柴田宵曲 妖異博物館 「外法」
外法
米村平作といふ人が本括(じめ)役を勤めてゐた頃、類燒に遭ひ、暫く町宅を借りて住んで居つたが、土藏の内に入れて置いた御用銀三貫目が紛失し、いくら穿鑿しても知れぬ。恰も伯耆の倉吉から福正院といふ名高い僧が鳥取に來てゐたのを幸ひに、招いて占はせたら、これは何月何日に何某が取つたと、その名を指して云つた。果してその通りだつたといふ評判で、彼方此方から招いて占はせるのに、皆先方の心中を見通して何か云ふ。願ひある者は多くこの僧に賴んで祈らせるといふ風であつた。もう鳥取滯留の日數が盡きて、四五日の内には倉吉へ歸る順序になつた或夜の事である。近所の町人が福正院の旅宿を訪れ、宿の亭主もまじつて談笑してゐるところへ、慌しく門を敲き、御家中の某家よりの使である、夜中ながら急用につき、この使と共に直ぐ來て貰ひたいといふ。かういふ招請を受けるのはいつもの事であつたから、早速身拵へをして、使の者に提燈を持たせ、急いで出て行つた。今まで話してゐた近所の者も、亭主と話してゐても仕方がないので、暇乞ひをして歸る。先刻福正院が慌てて門を出る時、何か落したやうな音がしたと思つたが、一步踏み出す途端に足に障るものがある。そのまゝ袖に入れて歸り、行燈の光りで見ると、袱紗に包んだ香箱であつた。これほどの物が落ちたところで、家の奧にゐる自分に聞える筈がない。自分の耳に入るくらゐなら、本人の耳にも入る筈なのに、一人も氣が付かなかつたのは不審千萬だと、持佛堂の中に入れて寢てしまつた。
[やぶちゃん注:「外法」後の本文内でルビが振られるように「げはふ」(げほう)と読む。ここでは広義のそれで妖術・魔術・魔法と同義。
「本括(じめ)役」「もとじめやく」で、ここは鳥取藩(藩庁は因幡鳥取城(現在の鳥取市東町))勘定方元締役(財用方役人の長官)のこと。
「三貫目」後段で示されるように本話は「雪窓夜話抄」に載るが、同書は鳥取藩士上野忠親(貞享元(一六八四)年~宝暦五(一七五五)年)の記録した異聞集である。ネットのQ&Aサイト及び江戸期の貨幣価値換算サイト等によれば、元禄三(一七〇〇)年十一月に幕府が決めた金銀銅貨の交換レートは、金一両は銀六〇匁で、銀一貫は銀一〇〇〇匁に相当するから、銀三貫は十七両弱となり、元禄期の銀三貫なら凡そ五十両前後、これを現代に換算すると凡そ五百万円ほどとなるか。
「伯耆の倉吉」伯耆国久米郡倉吉(くらよし)。現在の鳥取県倉吉市。
「香箱」原典では(後段リンク先参照)『香合』で『コウバコ』とルビする。]
福正院の方は招かれたところへ行つて、いろいろ尋ねられたが、その晩に限つて何一つ中らない。これは出がけに外法(げほふ)を袂に入れたのを、どこかで落したと見える。袂を探つてもないから、そこそこに挨拶して引返し、旅宿の戸外を尋ねたが見當らぬ。さては先刻同席した近所の町人が拾つたものであらう。夜中の事で人の出入りもないから、他に知つた者はない筈だ、と考へ付くや否や、その家へ行つて案内を乞ふ。家内は全部寢てしまつたから、用事なら明日來て下さい、と斷つても、今夜中に逢はなければならぬ急用だといふので、已むを得ず灯をともして呼び入れた。町人の坐つてゐるうしろは例の持彿堂であるが、その中から聲がして、そら本人が取り返しに來たぞ、容易に渡すな、と云ふ者がある。福正院は座敷へ通るなり、そなたは拙僧の旅宿の前で、手帛に包んだものを拾はれたに相違ない、拙僧はそれによつて露命を繫ぐ者ぢや、何卒お返し下されい、といふ。はじめは知らぬふりをして見たが、相手の態度は甚だ強硬で、次第によつてはその場で討ち果しもしかねまじき顏色なので、成程拾ふことは拾ひましたが、あなたの物と知つて拾つたわけでもない、何か代りを出されるならお返ししませう、と返事をした。先づ以てお返し下されうとの御一言は忝い、御禮の申上げやうもござらぬ、有り合せの銀五百匁を代りに差上げませう、といふ。拾つた方はそれほど大事なものとは思はなかつたので、承知の旨を答へようとすると、また持佛堂の中から、そんな事ではいかぬ、銀は澤山持つてゐるのだから同心するな、といふ聲が聞える。その通りに云つて斷れば、然らば是非に及ばぬ、一貫目で御同心下されと云ふ。だんだん値を釣り上げる事になつて、町人は異存はないけれども、持佛堂の聲が「まだまだ」と制するため、遂に三貫目までに達した。この時は持佛堂にも聲がない。福正院は所持の袋の底をはたいて三貫目を出し、袱紗包みを三度頂いて歸つて行つた。鳥取方面で儲けた銀は空しくなつたわけであるが、最も不思議なのは、福正院に相對する持佛堂の聲が、町人の耳にだけはつきり入つて、福正院には全然聞えぬ一事であつた。
[やぶちゃん注:「手帛」近代以降なら「ハンケチ・ハンカチ」と読むところだが、原典(次の段の私の注のリンク先を参照)でも『手帛』であるから、「しゆはく(しゅはく)」で、小さな白い絹物。前出の「袱紗(ふくさ)」と同義。
「鳥取方面で儲けた銀は空しくなつた」とのみ柴田は述べているのであるが、言わずもがなであるが、この話柄、最初に藩の御用金「三貫目」が〈妖術によってでもあるかのように〉突如、消失して行方不明となったことと、福正院が必死に外法の秘物を奪還するのに支払ったのも同じく「三貫目」であることを考え合わせると、そこに事件の真相が隠されている、と原話は暗に匂わせている。そこが面白い。]
「雪窓夜話抄」の傳へたこの話によれば、福正院は袱紗に包んだ香箱の告げのまゝに、種々の靈驗を示したので、その祕物を不用意に取り落した結果、儲けただけを吐き出さなければならなくなつたものであらう。持佛堂の聲は拾ひ主に思ひがけぬ福を與へたが、三貫目で折合つて福正院の手に戾つたのだから、一應不用意を戒めた程度で、全く彼を見放すには至らなかつたのである。
[やぶちゃん注:以上は「雪窓夜話抄」の「卷七」の冒頭にある「怪僧福正院の事」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから視認出来る。]
外法の正體は如何なるものか、「雪窓夜話抄」だけでは竟にわからぬが、「耳嚢」の中にいさゝか徴すべきものがある。寶暦の初めであつたか、矢作の橋を普請することがあり、江戸表から大勢の役人職人等が三河に赴いた。或日人足頭の男が川緣に立つてゐると、板の上に人形らしいものを載せたのが流れて來た。子供の戲れかと思つたが、人形の樣子が子供のものらしくもない。面白がつてそれを旅宿に持ち歸つたところ、夢ともなく、うつゝともなく、今日の事を語り、明日の事を豫言する。巫女が使ふ外法とかいふものであらうと懷中して居れば、翌日もまたいろいろの事を告げる。はじめは面白かつたけれども、だんだんうるさく厭になつて來た。倂し捨てるのも何だか恐ろしいので、土地の者に聞いて見たら、それはつまらぬ物をお拾ひになりました、遠州の山入りに、さういふ事をする者があると聞いて居りますが、今お捨てになれば禍ひがありませう、と云はれ、途方に暮れてしまつた。漸く或老人の説に從ひ、はじめの如く板に載せて川上に至り、子供が船遊びをするやうに、人形を慰める心持で、自分はうしろを向いて、いつ放すとなく手を放し、そのまゝ跡を見ずに歸つて來た。その後は何の祟りもなかつたさうである。
[やぶちゃん注:これは「耳囊 卷之三 矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事」である。私の原文訳注でお楽しみあれ。]
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