  野茨(のいばら)にからまる萩(はぎ)の盛りかな

 

○ この帳面の表紙はとれてゐる。裏表紙には合掌の印がある。この合掌といふ字句は、一ころの我鬼先生が使つてゐたものであつて、碧童さんはこの合掌といふ言葉をことごとく珍重し印にまで刻(きざ)んでゐたものである。私はこの帳面に子規舊廬之鷄頭(しききうろのけいとう)を見て、我鬼先生に伴はれて折柴(せつさい)さんと主(ぬし)なき漱石山房を訪ね、碧童さんに伴はれて子規舊廬を見たるかと忘れてゐたことも思出した。

[やぶちゃん注:冒頭は実は底本では一字下げで「○この……」となっている。後の組み方から誤りと断じて特定にかく訂した。

 次との間には一行空けが底本に存在する。]

 

 

  天雲(あまぐも)の光まぼしも日本(ひのもと)の聖母の御寺(みてら)今日(けふ)見つるかも

 

○ この歌は齋藤さんの歌であらう。歌の傍(かたは)らに木立(こだち)を畫(か)き、藁葺小屋(わらぶきごや)を畫き、人の住む繪のらくがきがある。これも亦表紙はとれてゐる。この帳面に碧童さんの鬼趣圖をみてよめる狂歌がある。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版では齋藤茂吉のそれではなく、芥川龍之介の一首であると訂正されている。

 次との間には一行空けが底本に存在する。]

 

 

  君が家(いへ)の軒(のき)の糸瓜(へちま)は今日の雨に臍腐(へそくさ)れしや或(あるひ)はいまだ

 

  笹(さゝ)の根の土乾き居(ゐ)る秋日(あきび)かな

 

○ 歌と句を並べ、秋日かなの筆のつづきか、芥川は一輪の菊の上にとまつた蜻蛉(とんぼ)を畫(か)いてゐる。蜻蛉はしつぽをあげて土(つち)の字(じ)を指(さ)してゐる。表紙は糸瓜の宿(やど)の衷平(ちうぺい)さんの手でゆうしんじようとなつてゐる。

[やぶちゃん注:次との間には一行空けがないが、これは改ページのための編集上の例外(小穴隆一の校正ミス)であるから、ここでは二行空けた。]

 

 

  荒(あら)あらし霞の中の山の襞(ひだ)

 

○ この一句のほかに

 

  うす黃(き)なる落葉(おちば)ふみつつやがて來(き)し河(かは)のべ原(はら)の白き花かな 南部修太郎

 

  いかばかり君が歎きを知るやかの大洋(たいやう)の夕べ潮咽(しほむせ)ぶ時 南部修太郎

 

  しらじらと蜜柑(みかん)花さく山畠(やまばたけ)輕便鐡道の步(あゆ)みのろしも 菊池 寛(くわん)

 

といふ我鬼先生の筆がある。この游心帳は綴ぢも全き物、ひかた吹く花(はな)合歡木(がうか)の下(した)もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ、あらぞめの合歡木(がうか)あらじか我鬼はわぶはららにうきてざればむ合歡木(がうか)、雨中(ウチウユ)湯ケ原(ハラ)ニ來(キタ)ル、道バタ赤クツイタ柹(カキ)ニ步イテタ等(とう)の私の筆もある、次の游心帖大正十年晩秋湯河原(ゆがはら)ニテに連絡する物である。

[やぶちゃん注:作者名の位置は底本では二字上げ下インデントであるが再現していない。以下、同じなのでこの注は略す。

この部分は甚だ問題がある。底本では最初の芥川龍之介会心の一作と知られる句が、なんと!

 

  荒(あら)あらし霧(きり)の中(なか)の山(やま)の襞(ひだ)

 

となっている(ルビを総て再現)。こんな句形の草稿は知らないし(あるとしたらトンデモなくヘンな新発見句となる)、そもそもが「二つの繪」版では「霧」は知られる通り、「霞」(かすみ)となっており、他の周辺人のこの句についての記載も総て「霞」であり、こんな字余りもおかしく、「荒あらし」い「山の襞」に対称される景観としての「霞」は不易の文字(もんじ)であり、単純にイメージしても、霧の中の山襞では話にならない。特異的に――ひどい誤植とむごいルビ(読み)・小穴隆一の致命的校正ミス――断じて訂した。

「うす黃(き)なる落葉(おちば)ふみつつやがて來(き)し河(かは)のべ原(はら)の白き花かな」この南部の一首は「二つの繪」版では、

 

  うす黃なる落葉ふみつつやがて來し河のべ原の白き花かも  南部修太郎

 

末尾が「かも」となっている。私は若嫌いであるが、ここは「かな」より「かも」の方が遙かによい、とは思う。

「ひかた吹く花(はな)合歡木(がうか)の下(した)もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ」この小穴隆一の一首は「二つの繪」版では、

 

  ひかた吹く花合歡(ねむ)の下もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ

 

で、「花合歡(ねむ)」は「はなねむ」と訓じていると良心的に解釈するならば(そちらで注したが、ルビ位置に不具合がある)これは音数律から、

 

 ひかた吹(ふ)く/

 花(はな)合歡木(ねむ)の下(した)/

 もろこしの/

 みやこのてぶり/

 あが我鬼(がき)は立(た)つ

 

で、この一首はなかなかに趣のあるよい一首である《はず》である。「合歡木(がうか)」は雅趣もヘッタクレもないヒドい読みであり、しかも音数律もケツマクリの無視で、話にならないと私は思う。これは小穴隆一自身の短歌であるから「元はこうだったんだ!」と言われれば、「ハイ、そうですか。ひどい歌だね!」としか私は応じられぬ。「二つの繪」版でかく訂したのは、ヒドさに遅きに失して小穴が気づいて改作したものか、或いは、やはり、遅きに失してヒドい校正ミスに気づいて訂正したものか、今となっては「藪の中」である。私は校正者が次の一首で「合歡(がうか)」の読みを振っているのを見て、お節介をして、前の一首にも同じルビを組んでしまったのではないか、と実は密かに疑っているのである。

「雨中湯ケ原ニ來ル」句の前書。

「道バタ赤クツイタ柹(カキ)ニ步イテタ」新傾向俳句であるから音数律の崩れは問題ない。問題なのは「二つの繪」版では、

 

  道バタ赤クツイタ柿ニ步イタ

 

となっている点である。この「テ」のあるなしでは叙景は全く違うのだ(私は若い頃は自由律俳句の『層雲』に参加していた)。小穴隆一は「二つの繪」版では、あろうことか、自分の一句だからと言って――掟破りに――「游心帳」に書いてある通りではなく――改作してしまったのではなかったか? 因みに自由律時代の私ならば、

――本来の「道バタ赤クツイタ柹ニ步テタ」の方が自然で厭味がなく遙かにいい

と言うであろう。「タ」には主体者のこれ見よがしな意思が働いている。句を創るために――まさに「ためにする」行為として「歩く」行為がなされている厭らしさが滲み出てしまう――と評するであろう。

 次との間には一行空けが底本に存在する。]

 

 

  草靑(くさあを)む土手の枯草(かれくさ)日影(ひかげ) 我鬼

 

  曼珠沙華(まんじゆしやげ)むれ立(た)ち土濕(つちしめ)りの吹く 我鬼

 

  家鴨(ひる)眞白(ましろ)に倚(よ)る石垣(いしがき)の乾(かは)き 我鬼

 

 

○ 一層瘦せて支那から歸つてきた我鬼先生に招ばれて碧童さんと私は、首相加藤友三郎が居たといふ部屋をあてがはれてゐた。友を訪(と)へば、外面(がいめん)の暗い秋霖(しうりん)の長髮(ちやうはつ)をなでてゐた。これが碧童さんの其時の句である。

 

 

  山に雲(くも)下(お)りゐ赤らみ垂るる柿の葉 我鬼

 

  たかむら夕べの澄み峽路(かひぢ)透(とほ)る 我鬼

 

 游心帳に書いてはないがこの二句も、時雨(しぐれ)に鎖(とざ)されてゐた三日間の私共の動靜を傳へた隨筆「游心帳」(大正十年十一月、中央美術)に收錄してゐるものである湯河原、よし私はここに碧童さんの、峯(みね)見ればさぎりたちこめ友の居る温泉處(ゆどころ)に來(き)しいづこ友の屋(や)、の歌をみようとも、

 

     芋錢(うせん)をなげく   小杉 放庵

  牛久沼(うしくぬま)河童の繪師の亡くなりて唯(たゞ)よのつねの沼となりにけり

 

 私は「文藝日本(にほん)」創刊號で讀んだこの放庵先生の歌に教へらるるところあらねばならぬのである。

[やぶちゃん注:この小杉放庵未醒の一首と添書きは「二つの繪」版ではカットされている。因みに、小川芋銭は昭和一三(一九三八)年に七十歳で亡くなっている。小杉は芥川龍之介と親しくはあったし、小穴・小澤・遠藤の布施弁天旅行と小川芋銭の連関性を小穴は既に述べてはいる。しかし、如何にも小穴らしい朦朧エンディングで、「何が言いたいの?」とツッコミたくなるような、コーダらしからざるヘンなコーダである。カットした理由もそれに筆者自身が気づいたからなんであろう。]

柴田宵曲 妖異博物館 「命數」


 命數

 賣卜者が扇を求め、いつまでこれを持つてゐるかと占つたら、今日中になくなるといふ卦が出た。何でそんな。とがあらうと不審に思ひ、日の暮れるまで面前に開いて、ぢつと見守つてゐたところ、夕飯の支度が出來たと云つて、勝手から頻りに呼ぶ。遂に小童が駈けて來て、開いた扇の上に倒れ、さんざんに破つてしまつた。賣卜者も奇異の思ひをなすと同時に、我ながら占ひの妙を感じた。數の盡くる時に至れば、金城湯池に籠めたものと雖も、これを免れがたい。昔或人が陶の枕で晝寢してゐる顏の上へ、何者かばつたり落ちて來た。驚いて眼を開けば、鼠が天井から落ちたので、こそこそと梁へ這ひ上らうとする。枕を把つて投げ付けたが、鼠には中(あた)らず、枕の方が三つに割れてしまつた。中に數箇の文字が染め付けてあつて、この枕某の紀年に造る、これより幾年を經て、其の甲子鼠に抛つが爲に壞る、と讀めた。陶の枕を抛つなんぞは亂暴な話で、恐らく晝寢の夢をさまされて、意識朦朧たる狀態に在つたものと思はれるが、それも畢竟枕の命數が盡きた爲にさうなつたのであらう。

[やぶちゃん注:「賣卜者」「ばいぼくしや」。金銭を取って占いをするところの辻占を生業(なりわい)としている業者を指す。]

「黑甜瑣語」は物に定數あるを説くのに、この二つの例を擧げた。無生物たる扇や枕がさうであるとすれば、生物の命盡くる期は更に昭々たるものがあるに相違ない。鯰江六太夫といふ笛吹きがあつた。國主の祕藏する鬼一管といふ名笛は、この人以外に吹きこなす者がないので、六太夫に預けられたほどの名人であつたが、何かの罪によつて島へ流された。笛の事は格別の沙汰もなかつたのを幸ひに、ひそかにこの鬼一管を携へ、日夕笛ばかり吹いて居つた。然るにいつ頃からか、夕方になると、必ず十四五歳の童が來て、垣の外に立つて聞いてゐる。雨降り風吹く時は、内に入つて聞くがよからう、と云つたので、その後はいつも入つて聞くやうになつた。或夜の事、一曲聞き了つた童が、かういふ面白い調べを聞きますのも今宵限りといふ。不審に思つてその故を問ふと、私は實は人間ではありません、千年を經た狐です、こゝに私のゐることを知つて、勝又彌左衞門といふ狐捕りがやつて參りますから、もう逃れることは出來ません、といふ返事であつた。そこで六太夫が、知らずに命を失ふならともかくも、それほど知つてゐながら死ぬこともあるまい、彌左衞門が島にゐる間、わしが匿まつてやらう、と云つたけれども、狐は已に觀念した樣子で、こゝに置いていたゞいて助かるほどなら、自分の穴に籠つても凌がれますが、彌左衞門にかゝつては神通を失ひますので、命を失ふと知つても近寄ることになるのです、今まで笛をお聞かせ下さいましたお禮に、何か珍しいものを御覽に入れませう、と云ひ出した。それでは一の谷の逆落しから源平合戰の樣子が見たい、と云ふと、お易い事ですと承知し、座中は忽ち源平合戰の場と變じた。一切が消え去つた後、狐は更に六太夫に向ひ、何月幾日には殿樣が松ガ濱へ御出馬になりますから、その時鬼一管をお吹きなさいまし、必ずよい事がございませう、と告げて去つた。彌左衞門の掛けた罠は七度まで外したが、八度目に遂に捕へられた。六太夫は深く狐の事を憐れみながら、教へられた日に鬼一管を取り出して吹くと、この音が松ガ濱の殿樣の耳に入り、それが動機になつて、六太夫は狐の豫言通り召し還された(奧州波奈志)。

[やぶちゃん注:第一段落の内容は「黑甜瑣語」の「第三編」の「物に數あり」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。

「期」「とき」と当て訓したくなる。

「昭々たる」「せうせう(しょうしょう)たる」は、対象が隅々まで明らかなさまを言う。

「鯰江」「なまなづえ(なまずえ)」列記とした姓氏(及び地名)である。ウィキの「鯰江」によれば、『藤原姓三井家流、のち宇多源氏佐々木六角氏流』。『荘園時代には興福寺の荘官であったという。室町年間、六角満綱の子高久が三井乗定の養子となり、近江愛知郡鯰江荘に鯰江城を築き鯰江を称して以降、代々近江守護六角氏に仕え、諸豪と婚姻を重ね勢力を蓄えた』。永禄一一(一五六八)年に『鯰江貞景・定春が観音寺城を追われた六角義賢父子を居城に迎えたことから織田信長の攻撃を受けて』天正元(一五七三)年九月に『鯰江城は落城、以後一族は各地に分散した。一部は同郡内の森に移住して森を姓とし』、『毛利氏となった』。『なお定春は豊臣秀吉に仕えて大坂に所領を与えられ、同地は定春の苗字を取って鯰江と地名がついたという地名起源を今日に残している』。このほかにも、『豊臣秀次の側室に鯰江権佐の娘が上がっていたという』とある。

「六太夫」この通称と「笛吹き」から見て能の囃子笛方か。

「鬼一管」「きいちかん」と読んでおく。原典にもルビはないが、「鬼一」を前の持ち主の名とし、これは通称としては「きいち」が一般的である。

 以上は、満を持して「奥州波奈志」の巻頭を飾る「狐とり彌左衞門が事幷ニ鬼一管」である。以下に示す。【 】は原典の割注、《 》は同頭注。

   *

 此宮城郡なる大城の、本川内にすむ小身者に、勝又彌左衞門といふもの有き。天生狐をとることを得手にて、若きよりあまたとりしほどに、取樣も巧者に成て、この彌左衞門が爲に數百の狐、命をうしなひしとぞ。狐はとらるゝことをうれひ歎て、あるはをぢの僧に【狐の、をぢ坊主に化るは、得手とみへたり。】化て來り、「物の命をとることなかれ」といさめしをも、やがてとり、又、何の明神とあふがるゝ白狐をもとりしとぞ。其狐の、淨衣を着て明神のつげ給ふとて、「狐とることやめよ」と、しめされしをもきかで、わな懸しかば、白狐かゝりて有しとぞ。奇妙ふしぎの上手にて有しかば、世の人「狐とり彌左衞門」とよびしとぞ。其とりやうは、鼠を油上にして味をつけ【此の味付るは口傳なり。】、其油なべにてさくづ[やぶちゃん注:宮城方言で「米糠」のこと。]をいりて、袋にいれ懷中して、狐の住野にいたりて、鼠をふり𢌞して、歸りくる道へいり、さくづを一つまみづゝふりて、堀有所へは、いさゝかなる橋をかけなどして、家に歸入て、我やしきの内へわなをかけおくに、狐のより來らぬことなし。ある人、「目にもみえぬきつねの有所を、いかにして知」と問ひしかば、彌左衞門答、「狐といふものは、目にみえずとも、そのあたりへ近よれば、必(かならず)身の毛たつものなり。されば野を分めぐりて、おのづから身の毛たつことの有ば、狐としるなり」とこたへしとぞ。勝又彌左衞門と書し自筆の札をはれば、狐あだすることなかりしとぞ。《解云、相模の厚木より甲州のかたへ五里ばかりなる山里、丹澤といふ處に、平某といふものあり。これも狐を捕るに妙を得たり。土人彼を呼て丹平といふといふ。その術、大抵この書にしるす所と相似たり。享和年間、予相豆を遊歷せし折、是を厚木人に聞にき。》

 又其ころ、鯰江六太夫といふ笛吹きの有し。國主の御寶物に、鬼一管といふ名笛有けり。是は昔鬼一といひし人のふきし笛にて、餘人吹ことあたはざりしとぞ。さるを六大夫は吹し故、かれがものゝごとく、あづかりて有しとぞ。【世の常の笛と替りたることは、うた口の節なし。もし常人ふく時は、かたき油にてふさげば、ふかるゝとぞ。】故有て六大夫、網地二(あせふた)わたし[やぶちゃん注:現在の宮城県石巻市の沖合、牡鹿半島突端の南西海上に位置する網地島(あじしま)であろう。ウィキの「網地島」によれば、『江戸時代には浪入田』(なみいりだ)『金山があって採掘された。隣の田代島とともに流刑地でもあった。重罪人が流された江島に対し、網地島と田代島は近流に処せられたものが流された。気候が温暖で地形がなだらか、農業にも漁業にも適した土地であったので、罪人の中には、仙台から妻子を呼び寄せて、そのまま土着した者もいたという』とある。]といふ遠島へ流されしに、笛のことは、御沙汰なかりし故、わたくしにもちて行しとぞ。島にいたりては、笛をのみわざとして吹たりしに、いつの頃よりともしらず、夕方になれば、十四五歳ばかりなる童の、笆[やぶちゃん注:「ませ」或いは「まがき」と読む。「籬」と同義。竹や木で作った目の粗い低い垣根のことで、庭の植え込みの周りなどに設ける。]の外に立て聞ゐたりしを、風ふき雨降などする頃は、「入てきけ」といひしかば、後はいつも入て聞ゐたりしとぞ。かくて數日を經しに、ある夜この童、笛聞終りて、なげきつゝ、「笛の音のおもしろきを聞も、こよひぞ御なごりなる」といひしかば、六大夫いぶかりて、その故をとふに、童のいはく、「我まことは人間にあらず。千年を經し狐なり。爰に年經し狐有としりて、勝又彌左衞門下りたれば、命のがるべからず」と云。六大夫曰、「しらで命をうしなふは、世の常なれば、是非もなし。さほどまさしう知ながら、いかでか死にのぞまん。彌左衞門がをらん限りは、我かくまふべし。この家にひしとこもりて、のがれよかし」といひしかば、「いや、さにあらず。家にこもりてあらるゝほどの義ならば、おのが穴にこもりてもしのぐべし。彌左衞門がおこなひには、神通をうしなふこと故、命なしとしるくも、よらねばならず。いまゝで心をなぐさめし御禮に、何にても御のぞみにまかせて、めづらしきものをみせ申べし。いざいざ望給へ」といひしかば、「一の谷さかおとしより、源平合戰のていをみたし」といひしかば、「いとやすきことなり」といふかと思へば、座中たちまちびやうびやうたる山とへんじ、ぎゞ[やぶちゃん注:「巍々」。厳(おごそ)かで威儀のあるさま。]どうどうとよそほひなしたる合戰の躰、人馬のはたらき、矢のとびちがふさま、大海の軍船に追付くのりうつるてい、おもしろきこといふばかりなしとぞ。ことはてゝ消ると思へば、もとの家とぞ成たりける。さて童のいふ、「何月幾日には、國主松が濱へ御出馬有べし。そのをりから、鬼一管をふき給ふべし。必吉事あらん。我なき跡のことながら、數日御情の御禮に、教奉るなり」とて、さりしとぞ。扨、彌左衞門わなをかけしに、七度までははずしてにげしが、八度目に懸りて、とられたりき。六大夫是を聞て、いと哀とおもひつゝ、教の如く、其日に笛を吹しに、松が濱には、空晴てのどかなる海づらを見給ひつゝ、國主御晝休のをりしも、いづくともなく笛の音の、浦風につれて聞えしかば、「誰ならん、今日しも笛をふくは」と、御あたりなる人に問はせ給ひしに、こゝろ得る人なかりしかば、浦人をよびてとふに、「是は網地二わたしの流人、鯰江六大夫が吹候笛なり。風のまにまに聞ゆること常なり」と申たりしかば、君聞しめして、「あな、けしからずや。是よりかの島までは、凡(およそ)海上三百里と聞くを、【小道なり。[やぶちゃん注:「小道」(こみち)とは一里を六町(六百五十四メートル半)とする東国で用いられた里程単位で「坂東道」「田舎道」などとも呼称したもの。従って「三百里」は凡そ百九十六キロ半に当たる。但し、ここに出る「松が濱」を現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町松ヶ浜(ここ(グーグル・マップ・データ))と比定するならば(ロケーションや島との位置関係からはここがよいと私は思う)、網島までは真西に三十六キロメートル程しかないから、誇張表現となる。]】ふきとほしける六大夫は、實に笛の名人ぞや」と、しきりに御感有しが、ほどなくめしかへされしとぞ。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]

 狐の笛をこのみて、後(のち)化をあらはし、源平の戰のていをしてみせしといふこと、兩三度聞しことなり。其内、是は誠に證據も有て、語つたへしおもむきもたゞしければ、是をもとゝして、外を今のうつりとせんか。又、是も狐の得手ものにて、をぢの僧に化るたぐひならんか。笛吹は猿樂のもの故、さるがくの中に、やしま、一の谷などのたゝかひを、おもしろく作りなしてはやす故、笛吹の心みなこのたゝかひを見たしと、願ことも同じからんか。かの笛いまは上の寶物と成て有。金泥にてありしことどもを、蒔繪にしたるといふ。

   *]

 これと同じ話は「蕉齋筆記」に明石の話として出てゐる。源平合戰の有樣を見せるまで全く變りはないが、從容として死に就く最後の一段を缺いてゐる。「奧州波奈志」の狐は千年、明石の狐は八百五十年といふことだから、百五十年ばかり修行不足の點があるのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「蕉齋筆記」のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(左下段中程)から視認出来る。しかしこれ、エンディングが浅ましく油で揚げた鼠を喰らつて狐が死ぬという展開がおぞましく下卑ていて厭だ。それを見て主人公の御隠居が出家して諸国廻国するなんざ、糞オチもいいところである。]

 「想山著聞奇集」にあるのは狐でなしに狸であつた。稻葉丹後守正通が貞享二年に越後國高田へ國替になつた時、隨從した大野與次兵衞といふ者の屋敷へ、突然十七八歳の若者が現れ、爐のほとりに居つた老婆といろいろ話をする。これが狸なので、遂にその事が主君の耳に入り、微行の形で與次兵衞の家に見えられたが、當夜は全然影も見せなかつたなどといふ話もある。或晩この狸が鬱然として樂しまず、自分は明夜獵師のために一命を落すことを告げた。順序は三段になつてゐて、晝の内の錢砲は避け得る、夕方の落し穴も免れる、夜の罠にかかつて死ぬといふ。それほど運命を豫知する通力がありながら、どうして助かることが出來ぬかといふ問に答へて、天運の盡くるところは是非に及ばぬ、かねて罠にかゝると知つてゐても、その期に及んでは恍惚として覺えなくなるのだ、と云つた。すべて鯰江六太夫に於ける狐と同じである。たゞこの狸は源平合戰の幻術などは見せず、紙と墨を乞うて右の掌の形を捺しただけであつたが、それは全く獸の足跡であつた。

[やぶちゃん注:「稻葉丹後守正通」「まさみち」と読む。江戸前期譜代大名で老中でもあった稲葉正往(まさみち 寛永一七(一六四〇)年~享保元(一七一六)年:「正通」とも書いた)相模小田原藩三代藩主・越後高田藩主・下総佐倉藩初代藩主。彼は確かに貞享二(一六八五)年に京都所司代を免職となり(貞享元(一六八四)年に親戚であった若年寄稲葉正休が大老堀田正俊を暗殺した事件で連座して遠慮処分となったことによる)、高田藩に国替させられている

「微行」「びかう(びこう)」は、身分の高い人などが身をやつして密かに出歩くこと。忍び歩き。

 以上は「想山著聞奇集」の「卷之四」の「古狸 人に化て來る事 幷 非業の死を知て遁れ避ざる事」である。【2017年6月4日追記:新たに全面校訂を行った当該章を電子化注したので、ここにあった不完全なものは除去し、新たにリンクを張った。】

 人間は學問をして、つまらぬ知識を頭に詰め込む代りに、運命を豫知する靈覺を失つてしまつた。千年なり八百五十年なりの齡を保つたら、或は可能かも知れぬが、今の人間の力では、長壽の一點だけでも彼等に伍することは出來ない。勿論狐狸の世界に在つても、かういふのはすぐれた少數者の事で、他は概ね平凡なる野狐、野狸を以て終始するのであらう。

 

2017/02/15

柴田宵曲 妖異博物館 「飯綱の法」

 飯綱の法

 淸安寺といふ寺の和尙は狐をつかふといふ評判であった。橋本正左衞門といふ人がふとした事から懇意になり、折々夜ばなしに行くやうになつた。或晩も五六人寄り合つて話してゐる時、お慰みに一つ芝居を御覽に入れませう、と和尙が云つたと思ふと、忽ち座敷は芝居の體になり、道具の仕立て、鳴物の拍子、名高い役者の出て働く體、何一つ正眞の歌舞伎と違ふところもない。一同大いに感心した中にも、正左衞門は殊に不思議を好む心が强いので、どうかしてかういふ術をおぼえたいと思ひ、その後も屢々和尙をおとづれた。和尙の方でも正左衞門の心中を察し、そなたは飯綱の法を習ひたいと思はるゝか、それならば明晩から三夜續けておいでなされ、愚僧が三度おためし申した上、それが堪へらるゝやうならば、必ず傳授致さう、と云ひ出した。正左衝門は飛び立つばかり悅んで禮を述べ、如何なる事でも堪へ忍んで、飯綱の法を習得しようと決心した。翌日は日の暮れるのを待つて出かけると、先づ一間に通し、やがて和尙が出て來て、もし堪へがたく思はれたならば、いつでも聲を揚げて赦しを乞はれよ、と云つたなり、どこかへ行つてしまつた。間もなく夥しい鼠が出て、膝に上り、袖に入り、襟を渡りなどするので、うるさくて堪らぬけれども、どうせこれは本當のものではあるまい、咬まれたところで疵はつくまい、と心を据ゑ、ぢつと堪へてゐたら、暫くして何もゐなくなつた。和尙が姿を現して、いや御氣丈な事である、明晩またおいでなされ、と挨拶する。翌晩は鼠の代りに蛇で、よほど我慢しにくかつたけれども、本物でないといふことだけで堪へ通した。あと一晩濟ませば傳授を得られると、よろこんで翌晩出かけると、今度はいくら待つても何も出て來ない。少し退屈した時分に、意外な者が現れた。早く別れた實母が、末期(まつご)に著てゐた衣類のまゝの憔悴しきつた容貌で、ふはふはと步いて來て、向ひ合つて坐つたきり何も云はぬ。この實母の末期の樣相は寸時も正左衞門の心を離れぬものなので、鼠や蛇とは同日の談でない。たうとう我慢出來なくなつて、眞平御免下さい、と聲を揚げたが、母と見えたのは實は和尙で、笑ひながらそこに坐つて居つた。正左衞門も面目なくて、それより二度と和尙のところへは行かなかつた(奧州波奈志)。

[やぶちゃん注:「飯綱の法」「飯綱」(いづな)は管狐(くだぎつね)のこと。ウィキの「管狐によれば、『日本の伝承上における憑き物の一種』とされるもので、『長野県をはじめとする中部地方に伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある『関東では千葉県や神奈川県を除いて管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキの勢力圏だからといわれる』。『名前の通りに竹筒の中に入ってしまうほどの大きさ』、『またはマッチ箱くらいの大きさで』七十五『匹に増える動物などと、様々な伝承がある』。『別名、飯綱(いづな)、飯縄権現とも言い、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている』(下線やぶちゃん)。『狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は「くだもち」』「クダ屋」「クダ使い」「くだしょう」などと『呼ばれて忌み嫌われた。管狐は個人ではなく家に憑くものとの伝承が多いが、オサキなどは家の主人が意図しなくても勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに管狐が行動することが特徴と考えられている』。『管狐は主人の意思に応じて他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが』、『初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は』七十五『匹にも増えるので、やがては食いつぶされて家が衰えるともいわれている』とある。なお、実在する食肉目最小種である哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ型亜目イタチ科イタチ属イイズナ(飯綱)Mustela nivalis(「コエゾイタチ」とも呼ばれる)が同名で実体原型モデルの一つではあるが、同種は本邦では北海道・青森県・岩手県・秋田県にしか分布しないので、寧ろ、イヌ型亜目イヌ科キツネ属 Vulpes をモデルとした広義の狐の妖怪(妖狐)の一種と採る方がよい。なお、所謂、「妖狐」の分類については、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (三)』の私の注を参照されたい。

「淸安寺」不詳。

「奧州波奈志」先の「むかしばなし」の作者仙台藩医の娘で女流文学者・国学者であった只野真葛の文政元(一八一八)年成立の奥州を中心とした地方説話集(但し、江戸と跨る話柄も含まれる)。以上はその「十四 狐つかひ」である。例の国書刊行会「叢書江戸文庫」版の「只野真葛集」を参考底本として、例の仕儀で示す。オリジナルに歴史的仮名遣で読み(推定)を附した。

   *

     狐つかひ

 淸安寺といふ寺の和尙は、狐をつかひにて有(あり)しとぞ。橋本正左衞門、ふと出會(であひ)てより懇意と成(なり)て、をりをり夜(よ)ばなしにゆきしに、ある夜(よ)五六人より合(あひ)て、はなしゐたりしに、和尙の曰、「御慰(おなぐさみ)に芝居を御目にかくべし」と云しが、たちまち芝居座敷の躰(てい)とかはり、道具だての仕かけ、なりものゝ拍子(へうし)、色々の高名(かうみやう)の役者どものいでゝはたらくてい、正身(しやうしん)のかぶきに、いさゝかたがふことなし。客は思(おもひ)よらず、おもしろきことかぎりなく、居合(ゐあひ)し人々、大(おほい)に感じたりき。正左衞門は、例のふしぎを好(すく)心から分(かき)て悦(よろこび)、それより又習(ならひ)たしと思(おもふ)心おこりて、しきりに行(ゆき)とぶらひしを、和尙其内心をさとりて、「そなたには、飯綱(いづな)の法、習たしと思はるゝや。さあらば先(まづ)試(ためし)に、三度(たび)ためし申(まうす)べし。明晩より三夜(や)つゞけて來られよ。これをこらへつゞくるならば、傳授せん」とほつ言(げん)せしを、正左衞門とび立(たつ)ばかり悅(よろこび)て、一禮のべ、いかなることにてもたへしのぎて、その飯綱の法ならはゞやと、いさみいさみて、翌日暮るゝをまちて行(ゆき)ければ、先(まづ)一間にこめて壱人(ひとり)置(おき)、和尙出むかひて、「この三度のせめの内、たへがたく思はれなば、いつにても聲をあげて、ゆるしをこはれよ」と云(いひ)て入(いり)たり。ほどなくつらつらと、鼠のいくらともなく出來て、ひざに上り袖に入(いり)、襟(ゑり)をわたりなどするは、いとうるさく迷惑なれど、誠(まこと)のものにはあらじ、よしくはれても疵はつくまじと、心をすゑてこらへしほどに、やゝしばらくせめて、いづくともなく皆なくなりたれば、和尙出て、「いや、御氣丈なることなり」と挨拶して、「明晩來られよ」とて、かへしやりしとぞ。あくる晩もゆきしに、前夜の如く壱人居(ゐる)と、此度は蛇のせめなり。大小の蛇いくらともなくはひ出て、袖に入(いり)襟にまとひ、わるくさきことたへがたかりしを、是(これ)もにせ物とおもふばかりに、こらへとほして有(あり)しとぞ。いざ、明晩をだに過(すぐ)しなば傳授を得んと、心悦(よろこび)て翌晩行(ゆき)しに、壱人有(あり)て、待(まて)ども待ども何も出(いで)こず。やゝ退屈におもふをりしも、こはいかに、はやく別(わかれ)し實母の、末期(まつご)に着たりし衣類のまゝ、眼(まなこ)引(ひき)つけ、小鼻(こばな)おち、口びるかわきちゞみ、齒出(いで)て、よわりはてたる顏色、容貌、髮のみだれゝけたるまで、落命の時分(じぶん)身にしみて、今もわすれがたきに、少しもたがはぬさまして、ふはふはとあゆみ出(いで)、たゞむかひて座したるは、鼠蛇に百倍して、心中のうれひ悲しみたとへがたく、すでに詞(ことば)をかけんとするてい、身にしみじみと心わるく、こらへかねて、「眞平御免被ㇾ下(まつぴらごめんくださる)べし」と聲を上(あげ)しかば、母と見えしは和尙にて、笑座(しやうざ)して有(あり)しとぞ。正左衞門面目(めんぼく)なさに、それより後(のち)二度(ふたたび)ゆかざりしとぞ。

   *]

 

 この話は「宇治拾遺物語」にある瀧口道則が、信濃の郡司から異術を習ふ話に似てゐる。仙たらんとして志を果さなかつた杜子春の試練にも相通ずるところがある。道則は最初の試練に失敗したので、第一の祕術は得られなかつたけれども、第二の術を學び歸つて都の人々を驚かした。その中に「み几帳の上より賀茂祭などわたし給ひけり」といふ一條がある。これは多分淸安寺の和尙が座敷で芝居を見せたやうなものであらう。

[やぶちゃん注:『「宇治拾遺物語」にある瀧口道則が、信濃の郡司から異術を習ふ話』後に示す「瀧口道則習術事」(瀧口道則(たきぐちのみちのり)、術を習ふ事)。なお、「瀧口」は姓ではなく宮中の、近衛兵に当たるところの「滝口の武士」のそれである。

「杜子春の試練」唐代伝奇として知られる李復言の「杜子春傳」及び芥川龍之介「杜子春」をどうぞ! この私の電子テクストは完璧!

 以下、「宇治拾遺物語」の「瀧口道則習術事」を示す。

   *

  瀧口道則習術事

 昔、陽成院(やうぜいのゐん)位(くらゐ)にておはしましける時、瀧口道則、宣旨を蒙(かうむ)りて、陸奧(みちのく)へ下るあひだ、信濃の國ひくに[やぶちゃん注:未詳。]といふ所にやどりぬ。郡(こほり)の司(つかさ)に宿をとれり。設(まう)けしてもてなしてのち、あるじの郡司は、郎等(らうどう)引き具して出でぬ。

 いも寢られざりければ、やはら起きて、ただすずみありくに、見れば、屛風をたてまはして、疊など淸げに敷き、火燈(とも)して、よろづめやすきやうにしつらひたり。

「そら薰物(だきもの)するやらん。」[やぶちゃん注:「そら薰物」判らぬように香を焚き燻くゆらすことを言う。]

と、香(かう)ばしき香(かほり)しけり。

 いよいよ心にくく覺えて、よく覗きて見れば、年二十七八ばかりなる女一人ありけり。みめことがら[やぶちゃん注:容貌・体(からだ)つき。]、姿、有樣、ことにいみじかりけるが、ただ一人臥したり。見るままに、ただあるべきここちせず[やぶちゃん注:そのまま見過ごせるような感じがしない。既にはからずも妖異に惹かれてしまっているのである。]。あたりに人もなし。火は几帳(きちゃう)の外に燈(とも)してあれば、明(あか)くあり。

 さて、この道則、思ふやう、

「よによに[やぶちゃん注:いや! 誠に!]ねんごろにもてなして、志(こころざし)ありつる郡司の妻を、うしろめたなき心つかはんこと、いとほしけれど[やぶちゃん注:バツが悪いけれど。]、この人の有樣をみるに、ただあらむことかなはじ。」

と思ひて、寄りて傍(かたはら)に臥すに、女、けにくくも[やぶちゃん注:小憎らしいことに。]おどろかず、口おほひをして、笑ひ臥したり。言はむ方なく嬉しく覺えければ、九月(ながつき)十日ごろなれば、衣(きぬ)もあまた着ず、一襲(かさね)ばかり男も女も着たり。香ばしき事限りなし。

 我が衣(きぬ)をば脫ぎて、女の懷(ふところ)へ入るに、しばしは引き塞(ふた)ぐやうにしけれども、あながちにけにくからず。懷に入りぬ。

 男の前の痒(かゆ)きやうなりければ、探りて見るに、物、なし。驚き怪しみて、よくよく探れども、頤(おとがひ)に鬚(ひげ)を探るやうにて、すべて跡形(あとかた)なし。おほきに驚きて、この女のめでたげなるも忘られぬ。この男の探りて。怪しみくるめくに、女、すこしほほゑみてありければ、いよいよ心えず覺えて、やはら起きて、わが寢所(ねどころ)へ歸りて探るに、さらに、なし。

 あさましくなりて、近く使ふ郞等(らうだう)を呼びて、かかるとは言はで、

「ここにめでたき女あり。われも行きたりつるなり。」

といへば、悅びて、この男(をのこ)去(い)ぬれば、しばしありて、よによにあさましげにて、この男、出で來たれば、

「これもさるなめり。」

と思ひて、また、異(こと)男を勸めて遣(や)りつ。これもまた、しばしありて出で來ぬ。空を仰ぎて、よに心得ぬ氣色(けしき)にて歸りてけり。かくのごとく、七、八人まで郞等を遣るに、同じ氣色に見ゆ。

 かくするほどに、夜も明けぬれば、道則、思ふやう、

「宵(よひ)にあるじのいみじうもてなしつるを、嬉しと思つれども、かく心得ずあさましきことのあれば、とく出でむ。」

と思ひて、いまだ明け果てざるに、急ぎて出づれば、七、八町行くほどに、後(うしろ)より呼ばひて馬を馳(は)せて來る者あり。走りつきて、白き紙に包みたる物を差し上げて持て來(く)。

 馬を引へて待てば、ありつる宿に通(かよ)ひしつる[やぶちゃん注:給仕を担当していた。]郞等なり。

「これは何(なに)ぞ。」

と問へば、

「これ、郡司の『參らせよ』と候ふ物にて候ふ。かかる物をば、いかで捨ててはおはし候ふぞ。形(かた)のごとく、御まうけ[やぶちゃん注:朝食の用意。]して候へども、御いそぎに、これをさへ落させ給ひてけり。されば拾ひ集めて參らせ候ふ。」

と言へば、

「いで、なにぞ。」

とて取りて見れば、松茸を包み集めたるやうにてある物、九つあり。あさましく覺えて、八人の郞等どもも、怪しみをなして見るに、まことに九つの物あり。一度に、さつと、失せぬ。さて、使ひはやがて馬を馳せて歸りぬ。そのをり、わが身よりはじめて、郞等ども、皆、

「ありあり。」

と言ひけり。

 さて、奧州にて金(くがね)受け取りて歸るとき、また、信濃のありし郡司のもとへ行きて宿りぬ。さて、郡司に、金・馬・鷲の羽など多く取らす。郡司、よによに悅びて、

「これはいかにおぼして、かくはし給ふぞ。」

といひければ、近く寄りていふやう、

「かたはらいたき申しことなれども、はじめこれに參りて候ひし時、怪しきことの候ひしは、いかなることにか。」

といふに、郡司、物を多く得てありければ、さりがたく思ひて、ありのままに言ふ。

「それは、若く候ひしとき、この國の奥の郡に候ひし郡司の、年よりて候ひしが、妻の若く候しに、忍びてまかり寄りて候ひしかば、かくのごとく失せてありしに、怪しく思ひて、その郡司にねんごろに志(こころざし)を盡して習ひて候ふなり。もし習はんとおぼしめさば、このたびは、おほやけの御使ひなり、すみやかに上(のぼ)り給て、また、わざと[やぶちゃん注:改めて。]下り給ひて、習ひ給へ。」

と言ひければ、その契(ちぎ)りをなして、上りて、金(こがね)など參らせて、また、暇(いとま)を申して下りぬ。

 郡司にさるべき物など持ちて、下りて取らすれば、郡司、おほきに悅びて、

「心の及ばんかぎりは敎へん。」

と思ひて、

「これは、おぼろけの心にて習ふ事にては候はず。七日、水を浴(あ)み、精進をして習ふことなり。」

と言ふ。そのままに淸(きよ)まはりて、その日になりて、ただ二人連れて、深き山に入りぬ。大きなる川の流るるほとりに行きて、さまざまのことどもを、えもいはず罪深き誓言(せいごん)ども、立てさせけり。

 さて、かの郡司は、水上へ入りぬ。

「その川上より流れ來(こ)ん物を、いかにもいかにも、鬼にてもあれ、何にてもあれ、抱(いだ)け。」

と言ひて行きぬ。

 しばしばかりありて、水上の方(かた)より、雨降り、風吹きて、暗くなり、水、まさる。しばしありて、川より、頭(かしら)一抱(ひといだ)きばかりなる大蛇(だいじや)の、目(まなこ)は金椀(かなまり)を入れたるやうにて、背中は靑く紺青(こんじやう)を塗りたるやうに、首(くび)の下は紅(くれなゐ)のやうにて見ゆるに、先(まづ)來(こ)ん物を抱(いだ)けと言ひつれども、せん方なく恐ろしくて、草の中に伏しぬ。

 しばしありて、郡司、來たりて、

「いかに。取り給ひつや。」

と言ひければ、

「かうかう覺えつれば、取らぬなり。」

と言ひければ、

「よく口惜しきことかな。さては、このことはえ習ひ給はじ。」

と言ひて、

「いま一度、試みん。」

といひて、また入りぬ。

 しばしばかりありて、やを[やぶちゃん注:不詳。「八尺」の誤りか。]ばかりなる猪(ゐ)のししの出で來て、石をはらはらと碎けば、火、きらきらと出づ。毛をいららかして走りてかかる。せん方なく恐ろしけれども、

「これをさへ。」

と思ひきりて、走り寄りて抱(いだ)きて見れば、朽木(くちき)の三尺ばかりあるを抱きたり。妬(ねた)く、悔(くや)しきこと限りなし。

「初めのも、かかる物にてこそありけれ、などか抱かざりけん。」

と思ふほどに、郡司、來たりぬ。

「いかに。」

と問へば、

「かうかう。」

と言ひければ、

「前(まへ)の物、失ひ給ふことはえ習ひ給はずなりぬ。さて、異事(ことごと)の、はかなき物を物になすことは、習はれぬめり。されば、それを敎へむ。」

とて、敎へられて、歸り上りぬ。口惜しきこと限りなし。

 大内(おほうち)に參りて、瀧口どものはきたる沓(くつ)どもを、あらがひをして、皆、犬子(いぬのこ)になして走らせ、古き藁沓(わらぐつ)どもを、三尺ばかりなる鯉になして、臺盤(だいばん[やぶちゃん注:食物を盛った器を載せる食台。])の上に躍らすることなどをしけり。

 帝(みかど)、この由をきこしめして、黑戸の方(かた)に召して、習はせ給ひけり。御几帳(みきちやう)の上より、賀茂祭(かもまつり)など渡し給ひけり。

   *

但し、これは「今昔物語集」の「卷二十」に載る「陽成院御代瀧口行金使習外術語第十」(陽成院の御代(みよ)、瀧口、金(くがね)の使ひに行きて外術(げずつ)を習ふ語(こと)第十)と殆ど同話である。それを示すときりがなく、ダブって面白くなくなるだけなので、そちらはまた、私の『「今昔物語集」を読む」』ででもお示しすることと致そう。]

 

 江戸時代にはこの種の異術を飯綱の法と称したので、「老媼茶話」などにも似たやうな奇談をいくつか擧げてゐる。飯綱の法と斷つてはないが、「耳囊」に見えた紅毛人の奇術などもこれに類するらしい。長崎奉行の用役を勤めた福井といふ男が、主人の供をして長崎に赴いた時、母親が病氣と聞いて、江戶の事を思ひ續け、鬱々として暮すうちに、食も進まず呆然としてゐる。主人も大いに憐れみ、いろいろ療治を加へたが、或人の話に、さういふ病氣は紅毛人に見せれば、何か奇法がある筈だといふことなので、紅毛屋敷へ行き、通辭を以て申し入れた。カピタンから醫師に話すと、盤に水を汲み、この中へ頭をお入れなさい、といふ。指圖通りにしたところ、襟を押へて暫く水中に押入れ、眼をお開きなさいと云はれて眼を開けば、凡そ六七間も隔てたと思ふあたりに、母親の帷子(かたびら)らしいものを縫つてゐる樣子がはつきり見えた。その時、水中より顏を引き上げ、何か藥をくれたから、それを用ゐて全快した。程なく江戶へ歸り、積る話をした際、母親の方から、一年餘りの在勤中は、戀しいこと限りなかつたが、或日お前の帷子を縫ひながら、ふとお鄰りの方を見たら、塀の上にお前の姿がありありと浮び、暫く顏を見合せたことがある、決して夢ではない、と云ひ出した。その時日を尋ねるのに、長崎で紅毛人の療治を受けたのと全く同日同刻であつた。

[やぶちゃん注:『「老媼茶話」などにも似たやうな奇談をいくつか擧げてゐる』これは「老媼茶話」の「卷之六」の「飯綱(いつな)の方(はう)」であろう(一条の中に複数例を挙げてある)。やや長いが以下に例の仕儀で示す。本文の一部を濁音化し、読みは原典の誤りが多いので、オリジナルに附した。

   *

     飯綱の法

 狐は疑(うたがひ)多きけた物[やぶちゃん注:「獸物」で「けだもの」。]なり。能(よく)化(ばけ)て人をまどわす。人常に知る處也。聲患(うれふ)る時は兒(ちご)の鳴(なく)がぎとく、聲よろこぶ時は壺を打(うつ)がごとし。白氏文集にも、「古塚の狐妖且(かつ)老(おい)たり。化して女と成(なり)顏色よし。見る人拾人にして八九人は迷ふ」と有(あり)。

 近世本邦に狐を仕ふ者有。呼(よび)て飯綱(いづな)の法といへり。其法先(まづ)精進けつさいにして身を淸め、獨り野山に遊び狐の穴居をもとめ孕狐(はらみぎつね)を尋(たづぬ)。此狐を拜して曰、「汝が今孕む所の狐、產れば我(わが)子とせん。必(かならず)我に得させよ」と。それより日夜にしのんで食事をはこびて、母狐(ははぎつね)子を產(うむ)に及び彌(いよいよ)勤(つとめ)て是を養ふ。子すでに長じて母狐子を携さへ術者の元に來(きた)り。子に名を付(つけ)て、「今日よりして如影隨身(かげのごとくみにしたがひ)心の儘(まま)にせよ」と云(いふ)。術者兒狐(こぎつね)に名を付(つく)る。母狐悅び拜して子をつれて去る。是よりして後、術者事あれば潛然(ひそか)に狐の名を呼(よぶ)に、狐形(かたち)を隱し來りて人の密事(みつじ)を告(つげ)、術者におしゆるまゝ、術者狐のおしゑのまゝに妙を談する間、則(すなはち)人、「神に通ぜり」と思へり。若(もし)狐を仕ふもの少(すこし)にても色欲どんよくにふける心有(ある)時は、此術行ふ事あたはず、狐も又弐度(ふたたび)來らずと言へり。

 近所奧州筋の國主に仕へける士に能(よく)飯綱の法(はふ)修せる人有(あり)。此人江戶登り候折(をり)、小金井の宿に泊りける時、あるじ夫婦のもの立出(たちいで)申(まうし)けるは、「我(われ)壱人(ひとり)の娘有(あり)。近きころ妖狐の爲に惱まされ半死半生の體(てい)に罷在(まかりあり)候。此娘昨日の曉よりたわ言を申候。明日何時(なんどき)其國のたれかしと申(まうし)士、此所に宿をかるべし。必(かならず)宿をかすべからす。此侍此宿に留(とま)る時は我(わが)命助(たすか)り難し。いかゞせんと申(まうし)て身もだへ仕(し)、奧深く隱れふるへわなゝき罷在候。然るに娘申候に違いひなく[やぶちゃん注:ママ。衍字か或いは「たがひ言ひ」か。]、國所も御苗字もひとしき御士樣御宿(おんやど)召(めし)候まゝ、あまりふしぎにぞんし、御供の衆に承(うけたまはり)候へばかゝる怪敷(あやしき)病ひ能(よく)御直しあそばし候由承申(うけたまはりまうす)に付(つき)、恐入候得(おそれいりさふらえ)ども老人二人(ふたり)が心底(しんてい)哀(あはれ)み思召(おぼしめし)、娘が命(いのち)御助被下(おたすけくだされ)候得」と手を合(あはせ)地に伏(ふし)淚を流し賴みける間、かの士も不便(ふびん)に思ひ、「其娘爰へつれ來(きた)れ。先(まづ)對面し樣子を見るべし」と云。夫婦の者悅んで、出間敷(いでまじ)と泣悲(なきかな)しむ娘を無理に引立(ひきたて)來(きた)る。其年十弐三斗り成(なり)。きれい成(なる)娘なるが、汗を流しわなゝいて士の前にひれふし居たり。士娘をつくづくと見て、「汝奧州二本松中山(なかやま)の三郞狐(さぶらうぎつね)にてはなきか。何の恨(うらみ)ありていとけなき者に取付(とりつき)なやましくるしむる。己(おのれ)速(すみやか)にさらずんば只今命をとるべし。早々に去れ」といへども娘答へず、二三度に及んでも返事せず、且(かつ)てふくせるけしきなし。侍怒(いかり)て拔打(ぬきうち)に娘を打落(うちおと)せり。あるじ夫婦の者大きに動轉し、「是はいか成(なる)ことをなし給ふぞ」とあわてさわぐ。士の曰、「驚(おどろく)事なかれ。此(この)曉は必(かならず)其正體を知るべし」とて娘が死骸にふすまをかぶせ屛風を以(もつて)是をかこふ。あるじ夫婦のものは娘の死骸を守り終夜まどろまず。曉に成(なり)て是を見れば、年舊(としふ)りたる狐弐(ふたつ)に切られてふすまの下に死居(しにゐ)たり。夫婦悅び娘を尋(たづね)みれば奧深き處に心よく眠(ねむり)居たり。引起(ひきおこし)よく見るに何の恙(つつが)もなく日を經(へ)て元のごとく成りしといへり。

 近き頃、猪狩所右衞門(いがりしよゑもん)と云(いふ)人、能(よく)飯綱の法を行(おこなふ)。或時侍友(ども)相集りて酒半醉(はんすゐ)に及びける折、所右衞門あをのきて空を詠(なが)め、友をかへり見語りけるは、「昨夕の雨に銀河水增して桂陽の武丁(ぶてい)兄弟浮木(うきき)に乘りてすなどりをなす。われも行(ゆき)て天の川より魚をすくふて歸りおのおのをもてなすべし」と云て笠をかぶり網を提(さ)げはけご[やぶちゃん注:「佩籠」で「魚籠(びく)」のこと。]を腰に付(つけ)わらんじをはいて天へのぼる。暫(しばらく)有(あり)て又空より歸り來(きた)る姿、しとゞ濡(ぬれ)て、腰のはけどより大魚數多(あまた)取出(とりいだ)し、則(すなはち)料理して皆皆へふるまひけり。是は其座に有(ある)人のものがたりなり。

[やぶちゃん注:「桂陽の武丁兄弟」一条兼良の有職故実書「公事根源」(室町中期の応永参〇(一四二三)年頃成立)に、『「續齋諧記」に云ふ、桂陽城の武丁といひし人、仙道を得て、弟に語りて曰はく、七月七日に織女河を渉る事あり。弟問ひてなにしに渡るぞといひければ、織女しばらく牽牛に詣づと答へき。 是れを織女牽牛の嫁(とつ)ぐ夜となりと、世の人申し傳へたるなり』とある(ここのデータに拠った)。「桂陽」は湖南省郴州市桂陽県か。]

 

 又寬文拾年[やぶちゃん注:一六七〇年。]の夏、ある國へ現世(げんせ)居士・未來居士といふ幻術者來(きた)り、樣々の不思義をなし諸人をまよはす。其國主是を聞召(ここしめし)、「左樣の者國にあれば諸人亂(みだれ)を發すの元也」とて召(めし)とられ、刑罪せらるゝ折、彼(かの)兩人の者ども申(まうし)けるは、「我等只今最期に及(および)候。仕殘(そのこ)したる術一(ひとつ)候。見物の各々へ見せ可申(まうすべし)。かく嚴敷(きびしき)警固の人々鑓(やり)・長刀(なぎなた)にて取(とり)かこみおはしまし候得ば、外へのがるべき樣(やう)もなし。少し繩を御ゆるし候得」といふ。警固の者ども聞(きき)て、「靑天白日なり。少し繩をゆるめたればとて、いづくへ行(ゆく)べき」とて少しなわ[やぶちゃん注:「なは」。繩。以下、同じ。]をゆるめければ、未來居士則(すなはち)なわをぬけ壹(ひとつ)の鼠となり、はり付柱[やぶちゃん注:「梁付柱」(はりつけばしら)で磔(はりつけ)の刑に用いる柱のことであろう。]の橫木江(え[やぶちゃん注:「へ」。])あがりうづくまり居たり。現世居士鳶(とび)と成り虛空に飛あがり羽をかへし空に舞ふ。暫く有て落懸(おちかか)り彼(かの)鼠をさらひ行方知らず成(なり)たり。警固のもの大きに驚き爰かしこ尋(たづね)けれども、なわはしばりし儘(まま)に殘り身斗(ばかり)ぬけたり。其刑罪の場へ出(いで)し固(かため)の役人、足輕迄いましめを蒙りたりといへり。かゝる怪敷(あやしき)者ゆるがせにすべからず。必(かならず)急(すみやか)に殺すべし。魔術を行ふ場へ牛馬鷄犬によらず何獸(なんじう)の血にても振(ふり)そゝぎ、或は糞水(ふんすゐ)をそゝぎ懸れば、妖術忽(たちまち)滅して魔法幻術かつて行はれず。また鐵砲を打うち)はなてば其(その)法破るといへり。是古人の祕法也。

 またいつの頃にや有(あり)けん、武州川越の御城主秋元但馬守殿領分三の丁と云處へ行脚の僧壱人(ひとり)來(きた)り。宿をかりけるに、あるじけんどん成る者にて宿をかさゞりけり。僧ひたすらに歎き、「日はくるゝ、いたく草臥(くたぶれ)足も引(ひか)れ不申(まうさず)。せめては軒(のき)の下なりと御かし候へ。夜(よ)明(あか)ば早々出行可申(いでゆきまうすべし)」と云。主(あるじ)是非なくしぶしぶ立て戶を開き態(わざ)と燈(ともし)をも立(たて)ず。坊主内へ入(いり)水を求(もとめ)手足を洗ひたばこを呑(のみ)休息し、「燈はなく候哉(や)」といふ。「是(これ)なし」といふ。其れ時坊主左の手をいろりの内へ差入(さしいれ)、五(いつつ)のゆびを火にもやし燈となし、目を張(はり)こぶしを握り、鼻の穴へ入るゝ事ひぢまで也。其後(そののち)鼻をしかめ口をあきくさめをすれば、長(ながさ)二三寸斗(ばかり)の人形(にんぎやう)共(ども)弐三百吐出(はいきいだ)す。此人形共立上り、てん手(で)に鍬(くは)を以(もつて)座中をからすき、忽(たちまち)苗代田(なはしろだ)の形をなし、水を引(ひき)籾(もみ)を蒔(まき)靑田となし穗に出(いで)てあからむを、人形共鎌を取(とり)大勢にて刈取(かりとり)、つきふるひ數升の米となしたり。其後坊主人形共をかき集(あつめ)大口をあき一のみに飮納(のみをさめ)、「鍋來(きた)れ鍋來れ」と呼(よぶ)に庭の片角の竃(かまど)にかけし鍋おのれとおどりて坊主が前に來りければ、坊主ふたを取、米・水を鍋に入、左右の足を蹈(ふみ)のべ、いろりの緣(ふち)へ當(あ)て傍(かたはら)に有ける大(おほ)なたを以て膝節(ひざぶし)より打碎(うちくだ)き打碎き薪(たきぎ)となし、火にくへて程なく飯を焚納(たきをさ)め、數升の米不殘(のこらず)喰盡(くらひつく)し、水を一口吞(のみ)いろりに向ひ吹出(ふきいだ)しけるに、忽(たちまち)いろり泥水と成り蓮の葉浮び出(いで)て蓮の花一面に咲(さき)、數百の蛙(かはづ)集りかまびすしく泣(なき)さわぐ。あるじみて大きに驚き、ひそかに表へ出(いで)て若き者共を呼集(よびあつ)め件(くだん)の事共(ども)を語りければ、聞(きく)者ども、「夫(それ)は慥(たしか)に化物なるべし。取逃(とりにが)すな」と訇(ののし)りてん手(で)に棒まさかりを取持(とりもち)て、くつ强(きやう)の若男(わかをのこ)十四五人斗(ばかり)家の内へ押入(おしいり)見る。坊主ゆたかに伏(ふし)ていびきの音(おと)高し。「しすましたり」と坊主が伏たる跡先(あとさき)を取(とり)かこみ、手足をとらへ頭を强く押へからめ是(これ)をとらへんとするに、坊主目を覺(さま)し、押へける手の下(した)よりふつと拔出(ぬけいで)る。是をみててん手(で)に棒をふり上(あげ)たゝき伏せんとするに、かげろふ[やぶちゃん注:陽炎(かげらふ)。]・いなづまのことく飛𢌞り手にたまらず片原(かたはら)[やぶちゃん注:傍ら。]に有ける大きなる德利の内へ飛入たり。「取逃すな」と寄り、この德利をとり上(あぐ)るにおもくしてあがらず、德利おのれとこけまわる[やぶちゃん注:ママ。]。「さらば打碎(うちくだけ)」と棒まさかりを振上(ふりあぐ)るに、德利の中より黑煙り吹出(ふいいだ)し德利の中(うち)鳴(なり)はためき、終(つひ)に二(ふたつ)にわれたり。其ひゞき大雷(おほいかづち)のごとし。十四五人の者ども氣を取失(とりうしな)ひ、爰かしこに倒れふす。このさわぎの内に坊主はいづかたへ行(ゆき)たりけん、跡形(あとかた)もなく失(うせ)けりとなり。

 昔松永彈正久秀永祿の頃、多門の城にありし時、果心居士といふ魔術者、久秀をまどはしける事あり。果心も此類にや。

   *

柴田が前に掲げた「果心居士」を最後に出しているのが、柴田の執筆の連関性共時性を感じさせて面白い。それにしても最後の坊主の話は明らかに中国の唐代伝奇以来の道士の幻術(妻から、その間男から、屋敷から何から全部、口に中から出して入れてしまうという入子形式)や、妖しの者が家内でミニチュアの小人や家畜を出現させて畑を耕す志怪譚が元だろうが、これはそれがすこぶる徹底していて間断なく、なかなか優れたインスパイアになっていると私は思う。

 以上の「耳囊」のそれは「卷之四」の「蠻國人奇術の事」である。リンク先の私の原文訳注でどうぞ。]

 

「譚海」に出てゐる話も紅毛人で、ほゞ似たやうなものであるが、これは病人ではない。紅毛通事の西長十郞といふ者である。紅毛人が歸國する時は、通事の人々だけがその船まで送つて行つて、離別の宴を催すことになつてゐる。或年例の如く船中で酒を酌み交したが、紅毛人も非常に機嫌よく、年年各々方の御引𢌞しで滯りなく御用を勤めることが出來ました、この御禮に御望みのものを本國から送りませう、と云つた。一同いろいろのものを賴む中に在つて、長十郞は笑談半分に、私は別に願ひはありませんが、これまで二三年に一度づつは江戶へ御同道致し、その逗留の間に在所へ參つて、妻子の安否を問ふことが出來ましたのに、このところ六年ほどは江戶へ參らず、在所の安否も知れません、これを知りたいだけが私の願ひです、と云ふと、それはわけのないことですが、構へて御他言無用、といふことであつた。長十郞も誓詞を立て、座に通事以外の人も居らぬから、紅毛人も承知して、大きな瀨戶物の鉢に水を一杯に湛へ、この中を瞬きせずに見詰めて居られゝば、在所の安否は自ら知れます、といふ。如何にも水中に鄕里である栃木の道中が浮び、村舍林木まではつきりわかる。餘念なく見入つてゐると、遂に自分の家の門前に出た。門が普請中で入りにくいやうだから、垣根の外の木に上つて家の内を見入つたところ、女房は俯向いて針仕事に精を出してゐる。此方を向かぬかと見惚れてゐるうちに、半時ばかりして縫ふ手をやめ、ふと顏を見合せた。此方も何か言はうとする、女房も驚いて聲を揚げようとした途端、紅毛人が鉢の水を搔き𢌞したので、すべて消滅した。さてさて殘念なことを致した、もう少しで言葉を交すところであつた、と言ふと、今そこで言葉を交されゝば、お二人のうち一人は生命に異狀がある、何か言はれさうであつたから、その前に消して上げたのです、といふ話であつた。このあとは前の話と同じく、その後在所へ歸つて委細を話した時、成程あなたが垣根の外にいらつしやるのを見て、私も何か申上げようと思ひましたが、急に夕立が降り出して、お姿が見えなくなりました、と女房が云ふことになつてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「譚海」の「卷之二」(現在、私が電子化注進行中の巻であるが、そこまで辿りついていない)の「阿蘭陀(おらんだ)通事(つうじ)西(にし)長十郞の事」である。以下に示す。歴史的仮名遣の読みは私の推定による。

   *

○○紅毛(こうもう)通事に西長十郞と云(いふ)者あり。野州栃木領の者成(なり)しが、放蕩にて產を破り長崎まで浪牢(らうらう)せしが、生質(きしつ)器用成(なる)ものにて、阿蘭陀の言語をよくし、後々をらんだ通事西某といふものの弟子と成(なり)て、其氏(うじ)を名乘(なのる)ほどの者に成(なり)、通詞(つうじ)役の末席にも缺(かか)ざるほどの者にて有(あり)。每年おらんだ人江戶へ御禮(おんれい)に來(きた)る時は、長十郞も度々(たびたび)同行し、をらんだ人逗留の内に栃木へも立越(たちこし)、妻子にも年々對面せしと也。或年をらんだ人長崎の御暇(おいとま)相濟(あひすみ)出立(しゆつたつ)のせつ、いつも通詞の人計(ばかり)は船中まで送り行(ゆき)て、酒宴を催し別(わかれ)を敍する事なれば、例の如く諸通詞の者送り行(ゆき)、三里計(ばかり)沖に有(ある)をらんだ船まで行(ゆき)て、酒を酌(くみ)かはしたるに、おらんだ人殊の外悅び、年々各方(おのおのがた)の御引𢌞しにて御用無ㇾ滯(とどこほりなく)相勤め忝(かたじけなく)、此御禮には何にても御望(おのぞみ)の物本國より仕送(しおく)り遣(つかは)すべき由を申(まうし)けるに、みなみな種々の物を賴み遣しける中に、此長十郞戲(たはむれ)に申けるは、われら外に願ひはなけれども、御存じの如く、二三年に一度づつは江戶へ御同道し、逗留の内に在所へも罷越候(まかりこしさふらふ)て、妻子の安否をも問(とひ)侍りしが、我ら事(こと)近年間違(まちがひ)候て六年ほど江戶へ參らず、在所の安否もしれかね候、此(これ)のみ心にかゝり候、是(これ)を知(しり)たき外(ほか)願(ねがひ)はなく候と申ける時、をらんだ人聞(きき)て其安否をしられん事はいと安き事なれども、構(かまへ)て他言(たごん)ありてはならぬ事也といひければ、長十郞此安否しられ申(まうす)事ならば、如何樣(いかやう)の誓言(せいごん)にても立申(たてまうす)べしとて申(まうす)にまかせてちかひをたてける時、和蘭陀人さらばこゝは各方(おのおのがた)のみにて、隔心(へだてごころ)なき事なれば苦しからずとて、やがて大きなる瀨戶物の鉢をとりよせ、其内へ水をたゝへ、長十郞に申けるは、此内を目(ま)たゝきせず能(よく)見すまし居(を)らるべし、在所の安否おのづから知られ侍るべしといひければ、長十郞不思議に思ひながら鉢の内をみつめ居(をり)たれば、水中に栃木道中の景色出來(いでき)、再々(さいさい)其道を行(ゆく)に村舍(そんしや)林木(りんぼく)まで悉く見へければ、餘念なく面白く見入(みいり)たるに、終(つひ)に道中をへて我(わが)在所の門(かど)に至りぬ。門(かど)普請(ふしん)有(あり)て入(いり)がたき樣子なれば、我(わが)家(いへ)の垣の外に木のありたるに上(のぼ)りて、家の内を見入(みいり)たれば、女房縫針(ぬひばり)に精を入(いれ)てうつむき居(ゐ)たり。我(わが)方(かた)をみむくかと見とれて居(ゐ)たるに、漸(やや)半時斗(ばか)り過(すぎ)てぬひものを止(や)め、ふと我(わが)顏を見合(みあは)せたれば、うれしく物いはんとするに、女房も驚き詞(ことば)を出(いだ)さんとする時、此阿蘭陀人そのまゝ手を鉢の内へ入(いれ)、くるくると水をかきまはしたれば、在所の景もうせ、長十郞も正氣付(しやうきづ)たるやうにて首(かうべ)をあげ、扨(さて)も扨も今少し殘念なる事也(なり)、妻に逢(あひ)てものをいはんとせしに、水をかき𢌞し失はれし事、千萬(せんばん)殘(なご)り多き事也(なり)と申せしかば、其(その)事也(なり)、今そこにて詞(ことば)をかはさるれば、兩人の内に壹人(いちにん)命(いのち)をたもつ事あたはず、さるによりて詞をかはさんとせらるゝを見てとり、うしなひ進(しん)じたる也(なり)といへり。是(これ)紅毛人(こうもうじん)いか成(なる)術をもちて如ㇾ此(かくのごとき)事をなすや、今に怪(あやし)みにたへざる事也。後年(こうねん)長十郞江戶へ來りし序(ついで)、在所へ越(こし)右(みぎ)物語りをせしかば、女房申けるは、成程其の月日在所へをはして垣の外に居(ゐ)給ふをみて、詞をかけんとせしが、俄(にはか)に夕立(ゆうだち)降出(ふりいで)て見うしなひ侍りしといひけるよし、不思議成(な)る物語也(なり)。

   *]

 

 この二つの話などは切支丹破天連の妖術として一言で片付けられさうであるが、日本人の中にも似た話が無いでもない。服部備後守が蝦夷奉行勤役中、松前の城下に盲人の按摩があつたのを、呼んで話相手にされた。或時その盲人が、永々の御在勤で、さぞお國を戀しく思召されませうといふので、如何にもさうだが、海陸數百里を隔ててはどうもならぬ、妻子の事も思ひ出さぬではないが、と答へると、もし御對面なされたく思召すならば、私がお逢ひなされるやうお取りはからひ申しませう、と意外な事を云ひ出した。それは思ひもよらぬ事ぢや、と取合はれなかつたところ、盲人は形を正して、私いさゝか術を心得て居ります、先づ私の致すやうに遊ばされませ、と云ひ、備後守を正坐させ、しばらく目をおねむり下さりませ、といふ。暫く瞑目し、盲人の言葉に從つて目を開けば、周圍は忽ち江戶の屋敷となり、奧方も若君達も居竝んで談笑して居られた。備後守は大いに驚き、暫く茫然としたが、漸く心付いて、こやつ曲者ぢや、取逃すな、と大聲を揚げられた。詰め合せた用人、近習の者まで、おつ取り刀で盲人を取圍んだけれども、少しも騷がず、立上つて緣側に出る。途端に庭から水が湧き上つて、盲人の姿はどこへ行つたかわからなくなつた。その日その時、備後守の姿が江戶の屋敷に現れたさうである。「我衣」の著者はこの話の末に「是いかなる事にていひふらせしや、その出所甚だ正しからず」と云ひ、「後に聞けば、皆虛說也といへり」と附け加へてゐるから、あまり信用出來ぬかも知れない。

[やぶちゃん注:「服部備後守」江戸後期の旗本で松前奉行・勘定奉行などを務めた服部貞勝(宝暦一一(一七六一)年~文政七(一八二四)年)か。彼はウィキの「服部貞勝によれば、文化九(一八一二)年十一月に松前奉行となり、翌年九月には『前任者より引き継いだロシアとの国際紛争「ゴローニン事件」』(文化八(一八一一)年に千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン(Василий Михайлович Головнин)らが国後島で松前奉行配下の役人に捕縛されて約二年三ヶ月に亙って本邦で抑留された事件)の解決に努め、文化十三年五月に『勘定奉行勝手方兼務』(松前奉行は同年十二月に退任)している。彼は従五位下備後守(後に伊賀守)であった。ここは「蝦夷奉行」とあるのだが、江戸幕府の遠国奉行の一つであった蝦夷地の行政を管掌したそれは、享和二(一八〇二)年に設置されたものの、まもなく「箱館奉行」となり、文化四(一八〇七)年には「松前奉行」と改称しているからである。

「我衣」「わがころも」と読む。水戸藩士で文人医師であった加藤曳尾庵(えびあん/えいびあん宝暦一三(一七六三)年~?)が書いた日記風随筆。十九巻。本書は文政一二(一八二九)年成立とされるから、服部貞勝の記載として共時的で無理はない。同書は所持しないので確認出来ない。]

北京広安門外天寧寺壁面レリーフ

北京在住の教え子が還暦の今日の僕に贈ってくれた北京広安門外の天寧寺の壁面レリーフの写真――慄っとするほど美しい!

 

16790672_1186238301493992_120250954

完全還暦記念 二本のステッキ 田中純 佐藤泰治 畫

 

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介を素材とした実名小説である。昭和三一(一九五六)年二月「小説新潮」に発表された。表記漢字は底本自体が正字現代的仮名遣(但し、ひらがなの拗音は拗音表記されていない)である。

 底本は、十年前、初出誌を神奈川県の公立図書館に正規に有料コピーを依頼して入手したものを使用した。底本の傍点「ヽ」はブログでは太字とした。

 小説家田中純(明治二三(一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)は広島県広島市生まれ。関西学院神学部及び早稲田大学英文科卒。春陽堂に入社して『新小説』の編集主任を勤めた。クロポトキンやツルゲーネフ、ドライサーの「アメリカの悲劇」などの翻訳を手掛けた。久米正雄・里見弴らの知遇を得、文芸評論・小説・戯曲などにも手を染め、大正八(一九一九)年に里見らと『人間』を創刊、翌年の「妻」が代表作である。彼の作品はパブリック・ドメインである。

 挿絵を担当した画家佐藤泰治(たいじ 大正四(一九一五)年~昭和三五(一九六〇)年) は洋画家。東京生まれ。川端画学校に学び、宮本三郎に師事した。新聞小説や雑誌などの挿絵を多く描き、代表作としては川端康成の「舞姫」の挿絵が知られる。彼の作品もパブリック・ドメインである。佐藤氏の挿絵は私が最も適切と判断した箇所に配した(冒頭の一葉は底本でも冒頭に配されてある)。

 私は既にこの実名小説の元となった実在する佐野花子(明治二八(一八九五)年~昭和三六(一九六一)年)の随筆「芥川龍之介の思い出」(昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊の佐野花子・山田芳子著「芥川龍之介の思い出」(「彩光叢書」第八篇)。これは田中純に提供されたものを後に改稿したものである)を電子化している本文のみのHTML版ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」での同注釈附分割ブログ版・同一括ワード縦書版(私のこちらの「心朽窩旧館」からのダウンロード方式)の三種であるが、それ以外にも佐野花子の「芥川龍之介の思い出」についてはブログで複数の小攷を試みているので(前記テクスト冒頭にリンクさせてある)、そちらも参照されたい)。

 なお、佐野花子の「芥川龍之介の思い出」の中でも、実は本作への言及が、その末尾にある。未読の方は本作を読む前に佐野花子の「芥川龍之介の思い出」全篇をまず読まれんことを強く求めるものである。末尾のそこでは、この発表の翌月の同じ『小説新潮』三月号の「文壇クローズアップ」欄に十返肇が書いたとする「芥川への疑惑」という本小説への評をかなり長く引用している(但し、現物は私は未見)。それは佐野花子の引用意図とは別に、この田中の、実名小説という形式に対する、強い批判が含まれている。是非、そこもお読み戴きたい。

 因みに言っておくと、本作冒頭に出る、資料の原執筆者と措定される佐野花子に当たる人物を指して、『昨年の春、老いのために廢人同樣の身となつた』としているのは、田中の小説上の技巧であって事実に反する。廃人同様となった人間に本作公開の後、あのような緻密な改稿作業は不可能だからである。佐野花子(彼女の没年は既に示した通り、昭和三六(一九六一)年(八月)で本作発表から五年後のことである)の名誉のために言い添えておく。

 以下、老婆心乍ら、先に幾つかの注をしておく。それ以外については、恐らく、私の佐野花子「芥川龍之介の思い出」の方の詳細注で事足りるはずと心得る。

・「博士」不詳。佐野花子の「芥川龍之介の思い出」には登場しない。

・「ストーム」は「storm」(嵐)を語源とする、本邦の旧制高等学校・大学予科・旧制専門学校・新制大学などの学生寮などに於いて、学生たちがしばしば行ったバンカラ(蛮行)の一種で、高歌放声のどんちゃん騒ぎを考えればよい。

・「蠟勉」は「ろうべん」と読む。かつての一高寄宿舎では夜十二時で消灯が決まりで、それ以後に勉強したい者は蠟燭を買っておいて灯し、こっそりと勉強した。そのことを指す学生間の隠語である。

・「河童踊り」ネット情報によると、一高以来、主に水泳部(一高水泳部は明治二七(一八九四)年創部)を中心に行われた校内の学生間の準年中行事と思われる。本来は初冬の寒中水泳であったか。現在の東京大学水泳部には、この「部踊り」としての「河童節」が残り、時々、河童踊りも行われているようである。但し、「河童節」は大正一〇(一九二一)年誕生で、公式の初演は昭和五(一九三〇)年の紀念祭で((PDF)の東京大学水泳部の準公式と思われるデータに拠る)、芥川龍之介は大正二年一高卒・大正五年東京帝大卒であるから、ここにこの話が出るのはやや不審な気がする。佐野花子の「芥川龍之介の思い出」にも「ストーム」「蠟勉」と合わせて、出ない。

・「若宮堂」この場合は鎌倉の鶴岡八幡宮下宮、特にその舞殿を指す(但し、これは近代に設営されたものであって鎌倉時代に静が舞ったのは上宮の回廊部分である)。言い添えておくと、それ以下の由比が浜のシークエンスを含め、この建長寺から天園のロケーション部分は、田中の完全な創作(嘘っぱち)であって、実際の芥川龍之介の水泳の場面は横須賀の海岸での佐野花子の思い出のそれを操作捏造したものである。無論、小説であるからにはそれを咎め立てするには当たりはしない。続くところの本作の題名に関わる印象的場面を撮るには演出行為としては上手いと思わぬでも、ない。しかし、私はこの如何にもなそれを(原資料の佐野花子の芥川龍之介の水泳シーンはすこぶる映像的で印象的で美しい故にこそ)はなはだ生理的に不快極まりないものとして強く映ずるものであることは言い添えておきたい。

・「靜」のルビ「しずか」はママ。

・「村夫子」は「そんふうし」或いは「そんぷうし」と読む。「村で一目置かれる学者のような存在」「田舎暮らしの在野の先生」の謂いであるが、別に「見識の狭い学者」という卑称でもある。

・「淚線」はママ。

 最後に。本電子データは私の完全還暦記念として公開するものである。【2017年2月15日――満60歳の私の誕生日に――本作に対する複雑な愛憎を込めて――藪野直史】

 

Satoutaiji1

 

 二本のステッキ

 

             田中   純

             佐藤 泰治畫

 

 この三四年間、私の親しく接して、來た作家たちの印象を筆にすることの多かつた私は、ずいぶん多くの未知の人々から手紙を貰つた。そうした手紙の中にははじめから喧嘩腰で、筆者の解釋の不當をなじつたり、誤謬を指摘して來たりしたのもあつたけれども、その多くは、こちらには勿髓ないほどの好意を示して、賛意を表したり、未知の事實を知らせてくれたりするものだつた。

 「芥川龍之介と女たち」を書いたときも、私は幾通かの善意に溢れた手紙を受け取つた。中には芥川君の親戚の人からの、懇切に私の疑問を解く手紙などもあつて、ともかくも私の文章が、甚だしく故人の德を傷つけていないらしいことを知つてほッとしたのであるが、そうした頃の或る日、私は一通の分厚い封書と一緒にハトロン紙包みの小さい小包郵便を受け取つたのである。

 差出人は橫須賀市の山口靖子とある。もちろん未知の人だ。私の文章を讀んだのでにわかに思い立つてこの手紙を書くという書き出しで、しつかりした字畫の若々しい文字で書いてあるところによると、彼女の父は若い頃、橫須賀の海軍機關學校の教官をしていたことがあり、同じ學校の教官であつた芥川龍之介と相當に親しく交わつたようである。殊にその頃お茶ノ水女高師の文科を卒業したばかりの母は、まだ文學に靜かな情熱を抱いている時代でもあり、芥川の美しい人柄や泉のような才筆にすつかり魅せられたようで、このような若い天才を家庭の友として持つていることに、この上もない喜びと誇りとを、父とともに感じていたようであつた。ところが、こうした親しい交りが二年も續いた後に、突然、芥川から、理由の判らない絶交を宣せられた形になつた。これは靜かで平凡な生涯を送つた父母にとつては、終生最大のショックであつたようである。殊にあれほどに芥川を信じ愛した母は、その理由が全く判らないだけに一層苦しんでいたようで、最近まで一人娘である彼女に、

「どうして芥川さんは私たちにあんなことをなすつたのだろうねえ。」

 と言つて嘆いていた。この母は、昨年の春、老いのために廢人同樣の身となつたし、父もまた十數年前に世を去つている。もちろん芥川も自ら生命を絶つた今日では、その理由を確かめるてだては全くなくなつているけれども、ただ一つ、母がその晩年に書き遺して置いたノートがあり、これには芥川と父母との交遊の樣子を相當にくわしく書いている。このノートを讀んでも、どうして芥川が父母に對してあんな仕打ちをしたのか、その理由が自分たちには判らないけれども、その頃の芥川と親しい交遊があり、且また文筆者の心理にも通じている筈の貴下は、このノートによつて何かの解釋を得られるかも知れない。もし何かの結論を得られたら、母の心の最後の平和のためにも、それを知らせてほしい。うした願いをこめて、右のノートや、その頃の父母の寫眞などを送るからよろしく賴む。

 手紙の文意は大體右のようなもので、更に最後に、自分たちは決して貴下の「芥川龍之介をめぐる女たち」に名乘りをあげるつもりでこんな手紙を差し上げるのではないし、芥川の非情を非難するつもりで貴下に訴えるわけでもない。父や母がその一生にわたつてどんなに芥川を愛し敬していたかはこのノートを見てくれれば判ることだから、その點誤解のないように願いたいという意味がつけ加えてあつた。

 手紙を讀み終ると、私はさつそく小包を開いて見た。二つの手記があつた。一つは原稿紙三十枚ばかりの「私」と題するもので、母なる人の生い立ちの記のようなものらしい。今一つのが大判の大學ノート一筋にぎつしりと書きこまれたもので、表紙には「芥川樣の思い出」と橫書きしてあり、その下に小さく佐原春子と署名してあつた。そして別に一封の西洋封筒が添えてあつて、その中に兩親の寫眞と、芥川の手紙と原稿の寫眞が一枚ずつ入れてあつた。

「綺麗な人じアないか。」

 私はそばにいる妻に寫眞を示した。

「ほんと。」

 と、妻も、もう少し黃色を帶びて來ている古い寫眞に見入つて、「とてもゆたかな感じの人じアないの。」

「クラシカルだけれども利巧そうだし、好い感じだね。」

「これが芥川さんの戀人?」

「さア、ノートを讀んでみなければ判らないが……」

 その日いちにちかかつて、私はこのノートを讀んだ。ノートの大部分は、彼らがまだ新婚時代に獨身者の芥川とかわした友情の記錄だつた。その追憶の甘さと、敍述のくだくだしさとははじめのうち多少私を退屈させたことは事實であるけれども、やがてこの記錄の持つ不思議に強い情熱に引きこまれて行つた。特にこの筆者の良人なる人の芥川に對する神のような寛容や善意には妙に心を打つものがあつた。むろん私は、どうして芥川がこうした友情にそむいたのか、その理由を讀みとろうと努めた。いろいろな想像が私の頭に浮んだけれども、遂に的確にこれだという理由は摑み得なかつた。結局、私は、彼ら母子の期待に添い得ないことを斷つて、このノートを送り返そうと思つたが、二三日机の上に置いて眺めているうちに、こうした記錄をこのまま娘の筐底に埋めてしまうことの惜しさを感じて來た。むろんこうした交遊は、芥川にとつてはまことに些々たる感傷期の戲れであつたかも知れないけれども、そのために少くとも二つの最も善良な魂が、戸惑つたり悶えたり嘆いたりしていることを考えると、私は何か義憤に近いものさえ感じないでいられなかつた。で、それから二三囘の文通の後に、私はこのノートを公表することの許しを得た。これから書くのがそのノートである。

 もつともこの手記は相當に長いものであるから、ここにその全文を示すわけには行かなかつた。私は思い切つて取捨したり書き改めたりしなければならなかつた。從つてこの一齊の文責は全部作者たる私にあることを斷つて置く。

 

 芥川さんの噂を良人からはじめて聞いたのは、私たちのまだ婚約中のことであつた。その頃私は、仲人である鎌倉の博士のお宅で家事見習いをしながら、ときどき良人と會つていた。信州の片田舍の女學校を卒業して、そのまま女高師の寄宿舍生活に入つていた私は、都會ぐらしの家事については全く何も知つていないのであつた。

「僕の學校の同僚に芥川龍之介という人がいるんですよ。」

 と、或る日、良人は、F博士邸の應接室で二人きりで話しているときに言つた。その頃芥川さんはすでに「羅生門」その他を書いて、若い天才を謳われている時代であつたから、私もよく彼の名を知つていた。

「まア、あんな方が同僚でいらつしやいますの。」

「僕よりも三四年の後輩だけれど、すばらしい秀才です。僕は理科、先生は文科だけれど、二人とも東京の下町生れなので、よく話が合うんです。あなたも文科だから、結婚したらいろいろのことを芥川君に教えていただくと好い。」

「ええ、是非。」

 こんなことを話してから間もなく、いよいよ近づいて來る結婚の準備のために私は信州の里に歸つたが、田舍の古い家の中で何かと忙しく働きながらも、やがて間もなく芥川さんのような方と親しくおつきあいすることになるのだと考えて、何か樂しいような不安なような氣持に陷ることもあるのだつた。

 その年の春、私たちは鎌倉の博士のお屋敷で、内輪ばかりの結婚式を擧げた。橫須賀の新居で新床の一夜を過ごした私たちは、翌日のお午すぎ、箱根、伊豆へかけての新婚旅行に出た。折からのお花見どき、それも土曜日のことなので、この小さい軍港の街路は水兵と工員の姿でいつぱいだつた。二臺の俥を連ねて停車場へ着いた私たちは、人ごみを避けて改札の始まるのを待つていたが、そのときいきなり、

「やア、おめでとう。」

 と聲をかけて、良人の前に立つた紺背廣をつけた瘦身の紳士があつた。私はとつさに、雜誌で見ている寫眞を思い出して、

「あッ、芥川さんだ。」と思つたが、果してその人は、良人の紹介も待たないで、

「僕芥川というものです。」

 と、氣輕い調子で挨拶をされた。實はそれまで、二三の作品を讀んだ印象から、芥川さんという人を非常に神脛質な氣むずかしい人だと想像し、こちらが田舍者だという引け目もあつて、何となく避けたい人のようにも感じていた私であるけれども、彼のこの初對面の氣輕さは、一瞬にして私の氣重さを吹き飛ばしてしまつた。

「どうぞよろしく。」

 生れつきの小心から、小さく口の中で言つたけれども、私の心には何か明るい喜びがあつたような氣がする。

 プラットフォームに出ると、芥川さんは、

「僕あちらですから。」

 と言つて、三等車の方へ行つた。しかし汽車が鎌倉驛に着くと、彼は私たちの窓の外に立つて、

「僕も四五日うちに京都に遊びに行くつもりです。」

 などと言つて、汽車が動き出すまで私たちを見送つてくれた。

「すばらしいだろう、芥川君は。」

「ええ、とても。」

 私たちはそう言つて、新婚最初のなごやかな笑いを笑みかわした。

   春寒や竹の中なる銀閣寺   龍

 こんな句を書いた京都の繪葉書がとどいたのは、こうして私たちが二週間の旅を終つて歸りついた翌日のことだつた。私は大切に自分の新しい文箱にしまい込んだ。

 

Taiji2

 

「今日は芥川君と一緒に、鎌倉の小町園で夕食を食べることにして來たから。」

 學校から戾るなり良人がそう言つたのは、いよいよ新學期が始まつて間のない或る土曜日の午後だつた。突然のことで私は面喰つたけれども、嬉しくないわけではなかつた。

「ほかならぬ芥川君に見て貰うんだから、今日は馬力をかけて綺麗になつて行つてくれ。」

 そう言つた良人が、自分で鏡臺を明るい緣がわに持ち出してくれるのに、私は思わず吹きだしてしまつた。長い學窓生活のために殆んどお白粉になじまない私であつたけれども、良人にそう言われては鏡の前に坐りこまないでいられなかつた。F博士夫人に教えられたことを思い出しながら、丹念に自分の顏を彩つているうちに、いつか若妻らしい思いも湧いて來るのであつた。

 良人に帶を選んで貰つたり、襦袢の襟をかけ換えたりしているうちに、いつか夕暮れが迫つて來た。良人にせき立てられて停車場に急ぎ、鎌倉驛に降りて小町園に行くと、芥川さんはもう奧の離れで、お園さんという美しい女中さんを相手にして、待つていられた。

「やア、おそい、おそい。」

 と言いながら、芥川さんの顏はひどく樂しそうだつた。

「なにしろ新婚最初の外出なので、奧さんのお化粧が手間取つちやつて。」

 良人がさつそく意地惡を言い出すと、

「いや、奧さんはお化粧なぞなさらない方が好いですよ。」

 と言つて、芥川さんはじッと私の顏を見られた。

 やがて膳が運ばれてお酒になつた。お二人とも餘り強いお酒とも見えず、しばらく飮んでいるうちにお話しがはずんで來た。お話しは學校のことやら文壇のことやら、ずいぶんいろいろ出ていたが、そのうちに芥川さんは私の方へ顏をむけて、

「中條百合子つて人、奧さんの生徒じアないんですか。」

 と言われた。

「生徒つてわけではありませんけれども、お茶ノ水の教生として教えたことはございます。」

「こないだ僕、あの人に會見したのですよ。會見することは前から判つていたのだが、初めての僕と會うというのに、あのお孃さん派手な友禪の前掛をかけているんですがね。これが私の趣味ですと説明してましたが、ちよつと變つたお孃さんだと思いましたね。」

「學校でもちよつと變つた生徒だと、いうことになつていたようです。なにしろ國語は滿點なのですけれど、數學となるといつでもゼロだというのですから。」

「ゼロはひどいな。」

 と、良人は笑つて、「しかし龍ちやんなどは、そういう向きの令孃と結婚した方が好いかも知れないな。」

「いや、僕の友人に久米正雄というのがいるんですがね、これが家庭の關係から中條百合子と幼ななじみでしてね、僕に彼女と結婚しろと言うのです。こないだの會見もそういう久米のおせつかいの結果なんですが、まア、問題にはなりませんね。こちらが四六時中、文學の問題で頭を惱ましているのに、細君にまで煽られるのではやり切れませんからね。」

「しかし全然文學に無理解な女でも困るでしよう。」

「まア、こちらの仕事の價値を十分に知つていて、しかも惡く刺戟しないような人があれば理想的ですがね。しかし僕の家庭は相當に複雜ですからね、あまり理想的なことばかりも言つていられないのです。」

 芥川さんはそう言つて、彼の實母が狂人であつたことや、彼が養子であることや、彼を育ててくれた叔母のいることなどを、しんみりした調子で話した。

 その晩、私たちは十時近くまでも話しこんで別れた。汽車に乘ると良人は好い氣持そうに居座りをはじめたが、私は先刻の芥川さんの淋しそうな顏を思い浮べ、あんなに華やかに世に出ている人にも惱みは深いのだ、などと考えていた。

 それから二三日して、私たち二人にあてて芥川さんから手紙が來た。文意は――先夜は御馳走になつた。今度は自分が御馳走したいから、次ぎの土曜日の夕方から小町園に來てほしいというのだつた。私たちにも異存はなかつた。先日は何となく晴れがましく、氣の重かつた私も、今は、はずむような氣持で、その日の來るのを待つた。

 八幡前の櫻はもうすつかり若葉に變つていた。玉砂利を踏む音ものどかに玄關に立つと、

「お待ちかねでいらつしやいますよ。」

 と、お園さんに迎えられた。

 先日と同じように離れ座敷に通ると、芥川さんはもうドテラに着換えていて、

「今日は僕が主人役ですからね、ここに泊ることにしました。あなたがたもお風呂にでもはいつて、終列車まで遊んで行つて下さい。」

 間もなくお園さんが良人のドテラを持つて來て、私たちに入浴をすすめる。大變なことになつたと思つたけれども、結局私も座を立たねばならなかつた。

 

Taji3

 

 その晩も、良人たちは樂しそうだつた。

「僕の從弟に小島政二郎というのがいるんだけど、知つてますか。」

 良人が言うと、

「知つてますとも。とても勉強家でね、有望ですよ。」

「僕たちは同じ下谷生れで、彼の家は呉服屋、僕の家は紙屋なんです。」

 そんな話しから、ひとしきり東京の下町の思い出が續き、食べものの話から、一高の寮生活の話に移つて、ストームだの蠟勉だの河童踊りだのの話がはずんだ。

「ところで今夜は、かねての約束に從つて、君の春子觀を聞きたいんですが。」

 良人がそんなことを言い出したのは、もうだいぶお酒が𢌞つた頃だつた。

「そうだ。まだ大役が殘つてましたね。――實は、奧さん……」

 芥川さんと良人とがこもごも説明するところによると、私たちがまだ婚約中であつた頃、學校の教官室で、既婚の教官たちが良人にむかつて、いろいろと細君操縱術だの、夫婦喧嘩の法だの、細君を叱るコツだのを説いたものだそうである。それを聞いて良人が、

「弱つたなア。結婚生活つてそんなにむつかしいものかねえ。」

 と、困惑した樣子を見せたところ、あとで芥川さんが、

「なに大丈夫ですよ。あなたが結婚したら僕が奧さんを鑑定してあげますからね、あなたはそれに從つてよろしくやれは好いんです。」

 と言われたので、その約束が出來てるのだというのである。

「それで私を鑑定なさいますの。まア、こわい。」

「大丈夫ですよ、奧さん。」

 芥川さんはそう言つて、硯と紙とを女中に持つて來させた。そしてさらさらと何か書いて、良人の前に置き、

  悲しみは君がしめたるその宵の印度更沙の帶よりや來し

 と讀み上げてから、

「どうぞ。」

「簡單に言えば、心引かれるような方だ。そういう方を奧さんにされた佐原さんが羨ましい――そういう意味ですよ。だから佐原さんは、操縱術も指導法も何も考えないで、ただただ自然のままにしていられれば好い。そうすればおのずから温かい美しい家庭が出來る。それが僕には羨ましいというんです。」

「ほんとに君、そう思つてくれますか。」

「ほんとですとも。」

「僕は數學と物理との外には何も知らない男だけれども、文筆の大家の君がほんとにそう思つてくれるんだつたら、僕、とても嬉しいな。春子もそう思うだろう?」

 良人が目をきらきらさせて私の顏を見る。私もちよつと淚ぐんで來て、無言にうなずいたけれども、それは芥川さんに褒められた嬉しさというよりも、良人という人の無類に單純な人の好さが、じかに私の胸に解れて來た結果だつたような氣がする。

 しかしこの夜から、私はにわかに芥川さんに親しみを感じるようになり、何か珍しい食べものでも手に入れば必ず良人に芥川さんを誘つて來て貰つて、ささやかな食卓をともにするようになつた。殊に或る日、私の郷里から送つて來た山鳥を調理して、田舍風の鳥鍋を供した時には、特に彼は喜んだようであつた。

「奧さん、これから郷里に手紙を出されるときには、必ずこないだの山鳥はおいしかつたとお書きになるんですね。そうするとまた送つて來ますから、自然に僕も御馳走にありつけるという寸法になりますからね。」

 芥川さんはそんなことを言つてはしやいでいたが、あまりはしやぎすぎたためか、歸るときに玄關で、すつとんと尻餅をついてしまつた。

「山鳥の祟りらしいですね。」

 芥川さんがそう言つたので、私たちは氣の毒さも忘れて笑つてしまつた。

  うららかやげに鴛鴦の一つがひ

 そんな句を紙きれに書いて下さつたのもその夜だつたと思う。

 その頃の或る日、私たちの新婚寫眞が麗々と時事新聞に出たことがあつた。友だちからお祝いの手紙を貰つてはじめてそのことを知つた私たちは隨分驚いた。この寫眞は、ごく少數の親しい人に贈つただけだつたので、どうしてそれが新聞社なぞに𢌞つたのか、私にも良人にも見當がつかないのだつた。すると或る夕方、良人が芥川さんと一緒に歸つて來て、

「おい、重大犯人を連れて來たよ。」

 と言うのでぁる。すると芥川さんもにやにやと笑つて、

「僕今日は奧さんにお詫びに來ました。」

 と言う。

「まア、なんでございますの?」

 と聞くと、それが寫眞のことであつた。

 芥川さんが私たちの新婚寫眞を東京の家に持つて歸つて、机の前に立てかけているところへ、その頃時事新聞の記者をしていた菊池寛さんが訪ねて來て、是非これを新聞に載せさせろと言つたというのである。

「そこで僕、しばらく沈思默考しましたね。これは善行なりや惡事なりやという大問題なのです。結論として僕は、これは善行ではないまでも惡事にあらずと決斷したのです。少くともこれは、奧さんに非常に大きな損害を與える行爲ではない。しかもその結果として、僕は菊池に友情の一端を果すことが出來るし、一新聞社の事業を扶助することも出來る。よろしい、早速持つて歸つて、滿天下の紳士淑女を惱殺することにしたまえ。――まア、こういつた次第です。むろん、僕は最後まで何食わぬ顏で過ごすつもりだつたのですが、その後だんだん教官室の詮議がきびしくなりましてね、僕への嫌疑が濃厚になりそうな傾向が見えて來たので、自分から白狀したわけです。惡かつたらお許し下きい。」

 芥川さんはそう言つて、例の長い髮をばさッと落して、輕く頭をさげた。

「それはもちろん惡いですわ。」

 私は言つたけれども、すぐにみんなの樂しい笑いになつてしまつた。

 それからしばらくたつてからだつたと思う。いつものように私たちの家で三人で晩食をとつたあとで、芥川さんの結婚のことがまた話題になつたことがある。そのとき芥川さんは、自分の家系は餘りに東京人であり過ぎるから、細君にはむしろ田舍の人を貰つた方が好い。肉體的にも精神的にも健康で圓滿で明るい女性がほしい――その點でも佐原が羨ましいなどと言つていたが、突然、

「これは僕の結婚とは別問題ですが。」

 と前置きして、「橫須賀の女學校に汽車通學しているお孃さんに一人すばらしいのがいるんですがネ。僕、毎朝、好いなアと思つて見ているうちに、こないだ思わずそのお孃さんにお辭儀しちやつたんですよ。すぐにはッと思つたのだけど、もう取り返しがつきませんものね。きつと向うでは僕を不良紳士だと思つてるでしよう。」

「まア。」

 と言つた私の心は急にはずんで來た。と言うのは、その頃私は午前中だけの約束で、そ の女學校へ教えに行つていたからである。

「その人どこから汽車に乘りますの?」

「逗子からです。」

「どんなお孃さんでしよう。」

「背の高さは五尺ちよつとくらいですかね。實にすつきりした姿でしてね、あの野暮つたい木綿縞の制服を着ててさえすばらしいんですよ。足の美しさなんぞ、まア、鹿のようだとでも形容しますかね。」

「お顏は?」

「優しくつて、なかなか愛嬌があつて、眉と目とが特に綺麗なんです。鼻がちよつと上向いてますけども、それが却つて可愛らしいのです。」

 私には大體見當がついた。私の教えている實科二年の鈴木たか子だと思えた。それならば成績もよく、性質も好い生徒だつた。

「芥川さんにお辭儀して貰つて、きつと光榮に思つてますわよ。」

「そうだと好いんですがね。」

「ひとつ、どんな家の娘さんか、調べて見ろよ。」

 と、良人が言う。

「ええ、さつそく誰かに聞いて見ますわ。」

 芥川さんはその晩も機嫌よく醉つて歸つて行つたが、私たち二人きりになると、

「芥川君はあんなことを言つてるけれども、ひとり話のきまりそうな相手があるらしいんだよ。それはたしか日本海海戰で戰死した海軍大佐の遺兒でね、今はまだ跡見女學校か何かの生徒らしいんだが、以前から芥川の方から申し入れているらしいんだよ。」

「芥川さんが御自分でお話しになつたの?」

「いや、うちの木崎校長がその大佐と同期だつたとかでね、その未亡人から芥川君の人物をどう思うかつて尋ねて來たらしい。それで校長が二三の文官教師に意見を徴したという話があるんだ。」

「それならはすぐにお話がまとまるでしようのに。」

「ところがなかなか未亡人から返事が來ないらしいんだね。それで芥川君、このごろ少しやきもきしてるところもあるらしいんだ。」

「でも、芥川さんほどの人に、どうしてそんなに御返事がおくれるんでしよう。」

「君はそう思うだろう。僕もそう思うんだ。あれほどの才能のある人物だから、どこの親だつて二つ返事で娘をよこすだろうとね。ところが實際にはなかなかそうでもないんだね。これはここだけの話だけれども、いつか僕、芥川君と一緒に京都に出張したことがあるんだが、そのとき京都大學の或る教授に芥川君のことを話したのだ。そうしたら、自分の娘の婿としてどうだろうという話になつてね、まア見合いというようなことをさせたことがあるんだ。ところがあとからの先方の返事は、あれでは神經が纖細すぎて困ると言うんだよ。僕はよい加減に芥川君にはごまかして置いたけれども、そういう見かたをする人もあるんだね。」

 良人がいかにも不思議そうに言うので、

「その氣持は私にもよく判りますわ。私だつて、芥川さんはずいぶん面白い方だし、人柄も好いし、才氣渙發だし、とても引きつけられていますけれども、あの方を自分の良人として考える場合には、ちよつと考えさせられると思いますわ。全く神經が纖細なのですもの。こちらが姉のようになつて暖かく抱擁して上げられれば、あの方の才能もぐんぐんと伸びて行くし、幸福だろうと思いますけれども、そういうえらい女はめつたにありませんし、私なぞ勿論落第ですわ。」

「そう謙遜しなくとも好いよ。」

「いいえ、謙遜じやアありませんわ。かりにあなたと芥川さんと二人のうちどちらかを良人として選べと言われれば、私だつてあなたを選びますわ。あなたならば、何時でも安心して倚りかかつていられますけれど、芥川さんではちよつと怖い氣がいたしますもの。」

「君は思つたよりも辛辣なんだね。」

 良人はそう言つて、じつと私を抱きしめるのであつた。

 事實、芥川さんの神經の細かさには、私のような田舍育ちのものには想像もつかないようなものがあつて、私たちも芥川さんのために心配したものであつた。

 或るとき芥川さんが、げつそりと瘦せこけて、蒼い顏をして來られたことがあるので、

「どうなさいましたの。」

 と尋ねると、

「よせば好いのに、僕、この頃、谷崎潤一郎と大論爭をやりましてね、それでへトヘトに疲れちやつたのです。それに文壇には批評家なんて人種がいましてね、これが下らないことをブツブツ言いやがるし、まるで神經を搔きむしられる氣がするんです。」

「でも、谷崎さんとはずいぶんお仲が好いんじやアありませんの。」

「仲はよくつても文學上の論爭となれば眞劍勝負です。負ければ殺されるんですからね。」

 芥川さんはそう言つてから、珍しくゴロリと橫になり、

「しかし、谷崎という奴はえらい奴ですよ。僕をこんなに參らせるんですからね。」

「でも、谷崎さんは兎も角として、批評家の言い分なぞにそんなに神經をお使いになる必要はありませんわ。あなたはもつと高いところから、自信を持つて見おろしていらつしやれば好いのですわ。」

「そうだ、ほんとにそうですね。奧さんはやつぱりえらい。」

「あらア……」

 私があきれていると、芥川さんはにわかに元氣にはしやぎ出して、

「僕今晩は英詩の朗讀をやりましよう。何か詩の本はありませんか。」

 その頃私は、家事もだいぶ手につき、時間の餘裕も出來て來たので、學校時代の英語のおさらいなどしていたので、すぐに机の上にあつたロングフェローの「エヴァンゼリン」を持つて來た。

「ああ、エヴァンゼリン。奧さんのお好きらしい詩ですね。」

 彼はなつかしげにページを繰つていたが、やがて聲を擧げてその一節を朗誦し始めた。それは聞き惚れるほど美しい發音で、全文をすつかり理解しているものでなければ示されない深い感動のこもつたものであつた。私がぞくぞくするような思いで聞いているうちに、彼は一時間近くも讀み續けたであろうか。突然ばたりと本を閉じると、

「久しぶりに讀むと、こうしたロマンチックなものも好いですね。これからときどき、奧さんと一緒に、こういうものを讀むことにしましようか。」

「是非お講義お願いしますわ。」

「實はね。」

 と、良人が口を入れて、「僕たち婚約中にね、二人が結婚したら、僕が春子に英語を教えて上げようと約束したのですよ。それでこの頃少しずつやつてるんですがね、散文はともかくとして詩となると僕にはちんぷんかんぷんなのですね。これア駄目だつてわけで、目下授業を中止してるんだけれど、君がやつてくれれば鬼に金棒だ。僕も弟子入りするからやつてくれませんか。」

「いや、講義なんてことは駄目だけれども、ともかくこれから一緒に讀みましようよ。僕も自分ひとりでわざわざロングフェローを讀む氣にはなれないけれども、あなたがたと一緒ならばとても樂しく讀めそうな氣がするから。」

「そのついでに、これの短歌も少し直してやつてくれませんか。」

「短歌は僕、全然やつてないんだけれど、そうですね、そいつも僕勉強のつもりでやりましよう。」

「お願いいたしますわ。」

 と私も、はずむ思いで賴むのであつた。

 それからは、毎週いちにち、日をきめて芥川さんが來てくれることになつたが、勉強の約束はあまり實行されなかつた。夕食のあとの雜談で一夜をすごすことが多かつた。それでも短歌だけはときどき私の作つたのを見て貰つた上、芥川さんのを示されることもあつた。

「奧さんは、土曜の晩には白粉をつけていられるそうですね。」

 と冷やかすように言つて、

  秋立つや白粉うすし虢夫人

  白粉の水捨てしよりの芙蓉なる

              龍之介

     追加

  妻振りや襟白粉も夜は寒き

 と書いて下さつたのもそうした一夜であつた。

 これもその頃の一夜だつた。その日良人は出張のために不在だつたが、良人が、

「僕がいなくても例會はやつた方が好いよ」

 と言うので、芥川さんに來て貰つた。でも、その晩はお酒も出さず、二人で鮨を食べただけで、私の作り貯めていた歌を見て貰うことにした。歌は四十首もあつたであろうか、芥川さんはすつかり讀んでから、

「この中では僕、これが好きだな。」

 と言つて、

 針持ちて物縫ふ折の安らけさ靜けさに只いのち死なまし

 の一首をあげ、

「この心境は奧さんらしくつてすばらしいですよ。僕もときどきこんな心境を經驗することはあるんだけど、奧さんのように身についたものじやアない氣がするんです。奧さんは好いなア。」

 と、たいへん感心した樣子である。

「こんな氣持がそんなに珍しいのでしようか。」

「いや誰でもときどき經驗する氣持ではあるけれども、それが身についているかいないかが大問題なのです。奧さんなぞは……」

 言いかけてから、

「僕はもう奧さんの歌の添例などはよしますよ。奧さんなぞは、どう歌い出してもすばらしい歌の出來る人なんです。それよりもですね。」

 と、彼はしばらく考えこんでいてから、

「これは奧さん、全く假定の話ですけれども、もしもですよ、もしも妻子ある男が處女に戀するとか、あるいは靑年の身でよその夫人に戀するとか、そういうことになつた場合、われわれは一體どうしたら好いのでしよう。僕はそれを一度奧さんに聞いて見たいと思つていたのですが。」

 突然の質問に、私ははッと思つた。假定の上に立つた話ではあるけれども、ひどくわれわれの身に近い、危險な問題だと感じたのである。で、私はしばらく默つていてから、

「そんなむつかしい問題は私にはよく判りませんわ。それこそはあなたの專門の問題じやアございませんか?」

「僕たちの專門だから、專門でない奧さんの意見が聞きたいのです。文筆者の意見は、こういう場合、大抵きまつてますからね。」

「それはやはり、あきらめるしかないのじやアございませんか知ら。」

 私はそう答えるしかなかつた。

「なるほど、奧さんだつたらあきらめられるでしようね。しかしもし、あきらめられなかつたら、――それほどに深く戀してるのだつたら、――義理も名聲も生命も賭けるというような戀だつたら――それでも奧さんはあきらめろとおつしやるんですか。」

「はい」

 と、私はだんだん勇氣のようなものを感じて來て、「それは人にもよりましようけれども、もしもそれが芥川さん御自身の問題でしたら、あきらめて下さいと申し上げますわ。だつて、芥川さんの名譽やお生命(いのち)と懸け替えになるような女が、この世の中にいるとは思えませんもの。」

「そうですか。あきらめるんですか。」

 彼は自分に言い含めるように言つて、しばらく沈痛に默つていたが、

「いや、どうも、有難うございました。」

 と、立ち上りそうにした、私は何だか、このまま彼を歸らせては大變なことになるような氣がした。で、

「あら。まだお早いじやアありませんか。」

 と、彼を引きとめにかかつた。

「でも、變なことを言つて、奧さんを不愉快にしたような氣がしますから。」

「だつて、今夜のは、或る假定の上に立つて、私の意見をお聞きになつただけじやアありませんか。」

「そう。そうですね。」

 と、彼は漸く弱い笑いを頰のあたりに浮べて、「しかし、誤解を招くといけませんから、今夜のお話は二人の間に全くなかつたことにして、永久に抹殺して下さいませんか。」

「え、もちろん、こんなこと、誰にも話せることではございませんわ。」

 彼は再び腰をおろしたが、もうあまり話しこみもせず、間もなく悄然と歸つて行つた。その淋しそうな後姿を玄關に見送り、戸じまりをして、ただひとり自分の座に坐つたとき、でも、私の心は妖しく亂れていた。何かの危難をまぬかれたような安堵の思いとともに、何か貴重なものを取りにがしたような、妙にあとを引かれる氣持だつた。

 もちろん私は、その夜のことについては誰にも――良人にも、全く何も話さなかつた。

 こうしているうちに、私たち結婚後の二度目の夏が近づいて來た。はじめ私たちは、その夏を郷里の涼しい溫泉で過ごそうなどと言つていたのであるが、或る日芥川さんから、東大文學部の公開講演會のことを聞かされてにわかにそれに出席したくなり、良人も賛成してくれたので、芥川さんにその手續きをたのんだ。しかし開講の日に間のない頃、ふだん健康な私には珍しく、劇しい眩暈に惱まされる日が續いた。良人にすすめられて醫者に診て貰うと、

「なに、大丈夫です。おめでたでございます。」

 と言われた。そのために私は、折角の講演會の出席も取りやめて、橫須賀の家で寢たり起きたりの日々を送らねばならなかつたが、或る日、芥川さんから來た長い長い封書は、どんなに私の病床を慰めてくれたか知れなかつた。彼はその手紙で、講演會の樣子をこまごまと知らせてくれたのであつた。そして、この會には某々の名流夫人だの、中條百合子だのが出席していると書いたあとで、自分がこんなことを書くのもただ奧さんの向學心を嬉しく思うからですなどと書いてあつた。

 私は何度も繰返して讀んだあとで、こちらからも長い長い手紙を書いた。すると、彼からもまた長い手紙が來た。その中には「この頃やたらに癇癪が起きて家の者を困らせていたが、今日やつとその原因が、親知らず齒の養生にあることが判つた」などと書いてあつた。

 私たちは何度か長い手紙をやり取りした。かくべつの用件があるわけではなく、ただ日常の境瑣末なことを知らせ合うに過ぎなかつたけれども、私はどんなにその手紙を待つたことだろう。一日に二度も三度も門わきのポストに手を入れて見て、苦笑しながら、戀人の氣持つてこんなものなのか知らと思つたりした。

 その夏もやや終りに近い頃、良人と二人で鎌倉に行つた日のことも忘れられない。私たちは芥川さんを誘つて建長寺の方へ散步した。お寺の裏山に登ると、廣い靑い海が一眸のうちに見渡されて、右手にくつきりと富士の姿が浮んでいた。

「ここの富士は、僕、わりに好きなんです。變になまめかしくつてロマンチックじやありませんか。」

「そうかなア。文學者にはそう見えるのですかねえ。」

 と、良人が感心したように言う。

「でも私は、郷里の信州から見る富士が好きですわ。」

 と、オレンジ色の大氣の中に浮ぶ紫紺色の姿を私が説明すると、

「奧さんはお國自慢だなア」

 と芥川さんは笑つて、「しかし、田舍に郷里を持つてる人は羨ましいですよ。僕だつて壯大な山々にかこまれた自然の中に生れて、荒つぽく育つていれば、もつと線の太いどつしりした、人間になれたかも知れませんからね。」

「いや、しかし、龍ちやんが田舍に行けば退屈するばかりだよ。」

 良人はそう言つて、彼が學生の頃、大いに勉強するつもりで田舍に行つたけれども、淋しすぎて何も出來なかつたことを話し始めるのであつた。

 やがて私たちは山を降りて、八幡宮の方へ歩きだした。小袋坂まで來ると、向うから一匹の大きな黒い牛が、小山の樣な荷を積んだ鼻を引いて上つて來るのに行き遇つた。芥川さんは立ちどまつて、じつと見送つてから、

「僕はいつも、あの牛が鼻の間に鐡の輪を通されているのを見ると、とても悲慘で見ていられない氣がするんですが、考えれば人間だつて、みんな、鼻のさきに鐡の輪をはめられてるようなものですね。人間はそれを意識するだけに悲慘の度は強いとも言えますね。」

「しかし、牛に生れるよりも人間に生れた方が好いですよ。」

 無雜作に言う良人の聲をうしろに聞きながら、私は、單純で幸福な良人と複雜で傷つき易い芥川さんとを、何という遙かな違いであろうと、心にしみて考えるのであつた。

 しかし八幡宮の境内にはいると、芥川さんはまた快活な饒舌家になつていた。若宮堂の前まで來ると、

「おお、靜(しずか)、靜! 偉大なる情熱を包んだ貞節よ! けなげなる意志よ!」

 と劇詩でも朗誦するように叫んだり、石段わきの大銀杏のそばに立つと、別當公曉が金塊集の作者を刺すときの光景を、自分で見ていたように生き生きと描いて聞かせたりした。

 私たちはそれから由井ケ濱の方へ行つた。もう土用波の高い季節ではあつたけれども、それでも海邊は半裸の男女に埋まつていた。

「今日は奧さん、僕の妙技を御覽に入れましようか。」

 彼はそう言つてから、着物をぬいで、水の中に走りこんで行つた。少年の頃、隅田川の水練學校で鍛えたという彼は、なるほど水泳は達者なようだつた。速く沖の方まで泳ぎ出て、私たちの方へ兩手を振つて見せたり、長い間水の中にもぐつて私たちをひやひやさせたり、背泳ぎをして兩足のさきを水の上に出して見せたりしてから、やつと長い髮を搔上げながら私たちのそばに歸つて來た。

「なるほどあれなら妙技のうちにはいるでしよう。」

 良人がすなおに褒めると、

「奧さん、どうです、信州の選手權は取れませんかね。」

 と、彼は樂しそうに笑つた。

 その日、私たちは、彼の下宿している離れ座敷に寄つて日の暮れるの待ち、一緒に海濱ホテルに行つて晩餐をしたためた。日暮れを待つ間にも彼は机によつて立ちどころに今日の所見を十數句の俳句に作つて、私に書いてくれた。

「今日はとてもお元氣ですわね。」

「すばらしい日です。とても調子が好いです。」

 そしてその快活で健康そうな調子は、ホテルで食事をしている間も失われなかつた。その賑やかな食事の間に、良人と芥川さんとは洋行の話をはじめた。芥川さんが西洋よりもさしむき支那へ行きたいと言うのに對して、良人はしきりにドイツへ行きたいと言つた。

「僕が洋行したら、龍ちやんに何をお土産に持つて來るかな。」

 良人が少し醉つて來た調子で言うと、

「そうだな。あまり高いものを言つたのでは約束流れになるから、まア、ステッキとでも言つて置くかな、そうだ、スネークウッドのステッキを買つて來て下さい。」

「ステッキね。好いでしよう。二人お揃いのステッキを買つて來ましよう。」

「當てにしないで待つてますよ。」

「いや、それくらいのものならば大いに當てにして貰つて好いですよ。」

 三人は樂しそうに笑つた。そして、その夜ふけてから、私たちは疲れて橫須賀に歸つた。

 この一日の健康な新鮮な記憶は、その後ずいぶん久しく私の胸から離れなかつた。新學期に入つてしばらくすると、私は出産に備えて女學校の方をよすことにしたが、そうした日日、家にこもつて針仕事などしているとき、いつとはなく胸に浮んで來るのはあの日の芥川さんの靑年らしい姿であり、含蓄に富んだ彼の言葉のはしばしであつた。私はいつか針の手を止め、茫然と灰色の壁を見つめながら、あの幾らか薄い、でも引きしまつた唇や、長い睫の奧に輝く漆黑な瞳や、ときに惱ましげに、ときに剛情ッぱりに見えるあの尖つた頤を思い描いており、はッと氣づいて再び針を動かし出すのであつた。

 私は、自分が芥川さんを好きで好きでたまらないのだということを、今ではみとめないでいられなかつた。私は、自分がもしもつと激情家に生れついていたならば、いつかのあの告白を聞いたときに、彼の腕に身を投げかけていたに違いないと思つた。いや、あの告白をあの時でなく、いま、今日この頃聞いたとしたらどうだろう。あんなに冷たく靜かにしていられただろうか?――考えながら全身で悶えている自分に氣づくことがしばしばであつた。そのくせ、夕方になつて良人が歸つて來ると、晝の間の妄想なぞけろりと落ち去つて、これまた好きで好きでたまらない良人のために、いそいそと夕餉を供する自分になるのも事實であつた。

(私つて娼婦のようなところのある、いけない女なのか知ら。)

 私はときどきそんなことを考えることがあつた。が、それにはすぐ一つの答案が出て來た。

(だつて、良人だつて芥川さんを好きで好きでたまらないのだもの。良人が好きなものを、私が好きになつてはならないという理由があるか知ら。不貞つて屹度こんなものではないわ。)

 こんな思いを毎日のように胸の中に繰りひろげて、水の中に漂(ただよ)うような日々を送つているうちに、思いがけなく、一つの救いが來た。その年の暮れに近づいた或る日、芥川さんが訪ねて來て、

「僕いよいよ結婚することにきめましたから。」

 と告げたからである。結婚の相手はやはり以前から噂のあつた海軍大佐のお孃さんであつた。

「まア、それはよろしゆうございました。心からお喜び申しますわ。」

 私は私自身の内心の窮地からのがれた氣がして、良人とともにお祝いを述べた。

「結婚したら、奧さんの歌の仲間にでも入れて、いろいろのことを仕込んでやつて下さい。」

 芥川さんはそんなことを言つて、嬉しそうに歸つて行つた。そして、年が明けると間もなく、東京で結婚式をあげた。

 新婚の芥川夫婦が私の家に挨拶に來られたとき、私はちようど男の子を生んだあとの産褥についていて親しく會うことが出來なかつた。接待に出た郷里の母が、あんな立派な御夫婦は信州なぞではとても見られないなどと、枕もとに來て話すのを、私は晴れ晴れとした思いで聞いた。これで私は母というものになつたし、芥川さんもやつと一家の主人になれたのだ。――そう思うと美しい苦しい芝居の一幕が終つたような殘り惜しさとともに、しみじみとした落ちつきが感じられるのであつた。

 芥川夫婦は鎌倉大町の或る別莊の離れ屋を借りて、そこで新婚生活を始めた。相變らず良人は毎日のように學校で芥川さんに會つていたけれども、私ほ殆んど會わないで過ごした。馴れない赤ん坊の養育にかかり切つている私は、以前のように氣輕にお招きすることも出來なくなつたし、訪ねることも出來なくなつた。それでも一二度、赤ん坊を連れて、良人と一緒に新居を訪れ、新夫人のもてなしを受けたこともあつたが、むずかる赤ん坊に心を奪われてゆつくり話すことも出來ず、心なくも良人を追い立てるようにして歸つて來るのが落ちだつた。そしてたしか翌年の春、機關學校の教官を辭した芥川さんが、いよいよ東京に引き上げるというときにも、私はとうとう見送りにさえ行けない始末であつた。

 しかし東京に移られた後にも、私たちの間の文通は續いていた。短いけれども旅さきからの絵葉書が來たり、新しい著書を送つて來たりした。

  橫顏賀には善友が揃つていましたけれど

  も東京には惡友が顏を揃えています。僕

  が御不沙汰がちなのは專らそれら惡友の

  ためだと思し召し下さい。

などと、葉書に書いてあることもあつた。そのうちに、たしか大正九年の春だつたと思うが、芥川さんに長男が生れたという噂を、良人が學校から聞いて來た。私たちは早速お祝いの品を贈つて、心からの祝意を表した。それに對して奧さんから懇篤な禮狀がとどいたけれども、それを最後に彼からは全く手紙が來なくなつた。むろん私たちからは、それから數囘、近狀を知りたいという手紙を出したが、彼からは遂に一片の葉書さえ來なくなつてしまつた。

「芥川さんは一體どうなすつたのでしようねえ。あんなにたびたび面白いお手紙を下すつたのに。」

 私と良人とはときどきそう話し合つた。

「きつと仕事が忙がしいんだよ。あの頃と違つて、今では天下の芥川だからね。」

 良人はいつもそう答えて、彼の名聲のいよいよ高まるのを喜ぶ風であつた。

「いくらお忙しいと言つたつて、お葉書くらい下さつてもよさそうなものだわ。」

 私が不滿をおさえかねているような頃の或る日、書店からとどけて來たS畫報を見ているうちに、偶然、芥川さんの短い文章に目を吸いつけられた。それ談話筆記ででもあるらしい文章で、表題は「僕の最も好きな女性」というのである。「僕はしんみりとして天眞爛漫な女性が好きだ」という書き出しで、

  私はかつて或る海岸の小さな町に住ん

 でいたことがありました。そう教養の高

 いというのでもなく、またそう美人とい

 うでもない一婦人と知り合いになつたこ

 とがありますが、この婦人と相對して坐

 つていると恰も滾々として盡きない愛の

 泉に浸つているような氣がして恍惚とな

 つて來ます。私はいつか全身に魅力を感

 じて、忘れようとしても今なお忘れられ

 ません。こういう女性が居ければ多いほ

 ど世界は明るく進步して、男子の天分は

 いやが上にも伸ばされて行くでしよう。

と結んである。讀んでいるうちに私の胸はときめいて來た。「或る海岸の小さい町」というのは、芥川さんが橫須賀のことを書くときにいつも使う言葉である。芥川さんが橫須賀で知り合つた女と言えば、この自分しかない筈だが。………それでは芥川さんは、今でも自分をこんな風に考えていてくれるのであろうか。………

 われにもなく私は、雜誌の上にぽたぽたと淚をこぼしてしまつた。それが昨日までも、彼の理由不明の沈默を恨んでいるやさきであつただけに、彼の眞情を聞いた喜びは深かつた。

 私は良人にも語らないで、この雜話をしまい込んだ。每日とり出しては、くり返して讀んだ。そして、こんなにも好いていてくれたのだつたらと、あの頃のあのこと、このことを思い浮べて、淚をこぼしたり、あらぬ空想に渇いたりするのであつた。そして餘りにも思い亂れる自分を見出して恥ずかしくなつた或る日、私はとうとうこの雜誌を庭に持ち出して燒き棄ててしまつた。

 ところが、それからしばらく經つた或る夕方である。いつも樂しげな良人が、いつになく浮かない顏をしで學校から歸つて來た。

「どうなさいましたの?」

 と聞くと、

「困つたことになつた。」

 と、深い息をついて、「芥川君が僕のことを妙な風に書いてるんだよ。」

「妙な風につて?」

「つまり、僕のことを融通のきかない、のろまな、變人の代表的人物として書いてる――それだけのことなんだけどね、教官室ではみんなぷんぷん言つて怒つているし、教頭も芥川の奴けしからんというわけでね、何かの處置を取ると言つてるんだよ。」

 私の甘い夢はむざんに破られた氣がしたが、それでもまだその文章を自分で讀んで見なければ何とも言えない氣がした。

「その文章はどこにございますの。」

「買つて來たよ。」

 と言つて、良人はカバンから新刊のS雜誌を引き出して、私の前に投げ出した。

 それは「Sさん」という彼の短い隨筆だつた。なるほど海軍機關學校教官のSさんとして明らかに良人だと判る人物が、いかに底ぬけの好人物で、愚直で、滑稽であるかを、彼一流の皮肉と機知と可笑しみのある筆で描いているのである。もちろん良人を極端に戲畫化しているものではあるが、モデルの問題を離れて一つの作品として見れば、必ずしも許せない文章ではない。私はそう思いながら讀み進んだのであるが、しかし最後に、

  この男が三十も過ぎてやつと婚約が出

  來、今や有頂天になつているのは笑止千

  萬である。果してこの男の妻にどんな賣

  れ殘りがやつて來ることだろう。

 といふ意味の文章にまで讀み進むと、私は思わずかあッとなつてしまつた。(私がここに原文のままを出し得ないのは、不愉快のために、その雜誌をすぐに燒き棄ててしまつたからである。)私は何という野卑な下等な文章だろうと思つた。良人ひとりが侮辱されるのは好いとしても、これでは人類全體が侮辱されているではないか。しかもこれが、一年前まではあれほどにもおたがいに尊敬し信賴し合つた筈の芥川さんの文章であろうとは!

 私は見る見るうちに、頭の血がさあッと音を立てて引いて行くのを感じた。續いてくらくらッと、はげしい目まいが襲つて來るのを感じた。私は抵抗もなく、前のめりに倒れてしまつた。烈しい急激な腦貧血が私の意識を失わせたのであつた。……

 二三日の靜養の後に、私は漸く良人と落ちついて話し合えるほどの靜かさを取りもどした。私たちは終日、芥川さんがどうしてこんな文章を書いたのかについて話し合つた。良人は相變らず寛大であつた。

「いや、ああ書かれて見れば、僕という男はああ言う男なのだろうよ。少なくとも芥川君にはそう見えるんだから仕方がないよ。僕自身だつてあれを讀みながら、なるほどねと思つて笑い出したくらいだもの。」

「でも、あの最後の文章は失禮じやアありませんか。」

「いや、あれはああ書かなければ筆の收まりがつかなかつたのだよ。芥川君は小説家だからね。」

「いくら小説家だつて、あんな惡意のある文章を書くことは許せないと思いますわ。」

「うむ。まア、それよりも僕は、あの文章を讀みながら、芥川君が神經衰弱になつてるという氣が強くしたのだがね。」

「神經衰弱ででもなければ、あんなものは書けませんわね。」

「もしそうだとすると、氣の毒だね。僕はどうも、芥川君と奧さんとの間が、うまく行つていないのじアないかと思うんだ。そしてそれには君というものがいて、かつて芥川君の心醉を買つたということも一部の原因をなしているのではないかと、この頃ちよつと考えたのだがね。」

「では、芥川さんの奧さんが私に嫉妬してらつしやるつてわけ?」

「さア、嫉妬と言えるほどはつきりしたものではないかも知れないけれども、結婚前の良人の女友達なんてものは、いずれにしても細君にとつては面白くないものじやアないのかね。」

 芥川さんには鈍物の代表にされる良人が、存外に女の心理の機微を知つているのに、私は妙に皮肉な微笑を感じた。

「でも、それならば、私の惡口でもお書きになれば好いのに、あなたの惡口をお書きになるなんて、全然意味ないじやアありませんか。」

「うむ、まア、今度のことの解釋にはならないがね。」

 幾ら話し合つて見ても、結局、これという理由は、私たちには摑めなかつたけれども、こうした良人の寛容な解釋に影響されたのか、私の怒りもいつか靜まつて行つた。ただ、これほどにも芥川さんを信じ愛している良人に、たとえ文筆上の必要にもせよ、こんな煮え湯を飮ませる芥川さんに對する恨めしさ、殘念さまでも消し去るには、まだその後の長い月日が必要であつた。

「今日學校芥川君に會つたよ。」

 良人がそう言つたのは、それから一カ月ばかりの後のことである。「學校から何か交渉したと見えてね、今日わざわざ謝罪に來たのだよ。」

「あなたにも謝罪なすつた?」

「うむ。ちよつと筆が辷つて、失禮したと言つたよ。」

「それであなたは?」

「僕はちつとも氣にかけていないから安心しろと言つたよ。そして、春子も會いたがつているから歸りに僕の家に寄らないかと言つて誘つたのだがね、今夜は東京で會合があるからとか言つて、歸つて行つたよ。君によろしくつて言つてたよ。」

「そう。」

「しかし、可哀そうだつたね。あの神經質で剛情ッ張りの芥川君が、教官たちの前で頭をさげたのだからね。僕が代つて謝罪してやりたいような氣がしたよ。」

「そうね。お可哀そうと言えばお可哀そうね。」

 と、私も彼の憂欝そうな目の色を思い描いた。

「だから僕たちも、今度のことについてはもう永久に忘れようじやアないか。芥川君も僕たちも、ちよいとした怪我をしただけのことなんだから。」

「そうですわね。私ももう何もなかつたことにして忘れますわ。」

 そう言いながら、良人も私も、いつか淚ぐんでいた。

 

 それから三四年の後、良人は多年の念願がかなつてヨーロッパに留學した。ドイツを中心にして、パリ、ロンドンを𢌞つて、二年の後に歸つて來た良人は、血色こそ少しよくなつていたけれども、以前に變らない村夫子のような風貌を殘していた。そのとき私はもう二人の子供の母親になつていたが、久しぶりの良人を家に迎えた喜びは、新婚時代とはまた違つたなごやかさだつた。私は、書物のほかにはあまり多くもなさそうな土産物の荷物を、子供のような期待で開いて行つた。すると、一つの大きいトランクの底から、細長い紙包みが出て來た。あけて見ると、何の飾りもない、平凡な二本のステッキである。銀座にでも出れば、これよりも上等なのが幾らでもありそうなステッキなのである。

「これもあちらでお買いになつたの?」

 判りきつたことだけれども、私は聞かないでいられなかつた。

「ロンドンだよ。それでもスネークウッドだからね。」

「同じものを二本もお買いになつたのね。」

「以前の約束を思い出してね。一本は芥川君に上げようと思つて。」

 私ははッとした思いで良人の顏を見てから、

「だつて芥川さんは……あちらにお手紙でも下さいましたの?」

「いや、手紙も何もくれないけれどもね。……僕は屹度、芥川君が、嬉んでこれを受けてくれる日があると思つてるのだよ。僕たちの一生は、これからまだ長いからね。」

 かくべつ感傷的でもなく、あたりまえのことのように言う良人であつたが、私はにわかにその座にいたたまれなくなつた。淚がこみ上げて來たのである。私は自分の淚線をさますためにしばらく月光に明るい緣がわあに立つていいたが、滿月に近い月を仰ぐと、思わず、

「芥川さんの意地惡!」

 と、小さく呼びかけないでいられなかつた。

 その翌年の春、私たちは轉住して、日本海沿いの或る港町に移つて行つた。なじみのない土地の樣子もだんだん判つて來、良人の新しい同僚との交遊も始まつて、私たちの新しい生活も漸く軌道に乘つたと感じられて來た頃の或る朝、私は配達された大阪の新聞によつて、芥川さんの死を知つた。芥川龍之介氏劇藥自殺を遂ぐとあるではないか。私は良人の寢室に飛びこんで行つて、彼を搖り起した。はじめ良人は、ちよつと信じないようであつたが、起き直つて新聞を讀んでは事實を認めないでいられないという風であつた。

 私たちはしばらく新聞を前に置いて茫然としていた。何も考えられなかつた。あらゆる思考、あらゆる感情を通りこして、ただ、嚴然たる事實に打ちのめされている自分たちがいるのを感じるだけだつた。

「やつぱり龍ちやんは神經衰弱だつたのだね。」

 やがて、一時間ばかりもたつてから、良人ははじめてそう言つた。

「そうね、みんな御病氣のせいだつたのね。」

 と、私も新聞に載つている彼の暗い肖像寫眞を見つめながら言つた。

「龍ちやんには嫌われても、僕たちは龍ちやんのそばから離れるんじやアなかつたよ。」

 良人はそう言つてから、靜かに泣きだした。一生にただ一度私に見せた良人の淚であつた。

 しかしその良人も、それから十二年の後に、まだ老いもしないのに世を去つた。そしてあとには、二人の子供の教育の義務を背負つた私が取り殘された。私は再び教壇に立たねばならなかつた。そのうちに戰爭が身近にせまつて來た。私は戰火と飢餓とに追われるままに日本海岸、信州、大平洋岸と、この國の脊梁山脈をこえて轉々としなければならなかつた。そしてやつと平和の日が來て、思い出の多いこの「海岸の小さな町」の古巣に舞い戾つて來たときには、以前の持ち物の殆んどすべてを失つていた。だが、そうした乏しい持ち物の中に、或る日、偶然に、あの二本のステッキを見出したときの驚きと喜びとは、私のほかには判らないであろう。私は塵を拂つて眺め入つた。一本はもう良人の手垢に油じんでいるけれども、一本はまだしらじらとした新しさを保つている。永久に歸つて來ない持ち主の手を待つかのように……。

 私はその日から、このノートを書きはじめた。

[やぶちゃん注:最終行の末には二字上げ下インデント(本篇初出は三段組み二十一字詰の組版)で『(了)』とある。]

2017/02/14

小穴隆一「鯨のお詣り」(40)「河郎之舍」(3)「河童の宿」

 

         河童の宿

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「河童の宿」の原型であるが、殆ど違ったものに書き変えられている。こちらではそもそもが二点の挿絵(一点は次の「游心帳」パートに挿入)自体の絵解きが実は全くなされていないのは驚きである(次の「游心帳」の芥川龍之介の描いた河童を蹴飛ばす馬の絵の下に『久米さんの河童の繪』とはあるが、それでは二枚の絵を前に、当時の読者が甚だ戸惑ったであろうことは想像に難くない)。久米三汀正雄の馬の尾に河童がぶら下がった絵に芥川龍之介が「提燈のやうな鬼灯岸に生へ」という句を添えた戯画(「三汀」の落款は芥川龍之介が筆跡を真似て書いたもの。リンク先を参照のこと)は「二つの繪」よりも大判なので新たに底本のものをスキャンし、現在、最も信頼の於ける二玄社版の「芥川龍之介の書画」(この本は総てが非常に鮮明なカラー画像なのであるが、著作権機構に申し出されてある特殊著作権出版物で無断複写が禁じられているため、お示しすることは出来ない)のそれと照合して、汚損と断じられる部分を清拭して示した。]

 

Burasagarukappa

 

 我鬼先生時代の芥川さんの繪といふものは、同じ妖怪を畫(ゑが)いてゐても妖怪にどことなく愛敬(あいけう)があつたものであるが、私先日佐佐木さんの新居で佐佐木さんの所藏する芥川さんの河童の繪の額を再びみて、河童も晩年には草書となるかの感を抱いたのである河童も晩年には草書となるかだけでは、おそらくは讀者の多數にその意を通ずる言葉にもならないであらうが、「捨兒」「鼠小僧次郎吉」等(とう)を書きあげてゐた着物の下に黑の毛糸のジヤケツトを着込んでゐた頃の漁樵問答(ぎよせうもんだう)に依る水虎(すゐこ)、芥川さんの河童も始めは二疋立(ひきだ)ちの繪であつて、「山鴫」の頃には、斧、釣竿を捨てて、蒲の穗を肩にした一疋立(ひきだ)ちの河郎(かはらう)となつてをりさらに「玄鶴山房」「河童」の頃に至つては、蒲の穗さへ捨ててゐる河童となつてしまつてゐるのであるが、その繪の筆意(ひつい)に、その河童の姿に、私にしてみれば、河童も晩年には草書となるかとの感があるのである。まことに、「松風に火だねたやすなひとりもの。」字でいふ楷書草書といつた意味ではなく、繪の河童も亦晩年には明らかに疲れてゐる。然るに、例へばここに挿入した一つ目の怪の繪の如き、これは私も芥川さんの死後にはじめて見たばけもの帖にあるのであるが、斯(か)ういつた最後の物に、明らかに筆も確かに堂々たるかたちを具へてゐるその間(あひだ)の差は、なかなかに物を思はする。

  松風に火だねたやすなひとりもの

  井戸端(ゐどばたに)に水引(みづひき)咲くや獨住(ひとりず)み

 しちりんの上置(うはお)きに釜がのつてゐる。釜の蓋の上には一きれの西瓜(すゐくわ)がのつてゐる。さうして、西瓜の迂遠に一筆(ぴつ)、松風に火だねたやすなひとりもの、と書いたのがある。これが私の今日、私にとつての芥川龍之介を記念してゐるたつた一つの茶かけである。

[やぶちゃん注:「井戸端に水引咲くや獨住み」この句、「二つの繪」版ではカットされている。一見、芥川龍之介の新発見句か! と、ドキッとしたが、後段で、小澤碧堂の句であることが記されてある。もっ! 人騒がせなんだから! 小穴ちゃん!!]

 芥川龍之介全集の見返しに使つた北斗七星の繪の上に

  霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉

 と、ある、あれを私の座蒲團の下にそうつとつつこんできたあれは鵠沼であつた。緣側の上にぢかにしちりんの上置きを置いて釜をのせ、釜の上には芥川さんのところからお裾分にあづかつた、一きれの西瓜を置いて、私はそれを半紙に寫してゐた。そこに背中合はせに住んで暮してゐた芥川さんが、そうつと這入(はい)つてきてそれを見るなり、

「僕にも一寸塗らせておくれよ、」と言つて、クレイヨンでその西瓜を塗付(ぬりつ)けてから、筆(ふで)をとつて、松風に火だねたやすなひとりもの、と書添へたこれも鵠沼である。相笑つて共になした西瓜圖にある芥川さんのこの句は、「生きてしまつた人々」のやうな今日の私にも、をりをりは颯々(さつさつ)たる松風を送つてきてくれてゐるのである。井戸端に水引咲くや獨住み、これは獨住みの鵠沼のその私の家にいく日か泊つてゐて、いく日かの獨酌の日の後(のち)に、歸つて行つた碧童さんが書捨(かきす)てておいた句の一つである。

 私は芥川さんの書いた「秋山圖」の如き秋山圖を見たことは、曾つて一度も無い。又、芥川さんの畫(か)いた河童の如き河童も見たことは一向にないのである。私はまだ一度も見たことはないが、元來河童といふ物は、私共のこの地上に棲息する物であらうか。「君、つらつら考へてみるとたつた四人の客では、風呂の釜も毀(こは)れるのがあたりまへだよ。君。」あゝ後(のち)に我鬼先生が言つてゐた布佐行(ふさゆき)、そもそも書く會をやらばやの私共、私達は何故にあの時伊豆箱根の説を退けて布佐行を擇んでゐたのか、當時牛久沼(うしくぬま)のほとりには小川芋錢(うせん)さんがゐた。芋錢さんは人も知る河童の繪の名題(なだい)の妙手であつた。いまにして思へば、淸兵衞(せいべゑ)賛を加へて私共は、河童に會(あは)せに芋錢さんが住む土地のはうに、あの寒空(さむぞら)のなかをああも我鬼先生を引きずつてしまつた。いまもなほ芥川さんの家(いへ)に、長い卷物となつて殘つてゐるであらう當時の物のなかに、私共が泊つたその土地、その旅籠屋(はたごや)の名が書きとどめられてでもゐるはずであらうか。繪か小説とかの場合では一般にモデルがそれ以下であつて、それをみる人達に氣の毒で情けない事であるが、芥川さんの「魚河岸(うをがし)」の連中の私共が我孫子(あびこ)で汽車を降りてから布佐の辨天を振出(ふりだ)しに、まだ靑い物のない景色にもひるまず、川の流れに沿つてただ步きに步き、日暮(ひく)れて行きつくところで泊つた旅籠屋、あゝいふのが河童の宿(やど)とは思へるのである。ことによると、大の男が四人もそろつて冬の利根川べりを、何(なに)なすとなく、何(なに)話すとなく、終日(しうじつ)さうしてそのまた翌日も步いてゐたといふことは、全くもつて利根の河童に化かされた仕事かも知れない。河童の宿の人は、釜が毀れてゐるからすまないが錢湯(せんたう)に行つてくれと湯札(ゆふだ)をだしてきて呉れた。旅籠賃(はたごちん)があまりに安いので、それ相當に、四人で壹圓の茶代を出したら、手拭(てぬぐひ)のかはりに敷島を四個お盆の上にのせてきた。――もつとも私のいふ河童の宿、私は河童の宿としてこれを書いたが、河童の宿の人は、朝になつて、人間の寢るその恰好には、それ相應の恰好といふものがあるだらうに、丁度昔のロシヤの旗のやうに蒲團を敷きなほして寢てゐた。私共はほの暗い電燈の下(した)を中心にして臥(ふ)せりながら、顏をつき合せて卷紙に歌や句を書き、繪を畫(か)くために敷かれた蒲團の位置をなほしただけのことであつたが、ともかくさういふ形に寢てはゐた四人の者を反(かへ)つて利根の河童とみたかも知れないのである。

[やぶちゃん注:『芥川さんの「魚河岸(うをがし)」の連中の私共』芥川龍之介にとって、ここに出る親しい友人らは、作品の材料とするものを仕入れる「魚河岸」のような存在であったと小穴隆一は謂いたいのだろうか。一応、暫くはそのように採っておく。]

柴田宵曲 妖異博物館 「果心居士」

 

  

 

 果心居士 

 

 西鶴は「織留」の中に「左慈道人、我朝の果心居士」と對(つゐ)にして書いた。この方面から和漢の代表者を選ぶとすれば、先づ兩人を首に推さなければならぬ。他はよほど有名な人物でも、この兩人の前に持つて來ると小さく見える。

[やぶちゃん注:「果心居士」(くわしんこじ(かしんこじ) 生没年不詳)は室町末期の話柄に登場する伝説の幻術師。ウィキの「果心居士」によれば、『七宝行者とも呼ばれる。織田信長、豊臣秀吉、明智光秀、松永久秀らの前で幻術を披露したと記録されているが、実在を疑問視する向きもある』。筑後の生まれともされ、『大和の興福寺に僧籍を置きながら、外法による幻術に長じたために興福寺を破門されたという。その後、織田信長の家臣を志す思惑があったらしく、信長の前で幻術を披露して信長から絶賛されたが、仕官は許されなかったと言われている。居士の操る幻術は、見る者を例外なく惑わせるほどだったという』。『また、江戸時代の柏崎永以の随筆』「古老茶話」によると、慶長一七(一六一二)年七月、『因心居士』(彼の別名ともされるもの)『というものが駿府で徳川家康の御前に出たという。家康は既知の相手で、「いくつになるぞ」と尋ねたところ、居士は』八十八歳と答えたとする。また天正一二(一五八四)年六月に『その存在を危険視した豊臣秀吉に殺害されたという説もある』とするが、『果心居士に関する資料の多くは江戸時代に書かれたものであり、これらの逸話は事実とは考えられないが、奇術の原理で説明できるものとして「果心居士=奇術師」という説もある』とある(幾つかのエピソードは本文に出るものと重複するので大幅にカットした)。柴田宵曲の勘所を押さえた訳で居士を楽しみたくば、リンク先は見ぬがよろしかろう。

「織留」作者名を冠して「西鶴織留(さいかくおりどめ)」と呼ばれる、浮世草子。六巻五冊。元禄七(一六九四)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションなどで視認は出来るが、私は読んだことがなく、どこにあるのか指示することが出来ない。悪しからず。

「左慈道人」「さじだうじん」(生没年未詳)は後漢末期の方士で、字は元放、揚州廬江郡(現在の安徽省合肥市廬江県)の人。ウィキの「左慈」によれば、正史では『後漢書』第八十二巻「方術列傳下」に伝記があり、そのほかにも「捜神記」「神仙伝」や「三国志演義」などにも出る妖術使いのチャンピオンである。正史に於いては、『左慈はかつて司空』(ここは後の叙述から治水関連の長官か)『であった曹操の宴席に招かれ、曹操がふと「江東の松江の鱸があればなあ」と呟いた時、水をはった銅盤に糸を垂らして鱸を釣り上げてみせた。曹操は手を打って大笑いし、さらに「巴蜀の生姜がないのが残念だ」とこぼして「使者に蜀の錦を買いに行かせたが、あと二反を買い足すように伝えておいてくれ」と言った。左慈はすぐに生姜を手にして帰ってきた。後日、使者は益州から帰ってきた時、左慈に会ったので錦を買い足したと証言した』。『曹操が従者百人程を連れて近くまで出かけた折り、左慈は酒一升と干し肉一斤を携えてそれを配った。従者たちは皆酩酊し、満腹した。曹操が不思議に思って調べさせると、酒蔵から酒と干し肉がすっかり無くなっているとの事。このため、曹操が腹を立てて左慈の逮捕を命じれば、左慈は壁の中に消えていった。また、市場でその姿を見たという者があったので追及させると、市場にいる人々が皆左慈と同じ姿であった』。『陽城山の山頂で左慈に会ったとの証言を得たので、逮捕に向かわせると、左慈は羊の群れに逃げこんだ。曹操が「殺すつもりはない。君の術を試したかっただけだ」と伝えさせたところ、一頭の雄羊が二本足で立ち上がって人間の言葉で返事をした。皆で一斉に飛びかかると、数百頭の羊が皆立ち上がって人間の言葉を話したので、捕まえる事ができなかった』とある。「三国志演義」での彼はリンク先を参照されたい。

「首」「かしら」と訓じておく。]

 

 果心居士の話は「義殘後覺」に書いてあるのが古いらしい。伏見に勸進能があつた時、果心居士も見に來たが、已に場內一杯の人で入る餘地がない。これはこの人達を驚かして入るより外はないと考へた居士は、諸人のうしろに立つて自分の頤をひねりはじめた。居士の顏は飴細工の如く、見る見るうちに大きくなつたから、傍にゐる人はびつくりして、これは不思議だ、この人の顏は今までは人間竝だつたが、あんなに細長くなつてしまつたと、皆立ちかゝつて見る。遂に居士の顏は二尺ぐらゐになつた。世にいふ外法頭(げはうかしら)といふのはこれだらう、後の世の語り草に是非見て置かなければならぬと、誰れ彼れなしに居士の顏を見物に來る。能の役者まで樂屋を出て見に來るに至つたので、居士は忽ちその姿を消し、人々茫然としてゐる間に座席を占め、十分に能を見物することが出來た。

[やぶちゃん注:「頤」「おとがひ(おとがい)」。下顎(したあご)。

「外法頭」「げはうあたま」とも読み、原義は、人間の頭蓋骨を用いて行われた外法(げほう:妖術)に用いる髑髏(どくろ)であるが、ここは普通と異なる、福禄寿のような、上部が大きくて下が小さな異形畸形の頭、或いは、そのように伸縮する妖しい頭を指す。

 以上と以下は、「義殘後覺」の「卷四」の「二 果進居士の事」(これも彼の別名とする)である。岩波文庫刊の高田衛編「江戸怪談集(上)」に載るものを参考底本としつつ、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからの画像で校合して、恣意的に正字化して以下に示す。直接話法形式の部分は改行して読み易くした。読点も増やした。文中の「日能大夫」は不詳なれば、読みも不詳。

   *

 中比(なかごろ)、果進居士といふ術法を行なふ者ありけり。上方へとこころざして、筑紫よりのぼりけるが、日をへて伏見に來たりぬ。をりふし日能大夫、勸進能をしけるが、見物の貴賤、芝居の內外に充滿せり。果進居士も見物せばやと思ひて、內へいりて見けるに、なかなか上下の見物人は尺地も(せきち)すかさず立込みたり。

 果進居士まぢかくよつて見るべき所もなければ、爰はひとつ芝居をさはがせて後、入らんと思ひて、諸人のうしろに立ちて、頤(おとがひ)をそろりそろりとひねりければ、みるうちに顏のなり、大きになるほどに、人々、是をみて、

「ここなる人の顏は不思議なる事かな。いままでは何事もなかりしが、みるうちに細長くなる事のふしぎさよ。」

と、恐しくもをかしくも、これを立ちかかりて見るほどに、果進居士は少し傍(かたはら)へ退ぞきけるが、芝居中は上下もちかへして、入れかはり立ちかはり見るほどに、のちには、顏二尺ばかり長くなりてければ、人々、

「外法頭(げはうかしら)と云ふものはこれなるべし。是を見ぬ人やあるべき。末の世の物語にせよや。」

とて、押しあひへしあひ、立ちかかるほどに、能の役者も樂屋をあけてぞ見物しける。

 居士はいまはよき時分と思ひければ、搔き暗(く)れてうせにけり。見る人、

「こはいかに。稀代(きたい)不思議の化け物かな。」

と、舌のさきを卷きてあやしみける。

 さて、果進居士は、芝居、ことごとく空きたるによつて、舞臺さきの良きところへ、編笠引きこみて、座をとりて、見物おもふさまにぞしたりけり。

 また、中國廣島といふ所に久しく居住したりけり。そのあひだ、ある商人(あきんど)の金銀を借りて事をととのへけるが、のぼりさまに一錢も返辨せず、しのびて京へきたりけるが、この商人、

「にくき居士かな。何地(いづち)へか逃げうせたるらん。」

と、くやめども、甲斐なくして打ち過けるが、あるとき、商買(しやうばい)のために京へ上りけるが、鳥羽の邊にて、此の果進居士に十文字に行き逢ふたり。商人(あきんど)、そのまま居士を捉へて、

「さても久しき居士かな。それにつけて御身はずいぶん某(それがし)馳走に思ひて、金銀共の外ひかへ候ふて、とかくと勞(いたは)り侍りしかひもなく、夜拔けにして上り給ふこと、さりとては、屆かぬ御心中にて有るものかな。」

と、恥(はぢ)しめければ、果進居士、何とも面目なくや思ひけん、この人を見つけぬるより、又、頤(おとがひ)を、そろりそろりと撫でければ、顏(かほ)、橫(よこ)ふとりて、眼(まなこ)、まろくなり、鼻、きわめて高く、向(むか)ふ齒一ぱい、大きに見えわたりければ、この商人(あきんど)も、これはと思ひけるが、居士、申しけるは、

「何と仰せ候や。それがしは、かつて御身は存ぜぬ人にて候が、まさしき近づきのやうに仰せ候は、おぼつかなし。」

と申しければ、商人(あきんど)、はじめは果進居士とただしく思ひしが、見るほど各別の人なれば、さては見誤まりたると思ひて、

「まことに卒爾(そつじ)なる事を申し侍るものかな。我らが存じたる人かと思ひて見あやまりしが、許し候へ。」

と申して通りにける。後に、人々、風聞して、

「これは、何よりも習ひたき術なり。」

とぞ笑ひにける。

 又、あるとき、戶田の出羽と申す兵法者、無雙の聞え有りけるがもとへ、ゆきて近づきになりぬ。さて、いろいろさまざま、物語をしけるほどに、居士、申しけるは、

「それがしも兵法を少し心がけ申し候。さのみ深き事も存ぜねども、世の常の人に仕負け候はんとは思はず。」

と云ふ。戶田、聞き給ひて、

「それは奇特なる事にて候。その儀ならば、ちと、御身の太刀筋が見申したく候。」

と申されければ、居士、

「さあらば。」

とて、木刀を取つて立ちあひ、

「やつ。」

といふと思へば、こびんを

「ちやう」

と打つ。

 出羽は夢のごとくにて、更に太刀筋も覺えざるなり。

「今一度。」

といへば、

「心得たる。」

とて、またうつに、右のごとし。

 戶田は、

「さりとては、御邊の太刀は兵法の上には離れて、術道を行ふによつて、各別の法なり。」

と打ち笑ひにける。

 其の後、申されけるは、

「何と御邊に八方より立ちかかつて打つときにも、身には當たるまじきか。」

と問ひければ、

「思ひもよらぬ事。」

と云ふ。

「さあらば。」

とて、十二疊敷の座敷へ弟子ども七人、わが身ともに八人、果進居士を中に置きて、座敷の四方の戶を立てて、打ちけるに、

「やつ。」

と云ふと思へば、居士は塊(くれ)に見えず[やぶちゃん注:塊り(物体)としての存在を消滅して見えず。]、

「こは、いかに。」

と、人々、あきれ、

「果進居士、果進居士。」

と呼びければ、

「やつ。」

といふ。

「何處(いづく)にか在るらん。」

といへば、

「ここにある。」

と云ふ。

 座敷中には塵もなきによつて、

「さあらば、緣の下にかがみゐるならん。證據のために見ん。」

とて、疊をあげて、くわしく見けるに、何もなし。

「果進居士。」

と呼べば、答ふる。

「さりとては希代(きたい)不思議ともいふばかりなし。」

と、人々、呆れはててゐければ、まん中へ出でて、

「何と尋ね給ふぞや。」

といふ。人々、

「さりとては、とかういふばかりなし。」

と、顏をまもりゐたり。

「かかる上は、たとへば百人千人寄りたりとも、かなふ事にあらず。」

といひて、うらやみにける。

   *

【追記】後に、「疑殘後覺」(抄) 巻四(第二話目) 果進居士が事』を電子化注してある。そちらが、私の決定版になるので、見られたい。

 

 果心居士は長いこと廣島に住んでゐたが、そこの町人から金銀を大分借りた。さうして一錢も返濟せずに京へ來てしまつたので、町人はびどく腹を立てた。その後町人も二見へ上ることがあつて、鳥羽の邊でばつたり果心居士に出逢ふと、口を極めて居士を罵倒する。借金をしたのは事實だから、一言の申し開きもしなかつたが、居士は例の如く自分の頤をひねりはじめた。今度は伏見の能見物の時と違つて、顏の橫幅が廣くなつて、目は丸く鼻は高く、向う齒が一杯に見える、世にも不思議な顏になつてしまつた。町人もいさゝか驚いてゐると、居士はすましたもので、拙者はこれまであなたにお目にかゝつたことがござらぬが、何でそのやうに心易げに申さるゝか、と反問した。町人が見直すまでもなく、全く別の顏だから、まことに卒爾を申しました、と平あやまりにあやまつて別れて行つた。

 或時戶田出羽といふ武藝者と懇意になつて、いろいろの話をして居つたが、居士の話に、拙者もいさゝか武藝を心がけて居ります、さのみ深いことは存じませねど、世の常の者には負けようとも思ひませぬ、といふことであつた。それは御奇特な事ぢや、その儀ならばちと御身の太刀筋が拜見したい、となつた時、居士は木刀を執つて立ち合ひ、やつと云つたかと思へば、もう出羽は小鬢を打たれて居つた。出羽は夢のやうで、更に太刀筋もわからぬので、今一度と云ふと、また同じやうに打たれる。さてさて御身の太刀は武藝ではなしに、術道を行はれるのだから何ともならぬ、と云つて苦笑するより外はなかつた。その後また出逢つて、御身に八方より打ちかゝつて打つたら、身體に當るまいかと出羽が尋ねたら、思ひもよらぬ事と居士が答へる。そこで十二疊の座敷の戶を立て、出羽及びその弟子七人が、果心居士を中に置いて打ちかゝつたけれど、やつと云ふかと思へば、もう居士の姿は見えぬ。果心居士々々々々と呼ぶと、やつと云ふ。どこに居られるかと問へば、こゝに居りますと云ふ。座敷の中は塵一つもないので、緣の下にでも跼んでゐる[やぶちゃん注:「しやがんでゐる」。]のだらうと云つて、疊を上げて子細に見てもわからぬ。呼べば答へるだけである。一同呆れてゐる眞中へ居士が姿を現して、何をお尋ねになりますか、と云ふ。これでは百人千人かゝつたところで、到底かなふことではない、と武藝者の方が羨ましがつてゐた。

「義殘後覺」に出てゐる話はこんなところである。大體に於て惡戲の程度にとゞまつてゐるが、元興寺の塔へどこからか上つて、九輪の頂上に立ち、著物を脫いで打ち振ひ、やがてもとの通り著て、頂上に腹掛けたまゝ四方を眺めてゐる「玉箒木」の話になると、大分放れたところが出て來る。或晩奈良の手飼町の或家で、客を四五人呼んで酒宴を開いた時、客の中に果心居士をよく知つた者が居つて、頻りに幻術の妙をたゝへたところ、それなら居士をこの座へ招き、吾々の見てゐる前で幻術をさせて下さい、お話ほどの事もありますまい、と少し疑惑を懷く者もあつた。はじめに居士の話をした者が出て行つて、間もなく居士と一緖に戾つて來たが、その時少し疑惑を持つ一人が進み出て、私は小智偏見で大變奇特を見たことがありません、どうか私の身について奇特をお見せ下さい、と云つた。居士は笑つて、自分が見ないからとて他の奇特をお疑ひめさるな、と云ふが早いか、座中の楊枝を手に執り、その人の上齒を左から右へさらさらと撫でた。上齒は一遍にぶらぶらして、今にも脫け落ちさうになつたので、その人大いに驚き悲しみ、恐れ入りました、御慈悲にもとのやうにして下さい、と歎願に及ぶ。おわかりになりましたか、これにお懲りなさい、と再びかの楊枝で右から左へ撫でると、齒はひしひしと固まつて、もとの通りになつた。人々今更の如く感歎し、とてもの事に今夜この座敷で、すさまじい幻術をお見せ下さい、子々孫々までの話の種に致します、と所望する。お易い事と呪文を唱へ、座敷の奧の方を扇を揚げて麾(まね)けば、どこからか大水が涌き出して、座敷にあるほどの物が全部流れはじめた。水は忽ちに座敷に充ち滿ち、逃げようにも逃げられなくなつたところへ、十丈ばかりもある大蛇が、角を振り口を開き、波を蹴立ててやつて來る。皆々水底に打ち伏し、溺れ死んだと思つたが、翌日人に起されて座敷を見れば、平生と變つたところは何もない。かういふ不思議を示したので、當分の間はこの評判ばかりであつた。

[やぶちゃん注:「十丈」三十メートル二十九センチメートル。

 以上と以下は、「玉箒木」の卷三」の「果心幻術」である。Google ドライブのこちらの電子データを基礎に(但し、これは頭の一部が欠損している)、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから画像で読めるそを視認して電子化する。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを施し、句読点も独自に打った。

   *

   ○果心幻術

ちかき頃、大和國に、魔法幻術を行ふ果心居士といふ者あり、種々の奇特をなして人の耳目を驚しけり。ある時、元興寺(がごじ)の塔へいづくよりかのぼりけん、九輪(くりん)の頂上に立居て、衣服ぬぎて打ふるひ、裸になり、しばらくありて、またもとのごとく打着て、帶、しめ、頂上に腰かけて、四方を詠めりけり、おりたき時は、いづくともなく下ける。又ある時、猿澤の池のほとりを過けるに、人皆、見知(みしり)て、幻術懇望しければ、かたはらなる篠の葉をちぎり、何やらん咒文をとなへ、皆々、池水にちらしければ、ことごとく大魚となり、尾をふり。ひれをあげて、はねまはりけり、又ある夜、奈良の手飼町、ある家に、客五六人、招待して、酒飯をとゝのへ、座敷の興を催しけるに、その客の內、一人、果心居士をよくしりて、かの幻術の奇妙なる事どもかたり出ければ、滿座、耳をかたぶけ、あやしみけるが、又一人いふやう、あはれその居士此座へ迎へ、此人々の中にて何にても幻術をさせてみまはし、さまでの奇特はよもあらじなど、すこしはうたがひけり。始の一人、さおもひ給ふはことはり[やぶちゃん注:ママ。]なり。我は此ごろ心やすくかたらへば、今夜よびにやりてみせ侍らんかといふ。人々、大によろこび、いそぎよび給へといふほどに、かの人、ぢきによびに出、しばらくして居士と同道してきたれり。滿座、出むかへ、夜中、俄に請待せし所に、早速の來臨かたじけなきよしのべたり。居士、さしも、ことごとしきけしきもなく、しづかに座敷になをり、幸、近所に居侍るまゝ來りしなり。何にてものぞみ給へ、慰にみせ侍らんといふ。かのすこしうたがひたる一人出て、それがし小智偏見にして、終にかゝる大變奇特をみず、あはれ何ぞ先それがしが身につゐて、奇特をみせ給へ、といふ。居士、打わらひて、わが見ざるをもつて他の奇特をうたがひ給ふなとて、座中の楊枝をとり、かの人の上齒をさらさらと左より右へ一遍なでければ、たちまち上齒殘らずぶらぶらとしてうき出、ぬけ落なんとしける、かの人、大におどろきかなしみ、あはれ、御慈悲に、もとのごとくなしてたべと、淚をながし詫(わび)けり、居士よく覺へ給ひたりや、是(これ)にこり給へとて、また右の楊枝にて、このたびは右より左へ一遍なでければ、ひしひしとかたまりてもとのごとくなりける。人々、おどろきあやしみ、とてもの事に此座敷のまん中にて、何ぞおびたゞしくすさまじき幻術をあらはしみせ給へかし、我々末代まで子孫物語の種(たね)となし侍らんと、のぞみければ、居士、それこそやすき事なれとて、何やらん咒文を唱へ、座敷の奧の方を扇にてさしまねきければ、そのまゝ大洪水わき出るほどこそあれ、これはこれは、とおどろくうちに、器財雜具すべて座敷に有(ある)ほどの物、皆々、うかびながれ、はや人々の腰なるより上まで水にひたり、足の立(たつ)ども覺へず、十方にくれてあきれたるに、猶々、水は、うづまきて、わきまさり、四方一面にみちみち、大波、しきりにうちかさなって、いづくへにげんやうもなく、いかに成行(ありゆく)事やらんと、是さへおそろしきに、又、奧の方より、長十丈ばかりの大蛇、角をふり、口をあきて、人々を目がけ、波を蹴立(けたて)て出きたる、此時、人々、おそろしさ、いはんかたなく、目くれ、魂(たま)きへて、にぐるともなくころぶともなく、座敷のそとへかけ出むとせしかども、さばかりの洪水におし流され、皆々、水底に打臥し、溺れ死けると覺へける。あくる日、人に起されて座敷をみるに、すべて常にかはる事なし。かゝ奇變をなしけるゆへ、いづくにてもたゞ此さたのみ、いひやまざりける。その頃、松永彈正久秀、多門城に居住しけるが、此よしをきゝつたへて、居士をまねき、いとまある時はかたりなぐさみける。ある夜、久秀、居士にむかひ、我(わが)一生いくばくの戰場にのぞみ、刃(やいば)をならべ、鉾をまじゆる時にいたりても、終(つひ)におそろしと覺へたることなし。すべて物をぢせざる天性なり。汝、こゝろみに幻術を行ふて、我をおどして見てんや、といひける。居士、こゝろへ侍る、しからば近習の人々をしりぞけ、刃物は小刀一本をも持(もち)たまはず、燈もけしたまへ、などいへば、彈正、その言のごとく、人をしりぞけ、大小の刀をわたし、くらがりにたゞ一人閑坐して居れり、居士、ついと座をたち出、廣椽(ひろえん)をあゆみ、前栽(せんざい)の方へ行(ゆく)とぞ見へし。俄(にはか)に、月、くらく、雨、そぼふりて、風、さらに蕭々たり。蓬(よもぎ)、窻(まど)の裡にして瀟湘(せうしやう)にたゞよひ、荻花の下にして潯陽(じんやう)にさまよふらんも、かくやと思ふばかり、物がなしく、あぢきなき事、いふばかりなし。さしも强力武勇の彈正も、氣よはく、心ぼそふしてたへがたく、いかにしてかくはなりぬるやらんと、はるかに外を見やりたれば、廣椽にたゞずむ人あり、雲すきにたれやらんと見出しぬれば、ほそくやせたる女の、髮ながくゆりさげたるが、よろよろとあゆみより、彈正にむかひて坐しけり、何人(なんぴと)ぞ、ととへば、此女、大息つき、くるしげなる聲して、今夜はいとさびしくやおはすらん、御前に人さへなくて、といふをきけば、うたがふべくもあらぬ五年以前病死して、あかぬわかれをかなしみぬる妻女なりけり。彈正、あまりすさまじくたへがたさに、果心居士、いづくにあるぞや、もはや、やめよ、やめよ、とよばはるに、件の女、たちまち、居士が聲となり、これに侍るなり、といふをみれば、居士なりけり。もとより、雨もふらず、月もはれわたりてくもらざりけり。いかなる魔法ありてか是ほど人の心をまどはすらんと、さばかりの彈正もあきれけるとぞ。

   *

「松永久秀」(永正七(一五一〇)年~天正五(一五七七)年)は専横の限りを尽くした戦国武将。当初は三好長慶(ながよし)の家老として権勢を揮い、信貴山(しぎさん)城・多聞城にあって大和を支配したが、長慶死後は将軍足利義輝を弑(しい)し、三好三人衆と対立した(彼らとの戦いによって東大寺大仏殿が焼失している)。永禄一一(一五六八)年に織田信長に降伏して大和を安堵されるも、直に信長に反旗を翻し、信貴山城に立て籠もって、信長が欲しがった平蜘蛛茶釜とともに爆死したことで知られる、とりわけトンガッた存在として知られる男であるだけに、この彼が、心底、ビビッたエピソードは、より面白いと言える。

 

 その頃大和の多門城には、松永彈正久秀が居住して居つた。異心居士の噂を聞いてこれを招き、暇のある時は話し相手にしてゐたが、或晩久秀が居士に向ひ、自分はこれまで幾度となく戰場に臨み、刀を竝べ鉾を交ふる時に至つても、終に恐ろしいと思つた事がない、その方幻術を以て自分を脅すことが出來るか、と尋ねた。居士はこれに答へて、りました、然らば近習の人も退け、刀物は小刀一本もお持ちなされず、燈も消していたゞきたうございます、と云ふ。久秀はその通り人を遠ざけ、大小の刀を渡し、眞暗な中にたゞ一人坐つてゐると、居士はついと座を立ち、廣緣を步いて前栽の方へ出て行つた。俄かに月が曇つて雨が降り出し、風肅々として、さすがの松永彈正も何だか心細くなつて來た。どうしてこんな氣特になつたかと怪しみながら、ぢつと暗い外を見てゐるうちに、誰とも知らず廣緣に佇む人がある。細く瘦せた女の髮を長く搖り下げたのが、よろよろと步いて來て、彈正に向つて坐つたけはひなので、思はず何者ぢやと聲をかけた。その時女大息をつき、苦しげな聲で、今夜はお寂しうございませう、見れば御前に人さへなくて、と云ふのは、五年前に病死した妻女の聲に紛れもない。彈正もこゝに至つて我慢出來なくなり、果心居士はどこに居る、もうやめい、と叫ばざるを得なかつた。件(くだん)の女は忽ち居士の聲になつて、これに居りまする、と云ふ。もとより雨などは降らず、皎々たる月夜であつた。

 この話は「玉箒木」より前に「醍醐隨筆」に出て居り、文章も多少修飾を加へた程度に過ぎぬ。「煙草と惡魔」(芥川龍之介)の中に「松永彈野正を飜弄した例の異心居士と云ふ男」とあるのは、この一條を指したものである。果心居士は大和の生れで、桑山丹後守の在所の者だといふから、大和に關する話が多いのは怪しむに足らぬであらう。

[やぶちゃん注:「醍醐隨筆」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のの左上部中頃から視認出来る。

「煙草と惡魔」芥川龍之介二十四歳の時の初期作品。大正五(一九一六)年十一月発行の『新思潮』初出。引用箇所は末尾の筆者の印象的な後書きの中に現われる。以下の示す。底本は岩波旧全集に拠った。

   *

 それから、先の事は、あらゆるこの種類の話のやうに、至極、圓滿に完をはつてゐる。卽、牛商人は、首尾よく、煙草と云ふ名を、云ひあてゝ、惡魔に鼻をあかさせた。さうして、その畑にはえてゐる煙草を、悉く自分のものにした。と云ふやうな次第である。

 が、自分は、昔からこの傳說に、より深い意味がありはしないかと思つてゐる。何故と云へば、惡魔は、牛商人の肉體と靈魂とを、自分のものにする事は出來なかつたが、その代に、煙草は、洽く日本全國に、普及させる事が出來た。して見ると牛商人の救拔が、一面墮落を伴つてゐるやうに、惡魔の失敗も、一面成功を伴つてゐはしないだらうか。惡魔は、ころんでも、たゞは起きない。誘惑に勝つたと思ふ時にも、人間は存外、負けてゐる事がありはしないだらうか。

 それから序に、惡魔のなり行きを、簡單に、書いて置かう。彼は、フランシス上人が、歸つて來ると共に、神聖なペンタグラマの威力によつて、とうとう[やぶちゃん注:ママ。龍之介の癖。]、その土地から、逐拂はれた。が、その後も、やはり伊留滿のなりをして、方々をさまよつて、步いたものらしい。或記錄によると、彼は、南蠻寺の建立前後、京都にも、屢々出沒したさうである。松永彈正を飜弄した例の果心居士と云ふ男は、この惡魔だと云ふ說もあるが、これはラフカディオ・ヘルン先生が書いてゐるから、こゝには、御免を蒙る事にしよう。それから、豐臣德川兩氏の外敎禁遏に會つて、始の中こそ、まだ、姿を現はしてゐたが、とうとう、しまひには、完く日本にゐなくなつた。――記錄は、大體こゝまでしか、惡魔の消息を語つてゐない。唯、明治以後、再、渡來した彼の動靜を知る事が出來ないのは、返へす返へすも、遺憾である。……

   *

本篇部は「青空文庫」のここで読める(但し、新字体である)。]

 

「果心居士」は小泉八雲によつて世界的になつた。八雲は「夜窓鬼談」(石川鴻齋)の記事に據つたものの如くであるが、これを見ると、松永彈正ばかりではない、織田信長も明智光秀も大分飜弄されてゐる。居士は祇園社頭の木に掛けて因果應報の理を說いた地獄變相の圖を、織田信長から所望されたが、容易に肯んじない。もし是非といふことならば黃金一百兩いたゞきたいと云つた。信長はそれほど大金を投ずる意志がなく、家來が居士を斬つて變相の圖を奪ふといふ非常手段に出た。けれども殺した筈の果心居士は死なず、繪は掛物から飛び去つて白紙に替る。奉行所で調べられた居士は、信長公は掛物の正當な所有者でないから白紙に替つたので、最初に申し上げた代償をお拂ひ下されば、繪はもと通りになる、と申立てる。已むを得ず拂はれた一百兩によつて、變相の圖は舊に復したが、何となく精彩がない。最初の繪は何人も價のつけられぬ價値であったが、今は黃金一百兩を現してゐる――果心居士はその理由をかう說明した。こゝで居士は再び信長の家來に斬られるが、殺しても命を奪はれぬことは同じであつた。居士は大醉して信長の邸前に睡り、捕へられて牢に入れられながら、一向目をさまさず、十日十夜といふもの間斷なく睡り續けた。その間に信長の運命は急轉して、明智光秀のために殺されてしまつた。

[やぶちゃん注:『「果心居士」は小泉八雲によつて世界的になつた』小泉八雲の一九〇一年刊の“ A Japanese Miscellany (「日本雑記」)の中の“ The Story of Kwashin Koji (「果心居士の話」)。私御用達の“Internet Archive”こちらで英文原典を本のように読める。私の果心居士原体験こそが、これであった。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから訳文(但し、逐語訳ではない)を視認出来る。【追記】後に「小泉八雲 果心居士  (田部隆次譯)」を電子化注したので、見られたい。

「夜窓鬼談」石川鴻斎(こうさい 天保四(一八三三)年~大正七(一九一八)年:近代最後の正統的漢学者の一人で、画もよくした)の漢文体の重厚な怪奇談集。当該のそれは「果心居士 黃昏艸」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここを視認して訓読(一部に送り仮名を追加、句読点・記号等は私の判断で変更、読み易くするためにシークエンスごとに改行を加え、直接話法も改行させた)、一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを振った。左に和訓訓読の添書きがあるものはそれを利用して敷衍訓読した箇所がある。従って、世に二つとない私の訓読文である。ごくストイックに文中にオリジナル注を挿入した。私は長い間、この「夜窓鬼談」の訓読を試みたかったのである。ありがとう! 宵曲!!

   *

     果心居士 黃昏艸

 天正年間、洛北に果心居士なる者あり。年六十餘、葛巾(かつきん)道服(だうふく)、鬚髯(しゆぜん)、雪のごとし。祇園の祠(やしろ)に在りて、樹下に地獄變相(じごくへんさう)の圖を掲げ、舂(つ)く・磨(ひ)く・割(さ)く・烹(に)る、慘酷の諸刑、歷々として眞に迫る。人をして戰慄(をのゝ)くに勝へざらしむ。居士、自(みづか)ら、鈎(によい)を把(と)つて、之れを諭示し、因果應報の理(ことわり)を說く。善を勸め、惡を懲し、以つて佛道に誘導す。老若(らうにやく)の群集(ぐんじゆ)、錢を擲(なげう)つこと、山のごとし。

 時に織田信長、畿內を治む。其の臣荒川某、覩(み)て之れを奇とし、還りて右府(うふ)に告ぐ。右府、人をして之れを召さしめ、幅を座傍に展す。彩繪精密、閣魔・羅卒・諸罪人等、殆んど活動するがごとく、觀(み)ること、之れを久しうして、鮮血、迸(ほとばし)り出で、號、幽かに聞ゆ。試みに手を以つて之れを拭へば、傅着(ふちやく)する者なし。右府、大いに怪しみ、乃ち、其の筆者を問へば、曰く、

「小栗宗丹、淸水觀世音に祈りて、齋戒百日、遂に之れを作る。」

と。右府、之れを欲す。荒川氏をして意を達せしむ。居士曰く、

「我れ、是の幅を以つて續命(しよくみやう)の寶(たから)となす。若(も)し、之れを亡(ばう)せば、簞瓢罄空(たんへうれいくう[やぶちゃん注:米を入れる瓢簞が忽ちのうちに空となること。オマンマの食い上げ。])、生を全(まつた)くすること能はざるなり。」

と。然れども强いて之れを欲す。

「請ふ、百金を賜へ。以つて、養老の資となさん。然らずんば、愛を割くこと能はず。」[やぶちゃん注:この「愛」はママ。しかしこれ、「爰」の誤字ではあるまいか?]

と。右府、喜ばず。荒川、其の貪を怒り、且つ、右府に諂(へつら)ひ、將に圖(はか)る所、有らんとし、窮かに其の意を告ぐ。右府、之れを頷(ぐわん)す。乃(すなは)ち、錢を賜ひて之を反(か)へす。居士、去る。

 荒川、居士を追ひて往く。日、將に昏れなんとす。漸く山麓に遇ひ、前後二人無き時に居士を捕へて曰く、

「汝一畫を恡(おし)み百金を貪ぼる。我れ、三尺の鐵、有り。以つて汝に與ふべし。」

と、言(げん)、いまだ竟(をは)らざるに刀を拔きて路傍に斃(たふ)す。幅を奪ひて還る。

 明日(みやうじつ)、右府に進む。右府、喜ぶ。之れを展ずれば、則ち、白紙のみ。荒川、愕然、流汗、衣に透(とほ)る。主を欺くの罪を以つて、門を閉ぢて蟄居す。

 居ること、十日、一友人來たり告げて曰く、

「昨(きのふ)、北野の祠を過ぐ。老樹の下(もと)、一道士、幅を掲げ捨財を集む。容貌・衣服、居士と異ることなし。居士に非ざるを得んや。」

と。荒川、大いに怪しみ、前罪を贖(あがな)はんと欲し、卒を率ゐて北野に到る。到れば則ち、渺たり[やぶちゃん注:姿が見えぬ。]。荒川、益々、怒る。然れども、之れを如何ともすること莫し。

 既にして孟蘭盆會(うらぼんゑ)に及び、諸寺、佛會(ぶつゑ)を修す。或る人、曰く、

「居士、淸水寺に在りて、場を設け、俗を誘ふ。」

と。荒川、喜ぶ。急(すみや)かに徒を從へて到る。往來紛雜憧々(しようしよう[やぶちゃん注:うろつくこと。])、織るがごとし。而して其の在る所を見ず。馳驅(ちく)索搜するも、相ひ似たる者なし。悒鬱(いふうつ[やぶちゃん注:「憂鬱」に同じい。])として望みを失ふ。歸路、八坂(やさか)を過ぐ。居士、一酒肆(しゆし)に在りて、榻(しじ)に坐して飮む。卒(そつ)、之れを認めて荒川に告ぐ。荒川、之れを窺ふに、果して居士なり。輙(すなは)ち肆に入りて居士を捕ふ。居士曰く、

「暫く待て。飮み了りて將に往かんとす。」

と。數十碗を傾け、餐𩟖(むさぼりくら)ひて漸く盡く。曰く、

「足れり。」

と。卽ち、縛に就きて去る。直ちに廳前(てうぜん)に坐す。之れを誚(せ)めて曰く、

「汝、幻術を以つて人を欺く。罪、大惡、極る。若(も)し、眞物を以つて上(かみ)に獻ぜば、其の罪を免るべし。若し匿(かく)して譌(いつは)らば、應に以つて重刑に處すべし。」

と。居士、呵々大笑して、荒川に謂ひて曰く、

「我れ、本(もと)、罪、無し。汝、主に媚び、我れを殺して幅を奪ふ。其の罪、至重(しちやう)なり。我れ、幸ひに傷つかず、今日、有るを致す。我れ、若し、死せば、汝、何を以つてか罪を贖(あがな)ふ。幅のごときは、汝が奪掠(だつりやく)に任(まか)す。我が有る所は其の稿本(こうほん)のみ。汝、反(かへ)りて之れを匿し、主を欺くに白紙を以つてす。而して其の罪を掩(おほ)はんとす。我れを捕(とら)へて幅を求む。我れ、安(いづく)んぞ之れを知らんや。」

と。荒川、奮怒(ふんぬ)して拷掠(かうりやう)して實(じつ)を得んと欲す。上官、荒川を疑ふ。因つて荒川を詰責(きつせき)す。兩人、紛爭して、判ずること、能はず。乃(すなは)ち居士を一室に囚(しう)す。嚴(げん)に荒川を鞠訊(きくじん[やぶちゃん注:罪を調べ問い糺すこと。])す。荒川、口(くち)訥(とつ)にして[やぶちゃん注:訥弁。話し方が滑らかでないこと。言説による主張が苦手なこと。]、冤(ゑん)を辯ずること能はず。頗る苦楚(くそ[やぶちゃん注:楚(しもと:鞭)などによる激しい拷問。])を受く。肉、爛れ、骨、折る。殆んど、死に垂(たら)んとす。居士、囚に在りて之れを聞き、獄吏に謂ひて曰く、

「荒川は姦邪の小人たり。我れ、之れを懲さんと欲す。故に一時、酷刑を與ふ。子、上官に告げよ。實(じつ)は荒川の知る所に非ず。我れ、明らかに之れを告げん。」

と。上官、居士を召して之れを訊(と)ふ。居士曰く、

「名畫、靈、有り。其の主に非れば則ち、留まらず。昔、法眼元信、群雀を畫く。一、二、脫し去る。襖(ふすま)、その痕(あと)を遺す。馬を畫けば、馬、夜、出でて艸を食(くら)ふ。是れ皆、衆人、知る所なり。顧(かんが)ふに、右府は其の主に非ず。故に脫し去るのみ。然れども、初め百金を以て價を約す。若し、百金を賜はば、或いは原形に復することあらんか。請ふ、試みに我れに百金を賜へ、若し、復せずんば、速やかに返し奉らん。」

と。右府、其の言を奇とし、則ち、百金を賜ふ。幅を展ずれば、畫圖、現然たり。然れども、諸(もろもろ)を前畫に比すれば、筆勢、神(しん)無く、彩澤(さいたく)、太(はなは)だ拙なり。仍(よ)つて居士を詰(なぢ)る。居士曰く、

「前畫は則ち、無價の寶なり。後畫は百金に價する者。安(いづく)んぞ相ひ同じきを得んや。」

と。上官・諸吏、對(こた)ふること能はず。遂に二人を免す。

 荒川の弟武一は、兄の苛責(かしやく)に遇ひ、筋骨摧折(ざいせつ)するを悲しみ、居士を讎視(しうし)して之れを殺さんと欲し、密かに跡を追ひて往く。又、一酒肆に飮むを見る。躍り入つて之れを斫(き)る。衆、皆、驚き散ず。居士、牀下に朴(たふ)る。乃(すなは)ち其の首を斷じて帛に裹(つつ)み、併せて金を奪ひて去り、家に還りて兄に示す。兄、喜ぶ。帛を解へば則ち、一(いつ)の酒壜(さかどつくり)のみ。二人、愕然たり。其の金を見れば、則ち、土塊(つちくれ)のみ。武一、切齒(せつし)して右府に告ぐ。物色して之れを索(もと)む。渺として知るべからず。

 之れを久しうして門側に一醉人有り。橫臥して、鼾(いびき)、雷のごとし。諦觀すれば、則ち、居士なり。急(すみや)かに之れを捕へて獄中に投ず。醒めず。𪖙々(こうこう[やぶちゃん注:鼾のオノマトペイア。])と四隣を驚かす。十餘日に至るも猶、未だ覺めず。時に右府、安土に在りて將に西征せんとし、軍を率ゐて本能寺に館(やかた)す。光秀、反し、右府を弑(しい)して洛政を執る。居士の仙術有るを聞き、獄を開(かい)して之れを召す。居士、漸く覺(さ)む。乃(すなは)ち、光秀の館に至る。光秀、酒を勸め、之れを饗して曰く、

「先生、酒を好む。飮むこと、幾何(いくばく)ぞ。」

と。曰く、

「量、無く、亂るに及ばず。」

と。光秀、巨盃を出して侍をして酒を盛らしめ、隨ひて飮み、隨ひて盛る。數十盃を傾く。瓶(かめ)已に罄(つ)きたり。一坐、大いに駭(おどろ)く。光秀曰く、

「先生、未だ足らざるか。」

と。曰く、

「少實する[やぶちゃん注:少しばかり満足する。]を覺ゆ。請ふ。一技(いちぎ)を呈せん。」

屛に近江八景を畫ける有り。舟、大いさ寸餘り。居士、手を揚げて之れを招く。舟、搖蕩(えうたう)として屛を出で、大いさ數尺に及ぶ。而して坐中、水、溢(あふ)る。衆、僉(み)な、惶駭(こうがい)して、袴を褰(かか)げて偕立(かいりつ)す[やぶちゃん注:一斉に立ちあがる。])。俄然として股を沒す。居士、舟中に在り。偕工(かいこう)[やぶちゃん注:「偕」は「棹(さお)」で船頭のこと。]、槳(かぢ)を盪(うごか)し、悠然として去る。之(ゆ)く所を知らず。

[やぶちゃん注:以下、原典では全体が一字下げ。]

嘗て聞く、西陣に片岡壽安なる者あり。醫を業とし、頗る仙術を好む。一道士、有り。壽菴を見て曰く、[やぶちゃん注:「安」と「菴」の違いはママ。]

「子、仙骨有り。宜(よろ)しく道を修むべし。」

と。仍(すなは)ち一仙藥を授く。大いさ棗核(なつめのみ)のごとし。之れを服すれば、身、輕く、神(しん)、爽(さう)なり。復た、穀食を念はず[やぶちゃん注:空腹にならない。]。

 一日(いちじつ)、奴(ど[やぶちゃん注:下僕。])と爭ふ。怒り、甚し。杖を以つて之れを擊つ。忽ち、道士あり。汝、俗心、未だ脫せず。道に入ること能はず。乃(すなは)ち鉤(によい)を擧げて背を打つ。服する所の仙藥、口より出づ。道士、取りて去る。是れより復た、食を貪ること、常のごとし。或いは曰く、道士は則ち、果心居士なり、と。

   *

私は実はこの屏風中の湖面へと消えて行く果心居士が、すこぶる附きで好きであるによって、そこにあるその挿絵をも以下に示しておくこととする。 

 

Kasinkoji

 

なお、再利用する場合は、必ず、国立国会図書館デジタルコレクションの画像であることを明記されたい。]

 

 牢から出た果心居士は、惟任(これたふ)將軍の前に姿を現す。それは罪人としてでなしに、光秀の饗應を受けるためであつた。この席上、居士は自分から小技を御覽に入れると云ひ、八曲屛風を指して、皆さんこれを見てゐて下さい、と云つた。近江八景の中に畫かれた小さな舟は、居士の招くまゝに動き出した。舟の近付くに從つて、琵琶湖の水は室内に溢れる。席上の人は立つて著物をかゝげなければならなかつた。舟が眼前まで來た時、居士はひらりとそれに乘り、船頭は速かに漕ぎ去つた。舟は次第に退き、室內の水も屛風の中に還る。たゞ舟だけは最初の繪より小さくなり、最後に沖の一點となつた。終にはそれも見えなくなつたが、この舟の消えると同時に、果心居士の姿は再び日本に現れなかつた。――最後に水の座敷に溢れるところは「玉箒木」の中の話に似てゐる。或は果心居士得意の幻術だつたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「惟任(これたふ)將軍」明智光秀のこと。彼は天正三(一五七五)年に、朝廷から惟任(これとう)を賜姓され、従五位下日向守に任官、惟任日向守となっている。但し、この「將軍」は彼が征夷大将軍に任ぜられたという怪しい風説に基づく仮の呼称に過ぎない。]

 

 果心居士が戰國の諸將を飜弄した模樣は、左慈が曹操を手玉に取つたのとよく似てゐる。如何なる難題を出しても更に辟易せぬ左慈を憎んだ曹操が、これを殺さうとすると、左慈は逸早く察知して逃げてしまふ。あらゆる場合、あらゆる手段を講じてどうにもならぬ左慈の存在は、日本に於ける果心居士の立場と全く同樣であつた。英雄の武力、權謀術數が何の威力も發揮し得ぬのが、左慈とか、果心居士とかいふ人達の住む世界なのである。

[やぶちゃん注:因みに、司馬遼太郎に「果心居士の幻術」(昭和三六(一九六一)年三月『オール読物』初出)があり、私は平成元(一九八九)年版新潮文庫の同題作品集で読んだが、私は司馬の本を、これ、一冊しか持っていない(妻は持っている模様)。私は彼の「果心居士の幻術」を読んで、つまらん、としか思わなかった。私の特異な読書嗜好と作家好悪が、この一事で明らかである。]

2017/02/13

小穴隆一「鯨のお詣り」(39)「河郎之舍」(2)「河郎之舍の印」



          
河郎之舍の印

 

Kawarounoya

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「河郎之舍の印」の原型。これも二種の印影をリンク先で掲げてあるが、本底本のものをここでは掲げておく。なお、前書などポイント落ちの箇所も総て本文と同ポイントで示した。また、短歌や俳句は底本では普通に並んでいるが、ここでは読み易さを考え、前後を行空けして示した。] 

 

 私は鬼趣圖をみてから歳月をおそろしく思つてゐる。既に私の頭もぼけてゐる。さうして、昔の何册かの游心帳は綴ぢもとれてしまつてゐる。自分の下手な歌や句のところはちぎり捨てて、ばらばらにしてあつた游心帳である。

 

    河郎(かはらう)の舍(いへ)の主に奉る

 河郎の陸(くが)をし戀ふる堪へかねて月影さやにヒヨロと立ち出づ   碧童

 

    碧童ト了中ヲ訪フ途上

 一つ傘に濡るる身柄(みがら)の默つた

 

[やぶちゃん注:「了中」は芥川龍之介の号の一つ。小穴隆一・小澤碧童・遠藤古原草らので「中」を皆が共有した号を作り、特にその内輪で盛んに用いた。なお、戸惑う方のために言っておくと、これは小穴隆一の句で、音数律を意識的に崩した当時、流行した新傾向俳句である。]

 

 碧童さんの場合、碧童さんはいけすぎて困るのであるが、ここに昔の碧童さんと自分の筆跡を並べて寫しながらも、一盃いける人といけぬ者のちがひに、私一人は、感慨又感慨といつたわけである。然しながら、

 

 行燈(アンドン)ノ灯影(ホカゲ)ヨロコビコヨヒシモ三人(ニン)ガアソブ燈影カソケキ

 

 生(イ)キノ身ノ三人カヨレバ行燈ノホカゲヨロコビ歌(ウタ)作リワブ

 

 ムラムラニ黃菊白菊挿シアヘル河郎(カハラウ)ノ舍(イヘ)ノ夜(ヨル)ノヨロシモ

 

 夜(ヨ)ヲコメテ行燈ホカゲヨロコベル三人ノモノ歌ヒヤマスモ

 

 呉竹(クレタケ)ノ根岸ノ里ノ鶯(ウグヒス)ノ靑豆(アヲマメ)タべテ君ガヨロコブ

 

 秋タケシ我鬼窟(ガキクツ)夜(ヨル)ノシジマナル三人ノアソビミタマヨヒカフ

 

 シヅヤシス行燈ホカゲヨロベルウマ酒(ザケ)ノ醉(ヨヒ)身(ミ)ヌチメグルモ

 

 幼(イト)ケナキコロヲ偲(シノ)ブハ行燈ノ燈影タノシミ寢(イネ)シ我(ワレ)カモ

 

 行燈ノ燈影ヨロコブ酒蟲(サカムシ)ノアカ歌(ウタ)イカニ酒蟲ノ歌

 

 白菊ノ花ノミダレヨ行燈ノホカゲニミレバ命(イノチ)ウレシキ

 

 酒蟲(サカムシ)ノアカヨロコベル行燈ノ主(アルジ)寂シモ、とも書いてゐたこれらの碧童さんの醉筆(えうゐひつ)をたどつてゆけば、「悲しさのつと湧きにけりあんどうのほ影にありて酒蟲歌へる」といふ私自身の歌にもめぐりあひ、「書く會(くわい)をやらばや」の河郎之舍(かはらうのいへ)の主(ぬし)の姿、皆で淺草のどこぞで撮つて貰つた寫眞の中の颯爽たる我鬼窟の主(ぬし)、冠(かぶ)つた黑のソフトの上に箱庭の五重塔のやうな十二階をのせて、香取さんが作つた鳥冠(とりかぶと)の握りのついた籐(とう)のステツキを手に持つた、燈光照死睡(とうくわうしすゐをてらす)なぞのらく書きをしなかつた時代の我鬼先生にも逢ふのである。

 碧童さんの秋タケシ我鬼窟夜ノシジマナル、その我鬼窟に名護屋行燈、淺草で買つた五圓の南京皿(なんきんざら)にはちや柹(かき)、すゑものの杯臺(さかづきだい)(灰落しに使ふ)、和蘭陀茶碗(おらんだちやわん)を置いて、私はまた游心帳に押されてある河郎之舍(かはらうのいへ)の印について一寸述べてもみたい。

 今日となつてみれば、體(たい)もそなへてゐないそれらのたはけ歌(うた)が、種々(しゆじゆ)の昔を私に物語つて呉れてもゐるのであるが、私は游心帳で昔の下手な少しばかりの自分の歌にも出會つた。小澤淸太郎が西德(にしとく)六代目忠兵衞、忠兵衞が碧童、仲丙(ちうべい)が篆刻家としてのその號であるが、その衷平(ちうべい)さんが、我鬼先生からまだ無心の手紙を貰つてゐない前に、私の游心帳に押してみせてくれた河郎之舍(かはらうのいへ)の印が、

「おこたちの運動愛會も雨なれば河郎之舍(かはらうのいへ)の印刻まれたまふか」で、

「河郎の陸(くが)をし戀ふる」ではないが、私はいまここに、河童はその河童の印にまで水に緣があるものかと知つて感歎してゐるのである。河郎之舍の印を刻上(きざみあ)げたその日、碧童さんは、夜ふけて淺草の五錢の木戸の舞姫? の安來節(やすきぶし)に、人を押しわけて大聲になつて和すかと思へば、またその三味線を彈(ひ)く盲(めしひ)の女がいく度(ど)か切れる糸をまさぐるに、おろおろと泣く、といつたたわけ歌の紹介が或は興(きよう)のあることかも知れないが、河郎之舍の印の話はたゞこれだけの話である。

[やぶちゃん注:「感歎してゐるのである。」のこの最後の句点の後に、読点がさらに打たれてあるが、誤植と断じて除去した。『「おこたちの運動愛會も雨なれば河郎之舍(かはらうのいへ)の印刻まれたまふか」で、』で改行されているのもママである。この狂歌は小穴隆一のものと思われる。歌の意味は「二つの繪」版の「河郎之舍の印」の最後に判るように書かれてある。

「西德(にしとく)六代目忠兵衞」小澤碧童はの生家は魚問屋であったが、八歳の時に祖父の元に養子に出された。祖父は「西德めぐすり」という目薬を作って生計を立てており、小澤はそれも継いだ。趣味人であったが故に多様な雅号を持っていたのである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(38)「河郎之舍」(1)「鬼趣圖」

 

 河郎之舍

 

 

        鬼趣圖

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「鬼趣圖」の原型。挿絵は既に「二つの繪」のそちらで掲げたのが本底本の図である(新しい「二つの繪」版は当該写真の印刷が惨たらしいまでにひどかったからである)。ここでも再掲しておく。]

 

Kisyuzu2

 

 私は最近、十三年ぶりで、上根岸(かみねぎし)の小澤忠兵衞を訪ねた。さうして忠兵衞卽ち碧童さんが持つてゐた、箱書に鬼趣圖(きしゆづ)芥川小穴兩氏合作としてある物をみたののであるが、訪ねざること十三年、相知つて二十八年、私の十代、二十代、三三十代にかけて樂しかつた碧童さんその人に家に、この今日(こんにち)一卷(くわん)となつて所藏されてゐた鬼趣圖の倪小隆(げいせうりう)であつた私ですら、家に歸つた後(のち)に昔の游心帳を再びとりあつめながら、

   龍之介隆一兩先生合作

   鬼趣圖をみてよめる狂歌

 ろくろ首はいとしむすめと思ひしに縞(しま)のきものの男(を)の子なりけり

 うばたまのやみ夜(よ)をふけてからかさの舌(した)長々し足駄(あしだ)にもまた

 と認(したゝ)めた、碧童さんの達筆に出合ふまではなかなかに安心が出來ぬ思ひをしたことであつた。

[やぶちゃん注:前書の「龍之介隆一兩先生合作」と「鬼趣圖をみてよめる狂歌」は底本ではポイント落ちで、しかも後者は前者よりさらに小さい。或いは、原本である小穴隆一の雑記帳(他者との寄せ書き帖でもあった)「游心帳」の文字の大きさを再現してあるのかも知れない。

「十三ぶり」本書でこう書き出しているということは(実は後出の昭和三一(一九五六)年の「二つの繪」の「鬼趣圖」でも「十三年ぶり」である)、意外な事実を我々に示していることに気づく。即ち、芥川龍之介の生前、龍之介も交えてすこぶる睦まじく会していたこの二人が、実に芥川龍之介自死後、一度も小澤碧童の家を訪ねていないという事実である。家を訪ねていないだけで、親しい交友は続いていたととれぬことはないが、しかし、どうも怪しい。小穴隆一は本書刊行前後から芥川家ともやや疎遠になっていた感じがするのであるが(先の「○○龍之助」のような危うい話を芥川の遺族が不快に思わないはずがない)、それだけでなく既に実はこうした龍之介を介して知り合っていた連中とも縁遠くなっていたというのが、事実なのではなかろうか? そこには本書のような芥川龍之介の詩生活の暴露的内容を持った朦朧文体のエッセイを、嘗ての知友たちも快く思っていなかったからという理由もあるのではあるまいかと私は思うのである。因みに、小穴隆一は本書刊行時は四十六歳(故龍之介より二歳下)、小澤忠兵衛碧堂(本名は清太郎)は芥川龍之介の知友では最も年嵩(故龍之介より十一年上)で当時で五十九であった。

「倪小隆」小穴隆一の漢名雅号。

「うばたまのやみ夜をふけてからかさの舌長々し足駄にもまた」の一首は「二つの繪」の「鬼趣圖」では、

 

 うばたまのやみ夜をはけてからかさの舌長々し足駄にもまた

 

となっている(「二つの繪」版はルビはない)。これは私は「ふけて」は誤植で、後出の「はけて」が正しいと断ずるものである。そもそも「闇夜を更けて」は表現としておかしいからであり、「はけて」は即ち、「ばけて」であり

 

 烏羽玉の闇夜を化けて唐傘の舌長々し足駄にも又

 

で腑に落ちるからである。大方の御批判を俟つものではある。次の本文は続いているが、ここは敢えて一行空けとする。]

 

 鬼 趣 圖

 奉書の卷紙といふものはタケが六寸五分と聞いてゐるが、それよりも七分五厘せまい卷紙に畫(か)きひろげられたる物、鬼趣圖は我鬼先生と一夜何を物語つて共(とも)に碧童さんにこれを畫(か)き送つたものか、すくなくとも當時の碧童さんと私との間には、何らかのこの鬼趣圖をなしたについては一場(ぢやう)の物語りがあつた筈ではあらうが、大正九年といへば、十九年も前のことであつて、二昔(むかし)の後(のち)に相語つて互にわけのわからぬ物なのである。私にわかつたことといへば、鬼趣圖は、駒込91221の消印で送られてゐて、ろくろ首、うばたまの狂歌がある游心帳には四君子、寒椿、早梅(さうばい)等(など)の碧童さんと私の繪があるといふことだけにすぎない。

[やぶちゃん注:「大正九年といへば、十九年も前のことであつて」この計算が厳密なものとすれば、この作品内時制は昭和一四(一九三九)年ということになる。最初の小澤邸再訪の「十三年」とは齟齬しない。小穴隆一が小沢邸を訪ねたのは芥川龍之介が亡くなる前の年のことであったということになるだけのことである。]

 碧童さんの所藏する鬼趣圖は、「君、ピカソの步む道は、實に苦しいよ。」と言つてゐた澄江堂主人の、一つ目の怪、のつべらぼう人魂の類(たぐひ)の物ではなく、「僕も夏目さんの歳まで生きてゐたならば、夏目先生よりは少しはうまくなるかなあ、ねえ、君。」と言つてゐた我鬼先生のものであつて、同じ妖怪が畫(か)いてあつても妖怪にどことなく愛嬌があつた頃の物であるが、雲田子(うんでんし)、雲田子といへば私は、鬼趣圖の十日ほど前に、ボクは今(いま)王煙客(わうえんきやく)、王廉州(わうれんしう)、玉石谷(わうせきこく)、惲南田(うんなんでん)、董其昌(とうきしやう)の出現する小説を書いてゐる、皆登場してたつた二十枚だから大したものさ、洞庭(どうてい)萬里(ばんり)の雲煙(うんえん)を咫尺(しせき)に收めたと云ふ形(かたち)だよ、コイツを書き上げ次第鮫洲(さめず)の川崎屋へ行きたいが、君つき合はないか、入谷(いりや)の兄貴(あにき)も勿論つれ出すさ、「雲田屋我鬼兵衞(くもだやがきべゑ)」の手紙を貰つてゐたのである。この二十枚といふ小説が「秋山圖」であつたのは勿論のことであるが、當時の私はまだ甌香館集(おうかうくわんしふ)と補遺畫跋(ほゐがばつ)のなかに記秋山圖始末(きしうざんづしまつ)があることしらそれを知らなかつたのである。

[やぶちゃん注:「雲田子」芥川龍之介の漢名雅号。

「君、ピカソの步む道は、實に苦しいよ。」「僕も夏目さんの歳まで生きてゐたならば、夏目先生よりは少しはうまくなるかなあ、ねえ、君。」という二つの芥川龍之介の台詞は、「二つの繪」版の「懷舊」の方で生かされてある。

「澄江堂主人の、一つ目の怪、のつべらぼう人魂の類」「一つ目の怪」と「のつべらぼう」は既に掲げたが、再掲しておく。芸がないので、序でに「人魂」と「からかさお化け」も出そう。

 

Hitotume

 

Nottuperapou

 

Hitodama

 

Karakasa

 

総て、例の中央公論美術出版の小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」に載るものである。]

柴田宵曲 妖異博物館 「茸の毒」

 

 茸の毒 

 

 茸の毒に中てられる話は「今昔物語」に散見するが、あまり面白いのは見當らぬ。京の樵夫が北山で道に迷ひ、四五人固まつて歎息してゐると、山奧の方から人の大勢來るけはひがする。何者であるかと訝り見るほどに尼達が四五人、面白さうに舞ひながら現れた。樵夫どもは一見して恐怖の念を生じ、よもや人間ではあるまい、天狗であらうか、鬼神であらうか、と考へる間もなく、尼の方でも樵夫を見て近寄つて來る。あなた方はどういふ方で、そんな風に舞うて山奧から出て來られたのか、と恐る恐る尋ねたところ、怪しく思ふのは尤もだ。吾々はかういふところに居る尼で、花を摘みに山へ來たのだが、道を踏み違へて何方へ行つたらいゝかわからなくなつた、丁度この茸があつたので、中りはせぬかと思つたけれど、飢ゑ死ぬよりはましかと、それを燒いて食べたら、自分で舞はうとも思はぬのに舞ひ出した、どういふわけかわからぬ、といふことであつた。樵夫達も空腹であつたので、尼達が食べ殘して澤山持つてゐる茸を、分けて貰つて食べると、これも同じやうに舞ひ出した。尼と樵夫の連れ舞といふ形になつたが、暫くたつて醉がさめたやうに舞をやめ、めいめい自分の行く道を見出して無事に歸つた。――この舞茸の話などは一種の漫畫的氣分があつて、先づ出色の部であらう。

[やぶちゃん注:「茸」「きのこ」。

「舞茸」「まひたけ」。但し、以下の私の注を参照のこと。

 以上は「今昔物語集」「卷第二十八」の「尼共入山食茸舞語第廿八」(尼共(ども)山に入りて茸(たけ)を食ひて舞ふ語(こと)第廿八)である。以下に示す。

   *

 今は昔、京に有りける木伐人(きこりびと)共、數(あまた)、北山に行きたりけるに、道を踏み違(たが)へて、何方(いづかた)へ行くべしとも不思(おぼ)ゑざりければ、四五人許り、山の中に居て歎きける程に、山奧の方(かた)より、人(ひと)數(あまた)來ければ、

「怪しく何者の來(きた)るにか有らむ。」

と思ひける程に、尼君共の四五人許り、極(いみ)じく舞ひ乙(かな)でて出來(いでき)たりければ、木伐人共、此れを見て、恐ぢ怖れて、

「此の尼共の、此(か)く舞ひ乙(かな)でて來たるは、定めて、よも、人には非じ。天狗にや有らむ、亦、鬼神(おにがみ)にや有らむ。」

となむ思ひて見居(みゐ)たるに、此の舞ふ尼共、此の木伐人共を見付けて、亦、寄りに寄り來たれば、木伐人共、

「極じく怖し。」

とは思ひ乍ら、尼共の寄り來たるに、

「此(こ)は何(いか)なる尼君達の、此(か)くは舞ひ乙(かな)でて、深き山の奧よりは出で給ひたるぞ。」

と問ければ、尼共の云く、

「己等(おのれら)が此く舞ひ乙(かな)でて來たるをば、其達(そこたち)、定めて恐れ思ふらむ。但し、我等は其々(そこそこ)に有る尼共也。『花を摘みて佛に奉らむ』と思ひて、朋(とも)なひて入りたりつるが、道を踏み違(たが)へて、可出(いづべ)き樣(やう)も不思(おぼえ)で有りつる程に、茸(たけ)の有りつるを見付けて、物の欲(ほ)しきままに、『此れを取りて食ひたらむ、醉(ゑ)ひやせむずらむ』とは思ひ乍ら、『餓ゑて死なむよりは、去來(いざ)、此れ取りて食はむ』と思ひて、其れを取りて、燒きて食ひつるに、極じく甘(むま)かりつれば、『賢(かしこ)き事也』と思ひて食ひつるより、只、此(か)く心ならず被舞(まはる)る也。心にも、『糸(いと)怪しき事かな』とは思へども、糸怪しくなむ。」

と云ふに、木伐人共、此れを聞きて奇異(あさま)しく思ふ事、限り無し。

 然(さ)て、木人(きこり)共も、極く物の欲しかりければ、尼共の食ひ殘して、取りて多く持ちける其の茸(たけ)を、

「死なむよりは、去來(いざ)、此の茸(たけ)乞ひて食はむ。」

と思ひて、乞ひて食ひける後(のち)より、亦、木伐人(きこりびと)共も、心ならず被舞(まはれ)けり。然(しか)れば、尼共も木伐人共も、互ひに舞ひつゝなむ咲わら)ひける。然(さ)て、暫く有りければ、醉(ゑひ)の悟(さ)めたるが如くして、道も不思(おぼえ)で、各々(おのおの)返りにけり。其れより後(のち)、此の茸(たけ)をば、舞茸(まひ)と云ふ也けり。

 此れを思ふに、極めて怪しき事也。近來(このごろ)も、其の舞茸、有れども、此れを食ふ人、必ず不舞(まは)ず。此れ、極めて不審(いぶか)しき事也、となむ語り傳へたるとや。

   *

「舞ひ乙(かな)で」は、これで「舞い踊りながら」の意。「其々(そこそこ)に有る」は「どこそこに住む」で固有名詞を伏せた謂い。「賢(かしこ)き事也」は「上手いことやったわ! 大当たりじゃない!」の意。「心にも、『糸(いと)怪しき事かな』とは思へども、糸怪しくなむ」こういうダブりは「今昔物語集」ではしんしば見られるが、ここは直接話法内のそれであることから、彼らが毒茸に中たって朦朧とし、言っていることがおかしいさまをリアルに描出しているように私には思われて面白いところである。因みに、我々が現行で「舞茸」と呼称し、食用としているそれは、

菌界担子菌門菌蕈亜門真正担子菌綱タマチョレイタケ目トンビマイタケ科マイタケ属マイタケGrifola frondosa

であるが、同種は無毒で(但し、生食による食中毒を起こす場合はあり、血糖値や血圧への作用が認められるという)、ここで彼らが食したものは全くの別種である。ウィキの「マイタケ」ではまさにこの話を採り上げて、『「今昔物語集」にはキノコを食べて一時的な精神異常を来して舞い踊った人々が出た事からそのキノコを舞茸と呼んだとの記事が見られるが、これは今日言われるところのマイタケではなく、フウセンタケ科のオオワライタケやシロシビンを成分に持つオキナタケ科のワライタケ、ヒカゲタケなどの幻覚性キノコであろうと考えられている。『今昔物語集』においても「今日のマイタケではそういう事は起こらない」と記しており、物語中のマイタケと今日のマイタケが混同されている』と解説している。ここに挙げられている種は、

真正担子菌綱ハラタケ目フウセンタケ科チャツムタケ属オオワライタケ Gymnopilus junonius ウィキの「オオワライタケ」によれば、『食べると幻覚作用があり、神経が異常に刺激され非常に苦しいというが、致命的ではない』。食後五分から十分ほどで眩暈・寒気・悪寒・ふるえなどの『神経症状が出現し、多量に摂取すると幻覚、幻聴、異常な興奮、狂騒などの症状が出る。また顔面神経も刺激され、顔が引きつって笑っているように見えるという。欠片を一かじりして吐き出しただけで腕が腫れる事があるという。水にさらし、苦味を抜いて食べる地域もあるが、安易に真似するべきではない』とある)

ハラタケ目ハラタケ亜目オキナタケ科オキナタケ科ヒカゲタケ属ワライタケ Panaeolus papilionaceus (食後三十分から『一時間ほどで色彩豊かな強い幻覚症状が現れ、正常な思考が出来なくなり、意味もなく大笑いをしたり、いきなり衣服を脱いで裸踊りをしたりと逸脱した行為をするようになってしまう』。大正六(一九一七)年に『石川県で起きた、本菌による中毒事件がきっかけでワライタケと言う名がついた。毒性はさほど強くないので、誤食しても体内で毒が分解されるにつれ症状は消失する』とウィキの「ワライタケにある)

なお、挙げられてあるヒカゲタケ(Panaeolus sphinctrinus)は生息環境の違いによって外見が変異しているだけで現在はワライタケと同種と考えられている。]

 

 江戶時代の話にもいろいろあるけれど、かういふ縹渺たる趣のものは少い。「耳囊」に或家の下男が急に笑ひ出したが、面白くて笑ふ風にも見えぬ。醫師に見せたら、中毒といふ診斷である。楓の根に生えた茸を料理して食べたことがわかり、土を湯に溶かして飮ませたので、毒物を悉く吐き出し、二三日たつて快癒した。楓に生ずる茸を笑ひ耳と稱し、これを食べた者が故なくして笑ふことは、「閑田次筆」にも記されてゐる。

[やぶちゃん注:「縹渺」「へうべう(ひょうびょう)」と読み、原義は「広く果てしないさま」或いは「幽かではっきりとしないさま」であるが、ここは一種の、山中に躍り狂う尼僧と樵りという、一見、夢幻的で風狂的な趣きを指してかく言っている。

 以上は「耳囊 卷之三 楓茸喰ふべからざる事」である。私の電子化訳注附きで御賞味あれかし。「閑田次筆」のそれは直ぐには見出せなかった。発見し次第、追記する。]

 

 寬延四年四月頃、常陸國眞壁郡野爪村の者が、楢茸の大きさ四寸ぐらゐのを得て、四五人で吸物にし、一杯飮まうといふところへ、不二澤幸伯といふ醫者が來合せた。幸伯がその座に就くと、腰の巾著に入れて置いた三角の銀杏が發止とばかり割れた。三角銀杏は醫者の異名になるくらゐで、昔から消毒のものと云はれてゐる。今これが自然に割れたのは只事でない、殊に茸はあまり好物でないから、酒ばかりいたゞきませう、と云つて一二獻の後立ち去つた。ほどなくその家から急病の使が來たので、幸伯が早速駈け付けると、亭主と客一人は卽死、あとの三人は腹が太鼓のやうに脹つて苦しんでゐる。治療を加へて幸ひに癒えたと「道聽塗說」にある。

[やぶちゃん注:「寬延四年」一七五一年。

「常陸國眞壁郡野爪村」現在の茨城県結城郡八千代町(やちよまち)野爪(のつめ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「巾著」「きんちやく(きんちゃく)」財布。

「發止」「はつし」。オノマトペイア(擬音語)。

「道聽塗說」(現代仮名遣「どうちょうとせつ」)は江戸後期の越前鯖江藩士で儒者の大郷信斎(おおごうしんさい 明和九(一七七二)年~天保一五(一八四四)年)の随筆。私は所持しないが、これは同書の「第二編」の「木子(きのこ)の毒可ㇾ畏(おそるべし)」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので視認出来る。なお、書名は「論語」の「陽貨篇」に基づく自己韜晦的題名。原典では「子曰。道聽而塗説。德之棄也。」(子曰く、道(みち)に聽きて塗(みち)に説(と)くは、德を、之れ、棄(す)つるなり。)とあり、この四字熟語は「根拠なき伝聞」・「受け売り」の意である。]

 

「蟄居紀談」は伊勢の祠官にして醫を兼ねた河崎延貞の著である。貞享二年九月九日、漆工半兵衞の子嘉兵衞なる者、松林から採つて來た茸を食つたところ、全家悉く泥醉したやうな狀態になり、身を悶えて呻吟しはじめた。鄰家の者が延貞の門を敲いて知らせたので、直ぐ行つて見ると、半兵衞夫婦と娘とは伏醉して死せるが如く、嘉兵衞は惡鬼にでも憑かれたやうにわめいてゐる。神仙解毒丸を飮ませたら、夜明けに三人は醒め、嘉兵衞は癡人のやうになつてゐたが、日を經て囘復した。「雜菌大毒あり。畏るべし、戒むべし」と著者は職業柄注意を與へてゐる。

[やぶちゃん注:「蟄居紀談」の下巻の「中雜菌毒」(「雜菌(ざふたけ)の毒に中(あた)る」と読むか)である。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像ので視認出来る。

「貞享二年」一六八五年。]

 

 茸そのものが陰濕の氣を享けてゐる上に、出るのも出るのも中毒談では、陰氣なことおびたゞしい。

「稽神錄」に普請をする家があつて、黃姑茸を煮て職人に食べさせることにした。時に屋上に在つて瓦を葺く者が、ふと下を見れば、廚には誰も居らず、釜の中で何かぐつぐつ煮えてゐる。忽ち裸の子供がどこからか現れて、釜を繞つて走つてゐたが、身を躍らして釜中に沒した。やがて主人が運んで來たのは茸の料理である。屋根屋ひとり食はず、他人に話もしなかつたが、食べた連中は皆死んだ。釜に飛び込んだ裸身の小兒は茸の精であるかどうか。同じ中毒談でも、こゝまで來れば明かに妖異の域に入る。三角銀杏が發止と割れる程度の話では、あまり距離があり過ぎる。

[やぶちゃん注:この段落は前の段落と繋がっている可能性もあるが、私の判断で独立させた。

「稽神錄」北宋の徐鉉(じょげん)著になる志怪小説集。

「黃姑茸」現代仮名遣で「おうこじ」と読んでおくが、原文では「黃姑蕈」でこれだと「おうこじん」である。種同定不能。識者の御教授を乞う。

 以上は「稽神錄」の「卷六」の掉尾にある「豫章人」。中文ウィキソース原文を加工して示す。

   *

豫章人好食蕈、有黃姑蕈者、尤爲美味。有民家治舍、烹此蕈以食工人。工人有登廚屋施瓦者、下視無人、惟釜中煮物、以盆覆之、俄有一小鬼倮身繞釜而走、倏忽投於釜中。頃之、主人設蕈、工人獨不食、亦不言其故、既暮、其食蕈者皆卒。

   *

 以上でパート「Ⅱ」は終わっている。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(37) 「入船町・東兩國」

 

 入船町・東兩國

 

Irihonjyokoizumityouakutagawake

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「入船町・東兩國」の原型。挿絵は「二つの繪」版よりも大きいので、新たに底本のものをスキャンして掲げた。]

 

約束は約束で一度は僕の原稿も編輯局に提出せねばならない。しかし僕の原稿は、月報第一號、遲れても第二號にとの用意でノートしてゐたものである。從つて第二號に掲載された葛卷義敏君のお母さんの手紙、われわれになつかしいたのしいあの記事を讀んだあとにもつて、また自分が若干何か述べてゆかなけれならないといふ場合にきてしまつては、この原稿、僕自身では蛇足としか思へない。

[やぶちゃん注:「編輯局」本書刊行(昭和一五(一九四〇)年十月)の時期から見て、岩波書店芥川龍之介全集の、通称、第二次普及版全集(昭和九年十月から翌年八月に刊行。全十巻。元版より二巻増)のことであろう。

「葛卷義敏君のお母さんの手紙」「葛卷義敏君のお母さん」芥川龍之介の実姉ヒサ。私は未見。漱石全集のように、旧月報を纏めて一巻ににして新全集に別冊として附すぐらいの才覚は岩波にはないのだろうか? それ単独でも十分に売れると思うのだがなぁ。]

 

 扨(さて)、昨日義(よし)ちやんよりのお言(こと)づけを老人達に申傳(まうしつた)へましたが何しろ昔の事で、すこしも覺えて居りません。築地入舟町(いりふねちやう)八丁目、番地は一寸(ちよつと)不明で御座いますが一番地ではなかつたかと思ふ位(くらゐ)で御座います。私は全然わからない事で何とも申上げやうも御座いません。

 また本所は小泉町(こいづみちやう)十五番地で、國技館から半町ほど龜澤町(かめざわちやう)に向つて行つた反對がはで新宿に移る時に釣竿屋(つりざをや)にゆづつたとの事で向ふがはに大きな毛皮屋(けがはや)がありました。震災後の事は一寸わかりません。

 尚(なほ)入舟町の方は近所で澤山(たくさん)外國人の家(いへ)があつた由。何でも聖路加(せいろか)病院の近くださうで御座います。

[やぶちゃん注:「聖路加(せいろか)病院」正確には読みは誤りで「せいルカ」が正しい。]

 

 以上、ここに芥川夫人の手紙を無斷引用して、後(あと)は御承知の如く、東京市京橋區入舟町に生まる。母死んで本所區小泉町十五番地の芥川家に入る。と、いふのが、芥川龍之介の履歷の一番初めのところ、それでこの一番始めのところから順々にカメラを活用させてみようかといふのが僕のプランであつた。けれども實際に當るそのしよつぱなに困惑してしまつたのは、現在の入舟町には五丁目までで八丁目がないといふことである。自分はいりふねばしのまん中で橋を渡る前と、渡つた後(あと)との二つの交番巡査を恨めしく思つた位(くらゐ)であつた。故に月報第二號に葛卷君のお母さんが書いた記事を手にしてこれを僕は珍重してゐる。

 小泉町十五番地は震災後東兩國三ノ一・五となつてゐて、釣竿屋さんといふのはこれはまた非常に簡單に見つかつた。今日(けふ)は病氣で臥(ふ)せてゐるといふ主人が、昔その芥川家の正面の見とりと間どりの二圖をわざわざ畫(か)いて僕らに示してくれた。慾を言へばここに挿ん外觀の見とり圖は僕らのやうに4BでなくHB程度の鉛筆書きであるために、線がうすくて直接凸版(とつぱん)にはむつかしいのである。たどたどしい雅致(がち)のある筆跡を、やむを得ずペン畫のインキでなぞることとした。圖を珍重すれば不快ではあるが、多數の人々に紹介しようがためには詮方(せんかた)もない。

[やぶちゃん注:「4B」「HB」は底本では一字分の箇所に横書きとなっている。]

 この繪どほりですが芥川さんの五葉(えふ)の松といつて、有名な松があつたのですが、それが畫(か)いてない。といふ芥川夫人の言葉はほほゑましくも聞いたのであるが、芥川家の跡を示しす石井商店の寫眞は、これまた芥川家の老人達に昔を想はせてよろしくないとも思ふ。恨むらくは當日一錢蒸汽(せんじやよき)に乘つてみる時間の持合(もちあは)せがなかつたことである。

[やぶちゃん注:「一錢蒸汽」芥川龍之介が昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回の連載(九日と十六日は休載)で『大阪毎日新聞』の傍系誌であった『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記四六――六〇」を附して連載した本所兩國(小穴隆一が挿絵を担当した)の「一錢蒸汽」及び続く『乘り繼ぎ「一錢蒸汽」』の章を参照されたい。リンク先は私の注及び草稿附電子テクストである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(36) 「二つの繪」(25)「彼の自殺」 /「二つの繪」パート~了

 

         彼の自殺

 

[やぶちゃん注:本書の「二つの繪」パートの最後で、昭和三一(一九五六)年の単行本「二つの繪」の「芥川の死」の原型。後者でも本章が「二つの繪」パートの最後である。但し、大幅な増補が成されてあり、一方で、芥川家女中の証言と称するものへの小穴隆一による批判箇所などは逆に完全にカットされている。]

 

 非常に草臥(くたび)れた自分である。眠(ねむ)らうとして睡(ねむ)れぬ自分である。亡き者として彼を考へねばならぬ。自分自らの今後も考へてゆかねばならぬ。もう一度、もう一度の最後を彼と持ちたい。さうは考へながらに、自分の部屋を一步も出る事は出來なかつた自分である。

 それ程に怖かつた自分は、二十三日の彼に遂に會ひ得なかつた。

 

 七月二十三日の夜は、寝苦しい、眠れぬ夜であつた。(藤澤の町で買つた自分の目醒時計(めざましどけい)は何時(なんじ)を示(しめ)してゐたのであらう?)窓を開(あ)けて空を見上げた時は、二十四日の朝、まだはつきりとせぬ夜明け前であらた。――さういふ習慣のない自分が、窓を開けたまゝにして復(ま)た布團の上に寢てしまつてゐた。

 呼ばれてゐる聲に自分は目を覺(さま)したのかも知れぬ。「何だか變なのです、どうもやつたらしいのです。」部屋の入口の障子に手をかけた査まゝ廊下に立つてゐてさう言つてゐる葛卷を自分は見た。「何? 今日は日曜ぢやないか。」隣室の人達に氣を兼ねて聲をのむでゐる葛卷に、自分はさう言つてゐた。

(彼は人々に對して、曾ては、面會日として定めてゐた。然し、その約束も彼の晩年に實際には消滅してしまつてゐた。今日は日曜日ではないか。さう葛卷に言つてゐた自分を、自分は不思議と考へる。日曜に自殺をしないといふ確信? があつたのは、客があらう日曜には人騷がせをするやうな事は、まづ無いものと見込んでゐたのであらうか)

「兎に角すぐ一緒にきて下さい。」

 ――自分を促(うなが)して、葛卷は部屋に這入(はい)らなかつた。

「本當にやつたのか。」

「どうもさうらしいのです。」

 葛巻と自分は顏を見合せて、下宿の外でまたかう言つてゐた。

 葛巻義敏が語るところに依れば、二人は同時に、伯母は下島へ、して葛巻は自分のところに知らせに走つたといふ。義足をつけたりなにかしてゐる時間だけ、自分の馳せつけ方は下島醫師よりも遲れてゐたと思ふ。

[やぶちゃん注:以下は全体が本文同ポイントでしかも四角い枠で囲われている引用。ブラウザの不具合を考えて、一行字数を減じた。記事中の「なかなか」の後半は底本では踊り字「〱」である。]

┌――――――――――――――――――――┐

│筆者森梅子さんは、芥川家の女中さんです。│

│この手記は、家庭の人としての芥川氏やそ │

│の自殺の前後の模樣を記したもので、氏の │

│人となりを窺ふ貴重な材料であり、その自 │

│自殺の眞相を知る一つの鍵でもあります。 │

│文章もなかなか巧みなものです。     │

└――――――――――――――――――――┘

 こゝに、彼に關する記事の誤つた物の一例として、芥川氏の死の前後、森梅子(週刊朝日第十一卷第七號)を自分はあげておきたいのである。

[やぶちゃん注:丸括弧の書誌情報は底本ではポイント落ち。私はこの二人の女性も知らず、この記事は未見なので、小穴隆一の批判の当否は言えない。]

 借りてこゝに示すが如く、「芥川氏の死の前後」なる一文を、梅子、春駒(はるこま)、姉妹二人を姉妹二人を駆使して得た週刊朝日の記者の鼻の先には、たゞ敏腕だけがぶらさがつてゐるのである。その妹梅子の話を種(たね)として、森春駒の才筆には巧なるものがある。――自分は、七時ごろ小穴樣がお出(いで)になり、先生の死の御顏を寫生していらつしやつた。なぞのところ、上手と思ふ。(芥川夫人に聞けば、「えゝあれはあの時、齒が痛いと言つて、宿に行つてて家(うち)に居りませんでした。」といふ女中梅子の描寫である。)

[やぶちゃん注:歯痛のために宿下がりをしていていなかったはずの女中梅子が居たことになっているというのである。因みにお分かりとは思うが、「週刊朝日の記者の鼻の先には、たゞ敏腕だけがぶらさがつてゐる」の皮肉は、芥川龍之介の辞世とされる自死後、下島空谷勲に与えられた短冊の名句、

 

   自嘲

 水洟(みづばな)や鼻の先だけ暮れ殘る

 

を利かせた皮肉である。]

 

「たうとうやつてしまひましたなあ。」

 二本目の注射をすませた後(のち)の、丁度、注射器を取片づけかけるところの下島醫師は、突立(つゝた)つたまゝの自分にさう聲をかけた。

 ――その時お茶を貰つた。從つて、家人は取亂した姿ではなかつた。何日(いつ)かは死ぬ。彼のその豫告の期間が餘りにながすぎた事は、悉く、人の神經を草臥(くたびれ)させてゐたとも言へる。更に葛卷の言葉をもつて借りれば、彼は、自分が死んでも、すぐに知らせると小穴は周章(あは)てるから、なるたけゆつくり知らせろと言つてゐたといふ。死にゆく彼の心持さへ自分が考へる言葉だ。

 

「如何(どう)したものでせう。」

 どちらでもよろしいやうに私(わたし)はします。と、言つてゐた醫師下島の言葉は、彼の死を病死として屆出(とゞけだ)すか、又は有儘(ありのまゝ)にこれを發表するかといふ尋ねであつた。下島が迷つたのは、自殺として發表するもよし。病死となすもよし。――死んだ者が書殘していつたこの文辭(ぶんじ)に依つたのであらうか?

「どちらでも」

 醫師として職業上の不正を犯せ、とは言えぬ自分の答(こたへ)であつた。自殺? 病死? いづれの形式をとるべきかは、馳付(かけつ)けた久保田万太郎の顏を見た時に、おのづと決定した自分は、文壇の人々では、比較して近所に住む久保田の顏を第一に見たとしてゐる。

[やぶちゃん注:小穴隆一特有の変に捩じれた表現はママである。]

 

 E十號の畫布に、木炭で、芥川龍之介の死顏(しにがほ)の下圖(したづ)をつけてゐた。

 繪具を着(つ)けるの?

 着けないの?

 彼の長子比呂志は、さう心配して畫架(ぐわか)のまはりをうろついてゐた。雜記帳と鉛筆を持出してきて、自分でも自分のやうに寫(うつ)したかつたのであらう、眠れるその父の枕頭に立つてうろうろとしてゐた。

[やぶちゃん注:「E十號」キャンバス・サイズに「E」というのは聴かない。単行本「二つの繪」の「芥川の死」の方では正しい人物サイズの『F十號』となっている。この「E」は「F」の誤植であろう。]

 づかづかと檢屍官一行が彼の枕邊(まくらべ)に來た頃には、「死んだ後(のち)、若(も)し口を開(あ)いてゐるやうであつたら、なるべく開いてゐないやうに賴むよ。」と、言つてゐた日頃の彼を勘考(かんかう)して、その彼の顏の構造を、じつくり見なほして寫す餘裕が持てた自分であつた。「出(で)つ齒(は)でせう。だから眠つてゐると口をあいてゐるんです。」といふのが彼の顏に對する、愛すべき葛卷の批評である。往年、自分が二科會に出品した「白衣(びやくい)」の時には、西洋の文人、自身の一家一族の人の寫眞に至るまで、どつさり見せて、やつぱり、立派に畫(か)いて呉れ、と言つた。「白衣(びやくい)」とは彼が名付けた題である。處士(しよし)といふ意であると説明してゐた。

[やぶちゃん注:「白衣(びやくい)」二箇所で「びやくい」(現代仮名遣「びゃくい」)とルビを振っているが、これは誤りで、「はくい」と読まねばならない。単行本「二つの繪」に追加された随筆「月花を旅に」の最後の注で小穴隆一自身が、

 

註「白衣」芥川は、白衣といふ畫題をつけて、びやくと讀まないで、はくいと讀んでくれたまへ、處士といふ意味があるのだといつてゐた。

 

と附言しているからである。ではここで小穴隆一は何故間違えたんだとのたもう御仁も有るかも知れぬが、そういう方は、泉鏡花のように自分で原稿にも丁寧にルビを振った作家は近代以降では実はごく少数派で、ルビは多くの場合、校正者の宰領に任されていたことを御存知ないか。発表が総ルビでも芥川龍之介の自筆原稿ではルビはまず少ない。堀辰雄は最初の岩波の元版全集の編集者として、ルビを総て廃除するという強い提案をしたが、編集会議で斥けられてしまっている。彼が何故、そんな主張をしたのか? ルビは多くが作者の与り知らぬ、余計なものだったからである。ここも勝手に校正者がそう振ってしまった可能性を排除出来ないであろうし、後の「月花を旅に」での追記を見ても、小穴隆一は一貫して「白衣」を「はくい」と読んでいたと考えることに何等の齟齬はないのである。

 

 

 其儘(そのまゝ)に、と言つて警察の人は、彼を寫す自分の仕事に對して妨(さまた)げはしなかつた。

 一應は點檢されてゐる芥川の體(からだ)を、固まりかけたと橫目で見た。部屋は雨氣(うき)で暗かつた。自分で彼が建增(たてま)した書齋兼寢室は、晴天の日でも明(あかる)くはない。あの部屋では平生(へいぜい)頭(あたま)を北にして寢てゐたやうである。

 

「幸(さいはひ)に、今日(けふ)は日曜で夕刊は休みだし、新聞には明日(あす)になるだらう。」

 さう語りあひながらわれわれは彼の友達が皆集(あつま)るのを待つてゐた。(愛宕山の人である久保田万太郎はじめ、誰(だ)れもラヂオに思ひおよばなかつたと思ふ。自分は後(のち)に、東北に居てラヂオで彼の死を知つたといふ人の話に、さうかと感心した。)。文壇の人なほ三四を見る頃には、意外に速い新聞記者の訪問をわれわれは受けた。日曜日といふ潛在意識は、警視廰(?)に遊びに出かけて行つた者が、偶然にも、變死人(へんしにん)としての芥川龍之介を知つたといふ。日日(にちにち)(?)の記者によつて崩れ返つた。

2017/02/12

小穴隆一「鯨のお詣り」(35) 「二つの繪」(24)「最後の會話」

 

        最後の會話

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「最後の會話」の原型。]

 

「君、金はいらないかねえ。」

 ぶらつと僕の室(へや)に顏を出した彼は、さう言つてにやにやしながら突立(つゝた)つてゐた。

「口止料(くちどめれう)みたいな金は俺はいらないや。」

「死ぬんなら死ぬで俺はいいよ。」

 やるな(自殺を、)ときた自分の感じは聲(こゑ)を吐出(はきだ)してゐた。

「まあいいや。」

 顏を顰(しか)めて悲しい笑顏になつた彼は、さう言つて自分の前に坐つた。てれてにやにやした彼がそこにあつた。

「僕は、――君は僕の母の生まれかはりではないかと思ふよ。」

 何秒かの自分の沈默を見て、かういつて、義足をはづして坐つてゐた自分の膝(ひざ)に彼は手をかけた。彼が女であるのならば、かう言つて彼女は縋(すが)りついた、と、ここに自分は書くであらう。――自分は十一月二十八日生れである。而してこの日は偶然にも、彼の死んだ實母の命日(めいにち)に當る。(彼の言葉に相違なければ、)「君は母の生まれかはりではないかと思ふよ。」自分が挨拶に窮するその言葉を、僕ら鵠沼、田端、の生活で何度も彼は繰返してゐた。――

[やぶちゃん注:芥川龍之介の実母フクは事実、明治三五(一九〇二)年十一月二十八日に衰弱のために新原家で亡くなっている。]

「ここにかうやつてゐると氣が鎭まるよ。」

 さう言つて汚ない疊の上に仰(あふ)のけに彼は轉(ころ)げてゐた。

「一寸(ちよつと)でいいから觸らせておくれよ。」

「たのむから僕にその足を撫でさせておくれよ。」

 體(からだ)をのばして彼は、切斷されたはうの自分の足に手をかけた。

[やぶちゃん注:小穴隆一は脱疽により右足首から先を切断している。]

「君の暮しは羨ましいなあ。」

 彼の嗟嘆(さたん)、――自分にとつては、常に何よりもひびいいてゐたこの彼の嘆きを、また聞きながら、死なうとする人の身の上を自分は考へてゐた。

(二十四日の朝に、彼は冷たくなつてしまつた。その日を七月二十一日と思ふ。十八日にも來て、五十圓の金を座布團の下に入れて歸つて行つた。金の事では決して人に頭をさげるな、と、言つて常に自分の窮乏を補つてゐた彼である故に、この行爲、この程度の金額は自分にとつて異(い)とするにはたらぬ。變、と感じたのは、二三日前に呉れておいた更にまた金を呉れやとする事であつた。瞬間に現行のことを考へ、――「帝國ホテル1」の章參照。――ホテルで、ここに貮百圓ばかり持つてゐる。この金のなかの半分を封筒に入れて、それと、なほ手紙を書いて君に言渡(いひわた)しておかうと思つて、丁度それを書きかけてゐたところだつた。Mが來なければ來ないでいい、一人で死なうと思つてゐたよ。と言つてゐたことと合(あは)せて、いつもよりは纏まつた金を持つてきたと感じた彼を、死ぬ人として自分は觀た。――その金? の行方(ゆくへ)は「雜」の章に説明。)

[やぶちゃん注:「帝國ホテル1」先行するこちら

「雜」不詳。この後に「雜」といふ章は存在しない。但し、後の「影照斷片」と題する短章構成のパートの中でこの自死寸前の金の話が出るから、当初、小穴隆一はこの「影照斷片」を「雜」という章題にするつもりであったものとは推定し得る。]

「僕はほんとに君が羨ましいよ。」

 また仰(あふ)のけになつてしまつた彼は獨言(ひとりごと)のやうにこぼしてゐた。

「死ぬといふことに君は如何(どう)思つてゐるのかねえ。」

「腹の中の本當のことを言つてくれないか。」

「生きてゐて樂しい事もなからうし、一緒に死んでしまつたらどうかえ。」

 再び起きなほつて、正面切つて彼は坐直(すわりなほ)してきた。

「俺は死ぬのはいやだよ。生きてゐることが、死ぬことよりも、恥辱の場合であれば死ぬさ。僕の場合では、死ぬはうが生きてゐることよりはまだ恥だ。俺はまだこのままで死ぬのはいやだよ。」

 勃然(ぼつぜん)と答へてしまつた自分を自分は見た。

[やぶちゃん注:「勃然」フラットに「突然に起こり立つさま」の意が元だが、ここは「顔色を変えて怒るさま・むっとする様子」の意である。]

「ああ! それは本當の事だ、生きてゐることが、死ぬことよりも恥である場合は――本當だ。」

「ほんたうだ。ほんたうだ。確かに君の言ふそれはほんたうだよ。」

 頭を抱へて轉(ころ)ぶ目の前の彼を、悲しく、冷やかに、自分ながめてゐた。

(自分は、彼に對する自分の非人情なるその答へを、彼にすまないことを言つたと思つてゐる。

 

 七月二十二日、金曜日である。

 不幸があつて大阪から上京してゐた水上(みづかみ)の兄の訪問を、この日の晝に受けた。(弟が世話になつた禮を芥川によろしく言つて呉れと言つてゐた。)僕は田端驛の崖上(がけうへ)にあつた藪(やぶ)で蕎麥を喰つて水上の兄と別れて、夕日があたつた彼の家に廻つた。座に下島勳(いさを)がゐた。(昭和二年、文藝春秋九月號、芥川龍之介氏終焉の前後 下島勳を讀まれたい。)空谷(くうこく)の記事に從へば、その日の氣温は華氏の九十五度といふ。下島空谷が去つた後(のち)の彼は、「また死ぬ話をしようや。」のひそひそ話(ばなし)の彼であつた。――、話が途絶えた時に、冷たい部屋をしみじみと自分は見廻した。華氏九十五度といふ日の夜と、如何(どう)思澄(おもひすま)してみても、さぶさぶとしたぞつとした彼の書齋であつた。――あれをこそまこと殺氣といふべきか、からぢゆうがぞつとして、四五尺離れて坐直(すわりなほ)した彼の顏をそつとしか自分は窺へなかつた。

 ――口をもごもごと動かして彼が自分に笑ひかけた時に、わつ! と言つて自分は立上(たちあが)つたのかも知れぬ。「俺はもう駄目だ。」と叫んでゐたのかも知れぬ。手を振拂(ふりはら)つて自分の足が階段にかかつたとき、自分を引戾(ひきもど)さうとする無言の彼の手を肩に感じた。摩脱(すりぬ)けて階段の踏板(ふみいた)を摑(つか)んだときに、「子供を賴むよ。」と輕く自分の肩を抑へておいて、部屋に身を飜(ひるがへ)して戾つてしまつた彼である。

 ――同時にパチンと電燈を消してしまつた音を聞いた。暗いなかで彼は泣いてしまつたのかも知れぬ。

 ――階段をいつきに自分は飛びおりた。(自分の義足にあせつてゐた。)出合頭(であひがしら)に唐紙(からかみ)が開(あ)いて、彼の家族達の顏を見た。「もう駄目です。」「僕はもう駄目です。」顏で二階をさして、夢中で下宿に歸つて、布團のなかに自分は潛りこんでしまつた。

「なに、いつものなんで、大丈夫ですよ。大丈夫ですよ。」

 さう言つてゐた夫人と葛卷の聲をたよりに、眠つて明日(あす)を待たうとする自分があつた。

 ――以上が彼との最後で‥‥、

 彼の家(いへ)に行くことは怖(こは)し、翌二十三日は、一日(にち)宿(やど)に轉(ころ)がつてゐた自分である。

小穴隆一「鯨のお詣り」(34) 「二つの繪」(23)「彼の家族」

 

        彼の家族

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「養家」の原型。]

 

 彼の家族、彼のいふ年寄達は、機關學校の教官の職を抛(なげ)うつて彼が作家として立つ、その事には何等異議を持たなかつたと聞いてゐた。皆が賛成をした。就中(なかんづく)伯母の如きは喜んで眞先に賛成したものだといふ(作家として立つ、そこに不安なる收入に對する考へも、うやむやにして消えたといふ。)

 自分は、家族の人々に關しても多少は知る筈である。如何彼が言ひまはさうとも、一面に於いては間違(まちがひ)もなく芥川家が龍之介を中心としてゐた一家であつた事にも相違は無い。實に彼に相應(ふさは)しい家族であつたといふべきものはある。が不幸にして、一人伯母に對してだけは、彼は、(姉、弟は省く。)相當に根強く複雜な感情を表白(へうはく)し、多少の批判を彼自身に有利(いうり)として、他に洩らす事も生じた次第である。不幸なる彼の伯母は、不幸なる上に孤獨に置かれた。彼の死直後、自殺に至つた彼の經路としては推量の説を種々(しゆじゆ)の人々が發(はつ)した。伯母と不和の爲に家庭的に面白からざるものが釀(かも)されてゐた。左樣な類(たぐひ)の彼女自身に觸れた記事に對しては、必然、彼の伯母は敏感に受けたものがあらう。愛する彼を失ひ、引きつづいて賴むその兄に先立たれては、世を避け人を避けで苦しんでゐる彼女が殘る。彼女を今日考へれば、彼女は芥川家のためにも、亦芥川龍之介のためにも、非常に緣の下の力持ちをしてゐた點を自分が説くべきである。彼女が彼女の兄、彼の養父の家に年老(としお)ふるまで同居してゐた事が、不圖(はから)ずも彼の家庭生活のびのびとさせなかつたその結果に於いては、ただ遺憾といはうよりほかはない。家中(いへぢう)の者が朝飯をたべてゐた時に、君の足を切る知らせを聞いた。さうしたら女房が箸を置いていきなり、わつと泣きだしたものだから、皆が一緒においおい泣きだしたものだよ。――さういふ昔の彼の言葉さへなほ耳についてゐて、殘された彼の家族の者を思ふ餘地もない自分の身である。畢竟、良秀(よしひで)ほどの強い意志は持てぬ彼から生じた非(ひ)、それから考へてみる必要も亦あらう(「地獄變」の良秀を血氣(けつき)の彼は心中(しんちう)に畫(ゑが)いてゐた。大正十年の秋、湯河原で、「地獄變」について小澤と彼との間(あひだ)論議が交された。腹の中の如何(どう)であつたかを知らぬ。表面何處までも良秀を是(ぜ)として譲步しない彼を自分は見てゐた。)

[やぶちゃん注:「引きつづいて賴むその兄に先立たれては」芥川龍之介の養父芥川道章は芥川龍之介自死の凡そ一年後の昭和三(一九二八)年六月二十七日に満七十九で亡くなった伯母芥川フキは昭和一三(一九三八)年に満八十二を目前にして亡くなっている。]

 

 彼の死後に、彼が、使ひ殘りと言つて、都度(つど)に預けてゐた金が六千圓近くにもなつてゐた。といふ事が、それを預かつてゐた養父道章の話として聞かされた。この話を耳にして感じたのは、從順なる彼の性質である。子として、夫として、親として、更にやさしかつた芥川龍之介を、改めて自分は感じた。さうして、てんしんやうしんりうの按摩で、毎晩三十分伯母さんの肩を揉む。といつてゐた時代の彼が囘顧され、侘(わび)しい自分自身を思返すばかりであつた。

 同樣に死後、月々に百何十圓かの金を、自身、及び妻子の食料(しよくれう)として、養父に彼が納めてゐたと聞いた時に、これを不思議と自分は思つた。彼を連戾(つれもど)さうとした彼の實父に向つて、強ひてこの子を連れて歸るなら、俺は腹を切る。と、愛し、その命にかけて貰つた彼から食料をとるといふ養父の心に、自分は合點(がてん)しなかつたのである。この意見に對して、自分の父は、「一概に惡くは言へない。年寄(としより)といふものは自分の物を一錢でも餘計に子に殘し度(た)い。それで食扶持(くひぶち)を取らなければ、おぢいさんの物が其儘(そのまゝ)そつくり子に傳へる事が出來ないといふわけで、おぢいさんは食料を取つてゐたのではないかね、まあ、年寄といふものはさういつたものだ。」と微笑をもつて自分を教へた。

 自分は赤面したのである。

[やぶちゃん注:「食料」老婆心乍ら、「食費」の意。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(33) 「二つの繪」(22)「彼に傳はる血」

 

        彼に傳はる血

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「橫尾龍之助」の原型。]

 

 彼に傳はる血。自分の知るところは、彼が「大導寺信輔」等(など)を書いて示してゐた以上を、知るとは言へない。

[やぶちゃん注:「大導寺信輔」芥川龍之介の自伝風の実験作品(事実上は未完と言えると私は思う)「大導寺信輔の半生――或精神的風景畫――」(大正一四(一九二五)年一月『中央公論』)のこと(リンク先は私の草稿附きテクスト)。]

 彼の話に間違いなくば、彼の實母は、晩年を一人しよんぼり二階に暮してゐたやうである。人が紙を渡しさへすれば、お稻荷樣ばかり畫(か)いてゐたといふ。彼も亦、恐るおそる二階に首をのべて、紙を差出(さしだ)し、お稻荷樣を書いて貰つたことがあるといふ。

 ここに一人の傳記作者があつて、氣違ひとなつた芥川龍之介は、その生母が稻荷樣を畫いてゐたやうに、(何を畫いても、實際皆、顏は狐だつたといふ。)河童ばかり畫いてゐたと、斯樣(かやう)に書いてゐたとしても、不幸にして笑へぬ程の因緣を自分は見る。

 長男の位置であらうにも關(くわん)せず、彼は芥川家の養子となつてゐる。彼は新原(にいはら)家の人ではないのか? 大正十四年四月一日新潮社發行、現代小説全集、芥川龍之介集によつて調べる。

 芥川龍之介年譜

 明治二十五年三月一日(じつ)、東京市京橋區入船町(いちふねちやう)に生まる。新原敏三の長男なり。辰年辰月(づき)辰日(じつ)辰刻(たつこく)の出生(しゆつせう)なるを以て龍之介と命名す。生後母の病(やまひ)の爲、又母方に子無かりし爲(ため)當時本所區小泉町(こいづみちやう)十五番地の芥川家に入(い)る。養父道草(みちあき)は母の實兄なり。

 三十一年本所區元町(もとまち)江東(かうとう)小學校に入學。成績善(よ)し。

 三十五年實母を失ふ。――

 ここに、彼自身作製したのであらうこの年語に書落しはないのか? 芥川龍之介全集月報第八號所載の寫眞(寫眞參照)を見る。芥川龍之記(き)のの字を、人々は既に見てゐる。さうして自分は、勇気を出してぶちまければ、――彼の棺に釘を打つときに、「これを忘れました。」――惶急(こうきふ)に彼の夫人が自分に渡した紙包は○○龍之。彈じて龍之介とは書いてなかつた臍緒の包(つゝみ)である。のみならず新原・芥川そのいづれでもない苗字を讀んだ。臍緒に姓名の誤記といふ事が彼の一家の人々を見渡して考へられやうか。あの場合の自分の視力を今日に至つても自分は疑へない。――夏の日四日も棺のなかにおかれた人の顏を、永遠に形を失ふ前の彼の顏を人は見たいといふのか。死體から立つ臭氣と撒(ま)かれた香水のにほひに、(昭和二年改造九月號、通夜(つや)の記、犬養健(けん))を讀まれたい。忘れ得ぬものが自分の胸底(むなぞこ)にはある。

[やぶちゃん注:太字「助」は底本では傍点「◦」である。

「芥川龍之介全集月報第八號所載の寫眞(寫眞參照)」元版月報で私は所持しないので何の写真なのか不詳であるが、別にどうといことはない。高等小学校時代の手書き回覧雑誌『日の出』の「西洋お伽噺」の自筆署名は『芥川龍之助述』であり、そもそもが、彼の名作「鼻」の『新思潮』初出は作者名を『芥川龍之助』と印刷してある一部で言われている「助」の字が大嫌いで、宛名がそう誤っていたものは封を切らずに捨てた、などというまことしやかな話は実は都市伝説の類いであることが、これらからも判る

「惶急」「惶」には「畏れる」以外に「急」と同じく「慌ただしい」の意がある。

「○○龍之助」「橫尾龍之助」の伏字。ここで言っておくと、これは所謂、驚天動地の芥川龍之介私生児説なのであるが、私は思うに、この芥川龍之介の臍の緒の表書きは、

 

 臍尾 龍之助

 

だったのでではあるまいか?

それを小穴隆一は「橫尾」と読み違えたのではないか?

と実は深く疑っているのである

「昭和二年改造九月號、通夜の記、犬養健」私はこの「通夜の記」の原文を読んだことはないが、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の独立項「葬儀」の中にそこからの引用があるので孫引きしておく。但し、漢字を恣意的に正字化した(「添え」はママ)。『棺のうへの寫眞には、頰杖に倚つて前面を凝視したものを選んである。守刀がこれに添えられてある。此處には滿室の花輪の香と香水の匂が強い。花の香に醉ふもののあるくらゐに強い』。]

「ことによると目玉が暑さで流れてゐるかも知れない。」この谷口の注意によつておわかれを家族がする前に、三人が、(竹内仙治郎、谷口、小穴、)立つて先に棺のなかを改めた。南無妙法蓮華經を大音聲(だいおんじやう)に唱へながら棺に手をかけた谷口は、「あ、駄目だ。」とこれ亦大聲にわめいた。――彼の顔に被せた白いきれはすつかり濡れてゐた、にじみだした人間の膏(あぶら)はきれを赤土で煑染(にし)めたが樣(やう)に染めてゐた。――故に、取拂(とりはら)ふ必要を認めぬ程、濡れてぴつたり顏に着いたきれは、土中(どちう)に埋(うづ)まる落葉(らくえふ)のなかの顏のやうに、瞼(まぶた)の輪廓(りんかく)を示してゐた。相見(あひみ)て三人は彼の家族に見ることを許さぬ程にとけた顏、――等々(とうとう)をここに自分は語らうといふのではない。

 二十七日の告別式に至つて遂に自分は、自分の嘗て見知らぬ○○龍之助の前に始めて立つた。

 ――○○龍之助が芥川龍之介とする。然らば、何故芥川龍之介はその間の消息を一度も人に語らずして死んでゐるのであらうか。謎である。苦痛と考へた考へに生きてゐることが、苦痛を孕(はら)むでゐた種(たね)は、もしやといふ考へを持たせる。この疑惑は、正確な自畫像が描(ゑが)けなかつた彼の弱點に結ぶべき根本(こんぽん)のものであつたのではなからうか。依然たる自分にとつての今日(こんにち)の謎である。

 燒場(やきば)の竃(かまど)に彼の寢棺(ねぐわん)が納められて鍵が卸(おろ)されてしまつた。

 焼場の者の單なる偶然の過失は、竈(かまど)の門扉(もんぴ)に掛けてゐた名札を、芥川龍之助と書いてゐた。さうして竈の前に、再び自分の見知らぬ芥川龍之介の面差を自分は見詰めて立つてゐた。谷口喜作は燒場の者に注意をして芥川龍之介と書改(かきあらた)めさせた。恒藤恭(つねとうやすし)が、よく注意してくれた、と谷口に禮を述べてゐた。自分は、ただ自分の見知らぬ芥川龍之介を思ひ、考へてゐた。

 

柴田宵曲 妖異博物館 「妖花」

 

 妖花

 

 遠州秋葉山の東南に京丸といふ土地があつて、岩石の聳えた斷崖に牡丹のやうな花が每年咲く。京丸牡丹といふのがこれである。「秉穗錄」は「さしわたし二三尺もあるべし」と云ひ、「煙霞綺談」は「徑尺ばかりに見ゆる」と云つてゐる。「雲萍雜志」はこの花が川に流れて行くのを拾つた者があり、花びらのわたり一尺餘もあるべし」と話したといふ。大きさが一定せぬのも尤もで、いづれも人の話を傳へてゐるに過ぎぬ。遠望した花の大きさは測りがたいから、それは已むを得ぬとして、色も「煙霞綺談」は白と記し、「雲萍雜志」は「色紅にして黃をおびたる花」と云ひ、全く區々である。二抱へとか、四抱へとかある木の花で、花の大なる故に牡丹と呼び來つたものであらう。遙かの斷崖に在つて正體を究め得ず、散つて下流に泛ぶのを拾ふといふのは、若干妖氣がないでもない。

[やぶちゃん注:「遠州秋葉山」「あきはさん」と濁らずに読むのが一般的。現在の静岡県浜松市天竜区春野町(はるのちょう)領家(りょうけ)にある、赤石山脈南端の山で標高は八百六十六メートル、古えより火防(ひぶせ)の神として知られる秋葉大権現の山として知られ、中世以降は修験道の霊場となった。秋葉権現の眷属は天狗であり、天狗信仰の山でもある。

「牡丹」真正のそれならば、双子葉植物綱ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa となる。

「京丸」現在の天竜区春野町には小俣京丸(おまたきょうまる)がある(ここ(グーグル・マップ・データ))が、不審である。ここには「秋葉山の東南」とあるが、現在のそこは秋葉山の「東北」に位置するからである。しかも、現在の同地区の西端には「京丸山」があり、ここより遙か南に古地名が下がるとは思われない。そこで取り敢えず「秉穗錄」原文(後掲)を見たところ、やはり『東北』とあることが判明、これは柴田の転記ミスであることが明らかとなった。なお、驚くべきことにウィキペディアには「京丸」が存在する。出典が示されていない点で問題が指摘されてはいるが、以下に全文を引いておく。『京丸(きょうまる)は、静岡県内の地名である。浜松市天竜区春野町小俣京丸。かつて、一部からは仙境視、秘境視され、伝承、風俗が民俗学者などの興味を引いた。享保年間に起きた洪水の際に、下流の石切村に流れ着いた椀が発見されるまでは、存在を知られていなかった隠れ里とされる。柳田國男や折口信夫も興味を持ち、折口信夫は実際に来訪し、村の藤原本家に宿泊して、実地調査を行った』。『石切川の水源をなす山中にあった。特殊なボタン(牡丹)を産するといい、そのボタンが咲くときは遠方からこれを認めることができ、落花が渓流を流れて来るという。ボタンは文献によってその花の色は異なり、また』、七年或いは一〇年或いは六十年毎に『咲くともいう。この牡丹については悲恋の伝説が残っている。昔、村に迷いこんだ若者と、村の娘が恋に落ちた。が、村には里人以外と婚姻してはならないという掟があり、悲嘆した二人は大きな牡丹に変じたのだという。また最後の住人であった藤原忠教は若い頃、この巨大牡丹を見たと証言しているが、現地住民の間では一種のシャクナゲ』(石楠花:双子葉植物綱ツツジ目ツツジ科ツツジ属 Rhododendron シャクナゲ亜属 Hymenanthes『を誤認したのであろうといわれている。住民は京都から世を避けて隠れ住んだ、藤原左衛門佐という者の子孫であるといい、全員が藤原姓であったが、これは山村の神人の家に例が多い。最後の住人であった藤原忠教が死去した後は、廃村となっている。京丸という地名は京人が住むからであるという。「掛川志」には、遠江奥山郷について「御料の地であつて、三年毎に上番をした、仕丁一人ありこれを京夫丸といふ」とあるので、一説に奥山郷に隣接する京丸は、京夫丸の転訛であるという。貴人が隠棲した地であり、それは平家の残党であるとか、後醍醐天皇、あるいは宗良親王であるとかいい、応永年間の「浪合記」その他の記述からは、遠江、三河などの山地に伝わる尹良親王と関係があるという。里おさの屋敷の結構、阿弥陀堂に伝わる親鸞上人筆と称される画像、葬式に僧侶がおらず阿弥陀の画像を導師とすること、などから仙境の地であるとされた。葬式に阿弥陀の画像を導師とするのは、周智郡内の山村、三河、飛騨などでも行なわれた』。『柳里恭「雲萍雑志」には、浜松から「十五里ほど山に入れば、遠江と信濃の国のさかひなる川そひの地に、京丸と呼ぶところあり、その地は他より人の行きかふべきところにもあらず、国の境に、藤の蔓もて長さ五六十間もあらんとおもふほどの桟をかけたり、その地は家わづかに四五軒ありて、農の業はすれども、常の食は米は聊かも食はで、稗にあづきをまじえて粮とす」とある』。『西村白烏「煙霞綺談」には、ボタンについて「険阻なる山のはらに大木二本あり、遠く見渡すところ、一本は凡そ四囲、一本は二囲ほどにて、初夏に花を発く、其色白く径尺ばかりに見ゆる、外に類すべきものなく、牡丹なりしといへり、古しへ内裏の跡にて、其時の花壇なりと土俗いひ伝へり」とある』。『文献としては、「遠江風土記伝」、「秉穂録」、「煙霞奇談」、「遠山奇談」、「東海道名所図会」、「遠山著聞集」、曲亭馬琴の「山牡丹」など諸書に言及、記述があるが、そのほとんどは伝聞である』。

「秉穗錄」現代仮名遣で「へいすいろく」と読む(「秉」はこれ自体が「一本の稲穂を取り持つ」ことを意味する)。雲霞堂老人、尾張藩に仕えた儒者岡田新川(しんせん)による考証随筆で寛政一一(一七九九)年に成立。その記載は「第二編 卷之上」にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

遠州秋葉山の東北四五里に、京丸といふ所あり。古は通路なかりしが、近頃は人の通ひあり。其岩石そびえたる斷崖に、大なる牡丹のやうなる花、年每に咲く。さしわたし二三尺もあるべしと、平野主膳といふ其國の人語れり。

   *

現在の秋葉山山頂から小俣京丸地区の中心までは東北に直線で十八キロメートル以上あるから、「四五里」十五・七から二十キロメートル弱というのはすこぶる正確な数値である。

「徑尺ばかり」以下の原文で判る通り、「わたりしやくばかり」と読む。直径で三十センチメートルほどの意。異様な大輪である。「煙霞綺談」のそれは、「卷之四」の「三 仙翁花(せんおうげ)牡丹 附 繪像奇異」の一節。全く関係のない記事(特に後半)が前後に挟まっているが、折角なので、総てを吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。歴史的仮名遣の誤りがあるが、ママとした。

   *

○今草花に翦秋羅(まつもとせんをう)いふあり、此花洛西(らくさい)嵯峨仙翁寺(せおうじ)より出て、仙翁花といふなり。

伊勢の濱荻(はまをぎ)は、二見の浦三津村の南にあり、常の蘆と違ひて片葉なりといへり。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

東武にも片葉の蘆あり、寶曆五年の秋、東武より如鷺亭冬濤(によろていとうとう)といへる俳士(はいし)來り、五七日近鄕同遊(どうゆう)せしに、ある山蔭の細(ほそき)流れに生る蘆悉く片葉なり。其前後水田多(をゝく)、蘆生じて數多(あまた)あれども皆常の蘆なり。冬濤曰、東武片葉の蘆生ずる所、その土地た三方より風吹來る、此所も山のかゝり一方より風のあたる所片葉なり、外は皆常の蘆也。かくのごとく草の風にしたがふゆへに、古人の歌に風をよせて詠ぜられしも理(ことわ)りなりとて、其日の家づとに持(もた)せ侍りし。

秋葉(あきは)山の麓(ふもと)にいぬゐ川といふ雷、末は天竜川に落(をち)て船筏(ふねいかだ)の通路あり。此川上に京丸といふ小村の片邊り、峻岨(けんそ)なる山のはら大木二本あり。遠く見渡す所、一本は凡四圍(いだき)、一本は二圍ほどにて、初夏(しよなつ)に花を發く、其色白く徑(わたり)尺ばかり見ゆる。外に類すべき物なく、牡丹なりといへり。近き比、其村の者に出合、是を尋聞(たづねきく)に扮(まが)ひなき牡丹なりとぞ。古(いに)しへ内裏(だいり)の跡にて、其時の花壇なりと土俗云傳(つたへ)り。然れども浩(かゝ)る深山(しんざん)に内裏をうつさるべき謂(いはれ)なし、往古(むかし)より寺といふ物も宗旨といふ事もなく、死亡の者ある時は土人集(あつま)り、むかし親鸞聖人自畫(じぐは)の阿彌陀の像を披(ひら)き、念佛を唱(となへ)て葬(さう)す。今も猶替(かはる)事なし。其始いかなるゆへと云事しらず。

宅間證賀法印(たくましやうがほういん)栂(とが)の尾にゆきて、春日(かすが)すみよし二神の像を上人に請て拜し寫(うつ)さんといふ。明惠(めうゑ)上人の曰、此像を寫せばかならずたゝりありといふ、無用たるべしと止めたまへども强(しい)て模寫(もしや)す。歸洛に落馬して死(し)したり。鳴滝に宅間が塚とて今も有、斯(かゝ)る怪しき畫像もある事にや。

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が一字下げ。]

自見翁曰、むかし良秀(りやうしう)という畫者(ぐわしや)、ある時己(おの)が居宅(ゐたく)火災に罹(あへ)り、しかれども是を少しも悲しまず、人にいふは、居宅(ゐたく)は時あつて造るべし。此火災に因て不動の火炎の妙を悟り得たりと悦びしと也。人の物數寄(ものずき)さまざまにて、禍(わざわひ)も却(かへつ)て名言妙句(めいごんめいく)の謀(はかりごと)ともなるか、しかれども惡人は其身其財を失ふ事間(まゝ)あり。

   *

「雲萍雜志」のそれは「卷之四」の以下。今回は吉川弘文館随筆大成版を加工元としつつ、「埼玉図書館」公式サイト内の「デジタルライブラリー」版からダウン・ロードした(和綴じ、版元は江戸和泉屋金右衛門ら、出版年:は天保一四(一八四三)年)PDFと校合し、原典に最も近い形で電子化して示す。但し、カタカナと思しいもの(「ハ」「ミ」等)はひらがなで示した。

   *

○東海道濱松といふに宿りし時、家(いへ)のあるじの申は、このところより天龍川に添(そへ)て、十五里ほど山に入れば、遠江と信濃の國のさかいなる川そひの地に、京丸(きやうまる)と呼ぶところあり。その地は、他(た)より人の行かふべきところにもあらず。國の境に、藤の蔓(つる)もて長さ五六十間もあらんとおもふほどの棧(かけはし)をかけたり。所の者は京丸の棧(かけはし)といへり。巾(はゞ)せまくして、行くにさへ目(め)くらみ、魂(たましひ)きゆるばかりなれば、かの地へ行くものとてはいと稀なり。誰(た)が親の世には、京丸へ行たることのありなど、只(たゞ)噂にのみ、そのところのことかたりつぎて、見たる人もなきに、この宿の下男、好事(かうづ)のものにて、京丸見て來(きた)らんと、しばしの暇(いとま)を乞ひて、かしこに行たりけり。その地(ところ)は家(いへ)わづかに四五軒ありて、農(のう)の業(わざ)はすれども、常の食(しよく)に米は聊(いさゝか)も食はで、稗(ひえ)にあづきをまじへて粮(らう)とす。この男(をとこ)が行(ゆき)たる家は、その中(うち)にも長(をさ)と思はるゝ者にて、麻(あさ)の織(おり)たるに尾花(をばな)を入れたる、新しき夜(よる)の物(もの)を出(いだ)して、着せたるのみにて、敷(し)けるものは家のあるじもなし。枕は木(き)の角(かく)なるをもて臥(ふさ)しめたり。所の人のかたりけるは、この山を登りて、凹(くぼ)かなるところより見れば、珍らしき花(はな)ありとて、案内(あない)しければ、男、行て見るに、はるかなる岨(そば)のもとながれあり、水勢(すゐせい)の屈曲して激する聲(こゑ)のいさぎよきけはひ、いふべくもあらず、溪間(たにま)を遠くへだてゝ、その大(おほき)さ、ふたかゝへもあらんとおもふばかりの樹に、色、紅(くれなゐ)にして、黃(き)をおびたる花、今をさかりと咲(さき)たり。夏の事なれば、あまりの暑さに、案内(あない)の人は木の葉をいたゞきたり。さていふやう、此花の大(おほき)さ、こゝより見ればさほどにもあらず。この川の末尻(すゑじり)といふところに、この花の散りて流れ行(ゆ)けるを拾ひしものあり。花びらのわたり、一尺余(よ)もあるべしと語れり。いかなる木の花にか。たえて知る人なし。遠江の國人(くにびと)は、これを京丸(きやうまる)の牡丹(ぼたん)とて、今猶ありといふ。この頃は人もゆきかふことありて、この地へもいたれど、この花のある溪(たに)へ、尋ねゆきて見たる人、なし、とぞ。舟筏(ふねいかだ)も通(かよ)はざる地にして、人の用なきところなり、といへり。四五軒の家ある中(なか)に、長(をさ)とも見ゆるものゝ家は、寺院(てら)めきて佛畫(ふつぐわ)を懸(かけ)たり。その畫幅(ぐわふく)は、一向宗の眞向光明(まむきくわうみやう)の彌陀にひとしき、大(おほ)いなるものなり。食物(しよくもつ)のみを供へ、松をともして燈明(とうみやう)とす。花を手向(たむく)る事なし。夜は燈火(とうくわ)なく、炬(たきび)をもて業(げふ)となせり。土人はみな總髮(そうはつ)にして、男女(なんいよ)ともにおなじ。髭(ひげ)は鎌にてきるといへり。子供も皆總髮にて、衣類には麻のあらきを織(おり)て、尾花、蒲(がま)の穗など入りたるを着たり。夏も寒しといふ。かの男、濱松へかへるにのぞみて、泊りたる家(いへ)あるじに、錢(ぜに)もて謝しけれども、他國は、かゝるものにて用を足(たせ)ども、この地に用なきものとて取らず。家にかへり給ひて後(のち)、便(たよ)りあらば米を少しにても贈り給はるべしいひて、念頃(ねんごろ)に藤の棧(かけはし)まで、人に送らせて、さすりて行(ゆけ)かしと、度々(たびたび)いへるよし、大事に行くべしといふ意(こゝろばへ)にやと、宿(やど)のあるじ、ものがたりき。おもふに深山幽谷にわたりては、かゝる地もあるにやとおもへば、行(ゆき)ても見たきこゝちなんせらるゝ。

   *

「區々」「まちまち」と訓じておく。

「泛ぶ」「うかぶ」。]

 

 京丸牡丹が果して牡丹であるかどうかに就いては、古人にも異說がある。「甲子夜話」は「煙霞綺談」を引いた後に、近頃聞くところによると、秋葉山より三州へ越える山中には、人跡の絕えたところがあり、その岨路(そはぢ)の遙か向うに、大木の白牡丹が二三本あつて、花時には諸木を抽んでて見えるが、何であるか知つた者がない。嘗て里人がその花を尋ねて行つて見たら、辛夷(こぶし)の大きなので、それが白牡丹のやうに見えたのであつた。倂し世の辛夷よりは花も殊に大きく、香も非常に高かつたさうだ、と書いてゐる。遠州屋牧右衞門といふ者の話を傳聞したといふのであるが、遠州屋も多分自分で見極めたのでなしに、里人から聞いたものであらう。諸木を抽んでるやうな牡丹は、ちよつと考へにくい。辛夷にしてもそんな大きな花があるかどうか疑はしいけれど、京丸牡丹の妖氣はこの邊から發散するやうに思はれる。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」全巻所持するが、探すのが一苦労なので、発見し次第、追記することとする。悪しからず。【2018年8月9日追記:これは「甲子夜話卷之二十九」に「遠、參の深山、牡丹に似たる大木ある事」であることが判明した。

「三州」三河国。秋葉山と京丸の位置関係からはやや不審であるが、山伝いの場合は遠江か三河に出るには嶺を伝って遠回りをしたということか。

「岨路」「そは(ば)じ」「そは(ば)みち」或いはであるが、近世以前は「そはみち」と表記・発音した。嶮(けわ)しい山道のこと。

「抽んでて」「ぬきんでて」。

「辛夷(こぶし)」双子葉植物綱モクレン目モクレン科モクレン属コブシ Magnolia kobus

 元文六年の話といふことである。能登の向瀨村にある妙覺寺の老僧が、用事あつて子浦(しほ)村まで行つた時、とある石に腰掛けて休んでゐると、道端を落ち下る流れに、牡丹と思はれる鮮かな花が、忽然と流れて來て、水の淀みに据る。續いてまた數輪の牡丹が流れ出し、水面に竝んだので、不思議な事もあるものだと思ふ間もなく、暫くして水を遡り、二つ竝ぶ大石の中に見えなくなつた。花は仰向けに据つて押竝び、妖色きらきらと油ぎつて光り渡るやうに見えた。子浦村に著いてこの話をしたところ、たまたま來合せた男が大いに不審し、實は私も今日東谷の道を步いて居りまして、二丈ばかり下の川の中にさういふ花らしいものを見ました、遙かに岸の上から見たのですから、牡丹か百合が流れて來るのだと思つただけですが、今のお話を思ひ合すと、同じものかも知れません、毒蛇妖花をなすと老人に聞いたこともあります、今日はもう暮れましたから、明日吟味して見ませう、その花を御覽になつた場所をお敎へ下さい、と云ひ出した。翌日老僧は向瀨村への歸り道、その男を伴ひ、昨日の石に休息し、一時ばかり待つてゐたが、更に牡丹の流れる樣子もない。東谷の方も同じ事であつた。

 毒蛇妖花をなすなどといふ話は、他ではあまり聞かぬやうだが、「三州奇談」はこの牡丹の外に、もう一つこんな話を傳へてゐる。木滑といふところの社地に、或年ふと大きな蔓を生じ花が吹いた。先づ凌霄(のうぜん)といつた工合であるが、紫色なところが多く、花の色が油ぎつて、日に向いて光る。皆不思議がる中に、古老の山人が來合せて、これにさはつてはならぬ、蟒の化したものだと云つた。その後風雨が一兩日續き、この草は枯れて根もなくなつた。油ぎつて日に光るといふのが妖花の特色らしい。

[やぶちゃん注:「三州奇談」この前段の話は私の所持しない「三州奇談後編」の方の「卷五」の冒頭「向瀨の妖華」に出るものであるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで画像で視認出来る。それを読むと、柴田は終わりの部分の、後の段の話柄と同じような「蟒」蛇(うわばみ)変化(へんげ)の可能性を匂わせる痕跡を発見したとするパートを何故かカットしてしまっていることが判る。後の話柄とのジョイントもいいはずななのに、甚だ不可解である。なお、後段の異花の話は何度か縦覧したが、正編・続編ともに見出せないでいる。発見次第、追記する。【二〇二〇年六月五日追記】三州奇談續編卷之五 向瀨の妖華」を電子化した。しかし、やはり不審は晴れない。「木滑」は「子浦」である。どうも、宵曲は杜撰な版本か、写本を読んだ可能性があるように思われる。

「木滑」現在の新潟県新潟市南区木滑(きなめり)か。(グーグル・マップ・データ)。

「凌霄(のうぜん)」双子葉植物綱シソ目ノウゼンカズラ科タチノウゼン連ノウゼンカズラ属ノウゼンカズラ Campsis grandiflora夏から秋にかけて、橙色或いは赤色の大きな美しい花をつける。紫色というのは私は見たことがない。]

 牡丹の花は艷麗ではあつても、妖味はあまり感ぜられぬ。もしどこかに妖氣が含まれるとすれば、花のゆたかに大きな爲であらう。木蓮、百合などにも若干共通するものがある。「四不語錄」にあるのも同じ能登の話で、農家の手代が深見山の上で思ひがけず牡丹畠に逢著する。そんな畠などのないところで、季節も少しおくれてゐるから、怪しいとは思つたが、根が草花好きの男なので、暫く立ち止つて眺めてゐると、向うの山際から一人の女が現れた。容顏も衣裳も共に美しく、地上を步まず、宙を踏んで來るやうなので、狐狸のたぶらかすものと疑ひ、用心してゐるところへ、女は言葉をかけて、その花を一枝折つて下さい、といふ。はじめは答へずにゐたけれども、三度まで同じ事を云はれたので、これは私の花ではございませんから、折ることは致しかねます、持主からお貰ひ下さい、と云つて通り過ぎようとした。その時女近寄り來り、是非に一枝所望ぢやと云つた顏は、もう前のやうに美しい事はなく、たゞ凄まじく感ぜられる。手代は氣を失ひ、前後を辨へなくなつたが、その身體は七八町も隔たつた谷間に橫たはつてゐた。薪を採りに行つた近郷の者がそれを發見し、かねて見知つてゐるので、その宅まで屆け、醫療を加へた結果、漸く正氣に戻つた。彼の話した委細は右の如くであつたが、果して狐狸の仕業か、天狗に投げられたのか、その邊は不明であつた。寛永六年の事ださうである。

 この話には限らぬが、山中の牡丹といふのが已に異常である。京丸牡丹にしても、花は遙かな絶壁に咲き、僅かに花びらの下流に泛ぶのを拾ふといふ點に、神祕的な色彩を漂はせるものがある。

[やぶちゃん注:「寛永六年」一六二九年。

 既に注した通り、「四不語錄」を私は所持しないので原典を示せない。なお、私はこれらの山中奇花の根源の一つは、記紀に出現する常世国(とこよのくに)にあるとされる不老不死の架空の樹「非時(ときじく)」の花に、中国の桃花源伝説等が絡み合って、それが事実譚らしく加工変形された話群にあるのではないかと秘かに踏んでいる。]

柴田宵曲 妖異博物館 「大鯰」

 

 大鯰

 

 豐前國に千丈が瀧といふ大きな瀧がある。この山の觀音堂の前に御手洗の池があつて、橋がかかつてゐる。或夏の晴れた日、この橋上で涼んでゐると、水中から躍り出るものがあるので、何かと思つたら鯰であつた。はじめは先づ頭だけ出し、次いで身體を半分ほど出し、遂に一躍すれば、一尺餘りの鯰が水の上二三尺も飛び上り、いづれへか飛び去つた。不思議な事もあるものだと見てゐるうちに、俄かに山に雲が起り、烈しい風が吹いて來て、雷鳴急雨、天地晦冥となつた。暫くして雨や風の止んだ後は、また平日に變るところもなかつた。

[やぶちゃん注:現在の福岡県嘉麻市泉河内にある「千丈ヶ滝」か。個人ブログ「ぽんぽこ」のこちらに紹介ページがある。但し、観音堂は見当たらない。]

 鮭は地の底で地震を起すだけでなしに、こんな放れ業を心得てゐるらしい。この話を傳へた「寓意草」は、小倉あたりでは夏の快晴の日、鯰が十丈ぐらゐの空を飛んで行くことは稀にある、大きなのになれば一丈餘りもあるさうだ、と書いてゐる。たとひ空を飛ばぬにせよ、一丈餘りの大鯰は已に怪異に近い。

[やぶちゃん注:「十丈」「一丈」は三・〇三メートルであるから、約三十メートル上空を飛ぶ三メートルの鯰はエルンストもマグリットもぶっ飛びのシュールだろう。

 「寓意草」の当該部分は、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。]

「甲子夜話」に見えた琵琶湖の大鯰は恐るべきものであつた。はじめ黑い大きな魚が浮んだのを、何とも知らず銛で突くと、俄かに風濤が起り、湖の上が暗くなつたので、漁夫も恐れて舟を漕ぎ戾した。この事を聞いた漁夫が申し合せ、翌日風をさまり波穩かになるのを待つたところ、昨日と同じ魚が現れた。多くの舟で取り卷き、一度に數十の銛で突き立て、遂にこれを斃したが、水面に浮んだのを見れば、三間餘りの大鯰であつた。大網を以て漸う陸上に引き上げたのを、附近の豪民が買ひ求め、膏を取つたら、實におびたゞしい分量であつた。この腹中に髑髏二つと、小判が八十餘斤あつたのは、嘗て溺死者を食つたものであらう。從來、秋の大時化がある頃には、黑い物が湖中に見えるので、土地の者は黑龍だなどと云つて居つたが、この鯰であることがわかつた。天氣晴朗の日には姿を見せなかつたのに、この年は時候が常と違ひ、地氣に變があつて、水上に浮んだものらしい。文政七年三月の事である。鯰と龍とはあまり共通性がないやうだが、黑龍と見違へられる先生が存在するとすれば、時に空飛ぶ鯰があつても、深く怪しむに足らぬかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「文政七年」一八二四年。

 以上は「甲子夜話卷之四十八」の「琵巴湖(びはこ)の巨鰋(おほなまづ)」。以下に示す。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した。

   *

今玆(ここに)三月の末、江州(がうしう)の琵巴湖(びはこ)に巨(おほき)なる黑魚(こくぎよ)浮(うかみ)しを、漁人(ぎよじん)もりにて突(つき)ければ、俄に風濤(ふうたう)起り、湖色冥晦せしまゝ、恐れて舟を馳(はせ)て避還(にげかへ)り、そのことを説く。因(よつ)て數口(すうにん)の漁夫言合(いひあは)せ、その翌日風収(をさま)り波穏(おだやか)なるを待(まち)て窺(うかがひ)しかば、又昨(きのふ)の如く魚現れしを、多の舟取捲(とりまき)て、一度に數(す)十のもりを突(つき)て、乃(すなはち)魚死したり。打寄(うちより)て見るに、三間餘もある老鰋(らうなまづ)なりしと。迺(すなはち)大網(おほあみ)を以てやうやうに陸(くが)に牽上(ひきあげ)たるを、其邊(そのあたり)の豪民(がうみん)買取りて膏(あぶら)をとりしに、夥しき斤兩(きんりやう)を得たりと。鰋(まなづ)の腹中(ふくちう)に髑髏(どくろ)二つ、小判金八十餘片(よへん)ありしとなり。いつの時か溺死の人を食(しよく)せしなるべし。從來秋の頃、大しけする時は黑き物湖中に見ゆるを、土俗これを黑龍なりと云傳(いひつたへ)たり。於ㇾ是(ここにおいて)始(はじめ)てこの鰋(まなづ)なることを知る。これ迄天氣晴朗のとき見へたること無きに、今春時候失ㇾ常(つねをしつし)、世上流行病(はやりやまひ)ありて地氣(ちき)も亦變ありと覺しく、この鰋(なまづ)も時に非ずして浮みたるなるべし〔この頃京都にも、各所の池の鯉鮒等頻(しきり)に水面に浮めり〕。これ時に非ずして出いで)たるより漁人にこそ獲(と)られける。万物ともに數(すう)あることなる当(べし)【林語(はやし、かたる)】。

   *

鯰の大きさは「三間餘」とあるから五メートル五十センチはあり、異様に巨大であることが判る。最後の割注、「林語」(読みは私の推定)とは松浦静山の知己の儒者、林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)のこと。]

 琵琶湖に近い安土にも大鯰の話がある。時代は天正頃といふのだから大分古いが、安土の北を流れる大河の川上に釜ガ淵といふところがあり、十間四方ばかり水が靑み立つて恐ろしく、昔から底の見えたことがない。この淵に網をおろし釣を垂れる者は、必ず淵に引き込まれ、死骸も見えぬといふので、近在の者は恐れて近寄らなかつた。相田五郎太夫、六郎治といふ西國浪人の兄弟、渡世の道につまり、朝夕鐡砲と釣竿で暮してゐたが、或時五郎太夫が倅の五助を連れてこの淵の際を通ると、大きな鯉鮒が無數に居る。こゝは人を取ると云はれて居るけれど、大した事もあるまい、今夜來て釣つて見ようと話し合ひ、夜に入つてひそかに釣りに來た。五郎太夫父子は三間ほど隔てて釣を垂れ、五助は一尺餘りの鯉を二尾釣り上げたのに、五郎太夫の鈎には何もかからぬ。こゝは魚が居らぬのかと竿を上げようとした時、大きな手應へがあつた。どうしても上らぬから、岩にでもかゝつたかと思つて、絲を弛めると、恐ろしい力で引く。遂に引き寄せられて膝まで水に浸り、五助を呼んだが、途端に水が逆卷き上つて、四尺餘りの眞黑な頭が現れ、五郎太夫を銜へて引込んでしまつた。五助馳せ歸つて叔父の六郎治に委細を語り、自害しようと云ふのを六郎治は止め、中陰のうちには何とかして敵を取らうと云ひ聞かせた。三日過ぎた夜、六郎治は五助を伴つて釜ガ淵に赴き、五助は先夜の如く釣を垂れ、自分は四間ばかり上手の岩の間に身を隱し、鐡砲に玉を込めて待ち構へた。五助は大きな鮒を五六尾釣り上げたが、そのうちに竿が動かなくなつた。相圖の咳拂ひをして六郎治に知らせ、自分は次第に水中に引込まれさうになつた時、竿を捨てて刀を拔く。怪物が眞黑な顏を現して飛びかゝるところを、六郎治の一發は見事に命中した。五助も拜み打ちに斬り付ける。大浪しきりに湧き起る中から、再び出た頭に二發目を打ち込む。水の動搖もしづまつたので、その夜は引き揚げ、翌朝早く來て見ると、大きな鯰が白い腹を出して水面に浮んで居つた。頭より尾まで一丈六尺、頭の周圍六尺、鬚の長さ六寸と「御伽厚化粧」に書いてあるが、この鯰は武勇傳でもあり、復讐譚でもある。釜ガ淵の主が大鯰であるなどは、適材適所と云ふべきであらう。

[やぶちゃん注:「天正」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年:ローマ教皇グレゴリウス十三世がユリウス暦を改良してグレゴリオ暦を制定したのは一五八二年)。

「釜ガ淵」不詳。「安土の北を流れる大河」は須田川か、その北の愛知川であろう。

「十間」約十八メートル。

「三間」約五メートル半。

「四尺餘り」一メートル二十一センチ越え。

「四間」七メートル強。

「頭より尾まで一丈六尺、頭の周圍六尺、鬚の長さ六寸」全長四メートル八十五センチメートル、頭部の巡りが一メートル八十二センチ弱、鬚の長さ十八センチメートル。大鯰の名に恥じぬ。

 以上は「御伽厚化粧」の「卷之二」の「六、釜淵鯰魚妖怪 附 稻田六郎治同五助鐡砲を以て父兄の敵を討(うつ)事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。]

2017/02/11

910000アクセス突破記念 熊本牧師 梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年八月号『新潮』初出、同年九月河出書房刊の単行本「紫陽花」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第四巻」を用いた。

 登場する貨幣(銅貨)単位でも判るが、これは梅崎春生の少年期をモデルとしているから、大正一〇(一九二一)年(春生はこの年に福岡市立簀子小学校に入学。六歳)から、大正一五(一九二六)年よりも前(彼は昭和二(一九二七)年に修猷館中学校に入学している。十二歳)の時制として読むべきであろう。後半に出る「五厘銅貨」は大正十年頃には既に製造をやめているようであり、作中でそれを「正式の銅貨でなく、半通用のようなあんばい」とするところ、牧師に行動を変に疑われるところから考えると、大正十三、十四年、梅崎春生小学四、五年生の頃がモデルと考えてよいように思われる。

 本電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが910000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年2月10日 藪野直史】]

 

 熊本牧師

 

 その教会は町なかにあった。

 それは幅三間ばかりの商店街で、商店街というより商人町と言った方がピッタリするような小さな呉服屋や荒物屋やアンパン屋や自転車屋、そんなのがごちゃごちゃ並んでいるまんなかに、その教会はぬっと聳(そび)え立っていた。教会そのものはそれほど大きな建物でなかったが、あたりの家家が小さいので、ことのほか大きく見えるのだ。それに建物の様式が周囲とかけ離れていて、屋根上の十字架や色ガラス、石階や小さな鉄柵に囲まれた花壇、古ぼけた町がこういう異物をかかえこみ、そしてたいへん当惑しているようにも見えた。実際に町は当惑していたのだろう。よほど古い町筋で、そこの住民たちはたいへん保守的で、それに排他心の強い傾向もあったから。僕がその教会の日曜学校に通っているというだけで、その町の子供たち、僕の同級生やあるいは下級生までもが、僕の背後から嘲笑的にはやし立てたりするのだ。[やぶちゃん注:「三間」五メートル四十五センチほど。]

「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」

 日曜日の朝になると、小学生の僕はだんだん心が重くなり、身体のふしぶしがだるくなってくる。日曜学校に行きたくないのだ。日曜学校で讃美歌をうたったり、お祈りをしたり、聖書のお話を聞いたり、そんな一時間が退屈の故もあったが、その往き帰りに同級生たちがそそぐあの嘲弄的なまなざし、それが耐えがたかったのだ。思うだけでも気が滅入(めい)ってくる。他の同級生にとっては、日曜はたいへん愉しい日なのに、僕だけは日曜というやつが重苦しい。重苦しいと言ってもそれは午前中だけで、午後からはすっかり愉しくなるのだけれども。つまりその頃の僕の日曜は、午後から始まると言ってもよかった。

「日曜学校だよ」

 とお母さんが僕を揺りおこす。乱暴に揺りおこす。

「遅れると熊本牧師さんに叱られるよ!」

 僕は渋々と食卓に向う。腹が痛いことはないか、風邪の徴候はないか、そんな具合に自分の身体を探るようにしながら。病気になれば日曜学校を休めるのだ。(そのかわり牛後の愉しさもふいになる危険はあったが)。その頃僕の家の朝食は、週日はいつもオカユだった。茶を入れてたいた茶ガユというやつだ。それをタカナの古漬けか何かをオカズにして、さらさらとかっこむ。その茶ガユが僕には苦手だった。今でも僕は茶ガユというやつは、子供に与えるのは不適なものだと思っている。毎日学校の行き道に、道沿いの長屋の部屋々々で、その住人たちが真白な御飯や味噌汁を旨(うま)そうに食べている。それを見て僕はうらやましいと思う。唾が出てくる。なぜ家(うち)では硬い御飯を朝食べないんだろうなあ。その方がおいしいし、力もつくのになあと思う。お婆さんが佐賀の出で、それでしきたり上朝は茶ガユにするとのことだった。僕は子供心にいつも佐賀をのろっていた。

「さあ、御飯だよ」

 日曜日の朝だけは茶ガユでなく、白くて硬い御飯なのだ。僕のお父さんは官吏で、日曜日は休みで朝寝が出来るから、そこで御飯ということになっていたのだろう。茶ガユというやつは御飯にくらべて、はるかに簡単に手軽に出来るし、それにオカズがほとんど要らないのだ。しかし真白な御飯でも日曜日の朝は面白くない。飯のあとにイヤな行事が待っているからだ。

「さあ。服はここにあるよ」

 飯が済むとお母さんが言う。ふつうの週日、月曜から土曜までの学校行きは、小倉の服に下駄ばきなのに、日曜学校行きとなるとサージの服で、しかもそれが折襟で、穿(は)くのは靴と来ている。そんな恰好(かっこう)であの商人町を歩くと、どんなことになるか。[やぶちゃん注:「小倉」小倉織(こくらおり)。江戸時代の豊前小倉藩(現在の福岡県北九州市)の特産で縦縞を特徴とした良質で丈夫な木綿布を指す。「サージ」オランダ語“serge”(セルジ)。しばしば「セル地」と書くが「地」(布地)は当て字。主に梳毛糸(そもうし:羊毛から長い繊維を縒り分けた上でこれを梳いて縮れを伸ばし、平行に並べて作った毛)を用いた薄手の毛織物。英語は同綴りで発音は「サージ」である。「折襟」ここは立折襟(おりえり)で所謂、学生服様(よう)の詰襟のことであろう。]

「ふだんのでいいよ」毎回僕はお母さんに哀願する。「靴なんかイヤだ」

「駄目だよ。教会に下駄穿いて行く人なんかありますか」

 お母さんはなかば暴力的に、僕にそのゼイタク服を着せてしまうのだ。そして靴も同じく無理矢理に。そしてポケットに二銭銅貨をひとつぽとんと入れてくれる。献金用にだ。実際あの頃の二銭銅貨は大きかったなあ。ずしりと持ち重(おも)りがして、まるで文鎮(ぶんちん)みたいだった。それをポケットにまさぐりながら、僕はしょんぼりと出かける。腹が痛いといいんだがなあ、などと考えながら、まるで屠所にひかれる羊みたいに。

 そして僕はあの商人町に足を踏み入れる。同級生の眼にとまらないようにと、軒下をうつむき加減にして、そそくさと足早に歩く。でも駄目なのだ。かならず誰かに見つかつてしまう。たとえばアンパン屋の息子などに。アンパン屋は教会の隣にあって、その息子が僕と同級で、そいつがまたあまり出来が良くなくて、アンパンというあだ名がついていた。

 「またアーメンソーメンかい」アンパンは僕を見付けてにやにやしながら言う。「アーメン、ソーメン、ウドンソバ」

 一週間で日曜をのぞいたあとの六日なら、僕もひとかどのがき大将で、アンパンのそういう雑言を許しはしないのだが、日曜となるともう駄目なのだ。ゼイタク服を着て皮靴を穿いているというだけで、僕の気持はたちまち萎えひるんでしまう。ストレートジャケットを着せられたみたいで、手も足も出なくなってしまうのだ。僕は歯を食いしばり、恥で顔をあかくして、こそこそと教会の門に飛び込む。門に飛び込んでしまえば、もうこっちのものだ。いく らじたばたしたってアンパンたちはここに入れないのだから。(帰りがまた辛いのだけれども)。そして僕は熊本牧師のところにあいさつに行く。[やぶちゃん注:「ストレートジャケット」“straitjacket”は、囚人などでも粗暴な者や、暴力傾向の強い精神疾患を持った患者に強制的に着用させるズック製などの拘束着のこと。]

「牧師さん。こんにちは」

 熊本牧師は背が高く、肩幅もがっしりとしている。真黒な鬚(ひげ)を頰から顎(あご)に生やして、まるで熊襲(くまそ)のようだ。その熊本牧師が渋団扇(しぶうちわ)みたいな大きな掌を僕の頭にのせる。

 その教会の正牧師はずっと病気中で、この熊本牧師がその代理としてやっているとのことだった。[やぶちゃん注:「正牧師」プロテスタントで当該の教会の主任牧師を指す。熊本牧師はその下で経験を積むために奉仕している副牧師ということであろう。]

 九時から日曜学校が始まる。日曜学校と言っても、十時から始まるふつうの礼拝の大人たちがもうやって来ていて、僕たちの世話をやいたりするから、まるで大人と子供とまぜこぜの学校みたいだった。子供たちはこの町のはいなくて、たいてい他の学区の少年たちで、この町の子供たちとちがってツンとすましていて、やはりゼイタク服と皮靴を穿いていた。僕もゼイタク服は着ていたが、気分的にはこいつらと全然親しめなかったのだ。だから教会堂の中でも僕は孤独だった。

 やがてお祈り(天にましますわれらの父よ、というやつ)、それから讃美歌(学校の唱歌とちがうあのキナキナした感じの歌)、それから小部屋にわかれて聖書の話、また元に戻って讃美歌(その時に献金箱が回ってくる)、最後にピラピラの絵入りカード(神は愛なり、などと印刷してある)を貰って、それでおしまい。なんとも退屈な一時間だった。[やぶちゃん注:「キナキナ」方言と思われるが不詳。識者の御教授を乞う。]

 こんな退屈な一時間に、二銭銅貨を献ずるなんて、もったいなくて仕方がない。

 そこで僕はその二銭銅貨を途中でくずして、つまり一銭分だけニッケ玉か飴玉を買い、それを食べ、献金は一銭ということにしていた。献金箱には各自がそっと入れるのだから、二銭だって一銭だってかわりはない。

 今考えると、入れたふりして次に回すことが出来るのだが、当時の僕は純真で、そこまで悪智慧が回らなかった。

 そんな具合で、この日曜学校においては、僕はあまり良い生徒ではなかった。

 聖書の話中に居眠りをしたり、暗誦(あんしょう)させられてもてんで出来なかったり。

 それに総員起立で讃美歌を歌っている時などに、突如として僕は身をかがめ、椅子の下にもぐり込んだりするのだ。何故かというと、隣のアンパン屋の物干台の上から、アンパンが窓ごしに会堂内をのぞき込んだりするからだ。もちろん僕がいるかいないか、どんな顔をして讃美歌をうたっているか、それを見てやろうとの魂胆からだ。すなわち僕は椅子の下にもぐり込まざるを得ない。

 そういう僕を、熊本牧師は恐い眼をしてにらみつける。会堂の秩序を乱したものとして、ぎろりとにらみつける。にらみつけるだけならいいが、居残りを命じて、僕を叱りつけたりするのだ。

「お父さまやお母さまに言いつけますぞ!」

 それが熊本牧師のきまり文句だった。

「そんなことをしてもいいと思っているのか。この前の日曜も椅子の下にもぐり込んだではないか。一体何のためにもぐり込むのですか?」

 僕は答えられない。

 その答えられないということにおいて、熊本牧師は僕を誤解したんじゃないかと思う。僕をなるだけ女生徒の近くに腰かけさせないようにし始めたのだ。僕のそばに女生徒がいると、直ちに恐い眼になって僕に命じる。

「××君。君の席はあちら!」

 僕は情なかった。そういう具合に誤解されたことにおいて、僕は情なかった。アンパンがのぞき込むからこそ、僕はもぐり込まざるを得ないのだ。近くに女生徒がいようといまいと、それは全然関係ない!

 だから僕はいつか熊本牧師をすこしずつ憎み始めるようになっていた。そういう僕をひねくれ子供として、熊本牧師は憎んでいたにちがいない。

「また君はお祈りの中に首をちぢめたりして、皆を笑わせようとしたな。お父さまに言い付けるぞ。君のおかげで場内の空気が乱れては、わたしの立つ瀬がないではないか!」

 絵入りカードがくばられる前に、熊本牧師はその日の献金額を皆に報告する。たとえば次のような具合だ。

「今日の献金は総計一円五十五銭でした。皆さんのこの浄らかな献金は、いつもの通り、貧しい可哀そうな人たちに贈りたいと思います」

 熊本牧師はおちょぼ口でそういう報告の仕方をする。表面におちょぼ口は全然似合わないのだ。そして熊本牧師は食堂の入口に立ち、帰って行く僕らに満足そうに、一枚ずつ絵入りカードを渡す。

 ある日曜の献金報告の時、熊本牧師は大へん困ったように、口をもごもごさせた。

「本日の献金は、ええ、合計一円三十五銭と――」熊本牧師はちょっとためらった。「ええ、一円三十五銭と、五厘でした」

 わあ、と皆が笑い出した。

 熊本牧師は威厳を傷つけられたように、顔をまっかにして唇を嚙んだ。思いなしか僕の方をじろりとにらみつけたようである。

 もちろん僕もわらっていた。その五厘銭は僕が入れたのだ。二銭銅貨でニッケ玉を三個買い、おつりの五厘銭を献金箱に投げ込んだのだ。五厘の価値しかないと僕が判定したわけだ。それに五厘に格下げすれば、ニッケ玉が一個余計に手に入る。

 その頃五厘銅貨というやつは、もう正式の銅貨でなく、半通用のようなあんばいで、なにか滑稽で愛橋のある銅貨だったのだ。[やぶちゃん注:画像。]

 その日曜から三回にわたって、教会の献金額には五厘という端数がついた。その度に熊本牧師は少からず威厳を損じた。

 それならば五厘という端数を省略して報告すればいいのに、やはり熊本牧師は神の子だから、虚偽の報告は出来なかったのだろう。それを思うと気の毒でもあるが、しかし彼にも充分な責任がある。彼も罪を犯している。誤解という罪を犯している。

 その次の日曜日はもっとひどかった。

 献金箱の中に天保銭が一枚入っていたのだ。

 熊本牧師の面目は、その瞬間においてまったく丸つぶれになった。そして彼はすでにその犯人の目星をはっきりつけていた。

 僕は居残りを命じられた。絵入りカードも貰えずにだ。熊本牧師は乱暴にも僕の耳を引っぱって、いきなり隅の小部屋につれて行った。

「君だな。献金箱に天保銭を入れたのは!」

 熊本牧師は顔をまっかにして、こめかみをびくびくふるわせながら、そう怒鳴りつけた。

「君だろう。君以外にこんな大それたことをやる者はいない。ああ、何ということだ。聖なる神様に天保銭だなんて!」

 僕は黙っていた。かたくなに黙って、ポケットのニッケ玉をまさぐっていた。一箇食べただけだから、それはまだ三箇残っていたのだ。

 とたんに熊本牧師ががくんと床に膝をついたので、僕はびっくりした。彼は大げさに指を組み、天井に顔を向け、白眼を出すようにしながら、お祈りを始めたのだ。それは神様に向って、僕のような悪い子供のいることを許して呉れ、という風(ふう)な意味のものだった。堅い木椅子に腰かけたまま、僕はしだいに居ても立ってもいられないような、むずむずした気分になってきた。うらがなしいような自責の念もあった。しかしそれはその奇妙な気分の主調ではなかった。もっと別の、もっと生理的な、汗がじりじり滲み出てくるような、えぐいような、嘔吐(おうと)を伴ったようなイヤな気分。そして瞬間僕はかるい貧血を起して、そのまま椅子から辷(すべ)り落ちて、床にしゃがみ込んでしまったのだ。熊本牧師はあわててお祈りを中止して、僕を抱き上げたらしい。黒い毛織の服のにおいがふわっと僕の鼻にただよった。

 

 次の日曜日の朝、僕は腹痛をおこした。

 その次の日曜日は、腹くだしを。

 その次は、鼻カタルを。

 だから三回つづけて日曜学校に行かないで済んだ。ふしぎなことにはそれらの病気は、午後になるとピタリと快癒(かいゆ)した。まったく奇妙なぐらいだった。

 その次の日曜日も、僕は朝から身体のあちこちが具合が悪かった。

 寝ている僕を見て、お父さんがにがにがしげに言った。

 「また日曜病気か。仕様がないな」

 そしてお母さんを呼んで言いつけた。

「もう日曜学校に通わせるのは、止めにしなさい。ほんとに仕様のない子供だよ、こいつは」

 その日以来、僕はずっと日曜学校に行かないですむことになった。日曜病気もそれ以後全然起らなくなった。僕は日曜の度にたいへん健康だった。あのゼイタク服はお正月に着用するぐらいなもので、そのうち身体に合わなくなったから、割に新しいまま弟に下げ渡した。

フランスの原発事故は……

9日午前に激しい爆発事故の発生したフランスのフラマンビル原発のことをその夜にツイッターで投稿したら、僕の投稿では特異点で、実に今朝までで、104のリツイートと55の「いいね」が、されてある。意想外であったので、ここでも再掲しておくこととする。

   *

爆発事故の起こったフランスのフラマンビルの原発――

地図で見たら――

真北16キロの直近にあるのは……

フランスが当時隠蔽した、1980年の驚天動地の地球破滅寸前事故になりかかった(プルトニウム沸騰だぜ!)

……ラ・アグー再処理工場じゃねえか!!!

Centrale nucléaire de Flamanville(グーグル・マップ・データ)

AREVA La Hague(グーグル・マップ・データ)

2017/02/10

柴田宵曲 妖異博物館 「守宮の釘」

 

 守宮の釘 

 

 寶曆十二年の春、遠江國金谷に住む橫山某の家で、壁の雨除の板が朽ち損じたのを取替へようとすると、その下から釘に貫かれた守宮(やもり)が現れた。これは二十五年前にこゝを修覆した際、釘を打たれたので、その疵は癒えながらも、くるくる𢌞るばかりで、逃げられなかつたものとわかつた。それにしても二十五年の永い間、どうして生きて居つたらうと、人々不審に思つたが、よくよく見れば、壁に行き通つた道らしい一筋の跡がある。守宮は雄か雌かわからぬけれど、雌雄のいづれかが、その間食物を運んでゐたものの如くであつた(煙霞綺談)。

[やぶちゃん注:「寶曆十二年」一七六二年。

「遠江國金谷」東海道五十三次二十四番目の遠江国最東端の宿場金谷(かなや)宿。現在の静岡県島田市金谷の内(グーグル・マップ・データ)。

「二十五年前」江戸時代は経過年数も数えで計算するから一七三六年で元文元年に当る。

「煙霞綺談」は西村白烏(はくう)が本書を校閲している林自見の「市井雜談」の続篇として偏した俗話集で、自序に明和七(一七七〇)年とクレジットする。以上は同書の「卷之一」に載る「守宮蟲喰物を運ぶ」(*附注:「守宮蟲」には「ゐもりむし」のルビがある驚くべきことに、生息環境の全く異なる守宮(やもり:爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属ニホンヤモリ Gekko japonicus)と井守(いもり:概ね、両生綱有尾目イモリ亜目イモリ科イモリ属アカハライモリ Cynops pyrrhogaster を指すことが多い)は、形状の近似性(私は全くにていないと思うが)から、江戸時代にはは混同されて呼称されていた。これは強壮・媚薬や不義判定の妙薬或いは実際の漢方生薬として乾燥したそれらが一緒くたにされて認識されていたことや、「井守」の表記が「居守」にずらされたこと等によるものではなかろうか、と私は考えている。である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。歴史的仮名遣で読みをオリジナル(但し、底本にある「いもりむし」の箇所は正しく「やもりむし」と振った)に附した。「行通(ゆきかよ)う」の「う」はママ。

   *

寶曆十二年の春、遠江金谷の驛橫山某が居家の壁に雨除(あめよけ)の板あり。二十五年已然修復せしままなれば餘りに朽損(くちそん)じたれば、是(これ)を取(とり)かへ侍(はべ)る時に、先年此(この)板をうち付けたる時節に通りかかり、釘につらぬかれたると見えて、俗にいふ守宮蟲(やもりむし)眞中(まんなか)を釘にさし通され、其(その)疵(きず)は癒(いえ)て、くるくるまはるばかりにて迯(にぐ)ることもならず、大工も不思議に思ひ、其ゝま人々に知らせたれば、珍らしき事なりとて大勢集(あつま)り是を見る。さるにても廿五年の月日、何としてかかく生ながらへぬらんとよくよく見れば、壁に行通(ゆきかよ)うたる道とおぼしく一筋に跡あり。此雌雄(しゆう)數年の間(あひだ)喰物(くひもの)を運び(くは)喰せたると見へたり。

   *]

 

 この類の話の古いところは、寬文十年の「醍醐隨筆」に出てゐる。ただそれは守宮でなしに百足であり、釘でなしに針であつた。祈禱の札を針で留める際に、誤つて打付けられたので、その後札を取り拂ふ時になつて年號を見たら、二十何年か經過してゐることがわかつた。如何にして永い間生きながらへたか、その理由は書いてないが、廣い世間の事だから、こんな事も往々あると見える。

[やぶちゃん注:「醍醐隨筆」は京の医師中山三柳が醍醐の里に隠居して綴った随筆で寛文一一(一六七一)年刊。全二巻。私は所持しない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のの左下末尾から次のページにかけて視認出来る。この話、「閑田耕筆」に引用されているらしいが、発見出来なかった。見つけ次第、追記する。]

 

 これを小說の世界に持つて來たのが「西鶴諸國はなし」(貞享二年)で、この方は大分怪談がかつてゐる。名月の晩に天井から、手が四つあつて、顏は乙御前(おとごぜ)の黑きが如く、腰は薄平たい、怪しの者が腹這ひになつて、奧樣のあたりへ寄ると見えた。覺えず聲を揚げ、守り刀を持つて參れと云はれたので、御側の者が取りに行く間に、怪しい面影は消ええてしまつた。然るにその夜の夢に、背骨と思ふあたりに、犬釘を打込まれると見て、魂もえるばかりであつたが、御自身には何事もなく、疊に血が流れてゐる。安部左近といふ卜者の說に、この家内に災ひをなす者があるといふことであつたから、三方の壁以外を悉く取り外して見ても何事もない。もう氣がかりの物はこれだけといふ叡山よりの御祈念の札板をおろし、一枚づつ放して見たところ、上から七枚目の下に、長さ九寸ばかりの守宮が、腰骨を金釘に打ち貫かれ、紙のやうに薄くなつて生きてゐた。即座にこれを燒き棄て、その後は何の祟りもなかつた、といふのである。京都の話で、御所方の奧局、忍び返しの損じを直すとか、窓の竹の打替へとかいふ程度の仕事に、男の大工を入れると吟味が面倒なところから、臨時に雇はれる女大工がある。西鶴はそれを用ゐて、「見せぬ所は女大工」といふ標題を置いたのであつた。

[やぶちゃん注:「貞享二年」一六八五年。

「乙御前(おとごぜ)」おかめ・お多福のこと。

「卜者」「ぼくしや」。占い師。

「奧局」「おくつぼね」。屋敷の奥の、主家の妻ら女性が居住するパート。男子の出入りが厳しく制限されるロケーションであることころから、それが標題の「見せぬ所は女大工」となったと柴田は言っているのである。ただ、以下の原文を味わって戴くと判るが、怪異出来(しゅったい)のシークエンスはなかなかいいものの、打ち貫かれた守宮の真相でチョンと鳴るところは、甚だ尻すぼみの感を免れぬ。

 以上は「西鶴諸國はなし」の巻頭を飾る一篇。以下に原典を示す。底本は平成四(一九九二)年明治書院の「決定版 対訳西鶴全集 5」(麻生・富士訳注)の原文部分を用いたが、読みは最小限に留めた(表記は本文も読みもママ)。数箇所に歴史的仮名遣の誤りが認められるが総てそのまま活字化した。底本に載る挿絵も入れておいた。

   *

     見せぬ所は女大工

Onanadaiku

 道具箱には、錐(きり)・鉋(かんな)・すみ壺・さしがね、㒵(かほ)も三寸の見直し、中びくなる女房、手あしたくましき、大工上手(じやうず)にて、世を渡り、一条小反橋(こぞりばし)に住(すみ)けると也、都は廣く、男の細工人(さいくにん)もあるに、何とて女を雇(やとい)けるぞ」。「されば御所方(ごしよがた)の奥(おく)つぼね、忍び歸(がへ)しのそこね、または窓の竹(たけ)うちかへるなど、すこしの事に、男は吟味もむつかしく、是に仰せ付られける」と也。

 折ふしハ秋もすゑの、女良(じやらう)達案内して、彼(かの)大工を紅葉(もみぢ)の庭にめされて、御寢間(ねま)の袋棚(ふくろだな)、ゑびす大黑殿(だいこくてん)迄、急ひで打(うち)はなせ」と、申わたせば、「いまだ新しき御座敷を、こぼち申御事は」と、尋ね奉れば、「不思議を立るも斷(ことわり)也、すぎにし名月の夜(よ)、更行(ふけゆく)迄、奥にも御機嫌よくおはしまし、御うたゝねの枕ちかく、右丸(みぎまる)・左丸といふ、二人の腰本(こしもと)どもに、琴のつれ引(びき)。此おもしろさ、座中眠(ねぶり)を覺(さま)して、あたりを見れば、天井より四つ手の女、㒵(かほ)は乙御前(おとごぜ)の黑きがごとし。腰うすびらたく、腹這(はらばひ)にして、奥(おく)さまのあたりへ寄(よる)と見へしが、かなしき御聲をあげさせられ『守刀(まもりがたな)を持(もち)て、まいれ』と仰(おゝせ)けるに、おそばに有(あり)し藏之助とりに立間(ま)に、其面影消(きへ)て、御夢物語のおそろし。我(わが)うしろ骨(ぼね)とおもふ所に、大釘(おほくぎ)をうち込(こむ)と、おぼしめすより、魂(たましゐ)きゆるがごとくならせられしが、されども御身には何の子細もなく、疊には血を流して有しを、祇園に安部の左近といふ、うらなひめして、見せ給ふに、『此家内(やない)に、わざなすしるしの有べし』と、申によつて、殘らず改むる也。用捨(やうしや)なく、そこらもうちはづせ」と、三方の壁計(ばかり)になして、なを明(あかり)障子に迄はづしても、何の事もなし。

 「心にか掛る物ハ、是ならでは」と、ゑいざんより御きねんの、札板(ふだいた)おろせば、しばしうごくを見ていづれもおどろき、壱枚づゝはなして見るに、上(うへ)より七枚下に、長(たけ)九寸計(ばかり)の屋守、胴骨(どうぼね)を金釘(かなくぎ)にとぢられ、紙程(ほど)薄(うすく)なりても活(いき)てはたらきしを、其まヽ煙(けぶり)になして、其後(のち)は何のとがめもなし。

   *

底本の注を参考に簡単に語注する。

・「㒵(かほ)も三寸の見直し」諺で、少しの欠点は再び見直してみると、それほど気にならなくなるという意味で、ここはまた、直前の語「さしがね」の縁語としても機能している。

・「中びく」語としては突出すべき顏の中央部分が凹んでいることで、鼻ぺしゃのことであるが、ここは所謂、不細工な顔の謂い。

・「大黑殿」大黒天。

・「九寸」約二十七センチメートル。]

 

「諸國はなし」の守宮は、二十五年もながらへた因緣つきのものではない。「いまだ新しき御座敷」といふ一句を見ても、さう時間が經過したものでないことは明かである。後から尾鰭をつけさうな怪談が却つて前に在り、「煙霞綺談」は存外淡々と敍し去つた。念入りになつたのは、守宮の情愛だけである。「醍醐隨筆」の記事が「諸國はなし」になり、またそれによつて「煙霞綺談」の話を作り上げた、といふ風に系統を立てるには、事件が小さ過ぎるやうだから、その邊の解釋は見る人の考へに任せる。

小穴隆一「鯨のお詣り」(32) 「二つの繪」(21)「芥川夫人」

 

     芥川夫人

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「芥川夫人」の原型。]

 

 ――夕方、秋の夕日を浴びながら、海岸のはうへ僕ら二人は步いてゐた。

「わたしははやくに父をなくしてゐたから、どんなのんだくれでもいい、お父さんがあつたはうがよいと思つてゐた。それだのにと言つて泣かれた時は僕は實際、‥‥」

 夫人の述懷をかう話し出した彼は、そのまま、「俺は實際女房にすまない。」「いくぢが無いんだ。」と言葉も胸もこみあげてしまつて路(みち)に立つた格好で淚を拭つてゐた。(どこまでも淋しい鵠沼の思出だ。)

 芥川夫人は、龍之介の評に從ふならば餘りに非の打ちどころのない女である。人生に於いて、男子から觀て非の打ちどころがない女、非の打ちどころのない女が非を男子にきたすと考へもするが、自分はここに、彼がやたらに、他の女性に縋ろうとしたのは、助平(すけべい)でもない。夫人は奥さんでなくて、三人の男の子方(こがた)のお母さんである。もしも三人の子のなかに女の子が一人ゐたとしたならば、もう少し樣子が變つてゐた事でせう。と、さういふ一つの意見も採用し、夫人は父を、彼はその母を、共に幼少の年(とし)に於いて失つてゐる人である事を加へ、二つの思出を記して、彼のいふ姉さん女房といふ種に屬する女性ではなくとも、彼が、「自分には過ぎた女房だ。」と口ぐせに言つてゐたその夫人の章はこれで終りたい。以下――

 

 一日(にち)、鵠沼から東京に出た時、晩飯を食べるのに新橋驛で下車した。驛前の薄暗い有樂軒? で晩飯を喰べた時の當時を考へる。大きい卓(たく)を間にして、自分達は並んだ。椅子に腰をおろした夫人は眠つてゐる也寸志君を抱いてゐた。自分達の前に幾箇(いくつ)かの皿が並んで皿の物を喰べてゐる間、その食卓の上の隅には父の外套を褥(しとね)とした也寸志君がねんねこに包まれたまま眠りつづけてゐた。

 也寸志君! 悲しい君の兩親と食事する僕が、君を食卓の上に、寢かせておいたらどうだ? といつたのだ。

[やぶちゃん注:既に注したが、芥川龍之介の三男也寸志の生年月日は大正一二(一九二三)年七月十二日で、これは小穴隆一転居後の鵠沼生活中のことであるから、大正一五(一九二六)年八月以降で満三歳であるが、本書刊行の昭和一五(一九四〇)年当時は十五歳で、東京高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)三年生であった(彼が音楽を志すようになる前年に当る)。]

 

 ホテル事件後の一日(にち)、彼は夫人同伴で下宿の自分の室(しつ)に這入(はい)つて來た。常とは變つたその樣子を、「今日は何だか女房が君にお詑びをしたいと言ふので來たのだ。」「君を疑つてゐてすまなかつたといふのだがね。」と笑ひながら彼は自分で説明したゐた。(手帳に依る、1の冒頭數行參照。)

[やぶちゃん注:手帳に依る、1の冒頭數行は『手帳に依る、1に於いて自分は大正十五年四月十一日〔昭和元年〕より翌昭和二年花見頃に至る、丁度一年間になる日數があり、ジグザクに動く彼を追つて、夫人及び葛卷、僕の生活も亦ジグザクに動いてゐたのである。この四人の動靜を描き、彼の胸像を彫刻してゆきたい。』であるが、小穴隆一お得意の〈藪の中の藪の中〉でとんと判らぬ。年喰った小穴の「二つの繪」版(本書刊行時は四十六であったが、当時(昭和三一(一九五六)年)は六十一歳)の「芥川夫人」では、達意となって『(夫人の誤解といふのは、僕が芥川の「死ねる藥」の話相手をしてゐたことかも知れない、)』とある。]

 其日淺草にジヨン・バリモアの「我(われ)若(も)し王者(わうしや)たりせば」を見に行つた。彼等夫妻と、自分ら、皆で步くことは鵠沼以來始めてであつた。われわれの見た映畫のなかのバスター・キートンには、彼も、夫人から貰つた板チヨコをしやぶりながら、他(ほか)の見物人同樣相當笑はされてゐた。文藝春秋に書いてゐた彼の、「若し王者たりせば」は其日、歸宅後に書いてゐたものであらうが、

(僕はこの映畫を見ながらヴイヨンの次第に大詩人になつた三百年の星霜を數へ、「蓋棺(がいくわん)の後(のち)」などと言ふ言葉の怪しいことを考へずにはゐられなかつた。「蓋棺の後」に起るものは神化(しんか)か獸化(?)かの外にある筈はない。しかし、何世紀かの流れ去つた後(のち)には、――その時にも香(かう)を焚(た)かれるのは唯「幸福なる少數」だけである。のみならずヴイヨンなどは一面には愛國者兼(けん)「民衆の味かた」兼模範的戀人として香を焚かれてゐるのではないか? (「若し王者たりせば」より)

[やぶちゃん注:太字「一面には」は底本では傍点「ヽ」。]

 この話をここに自分が引用したのはほかでもない。

 自分達二人が何か爭(あらそ)つたとする。後(あと)で自分が惡かつたと思つて、詑びようとして二階から下におりてゆく。すると矢張り女房のはうも謝りに來ようとして、廊下で鉢合(はちあは)せをする。よくそんな事がある、という風に、その夫人を、自ら彼説明してゐた事があつた。その實例を見せてつたやうな、朗(ほがら)かな記憶を、其日に自分は持つてゐるからである。

2017/02/09

柴田宵曲 妖異博物館 「蜘蛛の網」

 

 蜘蛛の網

 

 源賴光を惱ました土蜘蛛ほどのものは見當らぬけれど、蜘蛛は近世になつても相當話を殘してゐる。諸國を𢌞る山伏覺圓なる者、熊野に參籠してから京都に上り、淸水寺に詣でようとして、五條鳥丸あたりで日が暮れかけた。大善院といふ大きな寺院を見かけて一夜を乞ふと、寺僧は承知して本堂の傍にある、きたない小屋へ案內した。覺圓その冷遇を憤つたところ、寺僧は笑つて、決してさういふ次第ではありません、實はこの本堂には年久しく怪しい者が住んでゐて、三十年ばかりの間に三十人も命を失ひ、その死骸すらわからぬのです、本堂にお泊め申さぬのはそのためですから惡しからず、と云つた。覺圓はそんな馬鹿な事がある筈がない、是非泊めて貰ひたい、と云ふ。寺僧が再三諫めても、覺圓は承知せぬので、本堂の戶を開き、ざつと掃除をして、その方へ連れて行つた。

 覺圓はしづかに本尊を禮拜し、念佛を唱へて坐つてゐたが、寺僧の云つた事も氣にかゝるので、全く油斷はせぬ。腰の刀を半ば拔き出し、柄を手に持ちながらうとうとしてゐると、夜も二更に及ぶ頃、ぞつと寒くなり、堂內しきりに震動して、凄まじい風雨になつた。その時天井から大きな手をさし出して、覺圓の額を撫でた者がある。すかさず刀を振り上げて斬ると、たしかに手應へがあつて佛壇の左の方に落ちた。やがて四更に至り、同じやうな手をさし伸べて來たので、これも斬つて捨てた。夜が明けてから寺僧が心配して見に來る。覺圓より前夜の話を聞き、直ちに佛壇の傍を見れば、長さ二尺八寸ばかり、眼圓く銀色の爪をした大蜘蛛が死んで居つた。益々驚いてこれを堂の傍に埋め塚を築き、覺圓に祭文を草せしめて塚を祀り、再び妖怪なからんことを祈念した(狗張子)。

[やぶちゃん注:「源賴光を惱ました土蜘蛛」源頼光(天暦二(九四八)年~治安元(一〇二一)年)は平安中期の武将で摂津源氏の祖。「土蜘蛛」はウィキの「土蜘蛛」によれば、『本来は、上古に天皇に恭順しなかった土豪たちである。日本各地に記録され、単一の勢力の名ではない。蜘蛛とも無関係である』が、『後代には、蜘蛛の妖怪とみなされるようになった。別名「八握脛・八束脛(やつかはぎ)」「大蜘蛛(おおぐも)」』(「八束脛」とは「すねが長い」という意である)。『なお、この名で呼ばれる蜘蛛は実在しない。海外の熱帯地方に生息する大型の地表徘徊性蜘蛛のグループ』であるオオツチグモ科(節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ目オオツチグモ科 Theraphosidae)は、『これらに因んで和名が付けられているが』、命名は『近代に入ってからであり、直接的にはやはり無関係である』。『古代日本における、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称』で、「古事記」「日本書紀」に、既に『「土蜘蛛」または「都知久母(つちぐも)」の名が見られ』、『陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前など、各国の風土記などでも頻繁に用いられている』。『また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、恐れられていた。ツチグモの語は、「土隠(つちごもり)」からきたとされ』、これは彼らが日常的に『穴に籠る様子から』(竪穴式か穴居住居を作ったか)『付けられたものであり、明確には虫の蜘蛛ではない(国語学の観点からは体形とは無縁である)』。『土蜘蛛の中でも、奈良県の大和葛城山』(やまとかつらぎさん)『にいたというものは特に知られている。大和葛城山の葛城一言主神社には土蜘蛛塚という小さな塚があるが、これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる』。『大和国(現奈良県)の土蜘蛛の外見で特徴的なのは、他国の記述と違い、有尾人として描かれていることにもある』。「日本書紀」では、『吉野首(よしののおふと)らの始祖を「光りて尾あり」と記し、吉野の国樔(くず)らの始祖を「尾ありて磐石(いわ)をおしわけてきたれり」と述べ、大和の先住民を、人にして人に非ずとする表現を用いている』。「古事記」に『おいても、忍坂(おさか・現桜井市)の人々を「尾の生えた土雲」と記している点で共通している』。「肥前国風土記」には、『景行天皇が志式島(ししきしま』。『現在の平戸南部地域)に行幸した際』、『海の中に島があり、そこから煙が昇っているのを見て探らせてみると、小近島の方には大耳、大近島の方には垂耳という土蜘蛛が棲んでいるのがわかった。そこで両者を捕らえて殺そうとしたとき、大耳達は地面に額を下げて平伏し、「これからは天皇へ御贄を造り奉ります」と海産物を差し出して許しを請うたという記事がある』。「豊後国風土記」にも、『五馬山の五馬姫(いつまひめ)、禰宜野の打猴(うちさる)・頸猴(うなさる)・八田(やた)・國摩侶、網磯野(あみしの)の小竹鹿奥(しのかおさ)・小竹鹿臣(しのかおみ)、鼠の磐窟(いわや)の青・白などの多数の土蜘蛛が登場する。この他、土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)の話もあり、山に居構えて大和朝廷に抵抗したが、全滅させられたとある。八十(やそ)は大勢の意であり、多くの女性首長層が大和朝廷に反抗して壮絶な最期を遂げたと解釈されている』。『この土蜘蛛八十女の所在を大和側に伝えたのも、地元の女性首長であり、手柄をあげたとして生き残ることに成功している(抵抗した者と味方した者に分かれたことを伝えている)』とあった。「日本書紀」の記述でも景行天皇十二年冬十月、『景行天皇が 碩田国(おおきたのくに、現大分県)の速見村に到着し、 この地の女王の速津媛(はやつひめ)から聞いたことは、山に大きな石窟があり、それを鼠の石窟と呼び、土蜘蛛が』二人『住む。名は白と青という。また、直入郡禰疑野(ねぎの)には土蜘蛛が』三人『おり、名をそれぞれの打猿(うちざる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ・国麻呂)といい、彼ら』五人『は強く仲間の衆も多く、天皇の命令に従わないとしている』とある。その後、『時代を経るに従い、土蜘蛛は妖怪として定着してい』き(まつろわぬ民や彼らの信仰した神の零落と妖怪化である)、『人前に現われる姿は鬼の顔、虎の胴体に長いクモの手足の巨大ないでたちであるともいう。いずれも山に棲んでおり、旅人を糸で雁字搦めにして捕らえて喰ってしまうといわれる』ようになった。頼光とその部下四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部(うらべ)季武)らによる、丹波国大江山での酒呑童子討伐に並ぶ土蜘蛛退治の話は以下(同じくウィキの「土蜘蛛」より引いた)。十四世紀頃に書かれた「土蜘蛛草紙」では、『京の都で大蜘蛛の怪物として登場する。酒呑童子討伐で知られる平安時代中期の武将・源頼光が家来の渡辺綱を連れて京都の洛外北山の蓮台野に赴くと、空を飛ぶ髑髏に遭遇した。不審に思った頼光たちがそれを追うと、古びた屋敷に辿り着き、様々な異形の妖怪たちが現れて頼光らを苦しめた、夜明け頃には美女が現れて目くらましを仕掛けてきたが、頼光はそれに負けずに刀で斬りかかると、女の姿は消え、白い血痕が残っていた。それを辿って行くと、やがて山奥の洞窟に至り、そこには巨大なクモがおり、このクモがすべての怪異の正体だった。激しい戦いの末に頼光がクモの首を刎ねると、その腹からは』千九百九十個もの『死人の首が出てきた。さらに脇腹からは無数の子グモが飛び出したので、そこを探ると、さらに』約二十個の『小さな髑髏があったという』。「土蜘蛛」の話は諸説あり、「平家物語」では『以下のようにある(ここでは「山蜘蛛」と表記されている)。頼光が瘧(マラリア)を患って床についていたところ』、身長七尺(約二・一メートル)の『怪僧が現れ、縄を放って頼光を絡めとろうとした。頼光が病床にもかかわらず名刀・膝丸で斬りつけると、僧は逃げ去った。翌日、頼光が四天王を率いて僧の血痕を追うと、北野神社裏手の塚に辿り着き、そこには』全長四尺(約一・二メートル)の『巨大グモがいた。頼光たちはこれを捕え、鉄串に刺して川原に晒した。頼光の病気はその後すぐに回復し、土蜘蛛を討った膝丸は以来「蜘蛛切り」と呼ばれた』。『この土蜘蛛の正体は、前述の神武天皇が討った土豪の土蜘蛛の怨霊だったと』されており、この説話が後の謡曲「土蜘蛛」を生んだとされる。『一説では、頼光の父・源満仲は前述の土豪の鬼・土蜘蛛たちの一族と結託して藤原氏に反逆を企んだが、安和の変の際に一族を裏切って保身を図ったため、彼の息子である頼光と四天王が鬼、土蜘蛛といった妖怪たちから呪われるようになったともいう』。『京都市北区の上品蓮台寺には頼光を祀った源頼光朝臣塚があるが、これが土蜘蛛が巣くっていた塚だといい、かつて塚のそばの木を伐採しようとしたところ、その者が謎の病気を患って命を落としたという話がある』。『また、上京区一条通にも土蜘蛛が巣くっていたといわれる塚があり、ここからは灯籠が発掘されて蜘蛛灯籠といわれたが、これを貰い受けた人は』、『たちまち』、『家運が傾き、土蜘蛛の祟りかと恐れ、現在は上京区観音寺門前町の東向観音寺に蜘蛛灯籠が奉納されている』とある。

「二更」「にかう」。亥の刻に相当。午後九時~午後十時以降の二時間。

「四更」「しかう」。丑の刻に相当。午前一時~午前二時以降の二時間。

「二尺八寸」八十五センチメートル弱。

 以上は「狗張子」の「卷之七」の「二 蜘蛛塚のこと」。所持する一九五〇年現代思潮社刊の新字現代仮名遣ダメテクスト「狗張子」参考に正字に正仮名に直した(一部に読みを追加した)。二枚の挿絵も添えておく。底本では直接話法が二行に及ぶ場合、一字下げとなっているが再現していない。

   *

   二 蜘蛛塚のこと

 Kumoduka1

 

 むかし諸國行脚の山伏覺圓(かくえん)といふ者あり。紀州熊野に參籠し、それより都にのぼり、まづ淸水寺に詣でんとす。五條鳥丸(からすま)わたりにて日ようやく暮れたり。ここに大善院とて大きなる寺院あり。覺圓幸ひなりと寺僧に請ふて一夜をあかさんとす。寺僧すなはち相ひ許して、堂の傍(かたはら)なるいかにも汙(きたな)き小屋を借しけり。覺圓大きにいかりて、

 「一夜ばかりの宿、僧徒の身としてこの修業者に、かかる不德心は何事ぞや。」

といふ。寺僧打ち笑ひて、

 「これ全く修業者を侮るにはあらず。實(まこと)はこの本堂には、年久しく妖(ばけもの)ありて住めり、凡そ三十年の内三十人、その死骸さへ見えず。この故に本堂をば借さず。」

という。覺圓聞きて、

 「何條(なんでふ)左樣の事あらん。それ妖(えう)は人によりて起るといへり。あにこの知行兼備の行者を犯す事あらんや。」

と、寺僧は再三諫(いさ)むといへども、あえて用ひざれば、やむことをえずして本堂の戶をひらき、あらましに掃除して誘(いざな)なへば、覺圓しづかに佛禮(らい)し念誦して、心を澄まし坐しゐたり。然れども彼(か)の寺僧の詞(ことば)の末おぼつかなく思ひ、腰の刀を半ばぬき出(いだ)し、柄を手に持ちながら眠りゐるところに、夜(よ)すでに二更に及ぶ頃、ぞつと寒くなり、堂內しきりに震動して、風雨山をくずすがごとし。その間に天井より大きなる毛生(けお)いたる手をさし出し、覺圓が額をなづ。則ち持ちたる刀をふりあげ丁(てう)どきる。物にきりあてたる聲ありて、佛壇の左のかたにおつ。夜まさに四更にいたる頃、またさきの手をさしのぶ。この度(たび)もすかさず刀をふり上げてはたときる。やうやく夜あけて、寺僧心もとなく思ひたづね來(きた)る。覺圓前夜の樣子をかたるに、寺僧奇異の思ひをなし、急ぎ佛壇の傍(かたはら)を見るに、大きなる蜘蛛死してあり。長さ二尺八寸許(ばか)り、珠眼(しゆがん)圓大(えんだい)にして爪に銀色あり、寺僧ますます驚き、堂の傍(わき)にこれをほりうづめ塚(つか)を築(きづ)きぬ。且つまた此山伏の行德いちじるしきことを感じて、暫く此所(ここ)にとどめ、一通の祭文(さいもん)を書かしめ、かの塚を祭り、再び妖怪なからんことを祝(しゆく)す。なほ今に到るまでその塚ありて、蜘蛛塚(くもづか)といふとかや。

Kumoduka2

 

   *

【追記】私は後に、ブログ・カテゴリ「狗張子」で全篇を正規表現で電子化注した。そちらの狗張子卷之七 蜘蛛塚」の方が、画像も鮮明であるので、そちらをご覧あれ。

 小泉八雲の書いた「化け蜘蛛」はこの話によつたものではないが、筋道は大體似てゐる。舞臺は田舍の化物寺で、こゝには誰一人住む者もなく、退治に行つた士達も皆歸つて來ない。或時度胸があつて拔け目のない士が一宿すると、夜中頃に先づ身體が半分で目が一つといふ化物が出、次いで三味線を彈く坊主が現れた。坊主はこの寺の和尙だと稱し、一曲所望と云つて三味線をさし出した。士は用心深く左手で摑んだが、三味線は大きな蜘蛛の巢に變り、坊主は忽ち化け蜘蛛になつた。左手が蜘蛛の巢に絡まれたのを知つた士は、刀を拔いて蜘蛛に斬り付け、手傷を負はせた。けれどもあとからあとからと出る蜘蛛の絲に卷き込まれて、身動きが出來なくなつた。翌朝樣子を見に來た人によつて士は助け出され、血の痕を辿つて庭の穴に呻吟する蜘蛛を退治した。――この最後のところは賴光の土蜘蛛とほゞ同樣である。

[やぶちゃん注:これは長谷川武次郎が刊行した「日本昔噺シリーズ」( Japanese Fairy Tale )の中の明治二二(一八九九)年刊行の「化け蜘蛛 」( The goblin spider )である。こちらで画像で読める。必見!]

「耳囊」にある蜘蛛の怪は、それほど恐ろしいものではなかつた。吟味方改役の西村鐡四郞が駿州原の本陣に止宿した晩、夜中にふと目をさまして床の間を見ると、鏡のやうに光るものがある。驚いて次の間の若黨に聲をかけたので、早速起きて來たが、屋內の灯は悉く消えてゐる。若黨も光り物を見て大いに驚き、灯をつけようなどとあわてるうちに、亭主が灯を持つて出た。光り物の正體は一尺餘りの蜘蛛であつたから、皆で打ち殺し、匆々外へ掃き出した。ほどなく湯殿の方に恐ろしい物音がしたので行つて見たら、何者か戶を打ち倒して外へ出た樣子で、二寸四方ぐらゐの蜘蛛のからびたのがそこにあつた。兩者同物であつたのか、よくわからぬと書いてある。人の少い、廣い宿だつたさうである。

[やぶちゃん注:私の電子化訳注「耳囊 卷之六 蜘蛛怪の事でどうぞ!]

 妖怪然たるかういふ蜘蛛の外にも、まだ恐るべきものが棲息したらしい。「中陵漫錄」に九州の人から聞いたとして掲げてゐるのは、大風に漂流して南海の小嶋に吹き寄せられた時、大きな蜘蛛が海岸から來て、白い綿のやうなものを舟に投げ付ける。舟の引かれること、繩で引くよりも甚しかつたので、皆腰刀を拔いて切り拂ひ、急いで立ち退いたとある。「中陵漫錄」はこゝで「香祖筆記」を引き、海蜘蛛は大きさ車輪の如く、その絲に絡まれゝば、虎豹と雖も脫することが出來ぬ、と云つてゐる。もしこんな蜘蛛に出遭つたとしたら、その恐ろしさは化け蜘蛛に讓らぬであらう。

[やぶちゃん注:「香祖筆記」清朝初期の詩人として王漁洋の名で知られる王士禎(一六三四年~一七一一年)の一七〇二年作の随筆。

 以上は「中陵漫錄」の「卷之一」の「海蜘蛛」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

 〇海蜘蛛

筑紫の海人相傳て云、大風に乘じて南海に漂流して一小島に倚るに、大なる蜘蛛海岸より來て、白き綿のごとくなる物を擲て舟に當て引付る。舟の引る事、索にて引より甚だし。皆驚て腰刀を拔て切拂て其處を去ると云。今案るに、香祖筆記曰。海蜘蛛生奥海島中。巨若車輪。文具五色。糸如絙組。虎豹觸ㇾ之不ㇾ得ㇾ脫。斃乃食ㇾ之。是れ乃ち此ものなり。

   *]

 南海の嶋ばかりではない。甲州の話を集錄した「裏見寒話」にも、中郡邊の淵で釣りをしてゐると、大きな蜘蛛が水中より現れて、その男の足許に來ては、また水に入る。最初は何も氣が付かなかつたが、ふと煙管を取らうとして足を探つたら、左足の親指を蜘蛛の絲が七重八重に絡んで居つた。大いに驚き、その絲を取つて側にあつた柳の古殊に卷き付けて置いたところ、忽然水上に浪が起り、その切株を水底に引込んでしまつた、といふ話がある。この蜘蛛も人を食ふ性質のものであるらしい。

[やぶちゃん注:これは本邦で広汎に存在する池化け蜘蛛譚の典型。私の住まう鎌倉の源平池にさえあるポピュラーなものである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(左ページ中央やや後)で視認出来る。

 蜘蛛の恐ろしいのは八本の足と銳い毒牙の外に、魔性の絲より成る網を縱橫に振りかける點にある。賴光を惱ました土蜘蛛が已にこの手を用ゐたので、今なほ舞臺にその面影をとゞめてゐるが、化け蜘蛛たると水蜘蛛たるとを問はず、多くは人間に對し網をかけることを忘れてゐない。「狗張子」の覺圓も「耳囊」の西村鐡四郞も、最初からこれで臨まれたら、命を取られてゐたかも知れぬ。いきなり大きな手をさし伸べたり、床の間の光り物になつたりしたのは、蜘蛛の方が不覺であつた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(31) 「二つの繪」(20)「女 X Y Z」

 

      女 X Y Z

 

[やぶちゃん注:以下は「二つの繪」の「女人たち」の原型。]

「晩飯を食ひにゆかうや、」

 買う誘う彼に從つて、自殺の丁度、一ケ月前に、自分には始めての家(いへ)である淺草のその待合まちあひ)に行つた。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版ではこれを昭和二(一九二七)六月二十五日とクレジットしており、現行の年譜では、その小穴隆一の記載に従ってそこに記されてある(因みに、同日は土曜日)。]

 食事の時間だけ僕らはその待合にゐたのであるが、(酒も呑まずに、ただ近所から取寄せて貰つただけのもので晩飯にしてゐた。)女將(おかみ)及び藝妓(げいしや)なる者を、彼によつて自分は紹介されたのである。

(半町(はんちやう)ほども歸りを一緒にした芥川は藝妓(げいしや)はお座敷着(ぎ)でもなかつたと思ふが。)

[やぶちゃん注:「半町」約五十四メートル半。]

「あの爪を君は見たか?」

 顧りみてさう言ふ彼を、二人となるや自分は見た。

 爪色?(磨きのかかつた冷たい黑色(こくしよく)の魅力。)

 この反問に點頭(てんとう)した彼は、タクシを拾う間(ま)に、Kが母娘二代の藝者であること、それにしたがふ氣質、皮膚の色なぞについて述べ、Kなぞは江戸の名殘りを

傳へた最も藝妓(げいしや)らしい藝妓なのだと話を結んでゐた。

[やぶちゃん注:「K」芸妓小かめ(小龜)。「二つの繪」では伏字が復元されて「小かめ」の源氏名で出ている。芥川龍之介の可愛がった馴染みで、まさにこの時は最後の別れを告げに行ったのであるとされる。]

 三宅やす子、九條武子と芥川との關係は?

 ――この兩名と如何(どう)彼があつたかといふ問ひに接しては、逆に聞きたい位(くれゐ)如何(どう)なのかを自分は知らない。

 芥川は精力絶倫であつたといふことではないか?

 嚴しいこの質問は、さういふ時代の彼とは未(いま)だ知合(しりあひ)でもなく、また友達でもなかつた、と斷わる。少くとも自分の「二つの繪」のなかに於ける彼は、事實に於いて去勢されたるも同然の人間として動いてゐるのである。

 藝者Kを見せた以前、ホテル事件の後幾何(いくばく)の日(ひ)も經過してゐないうちに、一日(にち)少し步かうと夕方の下宿から自分が彼を誘つた。

[やぶちゃん注:「ホテル事件」先の帝国ホテルでの平松麻素子との心中未遂の一件。現在、この心中未遂は昭和二(一九二七)年四月七日木曜日に比定されている。]

「もうこれで自分の知つてゐる女の、一ととほりは君にも紹介してしまつたし、もう言つておくこともないし、すると‥‥」

 下宿の外に出てからかう言出した彼の心は、何氣(なにげ)なしのやうに、各自一つの性格を持つた人々であるが、比較的周圍の近くからの女、例へばK夫人、S夫人、S子、Kのおかみさんといつたやうに、彼のいふ賢い女の名を數へた。――手のつけられない病人、彼の腦神經は棕梠(しゆろ)の葉つぱの裂けたやうなものだ。丁度支那旅行中上海(シヤンハイ)に於いて風で入院してゐた時に、「おつかさん、」と譫言(うはごと)に言つて看護婦に笑はれたといふ話を當嵌(あては)めてもよろしいが、彼は女の中にある母性、又は彼のいふ、姉さん女房、をそれらの女性のなかに考へてゐたのではなからうか。

[やぶちゃん注:「K夫人」後の単行本「二つの繪」での伏字解除から、片山廣子と判る(以下、同じ)。当時は未亡人である。

S夫人」ささき・ふさ、即ち、佐佐木茂索の妻である佐佐木房子。

S子」小林勢以子(せいこ)。谷崎潤一郎の先妻千代夫人の妹。女優。

Kのおかみさん」鎌倉の料亭「小町園」の女将野々口豊(とよ)。配偶者がいるが、彼女とは間違いなく関係があったと推定され、彼女には芥川龍之介は心中を懇請した可能性も深く疑われている。]

(この章をここまで書いて自分の古い原稿用紙の數葉を自分で發見した。以下○をつて示す文字は、自分にのみなまなましく覺えるものであらうか?)

○ 谷崎はもう駑馬(どば)だ。佐藤はあれはまた過渡期の人間だ。われわれ過渡期に育つた人間はもう駄目だよ。あゝ! 君、天下に恐るべきは志賀直哉ただ一人だ。俺は今まで誰も怖れなかつた。然し、志賀直哉に對しては苦しかつた。僕の全部の作品をあげても志賀直哉のどれにも敵(かな)はない。が君、僕の「蜃氣樓」あれだけは、君どうにかなつてゐるだらう?――才能と勉強だけでやつてきた人間は、志賀直哉のあの天衣無縫の藝術に息がきれる。

○ ――僕はあなたの言葉を疑ひません。しかし、おそらくはあなたよりもききに僕の友達が貰つてゐたのではありません? 僕の友達、男性。昨年の十月に鵠沼で、越人が何日(いつ)貰つてゐたかは僕にも風に舞ひたるすげ笠(がさ)‥‥。

[やぶちゃん注:「越人」片山廣子。但し、私は今回、単行本「二つの繪」を電子化注し、更に、かく「鯨のお詣り」を電子化しているこの最中に於いても、小穴隆一が、或いは「越人」という芥川龍之介の秘かな片山廣子の呼称を、平松麻素子と思い違えていた可能性、混同していた疑いを、どうも払拭出来ないでいることを言い添えておきたい(次の「○」条の半可通な記載などを読むと、その不審がいやさかに高まるのである)。]

○ 廣場の前に、また 風に舞ひたるすげ笠(がさ)の詩には、彼自身さへもが二重寫しとなつてゐる。

 ――二人の女人(によにん)の貌(かたち)が重つてくるのは、僕にとつてといふことをやめて言へば、一の女人にもう一人の女人、片付けて言つてしまへば、われわれは一人のどこからどこまでにたんのうしつくせぬその軌道ではないか。

○ 「君、金澤人(かなざはじん)は、よつぽど氣をつけたまへ、氣をつけないといけない。おそろしいよ、全くおそろしいよ。」

[やぶちゃん注:何故、金沢人なのかは不明。金沢出身の室生犀星のこととも思われないし、芥川龍之介の特に関係の深かった女性の中に、金沢生まれの者はいないように思われる。]

「君も四十二の時を氣をつけたまへ、あぶないよ。おれのいふことがいまわかるか? 四十二を越せば君は天明を全(まつた)うするよ。あゝ、おそろしい! おれはどうせもうゐないからいゝや。」(彼の言葉から)

[やぶちゃん注:「四十二」は所謂、厄年の大厄ではある。芥川龍之介がこうしたことを信じて恐怖していた事実は面白い。しかもその「おれはどうせもうゐないからいゝや」が正鵠を射ていることが、これまた、何とも言えぬではないか。]

(自分はこれらの古い自分のメモに、生きてゐることには疲れきつた彼を、まのあたりに復(ま)たみるのだ。)

 ――彼は彼のいふその賢い婦人達の名を數へあげた。――事は明らかにM以外また他の婦人に縋らうとする気持ちを傳へる。さうしてその彼の頭のなかには依然として、K夫人を第一に置いてゐるとみえた。K夫人、又は他の婦人いづれにもせよ、ホテルの繰返しをされるやうでは彼のめにも、自分自身にも、たらん事である。

[やぶちゃん注:「M」平松麻素子。

K夫人」くどいが、片山廣子。ここで小穴隆一が芥川龍之介(晩年の)が「K夫人を第一に置いてゐるとみえた」と言っている観察はすこぶる正しい。]

「相談するならKのおかみさんがいゝ。Kのおかみさんなら、大丈夫後日の間違ひもないし、ことによるとあの人ならいゝ智恵があるかも知れない。」

[やぶちゃん注:「Kのおかみさん」これもくどいが、鎌倉「小町園」の女将野々口豊。大正元(一九二六)年十二月三十一日から家人に告げることなく、鵠沼から鎌倉「小町園」に行き、田端からの帰宅要請にも拘わらず、翌年一月二日の夜まで帰らなかったプチ家出はつとに知られる事実である。]

「ほんとに君もさう思ふかね。」

「ほんたうだよ。ほかの人では駄目だよ。」

 ほかの女に話したら、芥川龍之介といふ者は、もう全く糞味噌だと考へた自分は、一かばちか、何年にも會つた事のないKのおかみさんの人物を想起して、「あの人に會つてみたら。」と彼に勸めた。

「ほんとに君もさう思ふのかえ。」と急ににこにこして彼は自分の顏を見た。

 ――當時の自分にもう少しの勇氣があつたならば、さういつて念をおす彼に、「K夫人は成程聰明なる女性ではあらう。然し、彼女を尊敬する男子達の頭のなかから文學的な氣持ち、加ふるに彼女ならび彼等の文學的背景を剝取ればどれだけの存在價値があるか。」とたづねたところだ。――

[やぶちゃん注:「K夫人は成程聰明なる女性」これで百%確実に片山廣子であることが判る。]

 上着も着てゐない格好の自分であつたし、羽織も着(き)ずに草履(ざうり)をつつかけたうな姿の彼であつたし、(斯樣な姿の彼は鵠沼の暮し以後のものであらう。)話しのまま彼の家(いへ)の門を潜(くゞ)ることに自分は思つてゐた。が、彼は自身の家の垣根沿つて素通りしてしまつた。

 ――中略

 今度こそはほんとに靑酸加里(せいさんかり)を手に入れたよ。一寸、君、と言つて藥屋に這入(はい)つて行つた彼を神明町(しんめいちやう)の入口の角で其日見た。目藥の罎(びん)よりも小さい空壜(あきびん)を買つて、透(すか)してみながら、やつとこれで入物(いれもの)ができたよと嬉れしさうにみえてゐた。

 後日、汽車に乘つてKのおかみさんに會ひに彼は行つた。突然で驚いたのも事實であらうが、困つた彼の訴へ事(ごと)を彼女は笑ひもしなかつたやうだ。落込(おちこ)まずして落着いた注意を彼の身の上に配つた事も疑へない。然し、一月(つき)、二月(つき)の間(あひだ)に、既に死體となつてしまつた彼である。‥‥

[やぶちゃん注:自死の凡そ二ヶ月前から自死前から一ヶ月前の期間内で芥川龍之介が鎌倉に行った可能性は、現行の年譜では自死の約一ヶ月前の六月十五日に佐佐木茂索を鎌倉に訪ねた折りしかない(この日は鵠沼に一泊したと年譜にはある)。そもそも二ヶ月前の五月は十三日に改造社円本全集の講演旅行に出発、東北・北海道を回って月末に帰還しており、そのようなゆとりはなかったと私は考える。]

 昔、この本が古本屋にあつたら是非買つておいておくれ、ジユオルジユ・リヰヱールのルノワール・ヱ・セザミーの中の SUR LA TERRASSE の繪を見る時、

「僕はかういふ顏の婦人が好きなのだ。」さう本氣の顏色(かほいろ)でゐた彼の目を浮かべながら、「どうもさうらしい。」と自分も思ふ。

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「女人たち」の私の注で掲げた、ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir 一八四一年~一九一九年)の一八八一年の作Sur La Terrasse(「テラスにて」)をリンクさせておく。因みに私は、このルノワールの絵の女性は誰より、文夫人に似ている、と思うのである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(30) 「二つの繪」(19)「帝國ホテル 2」

 

        帝國ホテル 2

 

[やぶちゃん注:以下は「二つの繪」の「帝國ホテル」(前の「帝國ホテル 1」とカップリングしたもの)の部分原型。]

 

 ――床のなかで義足を外(はづ)して橫を見た時は、睡眠藥をのんでむかふ向きに橫たはつた彼を毛布の下に見た。しかし自分は、眠つてしまつた二人と目の覺めた二人との間に、時間が如何程あつかを知らないのだ。

[やぶちゃん注:太字「むかふ」は底本では傍点「ヽ」。]

「おはいり。」でボーイが這入(はい)つてきた。朝だ。といふ氣が急に自分にした。ボーイは見慣れざる客、僕を見たやうではある。彼は小聲で、「僕は食堂に出る着物ぢやないんだ。」と言つた。父が何年か着古した服を着た自分は、夜でなければ堂々と室外に出てゆけぬのが息苦しかつた。そのうちに晝食(ちうぢき)か、朝餐(てうさん)か、彼の賴んでしまつた物をボーイは持つてきてしまつた。

 ――今日も亦逃(のが)れられぬ自分ではある。窓の外の向側(むかうがは)の建築物には陽があたつてゐた

 金目(かねめ)かは知らぬが薄暗い部屋でカフエをすすりながら、

「あの部屋ではもう、阿部章藏が僕等がここにかうしてゐる事を何も知らず働いてゐるだらう。」

 と彼は僕に言掛(いひか)けてきた。

 ――重苦しい數分の時刻を置いて、數時間の後(のち)に、前夜の彼の夫人が再び室(へや)に現はれるまでの彼は、日本の文壇を根本的に批評していくには、如何(どう)しても日本にゐては自分には出來ない。巴里(パリー)の魔窟(まくつ)のなかに暮してでなければ駄目だ、と言ふに始まつて(この言葉は當時の、饒舌錄(ぜうぜつろく)による谷崎潤一郎との間の論戰に依るものか、但し、その論戰? は僕には、單に彼が谷崎との舊交の思出(おもひで)に住み、さうして戲れてゐたとしか思へない。又、巴里(パリー)の魔窟に住むといふことは、幾度か彼の口から出た言葉である。彼の空想するその魔窟は、彼の顏を寫眞になどはしない國で、彼は無賴(ぶらい)の徒の間(あひだ)に伍(ご)して暮し、さうして弱いその自身の性格をくろがねの如く丈夫にしたいと思つたその魔窟である。加ふるに小説家は廢業してボヘミアンの洋畫家志望でもあつた。)谷崎潤一郎は今日では既に駑馬(どば)として終り、佐藤春夫はこれ亦過渡期の人間である。自分も顧みれば既に過渡期の人として過ぎてきた。自分の仕事といふものは既に行きづまつてしまつた。自分は仕事の上では今日(こんにち)までは如何なる人々をも恐れてはゐなかつた。さうしてやつてきた。智惠では決して人に負けないと信じてきてゐたが、こゝに唯一人自分にとつて恐るべきは志賀直哉の存在だ。恐るべき存在は志賀直哉であつた。志賀直哉一人だ。志賀直哉の藝術といふものは、これは智惠とかなんとかいふものではなく天衣無縫の藝術である。自分は天下唯一人志賀直哉に立向(たちむか)ふ時だけは全く息が切れる。生涯の自分の仕事もただ一人志賀直哉の仕事には全くかなはない、等々(とうとう)。坐作(ゐずまひ)正して案然(あんぜん)たるかと思へば、曾ては座かたへの雜誌をとつて、「この小説の冒頭の會話だけでも、既に僕らにはかういふ新時代の會話が書けない。」と僕に對(むか)つて賞(しやう)してゐたその作者佐佐木茂索の、物書かずして朽(く)つるを嘆き且つ嘆くところがあつた。――

[やぶちゃん注:「案然」はママ。「二つの繪」の「帝國ホテル」では『暗然』となっている。

「前夜の彼の夫人が再び室に現はれるまで」既に「二つの繪」版で注したが、再掲しておくと、宮坂年譜によれば、この昭和二(一九二七)年四月八日は長男比呂志の小学校の始業式(二年のそれ)で、文はそれに出席した後に帝国ホテルに龍之介を迎えに来ている。但し、宮坂年譜はこれに続けて、この日、平松麻素子の私淑していた歌人『柳原白蓮のとりなしにより、星ケ岡茶寮で』、『麻素子、白蓮と昼食をとることになっていたため、文も誘ったが、』文は行かなかったというのが事実である。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(29) 「二つの繪」(18)「M女」

 

 M

 

[やぶちゃん注:「M女」は平松麻素子(明治三一(一八九八)年~昭和二八(一九五三)年)。これは「二つの繪」の「麻素子さん」の原型であるが、そちらは大幅に書き変えられてある。]

 

 黃泉(よみ)の女王Mは芥川夫人の唯一人の友人である。あはせて曾て一度は芥川龍之介が、その性格の特質を擧げて自分に娶(めと)れとすすめた夫人である。彼女が今日(こんにち)健在であるならば、何日(いつか)また彼女の立場に於いてMは〔帝國ホテル〕に觸れもしよう。Mは芥川龍之介の自殺直後は、新原得二によつて刧(おびや)かされてゐた女である。(新原は兄芥川を愛惜する同時に、遺書をもつて義絶を計つたその兄芥川を金輪際認めはしなかつた。故に彼女を兄の敵として考へ、僕、谷口喜作等(ら)を己れの敵として見てゐたやうである。)

[やぶちゃん注:「彼女が今日健在であるならば」本書刊行(昭和一五(一九四〇)年)当時、平松麻素子は健在(但し、以前より結核に罹患中)である。既に注してあるが、再掲しておくと、龍之介没後二十五年ほど後(昭和二七(一九五二)年頃?)、ます子は持病の結核が悪化、国立武蔵療養所に入院したが、それからも芥川文との親しい書簡のやりとりがあり、昭和二十八年一月二日に亡くなった麻素子の葬儀には文も列席している(二〇〇三年翰林書房刊・関口安義編「芥川龍之介新辞典」の「平松麻素子」の項に拠る)。]

 Mは少女時代からの友人芥川文子に、その夫に對してとるべき善後策の助力を賴まれてゐた人間である。彼對(たい)僕、夫人對M、この合計は、一時(じ)は彼の憂鬱を輕くしたものであらう。が、しかし、帝國ホテル以來、M+柳原白蓮といふものは無視することも出來ず、ここにまた人情を捨てられぬ彼の足搔(あが)きを見たのである。帝國ホテル、1、の翌日には

「白蓮さんは東京驛から電話で、何事あ起つたのかと、家中の有金(ありがね)を全部持つて駈付(かけつ)けて來たさうだ。」

Mと一緒に、暫く暮す事が、自分の生活を生かすといふのならば、支那なら、自分がいくらでも紹介して隱家(かくれが)の世話をすると白蓮さんは言ふんだが、君は如何(どう)思ふね。」

 この、ここに引いた言葉の彼が、彼は、自分が去り、夫人が歸つたであらう後(のち)に於いて、M、柳原白蓮と何所(どこ)かで會合してゐたのだ。

「芥川龍之介はお坊ちやんだ。」

 彼を評すこの白蓮の言葉は、彼、M、双方の口から聞いたものとして自分は憶えてゐる。

 人は芥川龍之介全集に於いて、Mに、――と書いた數篇の詩を讀んだ筈である。(僕はいまこの數行を自分の愚かなる妻のために書いてゐる。)が、人は妄(みだ)りに彼を疑ふなかれ。彼は「自分がMと死なうとしたのはMに乳(ちゝ)が無いので、(乳房小なりといふ意。)さういふ婦人となら、おくら世間の者でもMと自分とは關係があつたとは言わぬであらうし、また自分も全然肉體關係がなしに、芥川龍之介はさういふ婦人と死んでゐたといふ事を人に見せてやりたかつたのだ。よしんば世間の人が疑つたところで自分は、さういふ婦人と何等(なんら)關係もなしに死んでゆくのは愉快だ。」

[やぶちゃん注:「(僕はいまこの數行を自分の愚かなる妻のために書いてゐる。)」この挿入は不詳。芥川龍之介の何かからの引用とは思われない。そもそも、小穴隆一が本文で丸括弧で示す場合は、小穴自身の心内語として示す場合が多いのであるが、だとしても、この謂いは不詳である。]

 と、言つてゐるのだ。何事も僕に隱せぬ彼がである。

 

 以下、附記すべきは、鵠沼に於いて、「ゲーテがドイツ一國と競(くら)べられる彼の名譽よりも、貧しくともほの暖かい晩餐云々。」(自分は「鵠沼」に理屈をもつてワーグネルと書いておいたが、幾度か彼によつて繰返されてゐたその名は、ゲーテであると傳へるのが鵠沼の記事として正しいのである。正誤。)と僕を慰めてゐた彼が、漸次僕に遊びをすすめる傾向を持ちはじめた一事(じ)である。

[やぶちゃん注:「自分は「鵠沼」に理屈をもつて……」これは厳密には先行する「鵠沼」の章を指すのではなく、先行する鵠沼時代を追懐したパートの中の「友二三名についての章を指すものであるので注意されたい。]

2017/02/08

小穴隆一「鯨のお詣り」(28) 「二つの繪」(17)「帝國ホテル 1」

 

     帝國ホテル 1

 

[やぶちゃん注:以下は「二つの繪」の「帝國ホテル」の部分原型。続きの「帝國ホテル 2」た次の「M女」を挟んで存在する。]

 

「どうも樣子が變です。」

 春の一日(にち)、下宿の早い夕飯を喰べ終るところに、一人で廊下に立つてゐる芥川夫人をみた。

「夕方、何處に行くとも言はずにぶらつと出掛けて行つたのですが、どこに行つたのかわからないのです。」

 少し急込(せきこ)みがちに言ひながら夫人が坐つた。

「まあ、」

 自分が膳をさげさせようとしたその時、開(あ)いてゐた入口(いりぐち)の障子のところにM(女(ぢよ))の顏がのぞいた。

[やぶちゃん注:「M(女)」平松麻素子。「二つの繪」版では『麻素子さん』と伏字が解かれている。以下、同。]

「まあ、」

「いまお宅に上(あが)らうと思つてゐたのですが。」

「わたしもいまお宅に上らうと思つてゐたところなんです。」

 二人の婦人の間の應對を、應接しなければならなくなつた自分は言葉を差控へて樣子を待つた。しかし座の空氣は急に三人の神經は、「何處に行つたんだか解らないんですよ。」の以外に動けなく、

「心當りもありますから搜しに出かけてみませう。」と言つた僕に、

「ではどうかよろしく。」と言つて夫人は歸つて行つた。

 

 Mと自分は一緒に夫人に一ト足後れて下宿を出た。

 雨はあがつたのか降つたゐたのか、Mは傘を持つてゐた。さうして十五六間程步いてゐるうちに、芥川夫人にはたゞ一人の友達である立場、その芥川夫人の夫(をつと)たる芥川龍之介に對する困惑の心地、等々(とうとう)の苦しい彼女の現在のの心は、理解できるであらうかと僕に言出(いひだ)した。(その時、自分は斯(か)く答下手と記憶する。「あなたでなくともどの婦人にでも取縋(とりすが)らうとするのが、今日(こんにち)の芥川龍之介ではなからうか。」)

 ――が斯くはあらんと考へてゐた話のうちに、田端の驛、芥川家、どちらへも目の前の距離である坂路(さかみち)の中途に出た。

「あなたは、」

近くの家に、多分歸るのであらうと考へた自分は、Mに言つた。

「わたし‥‥」立止つたMは、

「わたしも今日は有樂町の家に行きます。」と言つた。

 立止まつてゐた二人は再び竝んで步いた。

 

 驛に下りる石段の近く、霞に烟(けむ)る三河島(かはしま)の一帶、(數ケ月後に、死體となつた彼の火葬場の烟突(えんとつ)が三本見える。)淺草方面のほんのりと見える灯(ひ)、それに顏を曝して心當(こゝろあ)てにした淺草の待合(まちあひ)、帝國ホテル、(二ケ所とも彼が原稿を書きに行つてゐたことがある湯故、)鎌倉、何(いづ)れかその一つの場所に於いて、必ずや彼を捉らへ得るの自信は持つても、十二時迄の時間は限つて考へる必要がある危險な彼を、短時間に、足の惡(わ)るい自分が、果して追込(おひこ)んで堰止(せきと)められるものか、間に合ふの自信も無い自分に、

「先(さ)つき文子さんの前では言へなかつたのですが、芥川さんの行つた先、ほんとはわたしが知つてゐるのです。――」

 と、いふ言葉をかけた存外なるMを知り、それに縋つて、省線で有樂町まで彼女と同行した。

 言葉を弄さずして、確實なる彼の居場所を知つてしまつた自分に、彼女に言はすならば心苦しい氣持を、復た車内で説明してゐたMと有樂町で降りた。

 有樂町で、の家に歸らずに、再び案内をして先に立つ彼女を自分は認めた。

 われわれはホテルまで步いた。――正面の入口(いりぐち)からでなく、側面の小さい出入口をえらんで自分を導き入れたMを、少々疑はしい女(もの)にも思ひながら(彼は説明して、彼女の父がホテルの支配人とは知合(しりあ)ひであると言つてゐた。)帳場(ちやうば)に出た時、自分は進んで芥川龍之介を問うた。果然、彼はホテルに居たのである。

 が、果然、「先ほどお見えになりまして、また、どちらかへお出掛けになりました。」である。「お歸りになるにはなります。」である。――Mを信じてホテルを自分は出た。

 Mは彼と一緒に死にはしない。時間は大丈夫。と考へ自分は、そこらで時間をつぶしませう、と彼女と二人戸外(そと)に出た。Mかうやつて自分と步いゐる。彼は何時間經過すれば、Mと死ぬつもりで復たホテルに戾るか。少し步いてゐるうちに見越しのついた事件は、僕は一先(ま)づ田端へ知らせに行くがあなたは、と、ホテルの近邊と聞いてゐた彼女の兩親の家をも考へる餘裕をあらしめた。

「それぢやあ、わたしも一緒にまゐりませう。」

 急に彼女も亦、僕と一緒で田端に逆戾りした。

 夫人、伯母、養母、葛卷義敏の顏を、芥川の門を潛つて、彼の家の玄關に上つた自分は(Mも同樣)見た。さうして人々よりも速く、一步先に階段を昇(のぼ)つて行つた。二階の自分は、書齋の机の上に、袋に部厚(ぶあつ)な原稿がはいつた物を、ただそれだけがのつてゐたその机に注目した。

(芥川夫人は忙(せは)しく書齋の隅々に目をつけてゐたやうであつた。といふのは、彼は常に遺書樣(やう)の物を書いてゐて、夫人に言はせれば、やたらそこらへんに置いてをくので、どうも女中達が掃除の時に讀んでしまつてゐるらしく、ほんとに困つてしまふんです。といつたやうに、彼が左樣な物を書物の間(あひだ)に挾むとか、道具の蔭に隱しておくなぞはよくあつた事であるから。)

[やぶちゃん注:「置いてをく」はママ。]

 机の上の囊、ハトロン封筒の表に、小穴隆一君へ、として意外な彼のその文字を見て見た中は、「或阿呆の一生」の原稿だけであつた。

(「或阿呆の一生」に就いては、僕はこの原稿を發表する可否は勿論、發表する時や機關も君に一任したいと思つてゐる。君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は發表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。僕は今最も不幸な幸福の中に暮してゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯、僕の如き惡夫(あくふ)、惡子(あくし)、惡親(あくしん)をもつたものたちを如何(いか)にも氣の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中で少(すくな)くとも意識的には自己辯護をしなかつたつもりだ。最後に僕のこの原稿を特に君に托(たく)するのは君の恐らくは誰(だれ)よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都會人と言ふ僕の皮を剝ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。昭和二年六月二十日 芥川龍之介 久米正雄君 の手紙? に依つても人々が記憶してかゐやう。註を入れたのは、闇中問答の原稿を葛卷に與へてゐたと同一の目的で、僕に或阿呆の一生の原稿を殘さうとしてゐた彼示すがためである。「最後の會話」の章參照)

[やぶちゃん注:太字「意識的」は底本では傍点「ヽ」。「最後の會話」は、この七つ後に出る章題。]

 夫人とM、自分の三人だけがゐた書齋で、M彼女を傍らに、夫人に、

「帝國ホテルに宿をとつてゐる事。十二時頃(ごろ)ホテルに歸つて何か書置(かきお)きを書くとして、二時頃(ごろ)の決行。この推察に誤りはなきこと。時間は未(ま)だ間に合ふ點。さうして、彼の身を本當に不安に考へてゐるのならば、亭主が自分のものだと思ふのなら、兎に角ホテルへ自分とまた一緒に行つてみないか。」

 等、Mを前にしては兎に角自分のものと思ふのならばの、ば、に力を入れて自分は説(と)いた。

[やぶちゃん注:「M彼女」はママ。「M女」の衍字か。]

(彼は後に僕を叱つて曰く。「女房にでも自分のものだと、さういつた考へを持たれて生きてゐるのは、自分はいやなんだ。)

[やぶちゃん注:末尾の丸括弧閉じるは底本にはないが、前の丸括弧開始に対応しないので特異的に挿入した。

 が、夫人は返事をしない。

 腹はわかりながらも夫人が逡巡してゐる態度は、寧ろ老人達に對する腹立ちを自分に持たせた。(芥川家の家風は、例へて云へば、鵠沼にゐて、子供の着物を買ひに行くが、一緒に散步に行かないか、と誘ふ彼が、「東京だと年寄がやかましくて、女中に遣る盆暮(ぼんくれ)の安反物(やすたんもの)さへなかなかの面倒だ。」と言つてゐた如き、當世風(ふう)とは異なるものであつた。)

 葛卷と三人で行く事を自分は主張した。その時はじめて夫人は口をきつた。

「では、下で年寄達がなんと申しますか、一應年寄にたづねてみます。」

 ‥‥遂に夫人、葛卷、僕の三人は、坂を下つて動坂(どうざか)の電車通(どほ)りへタクシを拾ひに出た。

 Mは近くの彼女の兄の家に泊つた。

 街も既に寢靜つてゐた。

 

 ××號室、3の字があつた室であつた。

「おはいり。」

 大きな聲ではつきり怒鳴つた者は彼である。

 ドアを開けて、寢臺の上に一人ふてくされてゐる彼をわれわれは見た。

「何んだ、お前まで來たのか、歸れ!」

 三人が三人共まだ全部室のなかに入らないうちである。「おはいり。」よりも大きい聲で彼が葛卷に言つた。

「歸れといふなら歸りますよ。」

「そんなら、なぜまた自分がこんな人騷がせをするんです。」

 込上(こみあ)げて泣きだしながらも怒鳴り返してゐた廊下の葛卷は一步足を部屋に踏入(ふみい)れただけで復(また)、田端に引返して行つた。

 

 彼と芥川夫人、僕、の三人になつた。

Mは死ぬのが怖くなつたのだ。約束を破つたのは死ぬのが怖くなつたのだ。」

 仰向けになりながら、依然たる寢臺の彼は怒鳴る調子で起上(おきあが)つた。

 

(一寸、舞臺面(めん)を眺めてゐるやうな思出(おもひで)でもある。)

 夜中の事であるから夫人が泊つてゆくか、部屋に寢臺は二つなのでまた歸るか、自分が歸るか、また自分が別の部屋をとるか、三人の心も定まらぬ時、

「わたくしは歸ります。」

 斯(か)う言つて夫人が、――また一人夫人が消えた。

 

 二人になつた自分と彼、ただ眠い自分であつた。無性に水が飮みたい自分であつた。空いてゐるはうの寢臺に橫たはり、義足をはづして仰向けに自分もなつた時、(スチームが強かつた。)毒が入つてゐて彼同樣明朝は冷たい自分であらうとも、枕もとの水壜(すゐびん)の水はごくんと音をたてて喉(のど)にはいつた。‥‥

 

「もつと早くホテルに來て早く死んでしまふつもりであつたが、家を出る時堀辰雄が來て、いま東京中(ぢう)を自動車で乘廻(のりまは)す小説を書いてゐるのだが、金がなくて車を乘廻せないと言つてゐたから、ついでだから一緒に東京中乘廻してゐて遲くなつた。」

「眠れないなら藥をやらうか。」

 この言葉だけがうとうととした自分の耳についてゐた。

 

 自分がここに彼のために辯護をするならば、彼が死場所(しにばしよ)としては華美なる帝國ホテルを選んでゐた一事(じ)である。

 彼は、――ホテルには種々の國際的人物が宿泊する關係上、間(ま)ま自殺者ありとするとも、‥‥‥‥關係者側からの又聞(またぎ)きで聞きで聞いてゐた。――それ以外の理由は知らぬ事である。

小穴隆一「鯨のお詣り」(27) 「二つの繪」(16)「手帳に依る、1」

 

        手帳に依る、1

 

 手帳に依る、1に於いて自分は大正十五年四月十一日〔昭和元年〕より翌昭和二年花見頃に至る、丁度一年間になる日數があり、ジグザクに動く彼を追つて、夫人及び葛卷、僕の生活も亦ジグザクに動いてゐたのである。この四人の動靜を描き、彼の胸像を彫刻してゆきたい。――然し自身のこの樂しみにも似かよふ彫刻は、「二つの繪」を描く現在では、さして必要ではない。――而して萬一、二册の古手帳が彼を主としたノートの手帳にあつたものならば、讀者に示す貴重の材料となつたであらうが、惜しむべし、この手帳は僕のものであつて、彼のものではなく、然も今日(こんにち)檢(あらた)め見る、大半の頁(ページ)は毮(むし)りとられてゐるものであつた。

[やぶちゃん注:これは「二つの繪」の「手帖にあつたメモ」の原型。但し、ここで小穴隆一は章題を「手帳に依る、1」としているにも拘わらず、実は本書の「二つの繪」パートはもとより、その後の部分にも「手帳に依る、2」を標題とするものは存在しない。不審であるが、小穴特有の気まぐれで、「2」を書くつもりが、やめてしまったものらしい。それがやはり不満足であったものか、「二つの繪」の「手帖にあつたメモ」では凡そ二倍強の分量に記載が増えている。

 以下の日記本文はカタカナ漢字交じり、日記の底本ルビも概ねカタカナで振られてある(従って、ひらがなの読みの部分は本書での小穴の書き添えであって日記本文でないことが判る。それが機能するように一部の読みを意識的に入れてある)。太字は再現。]

 

 大正十五年四月十一日、日

 八百屋ノ店サキニモハヤ夏ミカンヲミル(他は省略。)

 ――十八日、日、雨

 夜、田端

 蒔淸ノ壺ノナホシヲ田端ニ渡ス

 蒔淸へノ禮ヲアヅカル

 六月六日、日、朝 雨 午後ハフラズ

 蒔淸ト田端ニユク

 ――八日

 春陽堂ノ番頭、芋粥、戯作三昧ノ裝幀ノ用(ヨウ)デキタル

 龍之介先生、義(ヨツ)チヤン鵠沼行(ユキ)ハガキ

五月三日 「アグニノ神(カミ)」ノサシヱ二枚渡ス。とあるは、改造改版 三つの寶(たから) の進行遲々たるものありしを示す。同十八日、東洋文庫ニきりしたん本(ボン)ヲ調べニユク。――これは某書肆(しよし)が彼のきりしたん物を和本にて出版せんとする目論みに依る。)

 六月二十二日、火、曇

龍之介先生ヨリ手紙(鵠沼(くげぬま))

(あづまやに一人で滯在してゐた芥川が、クソ蠅(ばへ)を何匹(なんびき)か呑下(のみくだ)してゐた頃なり。)

 七月二十六日、月、晴

 

 改造高平(タカヒラ)キタル リンカク校正ワタシ

(この頃は彼にも僕にも風雨(ふうう)樓(ろう)に滿つるの趣(おもむき)があつて、僕は大いに金の必要を感じてゐた。ここで當時の自分として出來るだけの前借(ぜんしやく)(貮百圓?)を改造高平に賴み、要求だけの金を受取つた。

 十二月三十一日、日

 鵠沼ヨリ上京東片町(ヒガシカタマチ)ニ來タル 三十日尚子(ヒサコ)死ス。年十三

(東片町は亡父が一時代住んでゐた所。)

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「手帖にあつたメモ」で注したが、この曜日の「日」は「金」の誤り。]

 昭和二年一月四日、火

 告別式 火葬

 田端泊

 ○○サン(M女(ヂヨ))ヲミル

[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「手帖にあつたメモ」では『平松サン』と伏字を外しており、『芥川に平松麻素子さんを紹介された日』と附記してもいる。]

 ――一月五日、骨(コツ)アゲ

 ヒル田端ニ寄リ ヨル鵠沼ニカヘル

(六日、夜(ヨル)藤澤ノ花屋ニ義(ヨツ)チヤントユキバラ十五本三圓。この六日間で思出(おもひだ)すのは、もう一晩泊れといふ彼に別れて鵠沼に歸つた僕自身の姿である。ずるずるに實際では、既に鵠沼は引上げ(ひきあ)げてしまつてゐた彼ではあつた。空(あ)けてゐる鵠沼の彼の借家に一人で留守番をしてゐた葛卷義敏は、むしろ、一人留まつてゐる僕のために、田端から彼がよこしてゐた者である。)

 ――七日、金、雨

 ばらニ着手

 ヨツチヤン歸京

 塚本サンノオツカサン

 夜(ヨル)時事ノ記者、西川氏ノ件(ケン)。

(彼の姉、葛卷の母の夫、西川辯護士の鐡道自殺で朝のうちに、葛卷は新原(にいはら)と共に歸る。塚本のオツカサンは芥川夫人の母なり。多分、この日も夕飯の菜(さい)を持つてきて呉れた事ならん。)

 一月三十日、日

 芥川サンノ原稿「なぜ?」ハ奧サンニオ渡シシタ

(芥川夫人は鵠沼に置いてあつた荷の中から差當(さしあた)つて必要な品物、子供の着物かなにか、それを取りに田端から一寸見えた。)

 二月十三日、日

 田端、遠藤二人ヨリ手紙

 月末東京へ引キアゲルニツイテ一寸塚本サンニユク

 ――二十日、日、クモリ朝雪

 田端泊(ドマリ)

 二十一日、月、ユキ、田端泊 二十二日、火、田端泊 雪 ホンブリ。クゲヌマ。

 五月二十一日

 新聞ノ差畫(サシヱ)ハハジメテナリ東京日日新聞夕刊所載東京繁昌記ノウチ「本所兩國」芥川龍之介十五日分 余ノ差畫、今日(コンニチ)掲載ノブンニテ終ル 畫料(グワレウ)百五十圓

 

 手帳には昭和二年二月二十四日より五月二十日迄、八十五日間の、その我等の消息といふものが悉(ことごとく)皆落ちてゐて分明にされてはゐない。が、この間に、彼、夫人、葛卷、僕、この四人が依然として互(たがひ)にその人々を信じ、各(おのおの)助け合つてはゐながもも、何故又、その各人互に疑心(ぎしん)をさしはさむ傾向に導かれやうとはしたのか。――

 少くとも僕にあつては答へる。

 嵐(あらし)はある。やがて一本の樹(き)が必ずそこに倒れる颱風(たいふう)のなかに立つて、あのぼそぼそとしてそれを語る芥川龍之介の「死ぬ話。」あれは毒だ。僕の聴覺を今日まで完全に歪(ゆが)みたるものにしてゐるそれだ。‥‥

柴田宵曲 妖異博物館 「古蝦蟇」

 

 古蝦蟇

 

 天竺德兵衞や兒雷也の妖術は番外としても、蝦蟇(がま)に關する妖異譚は世間にいろいろある。

[やぶちゃん注:「天竺德兵衞」(てんじくとくべえ 慶長一七(一六一二)年~?)は江戸前期の商人で探検家。ウィキの「天竺徳兵衛」より引く。『播磨国加古郡高砂町(現在の兵庫県高砂市)に生まれる。父親は塩商人だったという』寛永三(一六二六)年)、十五歳の時、『京都の角倉家』(すみのくらけ:京都の豪商)『の朱印船貿易に関わり、ベトナム、シャム(現在のタイ)などに渡航。さらにヤン・ヨーステン』(Jan Joosten van Loodensteyn 一五五六年?~一六二三年):オランダの航海士で朱印船貿易家)『とともに天竺(インド)へ渡り、ガンジス川の源流にまで至ったという。ここから「天竺徳兵衛」と呼ばれるようになった』。『帰国後、江戸幕府が鎖国政策をしいた後、見聞録』「天竺渡海物語」(「天竺聞書」とも)を『作成し、長崎奉行に提出した。鎖国時に海外の情報は物珍しかったため世人の関心を引いたが、内容には信憑性を欠くものが多いとされる』。『高砂市高砂町横町の善立寺に墓所が残っている』。『死去した後に徳兵衛は伝説化し、江戸時代中期以降の近松半二の浄瑠璃』「天竺德兵衞郷鏡(てんじくとくべえさとのすがたみ)」(宝暦一三(一七六三)年初演)や四代目鶴屋南北の歌舞伎「天竺德兵衞韓噺(てんじくとくべえいこくばなし)」(同年初演)で『主人公となり、妖術使いなどの役回しで人気を博した』とある。「ガマの妖術」(47NEWS(よんななニュース))の記事によれば、鎖国によって『徳兵衛は、キリシタンと結びつけられ、ガマの妖術を使って日本転覆を志す悪人として描かれ』、これは『鎖国下の人々には「キリシタン=妖術使い」という怪しいイメージがあった』からであろうとする。『南北の名を世に知らしめた』「天竺德兵衞韓噺」は、『徳兵衛を描いたさまざまな先行作を集大成した芝居で』、『屋体崩しの屋根の上に、火を噴く大ガマに乗って現れ、舞台上の池の水に飛び込み、すぐに裃(かみしも)を着た使いに化ける早替わりを見せるなどで人々をあっと驚かせ』『た。水中の早替わりがあまりに鮮やかなので、「キリシタンの妖術を使っているらしい」といううわさが江戸市中に広まり、奉行所の役人が調べに来る騒ぎとなって、それがまた人気に火を付け』たが、実はこの噂は『芝居関係者がわざと広めたのだそうで、あざとい宣伝は江戸の昔も今と変わらないようで』あるとある。

「兒雷也」(じらいや)は「自雷也」とも書く、江戸後期の読本に登場する架空の盗賊・忍者の名。これもウィキの「自来也」から引く。『明治以降、歌舞伎や講談などへの翻案を通して蝦蟇の妖術を使う代表的な忍者キャラクターとして認識され、現在に至るまで映画・漫画・ゲームなど創作作品に大きな影響を及ぼしている』。『日本の物語作品に自来也が初めて登場するのは、感和亭鬼武(かんわてい おにたけ)による読本』「自來也説話(文化三(一八〇六)年刊)で、そこでは『自来也は義賊で、その正体は三好家の浪士・尾形周馬寛行(おがた しゅうま ひろゆき)。蝦蟇の妖術を使って活躍する』。『「自来也」は、宋代の中国に実在し、盗みに入った家の壁に「我、来たるなり」と書き記したという盗賊「我来也」』(宋の沈俶(ちんしゅく)の「諧史(かいし)」に所載する)等を『元にしたとされる。自来也の物語は歌舞伎や浄瑠璃に翻案された』。「兒雷也」は、上記の「自來也説話」を『元にして、美図垣笑顔(みずがき えがお)らによって書かれた合巻』(ごうかん:寛文期(一六六一年~一六七二年)以降に江戸で出版された草双紙類の、文化元(一八〇四)年頃に生まれた最終形態。名称は、それまで五枚(五丁)一冊に別々に綴じていた草子を纏めて厚く綴じたことに由来し、明治初期まで続いた)「児雷也豪傑譚」(天保一〇(一八三九)年~明治元(一八六八)年まで三十年にも亙る長期刊行されたものであるが、未完に終わった)に『登場する架空の忍者』の名で、『肥後の豪族の子・尾形周馬弘行(おがた しゅうま ひろゆき)がその正体と設定され、越後妙高山に棲む仙素道人から教えられた蝦蟇の妖術(大蝦蟇に乗る、または大蝦蟇に変身する術)を使う。妻は蛞蝓の妖術を使う綱手(つなで)、宿敵は青柳池の大蛇から生まれた大蛇丸(おろちまる)であり、児雷也・大蛇丸・綱手による「三すくみ」の人物設定は本作品から登場している』。この「兒雷也」は河竹黙阿弥による「児雷也豪傑譚話」(嘉永五(一八五二)年)などの『歌舞伎に脚色翻案され、さらに多くの忍者ものの物語やキャラクターの題材となった』。大正一〇(一九二一)年『公開の牧野省三監督の映画』「豪傑兒雷也」は『日本初の特撮映画と言われ、主演した尾上松之助の代表作となった』とある。私は正直、最後の映画ぐらいでしか知らぬ。]

 

 米澤で夏の月の明るい夜、人が集まつて話をしてゐると、盆に盛つて出してあつた餠が庭の方へ飛んで行く。それも一度や二度ではない。皆が不審がつて庭の方を見守るのを、主人は笑つて、あれは何でもありません、庭に食べるやつがゐるのです、と云ふ。成程、大きな蝦蟇がうづくまつてゐて、かつと開いた口の中へ、餅は皆飛び込むのであつた(寓意草)。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で視認出来る。この条は右下の途中に出る。]

 

 これらは蝦蟇のものを吸ふ力の強い一例で、興味を持つて眺められる程度の話であるが、「耳囊」の記すところを見ると、もし蝦蟇が厩に住めば、その馬は心氣衰へて終に枯骨となる。床下に蝦蟇が居る場合には、その家の人がうつうつと衰へて病氣になる。或古い家に住む人が、何となく病み付いて氣血衰へた際、緣端に來る雀が緣の下へ飛び込んだまゝ行方知れずになつた。その他、猫鼬の類も、自然と緣の下へ引込まれる。かういふ事が屢々あるので、床板を剝し、緣の下へ人を入れて搜して見たら、大きな蝦蟇が窪んだところに住んで居り、毛髮枯骨の類がおびたゞしく傍に在つた。全く彼奴の仕業であらうと打ち殺して捨て、床下を綺麗に掃除したら、病人は日ましによくなつたとある。

[やぶちゃん注:「彼奴」「きやつ(きゃつ)」。

 以上は「耳囊 卷之四 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事」の前半の主事例である。私の原文訳注でお楽しみあれ。次の談の事例(「怪をなす蝦蟇は別種成事」に相当)はその後半に記されてある。「蝦蟇」=「蟇」の生物学的記載はリンク先の私の注を参照されたい。]

 

 上野の寺院の庭で鼬が蝦蟇に取られたことがあつた。鼬の死骸に土をかけ、蝦蟇がその上に登つてゐたので、翌日その土を掘り返して見たら、鼬は已に溶け失せて居つた。「耳囊」はこの話に附け加へて、蝦暮の足手の指が前に向いたのは尋常である、女の禮をする時のやうに、指先をうしろへ向ける蝦蟇は必ず妖をなす、と云つてゐる。

 蝦蟇は他の動物を斃しても、直ぐにそれを食はぬらしい。「續蓬窓夜話」に書いてあるのは、京都の話で、然も相手は蛙族にとつて宿敵の蛇であつたが、この蛇は一溜りもなく蝦蟇の前に屈してしまつた。蝦蟇は徐ろに樹の下へ這つて行つて土を穿ち、蛇の屍を埋めてしまつた。この體を目擊した人が翌日そこへ來て見ると、蝦蟇が昨日の土を搔きのけるやうにするにつれて、蜂のやうな蟲が飛び出す。掘れば飛び出し、掘れば飛び出しするのを、片端から呑み盡して、悠然とどこかへ立ち去つた。その跡へ行つて見たが、蛇の死骸は露ほども見えなかつたさうである。

[やぶちゃん注:「體」「てい」。

 以前に申し上げた通り、「續蓬窓夜話」は所持しないので原文を示し得ない。]

 

 以上のやうな話は、動物界に於ける自然現象と見られぬことはない。倂し蝦蟇の妖術はなかなかこの邊にはとゞまらぬので、「寢ぬ夜のすさび」に見えた柳橋庵連馬の話などは純然たる怪談である。

[やぶちゃん注:刊年不詳。片山賢著になる文政(一八一八年~一八三〇年)末より弘化年代(一八四四年~一八四七年)に至る江戸市中の巷談街説を記した随筆。以下は「卷之三」の「柳橋菴連馬」(現代仮名遣で「りゅうきょうあんれんば」と読んでおく)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。]

 

 この人天性の蛙好きで、庭の小さな泉水にも蛙を放す。机上に置く文鎭卦算の類も全部蛙か蝦蟇で、銅製陶製倂せて四五十の多きに及んだ。或年行脚して會津に到り、或家の離れ座敷を借りて二三箇月も逗留した。土地の人々もこゝに集まつて、夜毎に俳諧などを催してゐたが、そのうちに給仕の女が、あの宗匠のお部屋では、皆樣がお歸りになつてから、毎晩話し聲が聞えます、と云ひ出した。主人も注意して見るのに、如何にもその通りである。連馬に聞けば、そんな事はないといふ。或晩寢しづまつて後、廊下に蝦蟇が一疋うづくまつてゐるのを發見したので、さてはこれかと見守つてゐると、障子の際まで這つて行つて見えなくなつた。同時に連馬の話し聲が聞える。話の内容はわからぬが、かういふ事を二三度見屆けた上、改めて連馬に質して見た。連馬の答へに、近頃お恥かしい次第であるが、自分で江戸で美人畫を求め、もしかういふ女が世にあるならば、妻にしたいと考へて居りました、然るに御當地へ來てから、その繪の通りの女が現れましたので、毎晩逢ふやうになりました、此間お尋ねがあつた時、私は知つてはゐたが云はなかつたのです、倂し今蝦蟇と云はれたのは合點が往きません、といふことであつた。主人は切にその妖であることを説き、俳諧の連中も共に諫めたが、表面は承知したやうで、毎夜の話し聲は依然やまぬ。遂に顏色憔悴して江戸に歸つたが、間もなく亡くなつたさうである。この美人に化けた先生などは、どうしてもうしろ向きの指の所有者でなければなるまい。

[やぶちゃん注:「卦算」「けさん」或いは「けいさん」と読み、文鎮と同義。易の算木(さんぎ)のような形に似ていることに依るが、ここは或いは大きなものを「文鎭」、それに比較して小さなものをかく呼んでいるのかも知れぬ。]

 

 元文三年頃、本所にある松平美濃守の下屋敷で、屋敷内にある方三町餘の沼を埋めることになつた時、けんぼう小紋の上下を著た老人が上屋敷の玄關に現れた。私儀は御下屋敷に住居致しまする蟇でございます、この度私住居の沼をお埋めなされるやう御沙汰ある段、承りまして參上仕りました、何卒この儀お取り止め下さいますやう、願ひ上げ奉ります、と鄭重に申し述べた。取次ぎの士が怪しい事に思ひ、襖を隔てて窺へば、けんぼう小紋の上下と見たのは、蟇の背中の斑であつた。大きさは人の坐つたぐらゐで、兩眼、鏡の如しとある。卽刻美濃守に申達し、沼を埋めるのは中止になつた(江戶塵拾)。

[やぶちゃん注:「元文三年」一七三八年。

「方三町」三百二十七メートル強四方。

「けんぼう小紋」「憲法小紋(けんぱうこもん(けんぽうこもん))」のことであろう。「憲法」は憲法染めという独特の染め方を指し、江戸初期の兵法師範であった吉岡憲法が、渡来した明の人から伝授された手法を以って創始したと伝える、黒茶染めの染め方。恐らくは蟇の化身であるから、赤みがかった暗い灰色を地色として染めた小紋(染め)を指しているものと推定される。江戸時代には黒系統の平服として広く愛用されていた。

「蟇」「ひき」或いは「がま」。

「申達し」以下の原文から「まうしたつし」と訓じておく。

以上は「江戶塵拾」の「卷之三」の「大蟇」所持する「燕石十種」第五巻(一九八〇年中央公論社刊)を何時もの通り、漢字を恣意的に正字化して示す。

   *

   大蟇

松平美濃守下屋敷本所にあり、方三町餘の招あり、此中に住む、一年、故有て此池を埋べきよし被申付、近々、掘理んと云時に、上屋敷の玄關に、けんぼう小紋の上下着たる老人一人來りて、取次の士にいふ樣、私儀、御下屋敷に住居仕る蟇にて御座候、此度、私住居の沼を御埋被ㇾ成候御沙汰有ㇾ之段、奉承知候付、參上仕儀、何卒此儀御止被ㇾ下候樣に奉願上候旨を申述候、其段可申開候とて、取次の士退座して、怪しき事に思ひ、ふすまをへだてうかゞひ見るに、けんぼう小紋の上下と見へしは、蟇が背中のまだらふなり、大サは人の居りたるが如く、兩眼がゞみの如し、卽刻美濃守へ申達ける所、口上のおもむき聞屆候よし挨拶あられ、沼をうづむる事を止られける、元文三年の事なり、

   *]

 

 時代は遡つて室町時代になる。應仁の亂に一方の大將だつた細川勝元は、等持院の西にあつた德大寺公有卿の別莊を請ひ受けて菩提所とし、義天和尙を關祖とした。即ち今の龍安寺である。自分の居宅の書院を引いて方丈とし、權勢に任せ庭なども數寄を凝らしたものであつたが、勝元は政務の暇にはこゝに來て、方丈に坐して庭前の景を眺め、酒宴を催したりする。殊に夏の暑い日は屢々池邊を逍遙し、近習の者をしりぞけて池に飛び入り、暫く泳ぎ𢌞つた後、方丈に入つて睡るのが常であつた。或夏の暮れ方、この邊を徘徊する山賊どもが七八人、この寺に忍び込んで、ひそかに方丈を窺つたところ、人影も見えず、しづまり返つてゐる。今日は管領もお見えにならず、寺僧も他行と見えた、これは何よりの幸ひだから、入つて財寶を奪はうといふので、池の岸根を傳ひ、隔ての戶を押し破つて方丈へ這ひ上らうとすると、思ひもよらず座席の眞中に一丈ばかりの蝦蟇がうづくまり、頭を上げて睨み付けた眼は、磨ぎ立てた鏡の如くである。盜賊どもは肝を潰して、そこに倒れる。蝦蟇は忽ち大將らしい人になつて起き上り、側にあつた刀を執つて、汝等は何者だ、こゝは外の人の來るところでないぞ、と叱り付けた。盜賊はわなわなふるへ出して、もの欲しさに忍び入りました盜人でございます、御慈悲に命をお助け下さいまし、と哀願に及ぶ。その人笑つて床の間の金の香合を投げ出し、貧困に迫つて盜みするのは不便(ふびん)であるから、これを取らする、必ず今の體を人に語る勿れ、と云つたけれど、盜賊はもう香合を受け取るどころではない。跡をも見ずに逃げ出した。遙かに年を經た後、賊の一人が伊勢の北島家に囚はれ、この始末を話したさうである。蝦蟇は勝元の本身で、かういふ形を現じたところを、不意に亂入した盜賊に見付けられたものか、さうでなければこのうしろの山中に蛇谷、姥が懷ろなどといふ木深いところがあるから、その邊から來た妖怪であつたかも知れぬ(玉箒木)。

[やぶちゃん注:「一丈」約三メートル。

「伊勢の北島家」伊勢国司家で南伊勢を支配していた北島氏。

「蛇谷」不詳。「じやたに」と読むか。

「姥が懷ろ」「うばがふところ」か。「都名所図会」の「卷之三 東靑竜」の「日岡(ひのおか)の峠」(粟田口から山科へ抜ける道)の西に「姥が懷(うばがふところ)」と言う地名を見出せる。位置的には龍安寺とは合わないから、ここではないとしても、この地名は日照・地形上の形状や陶土などの特殊な土の産出などに起因するものするなら、京の別な箇所にあっておかしくなく、実際に全国にこの地名は現存することが、木村清幸氏の論文『「姥懐」という中世地名について』(PDFでダウン・ロード可能)で判る。

「玉箒木」「たまははき」と読み、元禄九(一六九六)年刊の全十七話からなる、京の本屋文会堂の主人で浮世草子作者でもあった林義端(はやしぎたん ?~正徳元(一七一一)年)の怪異小説集。以上は「卷之二」の巻頭にある「蝦蟆(かへる)の妖怪」である。活字本を所持しているはずなのであるが見当たらぬので、Googleドライブ電子データを基礎に、国立国会図書館デジタルコレクションのら画像を視認して電子化する。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを施した。

   *

 蟆妖怪

細川右京大夫勝元は、將軍義政公の管領(くわんれい)として武藏守に任じ、富貴(ふうき)を極め威權(いけん)を輝(かかやか)し、凡(およそ)當世公家武家のともがら多くはその下風(かふう)につきしたがひ、その命を重んじうやまひあへり、かゝりしかば貸財珍寶求めざれども來りあつまり、繁榮日々にいやましにて、よろづ心にかなはずといふ事なし、その頃洛西等持院(たうぢゐん)の西に德大寺公有(きんあり)卿(きやう)の別莊あり、風景面白き勝地(しやうち)なれば、勝元請受(こひうけ)て菩提所の寺となし。義天和尙をもつて開祖とし給ふ、今の龍安寺(りようあんじ)是也、勝元居宅の書院を引(ひき)て方丈とせり。このゆへに造作の體(てい)よのつねの方丈とはかはれり、勝元元來權柄(けんぺい)天下を傾(かたぶ)けければ、私(わたくし)に大船(だいせん)を大明國につかはし、書籍畫圖器財絹帛の類(たぐひ)、かずかずの珍物をとりもとめて祕藏せり、その時の船の帆柱は大明の材木にてつくりしを、此龍安寺普請の時引割(ひわり)て方丈の床板(ゆかいた)とせらる、そのはゞ五尺ばかり、まことに條理堅密の唐木(からぼく)にて、和國の及ぶ所にあらずといふ、方丈の前に築山(うきやま)をかまへ樹木を植(うゑ)、麓(ふもと)には大きなる池あり、是は勝元みずからその廣狹(くわうけう)を指圖して、景氣おもしろく鑿開(ほりひら)き給ふとなり、水上には鳧雁鴛鴦(ふがんゑんわう)所得(しようとく)がほにむれあそび、島嶼嶸廻(えいくわい)して松杉(しやうさん)波にうつろふ。古人の綠樹影沉(しずん)では魚木に上ると詠じけんもこゝなれや、色々の奇石を疊たる中に、すぐれて大きなる石九つあり、是また勝元政務(つとめ)のいとまには常に此寺にきたり、方丈に坐して池中の景を詠め、酒宴を催し、ことさら夏の中(うち)暑熱の頃は、しばしば池の邊に逍遙し、近習(きんじふ)の人をしりぞけ、たゞひとりひそかに衣服を脫(ぬぎ)すてあかはだかになり、池水に飛入(とびいり)てあつさをしのぎ、しばらくあなたこなた遊泳して立あがり、そのまゝ方丈に入て打臥し寐(ね)いり給ふ、ある年の夏の暮に、此邊を徘徊する山立(やまだち)の盜賊ども七八人、此寺に入きたり、ひそかに方丈の事をうかゞふに、人一人も見えず、いと物しづかなり、盜賊どもおもふやう、今日は管領もきたり給はず、寺僧も他行(たぎやう)せしとみゆ、究竟一(いつ)の幸(さいはひ)ならずや、いでいでしのび入て財寶をうばはんとて、池の岸根(きしね)をつたひ、へだての戶どもおしやぶり、方丈へはひあがらんとするに、おもひもよらず座席のまん中に、その大さばかりの一丈ばかりの蝦蟆(かへる)うずくまり、かしらをあげまなこを見いだす、そのひかりとぎたてたる鏡のごとし、盜賊ども肝を消して絕入(ぜつじゆ)し、そのまゝ臥し倒る。此蝦蟆(かへる)たちまち大將とおぼしき人となりて起あがり、そばなる刀おつとり、なんぢらは何者ぞ、ここは外人(ぐわいじん)の來る所にあらずと大にいかりければ、盜賊どもおそれおのゝき、わなわなふるひけるが、まことは盜人にて侍る、物のほしさにしのび入しなり、御慈悲に命をたすけ給へと、一同に手をあはせひれふしたり、此人打わらひ、しからばとて床の間にありし金の香合(かふがふ)をなげいたし、なんじら貧困に迫り盜竊(たうせつ)するが不便(ふびん)さに、これをあたふるなり、かならずただいま見つけたる體(てい)を人にかたることなかれ、とくとくかへるべしといへば、盜賊ども香合をうけず其まゝもどし、ありがたき御芳志(ごはうし)なりといひもあえず、跡をも見ずしてにげ出けり、はるかに年經て後、此盜賊の中一人、勢州北畠家に囚(とらは)れ、此始末をかたりけるとなり、抑(そも)此(この)蝦蟆(かへる)は勝元の本身(ほんしん)にて、かくかたちを現じ、おもひかけず亂れ入たる盜賊どもに見つけられたるにや、しからずば又此うしろの山中には、蛇谷姥ケ懷などいふ木深(こぶか)き惡所もあれば、かゝる妖怪の生類(しやうるい)もありて出けるにやといふ。

 

   *

細川勝元は実は蝦蟇が化けたものかとする面白い話であるが、寧ろ、この妖しさは彼の息子で、修験道に没頭して独身を通し、結果、細川家の嫡流を絶えさせてしまった妖しい政元の方が相応しいと、私などは思ったりするが、如何? 但し、uburan氏のブログ「いまだ書かれざる物語」の「魔法修行者」の親父によると、これは、宋の覚範慧洪(えこう)の詩話集「冷齋夜話」が元ネタとするという。冷齋夜話」を中文サイトで縦覧したが、如何せん、どの部分がどう元ネタなのか皆目分らぬので、お手上げ。お分かりになった方は御教授下されよ。]

 

 これは天竺德兵衞も兒雷也もそこのけの手際である。細川勝元に果してこんな傳說があつたものかどうか。もし廣く流布してゐないなら、時代小說は知らず、歌舞伎の一幕に取り入れるのも面白からうと思ふ。

小穴隆一「鯨のお詣り」(26) 「二つの繪」(15)「友二三名について」

 

        友二三名について

 

[やぶちゃん注:以下は「二つの繪」の「友人」の原型であるが、「二つの繪」でその次に独立章として配されてある靈術」も、ここにカップリングされてある。]

 

 恒藤恭(つねとうやすし)。その社會思想方面の問題では、彼が、兄事(けいじ)してゐた人の訪問を知つてはゐても、二人の間の話は全然一言(こと)も傳へる事が出來ない。何故ならば、一言もその話について彼は僕に語つてゐないからである。

○ 宇野浩二。この宇野の訪問の場合についても同然である。「何(な)に。宇野が來た?」と顏色を變へた彼を知るだけである。

○ 菊池寛(くわん)。夜の藤澤町の往來で、

「菊池は軍資金を出してやるから遊蕩(いうたう)しろと勸めるのだがね。如何(どう)だい、二人分の金を貰つて二人でこれから遊蕩を始めようか。」

 さういふ彼と顏を見合せて、同時に吹出(ふきだ)した。遊蕩兒の素質は充分に持ち合せてゐたとしたところが下戸の二人である。

(菊地寛らしい親切とは思つた。)

○久米正雄 これは甚だ奇妙である。一日(じつ)、必要以上にSの話を始めた彼は、閨房に於けるSを語って後に、‥‥畢竟、無論今日の久米正雄が左樣であるといふのではない。血氣未だ定まらざる時の久米が、好きな女と對坐をして話をする、ただ單にそれだけで既に起こす生理的現象を、正直に芥川龍之介に話してゐた、それを物語つて、總ての男子が果皆左樣なものであるのか。と眞劍に返答を求められたのである。

 ――彼自身は、「自分にはそんなことはなかつたがね。」と言つてゐた。(其時に何故(なぜ)か僕は、昔、そのサムホール――小型油繪具箱――を久米と一緒に買つて房州に行つて、はがきに描(か)いて、夏目さんに送つたものだよ。といつてゐた彼の友、久米正雄の若き日の姿を目に浮かべてゐた。)

 

[やぶちゃん注:Sの話を始めた彼は、閨房に於けるSを語って後に、‥‥」「S」は秀しげ子。「彼」は芥川龍之介を指すので注意。点線部は、後の「二つの繪」の「友人」の久米の項で、『芥川は猿股の紐を食ひきつたといふ□夫人の執拗? まで言つた』という、芥川龍之介の遺書の小穴隆一宛に出現する『秀夫人の』『動物的本能の烈しさは實に甚しいものである』に相応しい、閨房での激しい秀しげ子の行動として苛烈に復元されている

「久米と一緒に買つて房州に行つて」大正五(一九一六)年八月十七日から九月二日まで芥川龍之介は久米正雄と千葉県一の宮の一の宮館に滞在している。新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、この間、『夏目漱石からは久米との連名宛を含め四通の書簡をもら』っており、夏目金之助宛芥川龍之介書簡としては滞在中の様子を綴った八月二十八日附一通が残る(旧全集書簡番号二二三。但し、これは手紙で絵葉書ではない)。この時の体験を元に「海のほとり」(大正一四(一九二五)年九月『中央公論』初出。以上のリンク先は私の古い電子テクスト)「微笑」(大正十四年十月十五日附『東京日日新聞』の『文藝』欄初出)こちらのリンク先は「青空文庫」のそれ。但し、新字旧仮名)が書かれた。]

○ 佐佐木茂索。新年號に近づく頃、文藝春秋で度々(たびたび)人をよこしていろいろ書かせるが、これは自分がこの頃(ごろ)書かないでゐる、それで困つてゐるだらうと思つて、みんなそれは佐佐木が心配して、菊池寛に話してゐて呉れてるんだらうと思ふんだがね。‥‥。」とまで言つてゐたその佐佐木に、彼が、

「俺はもう佐佐木とは絶交だ。」

と、怒つた事がある。(佐佐木はそんな事は知らなかつた。)

 何雜誌か、新聞に出てゐた廣告に、生きてしまつた人と 佐佐木茂索 の活字を朝起きぬけに見付けたからである。(讀まずに悉く自身のことと思込(おもひこ)んだのである。)

 尤も、佐佐木茂索それ以前に鵠沼に來て、「ああたまらん。」そのたまらん話を彼に、一寸(ちよつと)聞かされてゐたのである。

○ 僕に對する。「○○○さんのためにも僕はO君の新秋を書いたよ。」と言つてゐた。

「ワーグネルが獨逸(ドイツ)一國に値(あたひ)するその名譽よりも、乏しいなかにもほの暖(あたゝか)い晩餐を欲してゐたその氣もちはわかるよ。」云々。これはミゼラブルな彼がミゼラブルな僕に「死ぬ話。」のついでに言つた言葉である。(但し自分は彼によつて引合(ひきあ)ひに出されてゐたワーグネルの不幸に對し、未だに恐縮しつづけてゐる者である。)

[やぶちゃん注:後掲されるMの章で、小穴隆一はこの「ワーグネル」は「ゲーテ」が正しかったと言っている。しかし、後の単行本「二つの繪」の友人」では、やはり「ワーグネル」のままである。不審。

 以上のメモワールを書取つて自分は逡巡する。――さうして、エアーシツプを捨てて、五六日前に神戸の叔父が置いて行つて呉れた四本の葉卷を、寺子屋机(てらこやづくゑ)の上で撫でてゐる。四本の葉卷に四色の味があらう異つた四本である。

[やぶちゃん注:「エアーシツプ」国産煙草の銘柄。「たばこと塩の博物館」公式サイト内のこちらによれば(現物の画像有り)、明治四三(一九一〇)年に缶入り五十本で発売されたもので、この年に本邦上空を始めて飛行機が飛んだことに由来する名と伝えるとある。後に、十本入り小箱も発売された、とある。

「神戸の叔父」先行する「あをうなばら」を参照されたい。

「寺子屋机」百聞は一見に若かず。グーグル画像検索「寺子屋机」をリンクさせておく。私は納得。]

 

 この〔鵠沼〕に、常例を破って、「梅・馬・鶯」の裝幀を佐藤春夫に賴んでゐた氣持ちの彼。

[やぶちゃん注:「常例を破って」芥川龍之介の後期の単行本の装幀は、その殆んど小穴隆一に託していることを「常例」と言ったもの。

 次の段落以降が、「二つの繪」版では「交靈術」として独立章を成すものの原型となる。]

 藤澤劇場に奇術、交靈術、オペラコミツクの一座が掛つた時があつて、それを見物に蒲原春夫(かんばらはるお)と僕を伴(ともな)つて行つた彼が、交靈術の實演に取掛(とりか)かる前に當つて觀客一同に、靈魂の不滅を説き來たり説き去る、而してその演じよう術の如何に高遠(こうゑん)な道に根ざしたものであるかを、演説しつづけてゐた猛獸使ひの如き面魂(つらだましひ)の座長に對しては、死にぬことばかり考へてゐた彼の奮激おく能(あた)はざるものがあり、座長が見物席よりさくらを呼ぶのを見るに至つて遂に、「歸へりに酒を飮ませるから君が出ろ。」と傍はらの佐賀縣人蒲原に命じ、蒲原が躊躇するに及んではこれを叱咤して舞臺に送つた時の彼の相貌(靈魂不滅を信ぜぬ彼とても「俺が死んだら大雨を降らせてやる。」とその家人に言ひ、「俺が死んだらあの世で君を護つてゐてやるよ。」等の言葉を僕に吐いている。)

 ――さうして蒲原は結局、心理狀態が適さぬ者として、舞臺から追返(おひか)されてきたものえだるが、その蒲原を歸途遊廓に伴込(つれこ)み登樓して、宿泊帳に彼自らが署名して(假名(かな)であつた。)金子(きんす)を支拂ひ、蒲原一人をそこに留(とゞ)めて早々に退去したあの彼、蒲原をして恐怖を感じさせてゐた彼、して翌夜(あくるよ)復(ま)た、夫人と僕とを伴れて前夜の藤澤劇場に一座を見物した彼の心理、或は「沙羅(さら)の花」以來「支那游記」に至るまでの彼の著書の、表文字(おもてもじ)を書いてゐた妹(いもうと)尚子(ひさこ)が危篤で歸京する僕を藤澤驛まで送つてきた彼、――町で一束の薔薇を呉れた彼。――改札口では二人とも淚を浮かべて別れた。――自分が溜息と共に東京へ向つて動き出した車内を見廻した時に、前方の車のはうから見覺えのある顏が笑ひながら步るいてくる。(全くその時はさうしか感じなかつた。)それがその人間が先刻(さつき)別れた芥川龍之介であつた事や、走りつづける汽車の内(なか)で、如何(どう)しても奧さんに申譯(まうしわけ)がないから、「直ぐ降りて鵠沼へ歸つてくれ。」といふ自分と、「一晩でも君と離れるのはいやだ、」と、ふて腐れて座席に橫たはつてしまつた彼、結果、痔の痛みに堪へかねて、自分も大船か橫濱かの區別の記憶は失つてゐるが、どちらか、そこで泣顏をして一人で下車して鵠沼へ戾つた、左樣な彼。又は、もつと日常の些細な事に、當時の彼の姿を再現すべく重要ではある役割の言葉を書落(かきおと)してゐる。――自分はそれを認めながらここに書落す。――

[やぶちゃん注:最後に意識的書き落とすこととするという内容は、或は「二つの繪」の「交靈術」のこのシークエンスの最後に記してある小穴隆一の芥川龍之介に対する印象、『一見颯颯とした趣きのあつた芥川のああいつたあまえつ兒のやうなところは、生れるときにもつてついた宿命のやうなものによるのか、芥川にはやはり芥川が言つてゐた姉さん女房いつた女房がよかつたのであらうか、麻素子さんあたりには、僕に夫人をベタぼめにほめてゐたやうにほめてゐたものか、多分多少のちがひもあらうかと思はれる』を指すのかも知れぬ。]

 又、自分と前後して鵠沼に移住してゐた彼の弟新原得二(にひはらとくじ)、(この人も今では故人となつてゐる。)この人物について、彼に及ぼし、加ふるに當時彼の姉の夫で鐡道自殺してしまつた西川辯護士、等々(とうとう)にもぶつかつてゆかなければこの〔鵠沼〕は噓である。然しながら、この方面の事に關しては、昭和二年七月二十四日の朝には死體となつてゐた彼が、前日の二十三日朝に、「俺はお前が可愛いあら、お前から先に殺してやる。」と勝手で顏を洗つてゐた葛卷の頭上に、出齒包丁を逆さにして擬したといふその彼が、可愛がつてゐた甥の少年、今日(こんにち)の葛卷義敏に依つて當然書かるべき性質のものであるとも考へられる。

 故に自分は逡巡する。

(自分は再びここで破れかぶれの古手帳を擴(ひろ)げてゐる。)

[やぶちゃん注:「自分と前後して鵠沼に移住してゐた彼の弟新原得二」今まで注するのを忘れていたが、芥川龍之介の異母弟(実母フクの妹フユとの間の子)新原得二は大正一五(一九二六)年九月上旬に一家で鵠沼に移住してきている。元々関係の良くない弟であったから、龍之介にはいらぬ煩いの種となってしまったのであった。因みに小穴隆一の鵠沼移転はそれに先立つ一月ほど前の同年七月末であった。

『「俺はお前が可愛いあら、お前から先に殺してやる。」と勝手で顏を洗つてゐた葛卷の頭上に、出齒包丁を逆さにして擬した』この衝撃の内容は、そのシークエンスから考えても葛巻義敏自身が語らない限り知られ得ないことであるが、よく知られている事実とは私には思われない。葛巻がこの恐るべきホラー染みた事実について語っているという話も私は聴いたことがない。それは私の不学であり、そのような葛巻の叙述があるのであれば、どうか御教授下されたい。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(25) 「二つの繪」(14)「子に對する」

 

        子に對する

 

(「三人の子供のためにも自分は死ねない。」と言ふのは彼の夫人である。)

 三人の男の子等に對して彼は――

 少なくとも彼の鵠沼に於いては、この答へに充分である自分を僕は持たない。――三人の子は各(おのおの)その父の父性を感じるには歳(とし)ゆかず、さうして彼は、未だ三十五歳にすぎなかつた彼は、海のものとも山のものともつかぬその子等に對して近代の父でしかなかつた、と言つては惡いであらうか。彼は、就中(なかんづく)その末子(ばつし)也寸志については、

「自分が死んだら君にやるよ。」

 と、言つてゐた。

 砂の上をよく元氣にころがり這つてゐたあの赤坊(あかんぼう)、(しやうがないお父さんだなあ。)と呼びかけずにはゐられない氣持ちで僕が可愛(かはい)がつてゐたその也寸志君である。

[やぶちゃん注:前二章と同様に「二つの繪」の「妻に對する、子に對する、」という章題で纏めたものの一部の原型。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(24) 「二つの繪」(13)「妻に對する」

 

        妻に對する

 

 僕にとつてその樂しい「死ぬ話」を、來る日もくる日も聞かせる彼は、

「僕の女房は全く自分には過ぎた者だ。」

淚を湛へて必ずさう繰返してゐた。

 と、またその一方では、妻も亦、己(おのれ)の如く過去に過失を持つてゐてくれる女であれば、又、今日(こんにち)に於いて、或は先にいつでも過失を犯してくれるやうな人間であつてさへくれるのなら、如何程(いかほど)自分の今日(こんにち)の氣持ちは救はれるか、‥‥と搔口説(かきくど)く彼でもあつた。

[やぶちゃん注:前章同様、「二つの繪」の「妻に對する、子に對する、」という章題で纏めたものの一部の原型。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(23) 「二つの繪」(12)「遺族に對する」

 

        遺族に對する

 

 僕の家の勝手口からはいつてきた彼はニコニコしてゐた。

「僕はやつと安心したよ。僕が死んでも全集が三千は出るとやつと今日(けふ)さう自信がついたよ。」

 と言つてゐた。

(彼の全集の購讀者は漱石全集第一囘募集當時の數をば超えた。)

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「妻に對する、子に對する、」という章題で纏めたものの一部の原型。そちらは、この「遺族に對する」の内容と、続くこちらの「妻に對する」「子に對する」の内容の三つを合わせた内容を書き変えたものである。

「彼の全集の購讀者は漱石全集第一囘募集當時の數をば超えた」小穴隆一は装幀だけでなく、編集委員の筆頭に名が挙がっているから、この記載は確かなものである。「二つの繪」の「妻に對する、子に對する、」の小穴の追記箇所によれば、『昭和二年に、芥川の第一囘の全集が岩波から出た時の部數は五千七百、漱石全集の第一囘の時よりも七百多いといふ話であつた。全集といふものは、第一册より二册目、三册目と、多少月々に滅つてゆくものであるが、その減りかたが少ないのを木版屋の都築(故人)が感心してゐた。出版屋といふものは木版屋に十減れば十だけ注文を減らすので、割合確かな數が知れてくるものだが、芥川の全集といふものは他の人のに比べると減り方は少ないらしい』とある。

小穴隆一「鯨のお詣り」(22) 「二つの繪」(11)「死場所」

 

        死場所

 

 死場所として、海には格別の誘惑を感じはしなかつたやうである。(水泳(みづおよ)ぎが出來るからと言つてゐたのは言譯(いひわ)けで、濱邊(はまべ)に轉がる死體よりも、行方不明になりきる死體を心配してゐたと言つて差支(さしつか)へはない)。深山幽谷(しんざんいうこく)には多少の關心があつたやうである。これとても糜爛(びらん)しきつて發見されることは嫌つて、死體が木乃伊(みいら)になつてゐるのそれならば興味があるといふ贅澤(ぜいたく)なものであつた。

 大正十五年、當時の鵠沼には未だ震災で潰れたままの廢屋(はいをく)と言つてよろしい物があちこちにあつた。彼が一日(にち)自分を散步に事よせて案内した所は、實(じつ)に死ぬ者にとつての安全な場所である。――さう自分も亦考へた程の、成程、ここならば白骨か、木乃伊になるまでは、發見されないだらうと思へた一軒の潰れた家(いへ)であつた。(〔悠々莊〕」に非ず。)何時の間に獨りであすこを見付けてゐたか。彼がその場に於いて活潑に先頭に立ち、ぐるぐる廻つて實地檢證をした事は驚く。

 然し如何なる所よりも結局――一番心靜かに死ねるであらうと思つてゐたと考へる、自身の家で死ぬことを考へてゐたやうである。但し、彼とても、自身の家(いへ)で變死をすれば、やがては家を賣るだらう。それを考へれば養父に迷惑をかけるには忍びないが、自身で建てた書齋なら、あすこさへ潰せば大した事もなからうかと相當迷つてはゐた。(自身家を建てた經驗を持つ者は他人の家では容易に自殺は出來なからう。)

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「死場所」の原型。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(21) 「二つの繪」(10)「漱石の命日」

 

        漱石の命日

 

「いままで度々(たびたび)死に遲れてゐたが、今度この十二月の九日夏目先生の命日には、いくらどんなに君がついてゐてもきつと俺は死んで終(しま)ふよ。」「その間(あひだ)一寸(ちよつと)君は帝國ホテルに泊つてゐないかねえ。」「いやかねえ。」

(ここに帝國ホテルを持ちだしてゐた事は、彼を眺める今日(こんにち)となつての自分に一寸興味を惹(ひ)く。)〔帝國ホテル・1參照〕

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「漱石の命日」の原型。「帝國ホテル・1」はここから七章後に出る「帝國ホテル 1」の章を指す。] 

小穴隆一「鯨のお詣り」(20) 「二つの繪」(9)「劇藥其他」

 

        劇藥其他

 

○ 既に鵠沼に移る以前に於いて、下島空谷の藥局より藥品を盜出(ぬすみだ)さんとも言ひ、(死ぬまで陰で彼が、下島空谷馬鹿親爺と言つてゐた理由は不明。)金田精一の藥局に這入(はい)るためには金田を紹介しろ等(など)、大(おほ)びらに駄々(だゞ)をこねる傾向を來(きた)してゐた。

○ 藥品でなくてもピストルでもよし、唯(たゞ)何か何時(いつ)でも死ねる物がありさへすれば、それを持つて生きてゐられる。忌憚なく言へば、自分に生きてゐて貰ひたいのなら死ねる物を持たせろといふ彼の態度であつた。

○ 身の周圍(まはり)に飛んでゐる蠅を捕(とら)へて幾匹か呑下(のみくだ)した。從つて、度を失つて大便を瀉(くだ)した彼、また僕の油繪の筆を、その豚の毛を、鋏で細かく切刻(きりきざ)んで大事に紙に包むでゐた彼、況や注射器を買つて、蒔淸(まきせい)からモルヒネを貰ふ日を待つ、左樣な芥川龍之は怖い者ではなかつた。

(註。友人蒔淸は、――但し、藥局方にはあつても醫者としてはポピユラーでない藥(くすり)の場合に、醫師であらうが知らずにゐる時も亦ありうるが、――金田は醫者のくせに藥について少しも知識がない。呆れた、と豪語してゐた男である。故(こ)蒔淸をして語らしむれば、芥川龍之介の劇藥に於ける智識は甚だ幼稚ではあつた。――である。自分は知る。蒔淸が與へたモルヒネを彼がもし使用したとすれば、彼はただ單に數時間だけ婆婆から消えてゐたらう。鎭痛安眠の量であつた。)

○ 僕のたつた一匹のスパアニツシユ・フライは、無論、彼の密かに用意してゐた注射器も、悉く彼が夫人によつて潰し捨てられてゐた。

○ 首縊(くびくゝ)りの眞似をする彼よりも、押入(おしいれ)の中(なか)でげらげら獨りで笑つてゐる彼のはうに凄さがある。

○ 或は、「醫學博士(はかせ)齋藤茂吉の名刺を僞造して、藤澤の町で靑酸加里(せいさんかり)を手に入れようか。」といふ。斯く眞面目(まじめ)に相談しかけてくる彼を、安心な者に自分は思つてゐた。

 然し、恐しいのは、その藤澤の町を、單に夜の散步として步いてゐた一日(にち)、通りがかりの店で、たむしの藥を買つてゐた僕の後(うしろ)から、突如前に出た彼が、「靑酸加里はありませんか。」「證明がなければ賣りませんか。」と藥屋の店の者に言つてゐた。‥‥

 斯樣な芥川龍之介を自分は最も怖れ、また、その時こそは彼を憎い奴(やつ)とも思つた。

 店の者は、「證明がなくてもお賣りするにはします。」と言つてゐた。ただ其時は幸(さいはひ)に店に靑酸加里はなかつたのだ。自分は未だに忘れない。

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「死ねる物」の原型であるが、「二つの繪」では大幅に追加がなされてある。]

2017/02/07

小穴隆一「鯨のお詣り」(19) 「二つの繪」(8)「鵠沼」

 

        鵠沼

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「鵠沼」の原型。以下、冒頭に漢文が出るが、底本では完全訓点(返り点とカタカナ送り仮名)附きで全体が一字下げである。ブラウザ上の不具合を考え、返り点のみを附し、後に私が小穴隆一の訓点に従って訓読したもの(今回は句読点と鍵括弧の他に一部の送り仮名や歴史的仮名遣の読みを私の判断で変更・挿入した)を【 】で附した。また、本文注の漢文は今回は可能な限り、そのまま(一部の送り仮名の不具合や脱落を補った)を再現した。]

 

君子有三戒。少之時。血氣未ㇾ定。戒ㇾ之在ㇾ色。及其壯也。血氣方剛。戒ㇾ之在ㇾ鬪。及其老也。血氣既衰。戒ㇾ之在ㇾ得。

【「君子に三戒有り。少(わか)き時は、血氣、未だ定まらず。之(これ)を戒むる、色に在り。其の壯(さう)なるに及びてや、血氣、方(まさ)に剛(かう)なり。之を戒むる、鬪(たう)に在り。其の老(らう)に及びてや、血氣、既に衰ふ。之を戒むる、得(とく)に在り。」と。】

 制服を着た大學生芥川龍之介が夏目漱石を始めて訪ねた時に、(始めて、の文字を、僕は自分が始めて云々の彼の直話(ぢきわ)に依つて使ふ。彼の讀者は別に、「漱石山房の冬」を記憶しえはゐよう。)その彼を戒むるに漱石は子曰の血氣をもつてしたといふ。がこの言葉は、始めてなつめ漱石に會つた彼にとつて、何故(なにゆゑ)に漱石がこの言葉をもつて彼を戒めたものかは自身にとつては全く不可解であつたと、後年文壇の一流の人として、――ここに又彼をして言はしむれば、「自分の仕事はもう今日(こんにち)これ以上には進みはしない。が自分はただこの儘にしてゐさへすればおのづと、世間では自分を押しも押されもせぬ大家(たいか)として扱つてゆくだらう。無爲(むゐ)にしてさうされてゆく事は恥辱に思つてゐる。それにつけても一日(にち)も速かに死んでしまひたい。」さう思うひながら纔(わづか)に生きてゐるやうになつてからの彼、卽ち彼が三十六歳でしかない短い一生の晩年に至つて始めて「夏目先生の言はれてゐた言葉の意味が此(この)歳になつて自分には本當に解つた。今迄はなんで先生がそれを自分に言つてゐたのか解らなかつた。」(君には解るか。自分はここに手摩(てず)れたポケツト論語の一册を彼の脇に置いて思ひうかべる。)斯(か)く告白し呟き、また朗々として、時としてはニコチン中毒の顏の頰にほのかにも(初々(うひうひ)しく見えた。)血色(けつしよく)をさへ見せて、人、少時、血氣未ㇾ定マラ、戒ムルㇾ之ㇾ色。及ビテナルニ也。血氣――。繰返し誦してゐたあの芥川龍之介を何時(いつ)の頃からか自分は見なければならなかつたか。(また、子曰賢者ㇾ世。其ㇾ色。其ㇾ言。この辟色(いろをさく)を論語を手にした事のない自分が諳(そらん)じてゐたところをもつて考へるならば、これを龍之介門前の小僧として知つてゐたものか、その告白と共に彼が僕を教へ諭(さと)してゐたか、或は漱石が彼を戒めてゐた言葉なのか混沌未分(こんとんみぶん)の自分をもそこに置いて囘想する。)

[やぶちゃん注:この原型から、単行本「二つの繪」の「鵠沼」の、『この色を辟くまでを論語を手にしたことがなかつた僕が暗んじてゐたところをもつて考へると』の「暗」は「諳」の誤植である可能性が極めて高いことが判る。

 

「彼が三十六歳でしかない短い一生」この年齢は数えによる享年。満では三十五歳と五箇月弱であった。]

 スクキテクレ アクタカワ

彼の言葉を借りれば僕の‥‥、必ず數日のうちに金澤から上京して來る者と自分とのためにも亦○・○○――グラムの致死量、――蓄音機の針の箱のなかに綿に包んである一匹の小さなスパアニツシユ・フライ、果してこれによつて人が死に得るか、信じ、疑ひ、狼狽してクレープの襯衣(しやつ)の隱(かくし)に箱を縫付(ぬひつ)けてしまつた自分は、――自分はこの電報で既に自分にとつては始めての地土地鵠沼に來てしまつたのである。‥‥

[やぶちゃん注:この原型の表記は非常に興味深い。何故なら「○・○○――グラムの致死量」は「○」(まる)であって「〇」(ゼロ)ではないからである! 単行本「二つの繪」の「鵠沼」の箇所では、ここが、『〇・〇〇1グラムが致死量』となっている。これはそちらで注したようにとんでもない誤りであって、精製されたカンタリジンでもその致死量は約三〇ミリグラムであり、そもそもが致死量〇・〇〇一グラムの劇薬なんて聴いたこともないのだ! そうだ! もともと小穴隆一はこの致死量を道徳的に読者に伏せる目的で――×・××グラムの致死量――として誤魔化したに過ぎなかったのである! にしても小数点を配しているところからは、小穴はカンタリジンの致死量をごく微量と認識していた、勘違いしていたことは確かであろうけれども。

 松葉杖を抱経僕は葛卷義敏と車を連らねて彼の寓居へ急いでゐた。(彼の身邊が會はないでゐた短時日(たんじじつ)の内に如何程危險に差し掛かつたのか、萬が一、芥川龍之介の面目(めんぼく)にかけてもすぐに死を擇(えら)ばなければならぬとあれば腕を拱(こまぬ)いて、唯、斷(だん)。さう答へようとした自分の當時ではあつた。)

[やぶちゃん注:「斷」「最早、万事休す」「決定(けつじょう)」「容赦なき決断の砌り」といった謂いであろう。]

 

Kugenumamitorizugen

 

 (繪圖參酌(さんしやく))。門(もん)で車を降りた自分の目にはまづ淸々(すがすが)しい撥釣瓶(はねつるべ)を見た。――意外は彼が留守にしてゐた事であつた。(唯今をる所はヴアイオリン、ラヂオ、蓄音機、馬鹿囃(ばかばやし)し、謠(うたひ)攻(ぜ)めにて閉口、云々。八月十二日、下島勳宛の彼の書翰に示すが如き事情で、もう少し閑靜な夫人の里方(さとかた)の家に原稿を書きに行つてゐた。)

[やぶちゃん注:「(繪圖參酌)」は底本ではポイント落ちである。鵠沼の見取り図は単行本「二つの繪」のそれとは違う手書きの原型版で、「二つの繪」のものよりも、電子化するまでもない、遙かに読み易い字で記されている。是非、比較されたい。キャプションの内、大きく違うのは、「あづまや」の左のそれで、『海水浴場は一寸步く』である。他は「二つの繪」の方の注を参照されたい。]

 間は机となつてゐる茶ぶ臺に、若干の飮みもの喰ひものが竝んで、歸つてきた彼と一わたりの話がすむと、「散步をしようや。」で自分は伴出(つれだ)された。何年ぶりでさうは步けもしない者を、人目をつつむで、小路(こみち)へ小路へと引つぱりまはしておいて、「あれを持つてきたか。」「うむ。」でまた隨分步かせられた。――砂丘に出て海を見ながら休息した。夕陽を浴びて其の話す話は、彼の妻子の事だけであつたので、自分の氣持ちも非常にのびやかなものであつた。――

(さうして、その日彼の家に泊つた。また僕一個の事柄は七月二十九日を頂上として終つたやうのものであつた。五分(ぶ)五分に貰へる約束であつた「三つの寶」の印税の中から、貮百圓(?)を改造社に出して貰つて、彼及び彼の夫人のためにもの約を含み、そこに僕らの鵠沼生活は始まつたのであるが、いま、僕の二册の小さい手帳をみるとそこらも亦切りとつてあつて、アツパルトウマンから引移つたその日までとは、正確になし得ない。)

[やぶちゃん注:「三つの寶」既出既注の童話集。実際に刊行されたのは、芥川龍之介一周忌直前、昭和六(一九三一)年六月(改造社刊)であった。

「アツパルトウマンから引移つたその日までとは、正確になし得ない」小穴隆一が、当時、芥川龍之介が借りていた鵠沼の東屋の貸別荘の一軒挟んだ隣りの貸別荘「伊(イ)の二号」に移住したのは、大正一五(一九二六)年の七月末のこととされる(新全集の宮坂覺氏の年譜に拠る)。]

 芥川夫人の場合にあつても六年前(ぜん)の僕らの鵠沼生活といふものは、あのみじめななかにあつてすら、否、あんなみじめな思ひの暮しに置れてゐたがためにこそ、彼女の生涯での幸福を、その夫になほ持ちつづけ得られてゐると自分は思ふものである。(ちよつと、我々の二度目の新所帶(しんじよたい)に先生をお迎へして、御飯の一杯もさしあげたい念願であります。下島勳宛の書翰より)――僕にあつては、――僕の場合はいまここに芥川龍之介の姿を見失つて、自分自身の過去の生活に佇んでゐる、それは暫時も許されてゐない事なのだ。

(よし、ここにメモワールの若干を作製して、彼の鵠沼を通過してみよう。)

[やぶちゃん注:私は以上の叙述から、本「鯨のお詣り」の発刊された昭和一五(一九三〇)年十月以前、小穴隆一は芥川龍之介の亡くなった後の芥川家とは関係が決定的に途絶えていたと読むものである。

「ちよつと、我々の二度目の新所帶に先生をお迎へして、御飯の一杯もさしあげたい念願であります。下島勳宛の書翰より」大正一五(一九二六)年八月二十四日附(即ち、小穴隆一鵠沼移転から約一ヶ月後と推定される)の旧全集書簡番号一五一〇書簡。以下に示す。

   *

冠省、大分お凉しくなりました。當地も避暑客は大分へりました。しかしまだ少しは避暑地らしい氣もちも殘つてゐます。二三日中にお出かけなさいませんか。ちよつと我々の二度目の新世帶に先生をお迎へして御飯の一杯もさし上げたい念願があります。どうか何とか御都合をおつけ下さい。右御勸誘まで 頓首

    八月二十四日   芥川龍之介

   下島先生

  二伸 もうお孃さんと同じ位の令孃は余りをりませんから、その邊はどうか御心配なく。

   *

追伸に芥川龍之介の優しさが偲ばれる。下島勲はこの年の三月十六日に小学校六年生であった養女行枝を肺炎のために亡くしている。芥川龍之介は彼女を非常に可愛がっていた。下島に乞われて龍之介は、

 

    悼亡

 更けまさる火かげやこよひ雛の顏

 

の句を捧げている。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(18) 「二つの繪」(7)「一人の文學少女」

 

        一人の文學少女

 

 鵠沼の暮しがあと一ト月で始まらうとする前のことであるが、胸がふさぐ彼の身の上、我が身の上を、熱苦(あつくる)しいアツパルトウマンのなかに過ごしゐて、如何に打開したものかと、自分は、途方を失つて、ただ考へあぐむばかりゐた。

[やぶちゃん注:「胸がふさぐ彼の身の上、我が身の上」前者は彼に自死を告白した芥川龍之介のそれ、後者は小穴隆一が、ある女性関係の問題で、ある決断(本章の最後の方にそれらしい匂わせが出るが、その具体的な全体像は現在も不詳である)を迫られていたことを指すものである。]

 ――その當時に、自分は一人の女性の訪問を受けた事がある。

 最初はこの婦人が夕暮、僕の留守に來て暗い玄關先で宿(やど)の娘を捉(とら)へて、一人で早口にしやべつてゐたといふのであるが、娘には何かただ是非僕に會はなければならない風であつたとしか、解らない人であつて、風采で聞けば、(これはを自分の事で來た女ではない。)とだけは自分には解つた人であつた。

 その婦人が再度二三日の後(のち)に自分を訪ねて來た時も亦留守にしてはゐたが、さうして二度目には婦人のAなることは判然としてきたが、Aとは言葉をまじへた記憶を持たなかつた自分は、Aをなにか芥川龍之介のことで、(當時既に、彼の神經衰弱に關しては若干のゴシツプが飛んでゐた。)來たと察し興味と不安を持(ぢ)して彼女を待つことにした。

 ――Aは三度目の来訪であつた。僕は會つた。

「世間では、芥川さんが支那梅毒でああいふ風になつたのだと言つてゐるのですが、それは本當のことですか。」

「はつきり教へて下さい。」

 彼女は、彼女は實にいきなり自分に突然意外の質問を發してきた。

「をかしい。それは。」

 彼の話。「支那へ行く前に星製藥に行つて、××××××をくれと言つたら、店の者は、隨分御(ご)さかんですなあ。といつて出してくれたよ。けれども、僕は支那に行つたら實際に使はずに、あつちこつち步いて、みんな人に配つてしまつたが、まるで星の廣告をして步(あ)るいたやうなのだよ。」等々。

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「一人の文學少女」の原型。

「××××××」「ルーデサック」。オランダ語(roedezak)は「コンドーム」のこと。「二つの繪」版「一人の文學少女」で復元されてある。]

 彼の土産話を聞いてゐる者には實にをかしいが、僕の一笑を亜kの序は叱つた。さうして、「□□の杉田直樹にもその病氣について相談はしてみたが、わたしが自身に直接支那へどうしても行つて、さうして、芥川さんの步いた跡をどこまでも訪ね廻つて、病氣のもとをはつきりさせた。旅費の點は、實業之日本社(じつげふのにつぽんしや)の社長から出して貰へることに話ができてゐる。」等々の、

 奇々怪々なる言葉を以つて、(彼女に同意さへすればすぐにでも支那へひつぱられると思言つた。自分は、)――、歎願の色さへ示してその病氣のまことの話をせがんだ。

[やぶちゃん注:「等々の、」の後の改行新段落化はママである。

「□□」「二つの繪」版「一人の文學少女」では「をぢ」と復元されてある。彼女を特定出来ないので(この後の女性のその後の病態記載から特定を憚られる)、「伯父」か「叔父」かは不明。]

 澄江堂でみてゐた時とは、これまた別個のAの顏に、

「あなたは芥川龍之介にどうかされたとでもいふのか。」

 むしろ、狂女(きちがひ)! と怒鳴りたかつた自分は大聲でさう言ひきつた。さうして、

「一體そんな支那梅毒でまごまごしてゐるやうな芥川龍之介とでも思つてゐるのか。あの男がそんな馬鹿か如何(どう)かは考へてもわかることではないのか。」

「支那旅行後も、ああやつて子供も生れ、その子供に梅毒の症狀もみられないではないか、」と言ひ加へた。

 僕が怒鳴つたが故にA女は得心がいつたらしかつた。が彼女は皮肉にも僕を、(齊(ひと)しくお同じ思ひに生きる。)と解したらしい。引續いて何か、不吉を豫期せしめずにはおかぬその姿を現はした。(A四度目の来である。)

 取止めのないことばかり一人でしやべるA女を、その日も部屋の障子を開(あ)け、入口の部屋の障子さへ開けて、廊下から見える位置に置いた椅子に腰掛けさした。

 ――彼女は立上つて部屋の物をみまはし、朗讀でもしてゐるかのやうに胸を張つてしやべりだした。貧しいが新調の着物を着て來て舞ひでも舞ひさうな模樣である。

[やぶちゃん注:後の単行本「二つの繪」版では書き直されているものの、「立上つて」が「立止つて」となっている。これは前の部分の描写から見ても、本書の「立上つて」でないとおかしく、単行本「二つの繪」のそれは誤植の可能性が極めて高いもののように感じられる。

 ――後略――

「スパイ! 狂人(きちがひ)のスパイ!」

 疲れきつてゐた腦裡(なうり)にはさうとしか映らなかつたAの來訪を、甚だ迷惑する、と自分は堅く斷つた。

 ……

 顏に袂をあてて僕の室(へや)を飛出して行つたきりの女は、一年の後(のち)、芥川龍之介が自殺をした直後に國民新聞社にタクシを乘りつけて、わたしが芥川龍之介の妻である。わたしは彼の死の本當の理由を知つてゐる、といふ言葉を述べたててゐたAその女(ひと)である。國民新聞は當時A一頁(ページ)にわたつて種(たね)としたが記事の末尾に、瘋癲(ふうてん)病院に送られた消息を載せてあつた。それを考へると、彼女を常人として扱つてはゐなかつたやうである。

 自分はそれ以後のAの消息は全くもつて知らない。

 また、世の誰が、彼と結んでは考えられもしない一婦人の消息を云々しよう。

 ――自分は不快なる記憶のなかに彼女を弔ふ。――文學少女の一つのサンプルでしかない貧しい不幸な暮しのなかにゐたAは、彼女が芥川龍之介を思慕するに於いて、何か女らしい若(も)しくは女であるとの感情がこじれて、僕にはうまく説明は出来ぬ。もやもやとさいたものを何か自分ででつち上げてゐたのであると信ずる。(自分は婦人のかかる現象について婦人科醫に説明を求めた。然し職を大事とする醫師は診察の結果に待つことを欲してゐる。或は心理學の畑(はたけ)のものなのであらう。)

 

 アツパルトウマンに於ける一夜(や)、既に、鵠沼へ移つてゐた芥川龍之介から暗號樣(あんがうやう)の電報を(電報の説明後述)僕は受取つた。これによつて彼に會つた其時にAの話ついても自分で觸れた。僕らは庭にならんで立話(たちばなし)をしてゐたのであつたが、泣きだしさうな悲しい目を緣側にゐる夫人に向けて彼は、「Aまでそんなことを言つてゐるさうだ。」と言つた。訴へてゐたと言ふのが適當の彼の態度であつた。をかしい位(くらゐ)我(われ)われに大事にしてゐた「河童」の書きかけの原稿を、田端から持つて行つて書きつづけてゐたのではあつたが、(雌河童は世の中にいつぱいに生きてゐる。)さういふ彼自身の實感は當時にあつての僕をしてさへ、むしろ彼を悲哀なる者に見せてはゐた。ときよとしてゐたときだ。

[やぶちゃん注:「二つの繪」版「一人の文學少女」で注してあるが、この「河童」の原稿云々は事実とは齟齬し、小穴隆一の勘違いと私は踏んでいる。]

 

 電報の説明‥‥日附印、15712(大正)

 スクキテクレ アクタカワ

 飜譯すれば「スパアニツシユ・フライを持つて直(すぐ)に來て來(く)れ。芥川」である。

[やぶちゃん注:「來(く)れ」の本文及びルビはママである。]

 スパアニツシユ・フライの名は「自殺の決意」の章によつても既に讀者が承知と思ふ。が、彼芥川は? 未だその話の時にはフライと云ふからは蠅(はへ)であらうといふ以外絶対對に、何等(なんら)そのスパアニツシユ・フライその物を知らず、スパまた醫學的に言つてカンタリスが、如何に危險を含む滑稽作用をきたす物か、それさへも勿論承知してはゐなかつたのである。(僕は祕露(ペルー)から歸朝早々の蒔清(まきせい)についてその物の質(しつ)を委細に知つてしまつてゐた。)――一夕(せき)急にアツパルトウマンに僕を訪づれた彼が、「君は詩にもつくつてゐる位(くらゐ)だから、そのスパアニツシユ・フライを持つてゐるのだらう。呉れ給へ。」と要求した。この事實によつても人は僕と共に今日(けふ)、谷崎の殺人小説よりは芥川その者が彼自身自殺小説を計畫してゐたと言へるであらう。

 ――後日。フライの實物を見てはゐなかつた自分は、よこはま、神戸の港を頭に浮かべて辛(からう)じて僅かに一匹の小さな世にも綺麗であるところのスパアニツシユ・フライを手に入れてゐたのである。――

[やぶちゃん注:「よこはま」平仮名はママ。]

 僕の「彼女」は母を捨てて上京する。さうして自分の待つてゐた日はいよいよに迫つた。彼女を途中に待つには一つきりの義足を修繕に出してしまつてゐた不幸な自分の場合に、彼は暗號電報をよこした。狼狽はしたが步くのは恐れつつ、松葉杖をとりだして直(すぐ)に車で田端の彼の家に駈付けた自分は、葛卷義敏(彼の姉の子)をたづねて、明朝僕に附添つて鵠沼に同行してくれと賴み、併せて彼の決意が冗談にもあらざる旨を老人達に覺られぬやう戸外(そと)に於いて話をした。十三日朝、卽ち電報の翌日自分は鵠沼に於ける彼に、鵠沼で會つたのだ。

[やぶちゃん注:「戸外(そと)」は二字へのルビ。]

 なほ、Aと前後して一度、彼の從弟にあたると聞いてゐた人の訪問を受けたことが、小石川のアツパルトウマンに關聯して記憶される。といふのは、芥川龍之介がこの人と同行してブラジルに移住しようかとも考へてゐたからである。尤も、或時はフランス、或時は支那、彼の考へるその何(いづ)れの國へも一人で行く氣力は最早瘦せららぼへた彼の持つところのものではなかつたが。――

 とるにもたらぬ僕に、「何くれの事は賴む。」と言つてくれた唯一度會つたきりの彼の從弟(今日(こんにち)でもブラジルに居るのであらうか?)その人を思ふ時に、不覺にも即自分はまた今日(けふ)の淚にむせぶ。身を投げだして人に恥ぢると同時に、僕如き者をさへ友として考へねばゐられなかつた芥川龍之介をただ憐れめ。斯く人に言ひかけたいものが自分にある。

[やぶちゃん注:「彼の從弟にあたると聞いてゐた人」これは芥川龍之介と同い年で東京府立第三中学校時代の親友であった、芥川龍之介の妻文の母方の叔父に当たる山本喜誉司の誤認である。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(17) 「二つの繪」(6)「宇野浩二」

 

        宇野浩二

 

 芥川龍之介が自殺、この通報によつて輕井澤から歸京してきた室生犀星は、

「小穴君はどうするのだらう。」(どうしてゐるのだらう?)

 正宗白鳥は輕井澤にゐて他(た)を言はず、いきなり斯樣(かやう)に言つてゐたと、繰返して言つてくれた。

 これを如何(いか)にも室生犀星らしい慰め方だ、と未だに自分は忘れずにゐる。

 輕井澤にゐて白鳥と犀星が、芥川の死――小穴は? と考へてくれたことは難有い。しかしながら、その時の自分の腹では、

「宇野浩二は如何(どう)する。」

「彼の耳にはいつたら大變だ。打ちのめされる者は宇野浩二だ。」

「□□□腦病院にはいつててさへくれれば知らないでゐるだらう、」

と言ひたい位(ぐらゐ)でゐた。

[やぶちゃん注:「□□□」「腦病院」。これを元とした後の単行本「二つの繪」の「宇野浩二」で伏字は復元されてある。

 なお、その小穴隆一の「二つの繪」版(昭和三一(一九五六)年刊)の「宇野浩二」は、かの宇野浩二渾身の大作「芥川龍之介」(昭和二六(一九五一)年九月から同二七(一九五二)年十一月まで『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期連載の後、更に手を加えて同二十八年五月に文藝春秋新社から刊行された)の刊行後のものであるため、全面的に書き変えられている。]

 ――眞實、芥川龍之介が自殺をしたその一事(じ)を、宇野浩二の耳に入れたものならば宇野の致命傷であると僕は信じていた。故にこれを、芥川龍之介が自殺直後當面に現れて來よう世間の注意としては、自分の最も恐れることのなかに數へてゐた。が、この自分の不安といふものは旬日を待たずして一掃されたやうである。(當時の世間は既に作家宇野浩二を忘れてはゐなかつたか?)各新聞紙に現れてくる每日の諸名士の談は、をかしいか、でなければ奇想そのものとも思へた。心密かに新聞に宇野浩二談が出るのを待つた。それ故に、おのれをむなしくして友人の死を見送つてゐる、控へめにも靜かな彼の談話を報知(?)で發見した時自分は、もう宇野浩二は大丈夫だと喜んだ。

 僕は告白する。微妙にかばひあつてゐた宇野對(たい)芥川の友情を考へるときに、僕にしてなほ嫉妬に似たるものがある。‥‥

 この章を書くことによつて、‥‥に追ひやるか、或は彼に猛然たる往年の創作力を與へるかは空恐しいことに思ひもするが、然し、一時(じ)なりとも‥‥宇野浩二と自殺した芥川龍之介とを結び考へるのが自分の常である。ここに、これを當時の宇野の病氣に限り誘因は人の噂どほりとして、空想は笑ふべしとするもなほ自分に、宇野浩二の心身(しんしん)がもつと強靱でありさへすれば、わが芥川龍之介は、もう少し生きてもゐたかつたであらう、と言はう心がある。

[やぶちゃん注:この「‥‥」部分は何を言おうとしているのかよく判らない。判らないように小穴隆一が書いているのだから当たり前だが、まともに書いても何を言っているのか判らぬことがしばしばある小穴節なれば、さらにお手上げなのである。ただ、言えることは、小穴隆一は宇野浩二が戦後にかくも復活し、かの「芥川龍之介」のような芥川龍之介の追憶に基づく大作をものすとは考えていなかったのではるまいか? と思う。小穴隆一はまさにここに書いてある通り、芥川龍之介と親密であった宇野浩二に龍之介死後も嫉妬していたのであり、彼の「芥川龍之介」は小穴にとっては、嬉しい産物半分、厄介なものを書きやがってというやっかみを含んだ内心半分であったと私は推理している。

「當時の宇野の病氣に限り誘因は人の噂どほりとして」脳梅毒によるもの。私はそうだとほぼ確信している。彼の激しい精神変調と奇矯な行動は心因性精神病のもの(小穴隆一はここで主にそう考えていると読める)とは思われず、また、病前と病後の文体の変容はまさに脳梅毒による器質的な脳変性を物語っていると私は考える。附言すると、そうした疾患を経て書かれた「芥川龍之介」には、疾患の予後に起因するところの記憶の錯誤が多分に生じている可能性を排除出来ないとも考えている。宇野浩二の「芥川龍之介」は私の注附き電子テクストがある(上巻下巻の二巻HTML版別立。これと同一のブログ個別版もある)。]

 ――ここに、二つの話が死者によつて僕に殘されてゐる。(昔。宇野と一緒に諏訪に行つてゐた時である。)「一日(にち)、宇野の机の上に見覺えのある筆蹟の手紙があつたので、自分はそれを未だに恥づかしいことに思つてゐるのだが、それをそつとその手紙を開けてみたら、案にたがはず、その筆者がSであつて、S宇野との間のことを、始めて自分はその時知つて非常に驚いた。君、Sはそのやうな女なんだ。」以下省略。

[やぶちゃん注:「S」秀しげ子。宇野浩二は「芥川龍之介」の中で、この小穴隆一の文章をとり上げて語っているが(主に上巻)、宇野は一貫して、秀しげ子のことを知らない、芥川龍之介の口からその名を聴いたこともない、と述べているのである。この齟齬、小穴隆一を信ずるか、宇野浩二を信ずるか、はたまた、芥川龍之介自身が小穴隆一についた嘘なのかは不明である。以下の非常に読み難い小穴の錯雑した叙述を読んでも、その可能性も私は否定出来ないと考えている。小穴の、宇野と芥川龍之介への嫉妬心のようなものを芥川龍之介自身が鋭敏に感じとっていた、とすれば尚更に、である。

(昔諏訪から歸つた田端でである。)「諏訪に○○といふ藝者がゐるが、これは宇野の女だが、君その賴むから諏訪に行つて、君がこれを何んとか橫取りして呉れまいか、金は自分がいくらでも出すよ。」

[やぶちゃん注:「○○○」宇野の愛人であった鮎子(芸妓名。本名は原とみ)。伏字が三字分なのは彼女をモデルとした宇野浩二の複数の作品に出る「ゆめ子」を実名と誤ったからである。単行本「二つの繪」の「宇野浩二」ではこの台詞には、『諏訪にゆめ子といふ(宇野の小説のヒロインとなつた人、)藝者がゐるが、これは宇野の女だが』と小穴の注記が入っていることから、この誤認は確定である。なお、彼女は宇野浩二の入れ込んだ女性であるが、現在の研究では、彼女とは肉体関係はなく、プラトニックな支えであったと考えられているようである。

 この二つの話が諏訪。鵠沼間(かん)よりは、長い時間の歳月を差挾(さしはさ)んで話されたがために、大正十五年の夏から秋にかけての僕らの鵠沼時代に於いて芥川が、「自分の死後、世間に全然途方もない誤解が生じて、如何(どう)しても君に我慢ができない場合になつたとしたら、これを家人に渡して發表してくれたまへ。」とよこした一通の封書を、自分は當時の彼の狀態といふよりは症狀に照らして、當然これを彼の夫人に示して共に内容を見たのであるが、さうしてただ一葉の書簡箋の數行のなかに、確かに、(南部修太郎と一人の女(ひと)Sを自分自身では全くその事を知らずして××してゐた。それを恥ぢて自決をする。)と讀んだのではあるが、(此(この)自分に渡された遺書で最初のものは後に彼に返した。)次に南部修太郎が消えて宇野浩二の名が現れてゐた、と書かうとする自分には、非常な錯覺による支障を齎(こた)らすのである。(とりかへひきかへ三度受け取つた遺書は考へて調べをしたら、事實は三度よりは餘計とだけ判明した。)

[やぶちゃん注:「××」「二つの繪」版で「共有」と復元。

「事實は三度よりは餘計」小穴隆一はここで「自分に渡された遺書で最初のものは後に彼に返した」と証言している。これが正確であるとすれば、現行伝わっている完本の小穴隆一宛遺書以外に、最低でも三通以上、小穴隆一は現認し、所持していた可能性を匂わせるものである。]

 中略。

[やぶちゃん注:小穴節のトンデモ「中略」。何だ? これ? って感じだね。]

 馬鹿げた無法なる芥川龍之介を宇野浩二はなほも愛しつづけてゐる。それを疑へぬ自分の氣持ちは宇野浩二をともかくもここまで書かせた。

 「或舊友へ送る手記」「或阿呆の一生」この二つの遺稿を合はせて讀むならば、さうして若干の訂正をはかるならば、全くの死力を出して、告白して訴へてゐる彼が人には見える筈である。評して鬼面(きめん)人を脅(おど)すと云ふは、‥‥まで見せろといふ豪傑の言葉である。

[やぶちゃん注:「‥‥まで見せろ」不詳。「肝」とか「マラ」を私は想起した。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(16) 「二つの繪」(5)「もしも」

 

        もしも

 

[やぶちゃん注:以下、下線を引いた「Sの子供=芥川龍之介の種」の部分は、底本ではそこだけが横書になっていることを示したものである。]

 

 もしもここに人あつて、似てゐることだけは彼が認めてゐたその一事(じ)に、直(すぐ)に僕が、?をそのままにどこまでも、Sの子供=芥川龍之介の種 として考へてゐると思ふのならば、その人は×××女人が他の何等(なんら)××××××の、――女人はをりふし滑稽にも××なしに忌嫌(いみきら)ふ男の容貌にさへ似た者を産む場合がある。この一事(じ)を忘れてゐるのであらう。

 もしも彼を知る人々が、相州鵠沼海岸伊(い)二號、彼のO君の新秋」のOの家(いへ)、その家の庭に、猫のやうになつてはいつて行つた彼が、松の枯葉や松ぼくりを搔き集めては幾册かの大學ノートを燒きつづけてゐた、それを見てゐたとすれば、‥‥

 田端から持つてきた彼のその昔のノートは? O君は知らない。

 顏をほてらしてゐる彼をみて見ぬふりして手傳はずに、默つて、O君は一人(ひとり)部屋(へや)の中(なか)に彼を待つてゐた。

[やぶちゃん注:前章で述べた通り、これは後の「二つの繪」版では独立章とならず、全面的に書き換えられた「□夫人」に吸収されている

S」秀しげ子。前章末参照。

「その人は×××女人が他の何等(なんら)××××××の、――女人はをりふし滑稽にも××なしに忌嫌(いみきら)ふ男の容貌にさへ似た者を産む場合がある」伏字を再現出来難い。但し、「二つの繪」版「□夫人」に『滑稽にも女人にはをりふし、交合のない、忌嫌ふ男の容貌にさへ似た者を産む場合さへある』とあるから、これは例えば、

 

 その人は、或種の女人が他の何等、関係のない男の、――女人はをりふし滑稽にも交合なしに忌嫌ふ男の容貌にさへ似た者を産む場合がある

 

といった謂いであろうか。

O君の新秋」大正一五(一九二六)年十一月発行の雑誌『文藝春秋』に発表した芥川龍之介の小品。。「O君」は無論、小穴隆一自身のこと。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(15) 「二つの繪」(4)「S女史」


        
S女史


 
Sは、果して彼のいふが如き女であるのか?――××との唯一度の○○のためにのみ、彼が娑婆苦を嘗めてゐたのであらうか。

[やぶちゃん注:S女史」「S秀しげ子。

「××との唯一度の○○のために」以下で「彼が娑婆苦を嘗めてゐた」とある以上、「××」は秀しげ子を指すが、伏字字数と合わず、小穴隆一が「しげ」と呼ぶとも考えられないから、この「××」は「愛人」であろう。「○○」いろいろな熟語が入り得るが、故芥川龍之介も好んだ語である「情交」を最有力候補としておく。以下、「二つの繪」の「□夫人」の原型であるが、次の「もしも」の短章を吸収させた上、全面的に書き換えられてある。]

 
S。高利貸の娘、藝者の娘、劇場の電氣技師の妻、閨秀歌人、これが彼女の黑色影像(シルエツト)であつた。


 
S。女性、彼女の一部は、男性――彼の取扱(とりあつか)つた「河童」のモテイフとはなつた。――まことに、然しながら、これを書き上げれば最早何時(いつ)死んでもよいとと言つてゐた程の事は、彼の「河童」のどこにあると言ふのであらう。喘(あへ)ぎにあへいだ彼の苦腦は一體何處(どこ)にまごついて消えてしまつてゐたのか?

 何故、芥川龍之介は自殺を擇(えら)むだか?

 何故、命數にまかせて生きることを面目(めんぼく)を失ふ事に考へてゐたのか?

 何故そこに死を急ぐ必要を感じてゐたか、――ここに答へる彼のぎりぎりの返事は「養父に先に死なれては、自分にはもう自殺が出來なくなつてしまふ。それをおそれる。」

 僕としてはただこれに、あれほどにまゐつてしまつた體を、頭腦を、醫師齋藤茂吉が如何(どう)診(み)てとつてゐたのか、それが知り度(た)い。

 
Sの子は、芥川龍之介の子である。――

 この疑問を、この僕が抱(いだ)く。?をしばらく僕一個に肯定することによつて、?と別に、一方發狂悪を怖れてゐた彼を考へる。(彼は自身で自分の破壞されてゆく頭腦の動く形を充分に承知してゐた。)自分はいま、?を持つ。さうして、意外にこの?に執着してきた自分は漸(やうや)くに自身の老境を感じる。(六年以前に、なぜもつとここにはつきりしてはゐなかつたのか‥‥。)

 人あつて、(遺稿であることによつて、)「或舊友に送る手記」を彼の遺書と見做(みな)す。

 僕は答へる「或舊友へ送る手記」を書いたのは著述業の芥川龍之介であつて、断じて芥川龍之介といふ人間の手記ではない、さやうに辯ずる。

 ?

 彼は、彼がS××××××、○○○○○を使用してゐた點を力説してゐた時もあつた。が、○○○○○××××としても常に安全でありうるか。絶對安全と保證できるのは、單に○○○○○發賣元の𢌞者(まはしもの)だけではないか。――自分は思ふ。であるから不安のあることを彼に對(むか)つて説(と)いた。この自分の言葉は彼の一應承認するところとはなつた。然(しか)し、僕の説(せつ)承認必ずしもSの子承認とは運ばない。のみならず彼にとつては更に信じかね復た迷ふ、どう説明のしやうもない重壓を、緊(きび)しくその身に感じたであらう。(ともかく×××通じたことが彼の致命傷であつた。)

[やぶちゃん注:「S××××××」「Sと情交を通じた」か。

「○○○○○」これは明らかに「コンドーム」。以下同。

「○○○○○××××」「コンドームを使つた」か。

「×××通じた」「情交を」では屋上屋でおかしいから、「関係を」であろうか。]

Sのいふとほりその子はあなたに似てゐるの?」と聞けば、

「僕に似てゐる。」と答へた彼ではあつた。

 自分はここにいま、一つの島崎藤村といふものを借りる。

「藤村はいやな奴だ。」この言葉が芥川龍之介の口から吐きだされや時に人は成程藤村といふ人間はそんなにいやな奴かなあ、と思ひこんだ。理由も聞かずに「あれはいやな奴だ。」の彼のその一言(こと)で、人はなぜにすぐわけもなくて島崎藤村に、忌嫌(きけん)の感じを持つたのか、穢れを吐き出すやうに、異樣に説明のしやうもない、聞く人の耳には全く「藤村はいやな奴だ。」と信じきらせる迫力があつたのその一言を、これを自分は昨日までは、彼藤村の‥‥‥‥せた過去の事実に仆(たふ)れずに、なほかつ生きぬいてゐた強力なるその性格に對して、芥川のやうに「僕もさうだらうが、僕なぞのやうな人間は姉(ねえ)さん女房を持たなかつたのが不幸だ。」といつてゐた程の質(しつ)の人間が持つた、反感、と見てゐた。然してこの考へを、正鵠(せいこく)に非ずと斷言出來るのは今日(こんにち)の僕である。何(なん)に依つて自分はこれを斷じたか。理由は一つである。

[やぶちゃん注:「彼藤村の‥‥‥‥せた過去の事実」こんなところを点線にすること自体が猥雑趣味であると私は思う。無論、芥川龍之介が最も嫌った、大正八(一九一九)年に発表された小説「新生」に基づく謂いなので、「彼藤村の、姪と関係を持ち、子を生ませた過去の事実」(或いは「子を孕ませた」)といった感じか。因みに、姪島崎こま子と最初に関係を持った際に出来たこの子は出産後に養子に出されたものの、関東大震災で行方不明となっている(当時、満十歳。ここはウィキの「島崎こま子」に拠った)。]

 ――或る場合には、重荷であつたかも知れない彼の最後まで起居を共にしてゐた伯母が、なぜ結婚生活に入らずに獨身で過ごしてきたかの仔細を、彼の口からでたその二つの仔細を自分が忘れずにゐたからである。(二つの仔細、省略。)

[やぶちゃん注:「伯母」芥川フキ(安政二(一八五六)年~昭和一三(一九三八)年)が生涯独身であったのは、現行では幼少の折りに兄道章の持った凧の先(芥川比呂志の妻で西川豊と龍之介姉ヒサの間に出来た芥川瑠璃子の「影灯籠 芥川家の人々(一九九一年人文書院刊)に拠る。小穴隆一の後の単行本「二つの繪」の養家」では鉛筆か何かとする)で眼を傷つけてしまっために不自由であったことが事実としては挙げられ、それが一つではあろう。今一つは、少なくとも小穴隆一は芥川龍之介から直接聴いた話として『をぢと間違ひを起し、それを恥ぢて生涯よそにゆかずに芥川家に留まつてゐるのだ』と「二つの繪」の養家」に書いていることを指すと考えてよい(但し、これは小穴のみの言っていることであって研究者の正規論文中には出ない)。]

 島崎藤村に對して、共に一つの天地に住むを潔しとせざるほどの心がおのづと彼の胸中になぜできてゐたのか。これを僕は、島崎藤村その人にだけなら明快に説きうる次第である。なほ、有島武郎(たけを)を借りてみよう。

 有島武郎の場合であると、「君、有島武郎より里見弴(とん)のはうがよつぽど藝術家だよ。」で、彼の考へは至つて平温穩であつた。

「あの子を御覧なさい。似てゐませう?」

 帝國ホテルの露臺に於いて、Sが斯く彼に指示したことは彼の如何なる氣力をも無慙(むざん)にまでとりひしいだ。‥‥

   (或阿呆の一生 三十八 復讐、参照。)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧入りの参照注は底本ではポイント落ちで三字上げ下インデントである。「或阿呆の一生」の「三十八 復讐」は「二つの繪」版「□夫人」の私の注で既に引いてあるので、そちらを参照されたい。

「島崎藤村その人にだけなら明快に説きうる」島崎藤村龍之介自死直後、芥川龍之介君のこと」を書いているが、生憎、残念なことに、全く以って解き明かしていない。リンク先は私の嫌悪(私は藤村は初期詩歌類と、初期小説の一部を除いて、芥川龍之介以上に生理的に受け付けない作家である)の電子テクストである。

「君、有島武郎より里見弴(とん)のはうがよつぽど藝術家だよ」小穴隆一のそれは半可通で、「二つの繪」版芥川・志賀・里見で芥川龍之介が言ったような、社会現象と超絶して小説を書けるところの、選民的ブルジョワ的エリート的な強靱な芸術家意識を指したものであって、女性関係とは無縁である。]

2017/02/06

柴田宵曲 妖異博物館 「百足と蛇」

 

 百足と蛇

 

 田原藤太秀郷の矢に斃れた三上山の大百足(むかで)にしろ、日光の權現と戰はれた赤木明神の百足にしろ、「今昔物語」に見えた百足にしろ、大抵の場合、百足は蛇に對し優位に立つてゐる。蛇は自分だけでは勝算がないため、人間に助力を求め、弓矢の力を藉りて勝名乘りを受けてゐるが、もしさういふ助力者に出逢はなかつたら、常に敗軍の將たるに甘んずる外はなかつたであらう。

[やぶちゃん注:「田原藤太秀郷」藤原秀郷(生没年未詳)は平安中期の貴族で武将。下野大掾藤原村雄の子とされる。平将門追討で知られるが、室町時代になって「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山(みかみやま:現在の滋賀県野洲市三上にある標高四百三十二メートルの山。「近江富士」と称される)での百足退治の伝説の方でも知られるようになった。参照したウィキの「藤原秀郷」によれば、その百足退治伝説は、『近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した』。『藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を』七巻き半する『大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の』一本の『矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射ると』、漸く、『大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという』。『秀郷の本拠地である下野国には、日光山と赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた赤城山の神を猿丸大夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。また、類似した説話が下野国宇都宮にもあり、俵藤太が悪鬼・百目鬼』(どうめき)『を討った「百目鬼伝説」であるが、これも現宇都宮市街・田原街道(栃木県道藤原宇都宮線)側傍の「百目鬼通り」の地名になっている』。『伊勢神宮には、秀郷が百足退治に際して龍神から送られた、という伝来のある太刀が奉納されており、「蜈蚣切」(蜈蚣切丸、とも)の名で宝刀として所蔵されている』とある(下線やぶちゃん)。

「日光の權現と戰はれた赤木明神の百足」前注の下線部を参照。

『「今昔物語」に見えた百足』知られたものでは「卷二十六」の「加賀國諍蛇蜈島行人助蛇住島語 第九」(加賀の國の、蛇(へみ)と蜈(むかで)と諍(あらそ)ふ島へ行きたる人、蛇を助けて島に住める語(こと) 第九(く)」であろう。以下に示す。二〇〇一年岩波文庫刊の池上洵一編「今昔物語集 本朝部 下」を参考としつつ、恣意的に正字化して以下に示す。□は原典の欠字(推定を含む)。読み易く読みの一部を本文に出し、また一部の意味の通り難い漢字を恣意的に変更した。読みはオリジナルに歴史的仮名遣で附した。文中に入れ込んだ注は池上氏の脚注等を参考にさせて戴いた。

   *

 今は昔、加賀の國□□郡(のこほり)に住みける下衆(げす)七人、一黨として常に海に出でて、釣りを好みて業(わざ)として、年來(としごろ)を經(へ)けるに、此の七人、一船に乘りて漕ぎ出でにけり。此の者共、釣りしに出ずれども、皆、弓箭(きうせん)・兵仗(へいじやう)をなむ具したりける。

 遙かの沖に漕ぎ出でて、此方(こなた)の岸も不見(みえぬ)程に、思ひも不懸(かけぬ)に、俄かに荒き風、出で來て、澳(おき)の方へ吹き持て行けば、我にも非らで流れ行きければ、可爲方無(すべきかたなく)て、櫓(ろ)をも引き上げて、風に任せて、只、死なむ事を泣き悲みける程に、行方(ゆきかた)の澳(おき)に、離れたる大きなる島を見付けて、

「島こそ有りけれ。構へて此の島に寄りて、暫くも命を助からばや。」

と思ひけるに、人などの態(わざ)と引き付けむ樣(やう)に、其の島に寄りにければ、

「先づ、暫くの命は助かりためり。」

と思ひて、喜び乍ら、迷ひ下りて、船を引き居(す)えて、島の體(てい)を見れば、水など流れ出でて、生物(なりもの)の木なども有氣(あるげ)に見えければ、

「食ふべき物なんどもや有る。」

と見むと爲(す)る程に、年廿餘りは有らむと見ゆる男(をのこ)の、糸(いと)淸氣(きよげ)なる、步み出でたり。

 此の釣人共、此れを見て、

「早う、人の住む島にこそ有りけれ。」

と喜(うれ)しく思ふ程に、此の男、近く寄り來りて云く、

「其達(そこたち)をば、我が迎へ寄せつるとは知りたるか。」

と。釣人共、

「然(さ)も不知侍(しりはべらず)。釣りしに罷り出でたりつるに、思ひ不懸(がけぬ)風に被放(はなたれ)て、詣で來つる程に、此の島を見付けて、喜び乍ら、着きて侍る也。」

男の云く、

「其の放つ風をば、我が吹かせつる也。」

と云ふを聞くに、

「然さ)は、此れは例(れい)の人には非(あら)ぬ者也けり。」

と思ふに、男、

「其達(そこたち)は極(ごう)じぬらむ[やぶちゃん注:疲れたことであろう。]。何(いづら)、其の物、持て來(こ)。」

と、出で來つる方に向ひて、高(たかや)かに云へば、人の足音、數(あまた)して、

「來(く)也。」

と聞く程に、長櫃(ながびつ)二つ荷ひて持て來たり。酒の瓶(かめ)なども數(あまた)有り。長櫃を開(あけ)たるを見れば、微妙の食物(くひもの)共也けり。皆、取り出だして令食(くはしむ)れば、釣人共、終日(ひねもす)に極(ごう)じにければ、皆、吉(よ)く取り食ひてけり。酒なども能く呑みて、殘りたる物共をば、

「明日の料(れふ)に。」

とて、長櫃に本(もと)の樣に取り入れて傍らに置きつ。荷ひたりつる者共は返り去りぬ。

 其の後(のち)、主(あるじ)の男、近か寄り來(き)て云く、

「其達(そこたち)を迎へつる故(ゆゑ)は、此(ここ)より澳(おいき)の方に、亦、島、有り。其の島の主(ぬし)の、我れを殺して此の島を領(りやう)ぜむとて、常に來りて戰ふを、我れ、相ひ構へて戰返(たたかひかへ)して、此の年來(としごろ)は過ぐす程、明日來りて、我も人も死生(ししやう)を決すべき日なれば、我れを助けよと思ひて、迎へつる也。」

と。釣人共の云く、

「其の來らむ人は、何許(いかばか)りの軍(いくさ)を具して、船、何(いく)つ許りに乘りて來(きた)るぞ。身に不堪(たへぬ)事に侍りとも、此(か)く參りぬれば、命を棄てこそと、仰せに隨ひ侍らめ。」

と。男、此れを聞きて、喜びて云く、

「來らむと爲(す)る敵(かたき)も、人の體(てい)には非ず。儲(まう)けむずる[やぶちゃん注:待ち受けるところの。]我が身も、亦、人の體には非ず。今明日(けふあす)、見てむ。先づ、彼(かれ)、來りて島に懸らむ程に、我れは此の上より下り來らむずるを、前々(さきざき)は敵(かたき)を此の瀧の前に不令上(のぼらしめず)して、此の海際(うみぎは)にして戰ひ返すを、明日は其達(そこたち)を強く憑(たの)まむずれば、彼(か)れを上に登せむずる也(なり)。彼(かれ)は上に登りて、力を得(う)べければ、喜びて登らむと爲(す)るを、暫しは我れに任せて見むに、我れ、難堪(たへがたく)成らば、其達(そこたち)に目を見合せむずるを、其の時に、箭(や)の有らむ限り可射(いるべき)也。努々(ゆめゆめ)愚かに爲(す)べからず。明日の巳時(みのとき)[やぶちゃん注:午前十時頃。]許りより儀立(よそほひだ)ちて、午時(うまのとき)許にぞ戰はむとする。吉(よ)く吉く物など食ひて、此の巖(いはほ)の上に立たむ。此こよりぞ上らん爲(ず)る。」

と、吉々(よくよく)教へ置きて、奧樣(おくざま)に入りぬ。

 釣人共、其の巖(いはほ)に木など切りて、庵(いほり)造りて、箭(や)の尻など能々(よくよく)鋭(と)ぎて、弓の弦(つる)など拈(したた)めて、其の夜は火燒きて物語などして有る程に、夜も暛(あ)けぬれば、物など吉(よ)く食ひて、既に巳時(みのとき)に成りぬ。

 而る間、來らむ、と云ひし方を見遣りたれば、風、打ち吹きて、

「海の面(おもて)、奇異(あさま)しく怖し氣(げ)也。」

と見る程に、海の面、□[やぶちゃん注:「靑」か。真っ靑。]に成りて、光る樣(やう)に見ゆ。其の中より、大きなる火、二つ、出で來たり。

「何なる事にか。」

と見る程に、

「出で來合はむ。」

と云ひし方を見上げたれば、其こも山の氣色(けしき)、異(あ)しく怖し氣(げ)に成りて、草、靡(なび)き、木葉も騷ぎ、音高く喤合(ののしりあ)ひたる中より、亦、火、二つ、出で來たり。

 澳(おき)の方より近く寄り來たるを見れば、蜈(むかで)の十丈[やぶちゃん注:約三十メートル。]許りある、游ぎ來たる。上は□[やぶちゃん注:先と同様に「靑」か。]に光たり。左右の喬(そば)[やぶちゃん注:脇。]は、赤く光たり。見れば、同じ長さ許りなる蛇(へみ)の、臥長(ふしたけ)一抱(ひとかか)へ許りなる、下(くだ)り向ふ。舌嘗めづりをして、向ひ合ひたり。彼(かれ)も此(これ)も怖ろし氣なる事、限り無し。實(まこと)に云ひしが如くに、蛇(へみ)、彼(かれ)が可登(のぼるべき)程を置きて、頸(くび)を差し上げて立てるを見て、蜈(むかで)、喜びて走り上がりぬ。互ひに目を嗔(いか)らかして守りて、暫く有り。

 七人の釣り人は、教へしままに巖(いはほ)の上に登りて、箭(や)を番(つが)へつつ、蛇(へみ)に眼を懸けて立てる程に、蜈(むかで)、進みて走り寄りて、咋ひ合ひぬ。互ひに、ひしひしと咋(く)ふ程に、共に血肉(ちじし)に成りぬ。蜈は手多かる者にて、打ち□つつ咋(く)へば、常に上手(じやうず)也。二時(ふたとき)許り咋ふ程に、蛇、少し□[やぶちゃん注:「怯(ひるみ)」か。]たる氣(け)付(つ)きて、釣人共の方(かた)に目を見遣(みおこ)せて、

「疾(と)く射よ。」

と思ひたる氣色なれば、七人の者共、寄りて、蜈(むかで)の頭より始めて尾に至るまで、箭(や)の有りける限り、皆、射る。彇(はず)の本(もと)まで不殘射立(のこらずいたつ)。其の後は、太刀を以つて、蜈の手を切りければ、倒れ臥しにけり。而れば、蛇、引き離れて去(い)ぬれば、彌(いよい)よ蜈を切り殺してけり。其の時に、蛇、□て返り入りぬ。

 其の後、良(やや)久しふ有りて、有りし男、片蹇(かたあしな)へぎて[やぶちゃん注:片足を引きずりながら。]、極(いみじ)じく心地惡氣(ここちあしげ)にて、顏なども缺(か)きて血(ち)打ちて出で來たり。亦、食物(くひもの)共、持ち來(き)て、食はせなどして、喜ぶ事、限り無し。蜈(むかで)をば切り放ちつつ、山の木共を伐り懸けて、燒きてけり。其の灰・骨などをば、遠く棄てけり。

 然(さ)て、男、釣り人に云く、

「我れ、其達(そこたち)の御德(とく)に、此の島を平らかに領ぜむ事、極めて喜(うれ)し。此の島には、田(た)可作(つくるべき)所、多かり。畠(はたけ)、無量(はかりなし)。生物(なりもの)の木、員(かず)不知(しらず)。然(さ)れば、事に觸れて便り有る島也。其達、此の島に來て住(す)まめと思ふを、何(いか)にか。」

と。釣人共、

「糸(いと)喜(うれ)しき事にぞ可候(さふらふべき)を、妻子(めこ)をば何(いか)にか可仕(つかまつるべき)。」

と云ひければ、男、

「其れを迎へてこそは來(きた)らめ。」

と云ひければ、釣人共、

「其れをば何(いか)にして罷り渡るべし。」

と云ひければ、男、

「彼方(かなた)に渡らむには、此方(こなた)の風を吹かせて送らむ。彼方より此方に來らむには、加賀の國に御(おは)する熊田(くまた)の宮(みや)と申す社(やしろ)は、我が別れの御(おは)する也。此方に來(きた)らむと思はむ時には、其の宮を祭り奉らば、輒(たやす)く此方に來たるべき也。」

など、吉々(よくよ)く教へて、道の程可食(くふべき)物など、船に入れさせて、指し出だしければ、島より俄かに、風、出で來て、時も不替(かはさず)走り渡りにけり。

 七人の者共、皆、本(もと)の家に返り、

「彼の島へ行かむ。」

と云ふ者を、皆、倡(いざな)ひ具して、密かに出で立ちて、船七艘(しちさう)を調(ととの)へて、可作(つくるべき)物の種(たね)共、悉く拈(したた)めて、先づ、熊田の宮に詣でて、事の由(よし)申して、船に乘りて指し出でければ、亦、俄かに、風、出で來て、七艘乍ら、島に渡り着きにけり。

 其の後、其の七人の者共、其の島に居て、田畠を作り、居弘(ゐひろ)ごりて、員(かず)不知(しらず)人多く成りて、今、有る也。其の島の名をば、「猫の島」[やぶちゃん注:舳倉島に推定比定される。]とぞ云ふなる。其の島の人、年に一度、加賀の國に渡りて、熊田の宮を祭るなるを、其の國の人、其の由を知りて伺ふなるに、更に見付くる事、無き也。思ひも不懸(かけぬ)夜半(よなか)などに渡り來て、祭りて返り去りぬれば、其の跡にぞ、

「例の祭してけり。」

と見ゆなる。其の祭り、年每(としごと)の事として、于今不絶(いまにたえぬ)也。其の島は、能登國、□□郡に大宮と云ふ所にてぞ、吉(よ)く見ゆなる。晴れたる日、見遣れば、離れたる所にて、西高(にしだか)にて靑(あを)み渡りてぞ見ゆなる。

 去(さ)りぬる□□の比(ころ)、能登の國、□□の常光(つねみつ)と云ふ梶取(かぢとり)有りけり。風に被放(はなたれ)て、彼(か)の島に行きたりければ、島の者共、出で來て、近くは不寄(よせず)して、しばらく岸に船繫がせて、食ひ物など遣(おこ)せてぞ、七、八日許り有りける程に、島の方(かた)より、風、出で來たりければ、走り歸りて、能登の國に返りにける。其の後、梶取の語りけるは、

「髴(ほのか)に見しかば、其の島には、人の家、多く造り重ねて、京の樣(やう)に小路(こうぢ)有るぞ見えし。人の行き違(ちが)ふ事、數(あまた)有りき。」

とぞ語りける。

「島の有樣を見せじ。」

とて、近くは寄せざりけるにや。

 近來(このごろ)も、遙かに來たる唐人(とうじん)は、先づ其の島に寄りてぞ、食ひ物を儲(まう)け、鮑(あはび)・魚(うを)など取りて、やがて其の島より敦賀(つるが)には出づなる。唐人にも、

「『此(かか)る島、有り』とて、人に語るな。」

とぞ口固(くちかた)むなる。

 此れを思ふに、前生(ぜんしやう)の機緣有りてこそは、其の七人の者共、其の島に行き住み、其の孫(そん)、于今(いまに)其の島に有らむ。極めて樂しき島にてぞ有るなるとなむ語り傳へたるとや。

   *]

 加賀國山代の山奧に椎谷といふところがあり、椎の木數十本が森をなして居つたが、この社地に雌雄の大白蛇が住んでゐた。雄は三間半餘り、雌は三間ばかりもあつたらう。或時雄が死んで雌ばかりになつた。里人の語るところによれば、長さ四間餘りの大百足があつて蛇を食ひ、諸獸を征服して居つたのを、村の者が集まつて打ち殺したといふ。椎谷の雄蛇も多分そのために害されたものかといふことであつた。寶曆年間に大聖寺家中福嶋源四郎のところで、不思議な物を見せられたが、大きさ男の拳ぐらゐで、漆を百度も塗つた獅子頭の如くである。何者とも辨じ得ず、主人に尋ねたら、これが里人の打ち殺した百足の頭であると説明してくれた。手に取つて熟視すれば、まがふ方なき百足の頭で、甲鐡のやうに堅かつた。「三州奇談」の著者は、山代のやうな人家より遠からぬところに、かういふ異物のあるのに驚いてゐるが、山代のやうな北國筋でない、江戸人に馴染の深い箱根の山中にも大百足の出た話がある。

[やぶちゃん注:「椎谷」現在の山代温泉の奥らしい。以下に引く原典を確認されたい。

「三間半」約六メートル。

「三間」五メートル四十五センチ。

「寶曆年間」一七五一年から一七六四年。

「大聖寺家中」大聖寺藩(だいしょうじはん)のこと。加賀藩の支藩。

 以上の話は「三州奇談」の「卷之一」の「山代蜈蚣」の一節。二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化した。前後に蜈蚣とは異なる話が含まれるが、折角なので丸ごと電子化する。

   *

     山代蜈蚣

 山代温泉は、大聖寺を去つて一里半ホウカの渡しと云二天の末の流れ一筋を隔て、向の山の麓也。平素の田野、竹樹の村、巷(カウ)道平夷(タイラカ)なる里つゞき也。湯は家々にとりて、座敷湯にて、家ごとに二三ケ所宛(づゝ)、上湯下湯の浴(あ)み場をこしらへ、自由過ぎたる温泉のもと也。湯は淸く、香り又山中よりうすし。然れども、堀口何某(なにがし)の家に湯井三ヶ所有、湯涌返(わきかへ)りてすさまじ。是を掛樋にて取(とり)、又山水を樋に取て交へて家々に取。大樣熊野湯の峯の如し。又水に交つて涌たまり有。是は攝州有馬の湯のうはなり井の如し。男女、影をうつして口舌をなせば、水中に湯わき上る。又奇妙なり。山中より此地は湯出る事多しと覺ゆる所也。

 此湯本に豆腐屋三郎右衞門と云人あり。蛇を遣ふ事を覺え、又能く蛇を防ぐ。故に他の家には蛇多し、此の家には蛇なし。此人の物がたりに、「此上の山おくに椎谷といふ所あり。野社ありて、椎數十本森をなす。此社地に雌雄の大白蛇あり。雄は長さ三間半餘、雌は三間斗もやあらん。久敷見馴しに、或時行て見れば、雄蛇死して、いか成事にや有りけん、今は雌のみ殘れり」と物かたりを聞し。是は元文元年の比かと思ゆ。

 又此比、予が友に夫由と云人有。寶曆某の年、大聖寺家中福嶋氏〔名は源四郎〕のもとにて、一怪物をみる。其かたち大なる男の拳ほどにして、黑漆百たび塗(ぬり)し獅子頭のごとし。何物なる事を辨ぜず。其故を尋けるに、福嶋氏教へて曰、「世に蜈蚣(むかで)、蛇を制すと云。故有(ある)かな。我、山代の山𢌞り役仰せ付けられしに、久しく山代の山入に有しが、里人のかたりけるは、此の奧に長(ながさ)四間あまりの大蜈蚣ありて、蛇を喰ひ諸獸を服しけるを、村の者ども集りて終(つひ)に打殺せり。其頭、是に有よし申(まうす)ほどに、我乞求(こひもと)めてかへりぬ」となり。實(げに)も手に取てよく見れば、成(なる)ほど百足蟲にまがふ所なし。其の堅き甲鐵のごとし。此山、人家を離れて遠からざるにさへ、かゝる異物の出來たる」。然れば『山海經』も誠に其者(そのもの)有(ある)べく、江州百足山の時の事説も疑がふべきにも非ず。扨は椎谷の雄蛇も、是がために破らるゝものか。

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が二字下げ。]

山代の奇事、此外に一向宗の寺へ矢嶋伊助と云盜賊の頭、宿かれる事有。怪術しかじか目を驚かして後(のち)、天下大盜の物がたりをなす。この一件は、先に一本をあらはす。題して『越の白波』と云。此中にくはし。此段、事永き故、此書にはもらしぬ。

   *

文中の「元文元年」は一七三六年、「四間」は七メートル二十七センチ。]

 大山石尊信者の三人連れが箱根山中で道に迷ひ、狩人の家に一宿した翌日、教へられた通り山の腰を𢌞つて行くと、何やらどろどろといふ音がする。夕立でも來るかと見上げた山の腹に、長さ三丈餘りの大百足が眠つて居り、その鼾聲が雷のやうに聞えるのであつた。三人は肝を潰し、生きた心地もなかつたが、とにかくこゝを通り拔けるより仕方がないといふので、足音をさせぬやうに一町餘り來て振り返ると、百足は俄かに目をさまし、右手の山の原を眞一文字に追駈けて來る。南無大聖不動明王、石尊大權現、命を助けさせ給へと、足の續く限り逃げたけれど、已に間近く迫つて來たと思ふ時、遙か向うの峯の繁みから、一羽の大鷲が飛んで來た。驚は百足の頭を蹴らうとし、百足は鷹に食ひ付かうとして六七尺も頭を上げるところを、飛び上つて績けざまに二三十も蹴る。遂に鋭い爪を百足の目に立て、嘴で頭をつゝき破り、さんざんに引き裂いたかと思へば、心よげに羽ばたきして、遙かに大山の空をさして飛び去つた。三人は岩陰からこの體を見て、これこそ疑ふべくもない、大聖不動明王、石尊大權現の我等を救はせ給うたのである、と信心肝に銘じ、大山の方を伏し拜み、漸く湯本に辿り著いて、入湯の後、無事に江戸へ歸ることが出來た(御伽厚化粧)。

[やぶちゃん注:「大山石尊」現在の神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)のこと。私の大好きな落語の「大山詣り」でも知られるように、江戸時代は庶民の根強い信仰を集めた。以下、ウィキの「大山阿夫利神社」より引用すると、祭神は『本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)』を祀るが、江戸時代までの『神仏習合時代には、本社の祭神は、山頂で霊石が祀られていたことから「石尊大権現」と称された。摂社の祭神は、俗に大天狗・小天狗と呼ばれ、全国八天狗に数えられた相模大山伯耆坊である』。社伝によれば崇神天皇の御代の創建され、『延喜式神名帳では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している』。天平勝宝四(七五二)年、『良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた』。『中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した』。『明治時代になると神仏分離令を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も一呑みにされる。この時期に「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、旧来の「阿夫利神社」に改称された』とある。

「三丈」約九メートル。

「御伽厚化粧」は雲吠子著で享保一九(一七三四)年刊の浮世草子怪談集。以上は「卷之三」の「八、鷲鳥喰蜈蚣 附 伊勢屋彌三七大山に參詣し石尊大權現の御利生によつて命を助りし事」で、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。]

 以上の話を通觀すると、日本の話に出る百足は常に巨大なもので、それが大きな蛇を相手に鬪ふやうであるが、必ずしもさう限つたわけでもない。「狗張子」に記された話に、或村の老人が道で百足が蛇を逐ふのを見た。百足が漸く近付けば、蛇は動かなくなつて、觀念したやうに口をあけて待つてゐる。百足は進んで蛇の腹に入り、暫くして出て來た時は、蛇は已に死んで居つた。老人はその蛇を山の中に棄てたが、十日餘りの後、そこへ行つて見たら、小さな百足が澤山生れて、蛇の肉を食ひつつある。卽ち百足は蛇の腹中に卵を産んだのだといふのである。この話は或種の蜂が蜘蛛を斃し、その腹に卵を産み付ける話に似てゐる。百足や蛇の大きさは書いてないが、それは記すに足らぬほど普通のものだつたからであらう。さういふ平凡な者同士の間にも、百足の蛇を制する事實のある一語として、この話をこゝに擧げて置きたい。

[やぶちゃん注:「狗張子」「いぬはりこ」と読む。元禄五(一六九二)年刊の浅井了意の仮名草子怪談集。七巻。中国の志怪小説「続玄怪録」「博異志」などを題材にした怪奇説話を中心に四十五篇を収録した「御伽婢子(おとぎぼうこ)」の続編。以上は「卷之七」の「五 鼠の妖怪 附 物その天を畏るること」の中で老儒洽聞(こうぶん)の語りの中の一節。全体は長く、当該話の図もるが、メイン・テーマは蛇と百足とは無関係なので、そこだけ(但し、柴田が蜘蛛云々を言ったことが関わると確信出来る部分を含む)のテクストを、所持する一九五〇年現代思潮社刊の「狗張子」から部分引用しておく。新字の上に現代仮名遣であるが、そのまま示す。しかし、このテクストはそういう点で、正直、全くダメである。

   *

またある村の叟(おきな)、蜈蚣(むかで)一つの蛇をおうを見る、行く事はなはだ(すみや)かなり。蜈蚣ようやく近けば蛇また動かず、口を張りて待つ。蜈蚣ついにその腹に入り、時を逾(こ)えて出ず、蛇既に斃れぬ。村の叟その蛇を深山(みやま)の中に棄つ。十日あまりすぎて、住きてこれを見れば、小さき蜈蚣数知らず、その腐れたる肉を食らう、これ蜈蚣卵(かいこ)を蛇の腹の中に産みけるなり。また昔一つの蜘蛛、蜈蚣を逐う事はなはだ急かなるを見る。蜈蚣逃れて籬槍竹(りそうちく)の中に入る、蜘蛛また入らず。ただし足をもつて竹の上に跨り、腹を搖(うご)かす事あまた度(たび)して去る。蜈蚣を窺うに久しくいでず、竹を剖(さ)いてみれば、蜈蚣すでに節々(ふしぶし)爛れ断れて鱟醬(かにひしお)のごとし。これ蜘蛛腹を動かす時、溺(いばり)を灑(そそぎ)てこれを殺せるならん。物のその天を畏るる事かくのごとし。いま鼠の猫の繪を懼(おそ)るるやまた同じ、あに久しくその妖怪を恣(ほしいまま)にする事を得んや」

   *

なお、「或種の蜂が蜘蛛を斃し、その腹に卵を産み付ける」ことは生物学的には寄生蜂の中に認められるが、柴田が安易にそこから敷衍して、生きたヘビの体内にムカデが侵入して、卵を生み、動かなくなった蛇の生体を内側から摂餌するなどということはないと私は明言する(動物の生体内にムカデが巣食うことは、ヒトのケース(鼻腔内寄生で東南アジアでごく最近、報告されている)で私は知ってはいるが、ここで安易に柴田の言っていることは、私は生物学的に信じられない。あるということであれば、是非、御教授あられたい)。……ああ! しかしこれ、ムカデが生体寄生するよりもっと気持ち悪いテクストではないか!!!

 これらはいづれも近世の話である。が、百足の蛇を制する話を遡ると、原産地は支那になるらしい。報寃蛇に追はれた旅人が、旅宿の主人の貸してくれた竹筒を枕頭に置くと、一尺ばかりの百足が這ひ出して、旅人の身體を三度𢌞つて、また筒の中に戾つた。夜が明けたら報寃蛇は已に死んでゐたといふ「獨醒雜志」の話なども、百足の蛇を制する一例であるが、話が少し小さいから、三上山や赤木山に匹敵し得ぬまでも、いくらか大きな話を擧げよう。

[やぶちゃん注:「獨醒雜志」宋の曾敏行著になる随筆。恐らく柴田の言っているのは「卷八」の以下の下線部分ではないかと思われる(下線はやぶちゃん)。中文サイトよりベタで示す(一部の漢字を変更した)。

   *

韻之嘗都尉廳後舊有濯嬰廟臨其池上廟毀往往仇虎墮池中年不可計矣因刀躡工肢半凡爲礪石人見而異之遂求其凡爲硯於是有灌凡之名求者既多令罕得全瓦好事考以銅雀凡不復有亦謾蓄之南俗尚蠱毒詛比可以殺人亦可以救人以之殺人而不中者或主自斃往有容游南中暑行想林下見田靑乾長二尺許戲以林學之蛇即逝去客旋惠體中不佳夜宿于逆旅主人怪問日君何從有毒氣在面也客惘然不能對主人日試語令日所見容告之故主人曰是所謂報完蛇人有觸之不遠百里襲跡而至必噬人之心乃己此蛇令尋皇容懼求救主人許諾即出寵中所供拍竹簡祝之以授容曰不必省弟冥他旁邊通夕張燈尸寢以俟聞聲即之客如戒夜分有聲在屋凡問俄有物墮几上笥中亦萃掌響應舉之乃蝶蛤長尺許盤禍而出逮客之身三匝徑至几上有頃復歸商中容即覺體力醒然逮旦視之則前所見蛇斃焉容始信主人之不妄重謝而云又匕客亦以暮夜投宿合翁與其子脾睨容所攜客疑之乃物色翁所丙規見其父子出銅猴繪像禱之甚謹乃戒僕終夕不寐伏斂以伺己乃推戸而入者即一蟠猴人司而長揮餌逐之逡巡失去有頃聞器障則舍翁之子死矣陳忠肅公居南康日乙夕忍夢手得之尹呂句云靜坐一川煙雨未辦雷音起處夜深風作輕寒淸曉月明歸去既覺語具子弟且令記之次年徒居山陽見靡日於壁間忽點頭曰此且辭莫以筆點淸明日曰是日佳也人莫知何謂乃以其年淸明日卒劉覓夫憫丞相流之孫也崇觀中爲次對靖炎圍廢罷嘗得旨敘復祕閣修撰臣僚論列以爲具所靡差遣則爲秦盛肘按協聲律及提舉導錄院管幹丈字具所轉官則繆按樂精熟及修遺蘇院興管幹醒雪書園陵其所賜帶則因撰祥應記具所被譴則以臣僚論具爻結附會覽未田是終身不復職名官襄甲辰廷試進士以氣數爲問周表卿執羔素通此學對策極該博自謂當魁書壬或吾之沈元用從貂瑞假壽布專而後答間表卿驚曰果爾吾當少遜之妻然亦不在他人下也置日臚唱元用居第裏卿次之泗州浮屠下有僧伽像徽宗時改僧爲德士僧皆頂冠泗州太守亦令以冠加於像上忽天地晦冥風雨驟至冠裂爲兩飛墜于門外舉城驚怖莫知所爲守遽冀曰僧柳有神吾不敢強逐止

   *]

 或人が溫州の雁蕩山を過ぐるに當り、眞晝の谷に沿うて步いて來ると、忽ち溫い風が鼻を撲つ。はてなと思ふ間もなく、長さ散丈もある蛇が、宙を飛ぶやうにして逃げて來る。そのあとから五六尺ぐらゐの百足が、紫金色の身を光らせて追つて來るのが見えた。蛇は一躍して水中に入つたが、百足はそこまでは追はず、水に臨んでぐるぐる𢌞りはじめた。多くの足をがさがさ鳴らし、鬚を以て水を打つうちに、口から血のやうに紅い丸を吐き出した。丸が水中に落ちると、暫くしてぐらぐら沸き立ち、蛇は苦しげに身を動かして、殆ど死んだものの如く水面に浮び上つた。百足は蛇の頭上に飛んでその腦を啄み、水の中の丸を吸ひ取るが早いか、空に騰つてしまつた(子不語)。

[やぶちゃん注:「五六尺」一・五~一・八メートルだから、巨大なムカデである。

「丸」「ぐわん(がん)」。丸い玉のようなもの。

「騰る」「のぼる」或いは「あがる」。前者で読みたい。

 これは「子不語」の「第八卷」の「蜈蚣吐丹」である。以下に中文サイトより、一部の記号を変更して示す。

   *

余舅氏章升扶、過溫州雁蕩山、日方午、獨行澗中。忽東北有腥風撲鼻而至、一蟒蛇長數丈、騰空奔迅、其行如箭、若有所避者、後有五六尺長紫金色一蜈蚣逐之。蛇躍入溪中、蜈蚣不能入水、乃舞踔其群、颯颯作聲、以鬚鉗掉水。良久、口吐一紅丸如血色、落水中。少頃、水如沸湯、熱氣上衝。蛇在水中顛仆不已、未幾死矣、橫浮水面。蜈蚣乃飛上蛇頭、啄其腦、仍向水吸取紅丸、納口中、騰空去。

   *

 百足が空に騰るのはいさゝか妙だが、この百足は紅い丸を吐いたりして、何か妖術を心得てゐるやうだから、尋常の百足とは違ふのかも知れぬ。

小穴隆一「鯨のお詣り」(14) 「二つの繪」(3)「その前後」

 

     その前後

 

 この三月の二十七日から四月十八日までに、二十三日間といふものは、まあ、三日にあげず、七度も彼に會つてゐ。悉(ことごとく)僕一身上の事柄によつてではある。

[やぶちゃん注:以下、「二つの繪」の「その前後」の原型。

「この」前条を受けるので、大正一五(一九二六)年の、である。]

 彼は四月十一日に、自身の七年越しの苦を僕に訴へて、自決を擇(えら)ぶほかに道のない旨を言出(いひだ)した。

[やぶちゃん注:「四月十一日」後の「二つの繪」では「四月十五日」としている。現行の芥川龍之介年譜ではこの自決告白は、これによって、この訂正された「四月十五日」とされている

 それで、四月十八日に蒔淸(まきせい)(遠藤淸兵衞)に渡してくれと賴まれた禮のことは、ただに、希臘(ギリシヤ)の瓶(かめ)の繕ひの禮ばかりではない。その前のこともあつての禮で、自分の關するかぎりでは、これが交友に對して考へた遺品として最初のものであつた。品は、鈴木春信の祕戲册(ひぎさつ)であつた。

 彼が自決の意を漏らすその前のニケ月が程は「僕はこの歳になつていま、人は如何に生くべきかを考へて迷つてゐる。トラピストにさへはいらうかとも考へてゐる。」といふやうな言葉を口にしてゐた。(眠りつきになる彼は、妻子と床(とこ)を並べて彼の古びた小型の聖書のどこに手を觸れてゐたか?)

[やぶちゃん注:「眠りつきになる」最期の眠りに就いた時の。なお、私はこの小穴隆一の「聖書のどこに手を觸れてゐたか?」の箇所が異常に好きである。単行本「二つの繪」で平凡な客観描写に書き換えてしまったのは返す返すも惜しいと考えている。]

 トルストイの「人は如何に生くべきか。」といふこの言葉は自分と彼との間に一(ちよつと)溝をつくつてしまつてゐた。何故(なぜ)ならば、僕は當時自分の戀愛に沒頭してゐたし、彼は、家族からも離れたく身を捨てる考へに沒頭していたからである。僕らは會つても話の端緒(たんしよ)がなくて、これでは當分訪ねるのを止めてゐようかなぞと考へてゐた時が自分にはあつた。

 また當時、小石川に住んでゐた一官吏が、剃刀(かみそり)をもつて非常に鮮かに自殺をした記事が、新聞に出た事を今日なほ僕は記憶してゐる。その官吏は如何なる事情のもとに自殺をしたのか、それはその場限りで忘れて終(しま)つてゐるが、が彼が自殺の決意を述べた事と喰付(くつつ)いて、その官吏の手際見事(てぎはみごと)にやつてのけたそれだけが、自分の頭にはこびりついてゐる。

 ――彼の場合に於いては? 自殺を、彼も亦見事にやつてのけ得る自信を、この新聞記事によつて持ちはしなかつたのか? これを僕一個の空想とのみ人も斷じ得ないと信ず右るのは、四月十一日はその記事があつた日より後のことであるから、芥川も記事をみてゐたとすれば、見事にやつてのける自信を、その新聞記事からも持ちはしなかつたであらうか。

[やぶちゃん注:「四月十一日」第一段落の私の注を参照。]

 ――のみならず「敵(てき)なきは男子に非ず。」「男子、男根はすべからず隆々たるべし。」などと言つてゐ頃の芥川と、「人は如何に生くべきか。」と言ふやうになつた彼との間には二人の芥川龍之介を劃然として認めてゐる自分は、自身のそのミゼラブルを物語つた時より僅か數ケ月以前の彼が、谷崎潤一郎が書くといふ殺人小説の、殺人方法を、われわれに興味をもつて説明してゐたことを言ひたい。

 彼の言葉によると、谷崎はその殺人小説の殺人手段を思案するに當つて、帝大に働いてゐた醫者の友達に、醫者の立場からみて、痕跡の殘らぬ、從つて何に依つたのかはつきり斷定は下し得ない方法を取調べて貰つたといふ。(さうして、傳聞した四つばかりの方法といふものは、意外にも、特にそのなかの一つは、われわれの手近(てぢ)かの物で事足(ことた)る次第であつた。)醫師の調査報告を受取るに及んでは、スパアニツシユ・フライの項目に大谷崎(だいたにざき)心中愕然(しんちうがくぜん)たるものありたり、と差支(さしつか)へなく書けるのは、谷崎潤一郎は先(さき)に、スパアニツシユ・フライ(××用とのみ思つてゐたらしい。)の溶液を手にいれて持つてはゐたが、試用(しよう)にさきだつて大正十二年の震災でその壜びん)を失つてゐた等(よう)にまで話はわたるが、この話の間(あひだ)の芥川龍之介といふものは、話を逆に彼の自殺小説を組立ててゐたとしか思へない。(「一人の文學少女」の章參照。)

[やぶちゃん注:「××用」「二つの繪」では「催春用」とある。

「一人の文學少女」この後、五つ後の章を指す。]

 自決をなす心底(しんてい)でゐることを彼が僕に述べた日のそこに、欲せぬことでも、一寸また僕は自身のことにも觸れておかなければならない。

[やぶちゃん注:この段落と次の最終段落は単行本「二つの繪」では完全にカットされている(その分、別な追記がなされているが、ここにあるような意味深長で訳の分らぬ例の小穴調の、しかも小穴のプライベート絡みらしいこととは全く異なる内容である。]

 四月十一日、その話の直後に四月の二日、○○に對して執(と)つた僕の行動其他に關して、○○は僕を避けて、芥川龍之介に禮をぬいてぶつかつて來た手紙を寄(よ)こしてゐたこと、さうして彼にそれを讀みあげられたこと、憤慨したから寫しをとつておいた、と、斷りながら、彼が○○に今日(けふ)出しておいたといふその返事まで讀みあげたこと、等(など)あつて、今日(こんにち)でも彼に對して、また誰(だ)れにといふこともなく、ただ自分は、自分を恥づかしい者に思つてゐる。ぶちこはれた僕の事柄をも皆、身の過去の所業(しよげふ)によつて歸(き)する結果と詫びてゐた彼を思ふ時に、自分は僕を價値(かち)高く買つてゐた彼に、彼の妻子に、僕の罪が重いのを如何(どう)傳へよう。

[やぶちゃん注:この小穴隆一の伏字(「○○」は不詳)と朦朧文体には、何時もながら、悩ませられるが、時期から考えて、これは、「二つの繪」版の前後」で既に注した、芥川龍之介が仲介をとっていた、小穴隆一と哲学者西田幾多郎の姪高橋文子との縁談(この縁談自体は前年大正一四(一九二五)年八月下旬に持ち上がったもの)に関わる何か不都合な状況や展開を述べていると断じてよいと思われる。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(13) 「二つの繪」(2)「自殺の決意」

 

      自殺の決意

 

Simonohuruyowo
 

[やぶちゃん注:前条で語られた一つ欠けた北斗七星の絵はここに掲げられている。単に組版の関係で前条に入れられなかっただけらしい。但し、底本のものは褪色激しく見るに堪えぬので、前に出した私の持つ別ソースの画像を再掲した。]

 

 大正拾五年四月拾五日、日曜日

 八日(か)は晴れ、九日強風、拾日が雨、拾壹日は暗かつた。

 ――さうして多數の人々が彼の棺の前で燒香をしてゐたその座こそ、力(ちから)も根(こん)も盡きはてた、と、さけんだ、芥川龍之介の坐つてゐた場所である。

「かういふことを言つていいものだらうか。」

「人にかういふことを言ふべきものではない。が、言つていいだらうか。」

 かう切りだす前に、芥川は寢床の上に起きなほつてその細い腕を示し、かてて股間を抑へながら、脾肉(ひにく)をも見(しめ)した。

「これだから僕ももうながいことはないよ。」肉を摘(つま)むで、さう言つてゐた。彼は、だしぬけに立上つた。あああ、と僕は息を殺した。瞬間、茶間(ちやのま)にでる廊下の境目の唐紙(からかみ)を閉めて、一ト跨(また)ぎで振りかへりざまに彼は復(また)もとの座に坐つた。彼の端坐(たんざ)は座を去らせぬ彼の氣色(けしき)をそこに感じさせてしまつた。

「君に言つていいだらうか、」

「かういふことは友達にも言ふべきことではない、が、友達として君は聞いてくれるか。」

 自分は默つてゐた。

「どんなこと?」

 居合腰(ゐあひごし)に彼がきりこむだ言葉にしのぎもつかず自分は口を開いた。

「それならば僕は言ふが、君と僕とは今日(けふ)まで藝術の事の上では夫婦として暮してきた。(ここに澤山の彼の言葉を省く。さうしてここを、僕は十九の時に自分の體(からだ)では二十五までしか生きないと思つた。だから、それまでに人間のすることはあらゆることを爲盡(しつく)してしまひ度(た)いと思つて急いだ。)――といふ彼の言葉で埋(う)めておく、しかし澄江堂を名乘つてからの僕は、それこそ立派な澄江堂先生ぢや、――僕はかうやつて、ここにねてゐても絶えず夏目先生の額(がく)に叱られてゐるやうな氣がする。‥‥」

 無氣味な目で彼の背(うしろ)を彼はさした。

 自分はそこの鴨居に依然たる、風月相知(ふうげつあひしる) 漱石 の書を見た。彼は、事露顯(ことあらは)はれて後、事を決するよりも、未然に自決してしまひたい、といふ考へであつた。本(もと)をS女史との唯一度、それも七年前の情事に歸して。――

 ――彼が話してゐる間(あひだ)自分は妙な氣がしてゐた。といふのは、數日前、六日に、僕ら二人の席に彼女を見てゐたからである。六日であることは錯覺とは思へない。その夜(よ)、彼女は自笑軒(じせうけん)の歸りであると陳べて、妹を連れてゐた。自分よりも後に來て、先に歸つて行つた。自笑軒の茶室の間取りを語り、普請をする彼女自身の茶室を、圖面に依つて、彼にみ説明してゐた。殆ど、それだけの事で歸つて行つた。(書き足すならば、彼女はその場の僕に茶掛(ちやか)けを畫(か)いてくれと言つてゐた。彼女が歸つて行つた後で、君、賴むから畫いてやつてくれるな。と彼が言つてゐた。)

 後い、彼女を語る場合には僕らは河童又は河童の代名詞を使用した。○○○子(S女史)それは昔、彼が彼女に一座の人々を紹介し僕をも紹介してゐたときに、順々にお時儀(じぎ)をしてゐながらに何故か「わたし小穴さんには態(わざ)とお時儀をしないの。」と、人に聞えぬ程の小聲をもつて、笑ひをみせながら僕の顏を顧りみてゐた婦人である。大正十二年以前のことであつて、自分が「こいつ、なにかあるな。」と考へてゐた女性であつた。

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「自殺の決意」の原型。後半部に大きな追加が加えられている。リンク先の諸注を参照されたい(向後、この注記は略す)

「脾肉」腿(もも)の肉。

「それならば僕は言ふが、君と僕とは今日(けふ)まで藝術の事の上では夫婦として暮してきた。(ここに澤山の彼の言葉を省く。さうしてここを、僕は十九の時に自分の體(からだ)では二十五までしか生きないと思つた。だから、それまでに人間のすることはあらゆることを爲盡(しつく)してしまひ度(た)いと思つて急いだ。――といふ彼の言葉で埋(う)めておく、)しかし澄江堂を名乘つてからの僕は、それこそ立派な澄江堂先生ぢや、――僕はかうやつて、ここにねてゐても絶えず夏目先生の額(がく)に叱られてゐるやうな氣がする。‥‥」この台詞の中の丸括弧挿入の小穴隆一の言葉、

(ここに澤山の彼の言葉を省く。さうしてここを、僕は十九の時に自分の體(からだ)では二十五までしか生きないと思つた。だから、それまでに人間のすることはあらゆることを爲盡(しつく)してしまひ度(た)いと思つて急いだ。――といふ彼の言葉で埋(う)めておく、)

は、実は底本では、

(ここに澤山の彼の言葉を省く。さうしてここを、僕は十九の時に自分の體(からだ)では二十五までしか生きないと思つた。だから、それまでに人間のすることはあらゆることを爲盡(しつく)してしまひ度(た)いと思つて急いだ。)――といふ彼の言葉で埋(う)めておく、しかし澄江堂を名乘つてからの僕は、[やぶちゃん注:以下略。]

となっている。これでは読んでいて躓いてしまう。丸括弧閉じる位置の誤りと断じて特異的に訂した。

S女史」「○○○子」秀しげ子。

「七年前の情事」大正一五(一九二六)年四月十五日のロケーションから七年前は大正八年。事実、芥川龍之介と秀しげ子が不倫関係に陥ったのは同年九月十五日に推定比定されている。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(12) 「二つの繪」(1)「二つの繪」

 

 二つの繪 

 

[やぶちゃん注:以下の冒頭添書きは底本ではポイント落ちで二字上げ下インデントである。クレジットと署名の位置もブラウザの不具合の関係上、有意に上げてある。] 

 

 あはれとは見よ。

 自分は娑婆(しやば)にゐてよし人に鞭打たれてゐようとも君のやうに、死んで燒かれた後(のち)の□□□を、「芥川さんの聰明にあやかる。」とて×××種類のフアンは一人も持つてゐない。それをわづかに、幸福として生きてゐる者だ。

        昭和七年秋      隆一

 

 

        二つの繪 

 

Kujiramimikaibutu

 

〔差畫(さしゑ)參照〕

 ――実に未だにではあるが、ぼろ服を身につけてゐた僕は芥川龍之介に「君も今度何かの都合のよろしい時には黑背廣と縞ズボンをつくつておくことだねえ。」と言はれてゐた。故にこれを昭和六年に欺於いて確かにつくり自分は始めて身につけた。

(彼が死んでから既に五年後の事である。)

 貧乏畫家である僕に、芥川龍之介は、貧困時に於ける谷崎潤一郎の不敵の精神を説いて力を與へてゐた。彼の死六年を經て、ここに自分は、確かに不敵の精神を抱いて、「二つの繪」を書いてはゐる。

 芥川龍之介の二つの繪に依つて自分は、彼の二つの繪の間(あひだ)に結びつらぬいてゐるミゼラブルなる姿を描たい。一方また自分は「二つの繪」に對して、「芥川龍之介の書齋」を考へてゐる。拔群の氣象(きしやう)を持つた人間、小説家芥川龍之介は、「芥川龍之介の書齋」に於いて、これを詳らかにしたい。しかしながら、自分は文筆の士ではなく、バルザツクの力を欲しいと思ふばかりでゐる。人、或は「二つの繪」を僕の物として認めやう。が、幼少、小學時代に於いて彼が宰領し發行してゐた𢌞覽雜誌「日の出」に始まつて一高時代(?)神田で一枚の「ウイリアム・ブレーク」の複製を發見して、金參圓の全財産を投じたがために、新宿まで步いて歸らなければならなかつた昔(そのブレイクの繪は後に彼の考案による畫架(ぐわか)にのせて死ぬまで二階の書齋の壁に掛けてあつた。)繪畫(くわいが)に依ればロートレツク、フエリシアン・ロツブス、ゴヤ、レムブラント――セザンヌ、パブロ・ピカソ、――ルドンに移つてゐた間(あひだ)の傾向を簡單明瞭にして、自分は指示出來得ると信ずる者であるが、その作家として立つた彼、ならびに、その作品、思想を論ずる事に及んでは未だ自分は無力である。今後と雖も恐らくは同然であらう。僕はここに佐佐木茂索・堀辰雄、葛巻義敏の三人を置いて考へる。しかし、自分の愛するこれら三人の人々は氣の毒ではあるが文明人でしかない。(どれだけこの三人の力の合併を空想して僕は待つたか自分はいま愛するこの三人に對してだけでも再びミゼラブルなる芥川龍之介の姿を現出させよう。この無法を許せ。)

 二つの繪の、巨大な耳を持つた怪物の繪は大正十四年十月四日湯河原中西屋旅館に僕を招いた時に座の紙をとつて彼が描き示したものである。さうして未熟にも自分はその彼の眞意が奈邊(なへん)にあるかを照察(せうさつ)し得なかつた。ただ詳かにし得たものは自分の紀行文のために五日芥川龍之介體量(たいりやう)十二貫五百、本人腦味噌一貫五百、體量十一貫と稱す。だけのものである。しかし彼が後日(ごじつ)支那旅行中に幾度か死をねがつてゐると言つてゐた事を書き及べば、歸國直後である湯河原溫泉で示したその繪は彼の當時の姿を寫す自畫像である、彼が犯した唯一つの過失に、如何に苦しみ、また如何に告白したものかと迷つてゐたその彼の姿をここに髣髴せしめるものがあるであらう。

 一つの星が飛んで消えてしまつてゐる北斗七星の繪は、相州鵠沼海岸伊(い)二號當時の僕の借家に於いて彼が描き示した物である。

「この繪がわかる?」

「わかるよ。」

 言葉がそこに交されはしたが、大正十五年の秋では、最早僕らは小穴隆一芥川龍之介で言葉を交はさずとも意は通じてゐたのである。

 

[やぶちゃん注:これは後の単行本「二つの繪」の冒頭の「二つの繪」と同題であるが、異なる作として読み、比較した方がよい程に、全く叙述が違うので注意されたい。リンク先と比較しつつ、お読み戴きたい。

 私はこの冒頭添書きの伏字について、後の単行本「二つの繪」の「家ダニは御免だ」で、小穴がこれに言及した際、先般、

君のやうに、死んで燒かれた後のしやりを、「芥川さんの聰明にあやかる。」とて喰らふ種類のフアンは一人も持つてゐない。

と読み換え推定をしている。「しやり」は「舎利」で遺骨である。大方の御批判を俟つものではある、と注した。今もその意識は変わらない。

「〔差畫(さしゑ)參照〕」本章の挿絵は上記に掲げた一枚だけで、終りで言及する星が一つ飛んで六つしかない絵(リンク先は単行本「二つの繪」版で掲げた別ソースからのそれ)は次の「自殺の決意」に挿入されている。今回、耳の怪物の絵は底本の香を偲ぶために敢えて同底本のものを複写した。既に「二つの繪」の方で掲げたものこれは同一の原画の別ソースのカラー画像であるから、比較されるのも一興である。

『小説家芥川龍之介は、「芥川龍之介の書齋」に於いて、これを詳らかにしたい』小穴隆一の言い回しに馴れないと勘違いされる向きもある箇所なので、老婆心乍ら、述べておくと、これは、これから書く条や章の中に「芥川龍之介の書齋」というのがあるということ、では、ない。小穴隆一は『私は今から、この「二つの繪」のパートで、小説家としての芥川龍之介を、常に芥川龍之介生前の往時の「芥川龍之介の書齋」を常にイメージしながら描き出そうと考えている』と言っているのである。

「バルザツクの力を欲しい」フランスを代表する小説家オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 一七九九年~一八五〇年)は、例えば短編「知られざる傑作」(Le Chef-d'œuvre inconnu 一八三一年)で老天才画家の悲劇を描いたように(本作には、かのピカソが強く魅了された)、音楽や絵画への高い審美眼を持ち合わせていた。小穴隆一はここでそれを反転させた力を我に与えよ、と言っているのであろう。

『小學時代に於いて彼が宰領し發行してゐた𢌞覽雜誌「日の出」』正しくは肉筆回覧雑誌の名称は『日の出界』である。但し、本書刊行時の芥川龍之介全集(第二次)にはこの回覧雑誌所収の初期文章――現在の岩波新全集では「大海賊」「実話 昆虫採集記」「冒険小説 不思議」「ウエールカーム」「(ここまでは執筆は推定で明治三五(一九〇二)年。芥川龍之介十一歳)「彰仁親王薨ず」「春の夕べ」「つきぬながめ」(以上三篇は推定明治三十六年筆)の七篇を所載――は、岩波の旧全集に載っていないから、当時の読者はこの回覧雑誌の名さえ知らないはずである。思うに、小穴隆一はこれを、その原本を当時所持していた葛巻義敏を通して読んだか知ったものと思われる。何故なら、葛巻が昭和四三(一九六八)年になって岩波書店から刊行した「芥川龍之介未定稿集」の「初期の文章」に、うやうやしくも初めて「大海賊」「昆蟲採集記」(一と二があるが、二は現行の新全集にすら載っていない)「彰仁親王薨ず」「春の夕べ」が掲載されているからである。こういう部分に私は葛巻義敏は勿論のこと、小穴隆一に対しても、そのスノッブな厭らしさをプンプン感ずるのである。

『一高時代(?)神田で一枚の「ウイリアム・ブレーク」の複製を發見して、金參圓の全財産を投じたがために、新宿まで步いて歸らなければならなかつた昔(そのブレイクの繪は後に彼の考案による畫架(ぐわか)にのせて死ぬまで二階の書齋の壁に掛けてあつた。)』これは後の単行本「二つの繪」の橫尾龍之助で、『芥川の二階の書齋は、地袋の上にも本がのせてあつたが、小さい額緣に入つた五寸五分に七寸位の、ヰリアム・ブレークの受胎告知の複製があつたので、僕がそれをみてゐると、芥川は、「それは神田の地球堂で三圓で買つたのだが、歸りの電車賃がなくて新宿まで步いて歸つた。」(當時、高等學校の生徒、實家の牧場のほうにゐた、)當時の三圓といふ値段は額緣付きの値段と思ふが、芥川はその受胎告知の畫を、晩年わざわざ給具屋に卓上畫架を誂らへてこしらへさせ、その上にのせてゐた。部屋の隅で、暗いところにあつたから、ちよつと氣がつかなかつた人があるかもしれない。部屋にかける壁がなかつたからといへばそれまでであるが、わざわざその畫のために、卓上畫架を註文して造らせてその上にのせてゐた芥川の氣持を思ふと、芥川の淋しさといふものが何か考へさせられる』と詳述している。

「フエリシアン・ロツブス」フェリシアン・ロップス(Félicien Rops 一八三三年~一八九八年)はベルギーの画家。エッチングやアクアチント技法の版画家として知られる。ウィキの「フェリシアン・ロップス」によれば、最初は『戯画絵師として名声を得た』が、一八六四年に『晩年のシャルル・ボードレールと出会い』、『一生忘れることのできないほど強烈な印象を受け』、ボードレールの「漂着物」の『口絵を描いた。この本は、フランスの検閲で削除された』「悪の華の詩」を『集めたもので、当然ながら、ベルギーで出版された』。『ボードレール、ならびに、ボードレールが表現した芸術と関わることで、ロップスは、テオフィル・ゴーティエ、アルフレッド・ド・ミュッセ、ステファヌ・マラルメ』『といった作家たちからの賞賛を得た。ロップスは象徴主義・デカダン派の文学運動と関係を持ち、そうした作家たちの詩集にイラストを描いた。詩の内容同様に、ロップスの作品も、セックス、死、悪魔のイメージが混在する傾向が強かった』とある。なお、この前後の小穴隆一の謂い方は、近代(当時の現代)絵画の流れを芥川龍之介の感性的変化過程に応用指示した表現としてすこぶる興味深いものである。私は概ね、小穴隆一の評価に賛同出来る。特に私の偏愛する「ルドン」を最後に持っていっているのには激しく共感出来る

「十二貫五百」四十六キロ八百七十五グラム。

「一貫五百」五キロ六百二十五グラム。

「彼が犯した唯一つの過失」言わずもがな、秀しげ子との不倫関係。但し、「唯一の過失」であるかどうかは私は疑問に思っている。それは秀しげ子ともそうだし、別の女性との情交の猜疑という意味ででも「疑問」だという謂いである。]

2017/02/05

小穴隆一「鯨のお詣り」(11) 「芥川龍之介全集のこと」

 

 芥川龍之介全集のこと

 

[やぶちゃん注:以下は、巻数から考えて昭和二(一九二七)年十一月から刊行が開始され、昭和四年二月に完了した、岩波書店刊「芥川龍之介全集」全八巻、所謂、第一次元版全集と岩波が呼称しているものと考えてよい。小穴隆一は本全集の装幀を担当した(本書の刊行(昭和十五年)までには、この後、昭和九年十月から翌年八月にかけて同じ岩波から発行された、通称で第二次普及版全集と呼ばれる十巻本がある(旧の私が電子テクストで依拠する正字体の岩波全集はこれが元である)。新書判の大きさの、通称、第三次新書版全集と称するそれは、戦後の昭和二九(一九五四)年の刊行である)。なお、これは「二つの繪」には所収していない。]

 

   裝幀について

 

        文字のこと

 

 箱、表紙、扉の文字は、尋常二年生芥川比呂志君の筆(ふで)です。

 改造社の「沙羅(さら)の花」の文字(もんじ)は僕の末(すゑ)の妹尚子(ひさこ)が尋常小学校二年生の時に書きました。尚子は度々、芥川さんの本の字を書きましたが、まだ、女學校の生徒とならないうちに病氣で死にました。

 私(わたし)は字が下手です。書家の字も困ります。

[やぶちゃん注:「書家の字も困ります」意味不明。或いは「書畫」の誤字ではあるまいか? 但し、教え子曰く、――書を生業とする、若しくは書を以て世に知られたる人の書いた字など、小穴の居心地を悪くする――の意ではないかと言う。それも小穴隆一ならここで突如、言いそうだ。附加しておく。

 

        表紙のこと

 

 布(ぬの)は武州靑梅で、手織(ており)でもつてつくらせました。染色(そめいろ)は――色氣(いろけ)は、澄江堂主人、又は私の好みですか? 私は阿蘭陀(オランダ)書房の「羅生門」を思ひ出しました。「羅生門」も亦同一の色氣でかざりととのへてゐるからです。私にあつても、全く偶然の初めと終りだと思ひます。

[やぶちゃん注:底本では「靑梅」には「あをめ」、「羅生門」には二箇所ともに「らじやうもん」と振ってあるが、読者の躓きを起すだけなので意図的に振らなかった。

「羅生門」大正六(一九一七)年五月二十三日発行の第一作品集は芥川龍之介自装である。全集と同じ濃い藍色は龍之介が特に好んだ色である。]

 

        綴ぢのこと

 

 綴ぢについては佐藤春夫さんの注意もあつて、もつと、明るく、愉快に表紙がひらく綴ぢがよかつたのですが、背を皮にするとか、なんとかならなければ、どうも綴ぢが脆くていけません。私も製本屋には考へたには考へたのです。

 

        用紙のこと

 

 紙は英國製コツトン。我鬼先生が厚ぼつたい紙を使つたは、一つは、作品の數がすこしであつたこと。一つは、短篇作家であつたことでせう。

[やぶちゃん注:この謂い方から、芥川龍之介は生前から作品集にこうした厚ぼったい紙を好んで用い、その理由がこれだと小穴隆一は推理しているということを示す。この小穴特有の意味深文脈からは芥川龍之介が生前に死後の全集は厚めの紙を指示していたとも読めなくはない。

「コツトン紙」コットン紙(cotton paper)。厚みのある書籍用紙の総称。初期は木綿の襤褸(ぼろ)を用いたが、現在は化学パルプを原料とする。軽く、柔らかくて弾力性があり、粗面に仕上げてある。]

 

        箔のこと

 

 たとへば、背の文字(もんじ)を黑るしでやれとか、また、文字(もんじ)が曲つてゐるとか、其他種々(いろいろ)の意見はありました。箔はわざわざ加賀の國で打たせたと岩波では言つてをります。

 從來、製本所で使用する箔(はく)のなかには、靑金(あをきん)いいのが無いといふ話を初めて聞かされました。

[やぶちゃん注:「靑金」は青みを帯びた金色を指し、物理的な色としては金色の中に銀色の含まれる割合が二十%を超えないと青金とは呼べない(因みに「赤金」という赤みを帯びた金色もあり、これは金色の中に銅色を二十五%から五十%程度含んだものを呼ぶ)。]

 

        箱のこと

 

 箱は著者在世中の本に比較して、綺麗でないといふ攻擊が、仲間の編纂擔當者からありました。私はこの全集に限つては、相當の室(しつ)、相當の書棚を考へてゐたので、箱をとりさつての本の並(ならび)を考へてゐました。ですから、それでもつてなんと言はれても頭が働きませんでした。

 

 全集物の裝幀について、芥川さんは、大體、アルス版の子規全集の好みに賛成してゐたのです。

[やぶちゃん注:「アルス版の子規全集」全十五巻。大正一五(一九二六)年から昭和三(一九二八)年。これ(ヤフオク画像)。当時は豪華製本とされたが、今見ると、地味で落ち着いている。]

 

    見返しの繪について

 

        第一卷

 

 第一卷の見返しには、大正十年に了中(れうちう)、これは芥川さんのこと、淸中(せいちう)、最中(さいちう)、圓中(ゑんちう)、これは私のこと、この四人で、布佐(ふさ)、取手(とりで)に一泊の遠足をやつた、その時の道々でこしらへた繪卷物のなかからとりました。一月三十日、一晩泊つて三十一日、我孫子(あびこ)から取手、布佐を一トまはりしたときに、奉書の卷紙二(ふた)まきに、まき納めた私共の樂書(らくがき)、そのなかからとりました。了中、芥川さんのは原寸でゆきました。

[やぶちゃん注:ここに書かれている一泊旅行は「二つの繪」の「河童の宿」及び私の注を参照されたい。私は元版全集を所持しないので、この絵を特定出来ない。識者の御教授を乞う。

「淸中」遠藤清兵衛古原草の別号。同絵巻の一つ「布施辯天」(絵巻巻頭の標題。「辯」はママ)では「靑中」と出るのも同一人物。

「最中」小澤碧童の別号。

「圓中」以下に続くように小穴隆一の別号。これらは芥川了中龍之介を含めた彼等四人の中での、うちうちの集まりの際に盛んに用いられた号であるようだ。]

 

        第二卷

 

 表のぶんは、私の游心帳からとりました。

 ――昔、久米さんが三丁目――本郷――にゐた頃、菊池さんが富坂にゐた頃、私が脱疽などに罹らない頃、さうして芥川龍之介が往來の一高の生徒の寮歌に合せて彼も亦、それを口ずさんだ日。私は年を記憶してゐない。

「僕は今日財布を忘れてきた。久米がゐるだらう、久米に御馳走にならう。」

 私はその言葉を覺えではゐるが、晩秋? 初冬? 何日(いつ)であつたか。遠野物語、爐邊叢書。さういふもので私達は河童をでつちあげてゐた。と書いてゆかれればよいのであるが億劫(おくこふ)になつてしまふので事務的に書くことにする。

 この見返しの畫は現物よりも心もち縮まつてをります。

 江知勝(えちかつ)で飯(めし)を食べてゐた時に、私の矢立(やたて)をとつて、芥川さんが、右手の河童を振りおとして馳けだす馬を畫いてみせました。また「ほう」とばかりに感心した久米さんは、左手の馬のをつぽに摑(つかま)つてゐる河童を畫いてみせました。もしも人あつて、落款をみてあやしとするならば? さうであれば甚だ愉快であるが、落款、三汀の字は芥川龍之介の筆(ふで)。芥川龍の三字は久米正雄の筆であります。

(游心帳は半紙二ツ折(をり)にして綴ぢた物。)

[やぶちゃん注:「二つの繪」の「河童の宿」参照。ここで説明されている絵もそこに掲げてある二枚である。但し、ここでは二枚の絵の描かれ方の順序が逆になっている

「私は年を記憶してゐない」この二枚の絵は、現行では大正一一(一九二二)年の作と比定されている。因みに、これと次のそれにインスパイアされた芥

「游心帳」元は小穴隆一の「半紙二ツ折にして綴ぢた」メモを含むスケッチ帳であったが、後には芥川龍之介や仲間連中の寄せ書き帳と化した。

「遠野物語」明治四三(一九一〇)年、岩手県遠野地方に伝わる伝承を同土淵村出身の民話蒐集家で小説家の佐々木喜善の話を柳田國男が纏める形で刊行された説話集。発行部数三五〇部(二〇〇部は柳田買い取りで諸家に寄贈)であるが、芥川龍之介も購入している。

「爐邊叢書」柳田國男肝煎の郷土研究社の民俗学叢書。

「江知勝」現在も文京区湯島二丁目で営業する、明治四(一八七一)年創業のすき焼き屋の老舗。]

 

        第三卷

 

 樹木。これは佐佐木茂索君の持物です。

 ――ふるい作です。普通の小形の色紙に畫(か)いてあります。

 圖は原寸でゆきました。

[やぶちゃん注:全集現物を確認していないが、佐佐木茂索蔵の「樹木圖」となると、この色紙のそれか。小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」(中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の昭和五三(一九七八)年再版本)のものを示す。

 

Jyumokuzu

 

違う場合は、お教え戴きたい。]

 

        第四卷

 

 水虎晩歸圖――畫(ゑ)の因緣に就いては、石黑定一氏の手紙があります。そのまゝ、こゝに拜借させて頂きます。

 以下――

 芥川氏が先年上海(シヤンハイ)に滯在の折の夕方、芥川氏と私(わたし)とは古本漁りの後(あと)で、四馬路(スマろ)の靑蓮閣へ登つて野鷄(ヤチー)を素見(ひやか)してから日本人街へ黃包車(ワンポツ)に乘つて引き返しました。芥川氏は夕食として、カフエ、トロキヤデロのビイフ、テイを飮まうといはれたのを、私が無理に引張つて乍浦路(チヤツポろ)の「月廼家(つきのや)」といふ料理屋に連れて行きました。そして鷄(とり)をつゝいて御飯を食ひ、御酒も少しばかり二人とも呑みました。

 その時、座敷へ來てゐた二人の藝者のうち、一人はたしか東京の者のやうに覺えてゐますが、芥川氏は非常に不愉快らしく、私は自分の我儘を通したことを、今でも濟まなく思てゐます。

 その中、どうして私の同行者が芥川氏であることを聞き出したのか、藝者が羽織を持ち出したり、絹地(きぬぢ)を持ち出したりして、是非、何か書いて呉れと、くどく賴み出すので、氏は非常に迷惑がられた。

「俺のいふことを聞けば書いてあげよう。」

 なんて狡猾(ずる)い顏付をして藝者の表情が、どういふ風に動くか、窺きこんだりして、なかなか書かれなかつた。それでも、その自分には、芥川氏の心持ちは、大分、輕く明るくなつてゐました。

 その中に、その料理屋の帳場で働いてゐるその時、二十六七になつた若い××君が、一階へ上つて來て、橫一尺二三寸、縱一尺位の粗惡な隅のはつきり切れてゐない絹地を持つて來て、私に是非、書いて貰ふやう賴んで呉れと懇請するので、私は同君が上海在住のサラリイメンの間に評判よく、金のない時には何時(いつ)も氣持ちよく借金を延ばしてくれる俠氣(けふき)のある男であることを芥川氏に語りましたら、芥川氏は喜んで「それぢや、書かう」と言つて、その××君に墨をすらせて書いてくれました。そして、芥川氏はその時、チヨツキのポケツトから靑銅の古ぼけた小さい印を引張り出して「これは、この間、城内の古道具屋で買つて來たんだ。」と私に説明した後(のち)、我鬼醉墨(がきすゐぼく)と書いたその下へ無雜作にその印を捺(お)されました。

 ところが、その印が逆さだつたので、一寸、しかし、輕く笑ひ驚いて「やあ、逆さになつてしまつた。いや、醉墨から、この方が却つて面白い。」といつて、側(そば)に禮儀正しく坐りこんでゐる××君に氣輕に渡しておやりでした。その男は勿論、疊に頭をすりつけんばかりに御禮をいつて引き退(さが)らうとするので、私が生意氣に「その繪は今に箆棒(べらぼう)な値が出るぜ」といつてやりますと「はあ、さうですか」と輕く返事をして飛び下りるやうにして、階段を降り、帳場へ行つて皆(みんな)のものに、自慢をしてゐ譚たやうでした。その晩、十二時近く芥川氏の泊つてゐられる萬歳館といふ旅館へお送りした時、同氏はかなり氣持がよかつたやうでした。――下略

 

 この繪は後に永見德太郎氏の所有に歸してゐます。

[やぶちゃん注:これは岩波の正しき旧芥川龍之介全集の表紙見返しの一部で使用されている絵で、これは実に芥川龍之介がこうした本格の河童を最初に描いたとされるものである。旧全集から複写しておく。

 

Suikobankizu

 

「石黑定一」(明治二九(一八九六)年~昭和六一(一九八六)年)は芥川龍之介が中国に特派員として旅した当時、三菱銀行上海支店に勤務しており、上海で知り合った人物である。彼については研究者の間でも驚くほど情報が少ないが、芥川の石黒への思いが半端なものでないことは、廬山からの五月二十二日附石黒定一宛書簡(旧全集書簡番号九〇二)でも明白である。

 

上海を去る憾む所なし唯君と相見がたきを憾むのみ

 

     留別

 

   夏山に虹立ち消ゆる別れかな

 

更に、芥川龍之介の「侏儒の言葉」には、実に彼に捧げられた次の有名な一節さえあるのである。

   *

 

       人生

        ――石黑定一君に――

 

 もし游泳を學ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思ふであらう。もし又ランニングを學ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不盡だと思はざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、かう云ふ莫迦げた命令を負はされてゐるのも同じことである。

 我我は母の胎内にゐた時、人生に處する道を學んだであらうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を學ばないものは滿足に泳げる理窟はない。同樣にランニングを學ばないものは大抵人後に落ちさうである。すると我我も創痍を負はずに人生の競技場を出られる筈はない。

 成程世人は云ふかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覺えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く水を飮んでおり、その又ランナアは一人殘らず競技場の土にまみれてゐる。見給へ、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに澁面を隱してゐるではないか?

 人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大會に似たものである。我我は人生と鬪ひながら、人生と鬪ふことを學ばねばならぬ。かう云ふゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと埒外に步み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思ふものは創痍を恐れずに鬪はなければならぬ。

 

       又

 

 人生は一箱のマツチに似てゐる。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危險である。

 

       又

 

 人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。

 

   *

後の二つは石黒に献呈されたものではないかも知れぬが、そうだとも言えぬ。しかも後の二つは「侏儒の言葉」の中では超弩級に有名な短章であるにも拘わらず、それが先の長い石黒への献辞を持つものの「又」でしかないことを知る方は少ないので敢えて長々と引かせて貰った。

「四馬路」「馬路」は北京語で「マールー」、上海語で「モル」、現代中国語で「道路」という意であるが、現在の上海人民公園は旧上海租界の競馬場であったため、この周辺の道は日々馬の調教のための散歩に使用された。そのためこの界隈の比較的大きな道を「馬路」と呼ばれるようになったとも言われる。「四」はこの競馬場の北に位側にある南京東路・九江路・漢口路・福州路の四本の通りが、当時は最北から順に「大馬路(タモル)」「二馬路(ニモル)」「三馬路(セモル)」「四馬路(スモル)」と上海語で呼ばれたことによるとする。現在、福州路は書店・文房具店・ギャラリーが立ち並ぶが、租界の頃は遊郭域であったらしい。因みに、「二馬路」の発音が「リャンモル」でなく「ニモル」なのは、上海語の古語では日本語と同じく「二」が「ニ」の発音であったからで、今でもたまに使われるそうである(以上は、個人サイト「私の上海遊歩人2」の「四馬路(スマル)って、なあに?」を参照にさせて頂いた)。

「靑蓮閣」現在の福州路(旧四馬路)にあった上海有数の茶館兼遊芸場。現在、外文書店。私娼の溜まり場であり、それを求める客も集まって大変繁盛した。

「野鷄(ヤチー)」「上海游記 十四 罪」に出る「野雉(イエチイ)」と同じい、街娼のこと。路をうろついて客をひくさまを野鷄=雉子(キジ)に喩えたもの。

「黃包車(ワンポツ)」“huáng bāo chē”。中国式人力車。黄色い覆いをかけたことから言う。人力車は明治初期の日本がルーツで、中国には一九一九年頃に入って、爆発的に流行した。一九四九年以降は中国共産党の指示によって廃止されている。

「トロキヤデロのビイフ」不詳。フランス租界にでもあったレストランか?(「トロキヤデロ」は“Place du Trocadero”でパリのセーヌ川右岸の丘の上に建つシャイヨー宮(Palais de Chaillot)の正面(東側)にある半円状広場(対岸にあるエッフェル塔を眺められる)であろうと思ったからである)。

「乍浦路(チヤツポろ)」バンドの西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「月廼家(つきのや)」不詳。ただ、倉橋幸彦の「『上海本』蒐録(3)」(PDF)のナンバー六十六の「長澤写真館」(長澤虎雄)の写真集「最近の上海 View of Shanghai」の目次の中に『六三園と月廼家花園』という名を見出せる。

「萬歳館といふ旅館」「上海游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の「二 第一瞥(上)」を参照されたい。教え子の解説(写真附き)で詳細な注を施してある。

「永見德太郎」(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎生まれで生地で倉庫業を営んでいた。俳句・小説を書く一方、大正八(一九一九)年五月に最初に芥川龍之介が長崎を訪れた際に宿所を提供して以来、親交を結んでいた。南蛮美術品の収集・研究家としても知られた。龍之介より二歳年上。]

 

        第五卷

 

 傘(からかさ)は、美濃(障子紙)を縱に畫(ゑが)いたものであります。ですから、版では、ずつと小さくなつております。

 この傘(からかさ)は名入りであります。さと子といふ女(ひと)は芥川さんの姪です。繪を所有してゐるのは、勿論、その里子女史です。

 世間の人が我鬼醉墨、漁樵問答(ぎよせうもんだふ)(水虎)、水虎晩歸之圖(すゐこばんきのづ)なるものを知つてしまつたとき

「君。なにか新手(あらて)はないかねえ。」

 我鬼窟の主(あるじ)は當時は――まだ我鬼窟――さういふ嘆きを致しました。

 そこで、私は銀閣寺には蕪村の傘(からかさ)があるし、また、初心の士(し)には蜻蛉(とんぼ)などがよからんと申しますと「それ、それ、それにかぎる。」といふ話になりました。

[やぶちゃん注:芥川龍之介はここに書かれたように、唐傘や唐傘お化けの絵を好んで描き、多く残しているが、「さと子」という名を入れたそれは見たことがない。

「さと子」芥川龍之介の実姉ヒサと最初の夫葛巻義定と間に出来た長女葛巻さと子。義敏の一つ違いの妹。

「我鬼醉墨」前章「第四卷」で語ったそれ。

「漁樵問答」既に掲げた、大正九年九月二十二日附小穴隆一書簡(葉書)に描かれた芥川龍之介の「水虎問荅図」(表記は芥川龍之介の表記で示した。この画像を参照のこと)のこと。

「水虎晩歸之圖」前章「第四卷」のそれでは先とダブるから、それ以降に芥川龍之介が好んで描いた別なそれ(同題でかなりの数を描いている)を指すと読まねばならぬ。]

 

        第六卷

 

 我鬼句抄、我鬼窟抄、似無愁抄(にむしうせう)、蕩々帖(とうとうてふ)、同、我鬼窟日錄(にちろく)、ひとまところ、などを見てそのなかから拾ひました。原物は半紙判(ばん)の罫紙(けいし)を綴ぢたもので、表紙が澁紙(しぶがみ)の、いくらも世間で賣つてゐる例の帳面、京都の旅に懷中してゐたものであらう物にあります。版(はん)は默つてゐれば氣づかれない位(くらゐ)――全體で一分(ぶ)程、實物よりは小さいのです。もつとも、張りまぜ風にして使つてゐる蜻蛉(とんぼ)のはうは、これは、まことに、とうすみのやうになつてをりますが、原物は、やんまの大きさでいつてをります。半切(はんせつ)で「野茨(のいばら)にからまる萩のさかりかな」の自畫自贊。浦和の松本秋(あき)三さんの持(もち)です。

 ところで、一力(りき)のお秋さんは如何(どう)いふ女(をんな)かといふと「お秋さんは奈良人形やうに肥(ふと)つた仲居なり」といふそのほかに何(なん)の報告もありませんでした。

 大正十一年の五月です。

[やぶちゃん注:「我鬼句抄、我鬼窟抄、似無愁抄、蕩々帖、同、我鬼窟日錄、ひとまところ」総て芥川龍之介の個人的な詩歌・創作メモ・スケッチなどを記した本格的なノート(手帳類とは別物なので注意)の芥川龍之介がつけた帖名。「蕩々帖、同」とあるのは、「蕩々帖」は同題で別な一冊があるからである。

「一分」百分の一。だから「默つてゐれば氣づかれない」というのであろう。

「張りまぜ風にして使つてゐる蜻蛉(とんぼ)のはう」「浦和の松本秋三さんの持」ちのそれは知らぬが、「小穴隆一遺墨」に堀辰雄の妻『堀多惠子氏藏』として載るものに、ごくごく近いもの(ご覧の通り、「野茨にからまるはきのさかり哉 龍之介」という同じ自畫自贊。小穴隆一はその解説でも、この絵を見た時、松本氏蔵のそれを見た時と、極めて近い感動をしたことを記している)であると思われる。同書より引いておく。

 

Noibaradonbo

 

「とうすみ」灯芯のこと。

「半切」全紙の半分、三十四・八×一三六・三センチメートル。

「一力(りき)のお秋さん」不詳。馴染みの茶屋の仲居か。]

 

        第七卷

 

 この卷(くわん)は私所持の北斗七星を使ひました。

 星が一つ飛んでしまつてゐて、六つしかありません。當時、私達は鵠にをりましたが(大正十五年)私の家(うち)で座の紙筆(しひつ)をとつて「君。これなんだか解かるか。」と芥川さんがさしだしたのは、易者の看板かと間違へる北斗七星でした。

「わかる。北斗七星。星が一つ足りない。」

「うむ。星は一つ飛んぢやつた。」

 このわびしい問答の後(のち)、更に畫(か)いて、さうして、そつと私の坐つてゐる蒲團の下に差込(さしこ)むだのが、この畫(ゑ)です。

[やぶちゃん注:「二つの繪」の冒頭に満を持しておかれた「二つの繪」を参照されたい。この絵である。]

 

第八卷

 

 原稿は畫帖であります。

 版は原寸とまでいつてをきます。

 これをみると私は行燈會(あんどんくわい)の時を思ひます。

 燭臺は芥川さんのところでみたものか、私が私の、おばあさんのところでみたものか、私の記憶はぼやけてゐます。

 たゞ、芥川さんが、らふそくの火(ほ)さきを、にじませて畫(か)くことを覺えて喜んだことだけは存じてをります。

 

        ×

 

 木版。彫師は久保井市太郎。六十餘歳の人。市太郎さんの親方、都築(つづき)德三郎さんの言葉を紹介すると、

「彫刻をたくさんたべました。」

 この彫りには隨分苦勞しました、の意。

[やぶちゃん注:前段に記された絵は恐らく、岩波の正しき旧芥川龍之介全集の表紙見返しの一部で使用されている絵と思われる。旧全集から複写しておく。

 

Usuwatatousin

 

灯台に添えられた句は、

 

  伯母の云ふ

 

うす綿は

  のはしかね

 たる霜夜哉

 

という芥川龍之介自信作の一句。この句に関わって龍之介は大正十三(一九二四)二月一日発行の雑誌『女性』に以下の文章を発表している(太字「はんねら」は底本では傍点「ヽ」)。

 

        霜夜

 

 霜夜の句を一つ。

 いつものやうに机に向かつてゐると、いつか十二時を打つ音がする。十二時には必ず寢ることにしてゐる。今夜もまづ本を閉ぢ、それからあした坐り次第、直に仕事にかかれるやうに机の上を片づける。片づけると云つても大したことはない。原稿用紙と入用の書物とを一まとめに重ねるばかりである。最後に火鉢の始末をする。はんねらの瓶に鐵瓶の湯をつぎ、その中へ火を一つづつ入れる。火は見る見る黑くなる。炭の鳴る音も盛んにする。水蒸氣ももやもやと立ち昇る。何か樂しい心もちがする。何か又はかない心もちもする。床は次の間にとつてある。次の間も書齋も二階である。寢る前には必ず下へおり、のびのびと一人小便をする。今夜もそつと二階を下りる。座敷の次の間に電燈がついてゐる。まだ誰か起きてゐるなと思ふ。誰が起きてゐるのかしらとも思ふ。その部屋の外を通りかかると、六十八になる伯母が一人、古い綿をのばしてゐる。かすかに光る絹の綿である。

 「伯母さん」と云ふ。「まだ起きてゐたのですか?」と云ふ。「ああ、今これだけしてしまはうと思つて。お前ももう寢るのだらう?」と云ふ。後架の電燈はどうしてもつかない。やむを得ず暗いまま小便をする。後架の窓の外には竹が生えてゐる。風のある晩は葉のすれる音がする。今夜は音も何もしない。ただ寒い夜に封じられてゐる。

 

     薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな

 

   *

「はんねら」とは南蛮焼の一種で、江戸時代に伝わった、無釉又は白釉のかかった土器。灰器としては、普通に用いられたようである。

 芥川龍之介が生前最後に言葉を交わしたのも、夜なべをしていた、この伯母フキであった。

「行燈會」既出既注。「河郎之舍の印」参照。

「私が私の、おばあさんのところでみたものか、私の記憶はぼやけてゐます」小穴隆一特有の夢幻的記述である。こういうのは困りもするが、また、面白くも、ある。

「久保井市太郎」久保井市太郎(くぼい いちたろう 生没年未詳)は木版彫師職人。「近代日本版画家名覧(1900-1945)」(PDF)によれば、明治三六(一九〇三)年頃、『三宅克己と多色摺木版による水彩画複製(水彩画の木版色摺)図版の試みを行ったのを手始めに』、一九〇五年には十月発行の『平旦』第二号に『「木版彫刻」として名が示されている。『版画 CLUB』でも彫師としての活動が判り』、昭和一七(一九四二) 年には『版元中島重太郎の青果堂から『新編大東亜戦史ノ内 昭南抄』(佐藤春夫作・大内青圃画)を出版』、翌年には『『小川芋銭子賦彩版画集』、建艦献金全作品集『大東亜の花嫁』等の版画の彫を行っている。(岩切)』とある。

「都築(つづき)德三郎」詳細事蹟は不詳だが、木版彫刻師として知られた人物のようである。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(10) 「Ⅳ」

 

 

 

        Ⅰ

 

 Gramme のことは知らない。

 骨あげで見た彼の腦味噌は、曾て彼が用意してゐた脱脂綿を燃やしたとしてみたほどの嵩(かさ)であつた。

(鼻口に埋(うづ)む脱脂綿、縊死)

 

        Ⅱ

 

 こはれた肋骨(ろくこつ)を掌(てのひら)に、舍利(しやり)こつぱい御坊(おんばう)は御坊の勘考(かんかう)をふりまはしてゐた。

 ――ずゐぶん水腫(みづばれ)のきてゐたひとですねえ?

 ――このきいろくなつてゐるところが藥(くすり)でかうなつたのです。

 ――ここがわるくなつてゐたところの骨(ほね)です。

 

        Ⅲ

 

 改造社が民衆夏季大學の講師として芥川を關西か九州のいづれかへ彼をのぞんでゐた。

 ――ああ、うるさいから電報で返事をしておいた。どうせ西の方だ、

 ――それまでに、おれはもうあの世にいつてゐるから。

 ――だから僕はただ、ユク、としておいたのだ、ユクとだけで場所は書かなかつたよ。

 

 これは芥川が死ぬ數日前に僕に答へた言葉である。彼の死は七月二十四日日曜日、夏季大學は八月。

 

        Ⅳ

 

 七月二十三日、芥川の伯母の考へでは午後十時半、芥川は伯母さんの枕もとにきた。

「――タバコヲトリニキタ、」

 

 七月二十四日、芥川の伯母の勘定では、午前一時か半頃(はんごろ)、芥川は復た伯母さんの枕もとにきた。さうして一枚の短册を渡して言つた。

「――ヲバサンコレヲアシタノアサ下島サンニワタシテ下サイ」

「――先生ガキタトキ僕ガマダネテヰルカモ知レナイガ、ネテヰタラ僕ヲオコサズニオイテソノマママダネテヰルカラト言ツテワタシテオイテ下サイ――」

 

 短册、句は、

     自 嘲

 水洟(みづばな)や鼻の先だけ暮れ殘る

 

 空谷(くうこく)下島先生は田端の醫者

 

        Ⅴ

 

 Ⅳ、一時半に伯母さんに「オヤスミ」を言つて、六時に奧さんが氣づいて、下島さんがとんできて、‥‥みんな駄目であつた。私には醫者の知識はない。しかし、私はなぜか、Ⅳ・四時の彼を感じる。

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」のの原型。考えて見れば、「Ⅲ」の芥川龍之介の言葉には鬼気迫るものがある。後の二つはダイレクトだが、最初の「どうせ西の方だ」は無論、事実としての講演先が西日本であることを表面上は言っているものの、実はそれは、西方浄土や、彼が自死寸前に完成させた遺稿西方人」をも直ちに連想させるからである。小穴隆一もそれを確信犯で狙っていると考えてよかろう。

「空谷下島先生は田端の醫者」の後に句点がないのはママ。脱字の可能性が高いが、ママとしておく。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(9) 「わたりがは」

 

 わたりがは

 

 昭和二年の改造八月號、日本周遊二十八頁の上の六行目、

   羽越線の汽車――改造社の宣傳班と別る。‥‥

   あはれ、あはれ、旅びとは、

   いつかはこころやすらはん。

   桓根を見れば「山吹や笠にさすべき枝のなり」

 彼の旅行記、東北・北海道・新潟は、改造社に入用(にふよう)なものであつたらうが、彼は、彼にとつては、既に大正十一年五月の作であるところの、あはれ、あはれ、旅びとは、を、さしはさんだ旅行記が一つここに必要であつたと思はれる。

 

 東北・北海道・新潟の講演旅行で一挺のぴすとるが彼の手にはいつてゐたのであらうか。「僕はこんどはいよいよぴすとるも手にいれた」

と言つてゐた。

 これが彼の言葉である。

 

「自分の死後どんなことがあつても發表はしてくれるな」と言つて、鵠沼で前年の冬、僕に預けたもののなかから、彼は三つ死ぬまでにひきだした。あはれ、あはれ、はその一つ。手帳八月號の風琴(ふうきん)がその一つ。それに「なぜ?」を、僕は二年一月三十日に渡してゐる。

 

 ――夕方、僕の宿で、僕の祖父の遺愛詠歌自在の詞(ことば)の栞(しをり)から、僕等は二人がかりで詞を拾つてゐた。

「あはれ、あはれ、旅びとのこころはいつかやすらはん――ねえ君、何か詞をさがしてくれなきやおまんまを喰べに出かけられないじやないか。はやく考へておくれよ。ねえ、はやく考へておまんまをたべにゆかうよ、君」

 

  わ  た    海 渡 綿

          海河ノマガリ入ル處

  わ  だ

          入江ノ水ノ淀

  わたどの    廊下

  わだち     輪立 車ノ輪

          三途ノ川

  わたりがは       トモイフ

          みつせ川

 

 わたりがは、――期せずして僕等は、僕等は、ああ? ! と言つた。わた、わだ、わたどの、わだち、ととび、わたりがはといふ詞に出會つた時に。

 

 今日(けふ)のうちといふ今日のうち、その夕方に、

  あはれ、あはれ、旅びとの

  こころはいつかやすらはん

 が、

  あはれ、あはれ、旅びとは

  いつかはこころやすらはん

と、きまつて、改造社はその翌日に、東北・北海道・新潟の原稿を持つていつた筈である。旅行記の日附(昭和二、六、二十一)を僕のメモランダムとすれば、その前日に二人は、わたりがはゆきといふことばを造つてゐた。

 

 わたりがはをみつせ川(がは)と言ひかへることには、彼は不賛成であつた。

 「みつせ川ゆきか」といつて、二三度「わたりがはだよ、君。」と言はれた。

 

 僕は僕の一生に於いて、ああもうつくしい顏をみることはできない。

「君、僕はわたりがはといふ詞を知らなかつた。こんないい言葉があることはいままで知らなかつた。僕は知らなかつたよ。」

 うつとりとなつて斯う彼は言つてゐた。

 

[やぶちゃん注:「二つの繪」のわたりがは」の原型。二箇所の太字「ぴすとる」は底本では傍点「ヽ」。「出かけられないじやないか」の「じ」はママ(「二つの繪〉では訂されてある)。「わだ」「わたりがは」の下の部分の二行は底本では直下にポイント落ちで二行で並ぶ。「(昭和二、六、二十一)」は底本ではポイント落ち。

「風琴(ふうきん)」は正しくは「オルガン」と読むのが正しいと私は考えている。「二つの繪」の「わたりがは」の私の注を参照されたい。

『「みつせ川ゆきか」といつて、二三度「わたりがはだよ、君。」と言はれた』。「二つの繪」では最初の「みつせ川ゆきか」の台詞は小穴隆一が言ったことになっており、大きくシチュエーションが異なる。「二つの繪」の方が事実なのかも知れぬが、映像として私は、こちらの方が遙かに、よい。序でに言えば、最終章も私はこちらの映像的処理の方が良いと思う。「二つの繪」は説明的散文的で、老人にありがちな追想めいたものに色褪せてしまっているからである。

小穴隆一「鯨のお詣り」(8) 「龍之介先生」

 

 龍之介先生

 

 龍之介先生の顏――岡本一平の子供が書いた似顏は、首相加藤友三郎とちやんぽんだ。

 

 小説の事はいはずもがな、支那で六圓に買つてきた古着を、坪(つぼ)何兩いふ品と泉鏡花に思込ませた人だ。

 

 不思議によく猿股を裏がへしに着けてゐる。

 

 顏を寫す時、西洋の文人、自分の一家一族の人の寫眞に至るまでどつさりみせて、やつぱり立派に畫(か)いて呉れと言つた。

 

 常常、君、女子(ぢよし)と小人(せうじん)はなるたけ遠ざける方がいいよ、と言つてゐる。

 又、僕(ぼ)かあ、君、いつなんどきどういふ羽目で妻子を捨てないともかぎらないが、やつぱり仕舞にやしつぽを卷いて、すごすごおれが惡るかつたから勘辨して呉れつて女房のところに、しつぽをふつて歸つてくるなあ、と高言してゐる。

 

 私(わたし)の知らないうちに、橫山大觀に自分の弟子になれと口説(くど)かれてゐた。

 

 君、僕(ぼ)かあ十六歳の頃まで燐寸(マツチ)をする事が出來なかつたものだから、僕の方の中學は三年から發火演習があつて鐡砲を擔(かつ)がせるんだぜ、(その時は弱つたらうな。)否(いや)、僕(ぼ)かあ何時(いつ)も小隊長だつたから洋刀(サーベル)を持つてゐたんだが、大體僕(ぼく)は利口だからそれとなく何時も部下に火をつけさせてゐたんだよ。

 

 右足(うそく)脱疽で私が二度目に踝(くびす)から切られる時の立會人――骨を挽切(ひきき)る音の綺麗さや、たくさんの血管を抑(おさ)へた氷(つらら)の樣に垂れたピンセツトが一つ落ちて音をたてた事や、その血管が内に這入(はい)つて如何(どう)なつたか心配だつた事や、みんな話してくれた人だ。

 

[やぶちゃん注:昭和三一(一九五六)年中央公論社刊(新書判)「二つの繪」の「龍之介先生」の原型。異同は総ルビであること(「二つの繪」は本章だけでなく全篇通じて殆んどルビがない)以外は、以下の四箇所((鯨)=本篇・(二)=「二つの繪」・「【×】」(存在しない))。

《第一章》(鯨)「岡本一平の子供が書いた似顏」→(二)「岡本一平が書いた似顏」《誤記訂正。後注参照》

《第二章》(鯨)【×】→(二)末尾の句点の後に「(坪トハ錦繡、古渡リ更紗ナドニ、一尺四方、又ハ一寸四方ナルヲイフ)」《語注風の追記》

《第六章》(鯨)「私の知らないうちに」→(二)「知らないうちに」《「私の」を附加》

《第七章》(鯨)「(その時は弱つたらうな。)」→(二)「(その時は弱つたらうな、)」《句点を読点に変更》

なお、最初なので示したが、以後では、この全体の異同表は示さない(改変によって内容面での大きな違いが生じているものについては、各個注で示す)。リンク先の私の電子テクストと対照されたい。

 また、今回、この総ルビに近い本書を読んで気づいたことであるが、芥川龍之介は親しい間柄では「僕は」を「ぼかあ」と発音していた可能性がすこぶる高いということを知ることが出来ると思う。

「岡本一平の子供が書いた似顏」これでは岡本太郎としか読めないが、父岡本一平の誤り。本書が刊行された昭和一五(一九四〇)年と同時期、パリで既に画家として活躍していた岡本太郎は二十九歳であったが、ドイツのパリ侵攻を受けて日本へ帰国、滞欧中に描いた「傷ましき腕」などを二科展に出品して受賞、個展も開いて飛ぶ鳥を落とす勢いであったから、小穴隆一、筆が辷ったものであろう。芥川龍之介自死の昭和二(一九二七)年当時でも岡本太郎は未だ十六歳で、慶應義塾普通部の生徒であった。大正一二(一九二三)年八月の鎌倉の平野屋での避暑の際、岡本一平・かの子夫妻と一緒になっているから、この時、太郎とは逢っているはずであるが(繪」の「鎌倉」を見よ)、その時は十二歳であった(慶應義塾幼稚舎在学中。但し、不登校で、殆んど通学していない)。ここで追加注しておくと、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の独立項「岡本かの子」(一平の独立項はない)のコラム「岡本一平」によれば、かの子は大正六(一九一七)年から面識があり(但し、当時は一平の妻或いは歌人としてである)、大正九(一九二〇)年の初頭に『自作の閲読を芥川に乞うたが、芥川からは返事がなかった。当時』、『新聞や雑誌に漫文・漫画を書きまくっていた一平が、芥川のプライヴァシイ(性病に犯されたこと)』(事実、芥川龍之介が淋病に罹患していた可能性は高い。大正八(一九一九)年八月に金沢八景に遊んだ折り、田中病院に風邪のためと称して入院しているが、これは実際には少なくとも、性病を検査するための入院であったことが判っている。小穴隆一も「二つの繪」の「手帖にあつたメモ」で、『芥川の死後、下島空谷は芥川が淋病をもつてゐたことを人に言つてゐる』とある)『を文壇風刺画で書きたてたことにより、芥川の不興と警戒心を買ったためという。かの子は落胆し、閲読を乞うことは諦めた』と記す。かの子の代表作で事実上の小説家デビュー作で、まさに平野屋での芥川龍之介をモデルとした「鶴は病みき」(昭和一一(一九三六)年信正社刊)の中にも、『先年主人が戲畫に描いて氏を不愉快にしたのも』『文學世界の記者川田氏が材料を持つて來たのであるが、その後も氏が支那旅行から持ち越した病氣が氏をなやませ續けてゐる噂もまんざら噓では無いらしい』と記している。]

 

2017/02/04

小穴隆一「鯨のお詣り」(7) 「舞妓はん」

 

 舞妓はん

 

 舞妓はんといつたものは、あゝいつた里(さと)の子供達のあこがれのものであり、また舞妓はん達自身も、お稽古場の退屈しのぎに、ちびて、ぼんぼんさんになつた筆の毛を上手にそろへて、ほそい線で、舞妓はんのだらりの帶をみせたその後姿を、よく畫(か)くものであるといふ。以前には、お稽古場に筆と墨が、舞妓はん達の退屈しのぎに揃へてあたものであると、舞妓はんはやめて、女學校にはいつてしまつたひとが、今日(けふ)立寄つて教へていつてくれた。繪のもでるになつてくれたひとは、ふくわげに結つた衿(えり)かへ前の十七歳の舞妓はんで、私は林檎、梨、栗、玉蜀黍(たうもろこし)などのついた着物が、めづらしかつた。もつとも私にはなんにでも感心するといつた癖があつて、よくひとに笑はれてゐる。

[やぶちゃん注:太字「もでる」は底本では傍点「ヽ」。

「ふくわげ」「吹く髷」で、輪をふっくらとさせたもの。江戸後期から侍女などが結い、明治中頃には京都で流行した。

「衿かへ」「襟替え」。舞妓が晴れて芸妓(げいこ)になることを指す。芸妓としてのお披露目の際、着物の襟を、これまでの赤襟から白襟に変えることに由来する。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(6) 「山鉾のおもちや」

 

 山鉾のおもちや

 

「今度の七月には又祇園さんのお祭りがありますさかいお出でやしとくれやす。」

 京都年中行事曆(こよみ)のところを見てゐると、七月十七日、祇園山鉾(やまぼん)順行神輿渡御と記してある。

[やぶちゃん注:「やまぼん」はママ。誤植とも思えるが、暫くママとする。]

 先頃の歸りしなには、女へ土産に宿のおかみさんから向うのおもちやを貰つた。念のはいつたことに、この貰つたおもちやのなかには祇園山鉾(やまぼこ)といふのがあるのだ。このおもちやがまた考へさせる。「奧さんと御一緒におこしやす。」はどうでもよいとして、この山車(だし)か御輿(みこし)か分らぬ物の屋根につきぬけて立つ樹(き)は、杉か松かと畫室の隅に据ゑつけた食堂の卓子(テーブル)の上に置いては眺めてゐる。私は松とも思ふ。杉とも思ふ。松と見るのは繪畫によつて養はれてゐる概念らしい。杉と見るのは叡山に登つて出來た感じらしい。

「今度の七月には又祇園さんのお祭りがありますさかい來とくれやす。」

[やぶちゃん注:「祇園祭」公式サイトのこちらを見る限り、この「太子山」を除いては松、「太子山」のみが檜とある。私は祇園祭自体を見たことが、ない。]

 

「どうも松は雨氣(あまけ)を嫌ふとみえるなう。」

 昔のこと、雨の日に、煙管(きせる)の吸口を頰にきつくあてがひながら祖父はつぶやいてゐた。祖父は八十八歳でその一生を終つたが、眞夏でも腰板(こしいた)のついた袴(はかま)をつけ手甲(てかふ)菅笠できちんと支度をして、庭の草むしりに餘念のない人であつた。松の木が雨氣(あまけ)を受けてその葉をすぼめる可愛(かはい)らしさを、私が知つたのはこの祖父のおかげである。

 

「どうも松は餘程水が好きだとみえるわい。」

 昔のこと、晴れた日に、茶を汲みながら伯父はつぶやいてゐた。伯父は七十何歳かでその一生を終つた。伯父は七十何歳かでその一生を終つたが、癇癖(かんぺき)が強くて物事に成功せず不遇な人であつた。松の木が池の水に、川の水に、根から枝をさしかけてゐるその姿をおぼえたのはこの伯父のおかげである。

[やぶちゃん注:「伯父は七十何歳かでその一生を終つた。伯父は七十何歳かでその一生を終つたが」衍文のようにも思われるが、小穴隆一はこうした繰り返しをよくするので、暫くママとする。]

 

「祇園さんのお祭りにはたんとごツそしてまつてまツせ。」

 此間(このあひだ)の歸る路(みち)汽車で元活動女優であつた人と私は一緒になつた。京都からはどの位離れたところか、「旅」「アサヒグラフ」にも一トとほり目を通してしまつてゐた時に、目の前の扉(ドア)が開(あ)いて「ここは空いてをりまして?」といふその人を見たが、その人は會釋をすると箱の隅に席をとつてゐた私と向ひあつて腰をおろしてしまつたのである。私は改めてそのハンド・バツク一つ、新靑年一册、驛の立賣(たちうり)が賣つてゐる網にはいつた蜜柑を持つたきりの女を見た。女は京都驛で、ホームまで私を送つてきた宿の母娘(おやこ)に見付(みつけ)られ、次の箱に乘りこんだのに、母親のはうに、窓際(まどぎは)につかれ、發車近くまで何か話しかけられてゐたその人であつたからである。

「失禮ですがあなたはさつき宿のおかみさんと話をしていらした方でせう。」

「ええ。」

「お繪はお出來になりまして?」

 お繪はお出來になりましてで兵隊刈りの私は一寸困つてしまつた。何んでもないことであるが、元活動女優で何々だと宿の娘が私に告げたやうに、女優さんには畫家の何々であると母親のはうも教へてゐるとわかつては、此頃は耳も少々遠くなり汽車の窓際で聞きとれなかつたからと、改めてその名を當人に尋ねる活潑さを失つたのである。

 私はそこで無口でゐるのが利口と考へてゐた。

 女優さんは蜜柑をよく食べた。さうして時々パイプで煙草を吸つて煙草を吸つてゐた。この人に私は蜜柑を二つ貰つたが、女が男の席の雜誌の上に、網のなかに一つ殘つた蜜柑をのせておいた。これが男卽ち私を苦しめた。私は靜岡のあたりでその殘つた蜜柑の始末に弱りだしたのである。然し、弱りだしても私は片方(かたはう)また、女卽ち女優さんが同樣に蜜柑一つに苦しんでゐる、その神經をも認めてゐた。蜜柑は取りのけて雜誌を持つて降りやうか、蜜柑を貰つてポケットにいれ、雜誌は小脇にしてホームへ降りるべきであらうか、それとも食べてしまはうか。私の考へ方は遲く、汽車は速いから、何時(いつ)か熱海も過ぎてしまつてゐて、食べるには頃を失つてゐた。そこでまた女優さんのはうを見ると、やはり東京驛が迫るにつれて、隨分人を苦しめた蜜柑に對する考へはさしつまつてきてゐる樣子であつた。すると、私の心は突然に急囘轉で、女と蜜柑の結果を興味あることにした。――然しである。私達の汽車が濱松町にさしかかると、女優さんはみがかれた形のよい指さきで蜜柑を雜誌の上からころがして、眞劍(しんけん)と笑ひ、安心をした惡戲ツ子のやうに笑ひをしてみせた。さうして笑ひながら挨拶をすますと、身を飜して扉(ドア)の向うの以前の箱のはうに姿を移してしまつた。

 蜜柑の始末がついて晴々と愉快に私は家に歸れたのである。

「祇園さんのお祭りにはたんとごつそしてまつてまツせ。」

[やぶちゃん注:これは事実であろうが、明らかに、芥川龍之介の「蜜柑」の(リンク先は私の古い電子テクスト)、あまり面白くないインスパイアだ。ただ、この「元活動女優」……さても……誰なのか……強く――知りたい…………]

 

 うちいまねてましとすか。廊下までどないして行(い)つたどつしやろ、あて、いつのまにどないして廊下まで行つたんやろ――

 日ざかりの祇園の廓(くるわ)、廓のなかの茶屋、廊下廊下の部屋のどこかには仲居頭(なかゐがしら)もながながとして眠りをむさぼる。私は廣間に陣取つて舞妓はんを待つ、さうして寫す。それは去年のことであつた。

[やぶちゃん注:京都弁の台詞が出来損ないの夢幻能のそれのように――響く――それが――この〈出来損ない〉だが、いい部分だ…………]

小穴隆一「鯨のお詣り」(5) 「桃源」

 

 桃源

 

Tougen

 

[やぶちゃん注:本章は内容的に今は失われた花魁の太夫の礼式について記されており、非常に興味深いが、到底、私の手に負える内容ではないので、例外的に文字注以外は附さないこととした。言っておくが、私は京に疎く、ここに出る人名や屋号なども知らぬ。だから軽々に注は附さないということである。しかし、この分野の専門の方には貴重な記録であろう。その方が、満を持して注を附して下さるのを気長に俟つものである。なお、頭の唄はブラウザの不具合を考えて改行した。【2018年5月9日追記】ここで小穴を案内する「下鴨の幻華堂」(「幻華堂夫妻」とも出る)という人物は私自身、全く不明であったのであるが、本日、近代文学の研究者の方から、これは作家山田一夫であるという御指摘を戴いた。ネットで検索してみると、二〇一八年四月書肆盛林堂刊の「初稿 配偶――山田一夫モダニズム小説集 弐――」(片倉直弥編) の「第三部 エッセイ・短歌 他」の中に「幻華堂漫記」「幻華堂日記抄」という目次が見え、また、「ですぺら掲示板」の一考氏の「夢を孕む女 荷風と山田一夫 」という記事の中に、山田の作品集として昭和六(一九三一)年白水社刊の「夢を孕む女」、昭和一〇(一九三五)年岡倉書房刊の「配偶」が挙げられ、その装幀について、『『配偶』もまた前作品集』(「夢を孕む女」のこと)『と同じく一夫をして「華麗な底に渋味のある装幀」と言わしめた小穴隆一の手になる美しい木版画で飾られて』いる、とあるのを確認出来た(同記事には山田一夫の「夢を孕む女」の梗概が載り、その小説の中には「幻華荘」という邸宅が出ることも記されてある)。「はてなキーワード」の「山田一夫」によれば、明治二七(一八九四)年生まれで昭和四八(一九七三)年没の小説家・画家で、『京都の繊維問屋に生まれる。本名・孝三郎。同志社大学英文科卒』。大正五(一九一六)年に生家を相続』し、翌年に『ヨーロッパに留学』、『本業のかたわら』、『幻想的な小説を描き、また本名で絵や文学研究を行った』とある。御教授下さった方に心から御礼申し上げる。

 

  花の島原太夫(しまはらたいふ)さんの

  道中藝妓(げいしや)仲居が出て招くか

  やかやかやかやえらかやじや蛙(かはづ)

  の聲と蚊の聲と寢られぬ廓(さと)の名

  所かと太夫さんに聞いたらさうざますか

  いかいかいかいえらか――じや

 

 この唄は、備前擂鉢(すりばち)落すとわれるの替唄だといはれてゐます。御維新頃のものか、ともかく古い唄であるさうです。本の唄は、

 備前捨鉢や落してもわれぬ津山(つやま)おかめ女郎衆(しう)は出て招くかやかやかやかやえらかやじや大黑柱が産(さん)すれば惠比須柱(ゑびすばしら)が腰を抱く出來たるその子が床柱かやかやかやかやえらかやじや。

 であると聞きました。但し、このつやま、津山といふ字であるか如何(どう)かそこまでは知らぬと、鴨東(あふとう)の繩手新橋鹽野(しほの)のおかみさんも申します。大和建樹(おほわだたけき)が編者(へんしや)である日本歌謠類聚(につぽんかえうるゐしう)をみれば、薩摩國の盆踊唄のなかに、

  洲山(すやま)おかめ女(ぢよ)はす山(やま)の狐尾(おを)振り尻振り人を振る

といふのがあります。つ山す山はかやかやとして、私(わたし)京育ちではありませんが、幼年時代に、びぜんすりばちおとすとわれる。かねのすりばちおとしてもわれぬ。と唄つて遊んだ記憶を持ちます。びぜんすりばちおとすとわれるゴロゴロゴロゴロドツシンといつて興(きよう)としてだうけた遊びでした。

[やぶちゃん注:太字「つやま」は底本では傍点「ヽ」。本章以降は「私」は読みを振らない総て、「わたし」と読んでいる。今までと異なるので、ここで注しておく。

 京都の島原は蚊の名所だといひます。私は知りませんが、少(すくな)くも廓(さと)のめぐりが田圃であつた昔はさもあらうと思はれます。

 太夫は大名道具といふ言葉があります。私はこの言葉が含む内容を存じませんが、ゆくりなく角屋(すみや)の階上之(の)部、緞子(どんす)の間(ま)に於いて天井に一つ、一種の金具をみましたときに、これは大名がお泊りになつた時にその夜具を釣つたものだと、仲居に説明をして貰ひました。この仲居はんは、三十五年も角屋に働いてをるのださうです。病人でもない者が夜具を釣つてゐたとすれな、それは隨分重々しい夜具であつたことを想像します。太夫は大名道具、その當時は大名、豪客(がうきやく)でなければ手にあはぬ、江戸の吉原でいへばいりやまがたにふたつぼしのやうなもの、――であつたのどつしやろかといふ話です。

 ――一寸(ちよつと)話を逃げるやうでありますが、昨年の夏に、私は下鴨の幻華堂(げんくわだう)に誘はれて、

  ○舞妓

  ○島原}

  ○祇園}

  ○郷土風俗物賣女(きやうどふうぞくものうりをんな)

      八瀨大原

      白 川(白川女(しらかはをんな))

      加 茂(の女)

      畑(はた)の姥(うば)、梅ケ畑(はた)

[やぶちゃん注:二つの「}」は底本では二行に跨る大きな一つの括弧である。]

 

  ○石山

    太秦(うづまさ)の贋隆寺(くわうりうじ)

     (天平時代の作不空羂索(ふくうけんじやく)觀音の像)

    西芳寺の林泉(りんせん)

    愛宕(あたご)の下の淸瀧(きよたき)

    龍安寺(りようあんじ)(相阿彌(そうあみ)の石庭)

  ○鷹ケ峰(光悦寺)

 

 欲張つてこれだけを見學させてくれと賴んだのです。幻華堂は、舞妓(まいこ)、島原、祇園の華街風俗、つまり人物のはうは充分に引受けてくれましが、風景のはうをお留守にしてしまひました。其後(そのご)私は、今年の四月京都に行き、西芳寺(苔寺)を消し、更にこの七月は二十三もちがふ末の弟を連れてまた廣隆寺、龍安寺、を消してをります。

 さて、隱詞(かくしことば)でタウゲン、昔からさういはれてゐるといふ島原、タウゲンとは武陵桃源のことでせう。太夫は大名道具ですか、原浩(はらひろし)及び圖師(づし)嘉彦兩工学士の「江戸時代傾城町と角屋の實測〕、角屋の〔波娜婀※女(はなあやめ)〕、岸田日出刀(ひでと)氏の〔島原の角屋〕、あとは繪葉書ブロマイドの類(たぐひ)を蒐集すればなかなかの學者となれるものを、松下英麿君は、ゑかきとしての印象記でもよろしい。何でもよろしい書け。といふ。うらめしいのは龍安寺廣隆寺であります。

[やぶちゃん注:「※」=「女」+「耶」。以下、読み難さを配慮し、漢詩の前後を一行空けとし、ルビは附さずに、その後に( )でそのルビに従った訓読文を附した(但し、個人的には従えない箇所が多い)。字空けは私の趣味で空けた。]

 

  誰家玉笛暗飛聲 散人春風滿洛城

  此夜曲中折楊柳 何人不起故園情

 

 (誰(た)が家(いへい)玉笛か 暗(やみ)に飛ぶ聲

  人(ひと) 散(さん)じ 春風(しゆんぷう) 洛城に滿つ

  此の夜 曲中に楊柳(やうりう)を折る

  何人(なんびと)か 故園(こゑん)の情を起こさざらむ

 

 これは大雅堂の額の文字です。

 

Oanasatuei_sumiyanakai

 

 ただいまでも、風來の客(きやく)はあげぬ。また散財はさせても藝人を太夫の客にはさせぬといふ角屋、客が藝人であるかないかを見破るのが藝妓の役と聞きます。岸田氏の文字を借用すると、「日本揚屋(につぽんあげや)建築として現存する本邦最古の遺構である。」角屋に幻華堂夫妻に伴はれたのは前に述べた昨年のことです。幻華堂は「かしの式(しき)」を見物させてくれたのです。角屋にあがつた人は、「枕一つをたのしみに。」の客であるとなしとは別にまた、一度はその部屋部屋を、こどもつさんの案内で見物するやうであります。こどもつさん、コドモシサンのこと、おちよぼをこどもつさんと呼ぶのは島原では角屋だけだと聞いてをります。机(つくゑ)龍之介が酒を酌(く)んでゐたのは、あれは翠簾(みす)の間(ま)でありませう。檜垣の間(天井)荒木檜垣組み、(障子)同斷、(襖(ふすま))蕪村筆夕立山水(小襖(こぶすま))長谷川等雲筆唐子遊びの畫(ゑ)、(額(がく))大雅堂書。私はここでこどもつさんに充分に手を伸ばして貰つて、その手の懷中電燈のあかりを明るくしてゐて貰ひました。私は書の眞僞を鑑別してゐたのではありません。私には大雅堂の物の眞贋の區別が出來ませうか。ただ誰家玉笛(たがいへのぎよくてき)と、大雅堂の書だといふ話に愉快を覺えて書寫しておいたのが御覽の如き詩なのです。

[やぶちゃん注:詩の前後を一行空けた。]

 

  アル人(ヒト)男女(ダンヂヨ)ノ交リヲ問フ。

  答へテ曰ク、男女ハ交ハルモノナリ。

 

 大雅はアル人ではありません。答へテ曰クの禪師でもありません。それでありますから誰家玉(たがいへのぎよく)、笛暗飛(てきかやみにとぶ)、と三字づつにわつて行儀よくおだやかに丁寧に書いて渡したのだと思ひます。

[やぶちゃん注:以下の唄はブラウザの不具合を考えて改行した。前後を一行空けた。]

 

  京の島原七つの不思議、這入口(はいり

  ぐち)をば出口といひ、どうもないのに

  道筋(だうすぢ)と、下(しも)へ行く

  のを上(かみ)の町(まち)、上へ行くの

  を下の町、橋もないのに端(はし)女郎、

  社(やしろ)もないのに天神樣、語りも

  せぬに太夫さん。

 

 この唄も、花の島原太夫さんの道中、と同樣に、今は滅多に人の口の端(は)にものぼるものではなからうと思はれます。

 島原の賑ひは、してまた角屋の壯觀は、新撰組か如何(どう)かは知れませんが、ともかく明治維新頃(ごろ)の豪傑が、その刀痕(たうこん)を柱にしるしてゐた時が終りでせう。少くとも、明治三十八年の四月、角屋で波娜婀※女(はなあやめ)(非賣品)の初版を發行した時あたりは、もはや末と申されぬのでありませうか、用もないことで別段聞きもしませんでした。

[やぶちゃん注:「※」=「女」+「耶」。]

「きつうよふといやすおきやくさんやらおいでやすとこつちやもふるいよわいもんどすさかいむりおへんしなあ、」

「おざしきのおさうぢがなかなかむつかつしをすなあ、」

「ふすまやらはらふのやつたら毛(け)のさいはらひではらへと御主人がおいやすのどつせ、」

「表具(へうぐ)やはんに月一ぺんみにきとくなはれとたのんどるのどすけれどなかなかきてくれはらしまへん、」

 これが今日(こんにち)です。

「こつちやもふるいよわいもんどすさかい、」これが私の見た今日の角屋です。まことに、(日新(につしん)又日新)であります。各部屋部屋(へやべや)の岸駒(がんく)、峨山(がざん)、應擧、春甫(しゆんぽ)、蕪村の襖はみんな煤けきつた物であり、敗れ損じてをり、さうしてまたぼろぼろです。「襖から壁天井に至るまで角屋の部屋はみんな黑々と光つてゐる。」と岸田氏は書いてをります。しかし、如何(どう)も繪よりも建物の方は岩乘(がんじよう)です。天明以前のものだといふのですが。

 

Oana_kuriyaguti

 

 珍しくもちやんと私のカメラに善く出合つた角屋の臺所口(だいどころぐち)の寫眞を、一枚ここに挿しいれておきます。臺所口はいへ見事なるものです。他は推して知るべしでせう。

 世の中にはいろいろの學問があるものと思ひました。たとへば、緞子の間の疊は、自體京間)きやうま)の疊は大きいのですが、それよりもまたすこしたてがながいと、疊の方(はう)の人がいうてたといひます。緞子の間は二十何疊でせうか、(床(とこ))唐木(からき)一色(しき)、天井天竺織(てんぢくおり)、化粧棚地板(けしやうだなぢいた)龜甲形(きつかふがた)彫りつけ。とあるこの地板が二間(けん)の一枚板です。疊のたけがながい位(ぐらゐ)ですから二間は二間半の感じがあります。

 

 古來の風習して揚屋には自(みづか)らを藝娼妓(げいしやうぎ)を抱ゆることなし、藝娼妓を抱ゆるものを別に小方業(おきや)と稱す。と波娜婀※女(はなあやめ)にもあるやうに、こつたいが角屋にごろごろとしてゐるといふわけのものではありません。廓(くるは)の中では太夫のことをこつたいと呼びます。昔の面影、それはどこか田舎の街道筋の古道具屋の店のなかか、どこぞのぼろぼろのなかからでも拾つた、やまと錦繪(にしきゑ)のやうなものでせうか。日新又日新すべては破れ損じてをります。客もまたタイル張りです。起握天下權(おきてはにぎるてんかのけん)ではありません。仰(あふ)げ大空(おほぞら)綠(みどり)をふんででありませう。取殘(とりのこ)されたぼろぼろのなか、私はただそこに、昔の繪師の微塵も搖るがぬ執着とその再現力に感じいつてゐた次第です。西洋の學問、人體(じんたい)及び遠近法を知らなかつ昔の繪師の眞(しん)迫眞の一手はおそろしいものです。

[やぶちゃん注:「※」=「女」+「耶」。]

 太夫の體は、でつ尻(しり)鳩胸(はとむね)に仕立てあげるとか、京都在住の日本畫家が、言つてをりました。通常の人では勿論、藝妓でも、太夫の衣裳を着けてその姿の味をだすといふことは一寸むづかしいわけです。

 太夫は十二名しかゐぬやうです。つまらぬことを申上げます。昨年の京都日日新聞の記事によると、江戸の吉原、兵庫の福原とともに昔から世に傾城三原街(げんがい)として區切られた一劃(くわく)、京島原の登錄娼妓總數が六百一名だといひます。

「面白の花の都や。」扇の間、この部屋に出る道具は、火鉢、烟草盆、燭臺等(など)に至るまで扇形になつてゐると、廓(くるわ)の老妓しげが語つてゐました。靑貝(あをがひ)の間は總建具殘らず靑貝です。「かし」「かしの式」? 一寸差(さしゑ)を御覽下さい。右の方の人物は見物客で幻華堂夫妻とお思ひ下さい。

 

Sakadukinogi

 

 ――客は正面の席に坐す。末社は左右に列す。さて赤前垂(あかまへだれ)の仲居の心利(こころき)きたるもの一人盃臺さかづきだい)に盃をのせ、座敷の入口より一二間あなたに控へゐる。又その向うに一人硯と紙を持ち控へゐる。是は太夫天神の名を記すなり。さて太夫にても天神にても障子の外に彳(たゝず)む時、この禿(かむろ)さんかへと妓の名を呼ぶ。その時仲居かしておくれといふ。いづれも一調子高し。時に太夫しとしとと立出でて、盃臺の前に立ち=臺に突當る程なり=裲襠(うちかけ)の中程を右の方(はう)帶の結び目の下へかいこみ据(すわ)りながら左の裾を折りて左の方へ一尺ばかり寄りて斜(なゝめ)に据(すわ)る此時仲居彼(か)の盃を太夫の前にツと押しつけ何屋(なにや)の誰(たれ)さんと高聲(たかごゑ)に呼ぶなり。その時太夫しとやかに盃を取りあげ客の方を見て、持ちたる盃をばつとと臺の上へおく仲居その盃臺を一尺hなかりツと客の方へ押しやり。又高聲に誰さんと妓の名を呼び臺を元の所へおくとき、太夫ツと立ちて歸る。その所作至つてしとやかなるものなり。何人にても所作同じ。

 と瀧澤馬琴はその羈旅漫錄の中に記してゐるさうです。

 あんた‥‥太夫はん

 あんた‥‥太夫はアーんといふ仲居の聲が、黑々と光つた部屋のなかにひびくのですが、さあ、ひびくといふよりはこもるといつたが正確でせうか。はちほんの簪(かんざし)を挿した太夫のながさきが燭臺の間にぴらぴらとします。簪と花簪は區別があります。又ながさきは長崎と書くのでせうか、唐人の風を移した簪でせう。太夫のいろいろとある髷形(まげがた)に錦祥女(きんしやうぢよ)といふ髷があります。

 こつたいおさかづき

 このあと、こつたいおめしかへの聲があがります。

 こつたいおめしかへ

 これで式は經ります。部屋調度すべて夏冬同一と聞きます。

 汚れて油繪具の黑を塗つたうな光りの世界に式が行はれます。かしとは江戸ではひきつけのことなり。おひけとは京都ではいはぬ。おめしかへといふ。すべて斯樣な註釋はみんな鹽野のおかみさんにたづねたことでした。

 かしの式の所作は、盃を持ち盃を置いて體(からだ)をそらしてじつと客の顏を見る、その時のウインク一つで客の心をとらへるのだといふのですが、ウインクといふ言葉は鹽野のおかみんが使つてゐたのです。こつたいのつツつつときまるその型(かた)は、いつ誰が定めたものか、尋常ながら微妙の注意をふくんであみ出されたものと思ひました。型の上手下手は、金絲(きんし)の袿襠(しかけ)よりも、また蠟燭のひかりに浮ぶ釵(かんざし)、ほの白い顏貌(かほかたち)よりも、大事のやうに見うけました。

 太夫の服裝は、おひけになつてからのに風情があるのではないでせうか。おひけになつてからの略式、冬は縞(しま)のかいどりに縞の著物きもの)といふ話です。

[やぶちゃん注:以下の文はブラウザの不具合を考えて改行した。以下の署名は底本では五字上げ下インデント。]

 

              小 太 夫

 秋の夜(よ)長々しとは申せど分きて夕(ゆ

 ふ)べなどは語る程なき別れ誠(まこと)に

 かねて淺らぬ夕べの御現も辛(つら)き御か

 へさにいたりて何事も空(あだ)なること情

 けなく かしこ

[やぶちゃん注:最後の「かしこ」は本文に接続した続き仮名(合略仮名)で記されてあるが、正字化した。次の末尾も同じ。]

「昔しの遊女は詩歌管絃連俳茶香(さかう)鞠(まり)庖丁(はうちやう)碁(ご)雙六(すごろく)等(とう)に達せしものにて云々」と記してゐるのが既に德川の時代の書物です。

                吉 野

 よし左(さ)らばこのままよくも遠ざかれ我

 は別れの又も憂(う)からんとは人の身の上

 にこそ かしこ

 

 遊女吉野が傳は曲亭馬琴も亦書いてをります。

 私共は灰屋紹益(はいやせうえき)ではありません。

 投節(なげぶし)けいせい、の

  君はつらくと恨みはせまじ。心がらなる身の憂きを。

 この方(はう)が餘程氣が樂であります。投節唱歌は貞享元祿の頃京都からはじまつて三都に流行した小唄です。

   ゑうて枕す美人の膝を。せめて握るぞヨイヨイ。天下の權(けん)を。ヲヽサ

   ヤツチヨロサンダイ

 ををさやつちよろさんだい節といふもの御存知でせうか。日淸戰爭、丁度私共の生まれ當時あたりのものでせうか。一寸差畫(さしゑ)を御覽下さい。

 

Kakinegaku

 

 花琴は太夫であるさうです。繪も花琴(くわきん)のでせう。實物を見ると醉眠美人膝起握天下權(ゑうてはねむるbじんのひざおきてはにぎるてんかのけん)。これが一遊女の筆(ふで)であるがためにでせうか、張(はり)きつた明治の時代、盛りあがるこころだてがあつて、可愛(かはい)らしい物です。勿論、これには、讃をしてゐる風流な相棒(あひぼう)があります。圍(かこひ)の間(ま)にあつた掛軸です。

 しげが小首を傾けて、「左ぎつちよの三味線でもない。糸の音締(ねじめ)が下(した)が二本、上が一本のところ、繪ではあべこべでこんな三味線はなーい。撥もない。」といつてをりました。「何いつてがやんだい。」私は生憎斯樣な言葉の京言葉を知りませんが、花琴その者が生きてゐたとしたら存外、「大きの御世話。」とにらんだことでせう。

[やぶちゃん注:「花琴(くわきん)」最初の「花琴」にはルビがない。]

 

 先輩木村莊八(しやうはち)は、居ながらにして天下古今(ここん)の風俗になかなか明るいやうです。私は銀座の夜店で購((か)つた「新よし原細見」明治物の一册、ただそれだけを大事にして、なかの寫眞について仲居としげに、一々江戸と京都の相違をたづねてみました。彼女等(ら)はです。あまり多くを指摘しませんでした。さうして、「新よし原細見」を珍しげにみてをりました。

 私にとつてはつきりとしたことは、白地の裲襠(うちかけ)といふものは、關東からはいつた物だと聞いてゐ説を疑問としただけでした。また角屋が別に特別保護建造物であるわけのものではないといふことでした。

 しげが裲襠の名をいろいろあげてゐたなかに、はつきり、「印度(インド)の天鵞絨(ビロード)」と言つてゐたその言葉を面白く思ひました。

 印度の天鵞絨といつたものがあるのか如何(どう)か、また印度の天鵞絨か阿蘭陀(オランダ)の天鵞絨か、織物についてもその點私は甚だ無學でありますが、「印度の天鵞絨」といふ言葉ははれやかでした。

[やぶちゃん注:以下の段落は底本では全体が二字下げ。]

遊客の招聘(しらせ)擧れば太夫は直ちにそ

の揚屋まで夜具を運ぶ。昔は定紋つきたる葛

籠(つづら)に入れて運びしものの由なれど

も今は同じ定紋つき黑塗の長持となれり、長

持の取手(とりて)には太夫の名を記したる

駒形の札(ふだ)を結ぶ。

 この駒形の札といふのが、四六判五百頁の書物よりも大きいのです。これがカタカタと鳴つて行交(ゆきか)ふ夜深けの風情は格別の物と聞きます。また説明を待つまでもなく、この長持が角屋の玄關の脇に、山のやうに高く重ねあげられた時の、その夜の壯觀は今日(こんにち)の者にも想像し得られるところです。然し、長持を遊ぶ習俗も、十幾年とか前に全く絶えてゐるさうです。祇園花街に住む鹽野のおかみさんも、歳去(としさ)り時移るこの姿を、「ははあ、」と感心してをりました。

 角屋の入口には、今日でも古めかしい長持が三つ竝べて置いてあります。私はこれに腰を掛けて、臺所口がレンズを向け、先程御覽に入れた寫眞を撮つたのです。

 玄關上り口の正面の壁に、昔そのままの刀掛があります。今日の客は、これに携ふるそのステツキをかけて、愉快とはしませんでせうか。

 

 私はもうこれで今日のこの島原と角屋のお話を終りとさせて頂きます。あれも寫しておけ、これも寫しておけと、鹽野のおかみさんが、折角いろいろと氣を配つてくれたのですが、寫眞はまだ初心であり、いつも使用してゐるフヰルムをやめて、なまじ舶來のフヰルムを使つたばかりに、露出表をながめながら、その計算も間違へて、殆ど全部寫しそこねてしまひ、また話のはうも如何もうまくゆきません。

 廓(くるわ)のことは廓の人に限るやうです。

 鹽野のおかみさんですら、出口の柳のところで摩違(すれちが)つた女を、太夫だ、一人で歩いてゐるところは珍しいから撮つておけと言つてゐましたが、仲居としげの話では、太夫はけつして一人歩きはせぬ。太夫のやうな髷(まげ)に結つてゐたのならそれは白人(はくじん)であらう。(おくりこみの娼妓)白人の普通の娼妓で、太夫以外は絶對に齒を染めてゐないから、その區別はわかる。と説明されて恐縮してゐたやうなものです。

[やぶちゃん注:以下の追記は、底本ではポイント落ちで全体が一字下げである。]

 

追記。石井琴水(きんすゐ)氏の「傳説の都」の中に、「歷世女裝考(れきせいぢよさうかう)」からとして、御齒黑――近衞帝前の時代に於ける玉藻前(たまものまへ)の傳説以來、宮中に奉仕する公卿(くげ)や局方(つぼねがた)が皆(みな)鐡漿(かね)をつけるのは、人か狐狸(こり)(狐狸等(とう)の化生(けしやう)の物は、これがつかずと云ふ)かを區別する、その一定(てい)の標識であつたが、それが何時(いつ)しか一般民間の女房達の間に行はれたといふことが引用されてあつた。

小穴隆一「鯨のお詣り」(4) 「あをうなばら」

 

 あをうなばら

 

Awounabara

 

[やぶちゃん注:当該章にある挿絵であるが、何を描いていて、何故、この章なのか、私が馬鹿なのか、実はよく判らぬ。お分かりの方は、御教授下されたい。帰国の船中で一緒だった唐山日語教員養成所の生徒のスケッチだろうか?

 私の北京は四十五日間の暮しのものである。

 行きは近海郵船の南嶺丸で二割引の一等船客であつた。歸りは大阪商船の長江丸でこれは割引なしの三等船客あつた。

 神戸の日本郵船には私の叔父がゐた。

 行き、この叔父に北京の秋を見物にゆくとはがきを出したら、貧乏人の私に、金と間暇(ひま)のある奴にはかなはぬと書いたはがきと東亞協會編の日支會話を一册送つてよこした。以前歐洲航路の般乘(ふなのり)であつた叔父は、神戸出帆の時には、私の室(しつ)にはいつてくるなり、自分の家(うち)の押入からでも出すやうに室(しつ)の隅のライフ・ジヤケツトを取出して、その着け方を教へてくれたものである。叔母は叔母で船が動き出すと手巾(ハンカチ)を振つてゐてくれた。

 歸り、私は北京に着いても叔父さんにも叔母さんにも一寸(ちよつと)も沙汰をしないでゐて、北京も最後になつてから、歸りの旅費は取寄せはしたがまた危ぶなくしたので、船は三等、もし持物に税關で税がかかると東京迄が危ぶないと手紙を出したには出した。十一月三日にめでたく神戸の埠頭に船が橫付けになつたが顏が見えぬ。叔父さんこの甥を捨ててゴルフかなと思ふ時に掌(てのひら)をあげてゐる叔父がゐた。私は足がわるいからすまないがいつもこの叔父に赤帽の役をさせてゐる。叔母さんには逢はずであつた。叔母は私の手紙で私を輕蔑しはじめてゐたのかも知れないのである。

 さて船のことである。一等の御飯の時は澤山贅澤に御馳走が出る。おやつの時間にはおやつも出る。三等の御飯は傷心一點兒(シアンシンイテイエル)で、おやつなどはないのだ。併しながら門司にはいる前の晩には充分のお煎餅が出た。食物(くひもの)にいやしいのかも知れぬが、傷心一點兒、それは飯(めし)の菜(さい)のことで、米(こめ)が北京の一般日本人經營の宿屋物(やどやもの)よりもうまく暖(あつたか)いことについては保證をしておきたい。

 船のなかにも人の運不運がある。行き、一等の私は、同級室(どうきふしつ)の日本人から中國人が指で示す一、二、三、四、五、六、七、八、九、十の敷(かず)の形を教はつたにすぎなかつたが、歸り、三等の私は同級室の中國人、殊に河北省唐山日語(たうざんにちご)教員養成所の生徒達との頭(あたま)をつき合せての寢起きでもつて教へ教はるの得をした。養成所の生徒達の日語(にちご)は、まはりの日本人のよりも綺麗で丁寧であつた。

 海。「海」十二月號には阿部氏が黃海(くわうかい)といふ題で書いてゐる。歸りの私の場合、黃海も過ぎてゐるのに私に、「黃海がまだですか、海がだんだん黑くなつてきます。」 と地圖をひろげたまま小首を傾けて聞く唐山の生徒がゐた。夜ではないから、その時の海はあをかつたのである。この海がだんだん黑くなつてきますは、私が北京で「吃茶我不明白(チイチアウオ)、喝茶(プミン)」と中国人に言ひなほされたのと同性質のものではなからう。私はあをうなばらをくろといふ言葉で塗つてしまつた彼等の表現に意外の驚嘆を持つた。船は日本に近づいてきてゐるのに、「黃海はまだですか、海がだんだん黑くなつてきます。海はこれから黃色くなつてきますか。」と聞いた人の唐山は、北京から汽車で急行六時間不通七時間といふ所だといふ。

[やぶちゃん注:以下の北京理髪店に掲げられた男性髪型の呼称一覧表は、底本では全体が四角な罫線で囲まれている。どう読むかって? それは次の段落をどうぞ!]

 

┌―――――――――――――――――――――

│ 圖 型 髮 理 式 男 化 美 新 最 │

│ 美 球 化 美 動 運 分 中 年 靑 │

│ 裝 常 軍 陸 士 學 術 藝 垂 後 │

│ 人 僮 分 邊 式 歐 士 博 式 連 │

└―――――――――――――――――――――

 

 圖を省いて文字だけの紹介では表(へう)にすぎないのであるが、私の希望はここで讀者に、北京でけつして最新ではない小さな理髮店の椅子に坐つて、この最新美化男式(だんしき)理髮型(がた)圖を見あげて寫しとつてゐた時の私よりも速く、ここに海軍といふ型の無いことを發見して貰ひたいのである。魚に金魚、銀魚、煙草に黑姑娘(ペイクーニアン)、白姑娘(パイクーニアン)の中國、理髮型(がた)に博士(はくし)、學士のある中國に、陸軍あつて海軍なしである。

[やぶちゃん注:「近海郵船の南嶺丸」「大阪商船の長江丸」須藤康夫氏のサイト「百年の鉄道旅行」の「天津航路」を参照されたい。船型・データはもとより、船室内の写真も見られる。

「日本郵船」明治一八(一八八五)年創立の現在も続く船会社。三菱財閥(三菱グループ)の中核企業であり、三菱重工とともに三菱グループの源流企業。日本の三大海運会社の一つ。詳しくは参照したウィキの「日本郵船」を見られたい。

「東亞協會編の日支會話」「三康図書館蔵書検索-語学」にある、東亜協会編纂部編「日支実用会話(速成)」(大阪・大八(一九一九)年・五版)か。東亜協会は不詳。似た組織名はあるが、軽々に同じとは言えぬ。

「傷心一點兒(シアンシンイテイエル)」「ちょっと哀しい」の意。

「河北省唐山」現在の中華人民共和国河北省唐山市。ウィキの「唐山市」で位置を確認されたい。

『「海」十二月號には阿部氏が黃海といふ題で書いてゐる』古書店の記載により、これは雑誌『海』は「大阪商船」が発行して雑誌で、昭和一三(一九三八)年十二月号に「黄海」の題名で作家で翻訳家の阿部知二(明治三六(一九〇三)年~昭和四八(一九七三)年)が書いていることが判明した。これ(この叙述形態)によって小穴隆一の渡中を私は昭和十三と同定した。

『私が北京で「吃茶我不明白(チイチアウオ)、喝茶(プミン)」と中国人に言ひなほされた』中国語に堪能な教え子に聞いてみたところ、この中文は、

『「喫茶」という言葉は、私は分からぬ。「喝茶」だよ。』

とのことであった。但し、この音写は解せないとのことだったので、以下に、彼からのメールを掲げておく(下線太字は私が附した。なお彼は現在、北京在住である)。

   《引用開始》

……それにしても中国語の読み仮名と思しきものが意味不明です。

「吃茶我不明白」は(チイチャアウォープーミンパイ)

「喝茶」は(ホーチャア)

とでも書くべき所です。北方発音に大きく影響を受けた現代中国標準語では茶を飲むことを「喝茶(ホーチャア)」と言います。一方、「吃」という字は「喫」と同義。現代の中国大陸では「吃」に使用が統一されており、「喫」の字はそもそも使われません。茶を「吃」するという表現は南方(淮水もしくは長江以南)方言で今でも口語として使われています。文字通り「喫茶」です。ちなみに上海語では茶を飲むことを「チェゾー」と言います。漢字で表記すると「切俗」ですが、私は喫茶が変化したものに違いないと確信しています。これらとは別に、全土で通用する書面語では、もちろん今でも「飲茶」です。ところで脱線しますが、スープを飲む際にはなんと表現すべきかと言う問題があります。正統派の伝統中国口語では「喫湯(チータン)」すなわち「吃」です。一九八三年公開の中国映画「北京の想い出」でも、きちんと「吃」という台詞があります。しかし現代の若い人はまず「喝」と言います。私が「吃」と言うと変な顔をされます。ちょっと哀しい気がします(「吃」の主意は「食べる」、「喝」の主意は「飲む」なのです)。

   《引用終了》

小穴隆一は中国語は出来ないと言っているのに、ここまでの記載では盛んに(はっきり言って中国語のルビはいらんと思われる箇所にまで)中国語音写のルビを得意げに振っているのだが、どうも怪しい気がしていた。この教え子に指摘からも、中国語カタカナ音写の部分は話半分で読んだ方がよいようである。

「黑姑娘(ペイクーニアン)、白姑娘(パイクーニアン)」孰れも煙草の銘柄。前者の画像(ヤフオクのそれなので消失するかもしれない)、後者の画像(同前)。後者は前のとはひどくデザインが違い、新しい感じがするのでリニューアルされた、後のものかも知れぬ。]

小穴隆一「鯨のお詣り」(3) 「妓女」

 

 妓女

 

『その時私達が招いた黛玉(タイユイ)といふ女の手をとりながら、友はいつた。「何といふ華奢(きやしや)な指だ! まるで象牙をみがいて、ほんのりと紅(べに)をさしたような指だ! こんな指には日本ぢやお目にかゝれないよ。」‥‥』

 これは、村上先生(ソンサンシエヌシオン)の「日本の女・支那の女」のなかの一節である。

 私は私の現代百美圖の中の⦿南花(なんくわ)黛玉(タイユイ)老(らう)二近影⦿ならばともかく、不幸にして、生きの身の黛玉(タイユイ)を見知つてはゐない。天橋(チイエヌチヤオ)の本屋は、私が天橋もこれで最後といふ日に現代百美圖の二册、三十六美圖全圖一册、合せて三册を一毛錢(イマオチエヌ)で私に賣つた。單に美人寫眞の貼込帖(はりこみてふ)と思つて買つたそれらの物は、民國二十年のカレンダーの一枚一枚の裏を大事にして貼つてゐた物であり、一年は三百六十五日、二百三十六日を引いて殘り百二十九日分が缺けた物である。寫眞でよろしい。私は殘りの百二十九美(び)にも接してみたく思つてゐる。

[やぶちゃん注:小穴隆一特有の朦朧文体で、以下の不詳も絡んで、注の付けようがない。

「黛玉」芸妓名(日本の源氏名)らしい。この名は、かの「紅楼夢」(十八世紀中頃、清朝中期(乾隆帝期)に書かれた中国四大奇書の一つ。全百二十回から成るが、前八十回分が曹雪芹(そうせつきん)の、後の四十回は高鶚(こうがく)による続作とされる)に登場する美少女の名として知られる。ウィキの「紅楼夢によれば、主人公賈宝玉(かほうぎょく)の『従妹で幼馴染み。詩才と機知に富む一方病弱で繊細。厭世的で悲観的かつ神経質で極めて感受性の強い美少女。宝玉が好きだがプライドが高いためか素直になれない。西施や趙飛燕にたとえられる華奢で嫋やかな儚げな美貌。西施同様よく眉を顰めている』とある。

『村上先生(ソンサンシエヌシオン)の「日本の女・支那の女」』不詳。いくら調べても、村上姓の同名の書が見つからぬ。識者の御教授を乞う。

「現代百美圖」「三十六美圖全圖」以下の叙述から、昭和一三(一九三八)年以前に中国で作られたものらしいが、不詳。後の小穴の説明から見ると、一部が欠損したか、或いは未完成の、手製のそれ限りのオリジナル美人写真貼り混ぜ帖らしいが、よく判らぬ。従って以下の「南花黛玉老二」という人物も不詳。やはり識者の御教授を乞う。

「民國二十年」一九三一年で昭和六年に当る。小穴隆一の渡中は「民國二十七年」で一九三八年(昭和十三年)。

 

小穴隆一「鯨のお詣り」(2) 「車夫仲間」

 

 車夫仲間

 

 今日でも、子供の絵本に、浦島太郎が龜に乘つて龍宮に赴く畫(ゑ)があるか、如何(どう)であるか、「家に子供なし」であるから、知らないのであるが、私はいま浦島太郎が龜に乘つて龍宮に赴く圖を、甚だ面白いものに思つてゐる。何故ならば、波の向うに見える龍宮は今日でも中國に行けば見られる建物(たてもの)であつて、日本の物ではないからである。姑娘(クーニヤン)であるか、小姐(シヤオチエ)であるか、乙姫樣の風體(ふうてい)さへ百美新詠圖傳のなかにある班倢伃(はんせふじよ)である。

[やぶちゃん注:「姑娘(クーニヤン)」一般に、未婚の女の子・娘・乙女の意。

「小姐(シヤオチエ)」チー氏の中国語解説サイトの『「小姐」の本当の意味は?』によれば、(古語)立場の低い女性の呼び名。未婚の女性の敬称。その手の風俗産業に携わる女性等を指す語とあり、以下、以下のような注意すべき記載が示される。即ち、この「小姐」は『端的に言うと、地方によってだいぶ違ってい』るというのである。『例えば、南方ではとても礼儀のある言葉として既婚・未婚に関わらず、一般女性を呼ぶ際に広く用いられて』おり、『日・中どちらの辞典にもない広い範囲の使われ方がなされている』とする。『上海などを舞台にした中国のドラマで「小姐」という言葉が今でも頻繁に使用されているのはそのため』だという。『一方で、北京を含めた北方の方では、全く礼儀のない仕方で使用されて』いる、『つまり、風俗系の仕事をしている低俗的な女性を指す言葉として使われている』とあるのである。従って、『南方では見知らぬ女性を呼ぶ際に 「小姐 ! 」と声を掛け』られるが、北方ではそれは失礼に当たるとある。現地でも、『南方から北方に来たばかりで、まだ地元の文化に慣れていない方が、ときどき「 小姐 ! 」と呼んでいる光景を見聞きする場合があ』るが、『そのようなときは、周りの地元の人たちは思わず苦笑いをしていたり』するともある。但し、ここでの小穴隆一の謂いは、前の「姑娘(クーニヤン)」を良家のお嬢様風の意、この「小姐(シヤオチエ)」を庶民的な姐(あね)御風に使っている感じではある。

「百美新詠圖傳」清代の顔希源になる中国歴代の美女伝。早稲田大学古典総合データベースで全冊を視認出来る。

「班倢伃」(生没年不詳)は現行では「はんしょうよ」と読む方が一般的。前漢の成帝の側室で悲劇の美女の代名詞。「倢伃」とは女官の名称で「婕妤」とも書く。参照した同女のウィキには、『成帝の寵愛を得たが、後に趙飛燕に愛顧を奪われ、大后を長信宮に供養することを理由に退いた。長信宮に世を避けた倢伃は、悲しんで「怨歌行」を作』ったとされ、以後、『失寵した女性の象徴として、詩の主題にあつかわれることが多い』とある。「百美新詠圖傳」の班倢伃の図はここ(先の早稲田大学古典総合データベースのHTML画像)。]

 この支那事變以來、軍人はともかくとして、數多くの人々が種々の名目の下(もと)に一度は中國に渡つてゐる。龜をいぢめたこともないが、生憎助けたこともないので、龜の背を借りずに、私も亦、汽船で野球放送を聞きながら波の向うに行つてみた。

[やぶちゃん注:「支那事變」昭和一二(一九三七)年七月の盧溝橋事件を発端として始まった、日本と中華民国の間で行われた長期間に渡る大規模な戦闘を指す(但し、両国ともに宣戦布告を行なっていないことから「事変」と称する)。現在、称されているところの「日中戦争」の前半戦に当る(ここはウィキの「支那事変」に拠った)。小穴隆一のこの中国旅行は本書刊行の二年前の、昭和一三(一九三八)年である(前の「螢のひかり」参照)。]

(十月十六日)朝、宿ノ中庭ニ拾煤(シフバイ)(石炭殻拾ヒ)ノ少年二人ヲ呼ビコミ、スケツチヲシタ。五錢ヅツヤツタ。夕方、流シノ藝人、父親、娘、息子三人ヲ呼ビコミスケツチ、コレ三二十一錢五厘ヤル。一錢五厘ノ紙幣ガアルノダ。

(十月二十日)サテ義足ノタメ小生ノ向脛(ムカウヅネ)ノ化膿シタルトコロ、昨夜カラソロソロツブレカケテキテ、ヤツト明日ハ二十號ヲ描キニユカレルカ如何(ドウ)カトイフトコロダ。コノ三日間部屋カラ動ケズ、佐佐木夫人ノ紹介ノ人ヲ賴ンデ、近所ノ支那ピーヲ、(○○其他相手ノ淫賣、亞米利加(アメリカ)人ハ亞米利加人相手ノトイツタヤウニイロイロアリ、ロシヤ人ソノ他イロイロアル由)モデルニ交渉シテ貰ヒ四號畫布ニ描(カ)イタ。毎日一時間ギメ、一時間ハヂツトポーズヲシテヰルトコロハ、ナカナカ約束ガカタイガ、アトハナンダカンダイフ。トコロガコイツノ言葉ハ下衆ノ言葉ラシク小生ニハトントワカラン。前便ニモ書イタ向(ムカ)ヒノ雜貨店ノ小僧サンヤ車夫ガ、(皆支那人)今日ハ小生ノタメニ物賣リヲ二人ツレテキテクレタノデ一人ハ十五錢、一人ハ十錢ノ約束デスケツチシタ。小生ノ風俗スケツチハ宿ノ前ニ居ル支那人ニモ興味ヲ起シタラシク、變ツタモノガ來(ク)レバアレモカケ、コレモカケト言フ。但シ中流階級ノ人々ヲ指サシテ、俺ハアアイフノガ畫(カ)キナイト言ツテモ、手ヲ振ツテ駄目駄目トイフ仕種(シグサ)ヲスル。マタ下級階級ノ人デモ、必ズシモ皆金ヲ要求スルノデナカラウト思ハレルノハ、乳母車ニ乘ツタ子供ヲツレテキテ、車夫達ヤ小僧ガ總ガカリデスケツチノ間子供ヲアヤシテヰテクレテ、コレハオフクロガツイテヰタガ、タダデアツタ。又若イ一人ノ車夫ハ、門前ノ小僧デ、小生ガステツキデ體ヲササヘテヰル姿ヲ、紙ギレニスケツチシテヰタ。コイツガ描(カ)イタ柳樹(リウジユ)ノ繪ヲ持ツテ歸ル。

[やぶちゃん注:「二十號」文脈から風景画と思われるからPサイズで七二七×五三〇か。

「佐佐木夫人」佐佐木茂索夫人房子(作家ささき・ふさ)。

「支那ピー」この「ピー」とは当時の中国人売春婦のことを指す語と思われる。後で小穴隆一は疑問を呈しているが、日中戦争勃発後に中国の日本陸軍将兵の間で使用された、中国語口語からの借用語である兵隊支那語の一つ。「(ピー)」で、華北に於いて「女性器」「売春婦」の意で用いられた(ウィキの「兵隊シナ語」に拠った)。ここでも考証しているが、そこでは英語起原説もあるとする。

「四號」人物であるからFサイズで三三三×二四二。]

 私はいまここに一寸、自分が留守宅に宛てて書送つてゐた手紙のなかから、話に必要な部分を拾つてみた。我畫畫(ウオホワホワ)、給你一毛錢(ケイニイマオチエヌ)。一毛五(イマオウ)、といふのは、スケツチ・ブックに鉛筆スケツチのモデル賃である。

 ピーとか、ピーヤとかいふのは、一體(いつたい)中国話(チオウンクウオホワ)なのか、如何(どう)いふ字を書いてゐるのか、下衆(げす)の言葉であるといふ。差畫(さしゑ)は支那ピーの肖像である。私はここに肖像といふ文字を使用した。私は一日、天橋(テイエヌチヤオ)のなかの藥舗(くすりや)の店さきでいろいろの繪を見たが、癬蟲(せんちう)の雌雄を並べて畫いて癬蟲肖像と書添へてあつたのを發見して、をかしかつたのを思出してゐるからである。

[やぶちゃん注:「天橋」民国期の北京を代表する巨大な市場の一つで、遊芸の中心でもあり、庶民の歓楽地として知られた。

「癬蟲」コナダニ亜目ヒゼンダニ科 Sarcoptes 属ヒゼンダニ変種ヒゼンダニ(ヒト寄生固有種)Sarcoptes scabiei var. hominis 。ヒトの皮膚に穿孔して寄生し、疥癬を引き起す。嘗ては性交渉で感染することが多かったことから性行為感染症の一つに挙げられているが、必ずしも感染経路はそこに限定されないし、近年の本邦の感染者はそうでない方が多く、私はこの規定は誤りであると考えている。

「ピーヤ」は「ピー屋(や)」で、売春屋(宿)の好いであろう。]

 

Kujira2

 

 四本柱に圍まれた寢臺は江南地方の物か、私がをS君を賴んで、この癬蟲は寫生してゐる間じつとしてゐるか如何(どう)かと、鉛筆スケツチで試してゐるときに、隣室の寢臺がぎしぎしきしむ音が聞えてきた。S君が、おやアと首を傾げると、癬蟲は小さい聲で、隣りの室に佛蘭西人がただ酒を飲みにきてゐて、醉つぱらつてゐるのだといふ。寢臺のきしむ音が消えると異人の口笛でわが日本の愛國行進曲だ。あの晩のそとは霧雨であつた。

[やぶちゃん注:「この癬蟲」モデルになって貰った売春婦の蔑視的比喩表現。確かに売春は疥癬の感染源の一つではある。なお、前に掲げた挿絵のモデルかどうかは判らぬ。]

 私は癬蟲をモデルにはしたが、體を買ひはしなかつた。しかし私は、私の宿の前に住んでゐる朦朧(もうらう)車夫の一派の者が、また五月蠅くなりはせぬかと思つてゐた。ところが奇妙にそれ以來、二人同心(アルレントオウシン)などとしなびた腕に入墨のある先生まで、ぶらぶらしてゐる時には、道を通る人のなかから、一毛錢(イマオチエヌ)のモデルをつかまへる手傳ひをしてくれた。聖人でない私が癬蟲に晩に來いと言はれて、前門外(チエヌメヌワイ)の妓女の寫眞を見せて、俺はこれが好きだからと断つただけの話であつたが。

[やぶちゃん注:「朦朧車夫」本邦の近代の隠語。狭義には、遊廓吉原近傍を徘徊するタチの悪い不良車夫を指す。廓(くるわ)内に入り込んで低級な妓楼と契約を結び、郭外で田舎者の客などがあれば、これをその楼に引き込み、不正の利を貪った連中を指す。広義にには辻待ちの車夫の中で、客を騙したり、言い掛かりをつけては高値を吹っかけて来る不良車夫を指す。例によって小穴の叙述は匂わせが多く読みづらいが、「二人同心」などと刺青しているところからは、中国版の前者っぽい感じでは、ある。]

 A君が案内でS君と三人で、中国人ばかりがゆくといふ遊廓をのぞいて、寫眞でなく實物の纏足(てんそく)も見た。醉雲、流霞、妙齡、學裝、藝芳、牡丹、晴波、晩霞、男化、停雲、流海、媚娓(びび)、摩登(まと)、新月、童式(どうしき)、これは宿の傍(そば)の小さい理髮店の壁に掛けてあつた最新美化女式(ぢよしき)理髮型(がた)圖の物を寫しとておいたものであるが、斯樣(かやう)な文字(もにいじ)の間(あひだ)を縫つて、暗いい地下室を步きまはつた氣がするが、私はそこに、アンリ・マチスのオダリスクのコンポジションの大部分を見て感心した。私はオダリスクの一人に、我畫畫(ウオホワホワ)。給你(ケイニ)○○錢(チエヌ)――と言つて、S君に、スケツチをする間、そのままでぢつとしてゐてくれるやう、話を賴んだところ、そのオダリスクは猛烈な勢で、通澤をしたS君の體を寢臺に抱きこんで、かたく離さないのである。それをまたA君が引離(ひきはな)す。描(か)く數分の時間の間に幾度かそれが繰返(くりかへ)される。三人は笑つて笑つたが、上衣(うはぎ)を脱いだままのオダリスクが、門口まで走つてきてわめいてゐたのは、如何(どう)話が間違つてゐたのか、オダリスクの悍馬(かんば)の如き怪力に私達は怯(お)ぢてしまつてもゐた。

[やぶちゃん注:「オダリスク」(odalisque)はトルコ語の“odaliq”(部屋)から派生した語で、イスラムの君主のハレムに仕える女奴隷或いは寵姫のこと。 アングルやルノアール、ここに出るマチスなど、十九世紀初頭のフランスの画家たちが好んで作品の主題とした。フォーヴィスム(野獣派)の首魁アンリ・マティス(Henri Matisse 一八六九年~一九五四年)の代表作の一つ、L'Odalisque au pantalon rouge(「赤いキュロットのオダリスク」 一九二一年)はよく知られる。これ。]

 私は北京で何も女ばかりを眺めてゐたわけでもないのである。思ひもよらなかつたことには、中國には、美少年が多いといふ言葉が、自分の口をついて先に出たくらゐである。小孩(シヤオハイ)と言つてゐる十本入五錢の香烟(シヤンイエヌ) THE BABY に、キユーピー染みた唐子(からこ)の繪がついてゐるほどであるが、唐子にもいろいろ變化があつて見てゐてほほゑましいものがゐる。路傍で大人を寫してゐる時と子供を寫してゐる時とでは、まはりの人々の表情はかなりに相違するのである。朦朧組の年も若くいつも身綺麗にしてゐた車夫の一人が、一日車のランプを提げてきて私に見ろと言つた。そのランプの後ろの小さい丸い穴には幻燈の種板(たねいた)ででもあつたのか、小孩がちよこんと坐つてゐた。

[やぶちゃん注:「小孩」赤ん坊を含めた幼児・子どもの総称。本来は、少年少女ではなく、もう少し下の年端の行かぬといったニュアンスのようである。

「香烟(シヤンイエヌ) THE BABY」「香烟」は煙草で、「THE BABY」その銘柄。当時のそのパッケージを見たく思ったが、ネットでは見当たらなかった。

「唐子」中国風の髪形や服装をした子供。或いは「唐子人形」でそうした装いをした童子の人形。]

 小孩(シヤオハイ)といへば、一日(にち)、雜貨店の小僧さんは香烟(シヤンイエヌ)の小孩と、天津(てんしん)出來(でき)のメンソレータムの商標である虎を模寫した物を呉れるといふし、また二十歳(さい)の囘囘教(ホイホイけう)の車夫も柳(やなぎ)を畫(か)いてきて、二人共何(どう)してもそれを呉れるといふのである。囘囘教にわざと何の樹かわからない顏をしてゐたら、囘囘教は困つた顏をして、年下の雜貨店の小僧さんに説明をしてくれと賴んでゐた。小僧さんは、字が書けない囘囘教に、お前が書けと一寸からかつてから、柳樹(りうじゆ)と書入(かきい)れて私を顧みて笑ひながら囘囘教に渡した。小僧さんに謝謝(シエシエ)と言つてにこにこと私に渡した囘囘教に私は謝謝を言つた。

[やぶちゃん注:「天津出來のメンソレータム」お馴染みの「メンソレータム」は、アメリカのユッカ社が一八九四年に開発し、大正九(一九二〇)年に「近江セールズ株式会社(現在の近江兄弟社)」が輸入販売を開始、その後に同社が日本に於いて、「メンソレータム」の製造・販売権を取得しえ国内製造販売を行ってはいる。しかし、この昭和十三年の段階で同社が天津に工場を持っていたという確認がとれない。しかも「虎」である。これは「商標である虎」というのから推しても、所謂、「タイガーバーム(Tiger Balm)」、「虎標萬金油」か、その類似(偽造)商品(タイガーバームを調べても、天津との接点が上手く見つからないからでもある)ではあるまいか? ウィキの「タイガーバーム」によれば、タイガーバームは一八七〇年代に『清の薬草商人・胡子欽によって、ビルマのラングーンで発明され、彼の死の床』(一九〇八年)『で、息子の胡文虎と胡文豹に完全な製薬法が伝えられたと言われている』。『タイガーバームのパッケージに書かれている記載事項』には『タイガーバームは、中国の帝政時代(清朝)にまで遡る秘密の製薬法によって、作られています。胡文虎と胡文豹の胡兄弟が、清を飛び出た薬草商人の父から受け継いだ製薬法でもあります。この薬は、文虎(中国語で「虎」を意味する名前)にあやかってタイガーバームと呼ばれ、多くの東アジアや東南アジアの国々で優れた販売戦略を展開したことにより、タイガーバームの名を広く一般に知られた物とする事に役立ちました』とある。一九三〇年代に、『胡一家はシンガポールと香港、中国(福建省)にタイガーバームの販売促進のため、タイガーバームガーデンと呼ばれる庭園を開いた』とある。因みに、私は二〇年前に貰った白と赤を未だに持っている。

「囘囘教(ホイホイけう)」イスラム教(回教)のこと。ウィキの「回教によれば、中国語音写では「ホイホイチャオ」で、これは中国や日本などの漢字文化圏で「イスラム教」を指す語として伝統的に使われてきた。『回回教(フイフイきょう)という場合もある。回教は、回回教がつづまったものとみられる』。『この名称の起源については正確にはわかっていないが、回回とは、中国では北宋の時代に現在の新疆ウイグル自治区、甘粛省に居住していたウイグル(回鶻、回紇)を指して用いられていた。ここから転じて、ウイグルの居住地方の方面から東アジアへ訪れるイスラム教徒(ムスリム)まで回回と呼ばれるようになったと考えられている。他に、イスラム教徒がメッカを巡礼する際にカアバ神殿内を回ることから回回と呼ばれるようになったという説や、スーフィズムにおける回旋舞踊から回回と呼ばれるようになったという説もある』とある。]

 私は小孩(シヤオハイ)で一度失敗した。失敗したといつても私のは、X氏のやうな、可愛がつてゐたつもりであつたのが、先方にとつてみれば、それがとりもなほざず虐待であつたといふやうな面白い話とは違つて是非畫(か)きたい、唐子をみて、宿(やど)のおかみさんに交渉を賴んだら、かつぷくのよいその子が十歳どころか、まだ學校にもあがれない歳のあまつたれの一人子で駄目であつたことにすぎないのである。しかし、困つたことにはモデル交渉以來、その子が私の顏をみると息せき切つて逃げかくれしてゐるのをみなければならなくなつた。

 子供でなくとも、大人でも逃げるのがある。ピーヤの前で相當な面構へをした笊(ざる)やなにかの修繕屋が、店をひろげて仕事をしてゐたそれを見て、私の後に退屈でついてきてゐた車夫に、我畫畫(ウオホワホワ)いつたら、車夫が修繕屋に私の希望を傳へてくれたのであるが、修繕屋な私の顏ををふり仰ぐなり、道具を捨てて逃げていつた。私は自分の僅かな經驗で、なかには逃げる者もあり、壹塊錢(イクワイチエヌ)よこせと強氣を張る者もあることは承知をしてゐたが、あまりのその敏捷さには驚いてしまつてゐた。するとそこらピーヤ關係の小柄な地(ぢ)まはりが、自分を描(か)かぬかと言つて出てきた。俺はお前など描きたくはないよと言つたら、五錢でよいから描いてくれと言ふ。そこでスケツチをしたら、五錢の地まはりが十錢呉れぬかと言ふ。約束が違ふといふ中国語を話せない私のかはりに、スケツチを見物してゐた人達が、不是(プシ)とかなんとか大勢でその浪人(ランシン)をとつちめてゐた。

 中國のお婆さんといふものも、スケツチをしておくと隨分面白さうである。我畫畫(ウオホワホワ)。給你(ケイニ)○○毛錢(マオチエヌ)。だけ、私の口からすらすら出るやうになつた。私はああいふのをなんと呼ぶのか知らないが、妓女の身のまはりの世話をしてゐる母親とか、義理のおつかさんとかいふものの下に働いてゐる女であるが、私はそれに我畫畫とやつてペらペらとやられた。A君に聞くと、そのペらペらは、わたくしのこの白毛頭(しらがあたま)を描いて如(ど)うなさる。それよりも畫(か)くべきひとの容貌をお畫きなさい。と言つてゐるのであるといふのである。さうと聞いて、私は妙にしんみりしてしまつた。

[やぶちゃん注:小穴隆一に同感。]

 東京に歸つてくると私は早速、たつた一本のフヰルムを現像させ燒付(やきつ)けさせて、北京の同じ宿であつたOさんに送つて、私が撮つた彼等の寫眞を一枚づつ、雜貨店の小僧さんと囘囘教(ホイホイけう)の車夫に渡して貰ふやうにした。ところが囘囘教のはうのは、車を曳きながら、私に牌樓(パイロウ)や招牌(チヤオパイ)の、文字の中國讀(よみ)を授けやうとした、その車夫を乘せて立つ姿であつたので、圖(はか)らずもこの両人の間に、一枚の寫眞をめぐつて、その所有權を爭ふ一ト騷動があつたさうである。これに對してOさんは乘客は常に車夫に支拂ふべきものなりとの名判決を下したので、等しく車夫ではありながら、寫眞の上で客になつてゐた中国讀が納得して敗(ま)けたといふのである。もつとも私は、その後一寸歸國した際東京の私の家に立寄つてくれたOさんに、この中国讀にもと別のを渡して賴んだ。Oさんは北京に歸り、さうして現在では天津にゐる筈である。

[やぶちゃん注:この両車夫の話もいい。

「牌樓(パイロウ)」中国の伝統的建築様式の門の一つで、屋根や斗拱(ときょう:軒などを支える木の組み物)のあるものを言う。本邦の中華街の四方の門を想起されたい。

「招牌(チヤオパイ)」商店の看板。]

2017/02/03

小穴隆一「鯨のお詣り」始動 底本書影・「螢のひかり」

 

鯨のお詣り 小穴隆一 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本書は小穴隆一の随筆集(附・詩篇及び句集)で、昭和一五(一九四〇)年十月に中央公論社より刊行された。

 底本は所持する初版本を用いた。底本は総ルビに近いものであるが、五月蠅いので読みが振れる、或いは特異であると私が判断したもののみを示した。

 既に本ブログ・カテゴリ「小穴隆一」で電子化注を終えた「二つの繪」の半分近くは、この「鯨のお詣り」の内容を元に訂正改稿したものであり、謂わば、その「初稿」と称してよいものが半分弱含まれる。されば、その箇所についは注はそちらで既にしているものが多いので、対応改稿に相当する「二つの繪」をリンクさせて済ました箇所もあることを述べておく。但し、こちらの記載内容が誤っていて、小穴が「二つの繪」で正しく書き直した箇所も多くあるので、「二つの繪」へのリンクのあるものは必ずそちらと対照させてお読み戴くようお願い申し上げる。初版本(小穴隆一自身の装幀)のその雰囲気はなるべく再現するように努めた。踊り字「〱」「〲」は正字化した。【2017年2月3日始動】]

 

 

[やぶちゃん注:以下、箱表紙・背・箱裏。裏の文句はやや字体に問題があるが、『稺子敲針作釣鈎』で、これは杜甫の七律「江村」の第七句目。

 

  江村

 淸江一曲抱村流

 長夏江村事事幽

 自去自來梁上燕

 相親相近水中鷗

 老妻畫紙爲棊局

 稚子敲針作釣鉤

 多病所須唯藥物

 微軀此外更何求

  淸江一曲 村を抱きて流れ

  長夏江村 事事(じじ)幽(いう)たり

  自(おのづか)ら去り自ら來たる 梁上(りやうじやう)の燕

  相ひ親しみ相ひ近づく 水中の鷗

  老妻は紙に畫(ゑか)きて棊局(ききよく)を爲(つく)り

  稚子(ちし)は針を敲(たた)きて釣鈎(てうこう)を作る

  多病 須(ま)つ所は 唯だ藥物のみ

  微軀(びく) 此の外に 更に何をか求めん

 

「老妻は紙に畫きて棊局(ききよく)を爲(つく)り」貧しい故に老妻は子の遊ぶための碁盤を紙に線を引いて描いて作っているのである。但し、この詩は杜甫が、貧しくはあったものの、成都で安定した生活を送っていた四十九歳の折りの作とされるもので、この五年後に一族を連れて成都を離れ、苛酷な放浪の果てに没するのは、この十年後のことである。]

 

Kujihako1

 

Kujihakose_3

 

Kujihako2

 

[やぶちゃん注:以下、本体表紙・背・裏表紙。]

 

Hyousi

 

[やぶちゃん注:以下、裏見返し。表見開きも全く同じ絵であり、署名部分が焼けていない裏の方を採った。左手上部に『知恩院宮 御入輿 賜号 一游亭』とあり(「一游亭」は小穴隆一の俳号と一致するが、偶然か。或いはこれをヒントに小穴は自分の俳号を作ったのか?)、他にも邸内の各所のキャプションとして『□□神靈』(判読不能)『池水』『御嶽山行水塲』などのキャプションが記されてあるが、これは本書の後書きに、『見返しには父の生家の林泉圖を複製して用ゐた。安政二卯年調であるから、亡父誕生十年前の林泉である』とある。安政二年は確かに乙卯(きのとう)で一八五五年。しかし、これでも元の絵の絵師と対象が判らぬ。識者の御教授を乞うものである。]

 

 

Mikaesioana

 

[やぶちゃん注:以下、とびらの標題。小穴隆一直筆であろう。]

 

Onanatobira

 

[やぶちゃん注:以下、目録に続いて、装画が著者自身とする記載(ここまで罫線頁)、内表紙(総て活字)があるが省略する。]

 

 

 鯨のお詣り

 

 

 螢のひかり

 

 中華民國發行の、財政部平市官錢局(ざいせいぶへいしくわんせんきよく)の當拾銅元(たうじふどうげん)貮拾枚(まい)といふ一枚の紙幣が、中国臨時政府なる今日に於いても、依然としてなほかつ通用するや、否やといふことについては、海を越えて向うに渡ればいろいろの紙幣が畫きこんであるポスターがあるから、あれを見て貰ふよりほかにない話なのである。

[やぶちゃん注:以下、この紙幣を枕として語られるのであるが、蒐集家目当ての販売サイトで画像を捜してみたが、見当たらない。後に出るように、「紙幣の表の左は萬壽山(ばんじゆさん)」(推定)で、「右に祈念殿、裏は北海公園」とある。識者の御教授を乞う。]

 面白いことには、今日の私(わたくし)共が、紙幣とか郵便切手の類(たぐひ)の物には、矢張り如何(どう)もそれぞれの偉人の肖像が畫(か)きこんでなければ、紙幣として又は郵便切手としての威光や貫目(くわんめ)を、疑ひかねないやうである。今年は民國二十八年であらう。私の「あらぞめの合歡木(がうか)あらじか我鬼(がき)はわぶはららにうきてざればむ合歡木(がうか)」といふ歌も、古きことであるが、昔、芥川龍之介が土産の筆墨と一緒に、一枚の紙幣を私に呉れや(芥川龍之介、大正十年支那に遊ぶ、)その紙幣には偉人の肖像が畫きこんでないのである。いま、民國となつて四年しか経過してゐなかつた中國のことや、大正十年頃の北京(ペキン)のことはともかくとして、近頃私は、自分が東安(とうあん)市場で買つてきた、北京寫眞帳は一向にみてゐずに芥川龍之介に貰つた紙幣の裏表に現はされてある、うつくしく可懷(なつか)しい銅版の風景を眺めては、切實の思ひを通はす日が多いやうに思ふ。

[やぶちゃん注:「私(わたくし)」以下、特に読みを附さない場合の「私」はすべて「わたくし」であるので注意されたい。「可懷(なつか)しい」は二字へのルビである。

「今年は民國二十八年」一九三九年。昭和十四年。但し、以下の小穴隆一の中国旅行は、後の「あおうなばら」の雑誌記事の記載から、この前年の昭和十三年と推定される。

『私の「あらぞめの合歡木(がうか)あらじか我鬼(がき)はわぶはららにうきてざればむ合歡木(がうか)」といふ歌』小穴隆一の後の「二つの繪」の方の「一人の文學少女」の、本書のそれに追加した箇所に出、そこで小穴は、『あらぞめの合歡花(がうか)あらじか我鬼はわぶ はららにうきてさればむ合歡花(がうか)』の表記で出し、『といふのは、僕が昔、北京にゐた芥川に宛てて贈つてゐた歌の一つである』と述べている。

「芥川龍之介、大正十年支那に遊ぶ」芥川龍之介の大阪毎日新聞社中国特派員旅行は、大正一〇(一九二一)年の三月十九日東京発で、帰京は同年七月二十日である(但し、実際の中国及び朝鮮に滞在したのは三月三十日に上海着(一時、乾性肋膜炎で当地の病院に入院)、七月十二日に天津発で奉天・釜山を経た)。

「民國となつて四年しか経過してゐなかつた中國」芥川龍之介が行った大正一〇(一九二一)年は中華民國十年であるから、それを言っているのではない。とすると、冒頭に出る不詳の「中華民國發行の、財政部平市官錢局の當拾銅元貮拾枚といふ一枚の紙幣」に印字された発行年を指すものか?

「東安市場」か北京最大の百貨集中地として知られた東風市場の旧名。現在はビルと化してしまっている。]

 紙幣の表の左は萬壽山(ばんじゆさん)であらう。右に祈念殿、裏は北海公園である。

 北京。私の「北京」は、王不邪(わうふじや)の測字判斷には

[やぶちゃん注:以下の占い結果は、底本では全体が四角な罫線で囲まれている。また、底本では「游」の下に左右並んで以下の前後の文字列がある。]

┌――――――――――――――――

│   不必飄浮。放步得施其力。 │

│ 游              │

│   或縱身抛此。大可開展也。 │

│              動 │

└――――――――――――――――┘

と出たのである。

[やぶちゃん注:「萬壽山」これは後に出る「北海公園」(後注参照)内にある瓊華(けいか)島内に聳える白塔山の別名であろう。清朝始祖順治帝によって創建された永安寺というラマ仏教寺院。山頂に建てられた独特の形をした白い塔として知られる。

「祈念殿」現在の北京市東城区にある、明・清代の皇帝が天に対して祭祀を行った祭壇である「天壇」の中心建物である「祈年殿」のことであろう。天安門・紫禁城と並ぶ北京のランドマーク。

「北海公園」故宮の北西にある旧宮廷庭園(皇帝御園)。

「王不邪」後の叙述から占い師の名らしい。

 

「測字判斷」とは中国由来の漢字を用いた占法いの一種。依頼者に漢字一字を書かせて、それを見て占う。]

 この游の字は、私が自分の俳號一游亭の游を擇んで書いたのであるが、王不邪? 莫忘傳名といてゐた。王不邪、張次溪編天橋一覽(チヤンツイピエンテイエヌチヤヲイラヌ)のなかから字句を拾へば、「酒旗戲鼓天橋市多少遊人不憶家(チネウチシクテイエヌチヤヲシトウオシアオイウレヌプイチヤ)」の天橋(テイエヌチヤヲ)、これを日本人がどろぼう市場(いちば)と呼んでゐる天僑(テイエヌチヤオ)の、その西市場西街路に軒を並べてゐる、許多(あまた)の神相測字(しんさうそくじ)の名家達の一人である。

[やぶちゃん注:読みの表記の違い(「橋」を「チヤヲ」「チヤオ」と違って表記)はママ。]

 妻を持たない男が、妻を持つてゐない男に、見てきた南亞米利加(みなみアメリカ)のの話を聞かせてゐた。そのいくつかの話のなかに、一つの話があるのである。それは、移民として成功した或る一人の男が、妻に、新しいピヤノを買つて與へたところ、その妻のはうは、彼女がまだ日本にゐた頃の、女學校で彈いてゐたのオルガンの音色でなければ氣がいかず、新しいピヤノには親しまずに、依然して古い前のオルガンを彈いてゐるといふ話であるが、私も亦、――私の北京は、あの幾匹もの駱駝(らくだ)が連なつて、電車通りの步道に、坐つて休んでゐた。北京は、まこと沙漠につゞく道を持つ街ではあるが、幼稚園のこどもの一人が、(北京には市立(いちりつ)の幼稚園は四つあると聞くが、私の參觀させて貰つた東單小牌坊胡同(とうたんせいはいばうこどう)幼稚園はその一つ)あしたもまたまたここにきてしやうかやゆうぎをいたしませう、といふ、日本のあれと全然同一のリズムの歌をうたつてから、先生達に、再見(ツアイチエヌ)。再見。を言つて皆歸つた。白地に靑の緣(ふち)がとつてあり、胸に市幼(しえう)の靑い二字があるエプロンをした可愛(かはい)いこども達。そのこども達のうちの一人が、門の傍(そば)にしつらへてある砂場、日本(につぽん)の砂とはちがふ。正確に言へば土らしいのであるが、そこに、たつた一人居殘つてゐて、小さい掌の上にのつた、黃いろい土饅頭(つちまんぢう)をながめてゐたその樣を目に、耳に、オルガンのひびきを聞き、「螢のひかり」の曲を聞かずにはゐられないのである。

[やぶちゃん注:「日本のあれ」教え子から恐らくは東クメ作詞・滝廉太郎作曲になる「さよなら」であろうと教授された。「Moto Saitoh's Home Page」内に伴奏付きの『幼稚園唱歌』共益商社編集(共益商社楽器店・明治三四(一九〇一が電子化されており、その「第二十」に「さよなら」が載る。附された楽譜(拡大画像)の歌詞を小節ごとに切って以下に示す。

   *

 

   さよなら

 

 ケフノ ケイコモ スミマシ タ

 ミナツレ ダッテ カヘリマ シヨー

 アシタモ マタマタ ココニキ テ

 ケイコヤ アソビヲ イタシマシヨー

 先生 ゴキゲンヨー サヨーナラ

 

   *

 

リンク先ではmidi音源もダウンロード出来る。多重録音であが、You Tube でも聴ける。]

 元來、「螢のひかり」の曲を聞く時に、私共に證書を貰って學校を出るとか、或はを金を拂つて喫茶店を出て、家に歸るとかするやうに馴らされた、その感情の一面あるものであるが、中國人、同樣に最早學生でもない中国人が、この曲を奏でうたふ時に、彼等、螢のひかり、彼女等(ら)に、如何(どう)いふ感情が伴つてゐるのであらうか? 勿論、現在の私には、螢のひかりが北京の ALOHA―OE でもあらう。しかし私にあつては、私が北京で聞いた双十節(さうじふせつ)の螢のひかり、仲秋節の螢のひかりが、それが、必ずしも、日本に於いて聞く螢のひかりにはならないのである。双十節をさかひにして、北海公園もだんだんにさびれてゆくと、村上知行(ちかう)君が言つてゐたその日の、夜の北海かの眞中に浮ぶ畫舫(ぐわばう)で同席の(シエ)君は、突如として立派な、日本語で壯麗な螢のひかりをうたひ出した。それは、畫舫からが小舟に乘移つて、一足さきに歸る、程硯秋(ていけんしう)を送つてうたつてゐたのであるが、私はこの螢のひかりに對して、一日も餘計に北京に滞在することを計(はか)つて、自分の財布をいま一度調べたのである。

[やぶちゃん注:「画舫」美しく飾った遊覧船。

「双十節」太陽暦十月十日の中華民国国慶日(こっけいじつ)の別称。中華民国の建国記念日に当たる(但し、中華民国開国記念日は一月一日(一九一二年)で、国慶節を「建国記念日」と訳すことには疑義を示す向きもある)。辛亥革命の導火線となった武昌蜂起が起った清宣統三年八月十九日がグレゴリオ暦で十月十日にあたり,十が二つ重なるところから双十節と呼ばれる。

「村上知行」(ともゆき 明治三二(一八九九)年~昭和五一(一九七六)年)は中国文学翻訳家・中国評論家。ウィキの「村上知行」によれば、福岡県博多生まれ。幼少時に父親と死別し、商家の店員となるが、十三歳の時に病気のために右脚を切断した。九州日報記者や旅回りの新派劇団の座付き作者などを務めながら、独学で中国語を学び、昭和三(一九二八)年、上海に渡った。昭和五(一九三〇)年からは北京に住み、中国に関する評論・ルポルタージュなどを刊行、一時期、読売新聞特派員を務めたが、昭和一二(一九三七)年の盧溝橋事件を機に辞職、『日本の戦争政策への協力を拒否し、著作を通して反戦の立場を示した』昭和二一(一九四六)年五月、『妻子とともに日本へ引き揚げ』た後は、『四大奇書を中心に翻訳、抄訳を行い、佐藤春夫名義での翻訳も行った』(下線やぶちゃん)。『自宅においてナイフで首と胸を刺し』、『自殺した』。彼について書かれた「47NEWS」の『【地球人間模様】@チャイナ「気骨の反戦作家」』も必読。

「程硯秋」(チョンイエンチウ 一九〇四年~一九五八年)京劇俳優。女方。小学館の「日本大百科全書」の中野淳子の解説によれば、北京出身で、『演劇は人生の目標を高める意義を備えるべきだという演劇観をもち』、「鎖麟嚢」(:「えにし」)「荒山涙」(「こうざんむせぶ」)「春閨夢」などで、『封建社会の圧迫にも屈せず重なる不幸に耐える女性を哀愁のなかにも淡雅に凛然(りんぜん)と表現した。伝統劇理論の研究を積み、多くの戯曲を改作・自作上演し、つねに時代と人民の要求を反映させた。メロディーの組合せで単調さを破る独自の改良は、京劇女方の歌唱芸術に影響を与えた。程派の演技は李世済(りせいさい)、趙栄(ちょうえいたん)らによって継承され』、「荒山涙」の『舞台は呉祖光(ごそこう)監督で』一九五六年に映画化されているとある。]

 

Kujisasi1

 

 仲秋節、雨でを月を見られなかつ中國の仲秋節の夜(よる)、私は、私に中國語讀(よみ)で三字經(サンツチン)の素讀を授けやうともした前門外(チエヌメスワイ)の女、私も中國語(チオウンクウエホワ)が出來ず、彼女も亦日本語が話せない、その女の書庽(しよぐう)で十六塊錢(シリオウクワイチエヌ)のオルガンに鳴る、螢のひかりを聞いたのである。十大塊錢のオルガンの音階は紙ぎれの、「今日(こんいち)九月十五日神日(しんじつ)、月神(げつしん)、財神(ざいしん)」「你在這里等候(ニツアイチオオリトホオウ)、我去一小時就囘來(ウオチユイイシヤオシチオウホイライ)」の文字のまどはしさには及ばないであらう。然るに私は、――既に原稿紙に「不好(プハオ)」の文字もつらね「不好」の差畫(さしゑ)をも畫(か)いてしまつた。筆を投じなければならないのである。

[やぶちゃん注:「前門外」「人民中国」の下町情緒残す老舗たちによれば、故宮、即ち、『紫禁城の正門である天安門の南の直線上にある北京の表玄関の正陽門の別称』で、『この前門の南側には、五百年も昔からの商店街が広がる。この一帯は北京の老舗が多いところで、北京市民はここを「前門外」と呼んで親しんでいる』とある。

「三字經」ウィキの「三字経(さんじきょう)から引く。『百家姓・千字文とならぶ、伝統的な中国の初学者用の学習書で』、三文字で一句とし、『偶数句末で韻を踏んでいる。平明な文章で、学習の重要さや儒教の基本的な徳目・経典の概要・一般常識・中国の歴史などを盛り込んでいる』。

「塊」「元」と同義の貨幣単位。現在でも普通に使い、日常的には「元」は使わなくても、「塊」は使うと、在中の教え子より連絡があった。

「書庽」「庽」は「館」であるが、中国語ではこれは「売春宿」を指す。されば、小穴隆一の挿絵とともに、以下の小穴特有の判ったような判らぬ朦朧叙述も概ね想像がつこう。]

 

柴田宵曲 妖異博物館 「海の河童」

 

 海の河童

「草汁漫畫」(小川芋錢)に水面と水中に二疋の河童を畫き、「河伯欣然」の四字を題したのがある。この河伯は北海に至り東面して海を視、望洋として歎じた「莊子」の河伯と同一ではあるまい。河童といひ、川太郎といひ、河伯といひ、いづれも淡水の因緣を離れぬやうであるが、廣い世間の事だから、海の河童の話も出て來る。

[やぶちゃん注:『「草汁漫畫」(小川芋錢)』は私の好きな画家小川芋銭(うせん 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)が明治四一(一九〇一)年に日高有倫堂から刊行した句画集。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全部を視認出来る。同33コマに当該の「河伯欣然」の絵はある。以下にトリミングして示す。Usennkappa

上に添えられた句は「古沼に 苗舟こぐや 五月雨」である。

『「莊子」の河伯』「莊子外篇」の「秋水」の冒頭。

   *

秋水時至、百川灌河、涇流之大、兩涘渚崖之間、不辯牛馬。於是焉河伯欣然自喜、以天下之美爲盡在己。順流而東行、至於北海、東面而視、不見水端、於是焉河伯始旋其面目、望洋向若而歎曰、「野語有之曰、『聞道百以爲莫己若。』者、我之謂也。且夫我嘗聞少仲尼之聞而輕伯夷之義者、始吾弗信。今我睹子之難窮也。吾非至於子之門則殆矣。吾長見笑於大方之家。」。

○やぶちゃんの書き下し文

 秋水、時に至り、百川、河に灌(そそ)ぎ、涇流(けいりう)の大・兩涘渚崖(りやうししょがい)の間、牛馬を辯ぜず。是(ここ)に於いて、河伯(かはく)、欣然として自(おの)づから喜び、天下の美を以つて盡(ことご)く己(わ)れに在りと爲(す)。流れに順ひて東行し、北海に至りて、東面して視れば、水端を見ず。是に於いて、河伯、始めて其の面目を旋(めぐ)らし、望洋(ぼうやう)として若(じやく)に向ひて歎じて曰く、

「野語(やご)、之れ、有りて曰く、『道を聞くこと、百にして、以つて己れに若くもの莫しと爲す。』とは、我の謂ひなり。且つ夫(そ)れ、我、嘗て、仲尼の聞(ぶん)を少なしとして、伯夷の義を輕(かろ)んずる者を聞けども、始め、吾、信ぜず。今や、我、子の窮め難きを睹(み)たり。吾、子の門に至るに非ずんば、則ち、殆(あやう)し。吾、長く、大方(たいはう)の家に於いて笑はれん。」

と。

   *

○やぶちゃんの勝手自在訳

 秋に黄河の水位が増大し、氾濫原も広大に水に浸される時期になって、黄河の神河伯は有頂天になって歓喜雀躍、全世界の美が我が手中に在ると思った。ところがその流れを東へ下り、北海に至って、そこからやおら、東方の洋上を望んでみたところが、そこには恐ろしく広大な無限の大海が広がっていた。河伯は振り返ると、呆然として、ここ、北海の神若に向かって嘆息して言うことに、

「俗に、『たかだか百の道理を知ったぐらいで、己れに敵(かな)う者はないと思い上がる。』と言うが、それは私のことだった。さてもそもそも、私は以前、孔子なんぞの知見は狭量なものであるとか、伯夷の節義なんどは下らぬとする議論を聞いたことがあったが、私は当初、それを全く信じなかった。しかし今や、私は、貴方の持つ、この果てしなく突き詰めることの不可能な無限の大きさというものを実見し、宇宙とはしょぼくれた私の知見などでは到底極め得ないということを確かに感じたのだ。私は、貴方のもとへやって来なかったとしたならば、危うかったのであった。そのままでいたなら、私は、永久に真の道を悟った諸家からもの笑いの種とされて続けることになっていただろう。」

と。

   *

この「河伯」はしばしば本邦で河童と同義語として扱われ、「河伯」と書いて「かっぱ」と読ませるケースも古くから認められるものの、中国神話上の河伯〈中国音音写:フゥーポォー)は私は、本邦の河童とは別起原であり、形象も甚だ異なる(亀型などでやや河童に似ている場合もあるが、古来の人体模造型の神形象や、水陸両用性による伝承内での平行進化の結果と見る)。例えばウィキの「河伯」によれば、『人の姿をしており、白い亀、あるいは竜、あるいは竜が曳く車に乗っているとされる。あるいは、白い竜の姿である、もしくはその姿に変身するとも、人頭魚体ともいわれる』。『元は冰夷または憑夷(ひょうい)という人間の男であり、冰夷が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。道教では、冰夷が河辺で仙薬を飲んで仙人となったのが河伯だという』。『若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こす』。『黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后羿(こうげい)により左目を射抜かれた』とある。但し、河童との関係性については、『一説に、河伯が日本に伝わり河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六世紀末から七世紀に『かけての遺跡からも河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この為、研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』とある。]

 

 享和元年六月朔日、水戸の浦から上つた河童は、丈三尺五寸餘、重さ十二貫目と、珍しく身長體重が書いてある。この日は海の中で赤子の泣くやうな聲がしきりに聞えるので、船に乘つて網を引き𢌞したところ、鰯網の内に十四五疋も入り、躍り出し躍り出しして逃げて行つた。棒や櫂などで打つても、粘りが付いて一向に利かぬ。そのうちに一疋船に飛び込んだから、苫などをかぶせ、上から敲き殺したが、その時までも赤子のやうな泣き聲をしてゐた。これは實況を手紙で報告したもので、正面、背面の圖なども「一話一言」の記事にある。

[やぶちゃん注:「享和元年六月朔日」グレゴリオ暦一八〇一年七月十一日。

「三尺五寸」一メートル六センチメートル。

「十二貫」四十五キログラム。

 以上の「一話一言」の記事は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。次頁に附図が載るので、トリミングして示す。 

 

Itiwaitigonkappa

右端に記されてある、「東濱」の「權平次」なる人物(網元か)が報告者、「浦山金平」がそれを受けた者(浦の地役人か)である。当初、オットセイの群れだろうと思ったが、図を見ると……これ……河童だわ!……]

 

「閑窓自語」に出てゐる河童もやはり海のもので、年に一度ぐらゐは人を引き込み、精血を吸つて後、亡骸(なきがら)は返して來る。その屍を棺に入れず、葬らず、板の上に載せたまゝ草庵を結んだ中に入れ、香花を手向けずに置くと、この屍が朽ちる間に、人を取つた河童の身體は、自然にくづれて死んでしまふ。河童は自分の身のくづれる間、死骸を置いた庵のほとりを、悲しげに泣きめぐるが、人にはその形は見えず、聲だけが聞えるさうである。香花を手向けてはいけないといふのは、もし河童がその香花を取つて食へば、その身はくづれず、棺に入れて葬つた場合は、死ぬまでに至らぬと云はれてゐる。

[やぶちゃん注:「閑窓自語」は珍しく、公卿(正二位権大納言)で歴史家であった柳原紀光(延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇〇)年)の随筆で、当該項は「上卷」「七三」の「肥前水虎語(のこと)」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

肥前のしまはらの社司某かたりていふ。かの國にもかはらう多くあり。年に一両度はかりは、かならす人を海中に引き入れ、精血をすひてのち、かたちをかならすかへすなり。いかなるものゝさとりはしめけるやらん。かの亡屍を棺に入れす、葬らす、たゝ板のうへにのせ、草廬をむすひて取り入れ、かならすしも香花をそなへすをけは、この屍のくつるあいたに、かの人をとりしかはらうの身體らん壞して、をのつから斃る。しらされはかはらう人間の手にとらふへきものにあらす。いはんや、いつれのとりしといふ事をもしりかたし。いと奇術なりとそ。かはらう身のらんゑするあひた、かの死かいををくやのほとりを、かなしみなきめくる。人そのかたちを見す。たゝこゑをきくとなん。もしあやまつて香花をそなへしむれは、かはらうかの香花をとりかへり食すれは、その身らんえせすといへり。棺に入れ葬れは、これも斃るゝにおよはすとそ。をよそ、かはをらう身をかくす術をえて、死せされは見る事あたはす。多力にして姦惡の水獸なりといへり。

   *

文中の「さとりはしめけるやらん」は「(そのような奇体な形で)葬ればよいことを認識し始めものか」の意と思われる。それにしても、この河童に襲われた遺体の奇態な習俗には、すこぶる興味が惹かれる。何かが隠されている感じが私には、する。]

 

 以上の二つは河童が海にゐた證左になるまでで、話としては至つて單純なものであるが、もう一つの話はいさゝか込み入つてゐる。六月二十三日は和歌山の蛭兒(えびす)祭りで、昔はこの日に必ず牛の賣買があり、牛が澤山港の近邊に集まつたから、湊の牛祭りとも呼ばれた。近年はいつとなく牛も來なくなつたが、この祭りの時節は暑さがきびしいので、川で水浴びをする者が多く、それがやゝもすれば溺れ死ぬことになつてゐる。享保十一年六月二十二日の夕方、嶋田何某の子で十八になるのが、近所の子供を四五人引き連れ、小野町の濱邊へ出て、大船の𢌞りにゐる小船を、それからそれへと渡つて涼んでゐたが、船から船へ移るはずみに、蹈みはづして海に落ちた。運惡く深いところだつたので、落ちた者は沈んでしまひ、ついて行つた子供は騷ぎ立てるだけで、どうすることも出來ない。追々人が駈け付け、水練の達者な者に賴んで死骸を取り上げ、濱でいろいろ介抱したけれど、終によみがへらず、戸板に載せて家に歸り、醫者の手當を受けても、更にその效がなかつた。事件の起る少し前、この子が沈んだあたりに居つた大船の船頭の話によれば、この頃子供の水浴びを何心なく見てゐるのに、一人自分が但馬で見た小坊主が居る、あれは人間ではない、正しく河童であるが、どうしてこの浦に來たものか、それを知らずに水浴びをする子供が、命を取られるのは可哀さうだ、早く濱邊へ行つて、子供の水浴びを止めさせるがいい、但馬の河童がこの浦に來てゐるのを、慥かに見付けた、といふことであつた。子供の親達は驚いて、子供を水から呼び上げる。さてそれから、どうして但馬から來たことがわかつたかと問へば、自分が但馬の浦に船がかりをしてゐた頃、この小坊主はしきりに舶へ物を貰ひに來た。その物言ひが人間と違つて、はじめは聞えるやうでも、あとが消えてしまふ。たしかに河童だと見たから、いい加減にあしらつて置いた。彼は非常に利口なもので、人の心を早く悟る。今度來たら櫂で打つてやらうと思つてゐると、もうわかつて傍へ寄らず、そなたはわしを櫂で打たうと思つてゐなさるな、と云ふ。明日は船を出さうと心で考へて、まだ口ヘは出さぬのに、明日はきつと出船だらう、と云ふ。この者を惡く扱へば、必ず仇をするから、とかく騙すに如くはないと、すかして置いたが、今また浦で逢うた。これを見ると、河童は諸國を遊行するらしい。昔からこの浦には河童がゐないなどと云つて、油斷してはならぬ、と委しい説明があつた。果して二十二日の晩に嶋田氏の子が溺死し、間もなく救ひ上げたに拘らず、臟腑腸胃は悉く引き出し、腹中空になつてゐたから、船頭の云ふ通り河童の仕業だつたかも知れぬ。その後もこの夏は溺死者が多かつたので、いづれも河童にやられたものと疑ふに至つた。

 この話は「續蓬窓夜話」の載するところであるが、海の河童が諸國を遊行し、人心を看破するなど、他の書に見えぬ特質に觸れてゐるのが面白い。

[やぶちゃん注:「享保十一年六月二十二日」グレゴリオ暦一七二六年七月二十一日。

「續蓬窓夜話」筆者不詳(識者の御教授を乞う)。しかし、個人サイト「妖怪館」掲示板に、奇特な方が本書について享保十一年跋とし、しかも実に幸せなことにこの部分の原文を掲げて呉れている(引用元を示して呉れていたらもっと良かったのだが)。何時もの通り、恣意的に漢字を正字化して引かさせて戴く。【二〇二三年八月十七日追記】作者は「矼(こう)某」で享保十一年跋。写本しかないようである。筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(二〇〇八年刊)の「引用書目一覧表」に拠った。

   *

「六月廿三日は紀州弱山湊の蛭兒祭なり。昔しはこの日必ず牛の賣買ありて、牛ども多く湊の濱邊に集りける故、世の人皆湊の牛祭とも云ひしが、近年はいつとなく牛も來らずなりたり。この祭の時節は酷暑の砌なれば、河邊にて水浴する者多くて、動もすればこの日の前後溺れて命を失ふ者多し。享保丙午六月廿二日の晩方、嶋田氏何某の子、年十八なるが、暑氣を凌がんとて近所の子供四五人を引つれ、小野町の濱邊に出て大船の掛りて在る邊の小船を彼方此方と打渡りて涼み居けるが、何とかしけん、船より船へ移るとて、蹈みはづして海へ落ちけり。所しも深かりければ、敢なく沈み入りけるほどに、從ひ行きたる子供、やれやれといへども、何とすべきやうもなく居たる内に、父母の宿近ければ、人々追ひ追ひ蒐來り、水練を入れて死骸を被き上げ、先ず濱にて色々術を盡しけれども、終にその驗なし。力無くて戸板に載せて家に歸り猶醫者を呼び聚聚て療治しけれども、その甲斐なく遂に空しくなれり。これより前に、この子の沈みたつあたりに有りける大船の船頭の語りけるは、頃日濱にて子供の水を浴び居けるを、何心なく見居たるに、その中に小坊主の一人有りけるをつくづくと見れば、疑ひもなく但馬にて見たりし小坊主なり、彼は人間には非ず、正しく河童なるが、何としてかこの浦へは來りけん、これをば知らで同じやうに水浴する子共の、命を取られんこそ不便なれと思ひ、急ぎ湊の濱にり、子共の水浴することを制し玉へ、我れ但馬の河童のこの浦へ來るを、たしかに見付けたりと云ひければ、子を持ちたる者ども大きに驚き、やがて濱邊に走り出て、子共を皆水より呼上げける。さて何とて但馬より來りし事を知れりやと問へば、船頭が云ひけるは、我れ但馬の浦に船を掛けて居し時、この小坊主切々船へ來りて物を乞ひけるが、その物言ひ人と違ひて、始めは聞ゆるやうにて跡はなし、たしかに河童と見たるゆゑ、兎角だましすかして日を經たり、彼はその心飽までかしこき者にて、その心を先に覺り、譬へば今度來る時この橈にて打つべしと思ふに、早その心を知て傍へ寄らず、その方はその橈にて我れを打たんと思はるゝやと云ふ。明日は船を出すべしと心に思ひ居れば、早その心を知りて明日は定めて出船ならんと云ふ。とかく人の心を先きに知る事、鏡の如し。これを知りながら惡しくもてなせば、必ず仇をなしてその害多し、とかくだますには如かじと思ひ、色々とすかし置きたりしが、今またこの浦へ見え來れり、これを思へば河童はなしと思ひて必ず油斷すべからずと語りける。その後間もなく嶋田氏の子、廿二日の晩溺れて死しけるが、親の家は小野町なるゆゑ、間もなく被き上げけれども、臟腑腸胃を悉く引出して、腹中空になりて有りけるよし、偖はこの船頭が語りたる河童の業ならんかと、人々疑ひあやしみける。その後もこの年は處々にて溺死する者多かりければ、皆この河童の業ならんかと、あやしみ疑ふ人多かりし。

   *

この話柄も、河童に読心能力があること、積極的に遊行(ゆぎょう)することなど、河童の生態学に於いて、見逃せない記載がある。]

2017/02/02

武満徹「小さな空」

……母と最期に別れた……
 
……あの震災直後の真っ暗な聖テレジアを下る坂で……
 
……僕の心に聴こえていたのは……

……これが最も近い詠唱だった…………

小穴隆一「二つの繪」 「あとがき」 附 奥付 /小穴隆一「二つの繪」~了

 

 あとがき 

 

 芥川は鵠沼で僕に、あかりのもとにほの暖い平凡な家庭、といふことを二度三度言つてゐた。芥川はどたんばになつてから〔僕は養家に人となり我儘を言つたことはなかつた。(と言ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである)僕はこの養父母に對する「孝行に似たものも」後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。〕と書いてゐるが、この遠慮がちな言葉さへも、日頃のその話術や調のいい文章のかきざまのために、有りのままが有りのままにどれだけ人に受けとられてゐるであらうかといふことを思ふ。僕は年寄達と別世帶になつて暮らせなかつた芥川の氣弱い性質と、明治時代の人の躾といふものをいまさらに考へる。

 芥川は支那旅行から歸ると僕に、二人で月二百圓あれば大きい家にゐてボーイをおいて暮らせるから、支那に行つていつしよに暮らさないかと言つてゐた。その時はまだ、旅行中にも度度死なうと思つたなどといふことは言はなかつたが、死ぬと言ふやうになつてからは、トラピストにはひりたいとか、□夫人の旦那さんに手紙を書いて監獄にいれてもらふとか、巴里の裏街で生活するとか言ひ、一番おしまひの九州大學の先生の話といふのには一寸執着をみせてゐたが、これとても自分で、自分のやうな人間は人の先生となるなどの資格はない、とあきらめたやうに言つてゐた。この一寸惜しまれる九州大學の先生の口の話は、ことによると小島(政二郎)さんあたりが悉しいのではないかと思つてゐるが、芥川がしばらく年寄達と離れ、また文壇といふものからも離れて、東京でなく九州に妻子といつしよにゐたならば、或は芥川に芥川のいふ、あかりのもとにほの暖い平凡な家庭、といふものがあつたのかもしれない。〔他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。〕と芥川は書いてゐるが、僕にはいづれにせよ芥川といふ人は、所詮古へのひとのやうな出家といふかたちにゆく人であつたとしか思へない。

 僕はこの本のために今日までに活字にしたものに一應手をいれてみた。手をいれてみると、僕はまだなにも芥川について書いてゐないしといふ氣がするだけである。僕は現に、原稿を淸書してもらつた大河内(昌子)さんに「芥川さんの死體は解剖されたのですか、」「芥川さんののんだ藥はなんですか、」と聞かれて、その質問に非常な新鮮さをかんじてゐるのである。

  昭和三十年十一月       小穴隆一

 

[やぶちゃん注:「□夫人」秀夫人。一説に芥川龍之介は実際に秀しげ子の夫である帝国劇場電気部主任技師の秀文逸(ぶんいつ)に真相を告白し、事なきを得たという説もないではない。

「悉しい」「くはしい」。

「九州大學の先生の口」私はこの事実は知らない。小島政二郎が、芥川龍之介が海軍機関学校を嫌って、小島が当時、講師をしていた慶応大学文学部教授招聘に動いたことは、既に注した。しかし、芥川龍之介が九州大学教授となったとして、「あかりのもとにほの暖い平凡な家庭、といふものが」再生出来たか、と問われれば、芥川龍之介の自恃、その後の時代の現実、といったものを考えた時、「ノー」と言わざるを得ない。]

[やぶちゃん注:以下、奥付。ブラウザの不具合を考え、ポイント及び字配を無視した。] 

 

昭和三十一年一月三十日發行

  二つの繪 芥川龍之介の囘想

           定價一三〇圓

     著 者  小 穴 隆 一

     發行者  栗 本 和 夫

     印刷者  山 元 正 宜

     發行所  中 央 公 論 社

    東京都千代田區丸ノ内二ノ二

    丸ノ内ビルディング五九二區

    電話和田倉(20)一一二一番

    振替口座東京三四番

    ―――――――――――――

 亂丁・落丁本は本社またはお買ひ求

 めの書店でお取り替へいたします。 

[やぶちゃん注:以下は、上記の下部に横書。] 

      (三晃印刷・毛利製本)

[やぶちゃん注:以上の上部に検印代わりの印刷された以下の「一游亭」(小穴隆一の俳号)がある。] 

 

Itiyuutei

小穴隆一「二つの繪」(61) 「奇怪な家ダニ」(5) 血はおそろしい

 

     血はおそろしい

 

 去年の夏、文藝春秋の句會の時に、久保田(万太郎)さんと座に並んだ。久保田さんはどこでから聞いたのか、僕に「葛卷君は共産黨だといふ話だが」といつた。僕は嚙んで吐きだすやうに「あれがほんとの共産黨だ」といつたので(葛卷は鵠沼で共産黨支部のなにかやつてゐるとの話)、久保田さんは意味がとれなかつたのか、きよとんとしたやうで默つてしまつたが、向う側のほうにゐた永井(龍男)君が、こちらをみてて、永井君特有の笑ひをみせてゐたので、永井君も流聞は耳にしてゐるなと思つた。かれこれふた昔も前のことにならう、僕は奧さん(芥川夫人)が僕の家で「義ちやんには、食べるほかにお小使が月八十圓かかります」といつたので(當時大工の日當が一圓五十錢)、たのまれもせぬのに佐佐木(茂索)君のところにいつて、「菊池(寛)さんが久米(正雄)さんに義ちやんと僕の四人の時、小穴君と葛卷君の今後の生活は自分が引受けるから、芥川の家のあとのことはなにぶんたのむ」といつてゐたことがあるから、義ちやんを文藝春秋で使つてもらへないかとたのんだものだ(佐佐木君が留守で房子さんにたのんでおいた)。ところがつぎに房子さん(ささき・ふさ)に會ふと、「義ちやんに文藝春秋で使ふといつたら、義ちやんは自分を文藝春秋で使ふとはなにごとだ、といつてゐるばかりか、妹のお嫁にいつたのが戾つてきてるから、田端へすぐきて話を聞いてくれといつてゐる。うちで世話したひとでもなし、戾つてこようがなにしようが知つたことぢやない、大體、うちがなんで義ちやんに呼びつけられるわけがあるの」と僕を叱りつけてでもゐるやうにして憤慨してゐた。(芥川の姉は葛卷を連れ子して西川氏に嫁ぐ。葛卷中學二年の時西川家を飛出して北隆館に潛つて働く、悲しき身の上なり、芥川あはれに思ひこれを家に引取る。)僕が入院中(僕は大正十一年の暮から春にかけて三月ほど順天堂にゐた)、暮もおしつまつたときのことであつたと思ふが、夜、見舞にきてくれた芥川が「姉の子が家出したので隨分心配した。それをやつとさがしてきてほつとした」といつてゐた、その子葛卷が、芥川が死ぬとたちまち、「芥川龍之介の跡繼は自分だ。ここの家の物はなにからなにまで自分のものだ」(昭和九年に奧さんが僕の家で語る)と芥川家の家ダニになつてゐるのである。

 葛卷はT君に芥川家の印税を三分の一とつてゐる點を聞かれると、藥をふりかけられたダニのやうにうろたへて、あちこちにそのことばかりいつて手紙を書いてはゐるが、自分の持物を僞物だとかなんとかいはれた人達の腹立ちや、中村君はじめ(編集同人達はもちろん)岩波の人達のいきどほりには氣がつかないのだ。僕らは葛卷に對しては、芥川家の人達のやうに無抵抗ではありえない。葛卷は係の婦人のなかにA週刊誌の記者の奧さんがゐて(A紙の記者室達のなかにも芥川の愛讀者は多い)、する事なす事が筒ぬけにA週刊誌の編集室に知れてゐることも知らずに威張つてゐた。A紙は葛卷がひまわり社から「椒圖志異」を禁轉載として出すと、すぐ「椒圖志異」は全集に載せるか載せないのかと岩波へ電話をかけてゐるすばやさである。

 發行部數三〇〇部といふ「椒圖志異」の檢印、これはまた今日の葛卷の頭のなかさながらの奇異である。妙なことに、岩波の編集部が二册購入したところのものには、一册が葛卷義敏といふ四字の印と龍一字の印、一册は葛卷の二字芥川の二字の印、所謂三文判が押してある。

 葛卷たるもの、かかることこそとりあげて大いに爭ふべきであらう。

 無職渡世、芥川の死後三十年間、芥川家の者が受取る印税で、女房つ子親妹までの命をつなぎつづけながら、芥川家の物を持ちだしてゐて、なほ持去つて最後の全集に妨害を加へつづけて、僕らのたづさはつた仕事を嘲ける葛卷をみて、僕は地下の芥川を叩き起したくなつた。奧さんが鶴沼にでかけて、三日泊りこんでたのんだが、葛卷は渡さなかつたといひます、と岩波のK君にいはれたときは、僕はなんとも情けなかつた。芥川には女房も子もないのかと怒り叫んだ。家ダニは肉を食ひ骨をしやぶり、なほその上に芥川家の版權がきれる日を待つてゐることを彼自身はつきりうちだしてゐる(T新聞の記事及びT君との談話において)。葛卷はかねて用意の物(芥川家から持出してゐる芥川關係の物)をもつて紙屋と印刷所を相手に腹を肥やさうといふのであらうが、それは見ものだ。

 芥川は奧さんに、姉(葛卷の母)と弟(芥川の實家を繼いだ新原得二、この人芥川の死後いくばくもなくして死ぬ)とは義絶をしろ、義敏の生活は三年間みてやれといふ遺書をのこしておいた。葛卷は姉と弟と義絶をしろといふ自分に困るところは切りすてておいて、三年間みてやれの都合のよいところばかりの遺書を持つてゐて、それをT君にふりかざして、自分はこんなにも愛されてゐたといつてゐたといふ(こんなにも芥川を穢した者があらうか)。僕には葛卷のこの症状が、彼の叔父の新原の症狀と同一のもののやうに思はれるのだ。新原は家人が人人に遺書をみせてゐたのできまりが惡く、芥川に書いて貰つた南無妙法蓮華經と書いたものを當時持つてまはつて、皆に兄貴はこんなにも自分を愛してゐたといつて見せてゐた。(この男日蓮信者、思春期から妙になつたといふ。葛卷は共産黨、芥川の死を境に妙な人間となつてしまつてゐる。)

 芥川は僕に新原のことを「僕の弟は上野の圖書館に弓削の道鏡のことを書いた本がある、それで宮内大臣を不敬罪だといつて訴へてゐる、さういふ馬鹿なことばかりしてゐて困る」といつてゐた。

 僕がいま芥川家の家ダニのことを芥川の何萬かの愛讀者に向つて訴へたいのは、佐藤(春夫)さんが書いた刊行の辭のなかの「淸純掬すべきその人柄の美を未だ十分に認識するに到らない憾が多い」のことばに應へて、芥川が自分の過失を恥ぢてゐて、「僕は普通の墓を建てて貰ふ資格のない人間だから、上野の山のロハ臺のやうなのの、極く小さいのをこしらへておいてくれたまへ、人に腰をかけられ足をかけられるやうなのの」とたびたび僕にいつておいて、家人には自身圖まで書いて殘してある、それをなぜか提出してもらへなかつた口惜しさからである。(僕はこの五月の旅に出る前に、Uさん(岩波にゐた人)にいろいろある遺書の數々の内容を教へておいて、芥川家について確めてもらつた。奧さんはUさんにことごとくみせてくれたやうだ。ただ、奧さんは、姉と弟とは義絶をしろは、あれは親類間のことだから燒いてしまつてないといつてゐたといふ。葛卷は三年間を三十年間にしてなほその先も食はうといふのだ。)

[やぶちゃん注:ある意味、かくも強烈な啖呵を切ってしまった結果が、芥川龍之介の盟友であった小穴隆一の最晩年を、一層、孤独なものにしてしまったとも言えるように思われるのである。まあ、葛巻も一蓮托生で抱えて、冥海へと能登守教経のようにどんぶと飛び込んだとも、言えるのかも知れぬ。

「永井(龍男)」(明治三七(一九〇四)年~平成二(一九九〇)年)は格調高い文章で知られる短編の名手で、芥川龍之介を継ぐ存在とも言われた。芥川賞選考委員を長く務めたが、昭和五一(一九七六)年の村上龍「限りなく透明に近いブルー」の授賞に抗議し、選考委員辞任を申し出(慰留を受けて在任)、翌年の池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」の受賞決定に対し、前々回での「限りなく」とともに「前衛的な作品」と述べつつも、全否定の見解を述べて委員を退任した時、個人的には、彼は芥川龍之介の名を冠した芥川賞の文学性を守った最後の良心だったと感じている(一部でウィキの「永井龍男」を参考にした)。

「妹」葛巻義定と芥川龍之介の姉ヒサとの間の実妹である、さと子のことか。

「北隆館」「牧野日本植物圖鑑」などの図鑑出版で知られる北隆館(明治二四(一八九一)年創業)のことか。二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「葛巻義敏」の項に、『大正一二(一九二三)年初頭、銀座の出版社の「小僧さん」になっていた』とあり、宮坂年譜には同年一月(下旬か)頃、当時十三歳であった彼を芥川龍之介が田端の芥川邸に引き取って同居させた、とある。

「葛卷はT君に芥川家の印税を三分の一とつてゐる」先の「芥川龍之介新辞典」の同項によれば、出版関連の事務に不慣れな未亡人の芥川『文が葛巻に万事を任せていたらしいという証言もある』とある。

「中村君」中村真一郎。

「發行部數三〇〇部といふ「椒圖志異」の檢印、これはまた今日の葛卷の頭のなかさながらの奇異である。妙なことに、岩波の編集部が二册購入したところのものには、一册が葛卷義敏といふ四字の印と龍一字の印、一册は葛卷の二字芥川の二字の印、所謂三文判が押してある」「葛卷たるもの、かかることこそとりあげて大いに爭ふべきであらう」私は出版時の当時の検印システムに詳しくないが、これは版元の「ひまわり社」が葛巻の検査を受けずに勝手に販売したということを匂わせるものか?

「葛卷は渡さなかつた」現在、葛巻の芥川龍之介関連文書は、葛巻の死後、一九九六年になって藤沢市に寄贈され、同市文書館(私の居所に近い)に保存されてはいるが、例えばその中の所謂、芥川龍之介の創作メモランダの「手帳」の一部などは、最早、判読に堪えぬほど劣化してしまっている。もっと早い時期に葛巻がこれらをしかるべき施設に寄贈し、それが正しく保存されていたなら、と私は非常に残念に思うことがある。

「新原は家人が人人に遺書をみせてゐたのできまりが惡く」遺書の破棄された部分に新原得二(芥川龍之介の実母フクの妹で敏三の後妻となったフユが母)との義絶の指示があったこと(推定)を指す。この芥川龍之介の異母弟得二(明治三二(一八九九)年七月十一日~昭和五(一九三〇)年二月十八日)については情報が極めて少ない。新全集の人名解説索引では、上智大学中退、父敏三に似た野性的な激しい性格で、岡本綺堂についての戯曲「虛無の實」を書いたりしたが、文筆に満足せず、後に日蓮宗に入信したという記載があるだけである。

「芥川に書いて貰つた南無妙法蓮華經と書いたもの」不詳。

『佐藤(春夫)さんが書いた刊行の辭のなかの「淸純掬すべきその人柄の美を未だ十分に認識するに到らない憾が多い」のことば』不詳。文脈上はおかしいが、旧芥川龍之介全集の孰れかの推薦文か。

「ロハ臺」「只(ただ)」を分解してカタカナに変え、座るにタダであることから、公園などに設けたベンチの謂い。

「家人には自身圖まで書いて殘してある」前にも注したが、残っていない。

「葛卷は三年間を三十年間にしてなほその先も食はうといふのだ」葛巻義敏は昭和六〇(一九八五)年十二月十六日に没している。芥川龍之介自死から五十八年と百四十五日後のことであった。]

小穴隆一「二つの繪」(60) 「奇怪な家ダニ」(4) 不審には不審をもつて

 

     不審には不審をもつて

 

 葛卷がT新聞の記者T君に、僞物であるとか、疑はしいとか、僞物もみてゐないで講釋をしてゐたのは、第二卷のカバーに使つた河郎之圖、十四卷の靑中先生逍遙遊之圖、十七卷の山吹之圖、十八卷の盃自畫讚、などとともに僕に芥川が渡してゐた遺書(遺書といつてよいか、芥川は僕にさんざん口でいろいろこまかくしやべつておいてゐながら、死後よくせきの場合これをあけてくれと白の角封筒に封じたものを數度渡してゐた)の一つに對してである。

 僕が第二卷の畫だけをただ某氏所藏として紹介してゐたのは、その持主がほかならぬ岩波の小林勇であるから他に遠慮してあかしておかなかつたものであり、十七、十八卷のものは中央公論社の栗本和夫(故瀧田樗蔭の舊藏)のもの、及び僕が持つ遺書(十五卷一七四頁參照。「或舊友へ送る手記」がある以上、女人の姓を明かにしたものの發表はさしひかへ他の遺書と火中に投じた筈であつたのが、「羅生門」が映畫になつた當時、藝術新潮に寄せた「藪の中」についてを執筆中に燒きのこしてあるのをたまたまみいだし、その「藪の中」についてのなかで紹介したものだ)、どれとして人に疑はれる筋合があらう。靑中先生逍遙遊之圖にいたつて忘却もまたはなはだしい。布佐行繪卷は昭和三年に七月二十一日から七日間、當時有樂町二七にあつた村の會場(武者さんの)で催された芥川龍之介追慕展覽會に、芥川家藏として出品された奉書の卷紙に重かれた繪卷だ。葛卷は小人閑居で不善をなし、橫領してゐる芥川の日記(大正八年九月十日)の「□夫人に會ふ」といふやうなところばかりに目をさらしつづけてゐるから、(僕はT君の働きでこの日附を知つた。僕はこのT君のおかげで芥川がしばしば僕に、君にもう一年はやく會つてゐれば間違ひをおこさずにすんだのだ、といつてたことが遺書による年齡とは一年のずれがある、それはやはり芥川の記憶ちがひであつたのを知つた。)靑中先生逍遙遊之圖をみて、逍遙といへば散步をしてゐるところだが、寢てゐるのはをかしい、上か下かを切つたものではないかなどとごたくをならべ、枕をして布團にくるまつてゐる畫の上に逍遙遊之圖と書いてあつたら、夢路をたどるところとか、夢の中に往來するところとか、思ふべきが普通だが、それがそのまますなほに頭にはひらぬやうになつてしまつてゐて、未發表の原稿はくはしい注をつけなければ讀者には意味が通じない、現行全集ではこれが不可能だなどとほざけるのだ。僕は事のついでに、中村君がひとやすみしたら葛卷がこの十ヶ月(全集刊行中)にあちこちにだしてゐる電報や手紙を集めて「或狂人の手紙」といつたものを書いたらと思ふ。その注には皆が皆協力するにちがひない。

 不審といふことばは、例へば、ここにその寫眞を掲げれば一そうよく分るのだが、かういふものを見た時にこそいふべきであらう。この大正十五年初夏、芥川龍之介君之像、百穗作、といふもの、等身大の畫だといふ。

 十五年初夏の頃の芥川でもなく、すくなくとも平福百穗あたりが芥川を畫くにあたつて、かういふ取扱ひ方をしてゐよう筈はない。これは芥川ではなく、知る人は憶えてゐるであらうが、芥川の死後、紺飛白の著物をすてて背廣を著はじめた頃の葛卷の顏かたちそつくりである。この畫のモデルに葛卷がなつてゐるとも思へないが、ふしぎな畫である。

 この寫眞は早くに目白の人が岩波に送つてきたので、僕はK君(岩波の人)にどういふ經路で手に入れたかなど、その目白の人に照會してもらつたが、K君のいふには、なんだかその返事が曖昧なんですといふので、そのままになつて手もとにあつたのだ。

 かういふ畫についてこそ不審といふべきであつて、これこそわが葛卷先生の教へを受けなければならない。

[やぶちゃん注:異常にして人の言うことに耳を貸さぬ舌鋒ではあるものの、ここには確かに確認してみるに価値ある事象、小穴隆一が疑惑とする対象物が未だにある、と私は思っている。

「第二卷のカバーに使つた河郎之圖」私は第三次芥川龍之介全集(新書版)を所持しないので、どの河童図であるか不明。新初版全集を所持される方の御教授を乞う。なお、ここにある通り、小林勇蔵とすれば、小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」の「山吹之圖」の解説中に出る「河郎自畫贊」とあるものと同一である。

「十四卷の靑中先生逍遙遊之圖」これは後に出る「布佐入」の前に寄せ書きされた「布施辯天」(「辯」は原画のママ。但し、小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」の本絵巻の解説によれば、「布施辯天」と「布佐入」の絵巻は後の表装時に錯簡が生じているとあり、この図も或いは「布佐入」に入る可能性がある)の中の、芥川龍之介(号・了中)筆になる、「靑中」遠藤古原草(青兵衛)が横になって布団に入ったその後頭部を描いたそれを指す。「芥川龍之介遺墨」の(但し、モノクロ)その部分をトリミングして示す。

 

Seityusensei

 

それにしても小穴の言う通り、この「靑中先生逍遙遊之圖をみて、逍遙といへば散步をしてゐるところだが、寢てゐるのはをかしい、上か下かを切つたものではないかなどとごたくをならべ、枕をして布團にくるまつてゐる畫の上に逍遙遊之圖と書いてあつたら、夢路をたどるところとか、夢の中に往來するところとか、思ふべきが普通だが、それがそのまますなほに頭にはひらぬやうになつてしまつてゐ」る葛巻義敏は実に風狂心がない、救い難い俗物と言える。これは、眠る遠藤の寝姿、その見る夢に「荘子」の「逍遙游」の自由自在な広大な夢幻世界を洒落た賛だのに。

「十七卷の山吹之圖」これは小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」に珍しくカラー図版で載る以下である。

 

Yamabukinozu

 

これには箱と巻止めがあり、その箱書画像を見ると『癸亥孟夏 芥川龍之介題』(最下部に落款)とあり、これは大正一一(一九二二)年初夏の作となる(箱表書は『山吹之圖』で、巻止めには『山吹乃図』として最下部に落款がある)。サイズは四一・三×五・三、絵の左下の添書きは、

 

樗陰瀧田君ノ為ニ山吹ノ圖ヲ作ル 僕未画ヲ学バズ唯庭前ノ山吹ヲ一一丹念に寫生セルノミ      澄江堂主人 (落款:「我鬼」)(落款:判読不能)

 

である。次の注も参照のこと。

「十八卷の盃自畫讚」同じくこれも小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」に載る以下である。

 

Hainozujigasan

 

サイズはサイズは四一・三×五・三で、

 

輕からぬ病の後ぞ木米の猪口は得つとの酒をこすな 澄江堂主人墨戯

 

とある。小穴の解説によれば、箱書は前の「山吹乃圖」と同じく『癸亥孟夏 芥川龍之介題』で落款があり、『幼兒の茶わんほどの盃は藍で、乳兒の掌ほどの掌は朱でこしらへた肉色で彩つてゐる』とある。最後に本文にある通り、『栗本和夫氏藏』と記す(栗本和夫(明治四四(一九一一)年~昭和五五(一九八〇)年)は東洋大学東洋文学科卒で、在学中に坂口安吾らと同人雑誌『制作』を発行、卒業して昭和一〇(一九三五)年中央公論社に入社、『婦人公論』編集に従事した後、戦後の昭和二三(一九四八)年に専務となった。その後、中央公論美術出版社長・中央公論事業出版会長・中央公論社顧問を歴任した出版人)。狂歌の「木米」は「もくべい」で江戸時代の絵師で京焼の陶工であった青木木米(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)作の猪口(ちょく:盃)を指すものと思われる。なお、「芥川龍之介遺墨」の小穴隆一の解説冒頭には、これは前の「山吹之圖」とともに『瀧田樗蔭舊藏の物』とあって本文の「故瀧田樗蔭の舊藏」とも合致する。

「僕に芥川が渡してゐた遺書」『僕が持つ遺書(十五卷一七四頁參照。「或舊友へ送る手記」がある以上、女人の姓を明かにしたものの發表はさしひかへ他の遺書と火中に投じた筈であつたのが、「羅生門」が映畫になつた當時、藝術新潮に寄せた「藪の中」についてを執筆中に燒きのこしてあるのをたまたまみいだし、その「藪の中」についてのなかで紹介したものだ)』私の芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注にある小穴隆一宛のもの。

「布佐行繪卷」これについては、「河童の宿」に詳述されている。私のそちらの注も参照されたい。なお、現在、これは二〇〇九年二玄社刊の日本近代文学館編「芥川龍之介の書画」でカラー版で全図を見ることが出来る(この本は出版者著作権管理機構委託出版物として無断複写を禁じている。先に部分で引いたように小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」にもモノクロームで全図が載るのであるが、二玄社版の圧倒的な迫力の原色版を見てしまうと、とてもここにその全図を掲げる気にはならない。悪しからず)。

「昭和三年に七月二十一日から七日間、當時有樂町二七にあつた村の會場(武者さんの)で催された芥川龍之介追慕展覽會」既出既注。

『橫領してゐる芥川の日記(大正八年九月十日)の「□夫人に會ふ」といふやうなところ』これは現在、岩波の「芥川龍之介全集」に「我鬼窟日録」として一部が載っている。私の岩波旧全集を底本とした正字の我鬼窟日錄 附やぶちゃんマニアック注釈を参照されたい。但し、その当該大正八(一九一九)年九月十日の条には、

   *

 九月十日 雨

 午後菊池の家へ行く。宮島新三郎が來てゐる。三人で月評を作る。

 夕方から十日會へ行く。

 夜眠られず。起きてクロオチエがエステテイクを讀む。

   *

とあり、「□夫人に會ふ」(伏字は「秀」)とはない。但し、この日に確かに秀しげ子と十日会の席上で逢い、しかもそ解散後に後日の不倫の密会の約束をした可能性が頗る高い。だから「夜眠られず」なのである。詳しくはリンク先の私の注を参照されたい。

「僕はT君の働きでこの日附を知つた。僕はこのT君のおかげで芥川がしばしば僕に、君にもう一年はやく會つてゐれば間違ひをおこさずにすんだのだ、といつてたことが遺書による年齡とは一年のずれがある、それはやはり芥川の記憶ちがひであつたのを知つた」芥川龍之介が秀しげ子と本格的な不倫関係に陥ったのは大正八年九月十五日(推定)であるが、龍之介が小穴隆一と知り合ったのは同じ大正八年の十一月二十三日(この日、瀧井孝作に連れられて小穴が田端の芥川邸を訪れた)であることを指す。即ち、小穴は秀しげ子と龍之介がああした関係になって、凡そ一年後に小穴隆一と邂逅したと信じていた、というのである。但し、「君にもう一年はやく會つてゐれば」は必ずしも「芥川の記憶ちがひ」ではないと考える。秀しげ子に遭遇する一年も前に小穴隆一と親しくなっていたら、絶対に彼女とは危ない関係に陥らなかったのに、というのが龍之介の本音であり、私も或いはそうであったかも知れぬと大真面目に思っているからである。

「未發表の原稿はくはしい注をつけなければ讀者には意味が通じない、現行全集ではこれが不可能だ」この恣意的な自分勝手な操作や注こそが、岩波の葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の学術的価値を、致命的に低下させている元凶と言える。私も持っているが、初読時から、実にヘンな本だ、と感じた。

「ほざける」「ほざいているのだ」「ほざいいていやがるんだ」の意。

「大正十五年初夏、芥川龍之介君之像、百穗作、といふもの、等身大の畫」不詳。私は見たことがない。「平福百穗」(ひらふくひゃくすい 明治一〇(一八七七)年~昭和八(一九三三)年)は日本画家で歌人。詳しい事蹟はウィキの「平福百穂などを参照されたい。

「紺飛白」「こんがすり」。]

小穴隆一「二つの繪」(59) 「奇怪な家ダニ」(3) 藥のききめ・新聞記事

 

      藥のききめ・新聞記事

 

 T君が誰を先に訪ねませうといふ。僕は、ダニは氣にいらなければ、鵠沼から夜中車でやつてきて、土足で家にあがつてくるといふから、(これは奧さんが岩波の人にこぼした話。僕は人傳てにかういつたたぐひの奧さんのこぼし話を聞くたびに、今日になつて人にこぼしてゐるくらゐなら、比呂志君が十九でおとつつあんになつた當時、もう三年分の金をやつて葛卷を追出してしまへといつたときに、なぜ料簡をきめてはくれなかつたのかとつくづく情けなくなる。僕は父から貰つたものがあつたので相當強くいつた。その後奧さんは僕の家にこなくなつてゐる。)所轄の警察に保護願でもだしておいてからにしてほしいが、まづ奧さんを訪ねて、多分病氣といつて逃げるであらうから、比呂志君に會つて、それから葛卷のところにゆくがよからうが、比呂志君は葛卷の異父妹を貰つてゐるからなんだが、也ちやん(也寸志君)は幸になんの關係もないのだから、也ちやんの家だけは騷がしてくれるなといつた。

 芥川の愛讀者といふ人達は、どうも氣のやさしい人達のやうであるが、T君もその仲間か、隨分うろうろしてゐて、やつと八月七日になつて社會面に、「芥川龍之介の遺書モメる、〝小穴氏宛のは僞物〟故人の甥葛卷氏近く對決か」といふ見出しで記事を載せた。この記事はどうみても葛卷の肩を持つてゐるとしか見えないやうに書いてあつた。だから、葛卷が不審だとか僞物だとかいつてゐる畫を持つ人や、編集に當つてゐた中村(眞一郎)君や、岩波の人達などは皆、T新聞は何事だと憤慨したものだ。が、圖太い僕は、T新聞の記事のなかに、T君の配慮があるのをみてて面白かつた。葛卷はT君にはじめ、印税を三分の一とつてゐるのは芥川の遺言があるからだと、比呂志、多加志(多加志君は不幸にもビルマの最後の戰鬪で死んだと傳へられてゐる)、也寸志の三君、その死んだ多加志君を勘定に入れてゐない不埒なことをいひ、そのあとで金を受取つてをらぬと電報で否認(T君は、社に電報がきてをりますが、なんのことかよくわかりませんといつてゐた)、さらにまた、いままでは受取つてゐたが、今度の全集の金は受取つてをらぬ、はじめ、妹(比呂志君の細君)が持つてきたがそれは返した。そのあと送つてくるからそれは自費出版で出す全集(葛卷編集の芥川全集のこと)の費用にあてるため、別口の預金として積立ててある、と僕らに向つては通用しないことをいつてゐる。藥のききめがあるぞと思つてゐると、僕のところにギブツ」ニセモノ」ウタガハシイトイフハズナシ」タダギモントイイ」イワナミアクタガワニシラベタノンダノミ」クヅマキといふウナ電をよこして(九日の晩の十時)たのみもせず、N君(岩波の人)に、K(岩波の人)はT新聞の者に話を持込んで不都合だとか、中村君に印税はどうしたとか、かうしたとか、見當はづれな、受取つた人には、一切わけのわからぬ手紙ばかりを書いてゐる。

 藥のききめは充分らしい。

 しかし、葛卷はまた芥川家にのりこんで、土足のままで怒鳴りちらしたことであらう。

[やぶちゃん注:葛巻義敏の変質もさることながら、こんな文章を書いて効き目があったと快哉している小穴隆一も同じ穴の変な貉であると、哀しいことに、私は思う。注を附す気にもならない。

「比呂志君が十九でおとつつあんになつた當時、もう三年分の金をやつて葛卷を追出してしまへといつた」芥川龍之介の長男芥川比呂志は慶應義塾大学予科一年の、昭和一二(一九三七)年十二月二十四日、満十七歳で父龍之介の姉ヒサの娘で従姉になる二十一歳の瑠璃子(ヒサの二度目の夫西川豊との間に出来た長女。従ってヒサと先夫葛巻義定とヒサの長男である葛巻義敏は異父兄になる)と結婚している。比呂志の長女の名前や生年は不明であるが、三女芥川耿子(てるこ)は昭和二十年三月生まれであり、比呂志が結婚の翌年か二年後の十九(数えか満かは不詳)で「おとつつあん」になったというのは自然である。この時、義敏は二十九か三十である。現在、芥川龍之介は文宛の遺書で義敏の扶養の指示をしていたと考えられているが(当該部は破棄されてある)、比呂志が子をもうけ、芥川家の行く末が取り敢えず落ち着いたこの時、小穴隆一が文未亡人に対して、義敏の面倒を見ることをやめるように進言したとすることは、義敏への小穴の義憤とは無関係に、やはりすこぶる自然なことであると私は思う。なお、この「三年分」とは前の「家ダニは御免だ」で小穴隆一が主張している、芥川龍之介遺書の破棄された部分に「義敏には三年間生活をみてやれ」とあったという主張に基づく謂いであろう。話柄内時制の昭和三〇(一九五五)年当時の芥川比呂志は「文学座」の中心俳優・演出家として大成しており、特に同年の主演を演じた「ハムレット」は、『今なお伝説として演劇史に語り継がれているほどの絶賛を博』し、『貴公子ハムレットの異名を』得ていた(引用はウィキの「芥川比呂志」に拠る)。

「その後奧さんは僕の家にこなくなつてゐる」小穴隆一と芥川家(少なくとも文と)が疎遠になった時期がここでかなり特定(昭和十三年か翌年頃)されていると読める。

「也ちやん(也寸志君)は幸になんの關係もないのだから、也ちやんの家だけは騷がしてくれるなといつた」話柄内時制の昭和三〇(一九五五)年当時の芥川龍之介三男也寸志は既に押しも押されぬ作曲家として脚光を浴びていた。

「編集に當つてゐた中村(眞一郎)君」中村真一郎(大正七(一九一八)年~平成九(一九九七)年)は岩波第三次(新初版)全集の編集委員の中核的存在であった。

「多加志(多加志君は不幸にもビルマの最後の戰鬪で死んだと傳へられてゐる)」芥川龍之介の次男多加志については私のブログ・カテゴリ「芥川多加志」や、その冒頭の蒼白 芥川多加志 /附 芥川多加志略年譜を参照されたい。]

小穴隆一「二つの繪」(58) 「奇怪な家ダニ」(2) 蟲殺し

 

     蟲殺し

 

 芥川家の家ダニ、その名は葛卷義敏である。

 七月の二十四日、日曜日であるにもかかはらず(昭和二年芥川が死んだ七月二十四日もまた日曜日である)、文化部のK君がきて、問題は一應社會部で取扱つてから、文化面にまはしたはうがよろしからうといふので、僕はその意見にまかせた。二十五日の朝には、T新聞社社會部Tの名刺を持つたT君がきて、T君の白己紹介によれば、T君もまた芥川の愛讀者だといふが、刊行中の全集の一册と、筑摩の文學全集に挿んであつたといふ月報、社名を書いた大學ノートを持つて僕の前に坐つた。

 T君の調べでは、葛卷の母(芥川の姉)は葛卷氏にかたづいて死なれてから、西川氏に嫁ぎ、その西川氏ともまた死にわかれとなつてゐるので、僕は、葛卷の母親は、葛卷氏とは離婚、その後西川氏にかたづいたが、その西川氏が自殺、つづいて芥川の自殺で、それで北海道に行つて、またもとの葛卷氏といつしよになつたので、今日、葛卷氏に死にわかれでもして、鵠沼にゐるのであるかどうかはそれは知らぬ。芥川の實家は、新宿に牧場を持つてゐたので、獸醫の葛卷氏と結婚した次第だが、その葛卷氏は、牧場で牛を購ふその金をごまかしたといふので、離婚になつた人と聞いてゐると、家ダニが自分の系圖まで立派にしてゐるのを感心しながら説明しておいた。それに、吉田精一といふ男は、葛卷の手さきででもあるのか、昔、空谷老人(故下島勳)が何か雜誌で僕をやつつけてゐる、それに返事も書けなかつたではないか、と得意氣に嘲けつてゐるが、芥川の遺書に(十五卷一七七頁參照)〔下島先生と御相談の上自殺とするも可病殺(死)とするも可。〕といふのがあつたから、先生は僕の顏をみるなり、聲をひそめて、私はどちらにでもしますがといつたもので、それをそのままに僕が「二つの繪」に書いたところが、醫者が商賣であつた老人のはうの身になつてみれば、たまつたものではなかつたらう、たちまち事實無根と僕に吠えついてゐたので、吉田のやうな先生は困りものだ、それに空谷老人は割合におしやべりで、僕が坪田讓治の「子供の四季」の新聞さしゑで、背景のたねをとりに日野までゆかうと(「虎彦龍彦」の時であつたかも知れない)、荻窪から省線に乘つて吊皮にぶらさがつたら、空谷老人が僕の前に坐つてゐて、いきなり「あなた義ちやんと奧さん(芥川夫人)のこと知つてゐますか」といひだしたので、知つてゐると話をおさへると、「私は奧さんを毆りましたよ」といつた。こちらは野郎昔二枚舌を使ひやがつてたくせにと思つてゐるのに、向ふは何年ぶりかで會つたものだから、昔どほりなつかしがつて、武藏境と高圓寺とでは目の前に住んでゐるもののやうで、泊つてゆけもないものだが、降りて泊つてゆけ泊つてゆけと誘つてゐたものだ。とにかくこの老人の口で、あちこちに流聞が擴がつてゐる。皆がダニをやつつけてしまはうといふ氣は持つてゐながら、話がどうしても芥川家のことに觸れるので困るのだ。が、僕らが合ことばのやうに、芥川家の恥だからいはぬといつてダニに我慢してゐる、これはおそろしいことだとT君に教へた。

[やぶちゃん注:「七月の二十四日」これら「奇怪な家ダニ」は一応(内容は先行する章とダブりが甚だ多い)、本底本(昭和三一(一九五六)年一月刊)で追加して書かれたものであるから、これは前年昭和三十年七月二十四日と読める。事実、その日は日曜である。

「文化部のK君」後に「社會部」とあるから、新聞社であるが、社も実名も不詳。

T新聞社社會部T」最もダブる「橫尾龍之助」では『東京新聞社社會部の田中義郎君』と丸出しにしている。こういう小穴隆一の書き方が頗る気に入らぬ。以下、残りの章にも出るイニシャル伏せのそれらは、判るものも判らないものの原則、注さないこととする。

「葛卷の母(芥川の姉)は葛卷氏にかたづいて死なれてから、西川氏に嫁ぎ」「橫尾龍之助」の回と同じ間違いを犯している。後で同じ葛巻と再婚したと書いている自己矛盾に小穴隆一は全く気づいていないのである。

「十五卷一七七頁參照」当時最新の新書版全集のそれであろう。以下、この注は略す。

「子供の四季」昭和一三(一九三八)年一月から『都新聞』に連載された、坪田の最高傑作とされる作品。小穴隆一は確かに本作の挿絵や単行本の装幀を担当している

「虎彦龍彦」坪田譲治の小説で、昭和一六(一九四一)年から翌年にかけて発表。小穴隆一はやはり確かにこの挿絵を担当している(単行本装幀は中川一政)。]

 

2017/02/01

おやすみ

「二つの繪」の電子化注を只今、終了した。すぐアップしてもよいが、明日は朝から4ヶ月ぶりの脳外科診察なので、明日の午後に回す。おやすみ――楽しい夢を――

柴田宵曲 妖異博物館 「河童の執念」

 

 河童の執念

 

「三養雜記」に河童は殊更執念の深いもので、九州で受けた恨みを、その人が江戶へ來てから返すなどと書いてある。豐前國中津の醫師の次男が、川岸を通りかゝつて、河童の水上に遊ぶのを見、彼の浮き出るところを覘つて手頃の石を投げ付けた。キヤツと叫んで沈んだが、同時に水が逆卷いて恐ろしくなつたので、あわてて逃げ歸つた。それから次男の樣子が變になり、屋根を走り木に登り、狂ひ𢌞つて手に合はぬ。細引で括つて置いても、直ぐ切つてしまふので、鐡の輪を首に嵌め、鐡鎖で牛部屋の柱に縛り付けた。已に一箇月餘に及び、鐡輪のため首筋が痛んで來たが、更に退く氣色もない。かれこれ五十日もたつた後、近所の寺に大般若があつて、その札を家每に受ける。この家でも受けて來て、かの者に戴かせたら、身ぶるひして卽時に退いたと「笈埃隨筆」にある。

[やぶちゃん注:「三養雜記」のそれは、前の「河童の藥」で引いた中の、『仇をなすこと執念ことさらにふかくして、筑紫がたにての仇を、その人、江戸にきたりても、猶怪のありしことなどもきけり』に基づくもの。

 以上の「笈埃隨筆」のそれは「卷之一」の「水虎」の最初の事例。かなり長いが、次段もこの後半部を引いたものであるから、丸ごと吉川弘文館随筆大成版を参考に例の仕儀で加工して示す。以下の文中に出る「獺肝」は「たつかん(たっかん)」で、漢方生薬としての獺の肝臓を指す。止咳・止血効果があり、発熱発汗・喘息・下血などに用い、肺結核の効があるとする。だから「城醫の家」の「書生」が生きるのである。

   *

 ○水虎

右の佐伯の曰、田舍人は心猛く加樣の事をもものともせず、豐前の國中津の府と云ふ城醫の家に、書生たりし時、其家の次男或時川岸を通りけるに、水虎の水上に出て遊び居たり。思ふに此ものを得んは獺肝などの及べきかはとて、頓て手ごろなる石をひとつ提げ、何氣なく後の出る所をばねらひ濟して打落しけるに、何かはもつてたまるべき。キヤツトと叫び沈みけり。扨は中りぬる事と見𢌞すに、水中動搖して水逆卷怖しかりしかば逃て歸りぬ。夫より彼のものに取付て物狂はしくなり、家根にかけり木にのぼりて、種々と狂ひて手に合ず、細引もて括り置けれども、すぐに切てければ、鐵の輪を首に入れて、鐵鎖をもて牛部屋の柱にしばり付たり。既に一月餘に成しかば、鐵輪にて首筋も裂破たりしが、さらに退べき氣色なし。彼是五十日計なり。或時近き寺に大般若有て、其札を家每に受たり。此家にも受來たり、先彼ものに戴かせければ、身震ひして卽時に除たり。誠に不思議の奇特、導き事いふ計りなし。始て此經廣大の功德を目前に見たりしと語りける。予もまたまのあたり知たりしは、日向下北方村の常右衞門といふ人、十二三才の頃、川に遊びて河童に引込れしと、連の子供走り來て親に告たり。おりふし神武の官の社人何の河内と云人、共產に聞て、頓て其川に走り行、裸に成て脇差を口にくはへて、彼空洞に飛入り水底に暫く有て、其子を引出し來り、水を吐かせ藥を與へ、やうやうにして常に返り、今に存命也。然るに翌日其空洞の所忽ち淺瀨と成りにけり。所々の川には必ず空洞の所あり。深さを知らぬほどなり。そこには必ず鯉鮒も夥しく集れども、捕事を恐る。また卒爾に石などを打込事を禁ずるなり。彼邊の川渡らんとするものは、河童の來りたる、往たるを能く知るなり。又日、此ものは誠に神變なるものなり。生たるに逢へば必病む。知らずといへども身の毛立なり。たとへ石鐵砲などに不意に打當る事有れど、其死骸を見たるものなし。常に其類を同して行來り、又は一所に住ものと見ゆ。死せざる事もあるまじきに、つゐに人の手に渡らざると覺えたりと語る。かく恐ろしきものなれど、又それを壓(ヲス)ものあり。猿を見れば自ら動く事能はず。猿もまたそのものありと見れば必ず捕んとす。故に猿引川を渡るときは、是非に猿の顏を包といへり。日薩の間にては水神と號して誠に恐る。田畑の突入たる時刈取るに、初に一かまばかり除置、是を水神に奉るといふ。彼邊は水へん計にあらず。夜は田畑にも出るなり。土人ヒヤウズエとも云。是は菅神の御詠歌なるよし、此歌を吟じてあれば、その障りなしといふ。

    兵揃[やぶちゃん注:「ひやうすべ」。]に川立せしを忘れなよ川立男われも菅はら

肥前諫早兵揃村に鎭座ある天滿宮の社家に申傳へたり。扨此社を守る人に澁江久太夫といふ人あり。都て水の符を出す故に、もし川童の取付たるなれば、此人に賴みて退るなり。こゝに一奇事有。然れども我慥にその時其所にあらず。後年聞傳へたるなれば、聊か附會の疑心なきにもあらず。彼飛驒山の天狗桶の輪にはぢかれし類ひにも近ければ、云ずしてやまん事勝らんとおもへども、又よき理の一條あり。見ん人是を以て其餘の虛說とする事なかれ。只この一事氣機の發動は鬼神も識得せず、一念の心頭に芽すは、我も不ㇾ知の理をとりて、無念無想の當體を悟入すべし。同州宮崎花が島の人語りしは、先年佐土原の家中何某、常々殺生を好みて、鳥獸を打步きて山野を家とせり。或日例の鳥銃を携て、水鳥を心がけ、山間の池に行。坂を上りて池を見れば、鳥多く見ゆ。得たりと心によろこび、矢頃よき所に下居て、既にねらひをかけるに、かの水神水上に出て、餘念なく人ありとも知らず戲れ遊び居たり。扨は折あしき事哉と、にがにが敷おもひ、頓て鐵砲をもち待居たり。きせるをくはへながら、筒先を當て此矢先ならんには、たとひ惡鬼邪神、もしは龍虎の猛きとても、何かははづすべきと獨り念じて居たりしが、いやいやよしなき事也と取直すに、如何はしけん。計らずもふつと引がねに障るや否や、どうと響きてねらひはづれず。かのものゝ胴腹へ中りしと見えて、ほつと火煙立のぼる。こは叶はじと打捨て飛がごとくに立歸りけり。歸宅の後もさして異變も無りしかば、心に祕して人にも語らず。又彼地へも年を越しても行ざりけり。かくて何の障りもなく、或時友達打よりて酒吞み遊びて、たがひに何かの物語りに、此人思はず此事を語り出し、世にはおそろしき事も有ものかな。夫より二三年一向彼所へ至らず。さらに打べき心もなかりけるに、不運なる水神かな。自然と引がねにさはり、放れ出たるには我も驚きたりと語るや否、ウンとのつけに反返り、又起直りて云樣、扨々今日唯今はいかなるもの、所爲なる事を知らざりしに、此者の仕業と聞て、其仇を報ずるなりと罵りかゝり、終に病と成りて死したりと云。誠に此事は論ぜずして口外にせざれば人も知らず、況んや鬼においてをや。かの豆を握つて鬼に問に、問ふ人其數を知れば、鬼も知り、無心に摑んで人其數を知らざれば、鬼もまた其數を知らずといふも、同日の談なり。

   *]

 

 佐土原の家中の何某、殺生を好んで常に山野を步いてゐたが、或日例の通り鐡砲を携へて山間の池に來る。水鳥の澤山浮んでゐるのを見て、一發放たうとした時、河童が水上に姿を現し、餘念なく戲れ遊んでゐる。こいつ邪魔になると思ひながら、鐡砲は持つたまゝで、この矢先なら如何なる惡鬼邪神、龍虎と雖も、擊ち外しつこはない、倂し河童などを擊つても仕方がない、と考へ直すうちに、どうしたはずみか、引きがねに手が觸れ、銃丸は河童の胴腹に中(あた)つたらしく、ぱつと火煙が立つたので、驚いて立ち歸つた。この事は誰にも云はず、その他にも行かずにゐたところ、或時友達と一緖に酒を飮んでゐる際に、ふとこの話をした。世にも恐ろしい事があるもので、それきり二三年も彼處へは行かぬ、自分は擊つ氣もなかつたのに、自然に引きがねにさはつて、銃丸が飛び出したには驚いた、と語るやウンと反り返つて氣を失つたが、やがて、さてさて唯今までは如何なる者の仕業とも知らなかつたが、こいつの仕業とわかつたら、仕返しをせずには置かぬ、と口走り、遂に病氣になつて死んだ。これも「笈埃隨筆」に出てゐる話で、半ば神經作用が手傳つてゐるにもせよ、河童の執念深い一證にはなるであらう。

 河童の報復譚の中で最も念入りだと思はれるのは、「半日閑話」に出てゐる寛永年間の話である。有馬直純の家來で何某八左衞門といふ人、有馬の蓮池のほとりで、前後も知らず晝寢してゐる河童を見付け、拔き打ちに斬つたところ、慥かに手ごたへがあつて、刀にも血が付いたやうであるのに、その姿はどこにも見えぬ。暫く搜しても死骸はなく、何者か池へ飛び込む音がした。そのうちに夕方になつたので、八左衞門も立ち歸り、主君翌日發足して歸城された。これは寬永十五年の二月であつたが、同十七年の九月十四日、かの河童が八左衞門の前に現れ、三年前に肥前の有馬で受けた疵が漸く平癒した、よつてその遺恨を遂げんため、遙々こゝまでやつて來た、外へ出て尋常に勝負せよ、と罵つた。八左衞門はにつこと笑ひ、遠波を凌ぎよく參つたと、刀を提げて庭に立ち、一人で斬合ひをする樣子は、疑ふ餞地もない亂心である。家族は心配して親類傍輩などを呼び寄せ、その體を見せたが、全く取り亂したやうでもない。河童は八左衞門の目に見えるだけで、他の人には一切わからぬのだから、むやみに助太刀をするわけにも往かぬ。そのうちに雙方とも疲れた樣子で、明日を期して河童は歸つて行つた。八左衞門も刀を納めて家に入り、有馬で河童に斬り付けた顚末を話す。先方の得物は何かといふ問ひに對しては、梅のすはいのやうな三尺ばかりのもので、それが人に當つた場合、如何なる痛みがあるかわからぬ、手先の利くことは言語に絕えたもの、と答へた。二日目は午後二時頃から六時頃まで戰つたが、依然互角の勝負であつた。この話が主君賴純の耳に入り、左樣の儀は前代未聞ぢや、八左衞門宅に參つて見物せう、と云ひ出された。三日目はその言葉通り、八左衞門の宅に於て、床几に腰掛けて見物される。召連れた家來達には、たとひ形は見えずとも、戰ふ樣子が見えたならば、取卷いて逃さぬやうにせよ、と命ぜられたが、その日はたうとう河童が來ず、賴純は不興氣に歸館された。その夜河童が八左衞門の枕上に立ち、年來の遺恨を是非晴らさうと思ひ、遙々こゝまで來たが、そなたの主君が勝負を御覽になるといふことであれば、最早わが存分は遂げがたい、明日は有馬へ歸る、この由を斷るため、唯今これまで來た、と告げた。人間でも卑怯な手合は寢首を搔くのに、河童は寢間まで忍び入りながら、三年以來の本望を遂げずに歸る、彼等には彼等だけの仁義があるものらしい、と書いてある。

 この話も今の人の目から見れば、發狂もしくは神經作用で解釋出來ぬこともない。肥前の敵を日向で討つ格で、疵の癒えるのを待ち、三年後に堂々と名乘りかけるのは、畜類にして人に恥ぢざるものであるが、「三養雜記」のいはゆる執念の深さを語るもののやうに思ふ。どこかで河童を見かけても、滅多に手を出さぬことである。

[やぶちゃん注:「寛永十五年」一六三八年。

「梅のすはい」梅の枝で出来た、「すわえ(楚・杪)」のことであろう(「ずわえ」「すばえ」とも言う。原文では以下の通り「ずあひ」とある)。原義は木の枝や幹から真っ直ぐに伸び出た若く細い小枝の謂いであるが、転じて刑罰に用いるしなりのある棒状の鞭(むち)や楚(しもと)を指す。

 以上は「半日閑話」の「卷六」にある「〇八左衞門河童と勝負を決したる事」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。【 】は割注。

   *

九州にては餘國と違つて河童多し。是又人の妨をすといへり。其子細は賤しき漁夫などの妻と密通し、其外存外なるいやな事多しと云。先年寬永の頃、肥前天草、嶋原、有馬、此三ケ所の百姓一揆の時委く御退治、事終て有馬左衞門佐直純の歸陣の時、彼八左衞門【失念苗字。】と云者、名に聞へし有馬の蓮池を一見せしめて其邊を步行しければ、河童一疋前後も知らず晝寢して居ける處へ行かゝり、八左衞門立寄て拔打に致候得ば、手答して刀にものり付樣に候へ共、其形見へざりけり。暫く其邊を伺ひけれども彼が死骸なかりしかば、暫く有て何やらん地中に踊入音しけり。去れど猶も死骸見へざる程に斜日に及ければ、八左衞門は立歸り。又其翌日主人歸陣に付て供仕、同州縣の居城へ歸る。【有馬と縣との行程四十人里。】斯て寬永十五年の二月より、同十七年の秋九月十四日の未の下刻に、彼河童來りて八左衞門に向て申樣は、三年以前に肥前の有馬にての疵漸頃日平癒す。依て其遺恨をとげん爲はるばると參りけり。急ぎ外へ出給へ勝負を決せんと罵る。かゝりければ八左衞門莞爾と笑ひ、遠波を凌ぎ能こそ來りたりとて、刀を引提庭上に出立て、其身壱人にて切て懸り、請つ開つなどする樣子を見れば、疑ふ處もなき亂心なりと、母や女房心得て肝を冷し、八左衞門が裏合は百石小路と云て、小身の面々の屋敷共にて有ければ、人を遣し親類共並傍輩を呼寄て、彼爲體を見せければ、誠に狂人に似たれども、さして又しどけなき事もなかりけり。夫は彼河童が姿は八左衞門が目には見へけれども、餘人の目には懸らずゆへ右の仕合也。其故に助太刀と云事もなかりしとなり。相互に戰ひ疲れ、去らば今晩は相引にして、又明日の事とて河童は立歸りぬ。八左衞門も刀を納めて内へ入りぬ。其後人々打寄て唯今の子細を尋ければ、三年以前有馬にてケ樣ケ樣の事共有つる由を語りければ、何れも手を打て、扱も扨も其義を今迄忘れず、是非共報ひをせんと年月彼が思ひにせし細志こそやさしけれ。して又彼が持たる其道具はいかなる物ぞと尋ければ、彼ものは梅のずあひの樣成物の三尺計も有べきを持て戰ひけるが、其ずあひ人に當りいか樣成痛のあるやらんも更に計り難し。第一彼かゝるわざをつまのきいたる事、中々に言語に絕たると語りけり。扨右の河童八つ頃に來りて、酉の刻迄續て三時ばかりはげみ合しか共、雙方牛角[やぶちゃん注:ママ。]の手きゝにて勝負はなかりけり。其事を主人なりける有馬左衞門佐直純聞玉ひ、仰には左樣の義前代未聞なり。然らば八左衞門が所に行て始終樣子を見物せんと仰出され、則翌日彼が宅へ御來臨有て牀机に腰を掛られ、召連られたる諸士へ御申付には、其河童譬形は見へずとも、彼來て八左衞門と相戰ふと見へ候はゞ、其邊を幾重にも取卷て迯得ぬやうに仕べしと仰付られ侯へば、我も我もと心掛け、今か今かと待居けれども、かゝる待もふけをや憚りけん。其日は河童參らざりけり。依て直純も少々御不興顏にて御歸宅ありしとなり。斯有て其夜半計、かの河童、八左衞門が枕上に立て云樣は、年來の遺恨を是非晴さんと思ひ、遠く是迄參りつれ共、今晝程は其方主君此處へ入らせられ、雌雄を御一覽あるべしとの義なれば、最早我が存分は遂難し、其故に明日は有馬へ歸るなり。此由を斷らん爲、唯今是迄來りたりしと云捨て立去りぬ。其義も後に八左衞門が語りけるとなん。此物語は豐後國の永石其孝の話し也。誠に人間さへ意趣を含み腰ぬけの振る舞ひならば寐首かく者有ㇾ之、まして河童は畜生なれども、其敵の閨の中迄忍び入けれども、三年以來念じける本望を不ㇾ遂して空しく立歸る。かれらが用る法令の有にこそと、おもへばおもへばいと恥し。

   *

なお、これは、その最後に出る豊後国の永石其孝(きこう)なる人物の記した「玉滴隱見抄」という書からの引用であることが、最後に記されてある。この話、私はすこぶる好きである。最後に大田南畝や柴田も述懐しているように、河童は人間よりも遙かに人間らしい仁義を弁えているからである。]

小穴隆一「二つの繪」(57) 「奇怪な家ダニ」(1) 家ダニは御免だ

 

 奇怪な家ダニ

 

     家ダニは御免だ

 

 芥川は大正十五年四月十五日の夜、「かういふことをいつていいものだらうか」「人にかういふこといふべきものではない。が、いつていいだらうか」「かういふことは友達にもいふべきことではない、が、友達として君は聞いてくれるか」といつて自決することを僕にうちあけた。このことは、同十年の晩秋湯河原の中西屋における一夜、同十四年は八月から九月にかけて輕井澤のつるやでみせてゐたその素振りからいつても、僕を不意に狼狽させたとはいへないのだが、芥川が芥川の口ではつきり自決するといつた以上、それはもう一人の力ではどうすることもできないことを、僕は改めて覺悟しなければならなかつた。僕は僕のいふことに耳をかして、芥川の死をくひとめにかかつてくれる人を、菊池寛、山本實彦、佐藤春夫と考へてみた。しかし僕は、僕がもしもこれらのなかの誰かに會つて話をし、その誰かが芥川になにかいふその場合は、それはかへつて芥川の自決をはやめる結果になることを思はざるをえなかつた。

[やぶちゃん注:「山本實彦」既出既注の改造社社長。以下、殆どが既出既注の事柄や人名であるのでそれらは原則、一切注さないこととする。分からぬ場合はブログ・トップ・ページで検索を掛けて戴きたい(私の現在のトップ・ページでは本書のここまでの電子化は一ページ内に収まっているからである)。]

 誰にもいへず、ただ一人でどうしたらば芥川に一日でもながく生きてゐてもらへるかと思案にくれはててしまつてゐる、さういふところに、〔これは僕の家内の叔父にして兼ねて僕の中學以來の友だちなり、御引見下さらば幸甚、小穴君、龍之介〕と書添へてもらつた名刺を持つて山本(喜譽司)さんが訪ねてきた。山本さんは、なんですか芥川が死にたいといつてゐますが、といふのだが、僕も山本さんもただ同じやうに困つたといふ感情だけで、しばらく向ひあつてゐたままでわかれて三十年の今日に至つてゐる。(私は向ふへ行かなければならないので、あとのことはなにぶんお願ひ致します、といつてブラジルに行つてしまつた山本さんの名刺の裏には、八月二十七日出發、と書いてあり、鵠沼に移つてゐた芥川のスクキテクレアクタカワの電報の日附印は七月十二日である。)どこか恒藤(恭)さんの靜かさがある人と思つてゐる、その山本さんに、僕は今度といふ今度は、はじめて手紙を書かなければならなくなつた。僕の手紙の内容は、

[やぶちゃん注:勘違いされると困るので言っておくと、以上の日付のある時系列部分は芥川龍之介自死の前年の大正一五(一九二六)年のことである。小穴隆一の文章が厄介なのは、一文や同段落の中で時間が目まぐるしく前後することである。以下の書簡発信は今度は「三十年の今日」の時制で、既に自死後の本書刊行(昭和三一(一九五六)年)直前のことである。書簡中に「三十年前」とあるのを数えで採り、前年の昭和三十年の小穴隆一の山本喜誉司宛書簡ということになろう。

 以下の書簡引用は、底本では全体が一字下げ。]

 

 芥川家では芥川の死後家ダニをわかしてゐる。家ダニは不埒にも、芥川家が受取る印税の三分の一を芥川家からとりつづけながら、そのうへに、全集の編集にいやがらせをし、且つ妨害を加へてゐる。すでに寫眞の類、一卷分になるノートの類を持去つてゐるので、岩波は二十卷と豫告はしたが、十九卷で終るのやむをえざる狀態である。岩波は奧さん(芥川夫人)さへしっかりして下されば、この際、なんとしてでも家ダニが持去つたものを取りかへして、芥川家のものとしてあげたいといつてゐるが、奧さんの態度がしつかりしないかぎり、これは如何ともできない。恐らく、家ダニはあと一、二年で版權がきれるその時を待つてゐるのであらう、あなたが持つてゐる芥川の寫眞や手紙を岩波に貸していただきたい。僕の現在の氣もちは、三十年前にあなたと會つたときと同じさまです。

 

といふのだ。

[やぶちゃん注:「全集」既注の戦後の第三次新書版全集。昭和二九(一九五四)年十一月から刊行が開始されて翌年の八月に刊行を終えた。全十九巻・別巻一。

「あと一、二年で版權がきれる」旧著作権法下では著作権は三十年(一九七〇年改定で五十年に延長)であったから、芥川龍之介の著作権は昭和三三(一九五八)年一月一日〇:〇〇を以って消滅した。]

 家ダニは筑摩書房の文學アルバムの芥川龍之介(二十九年十二月發行)の編集にことよせて、芥川家から芥川の寫眞を皆持去つたままで返さずにゐる。これで岩波は口繪寫眞を探すのに困つた。また抑へてゐる一卷分になるノートの類は、それを提出しないばかりではなく、その一部椒圖志異(三十年六月ひまわり社發行)を、禁轉載と掲げて出版し得意顏でゐる。このことは、奧さん(芥川夫人)には、岩波の全集には掲載を禁ず、と、ことわりがきをつけると揚言してゐた振舞であり、僕らに對してはこざかしい挑戰である。

[やぶちゃん注:「椒圖志異」芥川龍之介の趣味であった直筆の怪奇談蒐集帖で手書きの絵図等も含まれるもの。私は自分のサイト「鬼火」開設の最初期に既に全文を芥川龍之介 椒圖志異(全) 附 斷簡ノートとして公開している。このページを作った時には、実は私は小穴隆一同様、葛巻義敏に対する強いアレルギーを感じながら電子化した(それは一種のダニ・アレルギーだったのだなぁと今更に得心した)ことを、ここに初めて告白しておく。]

 僕は昭和七年十二月號、八年一月號の中央公論に「二つの繪」なるものを覺悟の上で發表して人々の憤慨を買つた。これは當時の記者、今日の社會黨の代議士佐藤觀次郎君がつけた「芥川龍之介自殺の眞相」といふサブ・タイトルがいまだに利用されて、なにかといふと、坊間の解説家たちに字數を稼がせてゐるたねであるが、人々は、當時、僕が單なる僕のメモにすぎない原稿を觀次郎君に渡すときに、これは修身ともいふべきものだ、といつて渡してあることを知らないのだ。もし幸ひに今日この「奇怪な家ダニ」が觀次郎君の目に觸れるならば、觀次郎君には僕がいつてゐた、修身といふことばの意味がはじめて了解できると思ふ。

[やぶちゃん注:「佐藤觀次郎」(明治三四(一九〇一)年~昭和四五(一九七〇)年)は愛知県出身。早稲田大学政経学部経済学科卒業後、中央公論社に入り、昭和八(一九三三)年に編集長、同十二年には中京新聞社取締役編集総務となった。戦後、昭和二二(一九四七)年、愛知県三区から衆院議員に当選、以来、当選八回。社会党教宣局長・社会党両院議員総会長・衆議院文教委員長などを務めた(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「これは修身ともいふべきものだ」葛巻義敏を始めとして死せる芥川龍之介の死骸に未だに寄生して甘い汁を吸っている、指弾すべき批判すべき輩は有象無象腐るほどいるけれども、あくまでこれは私にとっての「修身」、自分の心と行いを治め正すことをまず目的として示すものだ、という謂いか。しかし多分、佐藤にも分らんよ、小穴さん。]

「二つの繪」は、前がきに□□□を食べ云々と書いたが、その食べた人達の無慙さに對しての憤りや、誰にも親しまれてゐた人間が、芥川が死ぬと、たちまちにして芥川家にうまれた家ダニの卵になつてゐるのをみてゐる不快さなどによつて書いてゐたのだ。

[やぶちゃん注:『二つの繪は、前がきに□□□を食べ云々と書いた』先行する「鯨のお詣り」の「二つの繪」パートの冒頭添書きを指す。以下。なお、近日、「鯨のお詣り」の電子化も開始する。

   *

 

 あはれとは見よ。

 自分は娑婆にゐてよし人に鞭打たれてゐようとも君のやうに、死んで燒かれた後の□□□を、「芥川さんの聰明にあやかる。」とて×××種類のフアンは一人も持つてゐない。それをわづかに、幸福として生きてゐる者だ。

        昭和七年秋      隆一

 

   *

いつもの小穴調の持って回った言い方に加え、意味深な伏字になっていて読解が難しいが、私は、本書の後半に横溢する葛巻義敏への強い糾弾内容から、

 

君のやうに、死んで燒かれた後のしやりを、「芥川さんの聰明にあやかる。」とて喰らふ種類のフアンは一人も持つてゐない。

 

と読み換えている。「しやり」は「舎利」で遺骨である。大方の御批判を俟つものではある。]

 僕は腹をすゑてブラジルの山本さんに、芥川家では、芥川の死後家ダニをわかしてゐると書いて送つた。(家ダニは芥川家の人達が「姉と弟とは義絶をしろ、義敏には三年間生活をみてやれ」といふ芥川の遺書を忘れてゐるうちにわいた。芥川は人一倍用心ぶかい男ではあつたが、情には脆すぎた。その芥川が、義絶を遺書にしておいたのはよくせきな事情があつた筈である。)僕は旅先に𢌞送されてきた山本さんの謙虛な手紙にガクンとなつた。〔小生と芥川とは中學、高等學校の頃の友達で芥川と私と、そしてもう一人平塚(これは〝吾が舊友〟と題した雜文中で出て來ます)が中學校で友達で、この三人が各々發狂した母を持つたと言つた奇緣で一つのグループを成してをりまして、この三人の間の話や手紙は鬼氣を帶びてをりました〕(十卷學校友だち二〇七頁參照)といふ。僕は芥川は所詮助からぬ人であつたかと、嘆きをまた新にしたのである。

[やぶちゃん注:小穴隆一は山本が姪である芥川龍之介未亡人文に葛巻との関係を完全に絶つように厳命してくれるものと思っていたのである。そこには龍之介亡き後の文や子らが、龍之介の遺書に反して彼と距離を置いていることから見ても、既に小穴隆一に対する不評は文から逆に叔父喜誉司に送られていたものと私は読ぐらいである。そうして、本書の芥川龍之介は橫尾龍之助とする私生児説、伯母フキが実母だというトンデモ発言、本章以下の葛巻ダニ義敏徹底駆除主張で、小穴隆一と芥川家は完全に切れたと言ってよいと私は考えている。そうしてそこには小穴隆一という男の性格の中に潜む、ある異常な一面を私は垣間見るようにも感ずるのである。但し、それでも世の芥川龍之介研究者が小穴隆一証言をその奇矯性から第一次資料として採り上げないのは、画竜点睛を欠くものでもあると大真面目に思っていることも言い添えておく。

「〝吾が舊友〟と題した雜文」既に「養家」で注したが、大正一四(一九二五)年二月発行の『中央公論』に掲載された「學校友だち ――わが交友錄――」の誤り。既に養家」の注で引用した。]

小穴隆一「二つの繪」(56) 『「芥川龍之介」讀後』

 

 「芥川龍之介」讀後

 

 大正十二年の夏を鎌倉の平野屋ですごしてゐたときに、離座敷にゐた岡本かの子、芥川さんと何何さんとは關係がありはしませんか、わたしは芥川さんに會ひたくて、前に何何さんに紹介してとたのんだのですが、何何さんは、芥川さんはわたしの紹介がなければ、女の人には合はないといつてました、何何さんがさういふことをいつてるところをみると、わたしには、確かに關係があると思はれます、と、かの子のねばり強さで詮議をされたときには困つたが、「芥川龍之介」が文學界に載りはじめたときに、宇野さんの文章で、芥川の「早業」が書かれてゐるのをみたときも困つた。宇野浩二の奴、困つた奴だと思ひながら續きをつづけて讀んでゐるうちに、話はいつか芥川の作品についての感想批評に移つてゐた。それが僕のやうに、芥川の書いたものに對して、批評ぬきであつたものには、いい手引になつた。いちいちもつともと頭をさげた。

 が、生徒といふものは、教師の顏をみながら、えてしてくだらぬことを考へてゐるもののやうで僕もまたその例にもれない。

 宇野さんは、芥川の木のぼりの映畫を、(さて、映畫が開始されると、すぐこの陰氣な暗い風景があらはれ、「おや」と思つてゐる間もなく、平屋の家の屋根の上に、頭から、肩から、しだいに姿をあらはしたのが芥川だ。やがて屋根の上に全身をあらはした芥川は「ぱつと兩手を左右に開いたかと思ふと、目にもとまらぬ早さで、枯木のやうな樹木の枝に飛びつき、兩手で枝をにぎると殆んど同時に飛鳥のごとく、股をひらひて、木の股に兩足をかけた」と説明してゐるが、芥川は下からのぼり、樹の枝をつたはつていつて手摺を跨いで、二階の部屋にはいつてゐるのだ。大體氣味のわるい、さうして、一秒に十六コマといふ動作がぎくしやく映る昔のフィルムだから、みる人に錯覺をおこさせる代物だが、宇野さんの頭にもさう逆に映つてゐたのが面白かつた。その映畫のフィルムは芥川の家に保存されてゐるであらうし、岩波書店にもあつて、僕は田端でみてから廿六年ぶりで去年また岩波でみせてもらつてゐる。

 宇野さんとは、「秋山圖」の趣向をとつた本は、芥川が僕にくれた甌香館集の補遺畫跋のなかにある記秋山圖始末であらうことや、「馬の脚」について當時の、いろいろのながい話と事情などを話合つてみたいと思つてゐるが、芥川に紹介され、瀧井君に紹介されてゐても、どういふものか、宇野さんとはまだいつもお互にお時儀だけに終つてしまつてゐる。

 芥川が、宇野がといつて、宇野さんの話をするときの、宇野がといふことばの調子には宇野さんに對する愛情があつたものだ。宇野さんも「芥川龍之介」のあとがきを淚をこぼしこぼし書いてゐたことであらうと思つてゐる。

           (昭和二十八年六月)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧クレジットは、底本では二字上げ下インデントである。

「何何さん」一応、秀しげ子としておくが、これは当時の岡本かの子の状態(精神変調から回復した予後状態)から考えると、ちょっと別な女性(例えば当時、平野屋に同宿していた谷崎潤一郎の先妻千代夫人の妹で女優の小林勢以子)の可能性などもある(勢以子と芥川龍之介との関係を噂する向きも事実あるが、私は全くないと考えている)。

「芥川龍之介」盟友宇野浩二による渾身の大作「芥川龍之介」は昭和二十六(一九五一)年九月から同二十七(一九五二)年十一月までの『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期に連載されたもの。私の電子テクスト注下巻を参照。

『宇野さんの文章で、芥川の「早業」が書かれてゐる』私の宇野浩二「芥川龍之介 で「早業」で検索されたい。

「芥川の木のぼりの映畫」既出既注の、元は改造社の円本全集「現代日本文学全集」の宣伝用フィルム」であるこちらYou Tube0:30以降の動画)。

「宇野さんの頭にもさう逆に映つてゐたのが面白かつた」これは技師が誤って逆様にフィルムを回したか(当時の映写機ではその可能性はないと思う)、或いは、私には宇野浩二の精神病の後遺症による病的な記憶変性とも読めるが、如何?

「甌香館集の補遺畫跋のなかにある記秋山圖始末」複数回、既出既注。]

小穴隆一「二つの繪」(55) 「映畫の字幕」

 

 映畫の字幕

 

 昭和二年、久米正雄が製作した映畫のなかに、死ぬ前の芥川龍之介のものがある。それを、當時のものは一秒に十六コマであるが、今日のものは二十四コマと教はり、芥川龍之介の死後、田端の芥川の家で大勢の人達といつしよに見た時から數へると、二十六年ぶりになるが、思ひがけず岩波映畫製作所で再び見る機會を得た。岩波書店では、その映畫に登場してゐた時には、數へ歳八つと三つの此呂志、也寸志の兩君、それに行年何歳かであつた僕との三人に、昔の古いフィルムを寫してみせ、その見てゐるところを撮影して、短かすぎるフィルムに後をつけてのばしたものを作り、地方の講演會に使ふものの一つにしようといふのであつたが、芥川龍之介が映つてゐるフィルムといふのは、「パパ木登りをしよう」「小穴君たまにはトランプもいいね」のほんの僅か二た場面のものである。

 映畫に現はれる芥川は、誰れもがなつかしむ、颯爽たるおもかげはみせずに、世にも悲しい顏で出てくるのを豫かじめ覺悟でゐたが、「パパ木登りをしよう」といふ、覺えのなかつた傍若無人のその字幕には、僕は驚きもし、不服であり、得心できないことであつたから、その場で、芥川のところでは、當時、養父も養母も、伯母さんも、僕ちやん(比呂志君)までも、芥川を〝龍ちやん〟といつてゐたもので、芥川家はパパ、ママなどといふハイカラさの無い家であつたのだから、字幕は改むべきであると指摘して、比呂志君の同感を得たが、岩波の人は、龍ちやんではいまの人には通じないといつてゐるだけであつた。僕は暑さと不愉快で、映畫には、岩波のK氏の解説が錄音されると聞いてゐたことも忘れて、そのときは、さうか、やんぬるかなで歸つてきてたが、その七月十三日からは、パパと龍ちやんが、頭のなかにくすぶつてて困つてゐるのである。

 僕は今日でも、字幕のパパを龍ちやんに改めるか改めないかは、岩波書店が、記錄映畫として持つてゆくか、それとも商業映畫に墮して持つてゆくかの境だと思つてゐる。龍ちやんちとパパとの相違が、存外いまの人にすぐ通じて、芥川龍之介全集の本家の、岩波の人には通じないのだとも疑つてゐる。(昭和二十七年)

[やぶちゃん注:最後の丸括弧クレジットは、底本では本文から下がって二字上げ下インデントである。

 ここで小穴隆一は「久米正雄が製作した映畫」と言っているが、これは少なくとも後半部分は小穴自身が先のヴァレンチノで「現代日本文學全集の宣傳用フィルム」としたこちらYou Tube0:30以降の動画)のフィルムである。「小穴君たまにはトランプもいいね」は見たことも聴いたこともないから、或いは同宣伝用フィルムの未使用部を継ぎ合せて久米が新たに編集したものだろうか? 識者の御教授を乞うものである。孰れにせよ、ここで語られている岩波映画製作所のものは、それに新たに勝手なテロップ「パパ木登りをしよう」「小穴君たまにはトランプもいいね」が附けられてしまったもののようである。この画像は岩波に残っていないのだろうか? この小穴の岩波への憤懣は非常に共感するものである。]

 

小穴隆一「二つの繪」(54) 『「羅生門」の一册』

 

 「羅生門」の一册

 

 私のところにある芥川さんの本は、芥川さんから貰つたり、本屋さんから貰つたりしたものばかりで、買つたといふのは、大正六年に、阿蘭陀書房が出版した、羅生門の一册、それきりです。芥川さんの本は、いろいろな形で、あちこちから、隨分と出てゐて、私のところにあるのだけでも、積重ねれば、背丈を越えてゐます。が、そのなかで、私は羅生門が、――大道の古本屋にあつたのを、三十年の昔、五十錢で買つたこの羅生門の一册が、そのなかのどれよりも、一番なつかしいのです。

 今日、芥川さんの本として、珍重すべき點から申しますと、同十四年に、新潮社が出版した、現代小説全集の第一卷である、芥川龍之介集を、あげなければならぬのかもしれません。これには、お時儀のところですが、五百八十三頁の第一行、お孃さんは十六か十七であらう。いつも銀鼠の帽子をかぶつてゐる。のところの、いつもの次ぎに、銀鼠の外套に、の六字、十四行目、もし鎭守府司令長官も頓死か何か遂げたとすればこの場合は、の、の間に、ダッシュを、芥川さんの手で、書きいれてあります。大正十五年四月十五日に、自決すると私に告げた、後のことでありますが、芥川さんが私のゐたアパートにきて、部屋にはいるなり、君、龍之介集を一寸といふので、とりだして渡すと、ペンをとつて、この書きこみをして、全集のときに訂正を、といつてゐたものです。それで、本來ならば、今日、この本のはうが、羅生門よりは芥川さんを身近かにかんじられさうなものなのですが、中扉に、君看ずや雙眼の色、語らずして愁ひ無きに似たり、次の紙には、夏目漱石先生の靈前に獻ずと刷つてある、阿蘭陀書房版の羅生門のはうが、私には、芥川さんの呼吸を身近かにかんじられてなつかしいのです。

 一昨年の秋、私はたまたま昔の阿蘭陀書房、即ち今日のアルスの北原鐡雄さんに、あなたはうちで出した芥川のものを持つてゐるさうですねえ、といはれて、その北原さんに、羅生門を出されたのは、あなたのおいくつのときでしたと申しましたが、北原さんの年齡、それは必ずしも羅生門のためばかりのわけではなく、芥川さんの始めと終りの二度、芥川さんが生涯で一番元氣であつた時と、おそらくはその中間を空白でゐて、また、一番へこたれてしまつてゐた時とに會つてゐる、北原さんのまはりあはせを承知してゐて、その年齡をたづねたのですが、それはそれとしておきまして、北原さんのさつぱりとした昔話は、少くとも、羅生門出版の由來については、淡々として話をされてゐたが、その因緣は全くもつて初耳のことでありましたから、今日はそれを一寸、みなさんに、お傳へ致しておかうと思ひます。

 芥川さんの處女出版、羅生門は、芥川さんが數へ年二十六の時のものであります。北原さんは、その時二十七であつたさうです。北原さんの話では、私はそのときまで、芥川といふ名さへ知らなかつたものです。私は與謝野鐡幹から、今度、芥川といふめづらしい小説を書く男がでた。是非その男の本を出すやうにといふ手紙を貰つて、その鐵幹の手紙で田端に行つて芥川に會つたものですといふ、まことにあつけない話でありますが、鐡幹與謝野寛(ひろし)の手紙でもつて、芥川さんの處女出版が、阿蘭陀書房の手で行はれたといふことは、文壇のふるい人達にも、いや、死んでゐる芥川さんにとつてさへ、存外、初耳のことではなからうかと思はれるのであります。但し、この話には、話をありのままに聞かせてくだすつた、北原さんのためにも、どうか、當時の文壇といふもの、また本屋といふもの、また、北原さんが、その兄さんの北原白秋のために、本屋を志されたのかと思はれる人で、當時は歌や詩のほうの本を主に出してゐて、小説本の出版は頭になかつたらしい點をも、お考へにいれておいていただきたいものです。

 羅生門についての、北原さんのあつけないこの話は、芥川さんの現はれかたが、如何にめざましくあつたかといふことの説明にもなりませうが、なほつけ加へて申述べますと、私は北原さんが鐡幹の手紙で芥川さんを田端に訪ねたといふことを聞いて、ひそかに、鐡幹の手紙ならば、それは、スゴかつたらうといふ、面白さをかんじたのであります。と申しますのは、私は以前、伊上凡骨といふ奇骨ある彫師、木版のです。その凡骨の伜に、與謝野先生はこれこれしかじかの事をされたといふが、それは本當の事でせうかと、その眞僞を正されたことがあるからであります。事の眞僞は、鐡幹その人に全く會つたこともない私には、答へやうのない意外な話であつたのですが、凡骨の伜は、與謝野さんが、若い時に所謂志士としてあるところで活躍したその昔話を、凡骨に聞かせた、聞かされた父の凡骨がまた家の者にそれを傳へたのを、こどもの時に小耳にしてゐたが、後に與謝野さんに接してみると、その面差からは、與謝野さんが左樣なはげしい眞似をされたとは思はれぬのがふしぎで、私にたづねてゐたものです。ともあれ、鐡幹與謝野寛が、たのまれもせぬであらうに、芥川さんの小説本を出版するやう、北原さんに手紙を書いてゐたといふことは、大層面白いことでありませう。與謝野一派の雜誌であつた「明星」の表紙の文字は伊上凡骨の彫りと思つてをりますが、この凡骨には、私も芥川さんのものの本のときには、厄介をかけてをりましたものです。

 今日の話はこの邊で終りますが、夏目漱石先生の靈前に獻じたその最初の本の羅生門の扉に、君看ずや雙限の色、語らずして愁ひ無きに似たりといふことばをはさみ、さうして、漱石先生の書いた風月相知るの額を座敷にかかげてゐた、數へ歳二十六の芥川さん、三十六歳で漱石先生のその風月相知るの額の前にうなだれて自決を告白するあはれさのなかにも、なほ、恥ぢるのは、夏目先生に對してだけであるといつてゐた芥川さんの面目を知つてゐて、その作品を讀まれたいと思ひます。

 阿蘭陀書房版の羅生門には、無限のなつかしさがあるのであります。

             (ラジオ東京にて)

[やぶちゃん注:最後の「(ラジオ東京にて)」は底本では二字上げ下インデント。なお、ここに記されている芥川龍之介処女作品集「羅生門」出版秘話はまさに秘話近いもので、必ずしも研究者間の周知の事実話ではないものと思われる。例えば、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の独立項の作品集「羅生門」にはこうした事実は一切、記載がないことを見ても明らかである。

「お時儀のところですが、五百八十三頁の第一行、お孃さんは十六か十七であらう。いつも銀鼠の帽子をかぶつてゐる。のところの、いつもの次ぎに、銀鼠の外套に、の六字、十四行目、もし鎭守府司令長官も頓死か何か遂げたとすればこの場合は、の、の間に、ダッシュを、芥川さんの手で、書きいれてあります」これはまず前者は「お時儀」(初出は大正一二(一九二三)年十月発行の『女性』で、初出時の題名は「お時宜」。後に作品集「黃雀風」(こうじゃくふう:芥川龍之介第七短編集。大正一三(一九二四)年七月新潮社刊)及び「芥川龍之介集」(ここで小穴隆一が問題にしている、大正十四年四月一日新潮社刊の「現代小説全集」の第一巻である)に「お時儀」の題で収録された)の形式段落第三段目で、現行では(底本は岩波旧全集を用いたが、読みは振れそうな一部に留めた。全文は「青空文庫」のここで読めるが、これは新字新仮名であり、しかも一部の本文表記に問題があり(漢字が平仮名化されてしまっていたり、ルビが誤っていたりする)、到底、芥川龍之介の正統な電子テクストとは言えない代物である)、

   *

 お孃さんは十六か十七であらう。いつも銀鼠(ぎんねずみ)の洋服に銀鼠の帽子をかぶつてゐる。背は寧ろ低い方かも知れない。けれども見たところはすらりとしてゐる。殊に脚(あし)は、――やはり銀鼠の靴下に踵(かゝと)の高い靴をはいた脚は鹿の脚のやうにすらりとしてゐる。顏は美人と云ふほどではない。しかし、――保吉はまだ東西を論ぜず、近代の小説の女主人公(ぢよしゆじんこう)に無條件の美人を見たことはない。作者は女性の描寫になると、大抵「彼女は美人ではない。しかし……」とか何とか斷つてゐる。按ずるに無條件の美人を認めるのは近代人の面目(めんぼく)に關(かゝは)るらしい。だから保吉もこのお孃さんに「しかし」と云ふ條件を加へるのである。――念の爲にもう一度繰り返すと、顏は美人と云ふほどではない。しかしちよいと鼻の先の上つた、愛敬(あいきやう)の多い圓顏(まるがほ)である。

   *

となっている。底本後記にもこの部分については全集が底本とした「黃雀風」ではなく、初出に従った旨の記載がある。後者はその次の次、形式段落五段目で、現行では、

   *

 保吉はお孃さんの姿を見ても、戀愛小説に書いてあるやうな動悸などの高ぶつた覺えはない。唯やはり顏馴染みの鎭守府司令長官や賣店の猫を見た時の通り、「ゐるな」と考へるばかりである。しかし兎に角顏馴染みに對する親しみだけは抱いだいていゐた。だから時たまプラットフォオムにお孃さんの姿を見ないことがあると、何か失望に似たものを感じた。何か失望に似たものを、――それさへ痛切には感じた譯ではない。保吉は現に賣店の猫が二三日行くへを晦(くら)ました時にも、全然變りのない寂しさを感じた。もし鎭守府司令長官も頓死か何か遂げたとすれば、――この場合は聊か疑問かも知れない。が、まず猫ほどではないにしろ、勝手の違ふ氣だけは起つた筈である。

   *

と、芥川龍之介が小穴のところで書き入れたのに加えて前に読点も打たれた形になっている。しかし底本後記にはこの箇所の注記が全くないから、こちらは芥川龍之介が「黃雀風」ではそうしたのにも拘わらず、「芥川龍之介集」の版組の際に落ちてしまったものを、芥川龍之介自身が見落としたものと考えねばならぬ。これらを見ると、芥川龍之介は再録されるものは校正段階では必ずしも綿密に見ていなかったことが判るが、原稿催促に四苦八苦していた彼とすれば、むべなるかな、ではある。

「北原鐡雄」(明治二〇(一八八七)年~昭和三二(一九五七)年)は北原白秋の弟で出版人。写真や文学を専門とする出版社「アルス」を設立して代表を務めた。参照したウィキの「北原鉄雄」に『アルスは北原白秋の作品も出版した』とある。ウィキの「アルス出版社他によれば、『アルス(ARS)は、かつて日本に存在した出版社で』、社名は『ラテン語で「芸術」の意。前身は白秋・森鷗外・上田敏を顧問に迎えて大正四(一九一五)年に創立した『和蘭陀書房で、雑誌『ARS』を刊行していた』。大正六(一九一八)年に『社名をアルスとし』た。『主として文学書や美術書を出版。戦前・戦後に渡って代表的なカメラ・写真専門誌であった月刊「カメラ(CAMERA)」を発行したことでも知られる。またアルスを退社した北原正雄(鉄雄らのいとこ)は玄光社を興し、斎藤鵠兒編集による『写真サロン』を創刊』、「アルス最新写真大講座」などの講座シリーズも刊行している。昭和二(一九二七)年から『刊行された「日本児童文庫」シリーズが、菊池寛企画の興文社刊行「小学生全集」と競合し、訴訟・中傷合戦となったことでも知られている』。『戦時中の出版統制により、アトリヱ社(代表者は四男』(鉄雄の弟)『の北原義雄)と合併して、北原出版株式会社となった。戦後は社名をアルスに戻し、美術雑誌「アトリヱ」を復刊』させている、とある。なお、作品集「羅生門」刊行時(大正六(一九一七)年五月二十三日)の北原鉄雄の年齢(芥川龍之介より五歳年上)は満三十一歳である。

「伊上凡骨」既出既注

「與謝野さんが左樣なはげしい眞似をされた」思うにこれは、乙未事変(いつびじへん:閔妃殺害事件(李氏朝鮮第二十六代国王高宗の王妃であった閔妃が一八九五年十月八日に三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊・領事館警察官・日本人壮士(大陸浪人)・朝鮮親衛隊・朝鮮訓練隊・朝鮮警務使らによって暗殺された事件)に当時、朝鮮にいた与謝野鉄幹が関与していたという説を指すものであろう。]

 

小穴隆一「二つの繪」(53) 「芥川の句碑」

 

 芥川の句碑

 

Akutagawakehenosaka

 

[やぶちゃん注:以下、上掲の写真キャプション。この撮影者田中宏氏を同定し得なかったことから、没年を確認出来ていない。従って、これと同じく次の写真については著作権が存続している可能性がある(撮影は最後のクレジットから昭和二九(一九五四)年初年初かその前年と推定される)。この二枚の写真は田端の旧芥川邸へのアプローチと焼け跡を伝える極めてレアな画像であり、敢えて今は掲げておくこととする。御本人或いは著作権継承者から御指摘があれば、直ちに除去する。]

田端驛裏出口からいつて、芥川家趾にでる路には昔のおもかげが殘つてゐた。石疊のつきあたりは、芥川家の門があつたところである。

          田中宏撮影

 

Akutagawkeato



[やぶちゃん注:以下、上掲の写真キャプション。同前。老婆心乍ら、「蹲」は「つくばひ(つくばい)」と読む。手水鉢(ちようずばち)。]

燒けた蹲と靴脱    田中宏撮影

 

 去年の五月八日、佐佐木茂索君は、――突然ですが田端に澄江堂句碑を建てたいと思つてゐます。實地を檢分しないと、建つか建たぬか分らないが、土地の都合がよければ建てる氣でゐます。大體の小生の腹案は、表面に例の水涕やの句を故人の文字のまま彫りつけ、裏に佐藤春夫に何か書いて貰ひたいと思つてゐます。そして全體の形とか何とかは、大兄に考案して欲しいと思つてゐるのです。本來なら、實地を檢分して、可能性を確めてから、大兄その他と十分相談してきめるべきが順と思ひますが、出來れば七月二十四日に除幕式をやりたいくらゐの急いだ氣もちでゐるので、一應右の腹案を申上げ、何か考へておいて欲しいと思つてゐる次第です。終焉の地といふのを今のうちに、はつきりさせておくのは必ずしも無意義でないと考へてゐる次第です――といふ手紙をぼくに書いてゐた。手紙をもらつて僕は、佐佐木君が僕を忘れないでくれてたのはうれしかつたが、芥川が僕に繰返し注文してた墓の形、家人にあてた遺書のなかにも圖まで畫いてゐたその形と、染井の墓との相違など、あれこれにこだはりながら向島に行つて、三圍神社の境内や百花園にある、それぞれの碑の形などを見て步いてゐたが、その後佐佐木君から音沙汰はなく、七月二十四日もすぎて殘暑のころであつたであらう。たまたま、岩波映畫製作所で、比呂志、也寸志の兩君と顏を合はせて、そのときに比呂志君から、現在の借地人である人には理解があり、碑を建てる餘地はあると聞いた。此呂志君からはさうは聞いたが、先決問題と考へる地主さんのはうの意向は、依然としてどこからも耳にはいつてはこなかつた。

[やぶちゃん注:私は今回、ここを再読して、今回、ある感慨を持った。稀代の作家芥川龍之介とはいえ、その自殺した場所に、その辞世(実際の辞世詠ではないが、句は確かに、立派な辞世ではある)の、

 

 水涕や鼻の先だけ暮れのこる    龍之介

 

という、アイロニックな諧謔の蔭に、寂寞々たる詩人の横顔のシルエットの鬼気の迫る一句を、故人の文字のままに彫りつけた句碑を、私が普通の市井人の借地人或いは地主なら、丁重にお断りするであろう。考えてもみたまえ、こんな碑が建っていたら、芥川龍之介ファンを称する有象無象が句碑拝観にやって来るのだ。田端駅からのアクセスも近い。存在したら、恐らくは毎日曜は今でも行列が出来ることであろう。私はそれを想像するに、あの世の芥川龍之介も慄っとすると思うのである。

「去年」末尾クレジットから昭和二八(一九五三)年。

「芥川が僕に繰返し注文してた墓の形、家人にあてた遺書のなかにも圖まで畫いてゐたその形と、染井の墓との相違」またしても小穴隆一の驚天動地の呟きが出る。まず、現行、知られている芥川龍之介の遺書類(最新のものは 芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫』で)には自分の死後の墓の図などは記されていない。小穴がかく言う以上、別に、墓の仕様を描いた芥川龍之介の遺書(或いは小穴が前に言った遺書の下書き)がある(あった)ということになるのである。次に、現在の慈眼寺にある芥川龍之介の墓は一般には芥川龍之介の遺志に基づいて彼遺愛の座布団と同じ寸法に創られた方形の墓で、その正面にある「芥川龍之介墓」の文字は小穴隆一の筆になるにも拘わらず、ここで小穴隆一はこの墓のフォルムは芥川龍之介の遺志とは違うと批判しているという点である(実は私は二度墓参りをしているが、座布団云々の遺志はよいとして、あの箱を二つ積み重ねたようなずんぐりむっくりした墓は正直言うと形状として決してよいとは思わない。彼のダンディさが一向に伝わってこないからである)。

「三圍神社の境内や百花園にある、それぞれの碑」「三圍神社」とは、現在の東京都墨田区向島二丁目にある三囲(みめぐり)神社であるが、その境内には「一勇斎歌川先生墓表」(明治六(一八七三)年建立の浮世絵師歌川国芳顕彰碑)が知られるものの、芥川龍之介関連の碑はない。近くの芥川龍之介の出身校である両国小学校(旧江東小学校)に「杜子春」の一節が刻まれている「芥川龍之介文学碑」はあるが、これはごく最近の建立であるから違う。「百花園」は向島百花園で、現在の東京都墨田区東向島三丁目にある都立庭園で、現在、芭蕉を始めとする多くの句碑が建つが、やはり芥川龍之介関連の碑はない。小穴のこれは単に他者の顕彰碑や句碑の「それぞれ」を参考に見たことを言っているものであろう。]

 芥川の句碑の話は、比呂志君と會つたその前と思ふが、文藝春秋の俳句會の席で、佐佐木君から田端の家の燒跡はどうなつてゐるか、碑を建てる地面があるか、ないかと、話がでたときに、久保田万太郎さん、瀧井孝作君、僕も皆、實地を檢分しないでて、無いであらうといふ説に傾いたが、それからおのづと跡絶えてしまつてゐたやうすである。

 話は跡絶えてた、跡絶えさせたのは、ぼくたち老人どもが想像に安んじてて、一應現場を見てみることをしないでゐたからだが、人を責めるのでなく、人に詫びなければならないのはどうやら僕自身のやうに思ふ。

 僕はさいきん、芥川の家の燒跡にはじめて行つてみた。それは句碑のためではなく、芥川が自決の前に、行先を言はずに僕を連れだして、實家の墓に詣うでたその足で「或阿呆の一生」のなかにでてくる、淺草の女性にも告別に行つてゐる、その教へられた谷中の天王寺墓地のところは、美術館からは遠くもなし、田端、日暮里と、省線ですむところなので谷中のついでに田端の跡を見たといふ次第であつたが、燒跡に立つて僕は、芥川の家の門をあけてはいつてゐるやうな氣がしてゐた。かつて、芥川の家の門のあつたところの垣の破れからはいつたが、建物が消えてみると思ひのほかに廣かつた地面に、母屋についてゐた蹲と履脱が、まるで留守番してた恰好で、昔のままでゐたといふやうにあつた。高サ三一吋半ほどの蹲には、梯子や戸板の如きものが三方からたてかけたままになつてゐたので、それが留守番が子供達に頭や肩にとつつかれて留守番してゐたといふやうに思へた。僕は、芥川のところにはいつた強盜が、二十圓をとつて逃げるときに、蹲で向脛を疵つけたといふことなどを思ひ出しながら早く實地檢分をしないでゐたことを、だれにとなく申譯なく思ひ、外遊中の佐佐木君が歸國するまで、だれも手をつけずに現在のままにしておいて欲しいと急いだ氣もちになつた。

[やぶちゃん注:『芥川が自決の前に、行先を言はずに僕を連れだして、實家の墓に詣うでたその足で「或阿呆の一生」のなかにでてくる、淺草の女性にも告別に行つてゐる』自決一ヶ月前の昭和二(一九二七)年六月二十五日のこと。宮坂覺氏の新全集年譜の同日の条に、『小穴隆一とともに谷中墓地に出かけ、新原家の墓参をする。浅草の「春日」に行き、馴染みの芸者小亀と会う』とある(但し、これは本書がソース)。「或阿呆の一生」云々は不審。そのような条はない。小穴は別な作品或いは別な女性と勘違いしているように思われる

「谷中の天王寺墓地」現在、谷中墓地と称される区域は都立谷中霊園の他、天王寺墓地と寛永寺墓地が含まれている。但し、これは小穴は谷中霊園を言い換えただけで、新原家の墓が谷中の天王寺分の墓域にあるという意味で言っているのではないように私には思われる。

「高サ三一吋半ほどの蹲には、梯子や戸板の如きものが三方からたてかけたままになつてゐたので、それが留守番が子供達に頭や肩にとつつかれて留守番してゐたといふやうに思へた」「三一吋半」三十一インチ半は八十センチメートル。これによって先に掲げられた写真はそれらを取り除けて撮影したことが判る。この小穴隆一の描写は私には、恰も、かの芥川龍之介の「河童」(リンク先は私の電子テクスト)の「五」の『窓の外の往來にはまだ年の若い河童が一匹、兩親らしい河童を始め、七八匹の雌雄の河童を頸のまはりへぶら下げながら、息も絶え絶えに步いてゐました』というシーンを想起させた。

「芥川のところにはいつた強盜」宮坂年譜によれば、大正一三(一九二四)年七月九日の午前三時頃、強盗が便所の窓から侵入、短刀を突きつけられた上、二十円を奪取され、『犯人は、一六歳の早稲田実業本科生で、十月六日に逮捕された』とある。堀辰雄関連の個人サイト「タツノオトシゴ」の堀辰雄年譜には、出典は明らかではないが、この事件を記し、『50円要求されるも値切った』とあるのが面白い。芥川龍之介らしい気はする。]

 田端驛の裏出口をでて、小さい階段をのぼるときに、芥川に自決のこころを打明けられた後で、君も鵠沼にきてくれで鵠沼にゆき、鵠沼を引きあげると、またそばにゐてくれで、田端にゐた懷舊にふけるよりも、窪川鶴次郎君を考へて羞づかしかつた。窪川君は顏を知つてゐても附合ひはなかつたが、空襲中隻脚義足の僕に、芥川の家の前を通つてては、度々樣子を書いて知らせてくれてゐた。

[やぶちゃん注:「通てては」はママ。衍字か。

「窪川鶴次郎」(明治三六(一九〇三)年~昭和四九(一九七四)年)は小説家・文芸評論家(以上は講談社「日本人名大辞典」を参考にした)。静岡県出身で第四高等学校(国立金沢大学の前身)中退。大正一五(一九二六)年に中野重治らと同人誌『驢馬』を創刊。昭和二(一九二七)年の芥川龍之介自死前に佐多稲子と結婚(後に離婚)、プロレタリア文学評論で活躍したが、昭和七(一九三二)年に検挙・投獄されて転向した。戦後は新日本文学会で活動した。]

 終戰の四年目と思ふ。用があつて鵠沼に、芥川の奧さんを訪ねたが、奧さんに停留所まで送られて歸るときに、昔僕たちがゐた家のほうの路をまはつてみて、芥川が「河童」に手をつけてゐた家の前を通り、芥川が「蔦うるしからまる松の」といつた松、この隣りとの地境にあつた松の木を背にして左手を腰にして立つてゐる寫眞は人々の目になにかで觸れてゐる。僕が每朝焚付けに拾つてゐた松ぼくりの松、さういつた松の木は伐りとられてゐて昔の樣はなかつたが、その家の玄關にかかるあたりは奧さんにいはれるまでもなく、二十年前の有樣であつたのが懷しかつた。

[やぶちゃん注:「鵠沼に、芥川の奧さんを訪ねた」不審。かつて文の母鈴と八洲は鵠沼に住んではいたが、昭和二四(一九四九)年の時点では二人とも亡くなっているからである。或いは塚本家の縁者がその後に住んでいたものか。

「松の木を背にして左手を腰にして立つてゐる寫眞」この写真は芥川龍之介の晩年のものとしてはかなり知られた一枚で、諸本に掲げられてある。]

 僕はそこをだれかに寫眞に撮つておいてもらほうと思つてゐながら、實行に移さないでゐた後悔があるので、田端の跡を見たら今度はすぐに、寫眞の撮れる田中君を連れて行つて、いろいろ寫しておいてもらつた。

 田端の芥川を偲ぶには、佐藤春夫さんが改造に芥川を書いて得た稿料で、昭和四年に百五十部を刷つて知友の間に配つた「おもかげ」が一番だが、そのなかの二十二にでてゐる、室生犀生さんが贈つた蹲は、(書齋の新築祝ひに贈られた物、その新築の書齋で遂に自決してゐた。)火を被つてもゐたらうし、小さいから動かせもしたとみえて見あたらずにさびしかつたし、二十三の「彼の家に行く路」と解説されてでてゐるほうの路は、寫した人が立つたところあたりは、いまではコンクリートの廣い道路のなかの位置で、昔は松葉杖でのぼれた斜面が、今日、義足で步き慣れてても一寸、昇降にはこはい手摺りのついた急勾配の階段になつてゐた。せいぜい二間幅であつた路は、コンクリートの大通りとなつてゐるばかりか、その道の上には橋がかかつてゐて、橋の柱には童橋(わらべはし)と刻まれてあつた。ここに、はなはだ愉快に堪へないのはと書けば、芥川の口吻であるが、ぼくはだれか河童橋とつけたかつたのを遠慮して童橋としたのではないかと一寸邪推した。

[やぶちゃん注:『佐藤春夫さんが改造に芥川を書いて得た稿料で、昭和四年に百五十部を刷つて知友の間に配つた「おもかげ」』前者は昭和三(一九二八)年七月改造社刊の「文藝一夕話」のことか。後者は非売品で、昭和四(一九二九)年に座右宝刊行会から刊行された佐藤春夫編「おもかげ」で、芥川龍之介一周忌記念冊子である。故人を偲ぶ写真とその解説が載る限定百五十部の和綴じ本。帙入。私は未見。

「童橋」現在の東京都北区田端五丁目に童橋公園とともに現存。ここ(グーグル・マップ・データ)。「宅建」公式サイト内の〔『田端文士村を歩く』 第3回:室生犀星「童橋公園の庭石」〕に橋の現在の写真が載り、そのキャプションには、『田端駅北口より南側へ続く切り通しの道は昭和8年に完成した。その際に、田端の東西をつなぐ橋としてかけられた童橋。滝野川第一小学校へ通う児童の通学路として利用されていることからか、童橋との名称がついている』とあるが、小穴の言う河童橋説も気持ちは判るし、芥川龍之介もこの名を聴けば、草葉の蔭で微笑むに違いない。]

 芥川とお隣りの香取秀眞さんの境に殘つてゐる竹は、昔の竹の根のものであらう。僕は昔の位置にあつた蹲と履脱を動さずに、句碑にしろなににしろは室生さんが贈つた蹲のあつたところに建て、燒けた土を芥川の家の庭の土であつたやうにしたならば、そのほかになにも考案することほなからうと思つた。僕は確か數へ歳四つであつたやつちやん(也寸志君)が、庭に澤山ゐた小さい蛙の眞似をしてゐた姿を思ひだし、一體芥川のところの庭には、いつの夏にもあんな小さい蛙がゐたものかなど思つたり、早く佐佐木君が歸つてきてくれて、地主さんにも賛成してもらつて、話がつく日を待つてゐる次第だ。最初のときは雨戸を締めて留守のやうであり、二度日は女中さん一人の留守番で、現在の借地人のほうの家の人にも會へなかつたが、家を建ててゐる位置にもどうやら、芥川の家跡といふ氣の配りがあるとぼくはみた。

[やぶちゃん注:「香取秀眞」既出既注であるが、再掲しておく。鋳金工芸師の香取秀真(かとりほつま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の田端の家のすぐ隣りに住み、龍之介とは友人でもあった。]

 

 二十八年の五月に、東京新聞に書いてゐたこの隨筆をみた地主さんが早速に使を僕によこした。僕ほそれで地主さんにも會つたが、地主さんの話では、丁度佐佐木君が、句碑を建てたいと言つてゐますと手紙を書いてゐた頃に、前の地主さんから土地を讓りうけてゐたやうで、三百八十坪あるといふ地面は、もう、三つに區分されてゐた。間には仕切もなにもない空地をみて僕は糠よろこびをしてゐたのだ。二人の借地人の一人のはうは金庫から金を借りるので、數日のうちには普請にかからなければならず、蹲と履脱の仕末をつけなければ、家を建てるのにも困るので、石が入用なら僕にくれるが、自分は、家がほかにもあるから、なんなら、この家と土地を買つてくれといふ話で、話が暗くなつた。

 蹲と履脱を動かせば、もう僕には親しめない地面になつてしまふ。芥川の家に出入りした人達でも、ならば、門のあつた場所か、そとまはりの垣根の場所の地面をすこしといふところで、馴染もない勝手口のあつたほうの地面に、餘分の家まで買ふ無理な騷ぎまでは考へないと思ふ。僕の家は街なかの家で、庭といふものはないが、蹲と履脱を貰つて、トラックで運ばせようと考へ、三度目に、火をくつてゐる御影石は、そのままにしておけばよいが、動かせば形もくづれて結局自分も仕末に困るのではないかと、惜しかつたが貰ふのはやめてしまつた。

       (昭和二十九年二月五日追記)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは底本では二字上げ下インデント。結局、この蹲や履脱は何処へ行ったのか。読み終えて淋しさが残る。

「火をくつてゐる御影石」空襲で焼けたの謂いか。]

« 2017年1月 | トップページ | 2017年3月 »