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2017/02/23

柴田宵曲 妖異博物館 「天狗と杣」

 

 天狗と杣 

 

 山城國淀の北橫大路といふ里の庄屋善左衞門の家は、裏の藪際に土藏があり、その土藏の傍に大きな銀杏樹があつた。近年大風などの際、銀杏樹の下枝が土痺の瓦を拂ひ落すことがあるので、善左衞門が仙を雇つて下枝を切り拂はせた。だんだん下から切つて行つて、三ツ又のところに到り、その太い枝を切らうとすると、俄かに陰風吹き來り、首筋を何者か摑むやうに覺えてぞつとした。仙大いに恐怖し、急に逃げ下りたが、顏色土の如く、首筋元の毛が一摑みほど拔かれてゐる。これは天狗の住まれるところを切りかゝつたためと思はれます、もう少しぐづぐづしてゐたら、命はなかつたかも知れません、と云ひ、その上の祟りを恐れて、俄かに樹木に神酒を供へ、ひたすら罪を謝した上、その日の賃錢も取らずに歸つてしまつた。三ツ又のところは、琢(みが)いたやうに淸淨になつてゐたので、如何にも神物の久しく住んでゐたものであらうと、善左衞門もこの樹を敬ふやうになつた。寛政四年四月の話である(北窓瑣談)。

[やぶちゃん注:「杣」「そま」と読む。樵(きこり)のこと。

「寛政四年」一七九二年。

 以上は「北窓瑣談」の「卷之三」に出る。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。柱の「一」は除去した。歴史的仮名遣の誤りが見られるが、ママとした。

   *

寛政四年壬子四月の事なりし。山城國淀(よど)の北橫大路(よこおほぢ)といふ里あり。其村の庄屋を善左衞門といふ。其家の裏の藪際(やぶぎは)に土藏あり。土藏の傍に大なる銀杏樹(いちやうのき)あり。近年大風などふく度に、土蔵の瓦を下枝(したえだ)にて拂ひ落しければ、善左衞門、仙(そま)をやとひ下枝を切拂はせけるに、段々下より切りもてゆきけるに、やうやう上に登り、三ツまたの所に到りて、件の三ツまたに成たる枝を切んとせしに、俄に陰風(いんふう)吹來り、杣が首筋を何やら物ありて、つかむやうに覺へて、身の毛ぞつと立ければ、杣、大いに恐れて急に迯下り見るに、首筋元(くびすじもと)の毛一つかみほど、引ぬきて、顏色土のごとくに成たり。善左衞門も怪みて何事にやといふに、杣、恐れて天狗の住給ふ所を切かゝりし故にとぞ思はる。今少しおそく下らば、一命をも失れんを、猶此上の祟(たゝり)もおそろしとて、俄に樹木に神酒(みき)を備へ、罪を謝し過(あやまち)をわびて其日の賃錢さえ取らで迯歸れり。其三ツまたの所は、甚だ淸浄にて琢(みがき)たるやうに有ける。何さま神物の久しく住ける處にやと、善左衞門も恐れて、此銀杏樹を敬しける。此事、善左衞門親類の嘉右衞門物語りき。

   *]

 天狗と樹木とが密接な關係を有する以上、樹を伐る杣の上に怪異が伴ふのは怪しむに足らぬ。美濃の郡上郡、武儀郡、賀茂郡、惠那郡あたりでは、はじめて山に斧を入れる時、先づ狗賓餠(ぐひんもち)といふものを拵へて山神に供へ、人々もこれを祝つて後、木を伐るので、さうしなければ種々の怪異があつて、なかなか木が伐れない、と「想山著聞奇集」にある。怪といふのも一樣でないが、多くは杣の道具を取るとか、使つてゐる斧の頭を拔き取るとかいふ類の事で、或時は山上より大木大石を落す音をさせたり、進んでは山を崩し巖を拔く勢ひを示したりする。そこで怪異の小さいうちに恐れをなし、狗賓餠を供へて神を祭り、御詫びをしてから木を伐ることになつてゐる。長い間木を伐つて𢌞る山などでは、時々狗賓餠を供へて祭り直しをしないと、木を伐ることがならぬのである。

[やぶちゃん注:「郡上郡」現在の岐阜県郡上(ぐじょう)市の大部分と下呂市の一部に相当する旧郡。

「武儀郡」「むぎぐん」と読む。旧郡。現在の美濃市全域と関市の大部分とその他で、旧郡上郡の南に接していた。

「賀茂郡」岐阜県加茂郡は現存するが、旧郡域は現在より遙かに広域で旧武儀郡の東方に接していた。

「惠那郡」旧郡。現在の岐阜県恵那(えな)市と中津川市の大部分と瑞浪(みずなみ)市の一部に加え、愛知県豊田市の一部も含まれていた。

「狗賓餠(ぐひんもち)」「狗賓」とは天狗の一種の個別呼称。ウィキの「狗賓」によれば、『狼の姿をしており、犬の口を持つとされ』た天狗の一種とする。一般的には『著名な霊山を拠点とする大天狗や小天狗に対し、狗賓は日本全国各地の名もない山奥に棲むといわれる。また大天狗や烏天狗が修験道や密教などの仏教的な性格を持つのに対し、狗賓は山岳信仰の土俗的な神に近い。天狗としての地位は最下位だが、それだけに人間の生活にとって身近な存在であり、特に山仕事をする人々は、山で木を切ったりするために狗賓と密接に交流し、狗賓の信頼を受けることが最も重要とされていた』。『狗賓は山の神の使者ともいえ、人間に山への畏怖感を与えることが第一の仕事とも考えられている。山の中で木の切り倒される音が響く怪異・天狗倒しは狗賓倒しとも呼ばれるほか、天狗笑い、天狗礫、天狗火なども狗賓の仕業といわれる。このように、山仕事をする人々の身近な存在のはずの狗賓が怪異を起こすのは、人々が自然との共存と山の神との信頼関係を続けるようにとの一種の警告といわれているが、あくまで警告のみであるため、狗賓が人間に直接的な危害を加える話は少なく、人間を地獄へ落とすような強い力も狗賓にはない』。『しかし人間にとって身近といっても、異質な存在であることは変わりなく、度が過ぎた自然破壊などで狗賓の怒りを買うと人間たちに災いを振りかかる結果になると信じられており、そうした怒りを鎮めるために岐阜県や長野県で山の神に餅を供える狗賓餅など、日本各地で天狗・狗賓に関する祭りを見ることができる』。『また、愛知県、岡山県、香川県琴平地方では、一般的な天狗の呼称として狗賓の名が用いられている』。『ちなみに広島県西部では、他の土地での低級な扱いと異なり、狗賓は天狗の中で最も位の高い存在として人々から畏怖されていた。広島市の元宇品に伝わる伝説では、狗賓は宮島の弥山に住んでいると言われ、狗賓がよく遊びに来るという元宇品の山林には、枯れた木以外は枝一本、葉っぱ一枚も取ってはならない掟があったという』とある(下線やぶちゃん)。

 以上と後の二段の内容は総て、「想山著聞奇集」の「卷之一」の「天狗の怪妙、幷(ならびに)狗賓餠の事」に拠るものである。所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻」(一九七〇年三一書房刊)挿絵とともに以下に示す。〔2017年3月11日追記:「想山著聞奇集」の電子化に伴い、本条をこちらで別個に電子化注した。こちら画像は容量を食うので除去した。リンク先で見られたい。〕「武儀(むげ)郡」の読みはママ。【 】は原典の二行割注。

   *

  天狗の怪妙、狗賓餅の事

 天狗の奇怪妙變は、衆人の知恐るゝ事にて、人智の量(はか)るべきにあらねども、その種類も樣々有事としられ、國所(くにところ)によりては、所業(なすわざ)も又、色々替りたるかと思はる。爰に北美濃郡上(ぐじやう)郡・武儀(むげ)郡、東美濃賀茂(かも)郡・惠那(ゑな)郡邊の天狗は、其所業、一條ならずといへども、大概、同樣の怪をなすなり。先(まづ)、山の木を伐時に、初て斧を入る節は狗賓餅(ぐひんもち)と云を持て山神に供へ、人々も祝ひ食てのち木を伐也。然らざれば、種々の怪ありて、中々木を伐事、成難し。長く所々木を伐𢌞る山などは、折々狗賓餅をして、齋(ものい)み仕直さねば、怪有て、木を伐事ならぬと也。扨、其怪、種々にて一樣ならざれども、多くは杣道具をとり、又、遣ひ居る斧の頭を拔取、或は山上より大木大石を落す音をさせ、甚敷時は、山をも崩し巖をも拔の勢を爲故、小怪の内に甚恐れをなし、直(ぢき)に狗賓餅をして神を祭り、厚く詫を乞て木を伐る事也。或時、濃州武儀郡志津野村の【中山道鵜沼宿より三里許北の方】村續きの平山を伐たり。是は山と云程の所にもなく、殊に古樹の覆ひ繁りたる森林(もりはやし)にもなく、村續きの小松林の平山にて、中々天狗など住べき所とは、誰人も思はざるゆゑ、かの狗賓餅をもせずして、木を伐るとて、杣ども寄合て伐初ると、皆、振上る斧の頭をとられたり。それ天狗出たりとて、道具を見れば、悉く失せたり。是にては、中々けふは仕事ならず、いざ狗賓餅をなすべしとて、おのが家々に歸(かへ)り、支度して餅を拵へ、山神を祭りて詫をなし、やがて道具を得て、翌日より無事に木を伐たりと。一年(ひとゝし)此村のよし松と云ものを、予が下男となして聞しる所也。木を伐居たるとき、斧を振上て木へ打付る間に、聊も手ごたへなくして、頭(かしら)なくなり、柄斗(ばかり)となるを知ずして、木へ打付て後、始て頭をとられし事をしるなり。不思議と云も餘り有る事也。其時は、杣道具も、いつの間にか取れて失(うせ)ぬるなり。しかれども、狗賓餅をしてわびぬれば、失たる道具も、いつとなく、元の所へ戾し置ことなりとぞ。其邊にては、か樣の怪異も常の事故、さして不審とはせざれども、餘國の人の見聞く時は奇怪なる事也。

[やぶちゃん注:以下の一段落分は底本では全体が二字下げ。]

狗賓餅を行ふ時は、先村内(むらうち)にふれて、けふは狗賓餅をするに來れといへば、老少男女大勢山に集りて、さて飯を強(こは)く焚き、それを握り飯となして串に貫き、能(よく)燒て味噌を附け、先(まづ)初穗を五つ六つ木の葉などに盛り、淸き所に供へ置て、其後各心の儘に飽まで喰ひぬる事となり。甚だ旨き物なれど、此餅を拵ると天狗集り來るとて、村内の家屋にては一切拵へざると也。同國苗木邊にては是を山小屋餅と云て大燒飯となす也。又、小くも拵て串に貫き燒たるをごへい餅と云り。【御幣餅の意か辨へずと云り】國所(くにところ)によりて、製し方も名付方も變るべし。是古に云粢餅(しとぎ)の事(こと)にて、今も江戸近在の山方にては粢餅と云とぞ。

 又文政七八年の事なるが、苗木領の二ツ森【城下より西北二里程の所】の木を伐出す迚、十月七日に山入してごへい餅を拵しが、山神へ供る事を忘れて皆々食盡したり。さて夜(よ)に入(い)ると大木を伐懸る音して一山荒出せし故、漸と心附、早々餅を拵、詫入て無事にて濟たる事あり。夫より以來は右邊にては、わけて意(こゝろ)を込て大切に供る事と、苗木侯の山奉行何某の咄なり。

 又、越後の國蒲原(かんばら)郡・磐船(いはふね)郡の杣人に聞に、山に入て木を伐る時、其一枝を折、異なる所に差て、是を祭らざれば、大木などには、殊に其祟有由なり。又、越後の國・出羽の國などにては、杣人にても狩人にても、山に入時は、鮝魚と云魚を懷中して入なり。大木を伐に難儀なる時、是を供れば、難なく安く伐得。又、狩人も終日狩て得物なき時は、山の神へ祈請して、鮝魚の頭を少し見せかけて、獸を得せしめ給ふて、感應あらせ給はゞ、全形を見せ參らせんと祈る也。しかする時は、速かに感應有事とぞ。されども、中々輙(たやすく)は行はぬことにて、其究る時ならざれば、感應もなしと云り。

   *

これは私には非常に興味深い話である。天狗どころか、所謂、山の神信仰の古形がはっきりと保存されている記載だからである。なお、幾つか語注をしたい。

・「武儀郡志津野村」現在の岐阜県関市志津野(しつの)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「鵜沼宿」現在の岐阜県各務原市鵜沼附近。(グーグル・マップ・データ)。志津野の南。

・「苗木」現在の岐阜県中津川市苗木(なえぎ)。美濃苗木藩は美濃国恵那郡の一部と加茂郡の一部を領有していた、江戸時代最小の城持ちの藩であった。(グーグル・マップ・データ)。

・「粢餅(しとぎ)」「しとぎ」はここでは二字へのルビである。「しとぎ」は「糈」とも書き、水に浸した生米(粳(うるち)米)を搗き砕き、種々の形に固めた食物で、神饌に用いるが、古代の米食法の一種とも謂われ、後世では糯(もち)米を蒸して少し搗いたところで卵形に丸めたもの指すようになった。

・「文政七八年」文政七年は一八二四年。

・「苗木領の二ツ森」前の前のグーグル・マップ・データを参照。同地区外の北西に「二ツ森山」を確認出来る。

・「越後の國蒲原郡」新潟県の旧郡。現行の多数の市域等を含む広域なのでウィキの「蒲原郡を参照されたい。

・「磐船郡」新潟県に「岩船郡」として現存する。現在は関川(せきかわ)村と粟島浦(あわしまうら)村の二村のみであるが、旧郡域は現在の村上市を含む新潟県の最北端に位置していた郡である。ウィキの「岩船郡を参照されたい。

・「苗木侯」藩主遠山氏。江戸時代を通じて、ほぼ財政窮乏が続いた。「文政七八年」当時は第十一代藩主遠山友寿(ともひさ 天明六(一七八七)年~天保九(一八三九)年)。

・「鮝魚」これで「をこぜ(おこぜ)」と読む。生物種としては、条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目オニオコゼ科(フサカサゴ)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus を指し、「オニオコゼ」には「鬼鰧」「鬼虎魚」の漢字を当てたりする。別に「ヤマノカミ」という俗称を持つが、これは古くから本種の干物を山の神への供物にする風習があったことに由来する。伝承によれば、女神である「山の神」は不器量で、しかも嫉妬深いとされたことから、醜悪な「おこぜ/おにおこぜ」の面(つら)を見ると、安心して静まり、山の恵みを与えて呉れるとされ、現在でもこれを祭る儀式は山間部や林業職に関わる人々の間で今なお保存され続けている(なお、同種は背鰭の棘条が鋭く、しかも毒腺を持っているので取扱いには注意を有する)。これについては私の古い電子テクスト、方熊楠の「山神オコゼ魚を好むということ」(明治四四(一九一一)年二月発行の『東京人類学会雑誌』初出)を読まれたい。]

 或時武儀郡志津野村の村續きにある平山を伐つたが、これは山といふほどのところでもなし、小松林の平山で、誰しも天狗の住みさうなところとは思はぬので、狗賓餠もせずに伐りはじめた。やゝあつて氣が付くと、振上げる斧の頭がない。さてこそ天狗が出たと、道具を見ると皆なくなつてゐる。これでは到底今日は仕事が出來ぬといふので、家へ歸つて狗賓餠を拵へ、山神を祭つて詫びをしたら、なくなつた道具もどこからか出て來て、翌日は無事に伐木を了へた。或男の如きは、いくら斧を振上げても手ごたへがない。柄ばかりになつてゐるのを知らずに、木へ打付けてはじめて頭を取られたことを知つた、といふやうな話もある。

 狗賓餠といふのは飯を強(こは)く焚き、握り飯にしたのを串に貫き、よく燒いて味噌を付けるので、その初穗を五つ六つ木の葉に盛つて淸淨なところに供へ、然る後皆集まつて食ふ。甚だ旨いものであるが、この餠を拵へると天狗が集まつて來るといふので、村内の家屋では一切拵へぬことになつてゐる。ところによつて山小屋餠といひ、小さく拵へて串に貫き燒いたのを御幣餠といふ。文政七八年頃、苗木領の二ツ森山の木を伐り出した時は、山入りして御幣餠を拵へたが、山神に供へるのを忘れて、皆で食ひ盡してしまつた。夜に入ると大木を伐りかゝる音がして、一山が荒れ出したから、漸く氣が付き、匆々に餠を拵へて詫びたなどといふ話もある。

   天狗住んで斧入らしめず木の茂り 子規

といふ句は、諸國に傳はるかういふ話を考慮に入れて解すべきものと思ふ。

[やぶちゃん注:子規の句は明治三五(一九〇二)年の作で、民俗を詠んで面白くはあるものの、句としてはそれほどともとれぬのだが、これ、「病牀六尺」に記された結果、人口に膾炙してしまったものと言えよう(私もそれで覚えていた)。同書の「八十五」章である。全文を引いて、注の〆と致す。底本は岩波文庫版の一九八四年改版を恣意的に正字化して示した(読みは一箇所を除いて除去した)。句の前後を一行空けた。

   *

○この頃茂りといふ題にて俳句二十首ばかり作りて碧虛兩氏に示す。碧梧桐は

     天狗住んで斧入らしめず木の茂り

の句善しといひ虛子は

     柱にもならで茂りぬ五百年

の句善しといふ。しかも前者は虛子これを取らず後者は碧梧桐これを取らず。

     植木屋は來らず庭の茂りかな

の句に至りては二子共に可なりといふ。運座の時無造作にして意義淺く分りやすき句が常に多數の選に入る如く、今二子が植木屋の句において意見合したるはこの句の無造作なるに因るならん。その後百合の句を二子に示して評を乞ひしに碧梧桐は

     用ありて在所へ行けば百合の花

の句を取り、虛子は

     姫百合やあまり短き筒の中

の句を取る。しかして碧梧桐後者を取らず虛子前者を取らず。

     畑もあり百合など咲いて島ゆたか

の句は餘が苦辛(くしん)の末に成りたる物、碧梧桐はこれを百合十句中の第一となす。いまだ虛子の説を聞かず。贊否を知らず。

   *

因みに、私は敢えて選ぶとすれば、「姫百合やあまり短き筒の中」を善しとする者である。]

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