小穴隆一「鯨のお詣り」(48)「影照斷片」(6)
○
大正六年から大正十二年の間、君看雙眼色不語似無愁(きみみよさうがんのいろかたらざればうれひなきににたり)から暮春者春服既成得冠者(ぼしゆんにしゆんぷくすでになりくわんじや)五六人(にん)童子(どうし)六七人(にん)沿乎沂風乎舞雩詠而歸(きにそひぶうにふうしえいじてかへらむ)に至るまで、阿蘭陀(おらんだ)書房發行の「羅生門」から春陽堂發行の「春服(しゆんぷく)」に至るまでの、その間の彼の作品を順次に一度ゆつくり讀んでみたいと私は思つてゐる。何故ならば、夏目漱石先生の靈前に獻ずとした「羅生門」の扉に君看雙眼色不語似無愁を擇(えら)んだ彼が、「春服」の扉には暮春者春服既成を擇んでゐたことに、改めて氣付いたからでもある。本來春服には扉の春服の二字のほかにそれと彼の年少時代、袴着の祝ひの時の寫眞との間に、もう一枚に暮春に春服既に成りからに沂(き)に沿ひ舞雩(ぶう)に風(ふう)し詠じて歸らむまでの文字を扉としていれる彼の意向であつた。それをいれ落したといふ間違ひの原因は、彼の「春服」の後(のち)に、に書いてもあるがやうに、「春服」が私の病苦のさなかにつくられたためにほかならない。私はいま自分の手ずれた春服に觸(さは)り、この見返しの繪も、伊香保からやうやうに家(いへ)にたどりついて、脚(あし)を切斷するために入院するまでの、そのすぐの二日間の間に畫(か)いたものであらうことなど思ひめぐらすのである。彼も、春服の扉の春服と暮春者(ぼしゆんには)から詠而歸(えいじてかへらむ)までの文字を書いた私の妹も亦、既に白骨(はくこつ)と化してしまつてはゐるが、當時春陽堂にゐたが小峰八郎は、惜しむべき扉をいれ落したその始末を承知してゐる筈である。芥川龍之介は、版(はん)までこしらへておきながらはさむのを皆が心付かずに忘れてゐて、本になつてから氣付いたと言つてゐた。いま私には君看雙眼色と暮春者春服既成(ぼしゆんにはしゆんぷくすでになり)との間にある、彼の心のひろがりとくぼまりか動いて感じられてくるのである。一つには私の耳底(みゝぞこ)から、彼が夏目漱石を始めて訪ねた時に、漱石が、孔子曰、君子有三戒(くんしにさんかいあり)、を引いてわかき當時の彼を戒(いま)しめたといふ彼の言葉と、暮春者春服既成(ぼしゆんにはしゆんぷくすでになり)の彼の讀みと註釋が全く消えてゐないからかも知れない。ことわるまでもないことではあるが「黃雀風(くわうじやくふう)」とか「湖南の扇」とかの表紙に書きこんである詩は、彼の好みや註文に依つたものではなく、全く私の勝手仕事の物(もの)故(ゆゑ)、一寸(ちよつと)ここに書添(かきそ)へて彼の愛讀者の間に誤解のないやうにしておきたい。
[やぶちゃん注:「二つの繪」版の「暮春には春服」の原型。最初に出る「暮春者春服既成得冠者」の文字列のルビで「ぼしゆんにしゆんぷくすでになりくわんじや」と「暮春に」の後に「は」が落ちているのはママである。
なお、言っておくと、芥川龍之介の単行本の中後期の装幀が、概ね小穴隆一に任されていたという事実は芥川龍之介ファンの間では必ずしもよく知られているとは思われない。]
« 小穴隆一「鯨のお詣り」(47)「影照斷片」(5) | トップページ | 小穴隆一「鯨のお詣り」(49)「影照斷片」(7)~幻の作品集「泥七寶」! »

