柴田宵曲 妖異博物館 「天狗の爪」
天狗の爪
因幡國高草郡荒田村の百姓嘉右衞門なる者が、六十六部に出て越中の立山に登山した時、山の半腹に年頃十五六歲ばかりの童子が現れた。宗右衞門に一物を渡し、これは天狗の爪甲である、これを紙に捺して家の内に貼つて置けば、火難、盜難、一切の災厄を遁れることが出來る、お前は信心深い者だから、これを與へる、と云つた。その後姿を見送つてゐると、俄かに山鳴り谷響き、大木倒れ大石轉び、大地震動したが、暫くにして夢がさめたやうになつた。山中に何の別條もない。世にいふ天狗倒しとはこれだらうと思はれた。宗右衞門は後年になつて、その時附與された物を見せてくれたが、その形は失の根に似、色は瑠璃紺にしてビイドロの如く、表裏すき通つて見える。如何さま天狗の爪甲でなければ、世にこんなものはあるまいと思はれる不思議なものであつた。
[やぶちゃん注:「因幡國高草郡荒田村」「高草」は「たかくさ」と読む。荒田村は認められない。但し、旧高草郡は現在の鳥取市の一部に相当し、現在の鳥取県鳥取市良田(よしだ)に荒田神社という神社がある。ここと関係があるか?
「六十六部」狭義には、「法華経」六十六部分を書き写して日本全国の六十六ヶ国の国々の霊場に一部ずつ奉納して廻った僧を指した。鎌倉時代から流行が始まり、江戸時代には遊行(ゆぎょう)聖以外に、諸国の寺社に参詣する巡礼者をも指すようになり(ここはそれ)、白衣に手甲・脚絆・草鞋掛けという出で立ちで、背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠を被った独特の姿で国を廻った。後にはそうした巡礼姿ながら、実際には米や銭を請い歩いた乞食も多く出た。単に「六部」とも呼称する。
「爪甲」そのまま音読みすると「さうかふ(そうこう)」。「つめ」のこと。]
「雪窓夜話抄」の著者が、この天狗の爪を見せられたのは、寶曆元年三四月の頃と書いてあるが、大田南畝の「一話一言」にも天狗の爪に關し「民生切要錄」を引いてゐる。能登の石動山の林中に天狗の爪といふものがある。色靑黑く、長さ五分ばかり、石のやうで、先は尖り、後の幅が廣く、獸の爪に似てゐる。土地の人は雷雨の後などに、林の中でこれを拾つて來る。これを水中に投じてその水を飮むと、瘧(こり)を患ふ者は癒える。倂し何物であるかわからない。思ふに金石の類なので、人誑(あざむ)いて神物とするか、とある。
[やぶちゃん注:これは「雪窓夜話抄」の「卷六」の「天狗の爪の事幷に其の解釋」である。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来る。
「寶曆元年」一七五一年。
『大田南畝の「一話一言」』幕府御家人で支配勘定でありながら、狂歌師でもあり、天明期を代表する文人であった大田南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)の随筆であるが、全五十六巻もの大著である。私は所持しない。複数の画像データベースで見られるが、調べる気力が湧かぬ。悪しからず。
「民生切要錄」元禄五(一六九二)年成立で、恒亭主人守株子なる人物の纂輯になること以外は不明。妖怪関連の記載があるらしい。
「五分」一・五センチメートル。]
越中も能登も北陸道で鄰り合つた國だから、似たやうな云ひ傳へがあつても不思議はない。雨後の林中で拾つて來るといふ點から見れば、雨のために土中から現れるものの如くであるが、特に雷雨と斷つてあるのは、雷との間に何かの連關を認めたのかも知れぬ。