小穴隆一「鯨のお詣り」(43)「影照斷片」(1)
影照斷片
[やぶちゃん注:これは本「鯨のお詣で」の中の芥川龍之介に関わる十四篇から成る雑録短章群である。後の「二つの繪」の「影照」群の原型で、そこで生かされて加筆され、独立章化したものも多いが、中にはカットされてしまい、ここでしか読めないものも含まれる点で重要な章である。]
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當時雜誌で讀んだ「手巾(はんけち)」の作者として以外、何も彼について知らなかつた僕を、彼に引合はせたのは、友人であり時事新報社記者であつた瀧井孝作である。
大正八年十一月、その日、黑のスウエターを着籠(きこ)んでゐた彼は、先客の藤森淳三とただ二人で頭髮の長さを論じてゐた。互に相手の髮のはうが長いと言つてゐるのであつた。
私はいづれにせよつまらない謙讓であると思つた。それで「それは錢湯(せんたう)でだれでも人のきんたまが大きく見えるが、鏡に寫つた自分のを見ると、案外さうでもない、と考へるのとおんなじだ。」と言つた。
「僕は錢湯にいかないから知らない。」
ぴつくりした顏の芥川龍之介が斯(か)う言つて改めて私を見た。私はその日の日曜に、錢(ぜに)もなくて瀧井孝作と步いてゐた憂鬱な記憶のなかに彼を思ひだす(或阿呆の一生二十二參照)
[やぶちゃん注:この小穴隆一の芥川龍之介との初対面は、大正八(一九一九)年十一月二十三日日曜日のことであった。
因みに言っておくと、芥川龍之介の巨根はかなり知られており、小穴隆一も小澤碧童も小島政二郎も皆、認めている。「二つの繪」版の「宇野浩二」を見よ。
「手巾(はんけち)」大正五(一九一六)年十月『中央公論』に発表。芥川龍之介はこの年の二月十五日、第四次『新思潮』創刊号に「鼻」を発表、その四日後の二月十九日に夏目漱石からの「鼻」激賞の手紙を貰い、九月一日には「芋粥」を『新小説』に発表して実質上の文壇デビューを果たしていた。また、同年十月二十五日には塚本文にプロポーズの手紙を書いている。
「藤森淳三」(明治三〇(一八九七)年~?)は編集者で小説家・評論家。三重県上野町生まれ。「藤森順三」という別名もある。早稲田大学英文科中退。横光利一と上野中学で同窓で、大正一〇(一九二一)年に横光・富ノ沢麟太郎らと同人誌『街』を刊行。その後、芥川龍之介もよく作品を載せた『サンヱス』『不同調』などの編集に携わりつつ、作品を発表した。小説集「秘密の花園」・童話集「小人国の話」・評論集「文壇は動く」・美術評論「小林古径」などがある(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。後の「二つの繪」の『「藪の中」について』に名が出る。
「或阿呆の一生二十二」「或阿呆の一生」の小穴隆一を語った印象的で意味深長な一条である。以下。
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二十二 或
畫 家
それは或雜誌の插し畫だつた。が、一羽の雄鷄の墨畫(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの畫家のことを尋ねたりした。
一週間ばかりたつた後(のち)、この畫家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの畫家の中に誰も知らない詩を發見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を發見した。
或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽ちこの畫家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂欝にするだけだつた。
「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」
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