910000アクセス突破記念 熊本牧師 梅崎春生
[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年八月号『新潮』初出、同年九月河出書房刊の単行本「紫陽花」に収録された。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第四巻」を用いた。
登場する貨幣(銅貨)単位でも判るが、これは梅崎春生の少年期をモデルとしているから、大正一〇(一九二一)年(春生はこの年に福岡市立簀子小学校に入学。六歳)から、大正一五(一九二六)年よりも前(彼は昭和二(一九二七)年に修猷館中学校に入学している。十二歳)の時制として読むべきであろう。後半に出る「五厘銅貨」は大正十年頃には既に製造をやめているようであり、作中でそれを「正式の銅貨でなく、半通用のようなあんばい」とするところ、牧師に行動を変に疑われるところから考えると、大正十三、十四年、梅崎春生小学四、五年生の頃がモデルと考えてよいように思われる。
本電子テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが910000アクセスを突破した記念として公開する。【2017年2月10日 藪野直史】]
熊本牧師
その教会は町なかにあった。
それは幅三間ばかりの商店街で、商店街というより商人町と言った方がピッタリするような小さな呉服屋や荒物屋やアンパン屋や自転車屋、そんなのがごちゃごちゃ並んでいるまんなかに、その教会はぬっと聳(そび)え立っていた。教会そのものはそれほど大きな建物でなかったが、あたりの家家が小さいので、ことのほか大きく見えるのだ。それに建物の様式が周囲とかけ離れていて、屋根上の十字架や色ガラス、石階や小さな鉄柵に囲まれた花壇、古ぼけた町がこういう異物をかかえこみ、そしてたいへん当惑しているようにも見えた。実際に町は当惑していたのだろう。よほど古い町筋で、そこの住民たちはたいへん保守的で、それに排他心の強い傾向もあったから。僕がその教会の日曜学校に通っているというだけで、その町の子供たち、僕の同級生やあるいは下級生までもが、僕の背後から嘲笑的にはやし立てたりするのだ。[やぶちゃん注:「三間」五メートル四十五センチほど。]
「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」
日曜日の朝になると、小学生の僕はだんだん心が重くなり、身体のふしぶしがだるくなってくる。日曜学校に行きたくないのだ。日曜学校で讃美歌をうたったり、お祈りをしたり、聖書のお話を聞いたり、そんな一時間が退屈の故もあったが、その往き帰りに同級生たちがそそぐあの嘲弄的なまなざし、それが耐えがたかったのだ。思うだけでも気が滅入(めい)ってくる。他の同級生にとっては、日曜はたいへん愉しい日なのに、僕だけは日曜というやつが重苦しい。重苦しいと言ってもそれは午前中だけで、午後からはすっかり愉しくなるのだけれども。つまりその頃の僕の日曜は、午後から始まると言ってもよかった。
「日曜学校だよ」
とお母さんが僕を揺りおこす。乱暴に揺りおこす。
「遅れると熊本牧師さんに叱られるよ!」
僕は渋々と食卓に向う。腹が痛いことはないか、風邪の徴候はないか、そんな具合に自分の身体を探るようにしながら。病気になれば日曜学校を休めるのだ。(そのかわり牛後の愉しさもふいになる危険はあったが)。その頃僕の家の朝食は、週日はいつもオカユだった。茶を入れてたいた茶ガユというやつだ。それをタカナの古漬けか何かをオカズにして、さらさらとかっこむ。その茶ガユが僕には苦手だった。今でも僕は茶ガユというやつは、子供に与えるのは不適なものだと思っている。毎日学校の行き道に、道沿いの長屋の部屋々々で、その住人たちが真白な御飯や味噌汁を旨(うま)そうに食べている。それを見て僕はうらやましいと思う。唾が出てくる。なぜ家(うち)では硬い御飯を朝食べないんだろうなあ。その方がおいしいし、力もつくのになあと思う。お婆さんが佐賀の出で、それでしきたり上朝は茶ガユにするとのことだった。僕は子供心にいつも佐賀をのろっていた。
「さあ、御飯だよ」
日曜日の朝だけは茶ガユでなく、白くて硬い御飯なのだ。僕のお父さんは官吏で、日曜日は休みで朝寝が出来るから、そこで御飯ということになっていたのだろう。茶ガユというやつは御飯にくらべて、はるかに簡単に手軽に出来るし、それにオカズがほとんど要らないのだ。しかし真白な御飯でも日曜日の朝は面白くない。飯のあとにイヤな行事が待っているからだ。
「さあ。服はここにあるよ」
飯が済むとお母さんが言う。ふつうの週日、月曜から土曜までの学校行きは、小倉の服に下駄ばきなのに、日曜学校行きとなるとサージの服で、しかもそれが折襟で、穿(は)くのは靴と来ている。そんな恰好(かっこう)であの商人町を歩くと、どんなことになるか。[やぶちゃん注:「小倉」小倉織(こくらおり)。江戸時代の豊前小倉藩(現在の福岡県北九州市)の特産で縦縞を特徴とした良質で丈夫な木綿布を指す。「サージ」オランダ語“serge”(セルジ)。しばしば「セル地」と書くが「地」(布地)は当て字。主に梳毛糸(そもうし:羊毛から長い繊維を縒り分けた上でこれを梳いて縮れを伸ばし、平行に並べて作った毛)を用いた薄手の毛織物。英語は同綴りで発音は「サージ」である。「折襟」ここは立折襟(おりえり)で所謂、学生服様(よう)の詰襟のことであろう。]
「ふだんのでいいよ」毎回僕はお母さんに哀願する。「靴なんかイヤだ」
「駄目だよ。教会に下駄穿いて行く人なんかありますか」
お母さんはなかば暴力的に、僕にそのゼイタク服を着せてしまうのだ。そして靴も同じく無理矢理に。そしてポケットに二銭銅貨をひとつぽとんと入れてくれる。献金用にだ。実際あの頃の二銭銅貨は大きかったなあ。ずしりと持ち重(おも)りがして、まるで文鎮(ぶんちん)みたいだった。それをポケットにまさぐりながら、僕はしょんぼりと出かける。腹が痛いといいんだがなあ、などと考えながら、まるで屠所にひかれる羊みたいに。
そして僕はあの商人町に足を踏み入れる。同級生の眼にとまらないようにと、軒下をうつむき加減にして、そそくさと足早に歩く。でも駄目なのだ。かならず誰かに見つかつてしまう。たとえばアンパン屋の息子などに。アンパン屋は教会の隣にあって、その息子が僕と同級で、そいつがまたあまり出来が良くなくて、アンパンというあだ名がついていた。
「またアーメンソーメンかい」アンパンは僕を見付けてにやにやしながら言う。「アーメン、ソーメン、ウドンソバ」
一週間で日曜をのぞいたあとの六日なら、僕もひとかどのがき大将で、アンパンのそういう雑言を許しはしないのだが、日曜となるともう駄目なのだ。ゼイタク服を着て皮靴を穿いているというだけで、僕の気持はたちまち萎えひるんでしまう。ストレートジャケットを着せられたみたいで、手も足も出なくなってしまうのだ。僕は歯を食いしばり、恥で顔をあかくして、こそこそと教会の門に飛び込む。門に飛び込んでしまえば、もうこっちのものだ。いく らじたばたしたってアンパンたちはここに入れないのだから。(帰りがまた辛いのだけれども)。そして僕は熊本牧師のところにあいさつに行く。[やぶちゃん注:「ストレートジャケット」“straitjacket”は、囚人などでも粗暴な者や、暴力傾向の強い精神疾患を持った患者に強制的に着用させるズック製などの拘束着のこと。]
「牧師さん。こんにちは」
熊本牧師は背が高く、肩幅もがっしりとしている。真黒な鬚(ひげ)を頰から顎(あご)に生やして、まるで熊襲(くまそ)のようだ。その熊本牧師が渋団扇(しぶうちわ)みたいな大きな掌を僕の頭にのせる。
その教会の正牧師はずっと病気中で、この熊本牧師がその代理としてやっているとのことだった。[やぶちゃん注:「正牧師」プロテスタントで当該の教会の主任牧師を指す。熊本牧師はその下で経験を積むために奉仕している副牧師ということであろう。]
九時から日曜学校が始まる。日曜学校と言っても、十時から始まるふつうの礼拝の大人たちがもうやって来ていて、僕たちの世話をやいたりするから、まるで大人と子供とまぜこぜの学校みたいだった。子供たちはこの町のはいなくて、たいてい他の学区の少年たちで、この町の子供たちとちがってツンとすましていて、やはりゼイタク服と皮靴を穿いていた。僕もゼイタク服は着ていたが、気分的にはこいつらと全然親しめなかったのだ。だから教会堂の中でも僕は孤独だった。
やがてお祈り(天にましますわれらの父よ、というやつ)、それから讃美歌(学校の唱歌とちがうあのキナキナした感じの歌)、それから小部屋にわかれて聖書の話、また元に戻って讃美歌(その時に献金箱が回ってくる)、最後にピラピラの絵入りカード(神は愛なり、などと印刷してある)を貰って、それでおしまい。なんとも退屈な一時間だった。[やぶちゃん注:「キナキナ」方言と思われるが不詳。識者の御教授を乞う。]
こんな退屈な一時間に、二銭銅貨を献ずるなんて、もったいなくて仕方がない。
そこで僕はその二銭銅貨を途中でくずして、つまり一銭分だけニッケ玉か飴玉を買い、それを食べ、献金は一銭ということにしていた。献金箱には各自がそっと入れるのだから、二銭だって一銭だってかわりはない。
今考えると、入れたふりして次に回すことが出来るのだが、当時の僕は純真で、そこまで悪智慧が回らなかった。
そんな具合で、この日曜学校においては、僕はあまり良い生徒ではなかった。
聖書の話中に居眠りをしたり、暗誦(あんしょう)させられてもてんで出来なかったり。
それに総員起立で讃美歌を歌っている時などに、突如として僕は身をかがめ、椅子の下にもぐり込んだりするのだ。何故かというと、隣のアンパン屋の物干台の上から、アンパンが窓ごしに会堂内をのぞき込んだりするからだ。もちろん僕がいるかいないか、どんな顔をして讃美歌をうたっているか、それを見てやろうとの魂胆からだ。すなわち僕は椅子の下にもぐり込まざるを得ない。
そういう僕を、熊本牧師は恐い眼をしてにらみつける。会堂の秩序を乱したものとして、ぎろりとにらみつける。にらみつけるだけならいいが、居残りを命じて、僕を叱りつけたりするのだ。
「お父さまやお母さまに言いつけますぞ!」
それが熊本牧師のきまり文句だった。
「そんなことをしてもいいと思っているのか。この前の日曜も椅子の下にもぐり込んだではないか。一体何のためにもぐり込むのですか?」
僕は答えられない。
その答えられないということにおいて、熊本牧師は僕を誤解したんじゃないかと思う。僕をなるだけ女生徒の近くに腰かけさせないようにし始めたのだ。僕のそばに女生徒がいると、直ちに恐い眼になって僕に命じる。
「××君。君の席はあちら!」
僕は情なかった。そういう具合に誤解されたことにおいて、僕は情なかった。アンパンがのぞき込むからこそ、僕はもぐり込まざるを得ないのだ。近くに女生徒がいようといまいと、それは全然関係ない!
だから僕はいつか熊本牧師をすこしずつ憎み始めるようになっていた。そういう僕をひねくれ子供として、熊本牧師は憎んでいたにちがいない。
「また君はお祈りの中に首をちぢめたりして、皆を笑わせようとしたな。お父さまに言い付けるぞ。君のおかげで場内の空気が乱れては、わたしの立つ瀬がないではないか!」
絵入りカードがくばられる前に、熊本牧師はその日の献金額を皆に報告する。たとえば次のような具合だ。
「今日の献金は総計一円五十五銭でした。皆さんのこの浄らかな献金は、いつもの通り、貧しい可哀そうな人たちに贈りたいと思います」
熊本牧師はおちょぼ口でそういう報告の仕方をする。表面におちょぼ口は全然似合わないのだ。そして熊本牧師は食堂の入口に立ち、帰って行く僕らに満足そうに、一枚ずつ絵入りカードを渡す。
ある日曜の献金報告の時、熊本牧師は大へん困ったように、口をもごもごさせた。
「本日の献金は、ええ、合計一円三十五銭と――」熊本牧師はちょっとためらった。「ええ、一円三十五銭と、五厘でした」
わあ、と皆が笑い出した。
熊本牧師は威厳を傷つけられたように、顔をまっかにして唇を嚙んだ。思いなしか僕の方をじろりとにらみつけたようである。
もちろん僕もわらっていた。その五厘銭は僕が入れたのだ。二銭銅貨でニッケ玉を三個買い、おつりの五厘銭を献金箱に投げ込んだのだ。五厘の価値しかないと僕が判定したわけだ。それに五厘に格下げすれば、ニッケ玉が一個余計に手に入る。
その頃五厘銅貨というやつは、もう正式の銅貨でなく、半通用のようなあんばいで、なにか滑稽で愛橋のある銅貨だったのだ。[やぶちゃん注:画像。]
その日曜から三回にわたって、教会の献金額には五厘という端数がついた。その度に熊本牧師は少からず威厳を損じた。
それならば五厘という端数を省略して報告すればいいのに、やはり熊本牧師は神の子だから、虚偽の報告は出来なかったのだろう。それを思うと気の毒でもあるが、しかし彼にも充分な責任がある。彼も罪を犯している。誤解という罪を犯している。
その次の日曜日はもっとひどかった。
献金箱の中に天保銭が一枚入っていたのだ。
熊本牧師の面目は、その瞬間においてまったく丸つぶれになった。そして彼はすでにその犯人の目星をはっきりつけていた。
僕は居残りを命じられた。絵入りカードも貰えずにだ。熊本牧師は乱暴にも僕の耳を引っぱって、いきなり隅の小部屋につれて行った。
「君だな。献金箱に天保銭を入れたのは!」
熊本牧師は顔をまっかにして、こめかみをびくびくふるわせながら、そう怒鳴りつけた。
「君だろう。君以外にこんな大それたことをやる者はいない。ああ、何ということだ。聖なる神様に天保銭だなんて!」
僕は黙っていた。かたくなに黙って、ポケットのニッケ玉をまさぐっていた。一箇食べただけだから、それはまだ三箇残っていたのだ。
とたんに熊本牧師ががくんと床に膝をついたので、僕はびっくりした。彼は大げさに指を組み、天井に顔を向け、白眼を出すようにしながら、お祈りを始めたのだ。それは神様に向って、僕のような悪い子供のいることを許して呉れ、という風(ふう)な意味のものだった。堅い木椅子に腰かけたまま、僕はしだいに居ても立ってもいられないような、むずむずした気分になってきた。うらがなしいような自責の念もあった。しかしそれはその奇妙な気分の主調ではなかった。もっと別の、もっと生理的な、汗がじりじり滲み出てくるような、えぐいような、嘔吐(おうと)を伴ったようなイヤな気分。そして瞬間僕はかるい貧血を起して、そのまま椅子から辷(すべ)り落ちて、床にしゃがみ込んでしまったのだ。熊本牧師はあわててお祈りを中止して、僕を抱き上げたらしい。黒い毛織の服のにおいがふわっと僕の鼻にただよった。
次の日曜日の朝、僕は腹痛をおこした。
その次の日曜日は、腹くだしを。
その次は、鼻カタルを。
だから三回つづけて日曜学校に行かないで済んだ。ふしぎなことにはそれらの病気は、午後になるとピタリと快癒(かいゆ)した。まったく奇妙なぐらいだった。
その次の日曜日も、僕は朝から身体のあちこちが具合が悪かった。
寝ている僕を見て、お父さんがにがにがしげに言った。
「また日曜病気か。仕様がないな」
そしてお母さんを呼んで言いつけた。
「もう日曜学校に通わせるのは、止めにしなさい。ほんとに仕様のない子供だよ、こいつは」
その日以来、僕はずっと日曜学校に行かないですむことになった。日曜病気もそれ以後全然起らなくなった。僕は日曜の度にたいへん健康だった。あのゼイタク服はお正月に着用するぐらいなもので、そのうち身体に合わなくなったから、割に新しいまま弟に下げ渡した。